ルーデウス視点
その日は、朝から何をしていても落ち着かなかった。
授業へ出れば教師の言葉はきちんと耳へ入ってくるし、板書も普段どおり写すことができる。質問を受ければ答えられる程度には集中もしていた。それなのに、頭の一部では朝からずっと同じことを考え続けていた。
今日、レイネへ告白する。
昨日、俺はレイネへ、授業が終わった後に時間を空けてほしいと頼んだ。
もう逃げることはできない――というよりも、逃げないために自分から約束したのだ。
シルフィは、自分自身の意思で俺を好きだと伝えてくれた。それに対して俺も、シルフィを昔からの友人としてだけではなく、一人の女性として好きだと答えた。
それでも、エリスを愛している気持ちは何も変わっていない。
シルフィへの感情も、もう友情という言葉だけへ押し込めて、なかったことにはできない。
そして、その二人への気持ちが存在したうえで、それでも俺はレイネを愛している。
どれか一つでも偽物なら、話はもっと簡単だったのかもしれない。
エリスへの気持ちは昔の旅で生まれたものだから、もう過去になったと考える。シルフィへの感情は、幼い頃からの友情を勘違いしているだけだと決めつける。レイネへの想いに至っては、生まれた時からそばにいてくれた家族へ向ける愛情を、俺が恋愛と取り違えているだけなのだと言い換える。
そうすれば、誰か一人だけを選んだふりをすることはできる。
けれど、それは誰かを傷つけないための選択ではない。
俺自身が責められたくないから、拒絶されたくないから、そして自分を正しい人間だと思っていたいから、自分の感情だけでなく、相手の人生まで勝手に整理しようとしているだけだ。
俺は今まで、そういう自分の臆病さまで「相手への配慮」という言葉の中へ隠してきた。
少なくとも、レイネにはもう同じことをしたくなかった。
やがて授業終了を告げる鐘が鳴り、教師が教室から出ていくと、学生たちもそれぞれ席を立ち始めた。
俺は鞄を持って廊下へ出る。
約束していた場所には、すでにレイネがいた。
今日のレイネは侍女服ではなく、大学の制服を着ている。白い髪は普段と変わらず丁寧に整えられており、腕には数冊の資料が抱えられていた。
どうやら俺を待っている間にも、自分の研究を進めていたらしい。
「お待たせしました」
「いいえ。私も、先ほど授業を終えたところでございます」
レイネは返事をしながら、俺の顔を見た。
普段と同じ、落ち着いた赤い瞳だった。
ただ、俺がこれから何を話そうとしているのか、本当に何一つ予想していないわけではないだろう。
昨日の俺は、話したいことがあると伝えたうえで、どれほど時間が必要になるか分からないとまで答えた。
その時の俺の表情や声を、レイネが見逃しているとは思えない。
「場所は、どちらにしますか?」
俺が尋ねると、レイネは少し考えた。
「薬草学棟の裏に、小さな温室がございます。授業後であれば、人はほとんど参りません」
「そこにしましょう」
以前のレイネだったなら、俺が決めた場所へ何も言わずついてきただろう。
今のレイネは、自分が知っている場所を自分から提案した。
ほんの小さな違いではあるが、それだけで胸の奥が温かくなる。
その一方で、これから俺が告げる言葉によって、ようやく始まりつつあるその変化を壊してしまうのではないかという不安も強くなった。
◇
温室は、大学の敷地の外れにあった。
研究用として使われている大きな温室とは違い、薬草学の教師や一部の学生が、寒さに弱い植物を育てるために使用している小さな建物らしい。
中へ入ると、外よりも少しだけ空気が暖かかった。
壁際には細長い植木鉢が幾つも並び、薄い緑色の葉をつけた薬草が育っている。湿った土の匂いの中には、棚へ吊るされている乾燥薬草の香りも混じっていた。
奥には作業用の机が一つと、向かい合うように木製の椅子が二脚置かれている。
レイネは抱えていた資料を机の端へ置いた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「はい」
俺たちは向かい合って腰を下ろした。
レイネは背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねている。
その姿だけを見れば、主人である俺から次の指示を受けるために待っている侍女にも見えた。
けれど今日は、主人と侍女として話すためにここへ来たのではない。
「レイネ」
「はい」
名前を呼んだだけで、心臓が強く鳴った。
生まれた時から俺のそばにあった名前で、これまで何度口にしたか分からない。それなのに今日は、その名前を呼ぶだけで喉が乾いてしまう。
「最初に、確認しておきたいことがあります」
「何でございましょうか」
「これから僕が話すことは、命令ではありません」
レイネの赤い瞳が、ほんの僅かに揺れた。
「侍女として答える必要もありません。僕の望みに応えなければならないとも考えないでください。レイネ自身がどう感じているのか、それだけで答えてほしいです」
一つ一つ、曖昧にならないよう伝えた。
レイネはすぐには返事をしなかった。
膝の上で重ねられていた指が、僅かに動く。
「承知いたしました」
やがて返ってきた声は、普段よりも少しだけ低かった。
「ですが、ルーデウス様」
「はい」
「そのようにおっしゃるということは、私が侍女としてお答えする可能性があると、今もお考えなのでしょうか」
責めるような口調ではなかった。
しかし、だからこそ誤魔化すことのできない問いだった。
「考えています」
俺は正直に答えた。
レイネの表情が、ほんの僅かに曇る。
「以前よりは、ずっと少なくなりました。それでも、完全になくなったとは言えません」
「そうでございますか」
「ですが、それを理由に何も伝えないのは、レイネの意思を尊重しているのではなく、僕が拒絶されるのを怖がって逃げているだけなのだと気づきました」
シルフィから言われた。
俺が何も伝えなければ、レイネは答えることさえできない。
ならば今度は、逃げずに話す。
「その前に、僕から伝えておかなければならないことがあります」
「お伺いいたします」
「僕は、エリスを愛しています」
レイネは静かに頷いた。
そのことは、すでに知っている。
「昨日、シルフィからも、僕を好きだと告白されました」
レイネの指が止まった。
表情そのものは大きく変わらない。
けれど今の俺には、何も感じていないわけではないことくらい分かった。
「僕も、シルフィを一人の女性として好きだと答えました」
短い沈黙が落ちた。
レイネは俺から視線を逸らさなかった。
「そうでございましたか」
「はい」
「シルフィは、お喜びになったでしょうか」
「泣いていました」
「うれしくて?」
「うれしさだけではなかったと思います」
エリスがいる。
そしてレイネもいる。
そのことを知りながら、それでもシルフィは俺へ自分の気持ちを伝えた。
何の苦しみもなく告白できたはずがない。
「それでも、僕へ伝えてくれました」
「シルフィらしいと存じます」
レイネの口元に、ほんの僅かな笑みが浮かんだ。
優しい笑みだった。
だからこそ、胸が痛んだ。
レイネは自分がそれを聞いて何を感じたのかより先に、シルフィのことを考えている。
「レイネ」
「はい」
「僕はエリスを愛していますし、シルフィも好きです」
ここで止まってはいけない。
一度深く息を吸い、目の前にいるレイネだけを見る。
「それでも、僕はレイネを愛しています」
レイネの赤い瞳が、大きく揺れた。
「家族としてだけではありません。侍女として大切だからでもありません」
声が震えそうになる。
それでも、最後まで伝える。
「僕は、レイネを一人の女性として愛しています」
温室の中が静かになった。
外で風が吹き、透明な窓板が小さく鳴っている。
レイネは動かなかった。
赤い瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。
驚きや戸惑い、そして恐怖にも似た感情がそこには浮かんでおり、そのさらに奥には、俺がずっと知りたいと思っていた何かが存在するようにも見えた。
けれど、それが何なのかを俺が決めてはいけない。
本人の言葉を待つ。
「僕は、レイネと恋人になりたいです」
俺は続けた。
「そして、いつか結婚したいと思っています」
「ルーデウス様……」
レイネの声が震えた。
長い間ずっとそばにいて、どれほど危険な戦いの中でも、どれほどの重傷を負った時でも、ほとんど聞いたことのない震えだった。
「今すぐ返事をしてほしいわけではありません」
「いいえ」
レイネは首を横へ振った。
「お答えいたします」
膝の上に置かれていた手が、強く握られる。
「私も……」
一度、声が止まった。
レイネは息を吸い、改めて俺を見る。
「私も、ルーデウス様を愛しております」
胸の奥が一気に熱くなった。
全身から力が抜けてしまいそうになる。
長い間、聞きたいと思いながら、実際に聞くことを恐れていた言葉が、レイネ自身の口から確かに告げられた。
「侍女としてではございません」
レイネは続けた。
「お守りするべき主人だからでもありません。私は、一人の男性として、ルーデウス様を愛しております」
目の奥が熱くなる。
笑いたかったし、今すぐ手を取り、抱き締めたいとも思った。
けれど、レイネの表情には喜びだけが浮かんでいるわけではなかった。
「ですが」
その一言で、胸へ広がりかけていた熱が止まる。
「そのお気持ちを、お受けすることはできません」
覚悟していたはずだった。
俺が気持ちを伝える以上、拒絶される可能性は当然ある。
それでも実際に言われると、胸の奥へ鋭い痛みが走り、呼吸まで苦しくなった。
だが、ここですぐに理由を問い詰めるのは違う。
俺は一度息を整えた。
「理由を、聞かせてもらえますか」
どうにか、それだけを尋ねる。
レイネは目を伏せた。
「私は、ルーデウス様の妻になるべき人間ではございません」
「どうしてですか」
「私には、果たさなければならない目的がございます」
「人神のことですか?」
レイネが顔を上げた。
俺がそこまで直接口にするとは思っていなかったらしい。
「以前から、レイネが人神を警戒していることは知っています。オルステッドとも、人神を倒すために協力しているのでしょう」
「はい」
レイネはゆっくりと頷いた。
「私の目的は、人神を殺すことでございます」
はっきりとした言葉だった。
「追い払うことでも、計画を妨害することでもございません。確実に、この世界から消し去ることです」
赤い瞳の奥に、俺の知らない冷たい光が浮かぶ。
そこにあるのは、一時の怒りなどではなかった。
人神への深い憎悪と、そのためなら何を差し出しても構わないという覚悟が、途方もなく長い時間を掛けて凝縮されている。
それは俺と出会ってから生まれた感情ではないのだろう。
もっと以前から、人神を殺すという目的はレイネの人生の中心に存在している。
「それは、危険なことなのですね」
「危険という言葉では足りません」
レイネは淡々と答えようとしている。
それでも、声の奥には先ほどから続く震えが残っていた。
「人神を殺すためには、私が持つ全てを使う必要がございます。力も魔力も、積み上げてきた技術も、必要であれば命さえも」
「命も、というのは……」
「私は、その戦いで、ほぼ確実に命を落とします」
耳鳴りがした。
レイネが死ぬ。
その可能性を、今まで一度も考えたことがなかったわけではない。
レイネは強い。
俺が知っている誰よりも強い。
しかし、強いから絶対に死なないわけではない。
そのレイネ自身が、「ほぼ確実に死ぬ」と考えている敵だ。
人神という存在が、いったいどれほどのものなのか。
想像するだけで、身体の奥が冷たくなる。
「だから、そのような私と結婚してほしくありません」
レイネはそう続けた。
「それは――」
「ルーデウス様には、未来がございます」
俺の言葉へ被せるように、レイネが言った。
普段の彼女なら、俺が話している途中へ言葉を重ねるようなことはまずしない。
それほどまでに、今から話すことを途中で止められたくないのだろう。
「エリス様がおられます。シルフィもおります。お二人は、ルーデウス様とともに生き、家庭を築き、年齢を重ねることができます」
「レイネも――」
「私はできません」
強い否定だった。
「私には、最後まで果たさなければならない使命がございます。たとえルーデウス様から行かないでほしいと望まれても、私は人神を殺しに参ります」
胸が強く締めつけられる。
「ルーデウス様と結婚し、幸福を知れば……」
レイネの声が、僅かに掠れた。
「私は、死ぬことを恐れるようになるかもしれません」
「今は怖くないのですか」
「怖くないようにしてまいりました」
その答えが、あまりにも悲しかった。
レイネは、もともと死を恐れない人間なのではない。
恐怖を感じないように、長い時間を掛けて自分自身を作り変えてきたのだ。
「守りたい日常を持てば、使命を前に迷うかもしれません。あるいは、迷いながらも使命を選び、ルーデウス様を残して死ぬことになるかもしれません」
レイネは自分の胸元へ手を置いた。
「そのような未来を、ルーデウス様へ与えたくございません」
「それを決めるのは――」
「まだございます」
俺が反論するより早く、レイネは言葉を続けた。
まるで、一つでも途中で止めれば、もう二度とここまで話せなくなると恐れているようだった。
「私は、ルーデウス様へ多くのことを隠しております」
「知っています」
「ルーデウス様がお考えになっている以上に、でございます」
レイネの赤い瞳が揺れる。
「なぜ私が人神を知っているのか、なぜオルステッド様と協力しているのか、私がどこで技術を身につけたのか……その全てを、今の私にはお話しすることができません」
俺がこれまで何度も疑問に思いながら、それでも踏み込まずにいたことが、一つずつ並べられていく。
「今は?」
「いつかお話しできると、お約束することもできません」
レイネは苦しそうに唇を結んだ。
「知られれば、ルーデウス様を危険へ巻き込む秘密もございます。私だけの判断では明かすことのできない事柄もございます」
「だから、結婚できないと?」
「それだけではございません」
まだあるらしい。
レイネは、自分を俺から拒絶させるために、自分が罪だと思っているものを一つ残らず目の前へ並べようとしているように見えた。
「私がルーデウス様へ近づいた理由も、純粋なものではございませんでした」
胸の奥が僅かに冷えた。
レイネが俺の家へ来た時、俺はまだ赤子だった。
レイネは幼い外見をしていたが、実際には俺より年上であり、あの時点ですでに何らかの目的を抱えていた可能性については、以前から心のどこかで考えたことがある。
「どういう意味ですか」
「私は、ルーデウス様が人神を殺すために必要な存在となる可能性を感じました」
レイネは逃げずに俺を見る。
「だから、おそばへ参りました」
胸へ鈍い痛みが走った。
「最初から、僕を好きだったわけではない」
「はい」
「僕を守りたかったわけでも?」
「最初は……」
レイネの声が震える。
「ルーデウス様を失えば、人神を殺す可能性が失われると考えておりました」
つまり、最初は俺を利用するためだった。
人神を殺すために必要な駒として俺を見ていたから、そばにいた。
そう言われて、何も傷つかないわけではない。
生まれた時から、レイネは俺自身を大切に思ってくれていたのだと、どこかで当たり前のように信じていた。
その始まりに、俺とは別の目的が存在していた。
「侍女となったのも?」
「おそばで観察し、守り、必要であれば導くためでございました」
「僕の意思とは関係なく?」
「はい」
正直な返事だった。
「お守りに、位置や生存を確認する機能を持たせたこともございます。必要な情報を伏せたことも、ルーデウス様が私を信頼してくださっていることへ甘えたこともございます」
レイネの目から、一筋の涙が落ちた。
「私は、ルーデウス様から愛されるような人間ではございません」
「レイネ」
「始まりから、嘘がございました」
「今も、僕を利用しているのですか」
レイネの呼吸が止まった。
「それは……」
「答えてください」
命令ではない。
けれど、ここだけは曖昧にしてほしくなかった。
「今も、僕を人神を殺すための道具として見ていますか」
レイネは、しばらく答えられなかった。
涙だけが頬を伝っていく。
やがて、ゆっくりと首を横へ振った。
「いいえ」
小さな声だった。
「今は違います」
「なら、始まりと今は違うのでしょう」
「それでも、始まりが消えるわけではございません」
「消す必要はありません」
俺は即座に答えた。
レイネが目を見開く。
「僕は、始まりが綺麗でなければ、今の気持ちまで偽物になるとは思いません」
「ですが……」
「僕がエリスへ近づいたのも、最初は仕事です」
ロアへ行き、エリスの家庭教師をして金を稼ぐ。
魔法大学へ通うため、その資金を作る。
最初からエリスを愛していたわけではない。
「シルフィと友達になった時だって、最初は男の子だと思っていました。助けた後、自分が魔術を教えてみたいと考えたことも、完全に相手のためだけだったとは言えません」
俺自身、自分がいつも純粋な善意だけで誰かへ近づいてきたとは思っていない。
褒められたい、必要とされたい、自分が知っていることを誰かへ教えたい。
そういう感情だって、いつもどこかにあった。
「人との関係は、始まった時の理由だけで、最後まで決まるものではありません」
「ルーデウス様……」
「最初は僕が必要だっただけでも、その後の全てまで目的だったのですか」
レイネは答えなかった。
「僕が病気になった時、眠らずに看病してくれたこともそうですか」
幼い頃、熱を出した俺のそばへ、レイネは何度も残ってくれた。
「剣術で失敗して落ち込んだ時に、助言してくれたことも。魔大陸で僕を見つけるために、海まで渡ってくれたことも……全部、人神を殺すためですか?」
俺が知っているレイネを、一つずつ挙げていく。
「違います」
今度の答えは、はっきりしていた。
「では、今のレイネの気持ちを、始まりだけで否定しないでください」
「しかし、私は――」
「秘密のことも同じです」
俺はそのまま言葉を続けた。
「全てを話してもらえないことは、苦しいです」
レイネの表情が揺れる。
「正直に言えば、知りたいです。どうしてレイネがそれほど人神を憎んでいるのか、どれだけ前から戦っているのかも、ずっと聞きたかった」
それは本心だった。
「ですが、全てを話してくれないなら愛せないとは思いません」
「結婚とは、互いに隠し事をしないものではないのでしょうか」
「僕にも、誰にも話していないことがあります」
レイネの瞳が僅かに動いた。
前世のことだ。
俺が別の世界で生き、一度死に、この世界へ生まれたということ。
父さんにも母様にも、エリスにもシルフィにも、まだ話していない。
「僕も、全てを話しているわけではありません」
「それは……」
「今は話せません」
自分でそう言いながら、少しだけ胸が苦しくなった。
それでも、自分が秘密を持っているのに、レイネにだけ全てを明かせと要求することはできない。
「だから、秘密を持つこと自体を責めるつもりはありません。ただし、その秘密によって僕の命が危険になる時や、レイネが一人で死のうとしている時には、話せる範囲で構いませんから、必ず教えてください」
「それは、お約束できません」
レイネは首を横へ振った。
「人神は、情報を得ることで未来へ介入します。知る者が増えるほど、危険が増す場合がございます」
「なら、内容を全て教えなくてもよいです」
「ですが……」
「危険があることだけでも伝えてください」
俺はレイネの目を見た。
「何も知らないまま、ある日突然レイネがいなくなることだけは、受け入れられません」
レイネの顔が歪んだ。
「僕を守るために黙って死ぬことは、僕の望みではありません」
「ルーデウス様を巻き込みたくございません」
「もう巻き込まれています」
俺は言った。
「人神は、僕の夢へ何度も現れました」
レイネの表情が強張る。
「助言を与え、僕の行動を変えようとしました。リーリャとアイシャの時だって、あいつの言葉をそのまま信じていれば、もっと危険なことになっていたかもしれません」
「ですから、これ以上は――」
「人神は、すでに僕の人生へ関わっています」
俺は首を横へ振った。
「もう、レイネだけの敵ではありません」
「敵の強さを、まだご存じないからそのようにおっしゃるのです」
「知らないから、教えてほしいと言っています」
「全てはお話しできません」
「全てでなくてよいです」
「私が死ぬ可能性は変わりません」
「それも、レイネ一人で決めないでください」
自分でも思っていたより強い声が出た。
レイネが息を呑む。
「戦う前から、自分が死ぬ未来を決めないでください」
「決めているのではございません。必要な計算をした結果です」
「その計算に、僕は入っていますか」
レイネは答えられなかった。
「エリスは? シルフィは? これから僕たちが得る力は?」
「ルーデウス様」
「レイネ一人が全てを背負い、レイネ一人が死ねば終わる計算になっているのではありませんか」
レイネの唇が震えた。
「僕は、それを認めません」
「認めないとおっしゃっても……」
「人神を殺すことをやめろとは言いません」
それを言えば、レイネの人生そのものを否定することになる。
なぜ人神を殺すという目的が、ここまでレイネにとって重いのか、その全てを俺は知らない。
それでも、単なる思いつきや気まぐれではないことくらいは分かる。
「レイネの使命を捨てさせたいわけではありません」
「では……」
「一人で死ぬことを前提にしないでほしいのです」
俺は椅子から立ち上がり、机を回ってレイネの前へ立った。
すぐには触れない。
「手を握ってもよいですか」
レイネは涙に濡れた目で俺を見上げた。
少し迷ってから、小さく頷く。
「はい」
俺はレイネの手を取った。
冷たい。
強い剣を握り、強大な魔術を放ち、俺を何度も守ってきた手だ。
その手が今は、俺の手の中で微かに震えている。
「結婚は、レイネへ使命を捨てさせるためのものではありません」
「ですが、妻となれば……」
「妻になったからといって、レイネがレイネでなくなるわけではないでしょう」
レイネは答えない。
「人神を殺したいレイネも、僕へ秘密を持っているレイネも、最初は自分の目的のために僕へ近づいたレイネも、全部を含めて今のレイネです」
握った手へ、少しだけ力を込める。
「その全てをご存じではないのに」
「知っている部分だけを愛しているのではありません」
自分で言葉にしながら、その意味を考える。
「知らない部分があることも含めて、もっと知りたいと思っています」
「いつか、知ったことを後悔なさるかもしれません」
「後悔するかどうかも、僕に選ばせてください」
レイネが目を見開いた。
「レイネが僕を愛しているなら、僕が傷つかない未来を勝手に選ばないでください」
「私は、ルーデウス様に幸福でいていただきたいのです」
「レイネがいないことを、僕の幸福だと決めないでください」
声が震えた。
胸の奥に長い間押し込めていたものが、少しずつ溢れ出してくる。
「レイネはいつも、僕のためだと言って、自分がいなくなる未来を選ぼうとします」
オルステッドと対峙した時もそうだった。
危険があれば、自分だけが前へ出ようとした。
「僕は、レイネに守られるだけの子供ではありません」
「存じております」
「いいえ」
俺は首を横へ振った。
「知っているのに、まだ僕を置いていこうとしています」
レイネの顔が歪む。
「僕は今、レイネが死んだ後も幸福に生きられるのだから、結婚しない方がよいと言われているのです」
「そのような意味では……」
「同じです」
俺の目からも涙が落ちた。
「レイネが死ねば、僕は悲しみます」
もう声を抑えることはできなかった。
「結婚していても、していなくても、恋人でも、侍女でも、レイネが死ねば僕は苦しみます」
レイネの目から、さらに涙が溢れる。
「結婚しなければ、僕が傷つかずに済むわけではありません」
「ですが、妻を失う苦しみは……」
「愛している人を、何も伝えられないまま失う苦しみより大きいと、どうしてレイネが決められるのですか」
レイネの手が、俺の手を握り返した。
初めてだった。
俺から握るのではなく、レイネ自身が、はっきりとした力で俺の手を握っている。
「僕はもう、レイネを愛しています」
それは結婚を断られたからといって消えるものではない。
距離を取れば、なかったことになる感情でもない。
「だから、死ぬ可能性があることは、僕がレイネを選ばない理由にはなりません」
「ルーデウス様は、まだお若いのです」
「レイネが勝手に、僕の気持ちを若さのせいにしないでください」
昔の俺だったなら、ここまで強く言えなかったと思う。
嫌われることが怖くて、相手が一歩引けば、自分もすぐに引いただろう。
けれど今は、退いてはいけないと思った。
レイネは、本当は俺を愛している。
それでも「俺のため」という理由を使って、自分自身を俺の人生から捨てようとしている。
「僕は、エリスを愛しています」
改めて伝える。
「シルフィも好きです」
「でしたら――」
「だから、レイネが必要ないことにはなりません」
レイネの言葉を遮った。
「エリスがいれば、レイネの代わりになるわけではありません。シルフィがいれば、レイネを失っても構わないわけでもない」
「ですが、私は三人目でございます」
「順番の話ではありません」
「お二人がいれば……」
「レイネの代わりにはなりません」
強く言い切った。
レイネは涙を流したまま、俺を見ている。
「僕は、誰かの代わりとしてレイネを愛しているのではありません」
「私は……」
「レイネだから、愛しているのです」
長い沈黙が落ちた。
温室の中には、レイネの小さな呼吸だけが聞こえている。
「私には……」
やがてレイネは、途切れそうになる声を絞り出した。
「ルーデウス様へ差し上げられるものが、ほとんどございません」
「たくさんもらっています」
「私は、普通の妻のようには……」
「普通の妻が何なのか、僕にも分かりません」
「使命を優先することもございます」
「僕だって、自分の家族や目的を優先する時があります」
「突然、そばを離れることも……」
「理由を話してください。戻ると約束してください。それでも行く必要があるなら、僕も一緒に行く方法を考えます」
「私は、子供を持てるかも分かりません」
「子供を持つために結婚したいのではありません」
「私は、年齢の進み方も……」
そこで、レイネは言葉を止めた。
また一つ、今の俺には話すことのできない秘密へ触れたのだろう。
「それも、今は話せないのですね」
「はい」
「分かりました」
「なぜ……」
レイネの声が崩れた。
「なぜ、そこまで……」
涙が、次々に頬を伝っていく。
「私は、これほど多くを隠しているのに」
「僕も隠しています」
「私は、あなたを利用しようとしたのに」
「今は愛していると言ってくれました」
「私は、あなたを残して死ぬかもしれないのに」
「死なせない方法を、一緒に探します」
「見つからなければ……」
「その時も、一人では行かせません」
「ルーデウス様まで死んでしまいます」
「僕がどう生きるかも、僕に選ばせてください」
レイネは、もう言葉を返せなかった。
俯いたまま肩を震わせ、嗚咽を抑えようとしている。
けれど、もう抑えることはできなかった。
小さな泣き声が漏れる。
俺は手を握ったまま、その場へ膝をついた。
レイネの顔を下から見る。
「レイネ」
名前を呼ぶ。
「僕と結婚してください」
レイネは首を横へ振ろうとした。
しかし、もう先ほどまでのように強く拒むことはできなかった。
「使命を捨てろとは言いません」
俺は続ける。
「秘密を全て話せとも言いません」
「ですが……」
「ただ、一人で死ぬ未来だけを、自分のためだと思わないでください」
レイネの手を、両手で包む。
「僕と一緒に生きる未来を、選択肢へ入れてください」
「私は……」
「はい」
「本当に、幸せになってもよいのでしょうか」
その問いが、胸の奥へ深く刺さった。
レイネは、自分には幸福を選ぶ権利がないと思っている。
人神を殺すという使命があるから。
多くの秘密を抱えているから。
俺へ近づいた始まりに、純粋ではない目的があったから。
そして、いつか自分は死ぬつもりだから。
だから、自分自身の望みを持ってはいけない。
愛する相手の隣へ立ってはいけない。
そう思い続けてきたのだ。
「よいに決まっています」
俺は答えた。
「誰に許可されなくても、レイネは幸せになってよいです」
「使命を果たせなくなるかもしれません」
「幸福になれば弱くなると、誰が決めたのですか」
「失うことが怖くなります」
「僕も怖いです」
レイネを失うことも、エリスやシルフィを失うことも、家族を失うことも怖い。
「怖くても、一緒に戦えばよいのです」
「そのように、簡単な敵では……」
「簡単だとは言っていません」
俺は涙を拭わなかった。
「難しいから、一人で背負わせたくないのです」
レイネは、長い間俺を見つめていた。
赤い瞳の中では、使命への執着と恐怖、罪悪感、そして俺へ向ける愛情が何度も揺れている。
やがて、レイネの指が俺の手を強く握った。
「ずるい方です」
涙に濡れた声だった。
「そうかもしれません」
「私が、断れないようなことばかりおっしゃいます」
「断っても構いません」
「構わないお顔ではございません」
「断られたら、たぶんしばらく立ち直れません」
正直に答えると、レイネの唇が僅かに動いた。
泣いているのに、ほんの少しだけ笑った。
「それでも、断る権利はレイネにあります」
「はい」
「僕が傷つくから受け入れるのではなく、レイネがどうしたいかで答えてください」
レイネは目を閉じた。
頬を伝った涙が顎から落ちる。
長い沈黙の中で、レイネは自分自身の気持ちを探しているようだった。
主人である俺の望みでもない。
人神を殺す使命でも、侍女としての義務でも、自分の過去への罪悪感でもない。
レイネ自身が、本当は何を望んでいるのか。
やがて、ゆっくりと目が開かれた。
赤い瞳にはまだ涙が残っていたが、先ほどまでのように、俺から逃げるための理由を探しているようには見えなかった。
「私は……」
声は震えている。
「ルーデウス様を愛しております」
「はい」
「おそばにいたいと、思っております」
「はい」
「使命を果たした後も、生きて帰りたいと……」
一度、声が詰まった。
それでもレイネは、自分の言葉で続けた。
「あなたとともに、生きたいと願っております」
胸の奥から、熱いものが溢れた。
「なら、その願いを僕にも守らせてください」
俺はレイネの手を握ったまま答えた。
レイネの目から、また涙が溢れる。
けれど今度は、泣きながらもはっきりと微笑んでいた。
「私でよければ……」
声は小さい。
それでも、そこに迷いはなかった。
「これほど多くの秘密を抱え、いつか危険な戦いへ向かわなければならない私でよろしければ」
「はい」
「私を、あなたの隣に置いてください」
俺は首を横へ振った。
レイネの表情が、僅かに不安へ変わる。
「違います」
俺は立ち上がり、レイネの正面へ立った。
「あなたでよいのではありません」
頬へ触れる前に、視線で許可を求める。
レイネは小さく頷いた。
俺は、涙に濡れた頬へそっと手を添える。
「あなたじゃないと駄目なんです」
レイネの表情が崩れた。
今度こそ声を上げて、子供のように泣いた。
俺は、そんなレイネを抱き締めた。
今まで何度も、俺の方がレイネに抱き留められてきた。
傷ついた時も、恐怖に負けそうになった時も、家族を失うかもしれないと思った時も、レイネはいつも俺を支えてくれた。
今日は、俺がレイネを抱き締める。
細い身体の背中へ腕を回すと、レイネの方からも腕が伸びてきた。
制服越しに温かさが伝わる。
生きている。
確かに、ここにいる。
いつか自分は死ぬものだと決めていた人が、初めて俺と一緒に生きたいと願ってくれた。
「ルーデウス様」
俺の胸へ顔を埋めたまま、レイネが呼ぶ。
「はい」
「私は、まだ全てをお話しできません」
「分かっています」
「人神を殺すことも、諦められません」
「諦めなくてよいです」
「あなたより、使命を優先する時があるかもしれません」
「その時は、喧嘩しましょう」
レイネの身体が僅かに揺れた。
どうやら、少し笑ったらしい。
「喧嘩、でございますか」
「僕は行ってほしくないと言います。レイネは行かなければならないと言うでしょう。なら、互いに話して、どうすれば二人とも納得できるかを考えます」
「納得できなければ?」
「それでも、黙っていなくならないでください」
「はい」
「必ず戻ると言ってください」
「はい」
「一人で死ぬと決めないでください」
レイネの腕へ強く力が入る。
「お約束いたします」
声は震えていた。
「必ず、生きて戻る方法を探します」
それは、必ず生き残るという約束ではない。
未来の結果まで、今の俺たちが決めることはできない。
それでも、最初から死ぬことを前提にはせず、生きて帰りたいと自分自身で願う。
今は、その約束だけで十分だった。
しばらく抱き締め合った後、俺たちはゆっくり身体を離した。
レイネの顔は涙で濡れており、普段の整った姿からは想像できないほど目元も頬も赤くなっている。
それでも、今まで見たどの表情よりも美しいと思った。
「レイネ」
「はい」
「口づけしてもよいですか」
尋ねると、レイネは息を止めた。
赤い瞳が大きく開かれる。
おそらく俺の顔も、同じくらい赤くなっているのだろう。
少しの沈黙の後、レイネは泣きながら微笑んだ。
「はい」
俺はゆっくりと顔を近づけた。
触れた唇は少し冷たく、それでも柔らかかった。
長い口づけではない。
互いの気持ちを確かめるように、ほんの僅かな時間だけ触れ合った。
それだけなのに、身体の奥まで熱が広がった。
唇を離しても、レイネは目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
やがてゆっくり目を開く。
「ルーデウス様」
「はい」
「もう一度、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
今度は、レイネの方から唇を重ねてきた。
先ほどより少しだけ長い。
レイネは俺の服を握り、まるで離れてしまわないよう確かめるかのように、その口づけを続けた。
◇
レイネ視点
幸福を望んではならないと、そう決めたのは、いったいいつだっただろう。
人神を殺すために必要なものだけを自分の中へ残し、必要のない感情は少しずつ削り落としてきた。
誰かを愛することまで完全に捨てることはできなくても、その人と一緒に生きる未来だけは望まないようにしてきた。
愛すれば、いつか失う。
大切な相手を守りたいと思えば、その人が自分の弱点になる。
幸福を知ってしまえば、今まで恐れないようにしてきた死が、もう一度怖いものへ戻ってしまう。
だから、ルーデウスを愛していると気づいた後でさえ、その感情を「仕える喜び」という形の中へ押し込めようとした。
彼が別の女性を愛しても、その人の隣に立つことを選んでも、自分は侍女としてそばにいればよい。
そう考えればいいのだと思っていた。
けれど、本当はずっと欲しかった。
ルーデウスから名前を呼ばれることも、同じ位置で隣を歩くことも、彼がいつか帰ってくる場所として自分を選んでくれることも。
主人と侍女ではなく、一人の女として愛されることも。
その全てを、ずっと欲しいと思っていた。
今日、ルーデウスは、それを差し出した。
秘密があるのなら、その秘密を抱えたままでよいと言った。
使命を捨てなくてよいとも言った。
死ぬ未来を一人で勝手に選ぶなと、自分を叱った。
そして、自分が傷つくかどうかまでレイネ一人で決めるなと言った。
どれも、レイネが長い間、自分自身には許してこなかった言葉だった。
ルーデウスの胸へ頬を寄せる。
すぐ近くから、心臓の音が聞こえる。
生きている人の音であり、これまで自分が守りたいと願い続けてきた人の音だった。
そして今は、使命が終わった後も、ともに生きたいと願ってしまった人の音でもある。
人神を殺すという使命は何も変わっていない。
抱えている秘密も消えてはいない。
待ち受けている危険も、これまで積み重ねた罪も、そのどれ一つとしてなくなったわけではない。
それでも、初めて使命の先に自分自身が生きている未来を思い描いた。
人神を殺す。
そして、生きて帰る。
その後、ルーデウスの隣へ戻る。
そんな未来を願ってもよいのだと、初めて思えた。
「ルーデウス様」
「はい」
呼べば、すぐに返事がある。
それだけでも、胸の奥が温かくなる。
「愛しております」
今度は侍女としてでも、使命のためでもない。
レイネという一人の女として、はっきりと告げた。
ルーデウスは、涙の跡を頬に残したまま笑った。
「僕も愛しています」
その言葉を胸の中へ受け入れながら、レイネもまた、泣いたまま静かに微笑んだ。