白髪の侍女   作:MトK

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第六十三話 三人で選ぶ未来

ルーデウス視点

 

レイネと温室を出た時には、空が夕暮れの色へ変わり始めていた。

 

外へ出た途端、冷たい風が火照った頬へ触れたが、身体の奥に残っている熱は、そんなものでは簡単に引いてくれなかった。

 

隣を歩いているレイネも、普段とは明らかに様子が違っている。

 

泣いた跡については治癒魔術である程度整えたらしいが、目元にはまだ僅かな赤みが残っていた。歩き方そのものはいつものように落ち着いているのに、ときおり俺へ向けられる視線には、隠しきれない戸惑いと喜びが混じっている。

 

俺たちは恋人になった。

 

いや、それだけではない。

 

俺はレイネへ結婚してほしいと伝え、レイネもまた、使命を果たした後まで生きて帰り、俺とともに生きたいと答えてくれた。

 

その事実を思い返すたび、胸の奥へ幸福が広がっていく。

 

ただ、今の俺たちには、その幸福へ浸る前に話さなければならない相手がいた。

 

「シルフィへ話しましょう」

 

俺が言うと、レイネは静かに頷いた。

 

「はい」

 

「今日のうちに話した方がよいと思います」

 

「私も、そのように考えております」

 

俺たちの関係を、シルフィへ隠すつもりはない。

 

シルフィは、自分自身が苦しむ可能性を理解したうえで、それでも俺へレイネと話すよう勧めてくれた。

 

だからといって、俺とレイネが結ばれたと聞いた瞬間、何も感じず笑って祝福してくれるはずだなどとは思っていない。

 

昨日、シルフィははっきりと自分の気持ちを口にした。

 

エリスより自分を選んでほしいと思うし、レイネよりも自分を大切にしてほしいと感じることもある、と。

 

それは当然の感情だ。

 

嫉妬するなとも、傷つくなとも言えないし、ましてや「自分からレイネに告白するよう勧めたのだから、結果も笑って受け入れてほしい」などと求めることはできない。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「シルフィが、すぐには受け入れられないと言うかもしれません」

 

レイネは歩みを止めずに答えた。

 

「承知しております」

 

「怒るかもしれません」

 

「当然のことと存じます」

 

「それでも、レイネが身を引く必要はありません」

 

その言葉を聞いたところで、レイネは初めて足を止めた。

 

夕方の風に、白い髪が揺れる。

 

「ですが、シルフィが深く傷つくのであれば……」

 

「だからといって、レイネが自分の気持ちをなかったことにしてよいとは思いません」

 

俺も立ち止まり、レイネの正面へ回る。

 

先ほど温室で、俺はレイネへ、自分自身の望みで答えてほしいと伝えた。

 

それなのに、今度はシルフィが傷ついたからという理由でレイネへ身を引かせれば、結局やっていることは同じになってしまう。

 

「シルフィの気持ちは、シルフィが決めます。レイネの気持ちは、レイネが決めてください」

 

「ルーデウス様は?」

 

「僕も、自分の気持ちから逃げません」

 

俺はエリスを愛しているし、シルフィも愛している。

 

そしてレイネも愛している。

 

その全てを、誰かのせいにすることなく、俺自身の感情として引き受けなければならない。

 

「三人で話しましょう」

 

俺は言った。

 

「シルフィが何を感じるのか、レイネが何を望むのか、そして僕自身がどうしたいのか。全部話したうえで、これからのことを考えたいです」

 

「はい」

 

レイネは頷いた。

 

今の返事が、侍女として主人へ従っただけのものではないことは、その声を聞けば分かった。

 

 

シルフィは、アリエル王女の居室にいた。

 

王女の護衛という役目がある以上、こちらの都合だけで突然連れ出すことはできないため、俺たちはまずアリエル王女へ面会を願い出た。

 

許可を得て部屋へ入ると、アリエル王女は執務机で書類を読んでおり、ルーク先輩も室内にいる。

 

シルフィは、いつものように王女の斜め後ろへ立っていた。

 

俺とレイネが並んで入った瞬間、その視線が俺たちを順番に追った。

 

俺の顔を見て、次にレイネのまだ僅かに赤い目元を見て、それから、俺たち二人の間にある昨日までとは少しだけ違う空気を感じ取ったのだろう。

 

杖を握っていたシルフィの指が、ほんの僅かに動いた。

 

「アリエル様」

 

俺は王女へ頭を下げる。

 

「フィッツ先輩と、個人的にお話ししたいことがあります」

 

アリエル王女は俺とレイネを一度見た後、シルフィへ視線を向けた。

 

「フィッツ。あなたはどうしたいですか?」

 

シルフィはすぐには答えなかった。

 

フィッツとして作っている声と姿勢を崩さないまま、俺とレイネをもう一度見つめる。

 

やがて、意を決したように答えた。

 

「お話を伺いたいと存じます」

 

「分かりました」

 

アリエル王女は手にしていた書類を閉じた。

 

「本日の護衛は、ここまでで構いません」

 

「ですが……」

 

「ルークもおります。それに、あなたが今聞かなければならない話なのでしょう」

 

シルフィの肩が僅かに揺れた。

 

「ありがとうございます」

 

俺たちはアリエル王女とルーク先輩へ頭を下げ、部屋を出た。

 

二人とも、具体的に何の話なのかとは尋ねなかった。

 

ただ、扉が閉じる直前、アリエル王女の瞳にシルフィを心配する色が浮かんでいたことだけは見えた。

 

 

話す場所には、昨日シルフィと告白について話した古い温室を選んだ。

 

薬草学棟の温室より広いものの、長く使われていないため、人が訪れる可能性は低い。

 

中へ入ると、シルフィは自分で扉を閉め、濃色の眼鏡を外した。

 

同時に、フィッツとして作っていた姿勢も声もやめる。

 

「話って、レイネのことだよね」

 

先に口を開いたのは、シルフィだった。

 

声そのものは落ち着いている。

 

しかし身体の前で組まれた両手は、白くなるほど強く握られていた。

 

「はい」

 

俺は答えた。

 

「今日、レイネへ気持ちを伝えました」

 

シルフィは小さく頷いた。

 

おそらく、そこまでは予想していたのだろう。

 

「それで?」

 

短い問いだった。

 

隣にいるレイネが、僅かに息を吸う。

 

俺が結果を話すべきなのか、それともレイネ本人から伝えてもらうべきなのかと迷ったが、その答えを俺が決めるより先にレイネが一歩前へ出た。

 

「シルフィ」

 

「うん」

 

「私は、ルーデウス様を一人の男性として愛しているとお伝えいたしました」

 

シルフィの唇が、僅かに引き結ばれた。

 

「そっか」

 

「そして……」

 

レイネは一度だけ言葉を止めた。

 

それでも、逃げることなく続ける。

 

「ルーデウス様と、ともに生きたいとお答えいたしました」

 

シルフィの表情が動いた。

 

泣き出したわけでもなく、怒ったわけでもない。

 

ただ、胸の奥へ一気に押し寄せてきた何かを、必死に自分の中で受け止めようとしているように見えた。

 

「結婚するの?」

 

その問いに、俺は頷いた。

 

「僕は、結婚してほしいと伝えました」

 

シルフィの視線が俺へ向く。

 

「レイネは?」

 

「お受けいたしました」

 

今度はレイネが答えた。

 

静かな声だったが、誤魔化すことも、自分がうれしかったという事実まで否定することもしなかった。

 

「そう」

 

シルフィは目を伏せた。

 

長い沈黙が続く。

 

俺は何も言えなかった。

 

「おめでとう」と言ってほしいわけではないし、今すぐ俺たちの関係を受け入れてほしいと迫るつもりもない。

 

シルフィが何を感じているのか、それを本人が言葉にできるまで待つしかなかった。

 

やがて、シルフィが小さく息を吐いた。

 

「分かってた」

 

「シルフィ」

 

「レイネがルディを好きかどうかじゃなくて……」

 

シルフィは顔を上げた。

 

その瞳には、すでに涙が浮かんでいる。

 

「ルディがレイネを好きなのは分かってた。だから、話してって言った」

 

一滴の涙が頬を伝った。

 

「でも、実際に結婚するって聞くと、苦しい」

 

「はい」

 

そこを否定してはいけない。

 

「僕が言ったのにね。レイネにも選ばせてって」

 

「それと、シルフィが苦しいことは別です」

 

「嫉妬してもいい?」

 

「もちろんです」

 

「嫌だって言っても?」

 

「はい」

 

「レイネと結婚しないでって言ったら?」

 

胸が強く痛んだ。

 

それでも、ここで聞こえのよい嘘をつくことはできない。

 

「その理由を聞きます」

 

「聞いた後は?」

 

「三人で話します」

 

「レイネに断らせる?」

 

「いいえ」

 

はっきりと答えた。

 

シルフィの目から、さらに涙が溢れる。

 

「僕のためでも?」

 

「シルフィのためという理由で、レイネへ自分を捨てさせることはできません」

 

シルフィの顔が苦しそうに歪んだ。

 

今の言葉で、彼女を傷つけた。

 

それでも、ここで曖昧にしてしまえば、後になってもっと深く傷つけることになる。

 

「ですが、シルフィの気持ちを無視するつもりもありません」

 

「どうするの?」

 

「話し続けます」

 

今すぐ三人全員が完全に納得できる答えなど、存在しないのだと思う。

 

「嫉妬しているなら、嫉妬していると言ってください。レイネと二人でいることが嫌なら、そう言ってください。僕にしてほしいことがあるなら、それも教えてください」

 

「全部、叶えてくれるの?」

 

「全てを叶えられるとは約束できません」

 

シルフィは涙を流しながら、俺を見つめた。

 

「でも、必ず聞きます。シルフィが何を感じているのかを知らないまま、自分に都合のよい関係を作ることはしません」

 

シルフィは何も答えなかった。

 

代わりに、今度はレイネが静かに口を開いた。

 

「シルフィ」

 

「うん」

 

「私は、あなたが傷ついていることを、仕方がないとは考えておりません」

 

シルフィがレイネを見る。

 

「ですが、あなたが傷つかないために、ルーデウス様への気持ちを捨てるとも申し上げられません」

 

レイネの声も震えていた。

 

それでも、自分が望んだものを、初めてほかの誰かを前にしても守ろうとしている。

 

「私は、ルーデウス様と生きたいと願いました」

 

「うん」

 

「その願いを、あなたへ謝ることはいたしません」

 

シルフィの瞳が大きく揺れた。

 

以前のレイネなら、きっと謝っただろう。

 

シルフィを傷つけてしまったことを謝り、自分一人が身を引けばよいと考えたはずだ。

 

けれど今は違う。

 

「ですが、あなたを苦しめたいわけでもございません」

 

レイネは続けた。

 

「私も、自分の望みだけを押し通せばよいとは考えておりません。あなたが何を不安に感じ、私に何を望むのか、お聞きしたいと思っております」

 

シルフィは、しばらくレイネを見つめていた。

 

「レイネは……」

 

声を整えようとしたものの、上手くいかなかったらしい。

 

「僕が嫌いじゃないの?」

 

「嫌いではございません」

 

「ルディを取られたって思わない?」

 

「思わないわけではございません」

 

その答えには、俺も思わずレイネを見た。

 

レイネは僅かに目を伏せる。

 

「ルーデウス様とシルフィが二人で過ごしている時、私もその場にいたいと感じることがございます」

 

「嫉妬するの?」

 

「はい」

 

レイネは、はっきりと答えた。

 

シルフィの涙が、一瞬だけ止まった。

 

「レイネも?」

 

「私も、一人の女性でございますので」

 

いつものように落ち着いた表情をしている。

 

けれど頬には、ほんの僅かな赤みが差していた。

 

「ですが、嫉妬を理由に、シルフィの気持ちを否定したくはございません」

 

「どうして?」

 

「あなたがルーデウス様を大切に思っていることを知っているからです」

 

レイネは、シルフィの目を真っ直ぐ見た。

 

「そして、ルーデウス様があなたを大切に思っていることも存じております。それをなくしてしまえば、ルーデウス様が幸福になるとは思えません」

 

「僕がいなくても、ルディにはレイネとエリスがいるよ」

 

「あなたの代わりにはなりません」

 

レイネは即座に答えた。

 

それは先ほど、俺がレイネへ伝えた言葉と同じだった。

 

「私はシルフィではございません。エリス様もシルフィではございません。誰かがいるから、あなたがいなくてもよいとは考えておりません」

 

シルフィは唇を噛み、涙を拭った。

 

「ずるい」

 

「はい」

 

「そんなこと言われたら、嫌だって言いにくいよ」

 

「嫌だとおっしゃって構いません」

 

「レイネがルディと結婚するのは嫌」

 

レイネの顔が、僅かに強張った。

 

それでも、視線を逸らすことはなかった。

 

「はい」

 

「ルディがレイネに口づけしたのも嫌」

 

俺とレイネの身体が、ほとんど同時に固まった。

 

シルフィはその反応を見た瞬間、目を大きく見開いた。

 

「したの?」

 

もう隠すことはできない。

 

「はい」

 

俺が答えると、シルフィの頬が引きつった。

 

「二回?」

 

「なぜ回数を……」

 

「二人の反応で分かった」

 

鋭い。

 

レイネが珍しく視線を下へ落とした。

 

「二回、いたしました」

 

自分から正直に答える。

 

シルフィはしばらく俺たちを見た後、両手で顔を覆った。

 

「嫌だ」

 

「はい」

 

「すごく嫌」

 

「はい」

 

「僕だって、昨日一回しかしてないのに」

 

思わず、言葉を失った。

 

レイネも僅かに目を見開いている。

 

シルフィが両手の隙間から俺を見る。

 

「僕の方が先に告白したのに」

 

そこには嫉妬も悲しみもあり、その中へ少しだけ子供のような不満まで混じっていた。

 

笑ってはいけないと思いながらも、張りつめていた胸の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「回数で競うべきではないと思います」

 

「ルディは黙ってて」

 

「はい」

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「僕、今は素直におめでとうって言えない」

 

「承知しております」

 

「でも、レイネが身を引くのも嫌」

 

今度はレイネが驚いた。

 

「なぜでございましょうか」

 

「僕が嫌だって言ったから、レイネが自分の気持ちを諦めたら、僕が悪い人みたいになるから」

 

「そのようには……」

 

「それだけじゃない」

 

シルフィは顔から手を下ろした。

 

目元は涙で赤くなっている。

 

「レイネが、自分でルディの隣にいたいって言えるようになったのに、それを僕が奪いたくない」

 

「シルフィ……」

 

「でも、嫌なものは嫌」

 

「はい」

 

シルフィは一度、深く息を吸った。

 

「だから、すぐに全部受け入れるのは無理」

 

「それで構いません」

 

俺は答えた。

 

「時間を掛けましょう」

 

「僕が、やっぱり無理だって言ったら?」

 

「その時は、もう一度三人で話します」

 

「答えになってない」

 

「今ここで答えを決めてしまえば、誰かの気持ちを勝手に切り捨てることになります」

 

シルフィは納得しきっていない顔をしていた。

 

それでも、俺がその場を丸く収めるためだけの簡単な約束をしようとしていないことは、理解してくれたようだった。

 

「ルディ」

 

「はい」

 

「レイネには、結婚してって言ったんだよね」

 

「はい」

 

「僕には?」

 

胸を突かれたような感覚がした。

 

昨日、俺はシルフィへ好きだと伝えた。

 

一人の女性として、恋愛として見ていることも、その気持ちを後からなかったことにしないことも約束した。

 

けれど、結婚してほしいとは言っていない。

 

シルフィが先に俺へ告白してくれ、俺はその気持ちへ応えた。

 

その時の俺は、レイネへまだ何も伝えていない状態で関係を決めてしまうべきではないと考えた。

 

慎重にしたつもりだった。

 

しかしシルフィから見れば、レイネには俺自身から結婚を申し込み、自分には「好きだ」と返事をしただけなのだ。

 

そこに差を感じて当然だった。

 

「ごめんなさい」

 

「謝ってほしいんじゃない」

 

シルフィの声が震える。

 

「僕にも聞いて」

 

逃げてはいけない。

 

俺は一度レイネを見る。

 

レイネは俺を止めなかった。

 

むしろ、小さく頷いた。

 

俺はシルフィの前へ立つ。

 

「シルフィ」

 

「うん」

 

「昨日は、自分の気持ちを受け入れることで精いっぱいでした」

 

「うん」

 

「レイネへ話す前に、僕たちの関係を決めてしまうべきではないとも考えていました」

 

「うん」

 

「ですが、それでシルフィを待たせてよいわけではありません」

 

俺はシルフィを真っ直ぐに見た。

 

子供の頃から俺を好きだったと伝え、何年も離れていたのに忘れることができなかったと言い、俺が別の女性を愛していると知ってなお、自分の気持ちを隠さず届けてくれた女性だ。

 

今も、嫉妬も苦しさも、そしてそれでもレイネの選択を奪いたくないという気持ちまで、全て俺へ見せてくれている。

 

「僕は、シルフィを愛しています」

 

昨日よりも、迷いなく言えた。

 

「エリスやレイネと同じだからではありません。シルフィだから、愛しています」

 

シルフィの目から、また涙が落ちた。

 

「僕と結婚してください」

 

静かな温室の中へ、俺の声が響いた。

 

シルフィはすぐには答えなかった。

 

一度、レイネを見る。

 

レイネは微かに微笑み、シルフィへ頷いた。

 

それは許可ではない。

 

シルフィ自身が、自分の意思で答えてよいのだと背中を押すような頷きだった。

 

「本当に、僕でいいの?」

 

「シルフィでなければ駄目です」

 

「レイネにも、同じこと言った?」

 

「はい」

 

シルフィの頬が僅かに膨らんだ。

 

「そこは、僕だけの言葉にしてほしかった」

 

「すみません」

 

「でも……」

 

シルフィは涙を拭った。

 

「うれしい」

 

そう言って、俺へ手を差し出す。

 

「僕でよければ、結婚してください」

 

俺はその手を取った。

 

小さな手から、確かな力で握り返される。

 

「はい」

 

返事をすると、シルフィは泣きながら笑った。

 

俺の目も熱くなった。

 

その横ではレイネも静かに微笑んでいる。

 

ただ、赤い瞳の奥には、ほんの僅かな寂しさも浮かんでいた。

 

嫉妬しているのはシルフィだけではない。

 

レイネだって、自分へ向けられた言葉を、俺が同じように別の女性へ伝えるところを見て何も感じないはずがない。

 

俺はシルフィの手を握ったまま、レイネへ向き直った。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「こちらへ来てください」

 

レイネは少し迷ってから、俺たちの前へやってきた。

 

俺は空いている手を差し出す。

 

レイネも、その手を取った。

 

三人の手がつながった。

 

もちろん、これだけで全てが解決したとは思わない。

 

嫉妬も不安も残っているし、遠く剣の聖地にいるエリスへ、この関係をどう伝えるのかという大きな問題も残されている。

 

それでも、誰か一人を外へ置いたまま話を終えることだけはしたくなかった。

 

「一つ、約束してください」

 

シルフィが言った。

 

「何でしょうか」

 

「僕とレイネを比べないで」

 

俺は息を呑んだ。

 

「どっちが優しいとか、どっちが役に立つとか、どっちを一番愛してるとか、そういう比べ方をしないで」

 

「はい」

 

「僕が聞いたとしても、順位をつけないで」

 

「分かりました」

 

「レイネも」

 

シルフィが隣を見る。

 

「僕と自分を比べて、僕の方がルディにふさわしいからって身を引かないで」

 

レイネはゆっくりと頷いた。

 

「承知いたしました」

 

「僕も、レイネの方が長く一緒にいたからって諦めない」

 

「はい」

 

「それから……」

 

シルフィの頬が少し赤くなった。

 

「二人で何かしたら、全部話してとは言わないけど、隠して僕だけ何も知らない状態にはしないで」

 

「分かりました」

 

俺が答えると、レイネも頷いた。

 

「私からも、よろしいでしょうか」

 

「うん」

 

「我慢することを、優しさと考えないでください」

 

シルフィが少し驚いたようにレイネを見る。

 

「シルフィが苦しいのであれば、お話しください。私が傷つくことを恐れて、何も感じていないように振る舞わないでください」

 

「レイネもね」

 

「はい」

 

「ルディも」

 

二人の視線が同時に俺へ向いた。

 

「はい」

 

反射的に背筋が伸びる。

 

「自分が全部悪いみたいな顔をして、一人で抱え込まないで」

 

シルフィが言う。

 

「僕たちが自分で選んだことまで、ルディ一人の罪にしないで」

 

レイネも続けた。

 

「私たちは、ルーデウス様へ命じられて、この関係を選んだのではございません」

 

「分かりました」

 

今度は、反射的ではなく一度考えてから答えた。

 

俺が二人を愛した以上、その感情によって二人を傷つける可能性があることへの責任は、確かに俺にある。

 

けれど、二人が自分自身で考えて選んだものまで俺の罪へ変えてしまえば、それは結局、二人の選択を奪うことになる。

 

「最後に」

 

俺は言った。

 

「エリスへ手紙を書きます」

 

二人の表情が引き締まる。

 

「僕がシルフィとレイネへ気持ちを伝え、二人から結婚を受け入れてもらったことを、隠さず伝えます」

 

「エリスは、怒ると思う?」

 

シルフィが尋ねた。

 

「分かりません」

 

怒るかもしれない。

 

傷つくかもしれないし、俺を裏切り者だと思う可能性だってある。

 

「それでも、隠すことはできません」

 

「うん」

 

「返事が来るまで、結婚しないの?」

 

その問いには迷った。

 

俺はエリスを愛しており、生きて再会することを約束している。

 

ならば、返事を待つべきなのかもしれない。

 

一方で、この世界では手紙がいつ届くのか分からず、エリスが返事を書ける状況にあるかどうかさえ分からない。

 

返事がないまま何年も、シルフィとレイネを曖昧な立場へ置き続けることもできなかった。

 

「結婚の準備は進めたいと思います」

 

俺は答えた。

 

「ただし、エリスのことを、ここにいない人間として扱うつもりはありません」

 

二人は、それぞれ異なる表情で頷いた。

 

シルフィにも不安があり、レイネにもある。

 

それでも今の俺に伝えられることは、それだけだった。

 

 

俺たちは、そのままアリエル王女の居室へ戻った。

 

シルフィとの結婚を望む以上、彼女が仕えているアリエル王女へも、正式に話しておかなければならない。

 

扉の前まで来ると、シルフィが緊張したように息を吸った。

 

「アリエル様、怒るかな」

 

「僕が説明します」

 

「ルディだけの話じゃないよ」

 

シルフィが言う。

 

「僕も、自分で結婚したいって言う」

 

レイネも頷いた。

 

「私も、必要であればご説明いたします」

 

三人で部屋へ入る。

 

アリエル王女は先ほどと同じ執務机に座っており、ルーク先輩も残っていた。

 

ただ、二人とも書類へ集中しているように見せながら、俺たちが戻ることを待っていたように感じる。

 

「お話は終わりましたか?」

 

「はい」

 

シルフィが答えた。

 

「アリエル様。僕は、ルーデウスと結婚したいです」

 

アリエル王女の目が僅かに細くなる。

 

驚きが少ないところを見ると、シルフィが俺へ告白するつもりだったこと自体は、すでに聞いていたのだろう。

 

「ルーデウス君も、同じ気持ちですか?」

 

「はい」

 

俺は一歩前へ出た。

 

「シルフィと結婚したいと考えています」

 

「そうですか」

 

アリエル王女は一度だけ柔らかく微笑んだ。

 

しかし、その視線はすぐにレイネへ向けられる。

 

「それだけではないのでしょう?」

 

さすがだ。

 

俺たちの並び方だけで、事情の一部を理解したらしい。

 

「はい」

 

俺は答えた。

 

「レイネとも、結婚の約束をしました」

 

ルーク先輩の眉が大きく動いた。

 

アリエル王女は表情を崩さず、まずシルフィを見る。

 

「フィッツ。承知しているのですか?」

 

「はい」

 

「心から歓迎できていますか?」

 

シルフィはすぐには答えなかった。

 

俺やレイネの顔色を窺うのではなく、自分自身の胸へ問いかけるように考えてから口を開く。

 

「今は、まだ苦しいです」

 

正直な答えだった。

 

「嫉妬しています。レイネとルディが結婚することを、嫌だとも思っています」

 

アリエル王女は、黙って続きを待った。

 

「でも、僕もルディと結婚したいです。レイネに身を引いてほしいとも思いません」

 

「矛盾していますね」

 

「はい」

 

「それでも、その道を選びますか?」

 

「選びます」

 

今度のシルフィの声は、震えていなかった。

 

アリエル王女の視線がレイネへ移る。

 

「レイネさん。あなたも同じですか?」

 

「はい」

 

レイネは頭を下げた。

 

「私は、ルーデウス様とともに生きることを望みました。シルフィが傷ついていることも承知しております」

 

「ならば、身を引くつもりは?」

 

「ございません」

 

強い返事だった。

 

アリエル王女が僅かに目を見開く。

 

以前のレイネを知っている人間なら、その変化に驚くのも当然だろう。

 

「ルーデウス君」

 

最後に俺へ視線が向けられる。

 

「あなたは、二人を妻にするつもりですか?」

 

「はい」

 

「さらに、エリスという女性も愛している」

 

「はい」

 

「随分と欲深いのですね」

 

胸へ刺さる言葉だった。

 

それでも否定はしない。

 

「そのとおりです」

 

俺は答えた。

 

「一人だけを愛しているふりをすることもできません。誰かの気持ちを知らなかったことにして、自分だけ正しい人間でいることもできません」

 

「全員を幸福にできると思っていますか?」

 

「分かりません」

 

ルーク先輩が僅かに眉を寄せ、アリエル王女も厳しい目で俺を見た。

 

「大きなことを言った直後に、随分と頼りない答えですね」

 

「必ず幸福にできると断言することは、その人にとって何が幸福なのかまで僕が決めることになると思います」

 

俺はシルフィとレイネを順番に見た。

 

「僕にできるのは、二人の言葉を聞き、自分のことも隠さず話し、問題が起きるたびに逃げずに向き合うことです」

 

「その結果、フィッツが泣いても?」

 

「そばにいます」

 

「レイネさんが泣いたとしても?」

 

「話し合います。黙って一人で行かせません」

 

「二人が、互いを受け入れられなくなった場合は?」

 

「誰かを追い出して終わりにはしません」

 

「答えが出なければ?」

 

「出るまで話します」

 

アリエル王女は長い間、俺を見つめた。

 

「言葉だけなら、何とでも言えます」

 

「はい」

 

「あなたが実際にどこまでできるのかは、これから見るしかありません」

 

「承知しています」

 

やがて、アリエル王女はシルフィへ向き直った。

 

「フィッツ」

 

「はい」

 

「あなたを、私の都合だけで縛るつもりはありません」

 

シルフィの目が揺れる。

 

「アリエル様……」

 

「あなたがルーデウス君と結婚した後も、私の護衛として仕えることを望むなら歓迎します。しかし、妻となったあなたの生活まで、私が自由に使えるとは考えません」

 

「僕は、これからもアリエル様をお守りしたいです」

 

「それも、あなた自身が選んだことですね?」

 

「はい」

 

「分かりました」

 

アリエル王女は立ち上がり、シルフィの前へ歩み寄った。

 

長い間自分を守ってきた護衛へ向けるような、柔らかな笑みを浮かべる。

 

「おめでとう、シルフィ」

 

シルフィの目へ涙が浮かんだ。

 

「ありがとうございます、アリエル様」

 

「ただし」

 

王女の視線が、再び俺へ向く。

 

「この子を泣かせた時は、私が相手になります」

 

「すでに、少し泣かせました」

 

「正直ですね」

 

「隠すべきではないと思いましたので」

 

「なら、泣かせた回数より、笑わせた回数が多くなるよう努力してください」

 

「はい」

 

アリエル王女は、今度はレイネへ向き直った。

 

「あなたにも、お祝いを申し上げます」

 

「ありがとうございます」

 

「フィッツをよろしくお願いします、と言うべきでしょうか」

 

「その言葉は、私だけへ向けるものではないと存じます」

 

レイネは俺を見た。

 

「私も、シルフィも、ルーデウス様と互いに支え合う関係を作りたいと考えております」

 

「よい答えです」

 

アリエル王女は満足そうに頷いた。

 

一方で、ルーク先輩だけはまだ納得しきっていない顔をしていた。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「二人を娶るということは、二人分の生活へ責任を持つということだ」

 

「分かっています」

 

「住居は?」

 

言葉に詰まった。

 

現在の俺にあるのは学生寮の部屋だけだ。

 

シルフィはアリエル王女の近くで暮らし、レイネも学生用の部屋を持っている。

 

では、結婚した後は三人でどこに住むのか。

 

そこまで全く考えていなかった。

 

「まだ、決めていません」

 

ルーク先輩が呆れたように息を吐く。

 

「結婚を申し込む前に、考えていなかったのか」

 

「そこまで余裕がありませんでした」

 

「愛を語ることだけは一人前か」

 

反論できない。

 

アリエル王女が小さく笑った。

 

「まずは、暮らす場所を決めるべきですね」

 

「はい」

 

「ザノバ王子やクリフ君なら、この土地の結婚について、あなたよりは知識があるでしょう」

 

「相談してみます」

 

この世界で結婚を考えるのであれば、まず家を用意する。

 

考えてみれば当然のことだ。

 

愛していると伝えるだけでは、生活は始まらない。

 

毎日食事をする場所も、眠る部屋も、互いに一人で過ごしたい時の空間も必要になる。

 

ジュリの様子を見に行くことや、シルフィがアリエル王女の護衛へ通うこと、レイネが薬草や治癒魔術の研究を続けることまで考えなければならない。

 

三人が一緒に暮らす家。

 

その言葉を思い浮かべると、胸の奥へ、先ほどまでとはまた違う温かさが広がった。

 

 

アリエル王女への報告を終えた後も、俺たちはすぐには部屋を出なかった。

 

シルフィが今後も護衛を続けるための細かな確認や、結婚後の生活と任務をどのように両立させるかについて話しているうちに、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 

話が一段落したところで、アリエル王女が俺たち三人を順番に見た。

 

「まだ、何か話し残したことがあるようですね」

 

俺は一瞬だけ返事に迷った。

 

別に隠すようなことではない。

 

ただ、ここでエリスの名前を出せば、アリエル王女やルーク先輩へ俺たちの事情をさらに説明することになる。

 

「エリスへ手紙を書こうと思っています」

 

それだけを伝えると、アリエル王女は深く尋ねなかった。

 

「でしたら、隣の小応接室を使いなさい。今のあなたたちが、それぞれ別の部屋へ戻ってから書くような内容ではないのでしょう」

 

「ありがとうございます」

 

俺たちは頭を下げ、居室に隣接している小さな応接室を借りた。

 

中には四人掛けの机と椅子があり、壁際の棚には来客用の紙や封筒、インクまで用意されている。おそらくアリエル王女が、外交上の連絡や私的な手紙を書くためにも使っている部屋なのだろう。

 

俺は机の中央へ座った。

 

右側にはシルフィ、左側にはレイネがいる。

 

目の前には、まだ何も書かれていない白い紙があった。

 

羽根ペンへインクを含ませ、最初に書いたのは、ただ一言だった。

 

『エリスへ。』

 

そこで手が止まった。

 

何から書けばよいのか分からない。

 

元気ですか、僕は元気です、といった近況から始めるには、これから伝えようとしている内容があまりにも重い。

 

シルフィと再会した。

 

レイネの気持ちを知った。

 

俺は二人を愛していると伝え、それぞれへ結婚を申し込み、二人とも受け入れてくれた。

 

全て事実だ。

 

けれど、その事実を時間順に並べるだけでは、遠くにいるエリスへ結果だけを突きつけることになる。

 

「ルディ」

 

シルフィが小さな声で呼んだ。

 

「はい」

 

「僕のことを、曖昧に書かないで」

 

俺はシルフィを見る。

 

その表情には、まだ不安が残っていた。

 

エリスがどう受け止めるのか、怒るのか、自分を嫌うのか、何一つ分からない。

 

それでも、シルフィは俺から目を逸らさなかった。

 

「幼馴染と再会したとか、昔の知り合いと結婚することになったとか、そういう書き方にはしないでほしい」

 

「名前を書いてもよいのですか?」

 

「うん。エリスには、僕がシルフィだって伝えて」

 

一度だけ言葉を止める。

 

「今の僕の立場は秘密だから、ほかの人には言わないでほしいってことも書いてほしいけど、エリス本人にまで隠すのは違うと思う」

 

「分かりました」

 

俺は頷いた。

 

反対側から、レイネも口を開く。

 

「私についても、事実をそのままお書きくださいませ」

 

「レイネ」

 

「私がルーデウス様を愛しているとお伝えしたことも、ルーデウス様から結婚を申し込まれ、私自身の意思でお受けしたことも、そのどちらも伏せる必要はございません」

 

「ですが……」

 

俺はペンを置いた。

 

「僕がそう書けば、レイネやシルフィへ責任を押しつけるように見えないでしょうか」

 

二人から告白された。

 

二人が結婚を受け入れた。

 

そこばかり強調すれば、「自分は求められたから応じただけだ」と弁明しているようにも読めてしまう。

 

「でしたら」

 

レイネが言った。

 

「ルーデウス様ご自身が、私たちを愛しておられることもお書きくださいませ」

 

「はい」

 

「私たちから求められたため、仕方なく結婚すると決めたわけではございませんね?」

 

「違います」

 

即答した。

 

シルフィもレイネも、俺自身が愛している。

 

「そのまま、お書きになればよろしいと存じます」

 

逃げ道を作らず、誰かへ責任を押しつけず、自分自身が選んだこととして伝える。

 

結局、それ以外にないのだろう。

 

俺は再びペンを持った。

 

何度も書き直した。

 

自分を正当化しているように見える文章は消したし、エリスへ許しを請うような文章にもしたくなかった。

 

だからといって、自分を必要以上に悪く書いて、「ルーデウスは悪くない」と遠くにいるエリスから慰めてもらうような手紙にするつもりもない。

 

何度か紙を替え、やがて俺は最初から書き直した一枚へ、少しずつ言葉をつなげていった。

 

『エリスへ。

 

まず、手紙を送るのが遅くなってしまったことを謝ります。

 

僕とレイネは、無事にラノア魔法大学へ着きました。

 

大学へ入ってから、シルフィと再会しました。シルフィは生きていました。

 

今は事情があり、公の場所では別の名前と姿で生活しています。このことは、ギレーヌや剣神様など、本当に必要な人以外には話さないでください。

 

シルフィは、僕をずっと好きだったと伝えてくれました。

 

僕も、シルフィを愛しています。

 

そしてレイネも、僕を一人の男性として愛していると伝えてくれました。

 

僕は、レイネを愛しています。

 

僕は二人へ、それぞれ結婚してほしいと伝えました。

 

シルフィもレイネも、受け入れてくれました。

 

二人に求められたから、仕方なく結婚すると決めたのではありません。

 

僕が二人を愛し、自分の意思で結婚を申し込みました。

 

エリスがいない間に、このようなことを決めたことを、当然だとは思っていません。

 

エリスが怒るかもしれないことも、傷つくかもしれないことも分かっています。

 

それでも、隠したままエリスの帰りを待つことはできませんでした。

 

僕は、エリスとの約束を忘れていません。

 

エリスへの気持ちがなくなったわけでもありません。

 

今でも、エリスを愛しています。

 

戻ってきてほしいと思っています。

 

けれど、僕がそう思っているからという理由で、僕の選択を許してほしいとは言えません。

 

この手紙を読んで怒っても、返事を書きたくないと思っても、それは当然だと思います。

 

僕を嫌いになったとしても、その気持ちを否定するつもりはありません。

 

修行を途中でやめて帰ってきてほしいとも言いません。

 

エリスが自分で納得するまで、剣の聖地で修行を続けてください。

 

そして、エリス自身が帰ると決めた時に戻ってきてください。

 

その時は、手紙ではなく、僕の口から全てを話します。

 

怒られても、殴られても、拒絶されても、逃げずに話します。

 

ルーデウス』

 

最後に自分の名前を書き、ペンを置いた。

 

指が強張っていることに、そこで初めて気づいた。

 

書いている間は、どうにか文章を完成させることだけを考えていた。

 

しかし今になって、この手紙を開いた時のエリスの顔が次々と頭へ浮かんでくる。

 

目を見開くかもしれない。

 

怒鳴り、紙を握り潰すかもしれない。

 

あるいは何も言わず、あの別れの日のように、「自分が足りなかったからだ」と考えるかもしれない。

 

それだけは嫌だった。

 

「もう一文、加えてもよいでしょうか」

 

レイネが尋ねる。

 

「はい」

 

俺が紙を渡そうとすると、レイネは首を横へ振った。

 

「ルーデウス様のお手紙へ書き加えるのではなく、私から別にお書きしたいと考えております」

 

レイネは新しい紙を取り、自分の羽根ペンを手にした。

 

最初は迷いなく書き始めたように見えたものの、途中で何度も手が止まった。

 

普段のレイネなら、報告書でも冒険者ギルドへの申請書でも、あるいは普通の手紙であっても、書く内容を最初から整理し、ほとんど迷わず完成させる。

 

今は違う。

 

書いた文章を読み返し、一部を消して、また別の表現へ書き直している。

 

しばらくして、レイネは完成した紙を俺とシルフィの前へ置いた。

 

『エリス様へ。

 

ルーデウス様のお手紙に記されている内容は、事実でございます。

 

私はルーデウス様を愛しているとお伝えし、ともに生きたいと望みました。

 

結婚のお申し出を受けたことも、私自身の選択でございます。

 

エリス様が不在であることを利用したつもりはないと書けば、私自身を守るための弁明になると考えました。

 

そのため、そのようには申し上げません。

 

結果として、エリス様が剣の聖地で修行されている間に、私はルーデウス様との結婚を決めました。

 

その事実から逃げるつもりはございません。

 

私は、ルーデウス様への気持ちをなかったことにはいたしません。

 

同時に、エリス様のルーデウス様へのお気持ちも、なかったことにはいたしません。

 

お戻りになられた際には、直接お話しいたします。

 

お怒りになるのであれば、その言葉をお聞きします。

 

お尋ねになりたいことがあれば、隠さずお答えいたします。

 

レイネ』

 

読み終えたシルフィが、ゆっくり息を吐いた。

 

「レイネらしいね」

 

「よい意味でしょうか」

 

「うん。怖いくらい真っ直ぐだけど」

 

レイネの文章には、謝罪がなかった。

 

エリスを傷つける可能性を軽視しているわけではない。

 

しかし、ルーデウスを愛したことそのものを謝れば、また自分自身の感情を間違ったものとして消そうとすることになる。

 

レイネは、自分で選んだものを、初めて遠く離れたエリスの前でも守ろうとしていた。

 

「シルフィは、何か書きますか?」

 

俺が尋ねると、シルフィはすぐには答えなかった。

 

何も書かれていない紙を一枚、自分の前へ引き寄せ、ペンを持ったまま長い間考える。

 

やがて書いたのは、紙の下半分にさえ届かない短い文章だった。

 

『エリスへ。

 

僕はシルフィです。

 

生きています。

 

ルディから結婚してほしいと言われ、僕も結婚したいと答えました。

 

エリスがどう思うのか、怖いです。

 

でも、僕も自分で選びました。

 

いつか会えた時に、僕からも話します。

 

シルフィ』

 

「これだけでいいのですか?」

 

「うん」

 

シルフィは頷いた。

 

「長く書くと、自分を分かってほしいっていう話ばかりになりそうだから」

 

机の上には、三枚の手紙が並んでいた。

 

俺とレイネとシルフィでは、使った言葉も文章の長さも違う。

 

それでも共通していることがあった。

 

誰も「自分は悪くない」とは書かず、ほかの二人へ責任を押しつけてもいない。

 

そしてエリスへ、自分たちの選択を受け入れるよう求めてもいなかった。

 

俺は三枚を順番に重ねた。

 

「送ります」

 

声にすると、本当に後戻りできないのだと改めて感じる。

 

レイネが封筒を二重にした。

 

内側の封筒には、エリス本人以外が開けないよう簡単な封印術を施す。無理に開封されれば封蝋の模様が崩れ、途中で誰かに読まれたことが分かる仕組みらしい。

 

外側には送り先を書く。

 

『剣の聖地。

剣神ガル・ファリオン様預かり。

エリス・ボレアス・グレイラット様。』

 

差出人には、俺とレイネの名前だけを記した。

 

シルフィの名前は外側には書かない。

 

現在の彼女の立場を守るためだ。

 

「今夜は、もうギルドが閉まっています」

 

シルフィが窓の外を見る。

 

「明日の朝、一緒に出しに行こう」

 

「シルフィも来るのですか?」

 

「うん。僕の手紙も入っているから」

 

レイネも頷いた。

 

「では、明朝、冒険者ギルドを経由して発送いたしましょう」

 

その夜、俺は男子寮へ戻ったものの、なかなか眠ることができなかった。

 

目を閉じるたびに、剣の聖地で手紙を開くエリスの姿が浮かんでくる。

 

それでも、送らないという選択肢だけは、もう考えなかった。

 

 

翌朝、俺たちは授業が始まるより早く冒険者ギルドへ向かった。

 

人前なので、シルフィはフィッツ先輩の姿へ戻っている。

 

周囲から見れば、俺とレイネが手紙を発送し、フィッツ先輩はその用事へ付き添っているだけに見えるだろう。

 

受付で送り先を伝えると、職員は少し難しそうな顔をした。

 

「剣の聖地ですか。かなり遠いですね」

 

「どの程度掛かりますか?」

 

「季節と街道の状態によります。順調に運んでも数か月は見てください。剣の聖地へ直接向かう便は少ないので、途中の支部や商隊を何度も経由することになります」

 

予想していたとはいえ、数か月という時間を実際に聞けば重く感じる。

 

エリスがこの手紙を読む頃には、俺たちはすでに家を買い、結婚の準備まで進めている可能性がある。

 

「少しでも確実な方法をお願いします」

 

「でしたら通常便ではなく、重要書類として剣士や冒険者の護送便へ混ぜます。ただし、料金はかなり高くなりますよ」

 

「構いません」

 

そこは迷わず答えた。

 

料金を支払うと、受付の職員が封筒の宛先と封蝋を確認し、発送記録へ必要事項を書き込んでいく。

 

最後に、三人分の手紙が入った封筒が革製の郵送鞄へ収められた。

 

留め具が閉じられる。

 

これでもう、俺自身の手で取り戻すことはできない。

 

「本当に送ったんだね」

 

ギルドを出たところで、フィッツ先輩が周囲へ聞こえないほどの声で呟いた。

 

「はい」

 

「怖い?」

 

「怖いです」

 

否定できなかった。

 

「返事が来ることも、来ないことも怖いです」

 

エリスが何を書くのか、そもそも返事を書いてくれるのか。

 

それを俺が選ぶことはできない。

 

隣を歩いていたレイネも口を開いた。

 

「私も、恐ろしく感じております」

 

「レイネも?」

 

「はい」

 

「平気そうに見えました」

 

「平静に見えることと、不安を感じていないことは同じではございません」

 

以前のレイネなら、「怖い」とは言わなかっただろう。

 

どのような返事が届いても、その時に必要な対応をする、とだけ答え、自分がどう感じているのかまでは口にしなかったはずだ。

 

「それでも、送ってよかったと思いますか?」

 

俺が尋ねると、レイネはすぐに頷いた。

 

「はい。隠した状態でエリス様をお待ちするよりも、よかったと考えております」

 

フィッツ先輩も小さく頷く。

 

「僕も」

 

手紙は、もうシャリーアを出る準備へ入っている。

 

ここからいくつもの町を通り、商隊や冒険者の手へ渡り、北方大地を越えて、いつかエリスのもとへ届くのだろう。

 

その時、俺たちの関係がどのように変わるのかは分からない。

 

それでも、自分たちの今の幸福を作るために、遠くにいるエリスを最初から存在しない人間として扱わなかった。

 

少なくとも、そのことだけは間違っていないと思いたかった。

 

 

ギルドを出た俺たちは、そのまま大学へ向かった。

 

そして昼休みになると、俺はザノバとクリフ先輩を学生食堂の隅へ呼び出した。

 

シルフィとレイネも一緒だ。

 

ジュリはジンジャーとともに新しい生活へ慣れるための練習をしているので、今日はこの場にはいない。

 

「師匠が、結婚!」

 

ザノバの声が食堂中へ響き渡った。

 

「声を抑えてください」

 

「しかし、これほど喜ばしいことを、いかに静かに祝えと!」

 

「少なくとも食堂では静かにしてください」

 

周囲の学生たちが、一斉にこちらを見ている。

 

フィッツ先輩の本当の事情は伏せなければならないため、表向きには俺がレイネと結婚するという話だけを伝え、シルフィについては人目のない場所で改めて説明する予定だった。

 

しかしザノバの声のおかげで、すでに相当な注目を集めている。

 

「レイネ殿! 師匠を選ばれたその慧眼、誠に見事でございます!」

 

「ありがとうございます」

 

レイネは落ち着いて答えた。

 

ただし、頬はほんの僅かに赤くなっている。

 

クリフ先輩は俺とレイネを順番に見た後、腕を組んだ。

 

「それで、僕に何を相談したいんだ?」

 

「この国での結婚の手順についてです」

 

「知らないのか?」

 

「恥ずかしながら」

 

俺はこの世界で生まれ育った人間ではある。

 

しかし、地方や宗教、身分によって結婚の形は異なる。

 

貴族同士なら家同士の契約が必要になるだろうし、平民なら家族へ報告したうえで宴を開くだけで済む地域もある。

 

レイネには現在、連絡を取るべき家族がいない。

 

シルフィの家族も、転移事件以降は消息が分かっていない。

 

一方、俺の両親には当然、手紙を送る必要がある。

 

「まず、住む場所だろう」

 

クリフ先輩が言った。

 

「結婚しても、別々の学生寮へ帰るつもりなのか?」

 

「そのつもりはありません」

 

「なら家を用意する。最低限、それが先だ」

 

「家ですか」

 

「当然だろう」

 

クリフ先輩は呆れている。

 

ザノバも大きく頷いた。

 

「師匠ほどのお方であれば、工房付きの大邸宅が必要ですな!」

 

「工房を中心に考えないでください」

 

「人形制作を行える部屋は、家庭の幸福に不可欠でございましょう」

 

「少なくとも最優先ではありません」

 

シルフィが小さく笑った。

 

レイネも、こうした話をしている時には、昨日まで抱えていた死への覚悟が少し遠いものになったように見える。

 

家を探す。

 

三人で暮らす場所について考える。

 

ただそれだけの話なのに、レイネが使命の先に存在する未来へ、一歩ずつ足を踏み入れていることが分かる。

 

その事実が、どうしようもなくうれしかった。

 

「家を買うには、不動産屋へ行けばよいのでしょうか」

 

「そうだ」

 

クリフ先輩が答える。

 

「ただし、安すぎる家には気をつけろ。北方大地で、妙に条件のよい物件が残っているなら、何か理由がある」

 

「理由?」

 

「立地が悪かったり、建物そのものが壊れかけていたり、以前の住民が問題を起こしていたりする。それ以外にも、魔物や呪いが出るという場合もある」

 

「最後だけ、急に物騒ですね」

 

「実際にある」

 

ザノバが勢いよく身を乗り出した。

 

「呪われた屋敷! 実に興味深い!」

 

「住むのは僕たちです」

 

「師匠であれば、呪いなど一撃で打ち砕かれるでしょう!」

 

「まだ呪いがあると決まったわけではありません」

 

このままザノバの興味へ付き合っていたら話が逸れていくので、家に必要な条件を先に整理することにした。

 

まず、三人が無理なく暮らせるだけの広さは必要になる。

 

シルフィがアリエル王女のもとへ通いやすい場所であることも重要だ。

 

レイネが薬草や治癒魔術の研究を続けられる部屋が欲しいし、俺自身も魔術の研究を行う空間は必要になる。

 

さらに将来、家族が増える可能性まで考えておいた方がいいだろう。

 

エリスが戻ってきた時、彼女が俺を受け入れてくれるのかどうかは分からない。

 

それでも最初からエリスの存在をないものとして、三人で暮らすことしかできないほど小さな家を選ぶことはしたくなかった。

 

「少し大きめの家が必要ですね」

 

俺が言うと、クリフ先輩が目を細めた。

 

「レイネと二人で住むだけなら、そこまで広くなくてもいいだろう」

 

ここでは、まだシルフィの事情を話せない。

 

「事情があります」

 

「また女か?」

 

鋭い。

 

「後で説明します」

 

クリフ先輩は額を押さえた。

 

「君は、僕が思っていたよりずっと厄介な男だな」

 

「否定できません」

 

「だが……」

 

クリフ先輩はレイネを見る。

 

「レイネが納得しているなら、僕が口を出すことでもないか」

 

「納得しているだけではございません」

 

レイネが答えた。

 

「私自身が選びました」

 

クリフ先輩は少し驚いた顔をした後、やがて頷いた。

 

「なら、なおさらだ」

 

そこでザノバが勢いよく立ち上がった。

 

「早速、不動産屋へ参りましょう!」

 

「今からですか?」

 

「善は急げと申します!」

 

「授業は?」

 

「本日の授業は終了しております!」

 

珍しく、何も問題がなかった。

 

俺たちは食事を終えると、シルフィがアリエル王女へ外出の許可を取りに行く間に、大学近くの不動産屋へ向かう準備を始めた。

 

結婚して、新居を探し、三人で暮らす家を作る。

 

前世の俺は、自分が誰かと家庭を持つことなど、想像したことすらなかった。

 

今の俺だって、これから何が起こるのかは分からない。

 

人神の問題は何も解決していないし、転移事件についてもまだ分からないことばかりだ。母様は今も行方不明で、エリスは遥か剣の聖地にいる。レイネが抱えている過去や秘密についても、その多くを俺は知らない。

 

問題は、何一つ消えていない。

 

だからといって、それらが全てなくなる日まで、幸福になることを先送りにしなければならないわけではないのだと思う。

 

怖いものがあっても、何かを失う可能性が消えなくても、今そばにいる人と一緒に生きる場所を作ることはできる。

 

やがて店の前へ着くと、不動産屋の看板が冷たい風を受けて小さく揺れていた。

 

俺は隣に立つシルフィとレイネを見る。

 

二人とも、不安が全くないわけではない。

 

それでも、ここへ来ることを自分自身で選んだ。

 

「入りましょうか」

 

俺が言う。

 

「うん」

 

シルフィが答える。

 

「はい」

 

レイネも頷いた。

 

これから三人で暮らす家を探すため、俺たちは並んで不動産屋の扉を開いた。

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