ルーデウス視点
その日の午後、俺はレイネとともに大学の資料室にいた。
机の上には、フィットア領転移事件に関する古い記録をはじめ、各地で報告されてきた転移現象について記された資料が何冊も広げられている。魔力災害によって遠方へ飛ばされたという記録もあれば、召喚魔術の失敗によって術者自身が見知らぬ土地へ移動したという伝承、さらには遺跡の中から発見された行き先不明の転移魔法陣についての報告もあった。
一見すれば、どれもフィットア領転移事件と関係がありそうに思える。
しかし細部まで読み込んでみると、発生した現象の規模も性質も大きく異なっており、直接結びつけられそうな情報はほとんど見つかっていなかった。
窓の外では、薄い雲を通した弱い日差しが差し込んでいる。静かな資料室に聞こえてくるのは紙をめくる音と、ときおりレイネが記録を書き写す羽根ペンの音だけだった。
昔の俺なら、成果が出ない時間を無駄だと感じて焦り、何冊もの資料を一度に開いては、結局どれも中途半端に読み散らかしていたかもしれない。
今は違う。
必要な情報が見つからなかったという事実も、きちんと記録として残す。どの資料を確認し、そこに何が書かれていなかったのかまで整理しておけば、同じ調査を何度も繰り返す必要はなくなる。
母様を助けたい。
その気持ちが強いからこそ、焦って都合のよい結論へ飛びついてはいけない。
レイネやシルフィと一緒に調査方針を考えるようになってから、俺は少しずつそう考えられるようになっていた。
一冊の記録を最後まで読み終え、内容を帳面へ書き加えてから、次の本へ手を伸ばそうとした時だった。
廊下から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
小さく、不規則で、何度も転びかけているような足音だった。それでも止まることなく、まっすぐこちらへ近づいてくる。
直後、資料室の扉が勢いよく開いた。
「ルーデウスさま……!」
「ジュリ?」
扉の向こうに立っていたのはジュリだった。
息を切らしながら扉の枠へ片手をつき、髪は走ってきたせいで乱れている。頬には、明らかに泣いた跡が残っていた。
俺は椅子を引き、すぐに立ち上がった。
ジュリが一人で俺を探しに来ること自体、ほとんどない。
普段はザノバかジンジャーと一緒に行動していることが多く、まだ大学の中を一人で走り回るような子でもない。
まして、こんな顔で来たとなれば、何かが起きたのは間違いなかった。
胸の奥へ嫌な予感が広がる。
それでも、先に結論を決めてはいけない。
まず何があったのかを聞き、必要なら怪我人を治療する。怒るのは、その後でいい。
「どうしました?」
俺が近づくと、ジュリは何度か口を開いた。しかし呼吸が大きく乱れているせいで、すぐには上手く言葉にならない。
「ザノバさまが……」
「ザノバに何かあったのですか?」
「たおれた」
胸の奥が一気に冷えた。
ザノバは怪力の神子だ。
並の人間による攻撃程度なら、簡単に倒されるような身体ではない。
そのザノバが倒れたと聞くだけで、かなりのことが起きたのだと分かった。
「怪我をしたのですか?」
ジュリは何度も頷いた。
「ふたりに、たたかれて……ししょう、よべって」
「二人?」
「リニアと、プルセナ」
そこまで言うと、ジュリは俺の袖を両手で掴んだ。
小さな指が布へ食い込むほど、強く握られている。
「ルードさまも、こわれた」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
ルードさま。
ジュリがその名前で呼ぶものは、一つしかない。
「人形が?」
「はい……」
声は小さかったが、聞き間違える余地はなかった。
昨日、ザノバがようやく完成させた《ルード人形・第一号》。
何週間も失敗を重ね、自分の怪力によって材料や道具を壊し、卵一つを割らずに扱うことさえ難しい中で、それでも諦めなかった。
一度は完成直前まで作った人形を自分の手で壊してしまった。
あれほど落ち込んだのに、その日のうちに新しい粘土へ手を伸ばした。
そうして、ようやく作り上げたのだ。
左右の手足の長さも完全には揃っておらず、決して精巧な造形ではなかった。それでも間違いなく、ザノバ自身が自分の手で完成させた、最初の一体だった。
あれが壊れた。
胸の中に怒りが生まれかける。
けれど、まだ何も分かっていない。
リニアとプルセナが意図的に壊したのかもしれないし、事故だった可能性もある。ザノバが倒れた経緯についても、まだジュリから詳しく聞けてはいない。
俺は袖を握っているジュリの手へ、自分の手を重ねた。
「案内してください」
ジュリはすぐに踵を返した。
隣を見れば、レイネはすでに読んでいた本を閉じている。頁へ細い紙を挟み、椅子を机の下へ戻すと、こちらから声を掛けるより先に俺の横へ並んだ。
「参りましょう」
「はい」
俺たちはジュリの後を追い、資料室を出た。
◇
ザノバの研究室へ近づくほど、廊下に集まっている学生の数が増えていった。
誰も中へ入ろうとはせず、少し離れた場所から恐る恐る様子を窺っている。
俺たちの姿に気づいた学生たちが、慌てて壁際へ寄った。
「ルーデウスだ」
「フィッツ先輩じゃない、もう一人の白髪の……」
「ザノバ王子が倒されたらしいぞ」
小声で交わされる噂が耳へ入ってくる。
普段なら、どんな噂が流れているのか、自分がどのように見られているのか多少は気にしたかもしれない。
今は、そんな余裕はなかった。
研究室の扉は開いたままになっており、蝶番が片方外れて斜めに傾いている。
ジュリがその前で足を止めた。
「ここ」
「ありがとうございます」
俺はジュリの肩へ軽く触れてから、研究室へ入った。
中はひどく荒れていた。
棚が倒れ、机の一つは中央から真っ二つに砕けている。床には土魔術を使った痕跡があり、壁にも人か物が叩きつけられたような大きな窪みが残されていた。
その中央に、ザノバがいた。
片膝を床へつき、左手でどうにか身体を支えている。制服は何箇所も破れ、頬は赤く腫れ、口元から血が流れていた。右腕は力なく垂れ下がっている。
完全に倒れてはいない。
それでも、普段のザノバからは想像できないほど弱々しい姿だった。
「ザノバ!」
俺が呼ぶと、ザノバはゆっくり顔を上げた。
「師匠……」
返事はある。
意識もしっかりしているらしい。
そのことへ安堵しながら近づこうとした時、ザノバの前に散らばっているものへ気づいた。
足が止まった。
床の上には、細かな破片が広がっていた。
太さの違う二本の腕に、僅かに短かった左脚。柄の太い槍も転がっており、剃り上げた頭を模した頭部は二つに割れている。額を覆っていた鉢金も、中央から折れていた。
一昨日まで、それはただの粘土だった。
昨日、一体の人形になった。
ザノバは完成したそれを両手で持ち上げ、何度も俺へ尋ねた。
自分にも作れたのか。
これを人形と呼んでよいのか。
ルイジェルドに見えるのか。
俺は、その全てへ頷いた。
確かに完成していた。
俺やジュリの作品に比べれば不格好で、左右も綺麗には揃っておらず、造形技術として見れば遥かに未熟だった。
それでも間違いなく、ザノバが作り上げた最初の一体だった。
今はもう、一体の人形として見ることさえ難しい。
ただの破片へ戻っていた。
胸の奥から、すぐには名前をつけられない感情が込み上げてきた。
悲しい。
悔しい。
何より、ザノバがあそこへ至るまでに費やした時間を踏みにじられたことへの怒りが強かった。
いくつもの感情が一度に押し寄せ、呼吸が浅くなる。
杖さえ握っていない手へ力が入り、何かを撃ち出す準備でもするように、指が固く閉じていった。
けれど、今するべきことは怒りに任せて誰かを攻撃することではない。
目の前には、怪我をしたザノバがいる。
俺は無理やり人形から意識を引き離した。
「先に襲ってきたのは、そいつだニャ」
研究室の奥から声がした。
リニアとプルセナが立っている。
二人とも無傷ではない。
リニアの左頬は赤く腫れ、制服の袖も大きく裂けている。プルセナも片脚を庇いながら、壁へ背中を預けていた。
ザノバも一方的にやられたわけではないらしい。
「急に殴りかかってきたの」
プルセナが言う。
「私たちは反撃しただけなの」
俺は二人へ答えなかった。
誰が最初に殴ったのかは、後から聞けばいい。
まずは怪我だ。
俺はザノバの前へ膝をついた。
「右腕を見せてください」
「余よりも……」
ザノバの視線が、床の破片へ向けられる。
「人形を……」
「人形も確認します」
俺はザノバの肩へ手を置いた。
「ですが、先に怪我です」
壊れた人形を大切に思う気持ちは分かる。
俺だって、今すぐ破片を拾い集めたい。
しかし人形なら、これ以上壊れないように保管しておくことができる。ザノバの怪我は、放置すれば悪化する可能性がある。
大切なものを守るために、自分の身体を後回しにする人を、俺はすでに何度も見てきた。
レイネがそうするたび、自分がどれほど苦しかったのかも知っている。
同じことをザノバへさせたくなかった。
右腕へ軽く触れて状態を確認する。
完全に折れてはいないようだが、関節をかなり痛めている。ほかにも打撲は多いものの、ザノバの異常な身体の頑丈さを考えれば、命へ関わる怪我ではなさそうだ。
もちろん、だからといって痛くないわけではない。
「レイネ。お願いします」
返事がなかった。
振り返る。
レイネは床に散らばった人形の破片を見つめていた。
背筋を伸ばし、いつもと変わらない姿勢で立っている。拳を握り締めているわけでもなく、周囲へ魔力を放っている様子もない。
顔にも、大きな変化はなかった。
それでも、その表情を見た瞬間に分かった。
怒っている。
俺が今まで見たこともないほど、強く。
レイネは普段から感情を激しく表へ出す人ではない。父さんへ注意する時も、俺が危険なことをした時も、大声を出すことはほとんどなかった。
戦闘に入れば、むしろ普段以上に静かになる。
けれど今の顔は、戦闘中のものとも違った。
冷たい。
敵を観察しているからではない。
目の前で起きたことを、心の底から許していない。
そう一目で分かるほど、赤い瞳から温度が消えていた。
俺が呼びかけるより先に、レイネは歩き出した。
床へ膝をつき、二つに割れた人形の頭部を両手で拾い上げる。乱暴に触れればさらに崩れると分かっているのか、普段以上に慎重な手つきだった。
頭部を布の上へ静かに置いてから、俺の隣へ来る。
「ザノバ様。失礼いたします」
声は、いつもと変わらない。
それが、かえって恐ろしかった。
レイネが治癒魔術を使い始め、淡い光がザノバの右腕や腫れた頬を包んでいく。
俺は立ち上がり、改めて研究室全体を見た。
壊れた扉と倒れた棚、床へ散らばった道具。負傷しているザノバだけでなく、リニアとプルセナも傷を負っている。
その横では、ジュリが人形の破片を見つめながら、声を押し殺して泣いていた。
まだ何があったのか、全ては分かっていない。
怒るのは、事実を聞いてからだ。
そう考える。
そう考え続けなければ、今すぐ二人へ魔術を撃ち込んでしまいそうだった。
怒りを抱いたことそのものを否定するつもりはない。
怒って当然だとも思っている。
ただ、自分が正しく怒っているからといって、何をしても許されるわけではない。
その線だけは、絶対に越えてはいけない。
「何があったのですか」
俺はザノバへ尋ねた。
「最初から話してください」
ザノバは治療を受けながら、ゆっくり呼吸を整えた。
「今朝、人形を研究室へ持参いたしました」
「はい」
「鍵の掛かる棚へ収めておりましたが、昼休みに一度取り出しました。ジュリへ、昨日作った箇所を説明するためでございます」
ザノバがリニアとプルセナを見る。
「その時、二人が研究室へ参りました」
「勝手に入ったわけじゃないニャ」
リニアが割り込んだ。
「こいつが、すごい人形を作ったって自慢してたから、見せろって言ったんだニャ」
「余は、入室を許可した」
ザノバ自身も認めた。
俺は頷く。
少なくとも、無断で研究室へ侵入したわけではない。
ここまでは問題なかった。
「それから?」
「箱を開け、人形をお見せしました」
「触るなと言われたの」
今度はプルセナが言った。
「見るだけなら構わぬと」
「なのにリニアが手を出したのですか?」
俺が尋ねると、リニアの耳が僅かに動いた。
「ちょっと近くで見ようとしただけだニャ」
「余は、触れてはならぬと止めた」
「大げさだったニャ。壊れそうなら、あたしが持った方が安全だと思ったんだニャ」
「それで持ったのですか」
「そうだニャ」
その返答を聞きながら、床に散らばる破片へ目を落とす。
昨日、ザノバはあの人形を持ち上げるだけでも、何度も手の位置を確認していた。
自分の怪力で壊してしまわないよう、指先へどれほどの力を掛けるかを慎重に確かめ、呼吸まで整えてから触れていた。
その姿を知っているからこそ、持ち主本人から「触るな」と言われているのに、自分の判断だけで持ち上げたことへ怒りが増していく。
「リニアだけ見るのはずるいの」
プルセナが続けた。
「私も見ようとしたの」
「お前が急に取ろうとしたんだニャ」
「リニアが渡さないからなの」
二人の話が重なった。
次に何が起こったのか、おおよその想像はできる。
それでも、俺は口を挟まなかった。
自分の想像だけで、二人の罪を勝手に増やしてはいけない。
「二人が人形を取り合い始めたため、余が取り戻そうといたしました」
ザノバが言う。
「リニアが避け、プルセナへ投げ渡しました」
「投げたんじゃないニャ。渡しただけだニャ」
「私の方へ飛んできたの」
「受け取れなかったお前が悪いニャ」
「ザノバが横から来たからなの」
プルセナは、床へ落ちている人形の胴体を見た。
「手が滑ったの」
その一言を聞いた時、胸の奥へ溜まっていたものが、さらに重くなった。
少なくとも、人形を故意に落として壊そうとしたわけではないらしい。
軽率だったし、無責任だった。
持ち主が止めていたにもかかわらず、それを無視した結果でもある。
それでも、「壊すこと」自体を目的にしていたわけではなかった。
なら、壊れた瞬間にどうしたのか。
謝ったのか。
ザノバへ何と言ったのか。
それが知りたかった。
俺が尋ねるより先に、ザノバが続ける。
「人形は床へ落ち、頭部と胴体が割れました」
その声は僅かに震えていた。
「余は、二人へ謝罪を求めました」
リニアが鼻を鳴らした。
「最初は悪かったって言ったニャ」
「最初は?」
俺が反応すると、リニアは僅かに視線を逸らした。
「でも、こいつがあんまり大騒ぎするからだニャ」
「余にとっては、初めて完成させた人形だった」
「だからって、いきなり掴みかかってくることはないニャ」
「その前に」
ザノバの声が低くなる。
「お前たちは、これを不格好な泥人形と呼んだ」
研究室の空気が止まったように感じた。
その言葉だけが、耳の中へ残る。
不格好な泥人形。
「こんなの、また作ればいいって言っただけなの」
プルセナが言った。
そこに悪意はなかった。
本当に、何がそれほど問題なのか理解していないような声だった。
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
ザノバが紙一枚を破らず持ち上げられた時、どれほどうれしそうな顔をしていたかを思い出した。
卵を割ってしまうたびに、申し訳なさそうに俺を見る姿も覚えている。
力を調整するために道具の形を何度も変え、粘土の水分量まで何度も試した。
一度完成直前の人形を壊してしまっても、その日のうちに次の粘土へ手を伸ばした。
左目を刻む時には、あのザノバの手が震えていた。
最後に鉢金を固定し、恐る恐る両手を離した。
俺が完成したと伝えた時、ザノバは目を赤くしながら、自分の両手を見ていた。
自分にも、この手で作ることができたのだと。
あの人形は、ただ土を固めただけの物ではない。
自分には物を壊すことしかできないと思っていた男が、自分にも何かを作ることができると、初めて形にしたものだ。
俺は努力から逃げた人間だった。
前世では一度躓いただけで立ち上がることを諦め、できない理由ばかりを探し、差し伸べられた手を振り払った。
結局、何も作らないまま死んだ。
今の俺は、あの頃の自分と完全に同じではない。
失敗しても、怖くても、周囲の助けを借りながらもう一度進むことを、ようやく覚え始めている。
だからこそ、何度失敗しても諦めず人形を完成させたザノバを、俺は心から尊敬していた。
あの人形を、本当に美しいと思った。
完成度の問題ではない。
そこへ至るまでに使った時間も、何度も繰り返した失敗も、ザノバ自身の決意も含めて、一体の作品だった。
それを、何も知らない二人がただの泥人形だと笑い、壊れたならまた作ればいいと簡単に言った。
「その言葉を」
低い声が聞こえた。
俺の声ではない。
レイネだった。
治療を終えたレイネがザノバの右腕から手を離し、顔を上げてプルセナを見ていた。
「もう一度、おっしゃいますか」
声は静かだった。
プルセナの耳が反射的に伏せられる。
「な、何がなの」
「また作れると」
レイネの表情は動かない。
それなのに、赤い瞳に見つめられたプルセナは明らかに怯え、半歩後ろへ下がった。
隣のリニアも、尾を身体の後ろへ隠すように下げている。
「だって、土の人形なの」
プルセナは、それでも言葉を続けた。
「時間は掛かるかもしれないけど、同じ物を作れば――」
「同じ物にはなりません」
レイネが遮った。
声を荒らげているわけではない。
それでも、研究室の空気そのものが凍りついたように感じられた。
「次にどれほど優れた人形を作ろうと、ザノバ様が初めて完成させた一体は戻りません」
レイネは床に散らばった破片へ視線を落とす。
「あなた方は、それを壊しました」
リニアが低く唸った。
「だから、わざとじゃないって言ってるニャ」
「故意でなければ」
レイネの視線がリニアへ移る。
「持ち主の制止を無視して触れたことも、壊した後にその価値を笑ったことも、全て許されるのでございますか」
リニアは答えられなかった。
レイネは襲いかかろうと身構えているわけではない。
むしろ、普段とほとんど変わらないほど静かに立っている。
だからこそ分かった。
本気で怒っている。
俺が見たこともないほどに。
横顔を見ているだけの俺でさえ、背中へ冷たいものを感じる。
二人がもう一言でも余計なことを口にした時、レイネが何をするのか、一瞬想像できなかった。
ただ、その怒りの理由は分かる。
俺と同じなのだ。
壊れた物そのものだけではない。
ザノバがそこへ注いだもの全てを、価値のないものとして扱われたことが許せない。
だからこそ、俺が止める必要がある。
レイネだけではなく、自分自身も。
「レイネ」
俺が呼ぶ。
すぐにはこちらを見なかった。
一拍遅れて、赤い瞳が俺へ向く。
「ここは、僕に任せてください」
「ルーデウス様は……」
僅かに言葉を止めてから、レイネが尋ねる。
「どのようにお決めになるおつもりでしょうか」
「まず、二人に謝ってもらいます」
俺は答えた。
「壊したことだけではありません。ザノバの努力を笑ったことについても」
「拒まれた場合は?」
俺はリニアとプルセナを見る。
二人とも、自分たちが全面的に悪いとは思っていないようだった。
人形を壊したことについては多少悪かったと思っている。
しかし先に殴ってきたのはザノバであり、それへ反撃して勝ったのだから、もうこれ以上責められる理由はない。
そんな顔をしている。
「その時に考えます」
俺は言った。
「ですが、殺したり、取り返しのつかない怪我を負わせたりはしません」
その言葉がレイネへ向けたものなのか、それとも自分自身へ言い聞かせたものなのか、俺にも分からなかった。
怒りへ任せれば、二人を殺すことなど簡単だ。
石砲弾を一発ずつ、それぞれの頭へ撃ち込めばいい。
けれど、それでザノバの苦しみが消えるわけではないし、人形が元へ戻ることもない。
俺の怒りが一瞬だけ晴れ、その後には二人を殺したという事実と、怒りに負けた自分への後悔だけが残る。
それは、俺が望んでいる結末ではなかった。
レイネはしばらく俺を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「承知いたしました」
ただ、冷え切った表情だけは消えなかった。
◇
「ザノバ」
俺は改めて、治療を終えたザノバへ向き直った。
「人形を壊された後、二人へ攻撃したのですね」
「はい」
ザノバは迷わず認めた。
「余が先に手を出しました」
「二人へ謝れますか?」
一瞬、ザノバの顔が歪んだ。
自分の大切な人形を壊し、その価値まで笑った相手へ、自分から頭を下げる。
納得できない気持ちはよく分かる。
謝ることで、自分が怒ったことそのものまで間違っていたと認めるように感じるかもしれない。
それでも、怒る理由が正しいことと、先に暴力を振るったことが正しいかどうかは別だ。
それは、今まさに俺自身へ言い聞かせていることでもあった。
ザノバは目を閉じ、しばらく呼吸を整えた。
やがて頭を下げる。
「余から攻撃したことについては、謝罪する。申し訳なかった」
リニアとプルセナが顔を見合わせた。
ザノバが素直に謝るとは思っていなかったらしい。
俺は二人へ向き直る。
「ザノバは、先に攻撃したことを謝りました」
「それで終わりでいいニャ?」
「いいえ」
「なんでだニャ。こっちも人形を壊したことは悪かったって言ったニャ」
「人形を壊したことについて、ザノバへ頭を下げましたか?」
「そんな必要あるの?」
プルセナが眉を寄せた。
「私たちは、ザノバに殴られているの」
「そのことについては、ザノバが謝りました」
二つの問題を一つへ混ぜてはいけない。
ザノバが先に殴ったことと、リニアたちが持ち主の制止を無視して人形へ触れ、結果的に壊したうえ、その価値まで笑ったこと。
どちらか一方に問題があれば、もう一方が消えるわけではない。
「獣族では」
リニアが一歩前へ出る。
「先に喧嘩を売って負けたやつが悪いニャ」
「負ければ、何をされても文句を言えないのですか?」
「そういうものだニャ」
リニアは腫れた自分の頬へ触れた。
「ザノバは負けた。だから、この話は終わりだニャ」
「終わっていません」
自分でも驚くほど低い声が出た。
リニアの耳が動く。
「人形を壊したことと、喧嘩の勝敗は別です」
「別じゃないニャ。文句があるなら、強いやつが勝って決めるニャ」
その言葉を聞き、俺は杖へ手を掛けた。
怒っている。
二人が獣族の文化や価値観を持っていることへではない。
それを理由に、自分たちがしたことまで終わったことにしようとしている態度に腹が立っている。
俺たちの価値観を、この二人へ無理やり押しつけたいわけではない。
文化が違えば、物事の決め方や善悪の感覚が異なることもあるだろう。
それでも、相手から止められていたのに大切な物へ勝手に触れ、それを壊し、悲しんでいる相手へ勝敗を理由に黙れと言うことまで、文化の一言で済ませることはできなかった。
「なら」
俺は二人を見る。
「僕が勝てば、ザノバへ謝ってもらえますか」
リニアの目が細くなり、プルセナも壁から身体を離した。
「二対一でいいの?」
「構いません」
「私たちが勝ったら?」
「これ以上、二人へ謝罪を求めません」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
本当は、勝敗など関係なく謝ってほしかった。
二人が俺より強かったとしても、ザノバの努力を笑っていい理由にはならない。
けれど、二人自身が「強い方が決める」と言った。
ならば、まずはその理屈の中で完全に負けてもらう。
何一つ言い訳できないほどに。
そして勝った後、力の差だけを見せて終わりにはせず、なぜ謝らなければならないのかを言葉で伝える。
戦うこと自体は、理解してもらうための入口にすぎない。
「ただし、研究室の外で戦います。これ以上、ここを壊したくありません」
リニアの口元が上がった。
「受けて立つニャ」
「ザノバよりは楽しめそうなの」
二人は、まだ笑っていた。
俺の胸では、怒りが静かに燃え続けている。
「ルーデウス様」
レイネに呼ばれ、振り返った。
「はい」
「どうか……」
レイネは言葉を慎重に選ぶように一度止まった。
「ご自身が後悔なさる方法だけは、お選びになりませんよう」
表情は依然として冷たい。
それでも、俺を心配していることは分かった。
レイネも怒っている。
もしかすると、今すぐ二人を殴りたいと思っているのかもしれない。
それでも、俺が怒りへ飲み込まれないように止めてくれている。
俺は一人だけで怒りを抑え込む必要はない。
道を逸れそうになったなら、レイネが呼び戻してくれる。
「分かっています」
俺は答えた。
「二人には、生きたまま理解してもらいます」
◇
決闘には大学の訓練場を使った。
騒ぎを聞きつけた学生たちが、遠巻きに俺たちを囲んでいる。
誰かが教師を呼びに行ったらしいが、今さら待つつもりはなかった。
訓練場の端では、治療を終えたザノバが座っている。
隣にはジュリがおり、買い物から戻ってきたジンジャーも、研究室の惨状と事情を聞いたらしく、怒りと心配が入り混じった顔でザノバのそばへ立っていた。
壊れた《ルード人形・第一号》は布へ包まれ、ザノバの膝の上へ置かれている。
レイネは、その少し後ろに立っていた。
俺へ戦い方を助言するつもりはないのだろう。
腕を身体の前で重ね、静かにこちらを見つめている。
表情は、まだ冷たい。
一方、リニアとプルセナは訓練場の中央で軽く身体を動かしていた。
ザノバとの戦いですでに多少の傷を負っているが、動きへ大きな影響が出るほどではないらしい。
「今なら、やめてもいいニャ」
リニアが言う。
「ザノバより丈夫には見えないニャ」
「後から泣いても知らないの」
俺は答えず、杖を構えた。
喉の奥が熱い。
胸の中には、何度も昨日のザノバの顔が浮かんでいた。
完成した人形を持ちながら、自分にも作れたのだと目を赤くしていた姿。
その直後に、今日見た破片が浮かぶ。
二つに割れた顔。
折れた鉢金。
そして、泣いていたジュリ。
無意識に魔力が膨らみかける。
怒りをそのまま魔力へ乗せれば、この二人を倒すことなど簡単だろう。
けれど俺は、二人を殺すためにここへ立っているのではない。
勝つためだ。
謝罪させるためであり、自分たちが何を壊したのか理解してもらうためだ。
杖を握る手へ力を込めすぎないよう、一度指を開いてから握り直す。
「始めるニャ!」
リニアが地面を蹴った。
速い。
一瞬、視界から消えたようにすら感じる。
同時にプルセナが反対側へ回り込んだ。
二人とも、ザノバを翻弄して倒しただけのことはある。
ただ正面から突撃してくるのではない。
こちらの注意を左右へ分け、一方が死角から攻撃するつもりだ。
俺は魔眼を使った。
少し先の未来が見える。
右からリニアが来て、左後方へプルセナが回る。
俺は無言のまま地面へ魔力を流した。
二人が踏み込もうとしていた場所が、同時に泥へ変わる。
「ニャッ!」
「泥なの!」
二人は足が沈み切る前に跳んだ。
リニアは近くの石柱を蹴り、空中で身体の向きを変える。プルセナも地面へ片手をつき、泥の範囲外へ自分の身体を投げ出した。
速い。
状況判断も早い。
ザノバに勝ったことは偶然ではない。
しかし、次にどこへ来るかは見えている。
俺は杖を右へ向け、圧縮した水を塊のまま放った。
リニアが身体を捻る。
完全には避け切れなかった。
水の塊が肩へ当たり、その身体が横へ大きく吹き飛ぶ。
「リニア!」
プルセナが地面を蹴った。
俺へ直接攻撃するためではない。
倒れたリニアを追撃させないよう、俺と彼女の間へ割り込むつもりなのだ。
その動きを見た瞬間、少しだけ頭が冷えた。
二人は、ただの悪人ではない。
互いを庇おうとしている。
自分たちの大切な相手が傷つけば、守ろうとすることは知っているのだ。
なら、ザノバにも同じように大切なものがあると理解することはできるはずだ。
俺はプルセナの足元から斜めに石柱を伸ばした。
腹へ直撃させるのではなく、進路を塞ぐためだ。
プルセナは腕を交差し、その石柱へ拳を叩き込んだ。
石が砕け散る。
その破片の向こうから、一気にプルセナが飛び込んできた。
「もらったの!」
拳が迫る。
魔眼には見えている。
半歩だけ身体を下げて拳を避け、そのまますれ違いざまに脇腹へ風を叩きつけた。
圧縮された空気が弾け、プルセナの身体が地面から浮き上がり、訓練場を何度も転がった。
少し、力を入れすぎた。
地面へ落ちた音を聞いた瞬間、胸が冷える。
今の一撃があと少し強ければ、肋骨を何本も折っていた可能性がある。
怒りを抑えているつもりでも、まだ魔術へ混ざっている。
「ルーデウス様」
レイネの声が聞こえた。
決して大きな声ではない。
それでも、はっきり耳へ届いた。
俺は一度、深く息を吸う。
振り返らなくても、呼びかけの意味は分かっている。
怒りへ飲まれるな。
怒ることと、何をしてもよいことは違う。
それこそ、今から俺がリニアたちへ伝えようとしていることだ。
ここで俺自身が怒りへ任せて二人を傷つけてしまえば、今まで口にした言葉の全てが嘘になる。
「大丈夫です」
誰へ聞かせるでもなく、小さく呟いた。
自分自身へ確認するためだった。
リニアが立ち上がった。
肩を押さえているが、目にはまだ戦意が残っている。
「よくもやったニャ!」
大きく息を吸った。
来る。
獣族の声帯魔術だ。
次の瞬間、空気が震えた。
身体が一瞬、強く硬直する。
耳から聞こえる音というより、全身へ直接叩きつけられるような衝撃だった。
その隙を狙い、立ち上がったプルセナとリニアが同時に走り込んでくる。
足は動かない。
だが、魔術は使える。
俺は自分を中心として、円形に大量の水を噴き上げた。
二人が水の壁へぶつかり、勢いを失う。
その瞬間、地面から何本もの土の帯を伸ばし、それぞれの手首と足首、腰へ巻きつけた。
「こんな物!」
リニアが爪を立て、土の帯を削っていく。
プルセナも力任せに拘束を引き千切ろうとしている。
長くは持たない。
俺は二人の顔の前へ、それぞれ一発ずつ石砲弾を形成した。
高速で回転させる。
空気が低く唸った。
リニアとプルセナの表情が変わる。
その石砲弾が、どれほどの威力を持っているのか。
獣族としての本能で理解したのだろう。
このまま顔へ撃ち込めば、二人とも死ぬ。
その光景を望みかける感情が、怒りの奥からほんの僅かに顔を出した。
痛い目を見ればいい。
ザノバが味わった喪失に比べれば、この程度の恐怖や痛みなど当然だ。
そんな考えが浮かんだ。
けれど、それは理解させることではない。
自分の苦しさを、相手の苦しさによって埋めようとしているだけだ。
俺は狙いをずらした。
石砲弾を撃つ。
二人の身体には当てず、それぞれの顔から少し離れた横を通過させた。
轟音が響く。
石砲弾が訓練場の地面へ突き刺さり、土砂を高く巻き上げた。
左右に大きな穴が二つ開く。
リニアとプルセナの耳は、完全に伏せられていた。
「まだ続けますか」
俺が尋ねる。
リニアは拘束を破ろうとする力を止めた。
プルセナも動かない。
「次は」
俺は二人を見る。
本当に当てるつもりはない。
その決意は変わっていない。
それでも、怒り自体が消えたわけではなかった。
「これほど離れた場所へは撃ちません」
自分の声が、僅かに震えた。
脅している。
それは分かっている。
今の俺は圧倒的な力を見せ、二人を恐怖によって従わせようとしている。
これが正しい教育なのかは分からない。
恐怖で頭を下げさせたところで、心から自分たちのしたことを理解したことにはならないかもしれない。
それでも、二人自身が力で決めると言った。
ならばまず、その価値観の中ですら完全に負けたと認めてもらう。
自分たちが持ち出した理屈からさえ逃げられなくしたうえで、改めて言葉で話す。
「降参するニャ」
リニアが言った。
「負けたの」
プルセナも、小さな声で続ける。
俺は石砲弾を消し、土の拘束も解いた。
二人はその場へ座り込んだ。
訓練場が静まり返る。
勝った。
けれど、胸の中に喜びはなかった。
二人を殺さずに済んだことへの安堵と、完全に怒りへ飲まれずに止まれたことへの僅かな安心。
感じられたのは、それだけだった。
◇
「立てますか」
俺が尋ねると、リニアはまだ俺を睨みながら立ち上がった。
プルセナも脇腹を押さえながら身体を起こす。
先ほどの風魔術が致命的な怪我を与えていないことを確認し、胸の奥で息を吐いた。
「約束です」
俺は言う。
「ザノバへ謝ってください」
二人はすぐには動かなかった。
それでも今度は拒まず、ゆっくりザノバの前へ歩いていく。
途中でレイネの横を通った瞬間、二人の身体が揃って強張った。
レイネは何もしていない。
ただ、あの冷たい表情で二人を見ているだけだ。
先ほど顔の横へ通した石砲弾より、そちらの方を恐れているのではないかと思うほどだった。
ザノバの前へ着く。
リニアは、布に包まれた人形の破片を見た。
その隣ではジュリが、まだ赤い目をしている。
しばらく何も言わなかった後、リニアが頭を下げた。
「悪かったニャ」
今度の声は、軽くなかった。
「触るなって言われたのに触った。投げたつもりはなかったけど、落として壊したニャ」
プルセナもリニアの隣で頭を下げる。
「ただの泥人形って言ったのも、悪かったの」
一度言葉が止まった。
「そんなに大切な物だとは、知らなかったの」
俺は二人の後ろから口を開いた。
「知らなかったことだけを怒っているのではありません」
二人がこちらを見る。
「誰にでも、知らないことはあります」
俺だって、ザノバが実際に人形作りへ取り組むまでは、生まれつきの怪力を持つ人間が細かな物を扱うためにどれほど苦労するのか、完全には理解していなかった。
隣で何度もの失敗を見て、手が震えるところを見て、ようやく知ったのだ。
知らないことそのものは、罪ではない。
「問題は、知らないまま価値がないと決めつけたことです」
持ち主が止めていたのに、自分の判断の方が正しいと思って手を出した。
さらに壊した後も、相手がなぜそこまで苦しんでいるのか理解しようとしなかった。
「知らないものを、価値がないと決めつけないでください」
床に人形が砕けていた光景を思い出すと、また胸が痛んだ。
「二人にとっては、土を固めただけの物だったのかもしれません」
俺はザノバを見る。
「ですが、ザノバにとっては違います。初めて作れた一体です。何度失敗しても諦めず、ようやく完成させた物です」
「……知らなかったニャ」
リニアが繰り返した。
「はい」
「知ってたら、触らなかったニャ」
その言葉が本心なのか、まだ完全には分からない。
それでも最初のように開き直った声ではなかった。
少なくとも、自分たちの知らなかったものが存在したということへ、少しは意識が向いている。
今この瞬間だけで、全てを理解する必要はない。
これから行動の中で知っていけばいい。
「ザノバ」
俺は尋ねた。
「二人の謝罪を、受け入れられますか」
ザノバは長い間答えなかった。
謝られたからといって、壊れた人形が戻ってくるわけではない。
傷つけられた気持ちだって、すぐには消えない。
だから、謝罪されたのだから許すべきだと、俺が決めることでもなかった。
やがてザノバが顔を上げる。
「謝罪は受け取る」
リニアとプルセナの顔が僅かに緩んだ。
「しかし、今すぐ許せるとは申せぬ」
二人の表情が止まる。
「同じ物を作ればよいと言われたが、同じ物は作れぬ。次にどれほど優れた一体を作れたとしても、これは余が初めて完成させた人形である」
ザノバの指が、布の上へ静かに置かれた。
「これが戻らぬことを、余は忘れぬ」
俺は、それでよいと思った。
謝罪を受け入れることと、すぐに相手を許すことは別だ。
今は許せないと思う自分まで、無理に悪いものとして扱う必要はない。
失ったものの重さを認めたうえで、それでもこれから先にどう関わっていくのかを考えればいい。
「……分かったニャ」
リニアは、もう言い返さなかった。
プルセナも耳を伏せたまま頷く。
「材料のお金は払うの」
「それだけでは足りません」
レイネが言った。
二人の身体が、目に見えてびくりと震える。
レイネは静かに歩み寄った。
「次の人形が完成するまで、二人には制作を手伝っていただきます」
「私たちが作るの?」
「いいえ」
レイネの視線がプルセナを捉える。
「ザノバ様が制作するために必要な材料を運び、作業場を整え、失敗した後の片づけを行っていただきます」
「それだけでいいニャ?」
リニアが尋ねる。
「簡単だと思われますか」
レイネの顔は、まだ冷たかった。
「何度失敗するのか、どれほどの時間を費やすのか、最後までそばでご覧なさい」
金を払うだけで済ませれば、二人にとって大きな負担にはならないかもしれない。
しかしザノバが実際に人形を作る姿を最初から最後まで見れば、一体の人形が完成するまでにどれほどの時間と失敗が必要なのかを知ることができる。
自分たちが壊したものの重さを、言葉だけではなく経験によって理解する。
戦いの最中に俺が考えていたことを、レイネはすでに具体的な形へしていた。
リニアとプルセナは一度互いの顔を見てから、ザノバへ向き直った。
「手伝うニャ」
「逃げずにやるの」
ザノバも少し考えた後で頷いた。
「ならば、次の一体が完成するまで付き合ってもらう」
「分かったニャ」
「了解なの」
ひとまず、これで終わった。
俺の怒りが完全に消えたわけではない。
人形だって戻ってこない。
それでも、二人を傷つけるだけで全てを終わらせず、次へつながる形にすることはできた。
そう思った直後、リニアが俺へ向き直り、少し姿勢を低くした。
「それと」
「何ですか?」
「あたしたちを倒したからには、あんたが上だニャ」
「上?」
「ボスなの」
プルセナも当然のように言う。
「強いやつに従うのが獣族なの」
「配下にしたつもりはありません」
「でも負けたニャ」
「謝罪してもらうために戦っただけです」
「理由は関係ないニャ」
先ほどまで挑発するように俺を見ていたリニアの目が、今は明確に自分より上の存在へ向けるものへ変わっていた。
多少の不満は残っているらしい。
それでも、戦った理由も謝罪を求めた経緯も、彼女たちの中では最終的な勝敗という結果へ全部吸収されてしまったらしい。
「これからよろしく頼むニャ、ボス」
「よろしくなの、ボス」
「その呼び方はやめてください」
二人から返事はなかった。
おそらく、やめるつもりはないのだろう。
◇
騒ぎは、その日のうちに大学中へ広がった。
ザノバ王子が獣族の特別生二人へ敗れ、その二人を俺が一人で圧倒した。
人形が壊されたことや、俺が謝罪を求めて決闘したという経緯は、噂が人から人へ伝わる途中でほとんど消えていった。
翌日には、俺が獣族の二人を半殺しにして配下へ加えたという話にまで変わっている。
さらに、レイネが二人を睨みつけただけで獣族としての本能を屈服させた、などという話まで加わっていた。
その部分については、完全な間違いとも言い切れない気がした。
家へ帰る途中、俺はレイネと並んで歩いていた。
シルフィはまだアリエル王女の護衛についている。
帰宅したら、今日あったことを全て話さなければならない。
黙っていれば、俺の口から伝えるより先に大学の噂としてシルフィの耳へ入ってしまうかもしれない。
それに、心配を掛けたくないからと都合の悪いことだけ隠せば、それはシルフィを信頼していないことにもなりかねない。
リニアとプルセナへ決闘を挑んだこと。
怒りに任せ、本当に二人を傷つけそうになったこと。
そしてレイネに止められたこと。
自分に都合の悪いところまで含め、話すべきだろう。
「レイネ」
「はい」
呼ぶと、レイネが俺を見る。
研究室で見せていた冷たい表情はもう消え、いつもの落ち着いた顔へ戻っている。
「今日は、本当に怒っていましたね」
「そのように見えましたでしょうか」
「一目で分かりました。今まで見たことがない顔でした」
レイネは少しだけ視線を伏せた。
「お見苦しいところを」
「見苦しくはありません」
俺はすぐに否定した。
怖かったことは事実だ。
俺でさえ一瞬、声を掛けることを躊躇った。
それでも、嫌だとは思わなかった。
むしろレイネもあの人形を大切に思い、ザノバがそこへ積み上げてきた時間を俺と同じように見ていたことへ、少しだけ救われていた。
自分一人だけが、必要以上に怒っているわけではなかった。
レイネも同じものを大切に思い、同じことを許せないと感じていたのだ。
「僕も、あの人形が壊されたことへ腹が立ちました」
俺は言った。
「ですが、それ以上に……」
言葉が途中で止まる。
俺が何へ最も怒っていたのか、自分でもまだ完全には整理できていない。
「努力を笑われたことですか」
レイネが尋ねた。
「……そうだと思います」
ザノバがどれだけ努力したのかを、二人は知らなかった。
そのうえで、知らないまま価値がないと判断した。
俺は前世で、努力することができなかった。
一度失敗した後に続けることができなかった。
ただ、今となっては、それだけが俺を怒らせた理由ではない気がする。
今の俺には、失敗した時に手を伸ばしてくれる人がいる。
一人でできないなら誰かへ頼ってもよいのだと、ようやく考えられるようになった。
ザノバだって、俺やジュリの助けを受けていた。
それでも最後には、自分の手で人形を完成させた。
俺が尊敬したのは、ただ諦めなかったことだけではない。
助けを受け入れ、失敗した自分を恥じるだけで終わらず、それでも次の粘土へ手を伸ばしたことだ。
「続けた人間の時間が、何も知らないまま軽く扱われたことへ、怒ったのだと思います」
「はい」
レイネが静かに頷く。
「ただ……」
俺は自分の手を見た。
戦いの中で、その手から放った魔術を思い返す。
リニアとプルセナの顔のすぐ横を通り過ぎた石砲弾。
「戦っている途中で、二人を本当に傷つけたくなりました」
顔へ石砲弾を撃ち込みたいと思った。
水の塊へさらに魔力を込め、もっと痛い思いをさせたいとも思った。
負けを認めさせるだけでは足りないと、一瞬でも考えた。
「僕は、自分の怒りを正しいものだと思って、何をしてもいいと考えかけました」
怒りそのものまで間違っているとは思っていない。
ザノバのために怒った。
人形へ込められた時間を軽く扱われたことにも怒った。
それでも、正しい理由から生まれた感情が、必ず正しい行動だけを選ばせてくれるわけではない。
もし途中で止まれなかったなら、リニアとプルセナは今頃、大学の中を歩いていなかったかもしれない。
レイネはすぐには答えなかった。
俺たち二人の足音だけが、夕方の道へ響く。
「ですが」
やがてレイネが口を開いた。
「ルーデウス様は、お止めになりました」
「レイネが呼んでくれたからです」
「呼びかけたのは私でございますが、力を止めたのはルーデウス様です」
レイネは前を向いたまま続ける。
「怒りを抱いたことと、その怒りのまま相手を壊すことは、同じではございません」
その言葉を聞くと、僅かに呼吸が楽になった。
怒らなかったことにする必要はない。
二人を傷つけたいと感じた自分を、存在しなかったことにする必要もない。
大切なのは、その感情を抱えたうえで、実際にどの行動を選んだかだ。
一人だけで完璧に制御できたわけでもない。
レイネの声があり、ザノバやジュリが見ていた。
その全てに支えられたから、俺は止まることができた。
なら次に同じようなことが起きた時も、一人で全てを耐えようとせず、誰かの声を聞けばいいのかもしれない。
「レイネも、二人を殴りたかったですか?」
俺が尋ねると、レイネの足がほんの一瞬だけ止まりかけた。
「……はい」
正直な答えだった。
思わず、僅かに笑ってしまう。
「笑うところではございません」
「すみません」
「私は真剣に申し上げております」
「分かっています」
俺は笑みを収めた。
「でも、少し安心しました」
「安心、でございますか?」
「レイネも、僕と同じように怒るのだと思って」
レイネがこちらを見る。
「私にも感情はございます」
「はい」
「昔よりは、隠さないよう努めております」
「今日のものは、少し隠さなさすぎた気もします」
「……申し訳ございません」
「謝らなくてよいです」
俺は首を横へ振った。
レイネが自分の感情を表へ出したことを、失敗として扱ってほしくなかった。
あの怒りは、ザノバと人形を大切に思ったからこそ生まれたものだ。
「ただ、次に同じ顔をする時は、先に教えてください」
「なぜでございますか」
「心の準備が必要です」
レイネは少しだけ困った顔をした。
その表情を見たところで、ようやく今日一日ずっと胸の中へ張りつめていたものが緩んでいった。
人形は壊れた。
謝罪されても、決闘へ勝っても、それだけは元には戻らない。
ザノバが味わった喪失だって、すぐに消えることはない。
それでも、リニアとプルセナにはこれから見てもらうことができる。
ザノバが次の一体を作るまで、どれだけ失敗し、どれほど時間を使い、それでも何度土へ手を伸ばすのか。
その全てをそばで見て、自分たちが壊したものの重さを少しずつ理解してもらう。
謝罪だけを強制して終わるのではない。
ザノバも、リニアも、プルセナも、今日の出来事を抱えたまま次へ進めばいい。
俺だって同じだ。
怒りへ飲まれかけたことを忘れない。
だからといって、最後には止まることができた自分まで否定する必要もない。
次に同じような状況へ立ったなら、今日よりほんの少しだけよい選択をすればいい。
そして俺が獣族の特別生二人を一人で倒したという噂は、大学の外へまで少しずつ広まり始めていた。
やがて、その話は一人の男――魔王を名乗る者の耳にも届くことになる。
この時の俺は、まだそのことを知らなかった。