ルーデウス視点
翌日の昼休み、俺が書庫へ向かって廊下を歩いていると、背後から聞き覚えのある大声が飛んできた。
「ルーデウス!」
振り返れば、クリフ先輩がこちらへ早足で近づいてくるところだった。
普段から胸を張って歩く人ではあるが、今日は妙に足が速い。俺の前まで来ると、一度だけ周囲へ目を走らせ、それから少し声を落とした。
「今、時間はあるか?」
「書庫へ行く予定でしたが、急ぎではありません」
昨日、召喚魔術を研究している特別生との面会を申請したばかりだ。返事が来るまでは関連資料を読むつもりだったものの、クリフ先輩の様子を見る限り、こちらを先にした方がよさそうだった。
「できれば、人に聞かれない場所がいい」
「分かりました」
魔術研究の話なら、ここまで人目を気にすることはない。
俺たちは講義棟の裏へ移動した。建物の陰には薄く雪が残っていたので、俺が土魔術で足元だけ平らにする。
クリフ先輩は立ったまま腕を組んだ。
ところが、そこから先が出てこない。
「何か問題でも?」
「問題ではない」
「研究についてですか?」
「それも違う」
「では?」
クリフ先輩は俺を見ると、一度口を閉じた。
自分は天才だと堂々と言い、自分の意見なら相手も聞く価値があると本気で信じている人だ。そんなクリフ先輩が、ここまで言い出すことを躊躇している。
それだけでも相当珍しい。
やがて彼は意を決したように口を開いた。
「君は、エリナリーゼ・ドラゴンロードと親しいんだろう?」
「エリナリーゼさんですか?」
予想していなかった名前だった。
「親しい方だと思います。北方で合流してから、大学へ来るまで一緒に旅をしていました」
「やはりそうか!」
急に声が大きくなった。
本人も気づいたらしく、また周囲を見回してから俺へ顔を寄せる。
「なら、僕を紹介してほしい」
「……エリナリーゼさんに?」
「ほかに誰がいる!」
耳まで赤くなっている。
ここまで来れば、さすがに分かった。
「エリナリーゼさんを好きになったんですか?」
「そうだ」
今度は即答だった。
一度口にしてしまえば隠すつもりはないらしい。
「昨日、食堂で初めて見た」
「昨日?」
「ああ。あんなに美しい女性は初めて見た」
一目惚れ。
実に分かりやすい。
「それで、その後に彼女のことを好き勝手に言っている連中がいた。男を取っ替え引っ替えしているだの、節操がないだのな」
嫌な予感がする。
「それで?」
「根拠もなく女性を侮辱するなと言ってやった」
俺はクリフ先輩の右手を見る。
拳のあたりが、わずかに赤い。
「口で?」
「……途中までは」
「殴ったんですか?」
「向こうも殴ってきた!」
やっぱりか。
「相手は何人です?」
「六人」
「六人?」
「僕が勝った。問題ない」
そこを心配しているわけではない。
どうやら昨日のうちに、俺の知らない場所でかなり物理的な議論を済ませていたらしい。
「エリナリーゼさんについて聞いた話が、全部嘘だと思っているんですか?」
「悪意を持って噂している連中の言葉を、そのまま事実だと信じるほど僕は馬鹿ではない」
思っていたよりは冷静だった。
「本当かどうかは本人へ聞けばいい。だから紹介してほしい」
乱暴ではある。
けれど、いかにもクリフ先輩らしい。
俺は少し考えた。
エリナリーゼが多くの男性と関係を持っていることは知っている。
北方からここへ来るまでにも、町へ着けば一人で夜へ出ていくことがあった。
レイネは旅の途中で、彼女の魔力の流れに妙な乱れがあることへ気づいていた。
ただ、エリナリーゼ本人が詳しく話すことを望んでいないと分かってからは、レイネもそれ以上踏み込んでいない。俺も、本人が自分で対処できているなら無理に聞く必要はないと思っていた。
「紹介すること自体はできます」
「本当か!」
「ただし、会うかどうかはエリナリーゼさんが決めます」
「当然だ」
「断られた場合は?」
「理由は聞きたい」
「本人が理由まで話したくないと言ったら?」
クリフ先輩が眉間へ皺を寄せた。
納得できないのだろう。
原因があるなら知りたい。
問題があるなら改善したい。
研究なら正しい姿勢だ。
けれど、人間関係はそう単純ではない。
しばらく考えた後、クリフ先輩は渋々頷いた。
「……本人がそう言うなら、仕方ない」
「分かりました」
「今日か?」
「見つけられれば」
「頼んだぞ!」
俺の肩を叩き、クリフ先輩は来た時より速い足取りで戻っていった。
ずいぶんと忙しい恋だ。
ただ、あそこまで真っ直ぐ誰かへ惹かれ、その日のうちに喧嘩までして、翌日には紹介を頼みに来る行動力には少し驚く。
俺なら、もっと考えていただろう。
実際、レイネへの感情を自覚してから本人へ伝えるまで、かなり時間が掛かった。
エリスとの約束があり、シルフィへの気持ちもあった。自分の望みをそのまま口にすれば誰かを傷つけるのではないかと考えていた。
今も全部が綺麗に片づいたわけではない。
エリスへ送った結婚報告の返事は届いていないし、俺たちが選んだ関係を彼女がどう受け止めるのかも分からない。
それでも、自分一人で相手の答えまで決めてしまうのは違う。
だから今回、俺がするのはクリフ先輩の気持ちを伝えるところまでだ。
その先は、エリナリーゼ自身が決めればいい。
◇
エリナリーゼを見つけたのは、午後の講義が終わってからだった。
中庭で女子学生二人と話していたので、少し離れた場所で待つ。
ほどなく俺へ気づいたエリナリーゼは、二人との会話を終えるとこちらへ歩いてきた。
「何か御用?」
「少し話があります」
「あら、珍しいですわね。あなたの方から待っているなんて」
俺は単刀直入に切り出した。
「クリフ・グリモル先輩をご存じですか?」
「名前だけなら。魔術の天才を名乗っている、小柄な男の子でしょう?」
「名乗っているだけではなく、実際かなり優秀ですよ」
「本人へ聞かせてあげたい言葉ですわね」
エリナリーゼが楽しそうに笑う。
「そのクリフ先輩が、エリナリーゼさんを紹介してほしいと言っています」
笑顔がほんの一瞬だけ止まった。
「わたくしを?」
「はい」
「何のために?」
「一目惚れしたそうです」
「まあ」
今度は本当に驚いたらしい。
口元へ指を当てて、小さく笑った。
「随分と若い方から見初められたものですわね」
「本人はかなり本気みたいですよ」
「そう」
エリナリーゼは少し考えた。
「わたくしについて、どれくらい知っていて?」
「昨日初めて見たそうです」
「では、ほとんど何も知らないのね」
「妙な噂を聞いたそうですが、話していた相手六人と喧嘩して勝ったそうです」
エリナリーゼの眉が上がる。
「どうして、その情報まで付いてきますの?」
「かなり印象に残ったので」
「そうでしょうね」
呆れたように額へ指を当てた。
少し笑った後、エリナリーゼは俺から視線を外す。
「断っておいてちょうだい」
「分かりました」
俺はそれ以上聞かなかった。
クリフ先輩には悪いが、本人が会いたくないと言っている。
なら、ここで終わりだ。
「では、そのように伝えます」
軽く頭を下げ、その場を離れようとした。
「ルーデウス君」
呼び止められる。
振り返る。
エリナリーゼは少し困ったような表情をしていた。
「本当に、何も聞かないの?」
「断る理由を僕へ説明する必要はないでしょう?」
「……そうね」
「クリフ先輩にも、会うつもりはないとだけ伝えます」
「ええ。そうしてちょうだい」
今度こそ歩き出す。
しかし、数歩進んだところで、もう一度声が飛んできた。
「待って」
また振り返った。
エリナリーゼは、自分でも迷っているようだった。
しばらく何も言わない。
やがて周囲を確認する。
「少し、人のいない場所へ行きましょう」
「いいんですか?」
「あなたには、話しておいた方がいいのかもしれませんわ」
俺から聞き出したわけではない。
本人がそう決めたのなら、聞こう。
◇
大学の外れにある小さな訓練棟へ入った。
授業では使われていない時間らしく、人の姿はない。
エリナリーゼは扉を閉めると、隣室にも誰もいないことを確かめてから俺へ向き直った。
「先に約束して」
「はい」
「今から話すことを、わたくしの許可なく誰かへ話さないで。シルフィにも、レイネにも」
「分かりました」
家族だからといって、友人から預かった秘密を勝手に共有していいわけではない。
俺の返事を聞いたエリナリーゼは、一度息を吐いた。
「わたくしには、呪いがありますの」
「呪い?」
思わず聞き返した。
男性関係が多いことに何か事情がある可能性は考えたこともあった。
けれど、呪いだとは思わなかった。
「身体の中に、特殊な魔力が溜まり続ける呪いですわ」
エリナリーゼは自分の腹部へ手を置いた。
「普通に魔術へ使う魔力とは少し違いますの。放っておけば体内へ溜まり、具合が悪くなる。さらに長くそのままにすれば、まともに動けなくなりますわ」
「魔術を使って減らすことは?」
「できませんの。治癒魔術も解毒魔術も、薬も魔道具も色々試しましたけれど、根本的には変わりませんでしたわ」
旅の途中で、何度かエリナリーゼの顔色が悪かったことを思い出す。
夜になると一人で外へ出掛け、翌朝には何事もなかったように戻ってきていた。
「排出する方法はあるんですね」
「ええ」
エリナリーゼが少しだけ笑う。
普段の、男性とのやり取りに慣れた彼女らしい笑みに近かった。
「男性と身体を重ねることですの」
そこで、今まで見てきた行動がつながった。
「それで……」
「ええ。生きるためですわ」
淡々とした声だった。
「もちろん、どうせ必要なら自分が好ましいと思える男性を選びますわ。今まで関係を持った相手を、全員嫌っていたわけでもありませんのよ」
「どうして、それで魔力を排出できるんです?」
「詳しい仕組みまでは、わたくしにも分かりませんわ」
少し考えてから続けた。
「男性の精を身体へ受けると、それをきっかけに、体内へ溜まった魔力が結晶になりますの」
「結晶?」
「魔力結晶ですわ。それが身体から出れば、しばらくは症状が軽くなりますの」
「実物もあるんですか?」
「次にできたものなら、お見せできますわ。小さいものですけれど、魔力結晶として利用できますのよ」
そんな仕組みだったのか。
男と関係を持つ。
それだけを見れば、エリナリーゼ自身が望んで選んでいる生活だと思っていた。
実際、その部分が全部嘘だったわけではないのだろう。
相手を選び、楽しんできた部分もある。
けれど、「誰とも関係を持たない」という選択だけは最初から存在していなかった。
長く拒めば体調を崩し、最後には命に関わる。
「それで、クリフ先輩を断ったんですね」
「本気の相手は困りますの」
エリナリーゼが壁へ背中を預ける。
「一夜だけなら、わたくしも相手も割り切れますわ。でも恋人になって、それからわたくしが別の男性を必要としたら?」
答えられない。
「最初は呪いだから仕方ないと言ってくれるかもしれない。でも、本当にそれが続いても、同じことを言えるとは限らないでしょう?」
「そうですね」
嘘はつけなかった。
事情を理解することと、嫉妬を感じないことは別だ。
俺自身、レイネへ告白する男子学生を見るだけでも落ち着かなくなる。
もしレイネが、生きるために別の男性と関係を持たなければならない身体だったら。
必要なことだと頭で理解していても、何も感じないと言い切れる自信はない。
「だから、最初から本気の相手は避けることにしていますの」
エリナリーゼが言う。
「クリフ先輩が嫌いだからではないんですね」
「顔もまともに見たことがない方を嫌いにはなれませんわ」
口元へ少し笑みが戻る。
「むしろ、わたくしの悪口へ腹を立てて六人と喧嘩したという話には、少し興味がありますけれど」
「では、会いますか?」
エリナリーゼが俺を見る。
俺はすぐに続ける。
「会いたくないなら、断ったと伝えます。それで終わりです」
しばらく沈黙が続いた。
俺は待つ。
今度は何も言わない。
やがて、エリナリーゼが小さく息を吐いた。
「……一度だけ、話してみましょうか」
「いいんですか?」
「ただし、最初から事情を話しますわ」
「呪いのことを?」
「何も知らないまま本気になられても困りますもの。話した途端に逃げるなら、その方がお互いに楽でしょう?」
冗談めかした口調だった。
それでも、片方の手がもう片方の腕を少し強く掴んでいるのが見えた。
「それから、最初はあなたも一緒にいて」
「僕もですか?」
「初対面の男性へ、自分が定期的に男を必要とする女だと話すのですわよ?」
確かに。
「分かりました」
「途中で二人きりにしてほしくなったら、その時に言いますわ」
「はい」
エリナリーゼはようやく、少しだけ普段どおりの笑顔へ戻った。
◇
放課後。
空いている談話室を借りた。
クリフ先輩は約束した時間よりかなり早く到着していた。
髪はいつもより丁寧に整えられ、制服にも目立った皺がない。
「遅かったな」
「まだ約束の時間より早いですよ」
「僕は三十分前から待っている」
「そうですか」
それは自慢にはならない。
「それと、最初は僕も同席します」
「なぜだ?」
「エリナリーゼさん本人の希望です」
「……なら仕方ない」
不満そうではあるものの、反対はしなかった。
「もう一つ。今日聞いたことは、エリナリーゼさんの許可なく誰にも話さないでください」
クリフ先輩の顔から緩みが消えた。
「分かった」
理由も聞かなかった。
ほどなくして扉が開く。
エリナリーゼが入ってきた。
服装も、口元へ浮かべた笑みも普段と変わらない。
ただ、扉を閉じた後で片手を一度握り直した。
少なくとも、まったく緊張していないわけではないように見えた。
クリフ先輩が勢いよく立ち上がった。
椅子が床を擦り、大きな音を立てる。
「君が、クリフ・グリモル?」
「はい!」
声が裏返った。
エリナリーゼが少し目を丸くした。
「わたくしは、エリナリーゼ・ドラゴンロードですわ」
「知っています!」
「そう」
「昨日、食堂で見ました!」
「それも聞いておりますわ」
「美しいと思いました!」
速い。
「それから、あなたについて酷いことを言っている連中がいたので――」
「六人と喧嘩をした?」
クリフ先輩が固まった。
俺を見る。
言いました。
「……そうです」
「どうして、わたくしのために?」
「あなたのことをろくに知らない連中が、好き勝手に悪く言っていたからです」
「あなたも、わたくしのことをほとんど知らないでしょう?」
クリフ先輩の口が止まる。
それでも、すぐに答えた。
「だから知りたいんです」
真っ直ぐだった。
「僕はあなたに一目惚れしました。僕と付き合ってください!」
会話を始めて数分。
やはりクリフ先輩だった。
エリナリーゼが何度か瞬きをする。
「あなた、随分と気が早いのね」
「無駄に待つ必要はありません」
「わたくしが、あなたの思っているような女ではなかったら?」
「知ってから考えます!」
自信満々だ。
エリナリーゼが、ほんの少し困ったように俺へ視線を向ける。
俺は何も言わない。
ここからは二人の話だ。
エリナリーゼはクリフ先輩へ向き直った。
「では、知っていただきましょう」
表情から笑みが薄くなる。
「わたくしには、呪いがありますの」
クリフ先輩の顔つきが変わった。
エリナリーゼは俺へ説明した内容を、最初から話していく。
身体へ特殊な魔力が蓄積すること。
通常の魔術では消費できないこと。
長く放置すれば身体を壊すこと。
男性の精を受けることで、溜まった魔力が魔力結晶へ変化し、それを体外へ出すことで症状を抑えていること。
そして最後に、
「ですから、もしあなたと付き合ったとしても、呪いが治らない限り、わたくしは別の男性を必要とする可能性がありますわ」
と告げた。
クリフ先輩は黙った。
先ほどまで赤かった顔から、赤みが消えている。
さすがに衝撃だったのだろう。
エリナリーゼは急かさなかった。
「驚いたでしょう?」
「……はい」
「嫌になった?」
「嫌です」
即答。
エリナリーゼの表情が少し硬くなる。
けれど、クリフ先輩はそのまま続けた。
「あなたが、ほかの男と寝るのは嫌です」
拳を握る。
「僕はミリス教徒です。一人の女性を愛するなら、その女性にも自分一人を見てもらいたいと思っています。だから、嫌です」
エリナリーゼは黙って聞いている。
「なら――」
「ですが!」
クリフ先輩が言葉を重ねる。
「僕が嫌だからという理由で、あなたへ死ねとは言えません!」
声が談話室へ響いた。
「生きるために必要なら仕方ない。僕が嫌だと思うことと、あなたが生きるために必要なことは別です!」
不器用ではある。
けれど、誤魔化していない。
嫉妬しないふりもしない。
嫌なものは嫌だと言ったうえで、その感情を理由にエリナリーゼの命へ条件を付けなかった。
「それで、あなたはどうしますの?」
「決まっています」
クリフ先輩が胸を張る。
「その呪いを僕が治します!」
エリナリーゼの目が大きく開いた。
「……簡単に言わないで」
「簡単ではありません」
「わたくしは長くこの身体で生きていますの。色々な方法を試して、それでも治らなかったから今もこうしているのよ」
「それがどうしたんです?」
クリフ先輩はまったく怯まなかった。
「その方法を試した人間全員が僕より優秀だったという証拠はありません!」
ものすごい自信だ。
「僕は天才です。まだ何が起きているのか調べてもいないのに、治らないと決める理由はない!」
「本当に、自信家ですのね」
エリナリーゼの口元が少し揺れた。
呆れているのか、笑いそうなのかは分からない。
「治らなかったら?」
「別の方法を考えます」
「それでも駄目なら?」
「また考えます」
「何年掛かるか分かりませんわよ」
「なら何年でも研究します!」
即答。
「あなたが、わたくしを嫌いになったら?」
そこで初めて、クリフ先輩の勢いが少し止まった。
「それは……」
考える。
「その時にならなければ分かりません」
「正直ですこと」
「嘘を言っても仕方ないでしょう」
「それでも今は?」
「好きです!」
「会ったばかりですわよ」
「一目惚れに時間は関係ありません!」
そこまで堂々と言われると、もはや清々しい。
エリナリーゼはしばらくクリフ先輩を見つめていた。
やがて、小さく笑った。
「食事くらいなら、一度付き合って差し上げますわ」
クリフ先輩の目が見開かれる。
「本当ですか!」
「恋人になったとは言っておりません」
「分かっています!」
返事が速い。
おそらく半分くらいしか分かっていない。
「まずは互いのことを知りましょう」
「はい!」
クリフ先輩は今にも飛び上がりそうだった。
俺の役目は、ここまででよさそうだ。
ところが、エリナリーゼが俺を見る。
「ルーデウス君」
「はい」
「レイネにも、この話をしていいかしら」
「僕に許可を求めることではないと思います」
「そうね」
少し笑う。
「わたくしから話しますわ」
クリフ先輩が首を傾げる。
「なぜレイネに?」
「旅の途中で、わたくしの魔力がおかしいことには気づいていたからですわ」
「彼女が?」
「はい」
俺が答える。
「レイネは治癒魔術だけでなく、魔力の流れを見るのも得意です」
その瞬間、クリフ先輩の顔が恋をしている男から研究者へ切り替わった。
「なら協力してもらおう」
「勝手に決めないでください」
「なぜだ?」
「本人へ聞いてください」
「……そうだったな」
今日だけで何度このやり取りをするのだろう。
◇
レイネを見つけたのは、治癒魔術実習室だった。
授業は終わっており、使用された道具と薬品の数を確認している。
「レイネ」
エリナリーゼに呼ばれ、レイネが顔を上げた。
俺、エリナリーゼ、クリフ先輩の三人が一緒にいるのを見ると、少しだけ首を傾げる。
「何かございましたか?」
「相談したいことがありますの」
「私へ、でございますか?」
「ええ。人に聞かれない方がいいわ」
レイネはすぐに奥の準備室を指した。
「でしたら、こちらへどうぞ」
四人で中へ入り、扉を閉める。
エリナリーゼは、まずレイネへ向き直った。
「今から話すことは、シルフィにも、ほかの誰にも話さないでほしいの」
レイネはすぐには約束しなかった。
「命へ危険が生じ、私どもだけでは対処できなくなった場合を除いて、ということでよろしいでしょうか」
「その時は、できるだけ先にわたくしへ相談して」
「承知いたしました」
それで話はまとまった。
エリナリーゼは自分の呪いについて説明を始める。
俺とクリフ先輩へ話した内容と同じだ。
レイネは途中で口を挟まなかった。
ただし、魔力結晶の話が出た時に、赤い瞳がわずかに細くなった。
説明が終わる。
「……以上ですわ」
エリナリーゼが、レイネの表情を窺う。
「軽蔑した?」
「いいえ」
即答だった。
「まったく」
エリナリーゼの肩から、わずかに力が抜ける。
「ですが」
レイネが続ける。
「もっと早くご相談いただきたかったとは感じております」
「怒っているの?」
「少しだけ」
俺も少し驚いた。
レイネが、自分から怒っていると明確に口にしたからだ。
「北方からこちらへ向かう旅の最中にも、何度か魔力の乱れを感じておりました」
「やっぱり分かっていたのね」
「はい。ただ、エリナリーゼご自身が対処方法をお持ちで、詳細をお話しになることを望んでいないと判断したため、それ以上は伺いませんでした」
「それでよかったのよ」
「詳しい事情を知った今となっては、そのまま申し上げることは難しくなりました」
レイネはエリナリーゼを見る。
「初めて訪れた町でも、お一人で男性を探しに出られていたのでしょう?」
「そういう夜もありましたわね」
「危険でございます」
「冒険者として自分の身くらい守れますわ」
「強さの問題だけではございません」
声を荒らげてはいない。
ただ、譲る気もなさそうだ。
「何でもお話しいただきたいとは申しません」
レイネは少し間を置く。
「ですが、私はエリナリーゼの友人であると考えております。命へ関わることで、本当にお一人では難しいと感じた時くらいは、相談していただければ嬉しく思います」
普段のように敬称を付けなかった。
それをどういう意図で選んだのかは、俺には分からない。
ただ、エリナリーゼの表情が少し和らいだ。
「そうね」
小さく笑う。
「次からは、少しくらい頼らせてもらいますわ」
「はい」
レイネも僅かに微笑んだ。
そこで、待ちきれなくなったクリフ先輩が一歩前へ出る。
「レイネ。僕はこの呪いを治す」
「治療方法がお分かりになったのでございますか?」
「まだだ」
「では、治療可能であることも確認できておりませんね」
「今から確認する!」
「承知いたしました」
レイネはまったく動じない。
「君にも協力してほしい」
レイネはまずエリナリーゼへ視線を向けた。
「エリナリーゼご自身は、調べることを望んでおられますか?」
「ええ」
「承知いたしました。でしたら、私も協力いたします」
クリフ先輩の顔が明るくなる。
レイネはそのままエリナリーゼへ問いかけた。
「一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「何かしら?」
「症状の原因となっているものは、確かに魔力なのでございますね?」
「少なくとも、そう聞いておりますわ。魔力結晶になるくらいですもの」
レイネが少し考え込んだ。
そして、思いもよらないことを口にした。
「でしたら、体外へ移すことができる可能性がございます」
「体外へ?」
俺が聞き返した。
レイネは俺を見る。
「はい」
「魔力を、ですか?」
「はい。人から人へ、魔力そのものを受け渡す方法がございます」
「そんなことができるんですか?」
これは初耳だった。
単純に自分の魔力を魔術として放つことや、魔道具へ込めることなら知っている。
しかし、人間の体内にある魔力を、別の人間へ直接移すという話は聞いたことがない。
クリフ先輩も同じだったらしい。
「どういう術だ?」
「一般的な魔術とは少し異なります。魔力循環を接続し、双方の魔力を一つの流れとして扱う技術でございます」
「どこでそんなものを覚えたんです?」
俺が聞く。
レイネは少しだけ間を置いた。
「オルステッド様との訓練中に作りました」
「……オルステッドと?」
思わず声が低くなった。
あの男の名前が出てくるとは思わなかった。
「はい」
レイネは自分の手を見る。
「私の魔力は、消費した後の回復に非常に長い時間を必要といたします。短時間の訓練であれば問題ございませんが、高出力の魔術や闘気を繰り返し使用すると、自然回復だけでは訓練を継続できなくなります」
そこは知っている。
レイネの魔力量そのものは非常に多い。
けれど、一度使った魔力が戻るまでが極端に長い。
「その問題をどうにかするため、オルステッド様から魔力を分けていただく方法を作りました」
クリフ先輩の目が輝く。
「つまり、オルステッドから君へ魔力を直接流していたのか?」
「はい。ただし、そのまま無理に流し込めば、受け手の魔力循環へ負担を掛けます。そのため、双方の流れを合わせ、少しずつ受け渡せるよう調整しております」
俺は思わず尋ねた。
「それ、誰にでも使えるんです?」
「双方が協力できるのであれば、理論上は可能でございます。ただ、魔力量や循環の性質によって調整は必要です」
「敵から勝手に吸い取るようなことは?」
クリフ先輩が聞く。
「できないわけではない、と申し上げたいところですが、現実的ではございません」
レイネは即答する。
「相手が抵抗している状態で無理に循環へ接続すれば、こちらにも危険がございます。少なくとも戦闘で使用するために作った技術ではございません」
それなら、これまで戦闘で使っていなかったことにも納得がいく。
「では」
クリフ先輩がエリナリーゼを見る。
「彼女の中に溜まった魔力を、君が受け取ればいい!」
「可能性はございます」
レイネはすぐに楽観しなかった。
「ただし、元の技術では、オルステッド様ご自身に魔力を流していただいておりました」
「今回は違う?」
「はい。エリナリーゼの体内から、こちら側が流れを作って取り出す必要がございます」
なるほど。
オルステッドが自分の意思で魔力をレイネへ渡す場合と、エリナリーゼの中へ留まっている魔力をレイネが外側から引き出す場合では、少し違う。
「できますか?」
俺が聞く。
「仕組みを反転させれば可能だとは考えております。ただし、実際に人へ使用したことはございません」
つまり。
ここで初めて試すことになる。
「エリナリーゼ」
レイネが本人を見る。
「まずは、ごく少量だけ流れを確認してもよろしいでしょうか」
「何をするの?」
「最初は魔力を移しません。私の魔力を僅かに接触させ、通常の魔力と、呪いによって蓄積しているものの違いを確認いたします」
「危険は?」
「異常を感じた時点で離します」
レイネは曖昧に安全だとは言わなかった。
「ただし、私自身も初めて行う方法でございますので、絶対に何も起こらないとは申し上げられません」
エリナリーゼは少し考えた。
クリフ先輩が口を開きかける。
しかし、何も言わなかった。
決めるのはエリナリーゼだと理解したのだろう。
「やってみましょう」
やがてエリナリーゼが答えた。
「お願いしますわ」
「承知いたしました」
レイネが椅子を二つ用意する。
向かい合って座り、両手を差し出した。
「手をお預かりします」
「こう?」
「はい」
エリナリーゼの両手を、レイネが包む。
俺とクリフ先輩は少し離れた。
レイネが目を閉じる。
「力を抜いてくださいませ。何か違和感がございましたら、すぐおっしゃってください」
「ええ」
しばらく何も起こらない。
光もない。
魔法陣もない。
俺には、ほんの僅かに魔力の流れが二人の間へ生まれたことしか分からなかった。
数十秒。
レイネの眉がほんの少し動いた。
目を開く。
「分かりました」
「何が?」
クリフ先輩が即座に反応する。
「通常の魔力とは、確かに流れが異なっております」
「詳しく!」
「まだ確認中でございます」
レイネが真顔で返す。
「……分かった」
ものすごく聞きたそうだ。
レイネはエリナリーゼを見る。
「次に、ほんの少量だけこちらへ引き出してみたいと考えております」
「お願いしますわ」
「違和感がございましたら、すぐに止めます」
二人が再び手を重ねる。
今度は、さっきとは違った。
魔力の流れが。
エリナリーゼからレイネへ向いている。
「……っ」
エリナリーゼが小さく息を吸った。
レイネがすぐに止める。
「痛みがございましたか?」
「いいえ。身体の中から、何かを細く引っ張られた感じがしましたの」
「気分は?」
「悪くありませんわ」
「では、もう少しだけ」
再開する。
数秒。
十秒ほど。
そしてレイネが自分から手を離した。
「本日はここまでにいたしましょう」
「どうだった!」
クリフ先輩がすぐ近づいた。
「抜けたのか?」
「はい」
クリフ先輩の顔が一気に明るくなる。
「なら!」
「ですが、これだけで解決するとは考えない方がよろしいかと存じます」
「なぜだ?」
レイネは自分の手のひらを見ながら答える。
「確かに、エリナリーゼの体内から魔力をこちらへ移すことはできました」
「楽になった気がしますわ」
エリナリーゼも自分の腹へ手を置く。
「ほんの少しですけれど」
「症状を軽減する手段にはなる可能性がございます」
レイネは頷く。
「ただ、問題がございます」
クリフ先輩が黙る。
「第一に、蓄積している特殊な魔力と、エリナリーゼご自身が使用する通常の魔力が完全に分離しておりません」
「つまり?」
「大量に引き出そうとすれば、通常の魔力まで一緒に奪う可能性がございます」
俺にも分かった。
全部吸い出せばいい、とはならない。
「選別できないのか?」
「今の私には、完全には」
レイネは素直に認めた。
「第二に、こちらが受け取った量に比べ、体内で乱れている部分の変化が小さすぎます」
「どういうことだ?」
「原因が、蓄積している魔力そのものだけではない可能性がございます」
レイネはエリナリーゼを見る。
「この呪いは、魔力を溜める仕組みそのものを身体へ作っているのでしょう。今ある分を取り除いたとしても、呪いが残っている限り再び蓄積すると考えるべきです」
クリフ先輩の目が鋭くなる。
「なら、魔力を抜くのは対症療法だ」
「現段階では、その可能性が高いと考えます」
エリナリーゼが口を開く。
「でも、男を探さなければならなくなるまでの時間を延ばすことはできる?」
レイネはすぐには頷かなかった。
「可能性はございます。ただし、今回一度だけで判断することはできません」
「どうして?」
「私が抜いた分が、どの程度の時間で戻るのか分かりません。通常の魔力までどれほど減少したのかも、まだ測定できておりません」
そこまで聞いて、クリフ先輩が机へ歩み寄った。
「なら調べればいい」
完全に研究者の顔だ。
「まず、症状が出るまでの周期を記録する。レイネが抜いた量もだ。通常の魔力と特殊な魔力の違いを調べて、できれば魔力結晶とも比較する」
エリナリーゼが眉を上げる。
「次にできたものを持ってくればよろしいの?」
「ぜひ!」
返事が速い。
エリナリーゼが呆れたように笑う。
「女性が身体から出したものを、そんなに目を輝かせて欲しがる男性も珍しいですわね」
「研究資料でしょう!」
「はいはい」
「それと、結晶化する前後で何が変わるのか。精そのものが必要なのか、それとも含まれている何らかの成分や魔力に反応しているのかも――」
「クリフ先輩」
レイネが遮った。
「何だ?」
「本日はここまでになさってはいかがでしょうか」
「まだ聞くことがある」
「エリナリーゼは、本日すでに同じ事情を三度お話しになっております」
クリフ先輩の口が止まった。
俺。
クリフ先輩。
そしてレイネ。
確かに三回だ。
「……そうか」
「研究は明日でも可能でございます」
「分かった」
珍しく素直に引いた。
エリナリーゼが少し笑う。
「あなた一人ではなくてよかったかもしれませんわね」
「僕一人でも十分だ!」
「今、止められたばかりでしょう?」
「質問が多かっただけです!」
「それを止められたのでございます」
レイネが真顔で返す。
クリフ先輩が悔しそうに黙り、エリナリーゼはとうとう声を出して笑った。
◇
準備室を出る前。
クリフ先輩がエリナリーゼへ向き直った。
「では、食事へ行きましょう」
「今から?」
「約束しました!」
「一度食事へ付き合うとは言いましたけれど、今日とは言っておりませんわ」
クリフ先輩が固まる。
「今日は駄目ですか?」
「同じ話を三度もして、そのうえ初めての魔力操作まで受けましたもの。今日は疲れましたわ」
「なら明日!」
「講義は?」
「終わってから!」
「研究は?」
「食事の後!」
エリナリーゼが笑う。
「あなた、忙しいですわね」
「時間は作ります!」
「では明日の夕方なら構いませんわ」
「分かりました!」
満面の笑み。
その場で店の候補まで考え始める。
俺は少し離れたところでレイネへ声を掛けた。
「レイネ」
「はい」
「さっきの魔力を移す方法、本当に初めて他の人へ使ったんです?」
「オルステッド様以外へ使用したのは初めてでございます」
「僕には話してませんでしたよね」
「はい」
「どうして?」
責めているつもりではない。
純粋に気になっただけだ。
レイネは少し考えた。
「日常生活で使用する機会がございませんでしたので」
「なるほど」
それならそうか。
「それに、ルーデウス様へ魔力を補給する必要が生じたこともございません」
俺は魔力量だけならかなり多い。
「僕からレイネへ渡すこともできるんです?」
「理論上は可能でございます」
「なら、魔力が減った時に僕から渡せば、回復を待たなくてもいいんじゃ?」
そう言った瞬間。
レイネの表情が少しだけ変わった。
俺もすぐ気づいた。
自分の魔力を渡す。
レイネが何か大きな力を使うたび、俺が補給する。
一見すれば便利だ。
でも。
「毎回それを前提にするのは違いますね」
俺が先に言った。
レイネが頷く。
「はい」
俺の魔力が多いからといって、無限ではない。
それ以上に、レイネが自分の魔力を気にせず使い、「後でルーデウスから受け取ればよい」と考え始めれば、今まで以上に無茶をする理由を作ってしまう。
「本当に必要な時だけですね」
「私も、そのように考えております」
「分かりました」
今日知ったからといって、便利な道具のように使う必要はない。
技術はある。
必要になれば選択肢になる。
それで十分だ。
「エリナリーゼさんには?」
「しばらく様子を見る必要がございます。今日の量でも通常魔力へどの程度影響したのか分かりません」
「根治はクリフ先輩の研究次第?」
「私も調べますが、少なくとも魔力を抜くだけで呪いそのものが消えるとは考えにくいかと存じます」
俺は廊下の先を見る。
クリフ先輩とエリナリーゼが並んで歩いている。
「明日の店は僕が選びます!」
「変な店は嫌ですわよ」
「僕が女性を連れていく店を間違えると思いますか!」
「女性と二人で食事へ行った経験は?」
クリフ先輩が黙った。
「ありませんのね」
「調べれば分かります!」
「恋愛まで研究のように扱わないでくださいませ」
二人の会話がこちらまで聞こえてくる。
レイネがその後ろ姿を見ながら、小さく言った。
「随分と賑やかな方々でございますね」
「相性、いいのかもしれません」
「まだ一日目でございます」
「そうでした」
俺は少し笑った。
先のことは分からない。
エリナリーゼの呪いも消えていない。
レイネが持っていた魔力移譲という技術も、症状を完全に解決するものではなかった。
クリフ先輩が本当に呪いを治せるかも分からないし、エリナリーゼが彼を好きになるかどうかもまだ決まっていない。
それでも。
昨日まで知らなかった二人が、今日初めて言葉を交わした。
クリフ先輩はエリナリーゼの事情を聞いても逃げず、自分が嫌だと感じることまで隠さなかったうえで、それでも治療方法を探すと言った。
エリナリーゼも、最初から可能性を閉じるのではなく、一度食事へ行くことを自分で選んだ。
そしてレイネも、自分が長い訓練の中で作っていた技術を使い、友人の症状を少しでも軽くできる可能性を見つけた。
誰か一人が全部を解決したわけではない。
レイネの技術だけでも足りない。
クリフ先輩の自信だけでも足りない。
エリナリーゼ本人が望まなければ、そもそも始めることさえできない。
だからこそ、これでいいのだと思う。
それぞれが持っているものを持ち寄り、できることとできないことを確かめながら進んでいけばいい。
廊下の先では、クリフ先輩がまだ明日の食事について熱心に話している。
「最高の店を調べておきます!」
「そこまで気合いを入れられると、こちらまで緊張しますわ」
「任せてください!」
「ですから、その自信はどこから来ますの?」
エリナリーゼの笑い声が響いた。
そのすぐ後ろを歩きながら。
俺とレイネも、二人について大学の廊下を進んでいった。