白髪の侍女   作:MトK

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第六十九話 不死魔王

ルーデウス視点

 

「不死魔王バーディガーディと、一戦交えようではないか!」

 

腹の底へ響くような声とともに、六本の腕が大きく広げられた。

 

俺が断った場合はどうするのかと尋ねれば、バーディガーディは「その時は仕方あるまい」とあっさり答えている。少なくとも、先ほどまで俺へ無理やり求婚決闘を挑んできた獣族たちよりは話が通じるらしい。

 

だからこそ、迷った。

 

断って帰ることはできる。

 

シルフィにも今朝、危険だと思ったら離れると約束したばかりだ。

 

それでも俺は、目の前に立つ巨大な魔王から視線を外せなかった。

 

黒曜石のような肌から六本の太い腕が伸び、その足元には、俺へ挑戦するために集まっていた獣族の戦士たちが何人も倒れている。

 

死者はいないようだった。

 

呻き声を上げている者もいるし、胸や腹も動いている。すぐに起き上がれる状態ではないが、少なくとも命まで奪われてはいない。

 

三十人近い戦士を一人で倒し、それでいて誰一人殺していない。

 

俺が同じことをしようとすれば、相手ごとに闘気や体格を見ながら魔術の威力を調節しなければならない。少し強く撃ちすぎれば骨や内臓を壊すし、弱すぎれば反撃を受ける。実際、ここへ来るまでに何人も倒しただけで、かなり神経を使った。

 

バーディガーディは、それをもっと多い人数を相手に短時間でやってのけた。

 

単純な強さだけではない。

 

自分がどの程度の力を出せば相手を殺さず倒せるのか、完全に身体で理解しているように見える。

 

「……やっぱり、バーディガーディでしたのね」

 

エリナリーゼの声が聞こえた。

 

振り返ると、クリフ先輩の横に立った彼女が、どこか呆れたような顔で魔王を見ている。

 

「知っているんですか?」

 

「ええ。何度かお会いしたことがありますわ」

 

「どんな人です?」

 

エリナリーゼは少し考えた。

 

「理由もなく人を殺して楽しむような方ではありませんわ。ただし、面白そうなことを見つけると、こちらの常識などあまり気になさらなくなりますの」

 

かなり納得できる説明だった。

 

「聞こえておるぞ、エリナリーゼ!」

 

「聞こえるように言いましたのよ」

 

「フハハハハ! 相変わらずであるな!」

 

少なくとも二人が本当に面識を持っていることは分かった。

 

フィッツ先輩とクリフ先輩は、倒れている獣族たちの治療を始めている。

 

レイネは俺の斜め後ろで足を止めていた。

 

俺の前へ出るわけでもなく、剣へ手を掛けるわけでもない。ただ、バーディガーディから視線だけは外していなかった。

 

今すぐ俺の代わりに戦おうとしているわけではないらしい。

 

少なくとも、今の俺にはそう見えた。

 

俺はもう一度、バーディガーディへ向き直った。

 

「戦うかどうかを決める前に、一つ聞いてもいいですか?」

 

「何でも聞くがよい!」

 

「ヒトガミという名前を知っていますか?」

 

一瞬。

 

本当に短い間だけ、バーディガーディの笑顔が止まったように見えた。

 

六本の腕のうち一本で顎を掻く。

 

「ヒトガミ……ヒトガミか」

 

知らない。

 

そう即答されると思っていた。

 

けれど、バーディガーディは首を傾げた。

 

「どこかで聞いたような気もするな!」

 

「会ったことが?」

 

「覚えておらん!」

 

胸の奥へ生まれかけた期待が萎む。

 

「数百年は生きておりますよね?」

 

「無論!」

 

「それでも?」

 

「数百年生きておれば、いちいち全ての名など覚えておらぬわ!」

 

それもそうなのだろうか。

 

俺には分からない。

 

「少なくとも、最近会った相手ではないのですね」

 

「うむ! ここ数百年で顔を合わせた者なら、もう少し覚えておるはずだ!」

 

完全な空振りではない。

 

名前へ一瞬何か引っ掛かった。

 

それだけでも覚えておく価値はある。

 

俺はこれ以上追及しなかった。

 

レイネも何も言わない。

 

人神についてどこまで知っているのかは、本人が話すと決めた時に聞けばいい。

 

「もう一つ」

 

「うむ!」

 

「僕は人族です。あなたのように身体を壊されても元へ戻れるわけではありません」

 

「そのようだな!」

 

「戦うとしても、命を取るようなことはしないでください」

 

バーディガーディが盛大に笑った。

 

「フハハハハ! 決闘の前から命乞いとは、実に慎重な男である!」

 

周囲の視線が俺へ集まったような気がする。

 

戦士の中には、臆病だと感じる者もいるかもしれない。

 

それでも、俺は自分の言葉を引っ込めなかった。

 

「死なないで済むなら、その方がいいので」

 

「うむ!」

 

バーディガーディはあっさり頷いた。

 

「それも道理である!」

 

笑われたのか認められたのか分からない。

 

たぶん、両方なのだろう。

 

「人族は首を落とせば死ぬ! 心臓を潰しても死ぬ! 腹を破られても、治療が遅ければ死ぬ! 実に面倒な身体よ!」

 

心臓を潰せば死ぬ。

 

その言葉だけが、妙にはっきり耳へ残った。

 

胸の奥が一瞬だけ冷たくなる。

 

オルステッドの腕が胸へ入ってきた時の感触を、身体が勝手に思い出した。

 

皮膚も骨も関係なく貫かれ、心臓を握り潰された。

 

痛みを理解するより先に身体から力が抜け、急速に自分が遠くなっていった。

 

今はちゃんと動いている。

 

胸の奥では心臓が脈打ち、呼吸もできる。

 

俺は無意識に伸ばしかけた手を止めた。

 

「あまり、その不便さをもう一度実感したくはありませんね」

 

「それほどの魔力を持ちながら、随分と己の力へ自信がないのだな!」

 

「自信がないというより……」

 

すぐには言葉が出なかった。

 

俺の魔力量が普通の魔術師とは比較にならないほど多いことは知っている。

 

獣族の求婚者たちにも、ほとんど苦戦しなかった。

 

リニアとプルセナを二人同時に相手取った時だって、勝敗だけなら圧勝だった。

 

それでも、自分が何でもできるとは思えない。

 

全力を出しても、何一つ通じなかった相手を知っているからだ。

 

「龍神オルステッドと戦ったことがあります」

 

バーディガーディの笑みが消えた。

 

六本の腕まで止まった。

 

「龍神オルステッドだと?」

 

「はい」

 

「それで生きておるのか?」

 

「僕一人の力ではありません」

 

俺はそれだけ答えた。

 

胸を貫かれて心臓が止まったこと。

 

その後、レイネが俺を助けるために自分の蓄積していた魔力の大半を使ったこと。

 

俺が意識を失っている間にも、レイネがオルステッドと戦い続けたこと。

 

ここにいる大勢へ説明する必要はない。

 

バーディガーディの視線が俺の後方へ向いた。

 

「その白い娘も、龍神と戦ったのか?」

 

「はい」

 

レイネが静かに答えた。

 

それだけだった。

 

オルステッドとの関係や、自分がどこまで戦ったのかを自分から語ろうとはしない。

 

俺も代わりに説明しなかった。

 

レイネが伏せると決めたものを、俺が勝手に話すべきではない。

 

バーディガーディはしばらくレイネを見た。

 

白い髪。

 

赤い瞳。

 

細い身体。

 

腰にある剣。

 

視線がそこを順番に通り、やがて俺へ戻ってくる。

 

「ルーデウスよ」

 

「はい」

 

「貴様の攻撃は、龍神へ届いたのか?」

 

「いいえ」

 

即答した。

 

「岩砲弾は避けられました。その次に使おうとした魔術も崩され、最後に放った炎も、正体の分からない術で消されました」

 

あの山道を思い出す。

 

当時の俺が作った中でも最も速く、硬く、回転を高めた岩砲弾だった。

 

それでもオルステッドは、僅かに首を動かしただけで避けた。

 

俺の攻撃は、一度も届かなかった。

 

「僕自身は、オルステッドさんへ傷一つ負わせられていません」

 

自分で口にすると、まだ少し胸が痛む。

 

ただ、何もできなかったという事実と、俺自身に何の価値もないということは同じではない。

 

あの時に通用しなかった。

 

なら、今の自分は何ができるのか。

 

それを知ればいい。

 

「なるほどな!」

 

バーディガーディは俺の身体を改めて見た。

 

「では、闘気は?」

 

「まとえません」

 

「まったくか?」

 

「はい。魔術で身体能力を補助することはできますが、剣士の方々が使うような闘気は使えません」

 

「フハハハハ!」

 

再び豪快な笑い声が響く。

 

「これほどの魔力を持ちながら、闘気をまとえぬとは! やはり面白い!」

 

褒められているのか笑われているのか、相変わらず分かりにくい。

 

ただ、悪意は感じない。

 

「よし!」

 

バーディガーディが六本の腕を大きく広げた。

 

「ならば、面倒な立ち回りは不要だ! 一発で決めよう!」

 

「一発?」

 

「貴様が今撃てる最も強い一撃を、我輩へ撃て!」

 

本当にそんな勝負でいいのだろうか。

 

「避けないのですか?」

 

「避けぬ!」

 

「腕で防御は?」

 

「せぬ!」

 

「闘気は?」

 

「それは解かん!」

 

胸を張る。

 

「我輩の闘気を貫き、この身体へ傷を負わせれば貴様の勝ち! まったく通じなければ我輩の勝ちとし、一度だけ殴らせてもらおう!」

 

俺は少し考えた。

 

普通に戦えば、俺には圧倒的に不利だ。

 

闘気をまとえない俺が、あれほどの身体能力を持つ相手と近距離で戦うことになる。

 

それに比べれば、動かず、避けず、防御もしない相手へ最大火力を撃ち込める条件は、魔術師である俺に大きく有利だ。

 

問題は、勝てるかどうかだけではない。

 

本当に最大威力を撃ってよいのかということだ。

 

不死魔王を名乗っている。

 

それでも、不死身という言葉がどこまでを意味するのか分からない。

 

「レイネ」

 

自分でも迷っていることが分かり、振り返った。

 

レイネは答えを決めるようなことはしなかった。

 

代わりに、一度だけ周囲を見回す。

 

そして、バーディガーディへ向き直った。

 

「決闘をなさるのでしたら、場所を移していただけますでしょうか」

 

「場所?」

 

「ここには負傷者が多く、校舎も近すぎます。ルーデウス様が最大威力を使用なされば、決闘へ参加していない方々まで巻き込む可能性がございます」

 

自分とバーディガーディだけへ向いていた意識が、周囲へ戻った。

 

そのとおりだ。

 

地面には倒れた獣族たちがいる。

 

フィッツ先輩やクリフ先輩が治療しており、騒ぎを聞いた学生も集まり始めていた。

 

「大学の北側に、大規模魔術用の演習場があります」

 

フィッツ先輩が言う。

 

「先生と生徒会へ連絡します。魔王が来たっていう報告も、もう回っているはずだから」

 

遠くを見ると、大学の正門側では騎士や教師たちが集まり始めていた。

 

さすがに不死魔王が大学前で何十人もの獣族を倒せば、大事になる。

 

「待つ必要などない! 我輩は魔王である!」

 

「魔王でも大学の規則は守ってください」

 

フィッツ先輩が真顔で返した。

 

バーディガーディは一瞬止まり、また笑った。

 

「フハハハハ! よかろう!」

 

 

演習場へ移動する頃には、大学側の警戒態勢もかなり整っていた。

 

騎士や教師たちが広い範囲を取り囲み、魔術師たちもいつでも防御術を展開できるよう待機している。

 

バーディガーディに敵対する様子はない。

 

ただ、何かあれば即座に動くつもりなのだろう。

 

当のバーディガーディは、そんな包囲をまったく気にしていなかった。

 

「久しぶりに大勢へ囲まれたな!」

 

むしろ楽しそうだ。

 

エリナリーゼが小さく溜息をついた。

 

「本当に変わりませんのね」

 

「エリナリーゼさんは、これでも安心できる相手だと思います?」

 

「安心はしておりませんわ」

 

即答された。

 

「ただ、こちらから約束を破らなければ、突然殺しに来るような方ではありませんの」

 

それなら十分……なのだろうか。

 

レイネは演習場の端から、俺が攻撃する方向まで歩いて確認した。

 

バーディガーディの後方には、何重もの厚い土壁が作られていく。

 

「バーディガーディ様を守るためですか?」

 

「いいえ」

 

レイネは壁の角度を調整しながら答えた。

 

「ルーデウス様の魔術が身体を貫通した場合、そのまま遠方まで飛ぶことを防ぐためでございます。真正面から完全に止めることが難しい場合は、壁を抜けるたび少しずつ上空へ逸らします」

 

完全に止められないなら、誰もいない方向へ逃がす。

 

俺には思いつかなかった。

 

「ありがとうございます」

 

「決闘そのものを受けられるかどうかは、ルーデウス様がお決めください」

 

「はい」

 

レイネはそれ以上言わなかった。

 

俺の判断を奪わない。

 

その代わり、俺が見落としている危険には手を伸ばしてくれる。

 

見物人たちの前にも防御障壁が作られた。

 

フィッツ先輩も別方向から障壁を重ねている。

 

「レイネも、もっと離れていてください」

 

俺が言うと、レイネは素直に頷いた。

 

「承知いたしました」

 

俺の魔術が暴れた時に巻き込みたくない。

 

彼女なら避けられるのかもしれない。

 

それでも、避けられるから近くにいていいという話ではない。

 

レイネは見物人たちの少し前まで下がった。

 

すぐにこちらへ来られる距離ではあるが、少なくとも射線上からは完全に外れている。

 

周囲の準備が終わったことを確認し、俺はバーディガーディへ向き直った。

 

「戦います」

 

「うむ!」

 

「さっき決めた条件でお願いします」

 

「任せよ!」

 

本当に大丈夫なのだろうか。

 

不安は消えない。

 

それでも、ここまで条件を整えた。

 

バーディガーディも無理に俺へ戦わせようとしているわけではない。

 

俺自身が、やると決めた。

 

「始めます」

 

バーディガーディは足を開き、六本の腕を大きく広げた。

 

身体の真正面を、俺へさらす。

 

闘気だけは残す。

 

それが勝負の条件だ。

 

念のため予見眼を使った。

 

未来が見えない。

 

視界の中で、バーディガーディがいる部分だけがぽっかりと抜けたようだった。

 

オルステッドと同じ。

 

その事実だけで、背中へ冷たいものが走る。

 

「魔眼は我輩に効かぬぞ!」

 

「そのようですね」

 

「怖くなったか?」

 

「かなり」

 

「フハハハハ! 正直でよい!」

 

強がる意味はない。

 

見えないものは怖い。

 

だったら、見えるものを確認する。

 

バーディガーディは動かない。

 

後方の射線に人はいない。

 

障壁は完成している。

 

レイネとフィッツ先輩も安全を確認している。

 

俺は杖を構えた。

 

作るのは岩砲弾。

 

普段使うものとは違う。

 

細長い紡錘形。

 

密度を限界まで高め、表面へ螺旋状の溝を刻む。

 

硬度を上げる。

 

回転を加える。

 

さらに速く。

 

杖の先で空気が唸り始める。

 

魔石が薄く光り、周囲の空気が震えた。

 

実戦では使いにくい。

 

形成に時間が掛かりすぎる。

 

相手が避ければ終わりだし、味方が近ければ巻き込む危険も大きすぎる。

 

だからこそ、今回のように相手が動かない条件なら使える。

 

「ルーデウス様」

 

離れた場所からレイネの声が届いた。

 

「射線上に人影はございません。後方の障壁も完成しております」

 

「ありがとうございます」

 

「形成中に異常を感じられた場合は、解除を優先してくださいませ」

 

「はい」

 

俺はもう一度息を整えた。

 

オルステッドへ放った時よりも硬く。

 

もっと速く。

 

もっと強く。

 

あの時は突然始まった戦闘の中で作った。

 

エリスとルイジェルドを守らなければならないという焦りもあった。

 

未来は見えず、何を撃っても届かなかった。

 

今は違う。

 

準備する時間がある。

 

相手は動かない。

 

それでも、闘気という壁だけは真正面から突破しなければならない。

 

俺が今作れる最も強い岩砲弾。

 

これでも通じないなら、俺の魔術は本物の強者へ届かないのかもしれない。

 

そんな考えが一度だけ浮かぶ。

 

すぐに追い出した。

 

結果は、撃ってみなければ分からない。

 

「撃ちます」

 

「来い!」

 

俺は岩砲弾を射出した。

 

轟音は、着弾より少し遅れて耳へ届いた。

 

最初に見えたのは、バーディガーディの上半身が消える光景だった。

 

岩砲弾が胸へ触れた瞬間、黒い巨体が内側から爆ぜたように砕けた。

 

頭部と六本の腕が別々の方向へ吹き飛び、腰から下だけが地面を抉りながら後方へ飛んでいく。

 

岩砲弾はその先へ抜けた。

 

一枚目の土壁を貫通。

 

二枚目も抜く。

 

さらにその後ろへ進みながら、壁の角度によって少しずつ上方へ弾道を変え、最後には誰もいない空高くへ消えていった。

 

遅れて衝撃波が演習場を襲った。

 

見物人たちの服や髪が激しく揺れ、二重三重に張られた障壁が大きくたわむ。

 

それでも、割れなかった。

 

俺は杖を構えたまま動けなかった。

 

バーディガーディがいない。

 

正確には、下半身しか残っていない。

 

腕は演習場のあちこちへ散り、頭部もかなり離れた場所へ転がっている。

 

「……殺した?」

 

自分の口から出た声が、妙に遠く聞こえた。

 

不死魔王。

 

本人がそう名乗った。

 

自分から全力で撃てと言った。

 

それでも、本当に上半身を消し飛ばされて生きていられるのかなんて、俺は知らない。

 

決闘だった。

 

互いに条件を決めた。

 

バーディガーディも同意した。

 

だからといって、本当に殺してしまったなら、それで何も感じずに済むわけではない。

 

指先から感覚が薄くなった。

 

「レイネ……」

 

声が弱くなる。

 

散らばった身体へ近づこうとすると、レイネがすぐに声を掛けた。

 

「お待ちください」

 

足を止める。

 

レイネも肉片を見ている。

 

けれど、死んでいるとも、生きているとも言わない。

 

「危険がないと確認できるまでは、お近づきにならないでくださいませ」

 

「……生きていますか?」

 

「分かりません」

 

正直な答えだった。

 

「この状態から再生される可能性もございます。今はお待ちください」

 

俺は待った。

 

数秒。

 

十秒。

 

何も起きない。

 

時間が妙に長く感じられる。

 

周囲にいる騎士たちも、教師たちも動かなかった。

 

クリフ先輩は呆然と散らばった肉体を見つめ、フィッツ先輩も口元へ手を当てている。

 

エリナリーゼも、さすがに笑ってはいなかった。

 

面識がある彼女ですら、ここまで身体を壊されたバーディガーディを見たことはないのかもしれない。

 

本当に殺してしまったのではないか。

 

その考えが胸を埋め尽くしかけた時だった。

 

「フハハハハハハ!」

 

笑い声が響いた。

 

一瞬、どこから聞こえたのか分からなかった。

 

地面へ転がっていた頭部が笑っている。

 

その周囲へ、散らばっていた肉片が少しずつ集まり始めた。

 

黒い肉が伸び、骨が形を取り、その下へ小さな胴体が作られていく。

 

異様な光景だ。

 

本来なら目を背けたくなったかもしれない。

 

今は、戻っていくことが嬉しかった。

 

笑っている。

 

動いている。

 

生きている。

 

やがて、俺とそれほど変わらない身長まで再生したバーディガーディが立ち上がった。

 

顔の大きさに対して身体だけが小さいため、かなり妙な体型になっている。

 

「我輩、大復活!」

 

「……よかった」

 

膝から力が抜けそうになった。

 

勝ったかどうかなど、その瞬間にはどうでもよかった。

 

殺していなかった。

 

それだけで十分だった。

 

「死ぬかと思ったぞ!」

 

「それ、冗談ですよね?」

 

「フハハハハ!」

 

答えになっていない。

 

本当に死にかけたという意味なのか、不死魔族なりの大げさな表現なのか、俺には判断できなかった。

 

ただ一つ分かったのは、「不死だから何をしても絶対に大丈夫」と考えるのは危険だということだ。

 

六本の腕も、地面を這うように少しずつ本体へ戻っていく。

 

一本。

 

さらに一本。

 

腕がつながるたび、バーディガーディの身体も少しずつ元の大きさへ近づいていった。

 

「なるほど! よく分かった!」

 

バーディガーディが再生途中の腕で俺を指す。

 

「貴様の勝ちだ、ルーデウス!」

 

「勝ちでいいんですか?」

 

「我輩の闘気を正面から貫き、この身体をそこまで吹き飛ばした! これを勝ちと呼ばずして何と呼ぶ!」

 

条件どおりではある。

 

バーディガーディは避けなかった。

 

腕で防御もしなかった。

 

普通の戦闘とはまるで違う。

 

自由に動く彼を相手に、今の岩砲弾を作る時間を得られるとは思えない。

 

だから、俺がバーディガーディより強いという話ではない。

 

それでも。

 

条件を整え、きちんと命中させられるのなら、俺の魔術はこれほど強い相手の闘気を破れる。

 

オルステッドには何一つ届かなかった。

 

だからといって、俺の力があらゆる強者へ無意味なわけではなかった。

 

そのことは、きちんと認めてもいいのだろう。

 

「勇者を名乗ることを許すぞ!」

 

「遠慮します」

 

「では勝鬨くらい上げよ!」

 

「必要ですか?」

 

「勝者には必要である!」

 

周囲を見た。

 

フィッツ先輩。

 

レイネ。

 

クリフ先輩。

 

エリナリーゼ。

 

いつの間にか来ていたザノバとジュリもいる。

 

そのさらに外側には、教師や騎士たち。

 

治療を受けた獣族の求婚者たちも、遠くからこちらを見ていた。

 

勝ったのだから喜べと言われても、胸の中は安堵と疲労の方が大きい。

 

それでも、このまま断り続ければバーディガーディはいつまでも言いそうだった。

 

「勝ちました!」

 

「小さい!」

 

「勝ったぞ!」

 

「まだ小さい!」

 

面倒だ。

 

俺は思い切って声を張った。

 

「勝ったぞー!」

 

「よし!」

 

ようやく満足したらしい。

 

バーディガーディが俺の右手首を掴み、そのまま高く持ち上げる。

 

少し遅れて、周囲から歓声が上がった。

 

俺へ求婚決闘を挑もうとしていた獣族の中にも、納得したように頭を下げる者がいる。

 

バーディガーディが彼ら全員を倒し、俺はそのバーディガーディとの勝負に勝った。

 

彼らなりの考え方なら、これ以上俺へ挑んでも意味がないと判断するのかもしれない。

 

それなら、今日危険を冒した意味はあった。

 

「さて!」

 

バーディガーディが満足そうに頷いた。

 

「では、殴らせてもらうぞ!」

 

「……え?」

 

耳を疑った。

 

「僕が勝ちましたよね?」

 

「うむ!」

 

「殴られるのは、僕の攻撃が通じなかった時だったはずですが」

 

「細かいことは気にするな!」

 

気にする。

 

ものすごく気にする。

 

抗議しようとした瞬間、バーディガーディの身体が動いた。

 

右腕を掴まれたままなので、逃げられない。

 

しかも一つではない。

 

片側へ並んだ三本の腕が、ほとんど同時に動いた。

 

三つの黒い拳が一気に視界を埋める。

 

「ちょ――」

 

最初の一発が顔面へ入った。

 

すぐに二発目。

 

三発目。

 

衝撃の間隔を認識する余裕すらなかった。

 

頭の中が真っ白になる。

 

痛みを感じるより早く、空と地面の位置が分からなくなった。

 

また意識を失う。

 

そう理解した瞬間だけ、胸を貫かれた山道の記憶が一瞬重なった。

 

嫌だ。

 

まだ家へ帰っていない。

 

シルフィとレイネへ、今日のことをちゃんと話していない。

 

母様の研究だって途中だ。

 

視界が黒くなる直前、白い髪が飛び込んできた。

 

地面へ落ちるより先に、身体を受け止められる。

 

そのことが分かったところで、意識が途切れた。

 

 

目を開けると、最初に見えたのは白い髪だった。

 

その向こうから、フィッツ先輩の声が聞こえる。

 

「ルディ?」

 

俺は演習場の端へ寝かされていた。

 

顔に痛みはない。

 

すでに治癒魔術を掛けてもらったのだろう。

 

ゆっくり息を吸う。

 

胸が動く。

 

心臓も脈打っている。

 

意識を失うと、最初にそれを確認してしまう癖はまだ残っているらしい。

 

「大丈夫?」

 

「はい」

 

起き上がろうとすると、フィッツ先輩が肩へ手を添えた。

 

「ゆっくり」

 

「分かりました」

 

身体を起こす。

 

視界の端で、レイネがバーディガーディと向かい合っていた。

 

剣は抜いていない。

 

魔術も使っていない。

 

けれど、声が普段より明らかに低い。

 

「決闘は、ルーデウス様の勝利によって終了していたと認識しております」

 

「うむ!」

 

「ルーデウス様の攻撃が通じなかった場合にのみ、反撃を一度なさるという条件でございました」

 

「一発殴るとは言ったぞ!」

 

「三発でございました」

 

バーディガーディが止まった。

 

俺も止まった。

 

確かに三発だった。

 

「……一度に殴った!」

 

「拳は三つございました」

 

「細かい女であるな!」

 

「人族は、細かく条件を決めなければ死ぬのでございます」

 

バーディガーディが一瞬黙る。

 

それから大笑いした。

 

「フハハハハ! 主従そろって同じことを言う!」

 

レイネの眉が、ほんの僅かに動いた。

 

表情はほとんど変わらない。

 

それでも、今の彼女が機嫌よくバーディガーディと話しているわけではないことくらいは俺にも分かる。

 

「レイネ」

 

呼ぶと、すぐこちらへ振り返った。

 

「ルーデウス様」

 

そのまま俺のところまで戻ってくる。

 

しゃがみ込み、顔や首、後頭部へ順番に触れながら確認を始めた。

 

「吐き気はございますか?」

 

「ありません」

 

「眩暈は?」

 

「少しだけ頭が重いです」

 

「視界の異常は?」

 

「ないと思います」

 

「本日は帰宅後も安静になさってくださいませ」

 

「はい」

 

大丈夫だから動ける、と言い張るつもりはなかった。

 

頭へ三発も受けたのだ。

 

今平気でも後から症状が出るかもしれない。

 

俺より治療に詳しいレイネとフィッツ先輩が休めと言うなら、休めばいい。

 

「嘘つき魔王ですね」

 

俺が言うと、バーディガーディは胸を張った。

 

「フハハハハ! 勝者からの褒め言葉として受け取っておこう!」

 

「褒めていません」

 

「うむ!」

 

絶対に分かっていない。

 

レイネが振り返る。

 

「バーディガーディ様」

 

「何だ!」

 

「今後、ルーデウス様と何らかの勝負をなさる場合は、反撃の有無だけではなく、使用される腕と拳の数まで先にお申し出くださいませ」

 

「善処しよう!」

 

「必ずお願いいたします」

 

笑顔はない。

 

バーディガーディの方は、まるで堪えていなかった。

 

 

決闘が終わると、それまで周囲を取り囲んでいた大学関係者や三国の騎士たちが一斉に動き始めた。

 

侵略目的ではないことは分かった。

 

それでも、不死魔王が突然大学へ現れ、獣族の戦士を数十人倒し、特別生へ決闘を申し込み、その結果として演習場の一部まで破損した。

 

何もなかったことにはできない。

 

バーディガーディ本人は、複数の教師と騎士から同時に事情を聞かれていた。

 

「我輩はルーデウスへ会いに来た!」

 

「なぜ獣族の方々を全員倒したのです?」

 

「我輩より弱い者に先を譲る理由がないからである!」

 

「その後の決闘については?」

 

「我輩が負けた!」

 

「では、なぜ勝ったルーデウス君を三発殴ったのですか?」

 

「一発のつもりであった!」

 

話がまったく進んでいない。

 

俺は少し離れた場所で、教師へ自分の側の事情を説明した。

 

リニアとプルセナへ求婚しようとしている獣族たちが、なぜか俺を群れの長だと判断して決闘を求めてきたこと。

 

こちらは断っていたが、それでも襲ってきた相手だけを倒したこと。

 

その後バーディガーディが現れ、残っていた者たちを全員倒したこと。

 

バーディガーディから決闘を求められ、最終的には自分の意思で受けたこと。

 

そして最大威力の岩砲弾を使用するため、レイネとフィッツ先輩に周囲の安全を確保してもらったこと。

 

レイネも、障壁や土壁を配置した理由を説明した。

 

「もし後方の壁がなければ、あの岩砲弾はどこまで飛んでいましたか?」

 

教師の一人に尋ねられた。

 

レイネはすぐには答えなかった。

 

「正確な距離は分かりかねます」

 

胸が冷える。

 

俺も同じだった。

 

どこまで飛ぶのか、正確には知らなかった。

 

バーディガーディへ当てることばかりを考え、その先まで完全には把握できていなかった。

 

レイネが壁を作ろうと言ってくれなければ、かなり遠くへ飛んでいた可能性がある。

 

決闘の相手へ当てれば終わりではない。

 

貫通した魔術が、その後どこへ行くかまで俺の責任だ。

 

「今後、同規模の魔術を試す場合は、必ず専用演習場の使用許可を取ってください」

 

「はい」

 

そこは素直に頭を下げた。

 

今回、被害が広がらなかったのは俺一人の判断が完璧だったからではない。

 

レイネが射線の先を見ていた。

 

フィッツ先輩が見物人へ障壁を張った。

 

大学側も周囲を封鎖した。

 

その全部があって、ようやく誰も巻き込まずに済んだ。

 

だからといって、撃った俺自身の責任がなくなるわけでもない。

 

次は最初から、自分でもそこまで考えなければならない。

 

「ルーデウス君」

 

エリナリーゼがやってきた。

 

「バーディガーディのことなら、わたくしからも説明しておきましたわ」

 

「ありがとうございます」

 

「昔からああいう方ですの。悪意があるわけではありませんけれど、常識が一致していると思わない方がよろしいですわね」

 

「よく分かりました」

 

顔面へ三発受けた後なので、説得力がある。

 

クリフ先輩は負傷者たちの治療を手伝っていた。

 

バーディガーディが手加減していたおかげか、重傷者こそ何人かいるものの死者は一人もいない。

 

フィッツ先輩は生徒会への報告が残っているらしい。

 

「ルディは先に帰って」

 

「大丈夫ですか?」

 

「僕は大丈夫。アリエル様への報告もあるから」

 

少しだけ、一緒に帰りたいと思った。

 

家へ戻って三人で今日のことを話したい。

 

けれど、シルフィにはシルフィの仕事がある。

 

俺の妻になると決めたからといって、フィッツとして築いてきた立場まで手放す必要はない。

 

「分かりました」

 

俺は頷いた。

 

「シルフィも、無理はしないでください」

 

「それ、今のルディに言われるの?」

 

「……説得力はないですね」

 

「帰ったら話そうね」

 

「はい」

 

フィッツ先輩は小さく笑い、また生徒会の学生たちの方へ戻っていった。

 

 

大学を出る頃には、空が赤く染まり始めていた。

 

俺とレイネは並んで家へ向かう。

 

頭の重さは残っているが、歩けないほどではない。

 

レイネは普段より少しだけ俺に近い位置を歩いていた。

 

俺がふらつけば、すぐ手を伸ばせる距離だ。

 

心配しすぎだと言おうとして、やめた。

 

もしレイネが頭を殴られて気を失った後なら、俺だって同じことをする。

 

相手が無事だと分かるまで近くにいたい。

 

それくらいの心配を、わざわざ遠ざける必要はない。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「怒っています?」

 

「バーディガーディ様へ、でしょうか」

 

「はい」

 

少し間が空いた。

 

「怒っております」

 

やっぱり。

 

「かなり?」

 

「はい」

 

「でも、剣は抜きませんでしたね」

 

「ルーデウス様が無事であることを確認できましたので」

 

それだけ言った。

 

もし俺がもっと大きな怪我をしていたらどうしたのか。

 

そこまでは聞かなかった。

 

「僕も腹は立っています」

 

「はい」

 

「でも、不思議と嫌いにはなれません」

 

「理解はいたします」

 

レイネの返事が少し早かった。

 

「レイネも?」

 

「約束を守られなかった点については不満がございます。しかし、決闘そのものについてはルーデウス様の意思を尊重し、攻撃を受けても恨まず、敗北も即座に認めておられました」

 

確かに。

 

あの三発さえなければ、かなり気持ちのいい相手だった。

 

「変な人ですね」

 

「魔王でございますので」

 

「魔王って、そういうものなんですか?」

 

「少なくともバーディガーディ様は、あのような方なのでしょう」

 

そこまで話したところで、俺は自分の手を見る。

 

あの岩砲弾を作った手だ。

 

一撃で不死魔王の上半身を消し飛ばした。

 

オルステッドへは何一つ届かなかった。

 

それでも俺の魔術が弱いわけではない。

 

むしろ、使い方を間違えれば危険すぎるほど強い。

 

今日、それをはっきり見た。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「僕は……少し、嬉しかったです」

 

「勝利されたことが、でございますか?」

 

「それもあります」

 

自分の攻撃が強者へ通じた。

 

何をしても無意味だった山道の記憶があるからこそ、その事実は確かに嬉しかった。

 

「でも、怖かったです」

 

俺は続けた。

 

「バーディガーディさんの身体が消えた時、本当に殺したと思いました」

 

「はい」

 

「決闘だったから仕方ないとか、本人に撃てと言われたから悪くないとか、そういうふうには思えませんでした」

 

自分で撃った。

 

それだけは変わらない。

 

「だから、次にあれくらいの魔術を使う時は、もっとちゃんと考えます」

 

「何を、でございますか?」

 

「相手だけではなく、その先までです」

 

レイネは俺を見る。

 

「今日だって、レイネが壁を作ると言ってくれなければ、僕はバーディガーディさんを貫いた後のことまで十分に考えていませんでした」

 

「お気づきになられたのであれば、次から修正なさればよろしいかと存じます」

 

責める声ではなかった。

 

「誰かに言われる前に全部分かるようにならないと駄目だ、とはおっしゃらないんですね」

 

「その必要はございません」

 

レイネは静かに答えた。

 

「私にも、ルーデウス様に教えていただくことがございます。誰かが先に気づいたのであれば、伝えればよいのではないでしょうか」

 

そういうことなのだろう。

 

一人で全部を見落とさず、一人で全部を正しく判断し、一人で全部を背負う。

 

そんなことはできない。

 

今日の決闘でも、最後に撃ったのは俺だ。

 

けれど、周囲を守ったのは俺一人ではなかった。

 

だから次も、必要なら頼ればいい。

 

ただし、頼ることを理由に自分で考えるのをやめない。

 

「ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

家が見えてくる。

 

扉を開けば、今日はシルフィがまだいない。

 

それでも後から帰ってくる。

 

今夜は三人で今日のことを話そう。

 

バーディガーディと戦ったこと。

 

人神について尋ねても、はっきりした答えを得られなかったこと。

 

オルステッドを思い出して怖くなったこと。

 

自分の魔術が闘気を破った時、少し嬉しかったこと。

 

そして、相手を殺したと思った瞬間には、その嬉しさなど全部消えてしまったこと。

 

勝ったという結果だけではなく、その時に自分が何を感じたのかまで話したい。

 

心配を掛けたくないからと隠すのではなく、心配してくれる相手だからこそ伝える。

 

俺はレイネと一緒に玄関へ向かった。

 

今日、不死魔王との勝負には勝った。

 

だからといって、突然何でもできる人間になったわけではない。

 

オルステッドとの間にある途方もない差も残っている。

 

それでも、自分の力が何一つ役に立たないわけではないと知ることができた。

 

同時に、その力を使う時には、自分が思っていたより多くのものを見なければならないことも分かった。

 

その二つを、どちらも忘れないようにしたかった。

 

そして何より、三発殴ったことだけは忘れない。

 

次にバーディガーディと何か約束をする時は、レイネの言ったとおり、拳の数まで確認しよう。

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