ルーデウス視点
ロキシーがグレイラット家を去った後も、ルーデウスの生活から魔術の時間が消えることはなかった。
家庭教師による授業は終わったものの、毎朝の魔術練習と記録は続けている。ロキシーから与えられた課題を読み返し、既に使える術の精度を高めながら、植物辞典や家に残された魔術教本から、新しい知識を少しずつ吸収していった。
ただし、午前中のすべてを魔術へ費やす必要はなくなったため、その分だけ剣術の稽古時間が増えている。
パウロは、息子が魔術師として一つの区切りを迎えたことを喜びながらも、同時に好機だと考えたらしい。
「ロキシーがいなくなって寂しいのは分かるが、いつまでも落ち込んではいられないぞ。これからは朝にも少し身体を動かす。魔術の練習は、その後だ」
そう宣言した翌日から、朝食前の走り込みが日課へ加えられた。
五歳の身体へ過度な負担をかけないよう、距離そのものは短く設定されている。しかし、ただ庭の周囲を走るだけではなく、途中で方向を変え、低い柵を越え、合図に合わせて急停止するなど、身体を自在に扱うための動きが含まれていた。
午後には、木剣を使った型と打ち合いが待っている。
以前のルーデウスであれば、パウロの攻撃が始まってから、それを見て対処法を考えていた。しかし、それでは間に合わない。剣を振り始めた時には、攻撃の軌道も、相手が踏み込む位置も、ほとんど決まっているからだ。
そのことを教えたのはレイネだった。
もっとも、彼女は今も剣を手に取ろうとはしない。
夜になると、廊下や物置の一角へ紐を張り、そこへ小さな布袋や木片を吊るす。ルーデウスが中央に立つと、レイネは紐を引き、異なる方向から袋を振り子のように動かした。
「すべてを目で追おうとなさらないでください。正面だけを見て、視界の端で動きを捉えます」
「横から来る物を見ないで避けるのですか?」
「見ないのではなく、一つだけを見つめないという意味でございます。相手の剣先ばかり見ていれば、足や肩の動きを見落とします」
最初の頃は、左右から揺れてくる布袋を避けようとしても、片方へ集中した瞬間、反対側から肩や背中を叩かれた。
レイネは袋を当てても手を止めず、ルーデウスが姿勢を崩せば、その場で最初からやり直させる。
「攻撃を受けるたびに、身体を大きく仰け反らせてはいけません。必要な分だけ動き、その後も立っていられる位置へ足を置いてください」
「こんな動きは、父様から習っていません」
「旦那様は、実際の打ち合いの中で同じことを教えておられます。ルーデウス様が攻撃を大きく避けた後、次の一撃で追いつかれるのは、避けた姿勢から戻る時間が必要になるためです」
言われてみれば、そのとおりだった。
パウロの一撃を辛うじて回避しても、体勢が崩れたところへ二撃目を受け、結局は木剣を弾き飛ばされる。避けることに成功しただけで安心し、その後の攻防まで考えられていなかったのである。
数週間も続ける頃には、布袋が四方から飛んできても、足を交差させることなく避けられるようになった。
さらにレイネは、相手の身体から攻撃の予兆を読む方法を教えた。
「剣が動くより先に、重心が移動します。右足で地面を蹴るのであれば、その前に右の踵や膝へ変化が現れます。腕だけで斬る者でなければ、肩と腰も動きます」
「父様は動きが速すぎて、そこまで見えません」
「最初からすべてを見る必要はございません。今日は足だけ、明日は肩だけというように、確認する場所を決めてください。何度も同じ型を見せていただけるのですから、少しずつ覚えればよいのです」
翌日の稽古で、ルーデウスはパウロの足だけを見ることにした。
すると、剣が振られるより先に、後ろ足が僅かに沈み込んでいることへ気づいた。そこから踏み込んでくると分かっていれば、剣そのものを見てから動くよりも、遥かに早く反応できる。
一撃目を斜め後ろへかわし、続く横薙ぎへ備えて身体を低くする。
完全に避けることはできず、木剣の先が肩を軽く叩いたものの、以前のように何もできないまま二撃を受けたわけではなかった。
「今のはよかったぞ、ルディ」
パウロは嬉しそうに木剣を肩へ担いだ。
「ようやく相手の動きを先に見られるようになってきたな」
「父様の足を見ていました」
「そうだ。剣士同士の戦いで、剣だけを見る奴は二流だ。相手の全身を見ろ。まあ、本当に強い奴は、全身を見ても何をしてくるのか分からんがな」
パウロは、自分の指導が実を結び始めたと思っているらしい。
それは間違いではない。
実際に正しい剣の動きを見せているのはパウロであり、レイネはルーデウスが見落としている部分を言葉で示しているにすぎなかった。
二人の指導が組み合わさったことで、ルーデウスの剣術は、それまでとは比べものにならない速度で上達していった。
五歳になって間もない頃には、まだ剣神流初級の型を覚えるだけで精いっぱいだった。しかし、ロキシーが旅立ってから数か月が経つ頃には、初級の基本型を一通り修め、中級の足運びや連続攻撃へ進んでいる。
もちろん、パウロには遠く及ばない。
本気どころか、相当に手加減された状態でも、正面からの打ち合いでは一本も取れない。それでも、以前のように数合で剣を失うことは減り、パウロが攻撃の速度を上げなければ、十合以上持ちこたえられる日も現れた。
「同じ年頃の俺よりは、間違いなく強いな」
ある日の稽古後、パウロは満足そうにそう告げた。
「その年で中級の型へ入れる奴は、剣士の家でもそう多くない。魔術ばかりの頭でっかちになるかと思ったが、きちんと剣も続けているのは偉いぞ」
褒められたことは素直に嬉しかった。
ただ、その日の夜には、レイネから別の言葉を受け取った。
「旦那様に認められたことと、実戦で勝てることは同じではございません」
「分かっています」
「ルーデウス様は、ご自分より身体の大きな相手と戦った経験がございません。稽古では旦那様が怪我をさせないよう加減してくださいますが、敵が同じようにしてくれるとは限りません」
「敵と戦う予定はありません」
「それが最もよろしいかと存じます」
レイネは決して、強くなることを煽らなかった。
むしろルーデウスが少し成果を出すたび、今の自分にできないことを忘れないよう、冷静な言葉を添えた。
その慎重さのおかげで、自分は必要以上に調子へ乗らずに済んでいるのだと思う。
◇
剣術と魔術の練習を続けながらも、ルーデウスは家の外へ出る時間を増やしていった。
せっかくロキシーが外へ連れ出してくれたのだから、その経験を一度きりにしたくはなかった。
ある朝、五歳の誕生日にゼニスから贈られた植物辞典を抱え、ルーデウスはパウロへ申し出た。
「父様。今日は村を歩いてきてもよろしいでしょうか」
「庭じゃなくて、村の外をか?」
「はい。植物辞典に載っている草や花を、自分の目で確認したいのです」
パウロは、驚いたようにルーデウスの顔を見た。
息子が外を苦手としていたことには、薄々気づいていたのかもしれない。しかし、その理由を知らないため、身体が弱く、外へ出ることを嫌がる子供だと考えていたようだった。
「もちろん構わない。思えば、魔術と剣術ばかりで、お前に自由な時間をあまり与えていなかったな」
「どちらも僕が続けたいと思っていることですから、不満はありません」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、子供には遊ぶ時間も必要だ。村の子供と会ったら、一緒に遊んでみろ。友達の一人ぐらい作ってこい」
友達。
前世では、随分と縁の遠かった言葉だった。
「分かりました」
「それと、力が強いからといって威張るなよ。魔術も剣も、自分より弱い者を見下すためにあるんじゃない」
パウロは思いのほか真剣な表情で続けた。
「本当に強い奴は、必要もないのに力を振り回さない。誰かが困っている時に、その前へ立てる奴だ」
普段の擬音ばかりの剣術指導より、遥かに分かりやすい言葉だった。
ルーデウスは頷き、日が沈む前には戻ること、危険な森の奥へ入らないこと、帰宅したら歩いた場所を報告することを約束した。
玄関へ向かうと、すでにレイネが外出の準備を整えていた。
植物辞典を入れるための肩掛け鞄には、水筒と簡単な昼食、清潔な布、雨具が収められている。腰にはロキシーから贈られた短い杖を差し、反対側には誕生日に受け取った木剣を提げた。
「木剣まで必要でしょうか」
「お持ちになるだけでしたら、問題ございません。ただし、村の子供との喧嘩にお使いになってはいけません」
「喧嘩をするつもりはありません」
「旦那様も奥様も、そのように仰って外へ出た後、怪我をして帰ってこられたことがございます」
レイネの過去の雇い主の話なのか、パウロとゼニスの冒険者時代を指しているのかは分からなかった。
「自分から手を出しません。危険な場所にも近づきません。日が暮れる前に帰ります」
「では、行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
門を越える瞬間には、まだ胸の奥が僅かに強張った。
しかし、足は止まらなかった。
ロキシーと出かけた日と同じように、門の先には土の道が続き、村人がそれぞれの仕事をしているだけだった。
すれ違う者へ挨拶すると、多くの者がルーデウスのことを知っていた。
パウロとゼニスの息子であり、水色の髪をした魔術師の弟子。
その二つの肩書のおかげで、初めて話す村人も親しげに応じてくれた。
最初の数日は、家の近くを歩くことから始めた。
畑で育てられている麦や野菜を植物辞典と照らし合わせ、香水の材料となる薄紫色の花を見つければ、葉の形や香りを確かめる。
家へ戻ると、見つけた植物について紙へ書き、分からなかったものはゼニスやレイネへ尋ねた。
「こちらの草は、辞典に載っていませんでした」
「村では家畜の餌へ混ぜることがございます。ただし、似た形の毒草もございますので、お一人で採取してはいけません」
レイネは知っている範囲で答え、分からないものについては曖昧に推測せず、翌日村人へ確認した。
歩ける範囲が広がるにつれ、ルーデウスは丘や森の近くまで足を延ばすようになった。
森の中には魔力溜まりが生まれやすく、魔物が発生することもある。ブエナ村周辺では、パウロや狩人、自警団が定期的に森を巡回しているため危険は少ないらしいが、何が起きても安全とは限らない。
増長してはいけない。
魔術が使え、剣術も原作の自分より早く上達しているからといって、実戦経験のない五歳児であることは変わらない。
魔物を見つけた場合は戦わず、すぐに村へ戻ってパウロへ知らせる。
その方針を決めたうえで、ルーデウスは森の手前にある小高い丘へ向かった。
丘の上には、この周辺で最も大きな木が一本だけ立っている。そこからなら村全体を見渡すことができ、歩いて覚えた道を確認するのにも都合がよかった。
ところが、丘を登っている途中、風に乗って子供たちの声が聞こえてきた。
「魔族は村に入ってくるな!」
「そっちへ行けよ!」
声を聞いた瞬間、前世の記憶が蘇った。
教室の中で向けられた笑い声と、身体へ浴びせられた暴力。相手を人間として扱わず、大勢で一人を追い詰める時の、独特な声音だった。
胸の奥が冷たくなり、足が一瞬だけ止まる。
以前の自分であれば、その場から離れていたかもしれない。自分が標的になることを恐れ、見なかったことにしていた可能性もある。
しかし、身体は完全には固まらなかった。
毎日の稽古で繰り返してきた呼吸が、無意識のうちに足へ力を戻した。
恐怖を感じていても、姿勢を崩さない。
相手だけを凝視せず、周囲の状況を見る。
レイネから何度も教えられたことが、考えるより先に身体を動かしていた。
丘の向こう側を見ると、泥の溜まった畑の近くに、三人の子供がいた。いずれもルーデウスより少し年上で、その中央では、一人の小柄な子供が胸へ籠を抱え、全身へ泥を浴びながら立っている。
三人は泥を丸め、籠へ当てれば何点だと笑いながら投げつけていた。
ルーデウスは走り出した。
走りながら手元へ泥の塊を作り、いじめっ子たちとの距離が縮まったところで、最も身体の大きな子供へ投げる。
泥玉は相手の顔へ命中した。
「ぶっ!」
「何だよ、お前!」
三人の注意が一斉にこちらへ向いた。
「関係ない奴が入ってくるな!」
「魔族の味方をするのかよ!」
「魔族の味方ではありません」
ルーデウスは泥を浴びている子供と、三人の間へ立った。
「三人で一人を狙うような人たちの敵です」
少し格好をつけすぎたかもしれない。
三人は一瞬呆気に取られた後、腹を立てたように泥玉を拾い始めた。
「騎士の家の坊ちゃんだろ!」
「偉そうにするな!」
泥玉が三方向から飛んでくる。
以前であれば、魔術で防壁を作るか、大きく横へ飛んで逃げていただろう。
しかし、今のルーデウスには、パウロの足運びと、レイネから繰り返し教えられた距離の取り方がある。
最初の泥玉へ肩を僅かに引いて避け、二つ目には身体を低くする。三つ目は前足を半歩引くだけで通過させ、その間にも相手との距離を確認する。
一つの攻撃を大きく避けすぎず、次の動作へ移れる位置へ足を置く。
布袋を使った訓練と比べれば、子供が投げる泥玉は遅かった。
「あ、当たらない!」
「囲め!」
一人が泥玉を捨て、正面から走ってきた。
ルーデウスは木剣へ手を伸ばしかけたものの、レイネとの約束を思い出して手を離す。
相手が腕を振り上げた瞬間、足を斜め前へ出して身体の外側へ回り込み、肩へ手を添えた。勢いのまま進もうとする相手の足元へ、自分の足を軽く差し入れる。
子供は泥の上へ前のめりに転んだ。
殴ってはいない。
怪我をさせるような投げ方でもない。
ただ、進む方向を僅かに変えただけである。
それでも、三人にとっては十分だったらしい。
自分たちより年下の子供へ泥玉を一つも当てられず、正面から向かった一人が簡単に転ばされた。さらにルーデウスの腰には杖と木剣があり、パウロの息子が魔術を使えることも、村の中では知られている。
「こいつ、変だぞ!」
「兄ちゃんたちを呼んでくるからな!」
「魔族と仲良くしてたって言いふらしてやる!」
三人は負けたわけではないと言い張りながら、泥だらけになった仲間を連れて逃げていった。
ルーデウスは、その背中が十分に離れるまで追わなかった。
勝ったという実感よりも、手が僅かに震えていることの方が気になった。
稽古とは違う。
相手が本当に自分を傷つけようとしてくる状況では、身体が動いても恐怖そのものが消えるわけではなかった。
それでも逃げなかった。
誰かを守るために前へ立ち、誰にも大きな怪我をさせずに終わらせた。
少なくとも、パウロから教えられた強さの使い方を、大きく間違えてはいないと思う。
「大丈夫ですか?」
泥を投げられていた子供へ振り返る。
自分と同じぐらいの年齢だろうか。服も顔も泥だらけで、髪の色さえ分からない。胸へ抱えていた籠だけは、身体を丸めて守ったらしく、ほとんど汚れていなかった。
「う、うん……」
小さな声だった。
「その籠は無事ですか?」
「お父さんの、お弁当……」
中身が壊れていないことを確かめた後、ルーデウスは近くの用水路へ相手を連れていった。
冷たい水をそのまま浴びせれば身体を冷やしてしまうため、水魔術と火魔術を組み合わせ、少し温かい湯を作る。それを頭からゆっくり流し、泥を洗い落としていった。
最初は驚いて身体を固くしていたものの、熱くないと分かると、相手も大人しく身を任せた。
泥の下から現れたのは、エメラルドグリーンの髪だった。
耳の先は細く尖り、顔立ちは驚くほど整っている。
一瞬、ロキシーから聞いたスペルド族の特徴を思い出したが、額に赤い宝石は見当たらない。緑色の髪だけで危険な種族だと決めつけるべきではないだろう。
「ありがとう……」
「気にしないでください」
温風で髪を乾かしながら話を聞くと、その子供の父親は半分だけ長耳族の血を引き、母親にも僅かに獣族の血が混じっているという。
本人は自分の種族をよく知らなかった。
両親とは違う緑色の髪を持って生まれ、それが恐れられているスペルド族に似ているというだけで、村の子供たちからいじめられているらしい。
「君は怖くないの?」
「額に赤い宝石もありませんし、そもそも髪の色だけで人を危険だと決めるつもりはありません。僕の先生も魔族でしたから」
その子供は、信じられないものを見るようにルーデウスを見つめた。
「さっきの人たちは、いつもああなのですか?」
「もっと大きい子が一緒にいる時もある。やり返すと、たくさん来るから……」
抵抗すれば、さらに大勢で痛めつけられる。
前世でもよくある構図だった。
単純に反撃しろと言うだけでは、問題を悪化させる可能性がある。
「今日は、お父さんへお弁当を届けるのですか?」
相手が頷いたため、ルーデウスは一緒に行くことにした。
いじめっ子たちが兄や年上の子供を連れて戻ってくる可能性がある以上、途中で一人にするのは心配だった。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
道を歩き始めてから、隣の子供が遠慮がちに尋ねた。
「父様から、強さは弱い人へ威張るためではなく、困っている人の前へ立つためにあると教えられました」
「でも、君まで仲間外れにされるかもしれないよ」
「その時は、あなたが一緒に遊んでください」
ルーデウスは足を止め、相手へ手を差し出した。
「今日から友達になりましょう」
緑色の髪をした子供は、目を大きく見開いた。
すぐには手を取らず、差し出された指先とルーデウスの顔を何度も見比べている。
やがて、おそるおそる小さな手が重ねられた。
「うん……」
その声は、先ほどまでよりも僅かに明るかった。
森の近くにある見張り櫓へ到着すると、弓を持った金髪の男性が二人を迎えた。
尖った耳を持ち、線の細い身体には狩人らしい筋肉がついている。緑色の髪をした子供の父親であり、名をロールズというらしい。
「お父さん、お弁当……」
「ありがとう、シルフィ。今日は途中で何もされなかったか?」
「されたけど、助けてもらった」
そこでルーデウスは、初めて友達になった子供の名前を知った。
シルフィエット。
家族からはシルフィと呼ばれているらしい。
ロールズはパウロとも知り合いであり、森の見張り当番を通じて互いの子供について話したこともあるという。
「この子は見た目こそ少し珍しいが、私たちの大切な子供だ。仲良くしてやってほしい」
「もちろんです。仮にどのような種族だったとしても、それだけで態度を変えるつもりはありません」
ルーデウスが答えると、ロールズは感心したように笑った。
その後、しばらく大人のような会話を続けていると、シルフィがルーデウスの袖を小さく引いた。
父親との話ばかりで、友達になった本人を放置してしまっていたらしい。
「それでは、僕たちは少し近くを見てきてもよろしいですか?」
ロールズの許可を得ると、二人は櫓の近くにある大木まで歩いた。
その日は魔術や文字を教えることもなく、互いの家の話をしながら、植物辞典に載っている花を探した。
前世を含めても、ルーデウスには同年代の友人と二人で遊んだ記憶がほとんどない。
何を話せばよいのか分からず、時折沈黙が訪れた。
しかし、不思議と気まずくはなかった。
シルフィも口数の多い子供ではなく、ルーデウスが植物の名前を説明すると、興味深そうに頷いた。自分が知っている場所については、森の近くに咲く花や、食べられる木の実の位置を教えてくれた。
やがて日が傾き始めたため、次に会う約束を交わして別れることになった。
「明日も、ここへ来る?」
「剣術の稽古が終わってからになりますが、来ます」
「本当に?」
「友達との約束を、初日から破るつもりはありません」
シルフィは、初めてはっきりと笑った。
その表情を見た時、助けてよかったと心から思えた。
レイネ視点
夕方、ルーデウスがグレイラット家へ戻った時、レイネは門の前で洗濯物を取り込んでいた。
出発した時よりも衣服が汚れ、靴にも泥がついている。肩掛け鞄や植物辞典には目立った損傷がないものの、右手の袖口だけが僅かに伸びていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
いつもと同じ挨拶だったが、ルーデウスの顔には、疲労とは異なる高揚が浮かんでいる。
「何か、よいことがございましたか?」
「友達ができました」
答えるまでに一切の迷いがなかった。
レイネは抱えていた洗濯籠を台へ置き、ルーデウスの前へ膝をついた。
「それは、おめでとうございます」
「シルフィエットという男の子です。シルフィと呼ばれています」
「そうでございますか」
レイネは名前を聞いても、特別に驚いた様子を見せなかった。
まず衣服についた泥を確認し、手首や頬へ怪我がないかを調べる。表面に傷はなかったが、袖の伸び方から、誰かと身体を接触させたことは察したらしい。
「お友達と遊んだだけでは、このような汚れ方にはならないかと存じます」
ルーデウスは、いじめの現場を見つけ、三人の子供からシルフィを助けたことを説明した。
魔術で泥玉を一度投げたこと、その後は相手の攻撃を避け、向かってきた一人を転ばせただけで追い払ったことも、隠さず話す。
レイネは最後まで遮らずに聞いた。
「木剣はお使いになりましたか?」
「いいえ。レイネとの約束を思い出しました」
「攻撃魔術を直接お身体へ当てましたか?」
「泥玉を顔へ投げましたが、石などは混ぜていません。怪我はしていないと思います」
「相手を追いかけましたか?」
「逃げた後は追っていません」
必要な確認を終えると、レイネは小さく息を吐いた。
「最善であったかどうかは、私には判断できません。ただ、大きな怪我をさせず、お友達を守れたことはよかったと思います」
「父様へ言いますか?」
「お話しにならないおつもりですか?」
問い返され、ルーデウスは考え込んだ。
自分が悪いことをしたとは思っていない。しかし、パウロは村の騎士であり、村人同士の問題を把握する立場でもある。いじめっ子の親から先に話を持ち込まれれば、事情が歪んで伝わる可能性もあった。
「自分で話します」
「それがよろしいでしょう」
レイネは立ち上がり、ルーデウスの肩掛け鞄を受け取った。
「旦那様へお話しになる前に、お身体と衣服をきれいにいたしましょう。泥だらけのままでは、喧嘩をなさったことばかりに目が向いてしまいます」
「怒られるでしょうか」
「ルーデウス様が約束を守り、ご自分から正直に説明なされば、少なくとも一方的に叱られることはないかと存じます」
それからレイネは、少しだけ微笑を深くした。
「それよりも、旦那様はご自分の教えを守って誰かを助けたと知れば、随分とお喜びになるでしょう」
実際、その日のパウロは、いじめの存在については険しい顔をしたものの、ルーデウスがシルフィを守ったことについては隠しきれないほど誇らしげだった。
ただし、子供同士の問題へ騎士が直接介入すれば余計に悪化する可能性もあるため、まずロールズや相手の親と状況を確認することになった。
翌朝、レイネはルーデウスの昼食を、普段より少し多く用意した。
「一人分にしては多くありませんか?」
「お友達と召し上がる可能性がございますので」
「シルフィの分ですか?」
「必要なければ、ルーデウス様がお召し上がりください」
布に包まれた昼食は、きちんと二つに分けられるよう作られていた。
ルーデウスは礼を言い、それを鞄へ入れた。
門を出ていく背中は、数日前までよりも軽く見えた。
ルーデウス視点
それ以降、ルーデウスは剣術の稽古と魔術の練習を終えるたび、丘の上にある大木へ向かうようになった。
シルフィも家の手伝いがない日は、同じ場所へ来た。
最初は植物を探したり、木の実を集めたりするだけだったが、シルフィがルーデウスの魔術へ興味を示したことで、二人の過ごし方は少しずつ変わっていった。
「ルディみたいに、ボクも魔術を使えるかな」
「魔力があれば使えると思います。ただし、無理をしてはいけません」
ルーデウスは、自分がロキシーから教わったように、最初は詠唱を使って水魔術を教えることにした。
いきなり無詠唱を試させ、魔力の感覚が分からないまま失敗させるべきではない。まず正しい術の形と詠唱を覚え、身体の中で何が起きているのか確認する必要がある。
もっとも、シルフィは十分な読み書きができなかった。
そのため魔術と同時に、文字も教えることになった。
レイネへ相談すると、翌日には二人分の小さな板と、消して繰り返し使える筆記具が用意された。
「紙を毎日お使いになるより、こちらの方がよろしいでしょう」
「わざわざ作ったのですか?」
「倉庫にあった板を整えただけでございます」
「シルフィへ魔術を教えることについては、何も言わないのですか?」
「ご両親の許可はございますか?」
指摘され、ルーデウスはその日のうちにロールズへ確認した。
攻撃魔術を子供へ教えることに不安はあったようだが、パウロの息子が責任を持ち、危険な術を使わせないという条件で許可を得ることができた。
さらにレイネは、シルフィが一日に何度魔術を使用し、どの程度疲れたのかを記録するよう求めた。
「ルーデウス様と同じ魔力量を持っているとは限りません。ご自分が平気だからといって、同じ回数を続けさせてはいけません」
「分かっています」
「魔力切れで倒れるまで続けることも禁止でございます」
「僕は倒れましたが、その後に魔力量が増えました」
「ご自分が一度失敗したからこそ、お友達に同じ失敗をさせてはいけません」
反論できなかった。
シルフィは初めこそ詠唱へ苦戦したものの、文句を言わず、同じ練習を何度も繰り返した。失敗しても諦めず、ルーデウスの説明を真剣に聞き、少しずつ水球の形を作れるようになっていった。
成功した瞬間、シルフィは飛び上がるように喜んだ。
「できた! ルディ、できたよ!」
「はい。よくできました」
ロキシーの口調を真似て答えると、シルフィは嬉しそうに笑った。
誰かへ教えるのは難しかった。
自分が無意識に行っていることを、相手が理解できる形へ変えなければならない。説明しても伝わらない時、同じ言葉を繰り返すだけでは意味がない。
そんな時には、レイネが自分へしてくれたように、別の角度から考えた。
水球を作れと言うだけでなく、器へ水を注ぐ時の感覚を思い出させる。魔力を一気に出すのではなく、細い流れを手の先へ集めるよう説明する。
レイネから剣術を教わる時には、それをパウロの動きを言葉へ置き換えているだけだと思っていた。
しかし、自分が教える立場になって初めて、相手に伝わる言葉を選ぶこと自体が、簡単ではない技術なのだと分かった。
二人が丘の上で過ごすようになると、以前のいじめっ子たちが再び近づいてくることもあった。
最初の三人だけではなく、少し年上の子供を連れてきたこともある。
ルーデウスは、できる限り戦わずに済ませようとした。パウロが相手の親へ話を通したこともあり、多くの場合は言葉だけで引き下がった。
それでも、数を頼みに木の棒を振り回してきた時には、逃げるだけではシルフィを守れなかった。
その頃には、ルーデウスの剣術はさらに上達していた。
相手の棒が動くより先に肩と足を見る。正面から受け止めず、斜めへ外れながら木剣の根元で軌道をずらす。二人目が横から近づけば、振り向きざまに手首を軽く叩き、棒を落とさせる。
強く打てば骨を傷める可能性があるため、狙うのは武器と、踏み込もうとする足の前だけだった。
木剣を地面へ当て、進路を塞ぐ。
相手が躓けば、追撃せずに距離を取る。
魔術は、足元を少し濡らして動きを鈍らせる程度に留めた。
ルーデウスより身体の大きな子供たちは、一度もまともに木剣を当てられないまま、武器だけを落とされた。
最後には恐れたように後退し、捨て台詞を残して逃げていった。
「ルディ、すごい……」
シルフィは尊敬の眼差しを向けてきた。
その視線は嬉しかったが、同時に少し危うくも感じられた。
自分を何でもできる人間だと思わせてはいけない。
「今の人たちは、剣術を習っていませんでした。父様が相手なら、僕は一度も勝てません」
「でも、ボクを守ってくれたよ」
「それは、友達ですから」
そう答えると、シルフィは頬を赤くしながら俯いた。
その日の帰宅後、ルーデウスは出来事をレイネとパウロへ報告した。
パウロは息子の成長を確認するため、その場で木剣を持って庭へ出た。
「相手が年上でも、武器を持った子供を何人も追い払ったそうだな」
「大きな怪我はさせていません」
「そこを責めるつもりはない。お前が、どこまで動けるようになったのか見ておきたいだけだ」
簡単な打ち合いが始まった。
パウロは普段よりも速く踏み込み、右上から木剣を振り下ろす。
ルーデウスは、剣を見るより先に腰と足の動きを捉えた。斜め後ろへかわしながら、木剣の腹で攻撃を外側へ流す。
次の横薙ぎには姿勢を低くし、三撃目が始まる前にパウロの右側へ回り込む。
反撃の木剣を胴へ向けたが、届く寸前で弾かれた。
手の中から剣が飛び、地面へ転がる。
勝つことはできなかった。
それでも、パウロは攻撃を終えた後、驚いたように自分の脇腹を見ていた。
ルーデウスの木剣は当たらなかったものの、衣服の端を僅かに掠めていた。
「今のは、かなりよかった」
パウロは木剣を下ろし、真剣な表情で息子を見た。
「まだ力も速度も足りないが、足運びと相手を見る力は、中級の入口どころじゃない。少なくとも、型だけなら中級を名乗っても問題ないだろう」
五歳で剣神流中級。
原作のルーデウスより、明らかに早い成長だった。
魔術師としての才能だけでなく、剣士としても形になり始めている。
「ただし、今日の相手に勝てたからといって、調子へ乗るな。お前より強い子供も、世の中にはいくらでもいる。才能がある奴も、毎日剣を振っている奴もな」
「はい、父様」
「それと、友達を守ったのは立派だ。俺が教えたことを、きちんと覚えていたようだな」
パウロは照れ隠しをするように、ルーデウスの頭を乱暴に撫でた。
稽古が終わった後、レイネはいつものように水と布を持ってきた。
「中級と認めていただけましたね」
「レイネのおかげです」
「旦那様の教えと、ルーデウス様が続けた努力の結果でございます」
「レイネがいなければ、父様の説明を理解するまで、もっと時間がかかりました」
そう言われたレイネは、すぐには否定しなかった。
ルーデウスの木剣へついた土を拭いながら、静かに口を開く。
「では、少しだけ私の助言も役立ったということにしておきましょう」
珍しく、自分の働きを完全には隠さない言葉だった。
「ただし、強くなったからといって、戦うことを楽しんではいけません。相手を傷つけずに済ませられたことを、勝ったことより大切になさってください」
「分かっています」
「明日からは、中級としての足運びに合わせ、訓練を少し変更いたします」
「まだ増えるのですか?」
「強くなりたいと仰ったのは、ルーデウス様でございます」
穏やかな微笑を向けられ、ルーデウスは苦笑するしかなかった。
翌日も、剣術の稽古が終われば丘へ向かった。
大木の下では、シルフィが魔術教本を抱えて待っている。
朝にはパウロから剣を教わり、理解できなかった部分をレイネと確かめ、午後には自分がシルフィへ文字と魔術を教える。
学ぶ側だった自分が、誰かへ教える立場にもなり始めていた。
ロキシーが残してくれたものと、パウロから受け取ったもの、そしてレイネが理解できる形へ整えてくれたものが、少しずつルーデウスの中で一つにつながり始めている。
その隣には、今世で初めてできた友達がいた。
ルーデウスの日常は、家の中だけで完結していた頃よりも、確実に広がっていた。