ルーデウス視点
サイレント・セブンスター――七星静香と初めてまともに話してから、七日が経った。
その一週間、俺とレイネは彼女から借りた研究記録をかなりの時間を使って読み込んでいた。
召喚陣の形状、術式ごとに変更された記号、使用した触媒、実験へ魔力を供給した術者、その時に流された魔力量、発光した場所、術式が停止した時点、そして失敗した際に起こった現象。
一件ごとの記録だけなら、それほど長いわけではない。
問題は数だった。
七星はこの世界へ来てから、自分で魔術を使えない身体のまま、帰還する方法を探し続けている。
小さな条件変更を繰り返し、そのたびに結果を書き残す。
同じように見える失敗であっても、どの線まで魔力が届いたのか、紙が焼けた場所はどこか、術者が感じた抵抗はどうだったかまで記録されていた。
食後に食卓へ資料を広げすぎたせいで、三日前にはシルフィから笑われた。
「ルディ、レイネ。そこまで広げたらご飯を置く場所がなくなるよ」
二人で顔を見合わせた結果、それからはその晩に確認する分だけを食卓へ持ってくることにした。
もっとも、広げる量を減らしたからといって、読むべき資料まで減るわけではない。
そして今日が、七星との二度目の面会日だった。
前回と違い、今回は話を聞くだけではない。
俺自身の魔力を、七星の召喚陣へ初めて供給する。
朝食を食べながら、シルフィが俺たちの椅子の横に置かれた大きな鞄へ目を向けた。
「それ、今日使うもの?」
「はい」
鞄の中には、細い糸、小型の杭、振り子、記録用紙、予備のインク、物差し、それから魔力を使わず周囲の変化を確認するための小道具が入っている。
ほとんどレイネが用意したものだ。
「最初から大きな実験をするわけじゃないんだよね?」
「しません」
俺はパンを置いて答えた。
「今日は七星さんが何度も使っていて、危険な反応が確認されていない小型の術式だけです。僕がこれまでの術者より多く魔力を出せるからといって、いきなり限界まで流したりもしません」
「変なことが起きたら?」
「その場で止めます」
シルフィは今度はレイネを見る。
信用されていないというより、俺一人の判断だけではなく、もう一人からも同じ答えを聞いて安心したいのだろう。
レイネも意図を理解したらしい。
「中止条件については、昨夜のうちにルーデウス様と確認しております。サイレント様にも、明確な異常が確認された場合には私から停止を求めることを了承していただいております」
「なら、いいかな」
シルフィの肩から少し力が抜けた。
俺としても、ここまで警戒される理由は分かっている。
フィットア領転移事件。
母様が遠くベガリット大陸へ飛ばされた原因。
七星が同じ頃に別の世界からこの世界へ現れた理由。
知りたいことはいくらでもある。
そこへ母様へつながる可能性まで見えてしまえば、早く先へ進みたいという気持ちが出てくることも自覚していた。
だからこそ、今日どの時点で止めるのかを先に決めた。
実験中になってから「あと少しなら大丈夫だろう」と基準を変えないためだ。
「じゃあ、帰ってきたら教えてね」
「はい」
「話せる範囲で構いませんよね?」
俺が確認すると、シルフィが頷いた。
「もちろん。サイレントさんが秘密にしたいところまで聞き出したいわけじゃないよ」
朝食を終えると、シルフィはアリエル様のもとへ向かい、俺とレイネも大学へ出発した。
◇
講義が始まるには少し早かったので、俺は訓練場へ寄った。
朝のこの時間なら利用している学生も少ない。
研究用の鞄をレイネへ預け、訓練用の木剣を一本取る。
軽く身体をほぐしてから、十数回ほど素振りをし、続いて足運びを確認した。
俺が剣だけでエリスやギレーヌへ追いつけるとは思っていない。
闘気もまとえない。
それでも、剣士に距離を詰められた途端に足が絡まり、転ぶような状態でいる必要もない。
魔術を使うにしても、自分の足がどこへ動けるのか分かっている方がいい。
距離を取る。
相手の正面を外す。
射線を確保する。
その程度なら、剣士でなくても覚えておいて損はない。
何度か足を入れ替えながら木剣を振っていると、背後から聞き覚えのある笑い声が響いた。
「フハハハハハ!」
振り返る。
黒曜石のような巨大な身体。
六本の腕。
数日前、俺の岩砲弾によって上半身を吹き飛ばされたとは思えないほど元気なバーディガーディが、訓練場の入口に立っていた。
大学側との手続きも終わり、現在は正式に特別生として校内を歩き回っている。
ただし、何を学ぼうとしているのかはいまだによく分からない。
少なくとも今のところ、学生との雑談と宴会については誰より熱心そうだった。
「おはようございます、バーディガーディ様」
「うむ! 今朝も剣を振っておるな!」
「習慣なので」
バーディガーディは二本の腕を胸の前で組み、残りの腕を適当に腰へ置いた。
「闘気をまとえぬと分かっていても振るのか?」
「剣士になるつもりはありません。でも、剣士に近づかれた時の動きくらいは覚えておきたいので」
「ふむ!」
大きく頷く。
「ならば振るがよい!」
どうやら許可されたらしい。
別に許可を求めてはいない。
俺がもう一度木剣を構えると、バーディガーディが何気なく続けた。
「しかし貴様の魔力を見ると、ラプラスを思い出すな!」
木剣を止めた。
「魔神ラプラスですか?」
「うむ!」
その名前は聞き流せない。
スペルド族の歴史にも深く関わり、世界史へ大きな傷を残している存在だ。
「どこが似ているんです?」
「魔力よ!」
バーディガーディが笑う。
「貴様の魔力量は、人族として見れば馬鹿げておる! ラプラスもまた、呆れるほど多かった!」
あまり嬉しい比較ではない。
「僕と同じくらいですか?」
「さてな! いちいち量ったことなどない!」
「そうですか」
「だが、貴様ほどの魔力を持つ人族は珍しい!」
それだけ言うと、バーディガーディは俺の持つ木剣へ視線を向けた。
「だからといって、何でもラプラスの真似をしようとはするなよ!」
考えていたことを先回りされた。
「まだ何も言っていません」
「顔に出ておる!」
そんなに分かりやすいだろうか。
少し離れたところで鞄を確認していたレイネを見る。
ちょうど目が合った。
何も言わない。
少なくとも、今すぐラプラスの戦い方をバーディガーディから聞き出して真似するよう勧める様子ではなかった。
「同じだけ魔力が多いからといって、同じ戦い方ができるとは限らぬ!」
「それはそうですね」
俺とラプラスは違う。
何が違うのかすら、ほとんど知らない。
ただ魔力が多いという一つの共通点だけで、使い方まで真似するのは危険だ。
「今の自分にできることを伸ばします」
「それがよかろう!」
バーディガーディは満足そうに笑った。
俺は残りの素振りを終え、木剣を元へ戻す。
魔術。
魔眼。
地形。
距離。
仲間との連携。
今の俺に使えるものはいくつもある。
オルステッドのような相手を倒せるようになるなどとは考えていない。
ただ、次にどうしようもなく強い相手へ遭遇した時、前より少しでも生き残れる可能性を増やしたい。
それで十分だった。
◇
午前の講義は、中級解毒魔術だった。
レイネは別の教室で結界魔術の上級講義へ参加している。
俺は教師が黒板へ書き始めた長い詠唱を紙へ写していく。
解毒魔術という名前だけなら、毒を消すための魔法という印象しかなかった。
実際にはかなり細かい。
初級で扱える一般的な毒。
特定の魔物だけが持つ毒。
症状が進んでから使うもの。
身体の一部へ異常な魔力が残留した場合の処置。
似た症状でも原因によって術式が変わる。
そして、何より詠唱が長い。
教師は黒板の端まで書き終えると、当然のような顔で言った。
「本日は七つ覚えます」
多いな。
そう思ったものの、途中で放り出す気はなかった。
ベガリット大陸には強力な魔物が多い。
《転移の迷宮》について調べても、転移罠だけ注意していればいい場所ではない。
それに、母様が見つかった時、どんな状態なのかも分からない。
今すぐ使う予定がないからといって、覚える必要がないとは思えなかった。
講義の途中、魔力の異常蓄積に関する症例が一つ出た。
エリナリーゼの呪いとは仕組みが違う。
少なくとも、説明を聞いただけで同じものと判断する材料はない。
それでもクリフ先輩なら、比較資料として見たがるかもしれない。
後で講義資料を渡しておけばいいだろう。
使える情報かどうかは、クリフ先輩やレイネ、そして何よりエリナリーゼ本人が判断すればいい。
授業が終わる頃には、何枚もの紙が詠唱と説明で埋まっていた。
俺はそれらを鞄へしまった。
◇
昼食は一階の食堂で取った。
もう外での食事は寒い。
ザノバとジュリが先に席を取っていたので、俺とレイネもそちらへ向かう。
席へ着くなり、ザノバが口を開いた。
「師匠。本日、少し見ていただきたいものがございます」
「人形ですか?」
「はい」
「午後の予定がありますので、昼食後に少しだけなら」
「もちろんでございますぞ」
隣にいるジュリも嬉しそうに頷いた。
「せんせ、からだできた」
「本当ですか?」
「うん」
新しく作り始めた人形の胴体だ。
《ルード人形・第一号》は戻らない。
同じものを再現しようとしているわけでもない。
ザノバはあの一体を失った事実を抱えながら、新しいものを作り始めている。
「ジュリはどこを?」
「みぎうで」
「それも見せてください」
「うん」
そこへ横から声が掛かった。
「ルーデウス」
クリフ先輩だ。
エリナリーゼも一緒にいる。
二人が並んでいる姿も、今では珍しくなくなった。
クリフ先輩の手には数枚の紙がある。
「レイネ、昨日の記録だ」
「ありがとうございます」
レイネが受け取る。
クリフ先輩が何か続けようとしたところで、エリナリーゼが軽く腕へ触れた。
「続きは研究室でなさったら?」
クリフ先輩が周囲を見る。
「ああ……そうだな」
エリナリーゼの呪いについて、ここで具体的な話をする必要はない。
「今日、確認できるか?」
「申し訳ございません。本日の午後は、サイレント様との研究がございます」
「ああ、今日だったな」
クリフ先輩はあっさり頷いた。
「なら明日でいい。急ぎじゃない」
「承知いたしました。明日、改めて伺います」
「追加の記録も用意しておく」
「お願いいたします」
エリナリーゼが笑う。
「今夜、増やしすぎないでね?」
「必要な分しか増やさない!」
「その言い方が少し心配ですわ」
「僕は何も勝手にしない!」
「でしたら問題ありませんわ」
エリナリーゼは満足そうだった。
二人はそのまま別の席へ向かう。
ザノバがその背中を見ながら言った。
「クリフ殿も、随分とエリナリーゼ殿の言葉を聞かれるようになりましたな」
「本人の近くでは言わない方がいいですよ」
「なぜでございます?」
「たぶん怒るので」
ジュリが小さく笑う。
昼食を終えた後、俺たちはザノバの研究室へ寄り、新しい人形を少しだけ確認した。
胴体はまだ途中だが、《ルード人形・第一号》を作っていた頃より左右の形が揃っている。
ジュリの右腕も細く、人間らしい形になってきていた。
「ここまで作れるようになったんですね」
「まだゆび、むずかしい」
「指は後でいいですよ。腕の太さが安定してから一本ずつ作りましょう」
「うん」
ザノバは自分の人形を慎重に持ち上げる。
昔なら、見ている俺まで壊れないか心配になるような動作だった。
今では指先に必要以上の力を入れず、細かな部品を持つことにも慣れてきている。
「右肩が少し高いですね」
「こちらでございますか?」
「はい」
ザノバは左右を何度も見比べ、それからほんの少しだけ削った。
「これ以上は、本日の夜にいたします」
「もうやめるんですか?」
「今急いで触れば、余計な部分まで削る可能性がありますゆえ」
「それがいいと思います」
完成を急ぐ必要はない。
俺たちは片づけを手伝い、研究室を出た。
◇
午後。
俺とレイネは研究棟第三棟の最上階へ向かった。
一週間前。
ここへ来た時は、白い仮面を見ただけで身体が固まった。
今日も何も感じないわけではない。
階段を上るほど、雪の残る山道の記憶が浮かんでくる。
オルステッド。
胸へ突き入れられた腕。
倒れたエリスとルイジェルド。
俺へ向かって走るレイネ。
喉が乾く。
けれど、足は止まらなかった。
研究室の扉を叩く。
「入って」
七星の声。
扉を開ける。
白い仮面。
身体の奥へ小さな緊張が走ったが、今度はその場で呼吸を整えられた。
七星は机へ大量の紙を並べている。
「時間どおりね」
「はい」
レイネは挨拶を済ませ、鞄から持参した道具を取り出し始めた。
糸。
杭。
振り子。
物差し。
記録用紙。
七星が仮面越しに見る。
「本当に全部持ってきたのね」
「必要になる可能性があると判断いたしました」
「糸も?」
「はい」
「その振り子も?」
「はい」
「……分かった」
前回話し合ってあるため、止めるつもりはないらしい。
今日使うのは小型の召喚陣だった。
机の上へ置ける大きさの紙へ細かな線が描かれている。
七星の説明では、すでに何度も使用され、大きな異常が起きていない系列の術式らしい。
今回確認するのは召喚対象そのものではない。
魔法陣の一部にある記号を少しずつ変え、それによって魔力がどう流れるのかを測定する。
七星自身も、その記号の意味を完全には理解していない。
「距離に関係する部分だと思ってる」
「どれほど遠くから召喚するか、ということですか?」
「そうかもしれない。でも仮説よ」
完成した異世界召喚陣を持っていて、それを微調整しているわけではない。
七星は、魔法陣を構成している記号の一つ一つが何を意味しているのかを、失敗しながら切り分けている。
帰還まで遠いという言葉の意味が、ようやく少し分かってきた。
レイネが術式の周囲へ糸を張り、振り子を置く。
紙そのものも、昨夜七星の記録から写した図と照らし合わせた。
「変更点はございません」
「じゃあ始めるわ」
七星が記録板を持つ。
「最初はここまで」
紙の横へ、小さな印を置いた。
「分かりました」
俺は魔法陣へ手を置く。
ゆっくり魔力を流す。
陣が淡く光った。
決められた量で止める。
何も起きない。
光が消える。
七星は結果を書き込んだ。
二枚目。
同じ。
三枚目も変化なし。
四枚目では途中で一部の線が焼けたので、すぐ魔力を止めた。
レイネが糸や振り子を確認する。
「周囲へ変化はございません」
七星が焼けた部分を確認して記録する。
次。
その次。
作業は地味だ。
魔力を流す。
規定量で止める。
術式を交換。
また流す。
ただし、魔法陣ごとに魔力を受け入れる感触が少し違う。
決められた量を超えず、毎回ほぼ同じ速度で魔力を供給し続けるには、思ったより集中力を使った。
十枚を終えたところで、俺は手を止めた。
「少し休みます」
七星がすぐに頷いた。
「そうして。供給量がぶれたら比較できなくなる」
「はい」
水を飲む。
レイネが途中までの記録を確認している。
「七枚目と九枚目では、供給開始直後の吸収速度へ僅かな差がございます」
「見せて」
七星が紙を受け取る。
二人で数字を見る。
「……本当ね」
俺の感覚ではほとんど分からない程度だった。
ただ、記録として並べると確かに差がある。
休憩を終え、実験を再開した。
十一枚目。
大きな変化なし。
十二枚目も同じ。
そして十三枚目。
手を置き、魔力を流し始めた瞬間だった。
感触が違う。
こちらから押し込むというより、魔法陣の方から魔力を引かれている。
「吸われる感じがあります」
俺が言う。
七星がすぐ記録へ目を落とした。
「予定量まで続けて」
流す。
普通ならそこで吸収が弱まるはずだった。
しかし止まらない。
上級魔術一回分。
さらにその先。
「予定量を超えました」
「まだ術式は維持されてる」
七星の声に僅かな緊張が混じる。
「ルーデウス様、供給速度を半分へ」
レイネが言う。
俺はすぐに従った。
魔法陣の光が変わる。
これまで外周から不規則に光っていた線が、今度は中央へ向かって順番に発光し始めた。
七星が息を呑む。
「そのまま」
俺は魔力供給を維持する。
一秒。
二秒。
三秒。
何も出ない。
物も。
生き物も。
黒い穴も。
ただ、七星の記録にあるどの実験より長く、陣全体が一つの形を保ったまま光り続けていた。
そして四秒ほど経ったところで、中央から線が一本ずつ消えていく。
七星が言った。
「停止」
即座に手を離す。
光が完全に消えた。
紙は焼けていない。
裂けてもいない。
何かが現れたわけでもない。
見た目だけなら失敗だ。
しかし、七星は動かなかった。
仮面の奥から、魔法陣をじっと見ている。
「今まで、あそこまで維持できたことは?」
俺が尋ねる。
「ない」
短い答えだった。
レイネが糸へ近づく。
「周囲の位置変化はございません。振り子も通常範囲内です」
七星が記録を見る。
「魔力が足りなかった?」
「そうとは限りません」
俺が言う。
七星を見る。
「僕の魔力を多く入れたから続いたことは確かだと思います。でも、それだけで召喚が起きたわけではありません」
「分かってる」
七星は新しい紙へ手を伸ばした。
「同じ陣でもう一度やる。今度は供給量を――」
途中で止まった。
レイネを見た。
レイネはまだ何も言っていない。
「……その前に記録ね」
自分からそう言った。
「はい」
レイネが頷く。
俺も少し安心した。
続けたい気持ちは俺にもある。
同じ術式へ今度は少しだけ多く流したらどうなるのか。
もっと長く維持できるのか。
あるいは何かが現れるのか。
知りたい。
かなり知りたい。
だからこそ、一度数字を見る。
三人で十三枚目の記録を確認した。
流した総量。
供給速度。
陣が全体として安定した時間。
各部が光り始めた順番。
紙面の温度。
糸。
振り子。
どれも記録する。
七星が数字を見ながら口を開いた。
「これまでの実験で使えた術者だと、この量まで入れる前に供給が乱れてた」
「術者側の限界でしょうか」
「たぶん。でも、それだけとはまだ言えない」
「では、今日の段階ではそこまででございますね」
レイネが言う。
七星は少し黙った。
「もう一回だけ同じ条件でやる」
「同じ条件を再現できるのであれば、私も異論はございません」
七星が俺を見る。
「できる?」
「休憩してからなら」
「じゃあ休んで」
先ほどと同じように水を飲み、集中力が戻るまで待った。
その後、同じ術式をもう一枚用意する。
供給速度。
魔力量。
時間。
できる限り同じ条件へ揃える。
結果は似ていた。
召喚は起こらない。
ただし、術式はまた三秒以上安定した。
一度目だけの偶然ではないらしい。
「再現あり」
七星が記録へ書く。
その文字を書く手が、少しだけ速い。
嬉しいのだろう。
「次は供給量を上げて――」
そこまで言って、また止まる。
「……今日はここまでだったわね」
「はい」
俺が答えた。
七星は明らかに不満そうだった。
それでも、自分で決めた。
「次回までに、この二回を比較する」
「僕たちも記録を持ち帰って確認します」
「一週間後?」
「その予定です」
「長い」
「講義もありますから」
「分かってる」
口ではそう言うものの、納得している顔ではない。
七星は少し考え、それから本棚へ向かった。
一冊の本を抜く。
俺へ差し出した。
「これを読んで」
「何です?」
表紙を見る。
《シグの召喚術》。
「召喚術の基礎。このくらいは知っておいてもらった方が説明が早い」
「借りていいんですか?」
「貸すだけ。なくさないで」
「もちろんです」
鞄へ入れる。
これで次からは、言われた場所へ魔力を流すだけではなく、七星が何をしようとしているのかを少しは理解できるかもしれない。
「今日の結果は」
七星が言う。
「成功じゃない」
「はい」
「でも、今までと同じ失敗でもない」
「そうですね」
そこは俺も同意できる。
何も召喚できなかった。
それでも、今まで維持できなかったところまで術式が進んだ。
次に何を見るべきなのか、一つ増えた。
研究としては、それで十分なのだろう。
◇
研究室を出た後、俺とレイネはもう一度ザノバのところへ寄った。
昼に見た人形の作業が少し進んでいる。
ジュリは右腕を細い道具で削っていた。
「師匠。召喚研究はいかがでしたか?」
ザノバが尋ねる。
俺は少し考えた。
七星の研究内容を、俺の判断だけで詳しく話していいかは分からない。
「これまでと少し違う反応が出ました」
「ほう!」
「でも詳しい内容については、サイレントさんへ話していい範囲を確認してからにします」
ザノバは一瞬残念そうにしたが、すぐに頷いた。
「研究者同士の約束でございましたか」
「そういうものです」
「ならば仕方ありませぬ」
それ以上聞かなかった。
俺はジュリの作った腕を見て、ザノバの胴体も確認した。
右肩の高さは昼より自然になっている。
ただし、その後は二人とも無理に進めず、予定していたところまでで作業を終えた。
◇
家へ帰ると、シルフィが先に戻っていた。
「おかえり、ルディ、レイネ」
「ただいま」
「ただいま帰りました」
居間へ入る。
シルフィは、俺が持っている鞄を見た。
「どうだった?」
「召喚はできませんでした」
「そっか」
少し安心したような、残念そうな顔。
「でも、今までとは違う反応がありました」
俺は今日起きたことを説明した。
大量の魔力を吸収した十三枚目の術式。
今までより長く、全体が安定して発光したこと。
同じ条件でもう一度試し、似た結果が再現できたこと。
ただし、何も召喚できなかったこと。
シルフィは最後まで聞いた。
「危ないことは?」
「確認できた範囲ではありません」
レイネが答える。
「周囲の空間や物体へ、測定可能な異常は確認できませんでした。ただし、これまでより多く魔力を吸収したこと自体は事実でございますので、次回はその理由を確認した上で実験を進めます」
「ちゃんと今日で止めた?」
「はい」
俺が答える。
「サイレントさんも、最後は自分で止めました」
「ならよかった」
シルフィが笑った。
「もっとやりたそうだったけど?」
「ものすごく」
思わず笑う。
レイネもほんの少し口元を緩めた。
「ですが、研究を急ぐことと記録を無視することは別であると理解されております」
「サイレントさんって、ルディとちょっと似てるところあるよね」
「僕と?」
「気になることがあると、すぐ次を試したくなるところ」
反論しようとして、今日の自分を思い返す。
七星が次の魔法陣へ手を伸ばした時。
俺もかなり続けたかった。
「……否定できません」
「レイネが大変そう」
「私一人で止めるものではございません」
レイネが言う。
「本日は、ルーデウス様もサイレント様も、ご自身で停止する判断をなさっております」
「なら安心した」
シルフィはそう言うと、何かを思い出したように立ち上がった。
「そうだ。二人に渡すものがあるよ」
「何です?」
シルフィが棚の上へ置かれていた封筒を取った。
その表面を見た瞬間。
俺の呼吸が止まりそうになった。
力が入りすぎて、少し紙へ食い込んだ文字。
綺麗とは言い難い。
でも、俺には見覚えがある。
ルーデウス。レイネ。
裏側。
大きく書かれた名前。
エリス。
「……いつ届いたんです?」
自分の声が少し硬い。
「今日。ルディたちが帰ってくる少し前に、商隊から預かった手紙を届けに来た人がいたの」
俺とレイネは顔を見合わせた。
結婚報告。
最初に頭へ浮かんだのはそれだった。
シルフィへ再会したこと。
俺がシルフィとレイネへ結婚を申し込み。
二人が受け入れてくれたこと。
それを隠さず、エリスへ書いた。
返事。
ついに。
そう思った途端、胸が締めつけられる。
怖い。
何が書かれているのか。
怒っているのか。
傷ついたのか。
俺たちを嫌いになったのか。
あるいは――。
封筒の端へ目が行った。
小さく日付と経由地が書かれている。
ギレーヌの字だ。
俺はその日付を確認した。
「……違う」
「何が?」
シルフィが尋ねる。
「結婚について送った手紙への返事じゃありません」
レイネも日付を見た。
「大学へ入学するよりも前でございますね」
「はい」
俺たちが北方の町から送った手紙。
ラノア魔法大学へ向かうこと。
フィットア領転移事件について調べること。
母様のもとへ今すぐ向かわず、まず情報を集めること。
その手紙への返事だ。
結婚報告の手紙が剣の聖地へ届き、エリスが返事を書き、その返事がここへ戻ってくるには、まだ早すぎる。
胸の奥へ安堵が生まれた。
そして、その安堵に気づいて少し嫌な気持ちになった。
結婚報告への返事ではなくてよかった。
まだ答えを知らなくて済む。
一瞬でも、そう思ってしまった。
自分で送ったのに。
隠さないと決めたのに。
「ルディ?」
シルフィの声。
「大丈夫です」
俺は答えた。
「ちょっと緊張しただけです」
シルフィは封筒を俺へ渡す。
「二人に来た手紙だから、僕は向こうにいた方がいい?」
「いえ」
すぐには決めず、レイネを見る。
「レイネは?」
「私は、シルフィにもご一緒いただきたいと考えております」
「僕もです」
シルフィへ向き直る。
「一緒に読んでもらえますか?」
シルフィは少しだけ安心したように笑った。
「うん」
三人で食卓へ座った。
封筒を置く。
中にある手紙は、この生活が始まる前の俺とレイネへ向けて書かれたものだ。
だからといって、今のシルフィをわざわざ外へ置く必要もない。
同時に、これからシルフィだけへ届くものがあれば、俺が当然のように全部読んでいいわけでもないのだろう。
誰か一人だけへ届く言葉。
二人で話したいこと。
三人で共有したいこと。
その都度決めればいい。
「開けます」
レイネが頷く。
俺は封を切った。
中には数枚の紙が入っている。
一枚目を開く。
力強い文字。
エリスの声で読めるような字だった。
ルーデウス、レイネへ。
手紙は読んだわ。
二人とも無事みたいでよかった。
ラノア魔法大学へ行くことにしたのも分かった。
お母さんのところへすぐ行かないことを、二人とも悩んだと思う。
でも、調べるために大学へ行くって決めたなら、ちゃんと調べなさい。
助けに行かないと駄目だって分かった時は、その時にすぐ行けばいい。
ルーデウスは考えすぎ。
考えてるだけで動けなくなるくらいなら、一回決めたことをやりなさい。
レイネも同じ。
自分が決めたことが正しかったか分からないって書いてあったけど、最初から全部正しくできる人なんていないと思う。
間違ってたら直せばいい。
二人で決めたことなら、一人で全部背負わないで。
そこで、俺は一度読むのを止めた。
レイネを見る。
彼女は手紙へ視線を落としたままだった。
「レイネが、エリスへ書いたんですよね」
「はい」
「大学へ行くよう勧めたことが、本当に正しかったのか不安だって」
「書きました」
あの頃。
レイネは自分の判断一つが、俺や母様、父様の人生まで決めてしまうのではないかと怖がっていた。
エリスはそれへ、
二人で決めたことなら、一人で全部背負うな
と返した。
少し驚く。
言葉遣いはエリスらしく荒い。
それでも言っていることは、俺たちが何度も話してきたことと同じだった。
「エリス様らしいですね」
レイネが小さく言う。
「はい」
「でも、いいこと言うね」
シルフィも手紙を見ながら笑った。
「エリスって、もっと考えるより先に動く人なのかと思ってた」
「動きますよ」
俺も少し笑う。
「ものすごく」
続きを読む。
私は元気。
ギレーヌも元気。
毎日剣を振ってる。
まだ足りないって言われるけど、前より強くなった。
もっと強くなる。
頭に血が上がった時に、そのまますぐ突っ込まないようにもしてる。
まだ失敗する。
でも、前よりはまし。
怒ってても、一回相手を見る。
私が斬る方がいいのか、待った方がいいのか考える。
面倒だけど、必要だからやってる。
ルーデウスも勝手に無茶しないで。
レイネも同じ。
二人とも勝手に死んだら、絶対に許さない。
私はちゃんと帰る。
だから、待ってなさい。
エリス
最後の文字だけ、少し大きい。
待ってなさい。
命令だった。
相変わらずだ。
俺を安心させるために書いたのだろう。
結果として、
考えすぎるな。
無茶するな。
勝手に死ぬな。
待っていろ。
ほとんど全部命令になっている。
それなのに、笑いが込み上げた。
「元気そうですね」
「はい」
レイネの声も少し柔らかい。
シルフィは最後まで読み、エリスという人物を想像しているようだった。
「すごく……エリスっぽいね」
「会ったことないのに分かるんです?」
「ルディから聞いた話と、手紙が一致しすぎてるから」
確かに。
俺はもう一度手紙を見る。
頭に血が上がった時に、一度相手を見る。
簡単なことのように書いている。
エリスにとっては、きっと簡単ではない。
怒り。
悔しさ。
守りたいという焦り。
感情が大きく動いた瞬間、身体が先に出る。
それを全部消そうとしているわけではないのだろう。
そんなエリスはエリスではない。
激しいまま。
怒ったまま。
それでも、一瞬だけ自分で剣の行き先を選べるようになろうとしている。
「僕も、この前バーディガーディさんと戦ったことを書かないといけませんね」
言った途端。
シルフィとレイネの視線が同時に俺へ向いた。
「正直に書きますよ」
先に言っておく。
「三発殴られて気絶したことも」
「そこは絶対書いた方がいいと思う」
シルフィが言う。
「どうしてそこだけ強調するんです?」
「エリスさんなら、あとで人から聞くよりルディ本人から聞いた方がいいでしょう?」
そのとおりだ。
レイネも頷いた。
「不死魔王を相手にしたことだけを書き、負傷について伏せることはお勧めいたしません」
「分かっています」
エリスは怒るだろう。
ものすごく。
自分へ決闘を挑んできた相手ではない。
キシリカから俺の話を聞いて会いに来た不死魔王と、自分の意思で戦った。
勝った。
そして条件を破られて三発殴られて気絶した。
おそらく、
何やってるのよ!
から始まる手紙が返ってくる。
でも。
それでいい。
知られたくないから書かないのでは、エリスへ正直に伝えると決めた意味がない。
レイネが、手紙の一文へ指を置いた。
「こちらも、お返事を書かなければなりませんね」
「どこです?」
「一人で全部背負わないで、という部分でございます」
「何て返すんです?」
「現在、努力しております、と」
シルフィが笑った。
「レイネらしい」
「改善していると思うんですよ」
俺が言う。
「昔なら、不安だってエリスに書かなかったでしょうし」
「そうなの?」
シルフィが尋ねる。
レイネは少し考えた。
「おそらくは」
「じゃあ、ちゃんと進んでるね」
「はい」
レイネがそれを否定しなかった。
そこが少し嬉しかった。
俺も進まなければならない。
考えることをやめるのではない。
考えた上で、自分で決める。
誰かと一緒に決めたことを、全部自分だけの責任にはしない。
今日の七星との研究でも同じだ。
俺が魔力を供給する。
七星が術式を作る。
レイネが周囲を確認する。
誰か一人だけで研究しているわけではない。
危険があれば、三人で止める。
そしてその七星自身も、今日は自分で止まった。
俺は手紙を丁寧に畳んだ。
「結婚報告への返事は、まだですね」
口にすると、胸の中へ小さな重みが戻ってくる。
シルフィも。
レイネも。
何も軽くしようとはしなかった。
「うん」
シルフィが答える。
「まだだね」
「怖いです」
俺はそのまま言った。
「返事が来るのが」
レイネも静かに頷く。
「私もでございます」
シルフィは少し間を置いた後、俺たち二人を見る。
「僕も怖いよ」
「シルフィも?」
「だって、エリスさんが傷ついてたら嫌だもの」
それはそうだ。
三人とも、同じ怖さではない。
俺はエリスを愛している。
レイネにもエリスとの関係がある。
シルフィは、まだまともに会ったことすらない。
それでも、誰かの幸せを奪って自分だけが幸せになったと思いたくない気持ちはある。
ただし。
だからといって、エリスの答えまでこちらで決めることはできない。
怒るかもしれない。
拒絶するかもしれない。
受け入れてくれるかもしれない。
今は分からない。
分からないなら、待つしかない。
エリス自身が書いてきた。
私はちゃんと帰る。だから待ってなさい。
俺は手紙の最後へもう一度目を向ける。
「なら、待ちます」
「はい」
「うん」
三人で同じ家の食卓に座っている。
七星から借りた《シグの召喚術》も、今日の実験記録も、机の端に置かれている。
本当なら、この後一章だけ読む予定だった。
少し迷った。
シルフィが先に俺の顔を見て笑う。
「今日は読まなくてもいいんじゃない?」
「分かります?」
「顔に出てるよ」
今日だけで十分いろいろあった。
初めて俺の魔力で七星の術式を今までより先へ動かした。
ザノバとジュリの人形も少しずつ形になっている。
そして、何か月も前に書かれたエリスの言葉が、ようやく俺たちのところまで届いた。
全部を今日中に次へ進めなくてもいい。
明日がある。
「今日はやめておきます」
俺は《シグの召喚術》を資料箱へ置いた。
レイネも研究記録へ手を伸ばしかけたが、そのまま止める。
「私も、本日の整理は明日へ回します」
シルフィが目を丸くした。
「二人とも?」
「そんなに驚かなくても」
「だって珍しいから」
否定しにくかった。
俺はエリスの手紙を、ほかの大切な手紙と一緒にしまう。
結婚報告への返事ではない。
だから、まだ何も解決していない。
それでも。
今のエリスが、この手紙を書いた時点で俺たちを忘れていなかったこと。
自分の場所で強くなろうとしていること。
そして、帰るつもりでいること。
それだけで今日は十分だった。
「寝ようか、ルディ、レイネ」
シルフィが立ち上がる。
「はい」
「承知いたしました」
俺たちも席を立った。
明日になれば講義がある。
クリフ先輩とエリナリーゼの研究にも続きがあり、ザノバとジュリもまた人形を作る。
七星は今日の術式を何度も見返しているかもしれない。
俺も、召喚術の基礎を学ばなければならない。
そして時間ができたら、エリスへの返事を書く。
大学へ来てから起きたこと。
シルフィと再会したことについては、すでに別の手紙で送った。
今度はバーディガーディとの決闘や、七星という召喚魔術の研究者と出会ったことを、話せる範囲で書こう。
レイネもまた、自分の言葉で返事を書くのだろう。
全てが同じ速さで進んでいるわけではない。
母様の捜索。
七星の研究。
エリナリーゼの呪い。
ザノバの人形。
そして、遠く剣の聖地へいるエリスとの関係。
一日で答えが出るものなど、ほとんどない。
ならば今日できたところまでを覚えておき、明日はその続きを始めればいい。
俺はシルフィとレイネの後を追い、二階へ向かった。
食卓の上にはもう資料は残っていない。
それでも、エリスの手紙に書かれた言葉だけは、寝室へ向かう間もずっと頭の中へ残っていた。
私はちゃんと帰る。だから待ってなさい。
俺は少しだけ笑った。
待っていろと言われたのなら。
少なくとも、勝手に死ぬわけにはいかない。