白髪の侍女   作:MトK

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第七十三話 待つ時間と、言えなかった名前

ルーデウス視点

 

父さんからの手紙が届いてから、数日が経った。

 

ノルンとアイシャは、まだシャリーアへ到着していない。

 

だからといって、この段階で旅に何か問題が起きたと考える理由はなかった。手紙と人間では移動速度が違うし、北方大地を子供二人を連れて進むのなら、天候や宿場の事情だけでも予定は簡単に変わる。

 

まして父さんの手紙に書かれていた護衛が、俺とレイネの予想どおりルイジェルドさんなのだとすれば、二人の安全を犠牲にしてまで先を急ぐような人ではない。

 

大学の受付と冒険者ギルドには、ノルン・グレイラットとアイシャ・グレイラットという二人の少女が俺とレイネを訪ねてくる予定だと伝えてある。俺たちが授業中であっても、どちらかへ辿り着けば連絡が来るように手配した。

 

家でも、到着したその日から二人が困らない程度の準備は進めている。

 

だから、あとは待てばいい。

 

頭では理解しているし、実際にそのつもりでもいた。

 

それでも大学から家へ帰る時には、遠くから玄関の前に誰か立っていないか確認してしまうし、正門の受付を通る時には自分宛ての伝言がないか少し気になる。

 

会いたいと思っているのだから、その程度の期待まで無理に抑える必要はないだろう。

 

ただし、妹たちがいつ来るか分からないという理由で大学を休んだり、毎日のようにギルドへ押しかけて旅人の情報を聞き回ったりするつもりはなかった。

 

待っている間にも、俺たちの生活は続いている。

 

そして今日は、七星との実験日だった。

 

 

研究棟第三棟の最上階まで上がり、サイレント・セブンスターの研究室へ入る。

 

白い仮面。

 

最初にここへ来た時ほどではないが、それを見ると今でも身体の奥へ僅かな緊張が走る。

 

ただ、もう足が動かなくなることはなかった。

 

目の前にいるのがオルステッドではなく、七星静香という一人の研究者であることを、身体も少しずつ覚え始めている。

 

当の七星は、俺たちが入ってきたことにもすぐには気づかなかった。

 

床へしゃがみ込み、何枚もの召喚陣を並べて比較している。

 

前回の実験では、俺が大量の魔力を供給した十三枚目の術式だけが、それまでとは違う反応を見せた。

 

何かを召喚したわけではない。

 

日本へつながったわけでもない。

 

ただ、それまでの術者では途中で崩れていた魔力の流れが、数秒間だけ術式全体へ通り、同じ条件でも似た反応を再現することができた。

 

成功とは呼べない。

 

しかし、七星の言葉を借りるなら、今までと同じ失敗でもなかった。

 

俺も、その翌日から《シグの召喚術》を少しずつ読み進めている。

 

全部を理解できるわけではない。

 

けれど、召喚陣のどこが魔力の入口にあたり、どの部分が流れを分岐させ、中央の術式へ送るのかという基礎を知っただけでも、床へ描かれている線の見え方は少し変わった。

 

「来た」

 

七星がようやく顔を上げる。

 

「おはようございます」

 

「おはよう」

 

「サイレント様、おはようございます」

 

後ろから入ってきたレイネも挨拶をする。

 

七星は立ち上がると、床へ並べていた五枚の召喚陣を指した。

 

「今日は、前回の反応をもっと細かく分ける」

 

「魔力量を増やすんですか?」

 

「増やさない。むしろ少なくする」

 

七星は一枚の記録を俺へ差し出した。

 

「前回は、あなたの魔力が多いから今まで届かなかったところまで術式が動いた。それはほぼ間違いない。でも、だからって大量に流せば日本へ近づくとは限らない」

 

「どこが必要な部分なのかを調べる?」

 

「そう」

 

七星が頷く。

 

「今は、術式のどの条件を変えると魔力の流れ方が変わるのかを知りたい」

 

レイネも記録帳を開く。

 

「では、開始前の条件を確認いたします」

 

召喚陣の周囲には、俺たちが持ち込んだ測定用の器具が並んでいる。

 

細い糸。

 

小さな振り子。

 

浅い皿へ均一に敷かれた砂。

 

水を張った器。

 

薄い金属片。

 

それに加えて今日は、魔力の変化へ反応する小さな魔石も数か所へ置かれていた。

 

「ルーデウス様より供給いただく魔力量と速度は固定し、供給時間は五秒で統一いたします。同じ条件を三度試し、再現性が確認できない場合は偶発的な変化として記録いたします」

 

「はい」

 

「サイレント様も、試行途中で術式を変更なさらないようお願いいたします」

 

「分かってる」

 

七星は少し不満そうな声を出したが、反論はしなかった。

 

俺は最初の召喚陣へ手を置いた。

 

「始めます」

 

魔力を流す。

 

七星の指定した量まで、一定の速度を意識する。

 

五秒。

 

何も起こらない。

 

止める。

 

十秒待つ。

 

二回目も同じ。

 

三回目も変化なし。

 

七星は失敗という言葉すら使わず、淡々と結果だけを書き込んだ。

 

次の召喚陣へ移る。

 

今度は魔力を流して三秒ほど経ったところで、東側に置かれていた小さな魔石が薄く光った。

 

「停止してくださいませ」

 

レイネの声に合わせて手を離す。

 

光もすぐ消えた。

 

「東側第二測定石に反応。振り子、砂、水面には明確な変化なし」

 

レイネが記録する。

 

七星が魔石へ近づいた。

 

「もう一回」

 

同じ条件。

 

反応なし。

 

三回目も光らない。

 

「偶然ですかね」

 

「まだ分からない」

 

七星は陣を睨むように見る。

 

四度目を試すと、また東側の魔石だけが一瞬光った。

 

七星が手を止める。

 

「術式の中で、魔力が偏って流れてるのかもしれない」

 

「では、召喚陣そのものを回転させてみますか?」

 

俺が尋ねる。

 

七星はこちらを見る。

 

「どういう意味?」

 

「今の召喚陣を九十度回して、同じ反応が召喚陣と一緒に移動するか確認します。ずっと部屋の東側だけが反応するなら、術式そのものとは別の原因かもしれません」

 

七星は数秒だけ考えた。

 

「……やってみる価値はある」

 

レイネも頷く。

 

「比較条件として有効かと存じます」

 

召喚陣を新しい紙へ写し、配置だけを九十度変更する。

 

俺が魔力を流す。

 

一度目。

 

何もない。

 

二度目。

 

先ほど東側にあった記号が移った方向、その近くの魔石が僅かに光った。

 

三度目も同じ。

 

部屋の方角ではなく、召喚陣の特定部分へ反応が追従している。

 

七星が急いで記録する。

 

「外側じゃない。陣の中で偏ってる」

 

「この記号が関係しているのでしょうか」

 

レイネが、反応の近くへ描かれている記号を指した。

 

「可能性はある」

 

「では、次はその記号のみを変更する?」

 

「そうする」

 

そこからの作業は地味だった。

 

一つ変える。

 

三回試す。

 

戻す。

 

別の場所を変える。

 

また三回試す。

 

反応がなければ記録し、次へ進む。

 

途中、砂が少しだけ崩れた時もあった。

 

だが、同じ条件では再現しなかった。

 

「俺たちが動いた振動ですかね」

 

「その可能性が高いわね」

 

七星はすぐに切り捨てた。

 

都合のいい結果だけを拾うつもりはないらしい。

 

俺としては、こういう七星の姿勢は好きだった。

 

元の世界へ帰りたいという気持ちは非常に強い。

 

そのためなら朝から晩まで研究する。

 

けれど、自分が期待している結果だからという理由で、証拠として扱うようなことはしない。

 

時間だけが過ぎる。

 

失敗した条件も増える。

 

それでも、一つずつ候補が減っていく。

 

昼を過ぎた頃。

 

十二番目の組み合わせで、ようやく明確な変化が現れた。

 

魔力供給を開始する。

 

二秒。

 

三秒。

 

召喚陣の外周に置かれた三つの測定石が、決まった順番で光った。

 

四秒になると、中央に近い二つの測定石も同じように反応する。

 

五秒。

 

最後に中央の一つが薄く光り、それまで光っていた石が順番に消えた。

 

「停止してくださいませ」

 

手を離す。

 

「今のは……」

 

俺も分かった。

 

明らかに、これまでとは違う。

 

「同じ条件でもう一度」

 

七星の声が少し早くなる。

 

再び試す。

 

二秒。

 

三秒。

 

外周の三つ。

 

四秒で内側。

 

五秒で中央。

 

順番まで同じだ。

 

三度目も。

 

四度目も。

 

魔石が完全に同じ順序で反応した。

 

「……ようやく一つ見つけた」

 

七星が床へ座り込んだ。

 

声は小さい。

 

それでも、はっきり嬉しそうだった。

 

「ですね」

 

俺も自然に笑った。

 

日本から何かが出てきたわけではない。

 

帰還方法が見つかったわけでもない。

 

それでも、魔法陣の中を魔力がどの順序で進むのか、初めて同じ条件で繰り返し観測できた。

 

「この記号を変えた時だけ、中央まで流れが通る」

 

七星が記録を並べる。

 

「距離指定なのか、対象指定なのか、接続先なのかまでは分からない。でも、この部分が何かをしてるのは確か」

 

「次は?」

 

俺が尋ねる。

 

七星はすぐ答えようとした。

 

けれど、一度口を閉じる。

 

記録へ視線を戻す。

 

「……今日は、これ以上変えない」

 

少し意外だった。

 

「試さないんですか?」

 

「試したい。でも、この条件で何が変わったのか先に整理する」

 

七星は自分でそう言った。

 

レイネもすぐには褒めたりしない。

 

「私もその方がよろしいかと存じます」

 

とだけ答える。

 

俺も異論はなかった。

 

「この術式は?」

 

「もう小さすぎる」

 

七星が紙を指す。

 

「ここから先を調べるには、記録用の経路を増やしたい。魔力が中央まで通った後、どこへ行こうとしてるのか分からないから」

 

「大きくするんですか?」

 

「そう。線の数も増やす」

 

「どのくらい掛かります?」

 

「早くても二、三週間」

 

思っていたより長い。

 

ただ、今の陣で分かる部分まで確認したのなら、それ以上急かしても仕方がない。

 

「分かりました」

 

七星が俺を見る。

 

「早くやりたいって言わないの?」

 

「やりたいですよ」

 

それは本当だ。

 

かなり気になる。

 

「でも、線を引くのは僕の魔力じゃ早くなりませんから」

 

「……そうね」

 

「その間に《シグの召喚術》も読みます」

 

「次に来る時までに三章くらいは読んでおいて」

 

「はい」

 

七星はもう次の紙へ手を伸ばしている。

 

レイネがその手元を見る。

 

「サイレント様」

 

「何?」

 

「本日の実験は終了でございます」

 

「下書きだけ」

 

「昼食を召し上がっておられません」

 

七星が黙った。

 

「後で食べる」

 

「何をお召し上がりになる予定でしょうか」

 

「食堂で何か」

 

「では、研究室を出られるところまで確認いたします」

 

「監視?」

 

「健康管理でございます」

 

「同じでしょう」

 

七星が不満そうに立ち上がる。

 

俺は少し笑った。

 

それでも、今日はレイネに強引に止められたわけではない。

 

研究そのものは、自分で区切った。

 

ほんの少しだけ。

 

七星も、俺たちと一緒に研究するやり方へ慣れ始めているのかもしれない。

 

 

そこから数日は、大きな事件もなく過ぎていった。

 

大学の講義へ出ながら、《シグの召喚術》と七星の資料を少しずつ読む。

 

分からないところへ印をつけ、次に会った時にまとめて質問する。

 

ザノバの研究室では、ジュリが新しい人形の関節部分を削っていた。

 

最初に粘土へ触れていた頃とは比べものにならないほど、手つきが滑らかになっている。

 

「ここ、かなり自然になりましたね」

 

俺が褒めると、ジュリは照れたように笑った。

 

その横でザノバまで胸を張る。

 

「師匠! ジュリは実に素晴らしい成長を遂げておりますぞ!」

 

「そうですね」

 

「余の指導も――」

 

「今回はジュリが作った部分ですよね?」

 

「もちろんジュリの功績でございます!」

 

一瞬で方向転換した。

 

《ルード人形・第一号》を壊された一件を、よかったことだったと思うつもりはない。

 

けれど、あれからザノバは、自分の作品を完成させることだけではなく、ジュリが少しずつ技術を身につけていく過程そのものを楽しむようになった。

 

ジュリも、ただ教えられた通りに手を動かしているだけではない。

 

自分で形を見比べ、削りすぎた場所があれば次に直し、どうすれば自然に見えるのかを考えている。

 

二人がそうやって進んでいるのを見るのは、素直に嬉しかった。

 

クリフ先輩とエリナリーゼの研究も続いている。

 

呪いそのものを治す方法はまだない。

 

レイネの魔力移譲を逆方向へ利用すれば、一時的に身体へ溜まった異常な魔力の一部を抜くことはできる。

 

だが、異常な魔力だけを完全に選別できるわけではない。

 

しかも、抜いても呪いそのものが残っている以上、時間が経てばまた蓄積する。

 

だから今は、どの程度抜けば体調へどれほど影響するのか。

 

正常な魔力をどこまで一緒に失っているのか。

 

何もしなければ、どの程度の速度でまた溜まるのか。

 

エリナリーゼ本人の了承を取りながら、危険の少ない範囲で記録を増やしている。

 

俺が中級解毒魔術で見つけた別症例について尋ねた時も、クリフ先輩はすぐ試すとは言わなかった。

 

「まだ使わない」

 

資料から顔を上げる。

 

「似た症状だからって同じものだとは限らない。作用が違えば、症状だけ軽くしようとして逆に悪化させる可能性もある」

 

「試さないと分からないこともありません?」

 

「だからって、エリナリーゼの身体で順番に全部試すのか?」

 

即座に返された。

 

「それは嫌ですね」

 

「僕も嫌だ」

 

クリフ先輩はそう言って、また資料へ目を戻した。

 

早く治したい。

 

その焦りはあるのだろう。

 

それでも、焦っているから危険を無視するという段階からは少しずつ変わっている。

 

皆、それぞれの速度で進んでいた。

 

俺も毎日、大学から帰る前に正門の受付へ一度だけ立ち寄る。

 

「僕宛ての伝言は?」

 

「本日はございません」

 

「ありがとうございます」

 

それだけ確認して帰る。

 

ノルンとアイシャはまだ来ない。

 

気にはなる。

 

けれど、今すぐ何か起きたと決めつける材料はない。

 

不安を無視する必要はないが、不安そのものを事実として扱う必要もない。

 

何か分かれば、その時に動けばいい。

 

 

そうして数日後。

 

ノルンとアイシャを迎えるために空けていた二つの部屋へ、新しい寝具と衣装箱、それから最低限の日用品が揃った。

 

机や本棚までは置いていない。

 

どちらの部屋を誰が使うのかも決めていない。

 

一つは通り側。

 

もう一つは庭側。

 

二人が来て、実際に見てから選んでもらうためだ。

 

最後の毛布を寝台へ置き、俺たちは廊下へ出た。

 

「これで、ひとまず終わりですね」

 

レイネが室内をもう一度確認する。

 

「はい。到着された当日から必要となる物につきましては揃っております。追加の家具や学用品につきましては、ノルン様とアイシャのお話を伺ってからで問題ございません」

 

シルフィも隣の部屋から出てきた。

 

「僕もその方がいいと思う。アイシャちゃんはレイネみたいな侍女になりたいって言ってたみたいだけど、今でも同じかは分からないでしょう?」

 

「はい」

 

シーローンでアイシャは、俺の侍女になりたいと言っていた。

 

でも、それは昔のアイシャが言ったことだ。

 

今でも同じなら、その時に改めて話せばいい。

 

ノルンだって同じである。

 

ミリシオンでは三か月ほど一緒に過ごした。

 

最初は俺をどう扱えばいいのか分からない様子だったのに、最後には俺のところへ自分から来て、「おにいちゃん」と呼び、「いってらっしゃい」と送り出してくれた。

 

それでも、あれから時間は経っている。

 

俺の記憶の中にいるノルンへ合わせて部屋も生活も全部用意したところで、今のノルンが喜ぶとは限らない。

 

学校へ行きたいのか。

 

この家から通いたいのか。

 

何か別にやりたいことがあるのか。

 

会って話さなければ分からない。

 

兄として、できるだけ困らない環境を用意したいという気持ちはある。

 

けれど、先回りして何もかも決めてしまえば、俺が作った選択肢の中から二人に選ばせるだけになってしまう。

 

必要な部分だけ準備する。

 

その先は本人たちと一緒に考える。

 

それでいい。

 

「じゃあ、今日はお祝いにしようか」

 

シルフィが二つの扉を見比べながら言った。

 

「お祝い?」

 

「うん。二人を迎える準備が一段落したお祝い」

 

そこで少し照れたように笑う。

 

「それに、この家で三人で暮らし始めてから、ちゃんと三人だけで家のお祝いってしてなかったでしょう?」

 

言われてみれば、確かにそうだ。

 

家を買った時は、家具を揃えたり生活の準備をしたりするだけで精いっぱいだった。

 

その後にはシルフィとレイネとの関係について何度も話し、大学へ通い、ザノバやクリフ先輩たちとのことがあり、七星の研究も始まった。

 

父さんたちへ手紙や資料を送る準備もした。

 

毎日ここへ帰ることが、いつの間にか普通になっている。

 

シルフィの足音が聞こえれば帰ってきたと分かり、レイネが台所へ立っている姿を見ても特別なことだとは思わなくなった。

 

けれど、その「普通」ができたことを、三人だけで改めて祝った日はなかった。

 

「いいですね」

 

俺は答えた。

 

「レイネは?」

 

シルフィに尋ねられ、レイネも穏やかに頷く。

 

「異存ございません。妹君方がお越しになれば、この家の生活もまた少し変わることでございましょう。その前に三人でゆっくり食卓を囲むことも、よろしいかと存じます」

 

決まりだ。

 

「では、僕も料理を――」

 

「ルーデウス様」

 

最後まで言う前に止められた。

 

「本日は私とシルフィで料理をいたします」

 

「僕は?」

 

「買い出しと食卓の準備をお願いいたします」

 

「料理は?」

 

「結構でございます」

 

即答された。

 

シルフィが笑う。

 

「ルディには重要な仕事があるよ」

 

「何です?」

 

「荷物持ち」

 

完全に戦力外だった。

 

 

夕食は、普段より少しだけ豪華になった。

 

香草と一緒に焼いた肉料理。

 

根菜を柔らかくなるまで煮込んだスープ。

 

魚料理も一品。

 

パンも保存用ではなく、その日に焼かれたものを買ってきた。

 

派手な宴ではない。

 

招待客もいない。

 

いつもの食卓で、いつもの三人が、普段より少しだけ良いものを食べる。

 

今の俺たちには、その程度が一番似合っている気がした。

 

シルフィが杯を持つ。

 

「じゃあ、この家でこれからも三人でちゃんと話して、ノルンちゃんとアイシャちゃんが来た後も、みんなで仲良く暮らせますように」

 

俺も杯を上げた。

 

「はい。これからもよろしくお願いします」

 

レイネも自分の杯を手に取る。

 

「こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします」

 

三つの杯が軽く触れた。

 

俺とシルフィには薄い果実酒。

 

レイネの杯には水が入っていた。

 

「レイネはお酒を飲まないんですね」

 

俺が何気なく言う。

 

「はい」

 

「嫌いなんです?」

 

「いいえ。私は酒精に対して極端に弱いのでございます」

 

シルフィが興味を持った。

 

「どのくらい?」

 

「ごく少量でも酔います」

 

「一杯で?」

 

「一杯も必要ございません」

 

そこまでとは思わなかった。

 

「だから飲まないんですね」

 

「はい。自分が酒に弱いことを把握しておりますので、普段は飲まないと決めております」

 

「分かりました」

 

俺はそれで話を終えた。

 

同じものを飲まなければ、同じ祝いにならないわけではない。

 

レイネが水で乾杯すると決めたのなら、それでいい。

 

その後は普通に食事を続けた。

 

ザノバとジュリの人形。

 

クリフ先輩が講義中に教授へ質問を始め、授業時間を少し超えたこと。

 

バーディガーディがなぜか昼食時に三人分の料理を同時に食べていたこと。

 

大した話ではない。

 

それでも三人で笑える。

 

食事が半分ほど進んだところで、シルフィが二杯目の果実酒を俺へ注いだ。

 

俺も少量だけ受ける。

 

その時だった。

 

「シルフィ」

 

レイネが呼んだ。

 

「なに?」

 

レイネはシルフィの持つ瓶を見る。

 

それから俺の杯。

 

最後に自分の水が入った杯へ目を落とした。

 

「……本日は、私も少量だけいただいてもよろしいでしょうか」

 

俺とシルフィが同時に彼女を見る。

 

「大丈夫なんですか?」

 

思わず聞く。

 

レイネは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。

 

「無理をしてまで飲みたいわけではございません。ただ……私も今日は、お二人と同じもので、もう一度だけ杯を合わせてみたいと思いました」

 

レイネ自身が言った。

 

俺に言われたからではない。

 

シルフィが勧めたわけでもない。

 

自分でそうしたいと思ったらしい。

 

「本当に少量にしましょう」

 

「はい」

 

シルフィが小さな杯の底へ、ほんの僅かだけ果実酒を注いだ。

 

二口にも満たない。

 

レイネは量を確認する。

 

そして、飲む前に少し真剣な顔になった。

 

「一つお願いがございます」

 

「何です?」

 

「もし私が普段と異なることを申し上げましても、あまり面白がらないでいただけますでしょうか」

 

シルフィが口元を押さえる。

 

「笑わないようにする」

 

「シルフィ」

 

「ごめん。本当に笑わない」

 

俺も頷く。

 

「嫌なことはしませんし、無理に話を聞いたりもしません」

 

レイネは少しだけ安心したようだった。

 

「では、信じます」

 

三人で、もう一度杯を合わせる。

 

レイネは少量の果実酒を口にした。

 

今度は一気には飲まない。

 

ほんの一口だけ。

 

その後、残りもゆっくり飲んだ。

 

最初は何も変わらなかった。

 

顔色も普通。

 

話し方も普段と同じ。

 

けれど一分ほど経った頃、レイネが自分の頬へ手を当てた。

 

「……やはり、熱くなってまいりました」

 

「早いですね」

 

「申し上げた通りでございます」

 

俺はそれ以上何も言わなかった。

 

シルフィが水を差し出す。

 

「飲む?」

 

「お願いいたします」

 

レイネは素直に受け取った。

 

さらにしばらくして。

 

俺が空いた皿を片づけようと腰を浮かせた時、袖へ小さな力が掛かった。

 

見る。

 

レイネが俺の袖を掴んでいる。

 

「レイネ?」

 

「はい」

 

「どうしました?」

 

「そのお皿でしたら、後でも問題ございません」

 

「まあ、そうですけど」

 

「では、もう少しこちらにいてくださいませ」

 

いつものレイネなら、自分からそんなことは言わない。

 

少し驚いた。

 

けれど、約束した。

 

面白がらない。

 

「分かりました」

 

そのまま座り直す。

 

レイネは袖を離さなかった。

 

シルフィがその様子を見て、笑う寸前で頑張って表情を抑えている。

 

「シルフィ」

 

レイネが気づいた。

 

「なに?」

 

「少し遠うございます」

 

「僕も近くに行っていいの?」

 

「お願いいたします」

 

シルフィは嬉しそうに椅子を動かした。

 

レイネは俺の右腕へ軽く身体を寄せ、その反対側でシルフィの手を握る。

 

二人が近くにいることを確認してから、ようやく小さく息を吐いた。

 

「これでよろしいです」

 

「何が?」

 

シルフィが尋ねる。

 

「お二人とも近くにいらっしゃいます」

 

声も口調も、ほとんど普段と変わらない。

 

大声で笑うわけでもない。

 

泣き出しもしない。

 

ただ、いつものレイネなら「言わなくてもいい」と飲み込んでしまう部分が、そのまま口へ出ている。

 

「レイネって、酔うと甘えたくなるんだね」

 

シルフィが言う。

 

レイネは少し考えた。

 

「……おそらく」

 

「普段も?」

 

今度は少し長く黙る。

 

「少々は」

 

「じゃあ、普段も甘えてくれていいのに」

 

「恥ずかしいのでございます」

 

即答だった。

 

「私は、お二人に頼っていただける存在でいたいと思っております。その私が、自分から近くにいてほしい、手を握ってほしいなどと申し上げるのは……理解の上では問題ないと分かっていても、非常に恥ずかしいのでございます」

 

「頼られる人が甘えたら駄目って決まりはありませんよ」

 

俺が言う。

 

「はい。理解はしております」

 

「今日はできるんですね」

 

「本日は酒精のせいにできますので」

 

そう言って、少しだけ俺の肩へ頬を寄せる。

 

シルフィがとうとう小さく笑った。

 

「かわいい」

 

レイネの身体が僅かに固まる。

 

「……シルフィ」

 

「ごめん。でも本当にかわいいよ」

 

レイネは数秒黙る。

 

そして、思いがけないことを言った。

 

「……もう一度、お願いいたします」

 

シルフィの顔がぱっと明るくなる。

 

「レイネ、かわいいよ」

 

「ありがとうございます」

 

今度は酒とは別の理由でも赤くなったように見えた。

 

そのまま俺の方を見る。

 

何となく分かった。

 

「レイネもかわいいですよ」

 

「ありがとうございます」

 

「綺麗でもあります」

 

少し考えた後、レイネは目を伏せた。

 

「……本日は、もう少し言っていただいても構いません」

 

こんな許可をもらう日は、そう何度もないだろう。

 

「いつも綺麗だと思っています。白い髪も赤い目も好きですし、侍女服も似合っています。笑った時も好きですよ」

 

レイネの口元が緩む。

 

「……ありがとうございます」

 

その後も、レイネはいつもより少しだけ多く話した。

 

ジュリが最近とても上達していて、本人が考えているよりずっと才能があると思うこと。

 

クリフ先輩は言い方がきついため誤解されやすいが、エリナリーゼを本当に大切にしていると思うこと。

 

俺が夜遅くまで本を読み続けず、自分から切り上げるようになったことを、実はかなり嬉しく思っていること。

 

それから。

 

シルフィが帰宅する時の玄関の音を聞くと安心するのだという。

 

「僕が帰ってくるだけで?」

 

シルフィが尋ねる。

 

「はい。帰ってこられると分かっていても、実際に扉の音がして、お声を聞きますと安心いたします」

 

「僕も同じだよ」

 

シルフィが答えた。

 

レイネは嬉しそうに笑う。

 

「では、同じでございますね」

 

続いて俺を見る。

 

「ルーデウス様も同じでございます」

 

「僕も?」

 

「はい。玄関が開き、ルーデウス様のお声が聞こえますと、今日も無事にお帰りになったのだと思います」

 

「毎日大学へ行ってるだけですよ」

 

「ルーデウス様には、その『だけ』が信用できませんので」

 

シルフィが笑う。

 

「僕もそう思う」

 

「二人ともひどくありません?」

 

「実績がございます」

 

反論できなかった。

 

三人で笑う。

 

少し静かになった時だった。

 

レイネが俺の腕へ頬を預けたまま、小さく呟いた。

 

「……ミレイも、そうでした」

 

聞いたことのない名前だった。

 

俺はすぐには質問しなかった。

 

シルフィも同じだった。

 

レイネ自身が言葉を続けるかどうか待つ。

 

数秒して。

 

レイネが、自分で今の言葉へ気づいたらしい。

 

少しだけ目を開く。

 

「……口にしてしまいましたね」

 

「誰かの名前ですか?」

 

俺が聞いたのは、それだけだった。

 

レイネは頷く。

 

「はい」

 

それから少し迷い、

 

「私にとって、とても大切な友人でございました」

 

と答えた。

 

「そうですか」

 

それ以上は聞かなかった。

 

シルフィも、

 

「大切な人だったんだね」

 

とだけ言う。

 

「はい」

 

レイネは俺とシルフィの手を少し強く握った。

 

「もっと、甘えておけばよかったのでしょうね」

 

今度は自分から続けた。

 

「その方に?」

 

「はい。伝えなくても分かってくださると思っておりました。一緒にいたいということも、大切に思っているということも……もう少し言葉へしておけばよかったのでしょう」

 

声は落ち着いている。

 

けれど、今までの甘えた声とは少し違う。

 

寂しさが混ざっていた。

 

俺は質問する代わりに、レイネの手を握り返した。

 

「今日は僕たちに甘えてください」

 

レイネが顔を上げる。

 

「よろしいのでございますか?」

 

「はい」

 

シルフィもすぐ続けた。

 

「僕にもね」

 

レイネは少しだけ笑った。

 

「ありがとうございます」

 

それ以上、ミレイという人について話すことはなかった。

 

俺たちも聞かなかった。

 

 

翌朝。

 

一階へ下りると、レイネはすでに起きていた。

 

いつもの侍女服を着ている。

 

朝食の準備も始めている。

 

ただ、少しだけ顔色が悪い。

 

「おはようございます、ルーデウス様」

 

「おはようございます。体調は?」

 

「頭痛が少々ございます」

 

そこへシルフィも下りてくる。

 

「二日酔い?」

 

「おそらくは」

 

レイネは水を飲む。

 

そして俺とシルフィを見た。

 

明らかに何かを気にしている。

 

「昨夜のことでございますが」

 

やはり。

 

「どの程度まで覚えています?」

 

俺が尋ねる。

 

「果実酒をいただいたことも、かなり酔っていたことも覚えております。お二人へ随分と甘えていたことも……断片的には」

 

耳が少し赤い。

 

完全に記憶を失ったわけではないらしい。

 

「忘れていただきたい、と申し上げたいところではございますが、自分からしたことでございますので、そのようなことをお願いするのも違いますね」

 

「嫌なことは何もありませんでしたよ」

 

俺は言った。

 

シルフィも頷く。

 

「うん。僕は嬉しかった」

 

レイネの耳がさらに赤くなる。

 

「それはそれで、非常に恥ずかしゅうございます」

 

少し間を置く。

 

そして、レイネの表情が変わった。

 

「……ミレイの名を、口にいたしましたね」

 

覚えている。

 

俺は頷いた。

 

「はい」

 

「どこまで申し上げましたか?」

 

「大切な友人だったことと、もっと甘えておけばよかったと思っていることです。それ以上は聞いていません」

 

「私自身も、その辺りまでは覚えております」

 

レイネは食卓へ視線を落とした。

 

しばらく何も言わない。

 

俺もシルフィも待つ。

 

今ここで、

 

話したくない。

 

そう言われれば、それで終わりにするつもりだった。

 

やがて。

 

レイネが自分から口を開いた。

 

「隠したままにすることもできますが……」

 

一度、呼吸を整える。

 

「少しだけ、お話しいたします」

 

俺たちは黙ったまま頷いた。

 

「ミレイは、私にとってかけがえのない親友の一人でございました」

 

昨夜より少しだけ言葉が増える。

 

「明るく、よく笑い、私が一人で考え込みますと、勝手に話を切り上げて食事へ連れていくような方でございました」

 

その言い方だけで、少し想像できる。

 

レイネ自身のことに関して言えば、本人が何も言わず我慢すれば、周囲が気づくのは難しい。

 

そこへ踏み込める人だったのだろう。

 

「およそ十年、二人で冒険者として行動しておりました」

 

俺は一瞬、言葉を理解できなかった。

 

隣のシルフィも僅かに目を見開く。

 

十年。

 

レイネは続ける。

 

「二人ともBランクへ留まり、護衛や採取、捜索、討伐など、その時々で必要な依頼を受けながら各地を回っておりました。高い地位や名声を求めていたわけではございませんでしたので、その生活で十分だったのでございます」

 

十年。

 

やはり聞き間違いではない。

 

俺の知るレイネの人生へ、それだけの期間は入らない。

 

ブエナ村へ来た時。

 

俺がまだ幼かった頃。

 

フィットア領転移事件。

 

その後の再会。

 

レイネに俺の知らない時期が存在することは分かっている。

 

それでも、十年間を一人の人間と冒険者として過ごせるほどの時間が、この人生のどこかへ隠れているとは思えない。

 

レイネは、俺とシルフィが違和感を覚えたことにも気づいているだろう。

 

それでも、十年という部分を訂正しなかった。

 

「一度だけ、ミレイが料理をしてくださったことがございました」

 

唐突に話題が変わる。

 

けれど、レイネが自分から話すと決めたことだ。

 

そのまま聞く。

 

「私が熱を出しまして、料理をできなかったのでございます」

 

少し懐かしそうな顔になる。

 

「ミレイは、食べられないほどではない料理を作ってくださいました」

 

シルフィが首を傾げる。

 

「食べられないほどではない?」

 

「二人とも、一口食べた後に無言になる程度でございました」

 

シルフィが吹き出した。

 

俺も笑う。

 

レイネ自身も僅かに笑っていた。

 

「ミレイは、『腹へ入れば同じ』と申しておりました」

 

「レイネは?」

 

俺が尋ねる。

 

「翌日から私が料理へ戻りました」

 

「熱は?」

 

「まだございました」

 

「それは休んでください」

 

「今では私もそのように思います」

 

レイネが少し笑う。

 

ほんの小さな思い出。

 

それだけなのに。

 

ミレイという人が、急にただの名前ではなくなった。

 

レイネと一緒に食事をし。

 

旅をし。

 

レイネが寝込めば、上手ではない料理を作った人。

 

「楽しかった?」

 

シルフィが尋ねた。

 

質問はそれだけだった。

 

レイネは、ほとんど迷わず頷く。

 

「はい。とても」

 

その声は穏やかだった。

 

「朝起きればミレイがおり、依頼を受ければ二人で向かいました。失敗すれば二人で考え、上手くいけば食事をして、次はどこへ行くかを相談いたしました」

 

赤い瞳が少し遠くを見る。

 

「そのような生活を、およそ十年続けたのでございます」

 

やはり。

 

十年。

 

明確におかしい。

 

シルフィと一度だけ目が合った。

 

彼女も同じ疑問を持っているのだろう。

 

それでも、

 

「いつの十年?」

 

とは聞かなかった。

 

俺も同じだ。

 

「ミレイさんは、レイネにとって本当に大切な人だったんですね」

 

俺が言う。

 

「はい」

 

レイネはまっすぐ答えた。

 

「私にとって、非常に大切な親友の一人でございました」

 

それで十分だった。

 

少なくとも、今は。

 

聞きたいことはある。

 

ミレイと過ごした十年とは、いつのことなのか。

 

なぜ俺が知るレイネの時間と合わないのか。

 

その人は今どこにいるのか。

 

どうして今まで一度も名前を出さなかったのか。

 

でも、疑問があることと、それを今すぐ聞かなければならないことは同じではない。

 

「話してくれてありがとうございます」

 

先に言ったのはシルフィだった。

 

レイネが彼女を見る。

 

「……はい」

 

「気にならないわけじゃないよ」

 

シルフィは正直に言う。

 

「十年って聞いたら、僕たちが知ってる時間と合わないから」

 

「はい」

 

俺も続ける。

 

「僕も気になります」

 

レイネが少しだけ目を伏せた。

 

「やはり、そうでございますよね」

 

「でも、今は聞きません」

 

顔が上がる。

 

「よろしいのでございますか?」

 

「はい」

 

「十年がどういう意味なのかも?」

 

「知りたいですよ」

 

そこは隠さない。

 

「でも、知りたいことと、今聞くかどうかは別です」

 

レイネについて分からないことは、まだいくつもある。

 

人神。

 

オルステッド。

 

秘術。

 

あまりにも長い知識と経験。

 

俺を一度死から戻した術式。

 

そして今度は、俺の知る時間へ入らない十年間。

 

知らないことがあると、不安になる時はある。

 

でも。

 

すべてを説明してもらわなければ信用できない関係ではないと思っている。

 

「昨日だって、酔っていたレイネへもっと質問しようと思えばできたかもしれません。でも、それは嫌でした」

 

シルフィも頷く。

 

「僕も待つよ」

 

「レイネが自分から話せる時が来たら、その時に教えてください」

 

レイネは長い間、俺たちを見ていた。

 

やがて、肩の力を抜くように息を吐く。

 

「ありがとうございます」

 

その声は少しだけ掠れていた。

 

「いつか、もう少しお話しできる時が参りましたら……その時には、きちんとお話しいたします」

 

「はい」

 

「うん」

 

そこでミレイの話は終わった。

 

少なくとも、今日のところは。

 

 

朝食を終える。

 

レイネが食器を片づけていると、シルフィがその横へ近づいた。

 

「レイネ」

 

「はい?」

 

「昨日のことで、一つだけ言ってもいい?」

 

レイネが少し警戒した顔をする。

 

「内容によります」

 

「甘えたくなった時、普段も甘えていいからね」

 

レイネの動きが止まった。

 

「昨日ほどは無理でございます」

 

「昨日ほどじゃなくていいよ」

 

「自分から近くに来てくださいと申し上げることも、しばらくは難しいかと」

 

「そこまで言ったんですね」

 

思わず口にした。

 

レイネの耳が赤くなる。

 

「ルーデウス様」

 

「すみません」

 

シルフィが笑う。

 

「じゃあ、手を握るくらい?」

 

「訓練のように段階を設定しないでくださいませ」

 

「ごめん」

 

俺も少し笑った。

 

レイネの視線がこちらへ向く。

 

「ルーデウス様も、昨日の私を面白がらないでくださいませ」

 

「分かっています」

 

俺は今度は真面目に答えた。

 

「ただ、一つだけ覚えておいてください」

 

「何でございましょう」

 

「レイネが頼ってくれることも、甘えてくれることも、僕は嫌ではありません。むしろ嬉しいです」

 

シルフィも頷く。

 

「僕も」

 

レイネは少し困ったように目を伏せる。

 

「……善処いたします」

 

いつもの返事だった。

 

けれど、その朝は、それだけでは終わらなかった。

 

大学へ向かう準備を済ませる。

 

三人で玄関へ向かい、俺が外套を着ていると、レイネが横へ来た。

 

「ルーデウス様」

 

「はい?」

 

何か言いたいようだった。

 

けれど、すぐには言葉が出てこない。

 

俺は待つ。

 

レイネは一度、自分の手を見る。

 

それから。

 

俺の手へ、そっと指を重ねた。

 

そのまま。

 

自分から握る。

 

昨夜のように俺の腕へ身体を寄せるわけではない。

 

酒の力も借りていない。

 

ただ、普通に手を握っているだけだ。

 

俺も握り返した。

 

レイネの耳が少し赤くなる。

 

「……これくらいからであれば」

 

「はい」

 

後ろを見る。

 

シルフィが、かなり嬉しそうに笑っていた。

 

当然、レイネも気づく。

 

「シルフィ」

 

「何も言ってないよ」

 

「顔に出ております」

 

「だって嬉しいから」

 

レイネは困ったような顔をした。

 

それでも手を離さなかった。

 

ほんの短い時間だった。

 

昨夜のように長く寄り添っているわけでもない。

 

けれど、今は酒のせいにできない。

 

レイネ自身が、そうしたいと思って選んだ。

 

俺には、その小さな手の方が、昨夜よりずっと大きな一歩に思えた。

 

同時に。

 

ミレイという名前も、頭の片隅には残っている。

 

レイネと約十年、冒険者として旅を続けた親友。

 

どう考えても、俺の知っているレイネの人生には収まらない時間。

 

シルフィも同じ疑問を抱いているだろう。

 

それでも今は、その不自然さも含めて預かっておけばいい。

 

本人が話せる時まで。

 

玄関を開けると、朝の冷たい空気が入り込んできた。

 

レイネは外へ出る直前になってようやく俺の手を離し、いつものように一歩横へ立つ。

 

シルフィも並ぶ。

 

俺たちは三人で家を出た。

 

ノルンとアイシャは、まだ来ていない。

 

七星の新しい召喚陣も、まだ完成していない。

 

母様の救出も、エリスからの次の返事も、レイネが抱えている長い過去も、今すぐ答えが出るものではない。

 

けれど、待っている間にも進めるものはある。

 

昨日より少しだけ知ること。

 

昨日より少しだけ頼ること。

 

昨日より少しだけ、自分から手を伸ばすこと。

 

そういう小さな続きを積み重ねながら、俺たちは今日も大学へ向かった。。

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