ルーデウス視点
七星が研究室で取り乱してから、一週間が経った。
その間、彼女は大学の研究室へ一度も戻っていない。
俺たちの家の二階。
ノルンとアイシャを迎えるために用意していた二つの客室のうち、庭側の部屋で過ごしている。
最初の二日ほどは、本当に何もしなかった。
朝になれば起きる。
シルフィかレイネが用意した食事を食べる。
少しだけ本を読むことはあっても、召喚術の本ではない。
疲れれば眠る。
夕食を食べた後、また休む。
研究について、俺から尋ねることはしなかった。
壊れた大型魔法陣がどうなったのかも、次の実験をいつ行うつもりなのかも聞いていない。
七星自身が話せる時まで待つ。
昨夜の夜、三人でそう決めた。
レイネも、七星の身体については確認していたが、それ以上踏み込むことはなかった。
「お身体の調子はいかがでございますか」
「普通」
「睡眠は?」
「七時間くらい」
「食欲は?」
「ある」
「でしたら結構でございます」
そこで終わる。
研究室へ戻るよう急かさない。
逆に、まだ休めとも言わない。
シルフィも同じだった。
「今日、何食べたい?」
「何でもいい」
「何でもいいが一番困るよ」
「……じゃあ、スープ」
「分かった」
そんな会話をしながら、特別扱いしすぎない。
俺も大学へ行く。
レイネも講義やクリフ先輩たちとの研究へ出る。
シルフィもアリエル様の護衛として働く。
誰か一人がずっと七星の横へ座り、何もかも世話をするようなことはしない。
ただ、家へ帰れば誰かがいる。
夜になれば同じ家の中にいる。
七星が一人になりたいなら客室へ戻れる。
誰かと話したければ一階へ下りればいい。
それだけだった。
三日目には、七星が自分から食卓へ下りてきた。
四日目には、夕食の後も少しだけ俺たちと一緒にいた。
五日目には、シルフィが大学であった話をすると、
「それ、教授の方が間違ってない?」
と普通に口を挟んだ。
六日目。
俺が朝食の後に《シグの召喚術》を読んでいると、横から、
「そこ、解釈違う」
と言われた。
「どこです?」
「召喚対象を固定するところ。そこは対象そのものじゃなくて、条件の方」
そう言いながら、俺の本を指で示す。
質問すれば答えてくれる。
けれど、自分の研究についてはまだ話さない。
俺も聞かなかった。
そして七日目の朝。
食堂へ下りると、七星はすでに席へ座っていた。
珍しく、目の前に紙が一枚置かれている。
シルフィとレイネもいる。
「おはようございます」
「おはよう」
声には、あの日とは比べものにならない程度の力が戻っていた。
七星は俺たち三人が席へ着くのを待った後、紙をこちらへ押した。
「これ」
見る。
失敗した大型召喚陣を簡略化した図だ。
ただし、細かな術式はほとんど省略されている。
その代わり、いくつかの線が色分けされ、一箇所だけ大きな印がつけられていた。
「研究の話ですか?」
「そう」
七星は少しだけ視線を落とした。
「話してもいい?」
「もちろんです」
俺は答えた。
レイネも、
「お伺いいたします」
と頷く。
シルフィも黙って待っている。
七星は図面の一点を指した。
「あの日、ここで魔力が止まったでしょう」
「はい」
「壊れた場所ですね」
「そう」
七星はその周囲へ指を滑らせる。
「この一週間、研究はしてない。でも……考えることまで止めるのは無理だった」
責めるつもりはない。
七星もそれを分かっているのだろう。
「どうしてここがつながらないのか、頭の中で何度も考えた」
別の線を指す。
「ここを動かすと、この回路にぶつかる」
次。
「こっちを外へ回すと、別の術式へ干渉する」
さらに別の部分。
「この二つをまとめると、必要な条件が一つ消える」
俺には完全には理解できない。
それでも、一つだけ分かる。
七星は思いつきで言っているのではない。
「配置を変える方法は?」
「全部試した」
即答だった。
「少なくとも、私が思いつく範囲では」
七星が紙を見つめる。
「一箇所をつなぐと別の場所が切れる。そっちを直すと、また別の場所がつながらない」
指先が止まる。
「全部塞いだと思った」
声が少し低くなる。
「だから、あの日……もう無理だと思った」
俺は何も挟まない。
「でも」
七星が顔を上げた。
「私が思いつく方法が全部駄目だっただけなのかもしれない」
そこまで言えるようになった。
七日前。
「帰れない」と泣いていた七星が。
自分の考えだけでは答えが出なかった可能性を、今は自分から認めている。
「サイレントさん」
「何?」
「ほかの人にも、この図面を見てもらっていいですか?」
七星の指が止まる。
俺は続けた。
「クリフ先輩とザノバです」
シルフィやレイネではない。
召喚術に詳しい人間でもない。
だからこそだ。
「クリフ先輩は魔法陣や魔道具について詳しいですし、ザノバは自動人形を研究しています。まったく別のところから見れば、何か分かるかもしれません」
「分からないかもしれない」
「はい」
そこは誤魔化さない。
「何も出ない可能性もあります」
七星が少し嫌そうな顔をした。
「そこは、もうちょっと希望を持たせる言い方できないの?」
「できるかもしれません、とは思っていますよ」
「……なら最初からそう言って」
「すみません」
シルフィが小さく笑った。
七星は図面へ視線を落とす。
しばらく考えた。
「日本のことは?」
「話しません」
「私が別の世界から来たことも?」
「話しません」
「何を召喚しようとしてるのかも?」
「構造を考えるのに必要がなければ伏せます」
「レイネは?」
レイネが自分から答えた。
「私は、サイレント様が公開を許可された情報だけをお話しいたします」
七星はもう一度黙る。
やがて。
「……分かった」
小さく頷いた。
「見せていい」
「ありがとうございます」
「でも」
俺を見る。
「図面の原本は持ち出さない」
「写しを作ります」
「実験記録も必要なところだけ」
「はい」
「それから……」
僅かに迷う。
「何か思いついたら、ちゃんと教えて」
その言葉へ俺は頷いた。
「もちろんです」
◇
その日の午後。
ザノバの研究室へ集まったのは、俺とレイネ、ザノバ、クリフ先輩、それからクリフ先輩と一緒に来たエリナリーゼだった。
七星本人はいない。
今朝、俺が、
「一緒に行きますか?」
と確認したところ、
「最初はいい。私がいたら、どうせ全部説明したくなるから」
と断った。
代わりに、必要な部分だけ写した大型召喚陣の図面と、破断箇所の記録を預かっている。
研究室の大きな机へ図面を広げる。
「それで、ルーデウス」
クリフ先輩が椅子へ座った。
「これが例の召喚術式か?」
「はい」
「何を呼ぶ?」
「そこは伏せてください」
即座に嫌そうな顔になる。
「何で僕に頼んでおいて隠すんだ」
「今回お願いしたいのは対象ではなく、魔法陣の構造だからです。研究している本人が、必要のない部分はまだ公開したくないと言っています」
クリフ先輩はしばらく俺を見る。
「本人が決めたのか?」
「はい」
「なら仕方ない」
意外なほどあっさり引いた。
少し変わったな。
……と思ったが、口にはしない。
エリナリーゼもクリフ先輩の横へ座る。
ザノバは図面の反対側から覗き込んだ。
「余は魔法陣について詳しくございませんぞ?」
「だから来てもらいました」
「なるほど!」
何がなるほどなのだろう。
クリフ先輩は、すでに図面へ意識を集中させていた。
数秒。
十秒。
さらに時間が経つ。
眉間の皺が深くなる。
そして。
「……汚いな」
開口一番、それだった。
「クリフ先輩」
「待て。悪口じゃない」
俺が止めるより先に手を上げる。
「考え方そのものが悪いと言ってるんじゃない。魔法陣として整理されてないんだ」
指が図面の一箇所へ触れる。
「ここ。同じ役割の記述が離れた場所に何度もある。まとめれば短くできる」
「サイレントさんもそこは試したそうです」
俺は七星から預かった別の紙を出した。
「まとめると、こちらへ干渉するそうです」
クリフ先輩が紙を取る。
「なら、こっちを外へ回せば――」
「それも試しています」
次の紙。
クリフ先輩が黙る。
「では、この回路自体を移動させる」
次。
「それも」
「この二つを共通化」
さらに次。
「それもです」
クリフ先輩の顔から、最初にあった余裕が消えていく。
何枚も紙を並べる。
七星が何度も描き直した跡。
線を移動させた案。
術式を圧縮した案。
逆方向へ回した案。
一つずつ確認する。
やがて。
「……こいつ、相当やったな」
クリフ先輩が呟いた。
「二年、本格的に研究していますから」
「この辺の組み方なんて、普通はやらない」
指が複雑に迂回した回路を追う。
「無駄だらけに見えるが、無駄じゃない。こうしないとほかへぶつかるのか」
「そう言っていました」
「汚いが……面白い」
今度の「汚い」は、最初より少し響きが違った。
完全に研究者の顔だ。
クリフ先輩は新しい紙を取り、自分でも配置を書き始めた。
「ここをこっちへ回して……」
線を引く。
止まる。
「駄目だ」
消す。
「じゃあこちらを先に……」
また止まる。
「これも駄目」
何度も。
エリナリーゼは邪魔をせず、隣で見ている。
俺とレイネも黙っていた。
ザノバだけは、最初から魔法陣よりも、図面全体を少し離れたところから眺めている。
一時間近く経った頃。
クリフ先輩が筆を置いた。
「難題だな」
クリフ先輩がそう言うのは珍しい。
「一から全部書き直しても駄目ですか?」
俺が聞く。
「それでも必要な条件が同じなら、最後は似た問題になると思う」
七星が破断した一点を指していた場所へ、クリフ先輩も指を置く。
「ここをつなぐためには回路を通す場所が必要だ。だが、その場所にはすでに別の回路がある」
「片方を動かせない?」
エリナリーゼが尋ねる。
「動かせるならもうやっている」
クリフ先輩は苛立った様子ではなく答えた。
「問題は、どちらも必要だということだ。交差させれば干渉する。離せば別の条件へぶつかる」
「紙の外へ出すのは?」
「術式が切れる」
「裏側へ?」
「……裏?」
クリフ先輩が少し考える。
しかし、すぐ首を振る。
「同じ一枚の魔法陣として成立させるなら、表裏へ分けても接続が――」
そこで。
「クリフ殿」
ザノバが呼んだ。
皆が見る。
ザノバは壁際に置いていた自動人形へ歩いていた。
「一つ、よろしいですかな?」
「何だ?」
「魔法陣は、一枚でなければならないのでございますか?」
クリフ先輩の眉が動く。
「どういう意味だ?」
「その図面が狭いのであれば、二枚にすればよいのではございませぬか?」
一瞬。
誰も返事をしなかった。
ザノバ自身も、自分が何かおかしなことを言ったのか不安になったらしい。
「いや、余は専門家ではございませんので、見当違いならば――」
「待て」
クリフ先輩が立ち上がる。
「今のをもう一度言え」
「二枚にすればよいのでは、と」
「何でそう思った?」
ザノバは自動人形の腕へ手を掛けた。
棚から、研究用に切断された腕の断面を取り出す。
「これでございます」
机へ置く。
俺も何度か見たことがある。
自動人形の内部。
複雑な部品。
そして。
何層にも分かれた魔術的な構造。
「余は長らく、この人形に使われている魔法陣を調べております」
ザノバが断面の一つを指す。
「こちらに一つ」
少し奥。
「さらにこちらにもございます」
別の資料を重ねる。
「一つの魔法陣だけで、すべてを動かしているわけではございません。複数の魔法陣が、それぞれ別の場所へ存在しております」
クリフ先輩が断面へ顔を近づける。
「見せろ」
「どうぞ。ただし壊さないでくだされ」
「分かっている」
目が完全に変わった。
レイネも横から覗く。
「複数の術式が、一つの機能へ関係しているのでございますか?」
「それが、まだ完全には分かっておりません」
ザノバは正直に答えた。
「しかし、この腕が一つの動作をする時、内部にございます複数の魔法陣が反応いたします」
「同時に?」
「完全な同時かまでは分かりませぬ。ただ、一つだけでは動きません」
クリフ先輩が息を呑む。
「……多重構造」
小さく呟いた。
「一枚の魔法陣に全部を入れず、複数へ分ける」
俺もようやく意味が分かる。
「上の紙で通れないなら、下の紙へ回路を逃がす?」
「そうだ」
クリフ先輩が勢いよく図面へ戻る。
「同じ面で交差するから干渉するんだ。別の魔法陣へ分ければ、交差させずに済む」
「でも、別々にしたら術式が切れません?」
「そこをつなぐんだ!」
「どうやって?」
「今から考える!」
答えはまだなかった。
でも。
さっきまでとは違う。
できない理由を探しているのではなく、できる方法を考え始めている。
レイネが大型術式の記録を開いた。
「この構造であれば、破断した区間そのものを別層へ移すことも可能なのでしょうか」
「可能性はある」
クリフ先輩が答える。
「いや。少なくとも、平面上で無理に迂回させる必要はなくなる」
ザノバが胸を張る。
「では、余の研究がお役に立ったということですな!」
「まだ成功したわけではない!」
「発想は余でございます!」
「だからまだ――」
「二人とも」
エリナリーゼが笑う。
「まずサイレントさんへ持っていってみた方がよろしいのではありません?」
それが先だった。
◇
その日の夕方。
俺とレイネは、ザノバから借りた自動人形の断面資料と、クリフ先輩が簡単に書いた多重構造の案を持って家へ帰った。
七星は一階の食卓にいた。
俺たちの顔を見るなり、
「何かあった?」
と聞く。
分かりやすいらしい。
「一つ、考え方が出ました」
七星の表情が固くなる。
期待するのが怖いのかもしれない。
俺は急がず、まずザノバの自動人形について説明した。
「この人形、一つの魔法陣だけで動いていないらしいです」
「それが?」
「複数の魔法陣を使っています」
七星の視線が断面資料へ落ちる。
レイネが紙を広げた。
「ザノバ様より、この構造を召喚術へ利用できないかというご提案がございました」
「……どういうこと?」
俺は七星自身の簡略図へ紙を二枚重ねた。
「一枚へ全部を入れない」
七星が動かなくなる。
「つながらない回路を、別の紙へ移す」
指を置く。
「こっちで進めない場所だけ、下の魔法陣を通して、その先でまた上へ戻す」
七星の瞳が、ゆっくり見開かれた。
「……重ねる?」
「はい」
紙を取る。
二枚。
三枚。
七星自身が重ねる。
そのまま何も言わず、しばらく見ている。
「魔法陣は……」
小さく呟く。
「一枚である必要なんて……」
もう一枚取る。
位置をずらす。
「ここの条件を二枚目へ」
別の箇所。
「こっちは三枚目」
急に立ち上がった。
椅子が後ろへ動く。
「そうよ」
声が変わった。
「何で一枚に入れようとしてたの」
紙へ線を引き始める。
「全部同じ面に置こうとするから、ここでぶつかる。でも別の層なら……」
手が速くなる。
「つながる」
俺とレイネは顔を見合わせた。
七星はもうこちらを見ていない。
ただ。
一週間前のような絶望した顔でもなかった。
レイネが、その横顔を見ながら小さく呟く。
「……よかった」
七星には聞こえなかったかもしれない。
俺には聞こえた。
レイネはそれ以上言わず、すぐ七星へ確認する。
「サイレント様。ザノバ様とクリフ様にも、今後の研究へ参加いただくことを希望されますか?」
七星の手が止まる。
「……うん」
即答だった。
「頼みたい」
「では、明日お伝えいたします」
「明日?」
七星が少し不満そうに見る。
「今から行って――」
「現在のお時間をご確認くださいませ」
窓の外は、もう暗くなり始めている。
七星が黙る。
「クリフ様とザノバ様にも、それぞれの生活がございます」
「……分かった」
「本日は概要のみ整理し、夕食後はお休みくださいませ」
「まだ始めたばかりなんだけど」
「明日もございます」
七星が俺を見る。
助けを求めている顔だ。
「僕もレイネに賛成です」
「裏切り者」
「睡眠不足の人と研究したくないだけです」
「……分かったわよ」
不満そうだ。
でも。
その不満を言えることが少し嬉しかった。
◇
翌日から、研究室の様子は大きく変わった。
中心にいるのは七星とクリフ先輩だ。
七星が召喚術として必要な条件を決め、クリフ先輩がそれを魔法陣として整理する。
ザノバは自動人形の断面や資料を持ち込み、多重構造について分かる範囲を説明する。
俺は《シグの召喚術》を読みながら、理解できない部分を尋ね、試験的に魔力が必要になれば供給した。
レイネは各試行の記録と安全確認を受け持つ。
エリナリーゼは研究そのものへ口を出すことはほとんどなかったが、クリフ先輩が食事を忘れようとすれば止め、全員が何時間も机へ向かっていれば、
「一度休憩なさいな」
と強制的に席を立たせた。
最初は二枚だった。
七星が試作図を並べる。
「この回路を二層目へ移す」
クリフ先輩が見る。
「それなら、ここをつなぐための接続点が必要だ」
「ここじゃ駄目?」
「この位置だと上の回路と近すぎる」
「じゃあ少しずらす」
「待て。そっちだと対象固定の記述と重なる」
何度も書く。
消す。
重ねる。
また書く。
二枚では足りない。
三枚。
それでも余裕が少ない。
七星は一度筆を置き、
「最初から綺麗にしすぎる必要ない」
と言った。
「まず動かす。小型化とか整理は後」
クリフ先輩が頷く。
「僕も同意だ」
ザノバが横から言う。
「ならば五枚ほど使ってはいかがですかな?」
「五枚?」
「余裕はあった方がよろしいでしょう!」
「技術的な理由じゃないんですね」
俺が言うと、
「余裕は重要でございますぞ!」
ザノバは自信満々だった。
結局、五枚を使うことになった。
ただし、五枚を離して棚のように置くわけではない。
それぞれへ別の回路を描き、接続位置を完全に揃えた上で、一枚ずつ正確に重ね合わせる。
層同士のつながりを壊さないよう固定し、最終的には一枚の厚い魔法陣のような形へまとめる。
一枚だけ見ても完成した術式ではない。
五枚全部が重なって初めて、一つの召喚術式として成立する。
七星はそれを、
《積層型魔法陣》
と呼んだ。
最初の試作品ができたところで、俺がごく僅かな魔力を流した。
全部を動かさない。
接続だけ確認する。
一層目。
光が走る。
接続点へ届く。
一度弱まり。
すぐ二層目の対応位置が光った。
「移った」
俺が言う。
七星が紙の端へ顔を近づける。
「ちゃんと下へ行ってる?」
「感覚では」
「記録上も確認しております」
レイネが測定器具を見る。
「二層目の接続点に反応がございます」
クリフ先輩が息を吐く。
「よし」
ザノバが胸を張る。
「多重構造ですな!」
「まだ二層目までだ!」
「それでも余の発想でございます!」
「分かったから静かにしろ!」
エリナリーゼが笑っている。
最初の接続。
次。
三層目。
また問題が出る。
クリフ先輩が直す。
七星が必要条件を確認する。
レイネが記録する。
俺がまた少量だけ魔力を流す。
少しずつ。
本当に少しずつ。
しかし今度は、一箇所がどうしてもつながらないという壁ではない。
問題が出れば、その問題を見て修正できる。
誰か一人の頭だけで全部を解く必要もない。
ザノバが自動人形で知っていること。
クリフ先輩が魔法陣で知っていること。
七星が召喚術で知っていること。
レイネが蓄積してきた実験記録。
俺の魔力。
同じものを見ても、それぞれ違うところへ気づく。
一週間前。
七星は一人で二年間積み上げた結果が壊れ、自分にはもう方法がないと思った。
でも。
方法がないのではなく。
一人で考えられる方法を使い切っただけだった。
ようやく、その意味が少し分かった気がした。
◇
試作を始めて一週間。
積層型魔法陣が、実験できる状態まで完成した。
その朝。
俺とレイネが研究室へ入ると、七星とクリフ先輩、ザノバはすでに揃っていた。
エリナリーゼもクリフ先輩の隣にいる。
机の中央には、一枚の厚い紙のような物が置かれていた。
五枚の魔法陣を、一切ずれないよう重ねて固定したものだ。
層ごとの接続点も確認されている。
「昨日から変えていない?」
俺が尋ねる。
七星が答える。
「変えてない。一晩置いて、今朝もう一度全部確認した」
「クリフ先輩は?」
「僕も見た。少なくとも、術式としておかしい部分は見つからなかった」
「ザノバ?」
「固定状態も問題ございません!」
レイネは周囲へ測定器具を置いていく。
「本日は最初から完全な魔力量を供給するのではなく、事前に決めた値より開始いたします」
「分かっています」
「術式へ破損が生じた場合、想定を超える魔力吸収が発生した場合、またルーデウス様ご自身が異常を感じられた場合には、即座に停止してくださいませ」
「はい」
七星も口を挟む。
「私が続けてって言っても?」
レイネは迷わない。
「明確な危険が確認された場合には、停止をお願いいたします」
「分かった」
七星もすぐ受け入れた。
あの日とは違う。
成功させたい気持ちは強い。
それでも、壊れた魔法陣へ無理に魔力を流し続けようとはしない。
エリナリーゼが七星を見る。
「緊張していますの?」
「してる」
「そうでしょうね」
「あなたはしないの?」
「私が魔力を流すわけではありませんもの」
「そういう問題?」
「こういう時には、余計な強がりをしない方が楽ですわよ」
七星は少し黙り、
「……怖い」
と答えた。
「あの時みたいに、また何も出なかったらと思うと怖い」
誰も、
大丈夫。
絶対成功する。
とは言わなかった。
クリフ先輩は術式を見る。
ザノバは固定具を見る。
レイネは測定器具を見る。
俺は供給点へ座る。
それぞれが、自分にできることを確認する。
「始められます」
俺は言った。
七星が深く息を吸う。
そして。
「お願い」
俺は魔法陣へ手を置いた。
魔力を流す。
最初は何もない。
数秒して。
表面の一部が淡く光った。
魔力は一層目の回路を通っていく。
感覚が変わる。
横へ進んでいた魔力が、途中で別の場所へ抜けた。
目では見えない。
しかし。
二層目の接続先が発光する。
「二層目へ接続しております」
レイネの声。
七星は魔法陣から目を離さない。
「そのまま」
俺も維持する。
二層目。
三層目。
魔力が層を移動するたびに、表面の別の場所へ光が現れる。
下へ落ち。
横へ進み。
別の接続点から上へ戻る。
一枚の平面には存在できなかった経路を、魔力が通っている。
「三層目正常!」
クリフ先輩の声。
「固定にも変化ございません!」
ザノバが続ける。
「供給量は予定値内。異常な吸収もございません」
レイネ。
四層。
五層。
そして。
全部がつながった。
前回。
一箇所だけ暗いまま残った場所。
魔力が詰まり。
最後には亀裂が入った場所。
今回は。
光がそこを通過した。
七星の肩が僅かに震える。
「……通った」
誰に言うでもなく呟いた。
「通ってる」
でも。
まだ何も出ていない。
成功ではない。
俺は魔力を維持する。
「予定量まで上げる」
七星が言う。
俺はレイネを見る。
彼女が測定器具を確認し、頷く。
「事前に定めた範囲内でございます」
少しずつ増やす。
魔法陣の光が強くなる。
一層。
二層。
三層。
五枚全体が、一つの術式として発光していく。
眩しい。
目を細める。
魔力を吸われる量も増えた。
ただし、制御できないほどではない。
「ルーデウス」
「大丈夫です」
先に答える。
「まだ余裕があります」
「そのまま」
七星の声が震えている。
「各層、正常でございます」
レイネが告げる。
「破損なし」
クリフ先輩。
「固定も問題ございません!」
ザノバ。
光がさらに強くなった。
研究室の中が白く染まる。
俺は手だけを動かさない。
魔力を一定に保つ。
その時。
感触が変わった。
何かが引っ掛かったわけではない。
むしろ逆だ。
今まで術式の中を回っていた魔力が、一斉にどこかへ抜けていく。
「サイレントさん!」
「維持して!」
魔力を流す。
一瞬。
光が限界まで強くなる。
見ていられない。
そして。
急に。
消えた。
完全に暗くなったわけではない。
ただ、強烈だった光が一気に収まった。
俺は魔力を止める。
「停止しました」
レイネがすぐ測定器具を見る。
「術式破損は確認できません」
「こちらも固定に異常ございませんぞ」
ザノバ。
クリフ先輩も魔法陣を確認している。
「回路も生きてる」
失敗?
そう思い掛けた。
でも。
七星が動かなかった。
彼女は魔法陣の中央を見ている。
俺も見る。
何かがある。
透明。
細長い。
この世界では見慣れない、薄い容器。
蓋はない。
ラベルもない。
けれど。
俺と七星には、それが何なのか説明される必要などなかった。
「……ペットボトル」
日本語で口から出た。
七星が走った。
魔法陣の中央へ入り、透明な容器を拾い上げる。
両手で持つ。
指で押す。
へこむ。
離す。
戻る。
もう一度。
同じ。
七星の指が震えた。
「……本物」
声も震えている。
「サイレントさん」
七星が俺を見る。
目に涙が溜まっていた。
「成功ですね」
返事がない。
もう一度、ペットボトルを見る。
「……できた」
小さな声。
「できた……」
今度は俺を見る。
「できた!」
涙が落ちる。
でも。
笑っている。
一週間前とはまったく違う涙だった。
「異世界から……呼べた」
誰に説明するでもなく、何度も確かめる。
「できた……!」
ザノバが目を丸くしている。
「師匠。これは何なのでございます?」
「後で説明できる範囲で」
「なんと不思議な素材!」
「ザノバ、今は少し待ってください」
クリフ先輩も興味を隠せない。
「魔法で作った物じゃないんだな?」
七星が涙を拭きながら答える。
「違う」
「では、実際にどこかから――」
「クリフ先輩」
俺が止める。
「ああ。分かった」
珍しく素直に引いた。
横で、小さな声が聞こえた。
「……よかった」
レイネだった。
記録用の筆を置き、七星を見ている。
いつものように完全に表情を整えてはいない。
素直に安堵したような笑顔だった。
七星がそちらを見る。
レイネは少しだけ照れた様子を見せたが、笑みを消さなかった。
「サイレント様。おめでとうございます」
「……ありがとう」
それだけでいい。
七星はまたペットボトルを見る。
それを胸へ抱える。
この一本だけで、日本へ帰れるわけではない。
人間を送れるわけでもない。
まだ「物が一つ来た」だけだ。
それでも。
ゼロではなくなった。
あの日。
一箇所で壊れた魔法陣の向こう側に。
本当に何かがあった。
そして今日。
意図して。
日本に存在する物を。
こちらへ引き寄せることができた。
「サイレントさん」
「何?」
「今日はもう終わりにしませんか?」
七星の顔が固まる。
「次の設計だけ――」
「概要だけ書きましょう」
俺より先にレイネが答えた。
「その後は終了でございます」
「今、かなり頭動いてるんだけど」
エリナリーゼが笑う。
「失敗した日には休んだのに、成功した日に休まないのも妙なお話ですわね」
「それ、関係ある?」
「ございますわ」
クリフ先輩も腕を組む。
「僕も今日は終わりでいいと思う」
七星が驚く。
「クリフまで?」
「今日は僕の功績を祝う必要がある」
「やっぱり黙ってて」
「何でだ!」
ザノバが立ち上がる。
「祝賀会でございますな!」
「あなたも?」
「もちろんでございます!」
七星はペットボトルを抱えたまま、全員を見回した。
最後に小さく息を吐く。
「……分かった」
少し笑う。
「今日は祝う」
◇
夕方。
俺たちは大学近くの料理屋へ入った。
七星。
俺。
レイネ。
ザノバ。
クリフ先輩。
エリナリーゼ。
六人だ。
シルフィにも声を掛けたかったが、今日はアリエル様の護衛から離れられない。
帰ったら成功したことを伝えるつもりだ。
レイネは注文を取りに来た店員へ、
「酒精を含まない果実水でお願いいたします」
と真っ先に伝えた。
少し前の家での祝いを思い出す。
あの一件以来、酒を飲もうとはしていない。
俺も薄い果実酒を一杯だけにした。
料理が並ぶ。
焼いた肉。
魚。
スープ。
温かいパン。
野菜料理。
七星が成功したペットボトルまで卓の中央に置いているせいで、ザノバとクリフ先輩が何度もそちらを見る。
「やはり不思議な物ですな」
ザノバが呟く。
「透明なのに硝子じゃない」
クリフ先輩も目を細める。
「薄い。柔らかい。それでいて形が戻る」
「今日は研究しない」
七星が釘を刺した。
「見ているだけだ」
クリフ先輩が答える。
「完全に研究者の目なんだけど」
「僕は何も測っていない!」
「測りたいんでしょう?」
「……少し」
エリナリーゼが笑う。
「明日になさいな」
「分かっている」
ザノバも名残惜しそうにペットボトルから目を離した。
「では、明日改めて拝見させていただきますぞ!」
「研究対象が増えましたね」
俺が言う。
「これは仕方ございません!」
七星も少し笑った。
その様子を見る。
本当に。
一週間前とは別人のようだ。
いや。
別人になったわけではない。
帰りたいという気持ちも同じ。
研究への執着も同じ。
無口なところも。
愛想がいいとは言えないところも同じだ。
ただ。
行き止まりに見えていた場所へ、細い道が一本できた。
それだけなのだと思う。
エリナリーゼが杯を持った。
「では、サイレントさんの研究が一つ大きく前へ進んだことに」
ザノバもすぐ杯を上げる。
「そして多重構造を発案した余に!」
クリフ先輩も負けない。
「それを術式へ落とし込んだ僕にもだ!」
「私が二年研究した部分は?」
七星が尋ねた。
二人が黙る。
俺は笑った。
「全部まとめて祝いましょう」
「それが一番よろしいですわね」
エリナリーゼが笑う。
レイネも果実水の杯を上げた。
杯が軽く触れ合う。
「おめでとうございます」
レイネが七星へ言う。
「ありがとう」
七星も答えた。
食事が始まる。
クリフ先輩とザノバは、しばらくするとまた、
「最も重要だったのは何か」
という不毛な議論を始めた。
「余がいなければ多重構造はございませんでしたぞ!」
「構造だけあっても魔法陣として動かなければ意味がない!」
「しかし発想がなければ!」
「それは認めている!」
「では余の勝利でございますな!」
「何でそうなる!」
エリナリーゼが楽しそうに笑う。
俺も笑う。
七星まで小さく笑っていた。
その向かい。
レイネも口元を緩めている。
エリナリーゼが気づいた。
「あら、レイネさん。今日は随分楽しそうですわね」
レイネの表情が僅かに固まる。
昔なら。
たぶんここで、
「そのようなことはございません」
と無意識に戻していただろう。
しかし。
少し迷った後。
「……はい」
と頷いた。
「楽しいのでございます」
それだけ。
エリナリーゼも大げさに反応しない。
「それは何よりですわ」
「はい」
レイネももう一度笑った。
俺も何も言わなかった。
それで十分だと思った。
◇
料理がかなり減った頃。
七星が杯を置いた。
「一ついい?」
ザノバとクリフ先輩の言い争いも止まる。
七星は、卓の中央に置かれたペットボトルへ視線を向けた。
「この前」
誰も口を挟まない。
「あの魔法陣が壊れた時、本当に終わったと思った」
静かな声だった。
「二年やって、自分が考えられる形を全部試して、それでも物理的につながらなかったから……もう方法がないと思った」
ザノバがじっと聞いている。
クリフ先輩も何も言わない。
「でも」
七星が少しだけ笑う。
「方法がなかったんじゃなくて、私の考えた方法の中になかっただけだった」
ペットボトルへ手を置く。
「ザノバの人形がなかったら、多重構造なんて考えなかった」
ザノバが口を開こうとする。
七星が先に睨む。
「今は自慢しないで」
「承知いたしました」
珍しく素直だ。
「クリフも」
「何だ」
「一緒に魔法陣を直してくれて助かった」
「当然だ」
エリナリーゼが横から、
「そこは素直に『どういたしまして』でしょう?」
と笑う。
クリフ先輩は少し顔を赤くした。
「……どういたしまして」
七星が僅かに目を丸くする。
それから俺とレイネも見る。
「ルーデウスの魔力がなかったら試せなかったし、レイネが記録と安全を見てくれてたから、今度は壊れるまで続けずに済むと思えた」
そこで一度言葉を切る。
「私一人じゃ、無理だった」
口にするのに少し抵抗があったらしい。
それでも続けた。
「……ありがとう」
短い。
それで十分だった。
「どういたしまして」
俺が答える。
レイネも、
「お役に立てたのであれば、嬉しく存じます」
と穏やかに笑う。
ザノバは感動したような顔で、
「サイレント殿!」
と大声を出した。
「大声出さないで」
「失礼いたしました!」
クリフ先輩も鼻を鳴らす。
「次に必要ならまた呼べ」
「頼むかも」
「任せろ」
エリナリーゼが自分の杯を上げる。
「では、次の研究の前に、まず今日のお食事を最後まで召し上がることですわね」
「どうして最後はそこに戻るの」
「大切ですもの」
レイネがすぐ頷く。
「同感でございます」
七星が二人を交互に見る。
「……食事を監視する人が増えてない?」
「いいことではございませんか」
「私にとってはよくない」
「研究を続けるには健康が必要ですわ」
エリナリーゼが言う。
レイネも、
「その通りでございます」
と続ける。
七星は観念したように残っていた料理へ手を伸ばした。
「分かったわよ」
少し笑っている。
俺も笑った。
今日くらいは。
この程度の騒がしさが、ちょうどいい。
◇
祝賀会が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
ザノバは寮へ帰る。
クリフ先輩とエリナリーゼも二人で帰っていった。
「明日、また研究室で!」
ザノバが最後まで元気よく手を振る。
「明日は講義もありますよ」
俺が言うと、
「もちろん覚えておりますぞ!」
信用していいのだろうか。
七星はペットボトルを大切そうに持っている。
「サイレントさんは、今日はどうします?」
尋ねる。
「どうするって?」
「研究室へ戻るなら止めません。もう一週間うちで休みましたし、自分の生活へ戻りたいなら」
七星は少し考える。
「……今日はそっちへ帰る」
「僕たちの家に?」
「うん」
「分かりました」
「明日からどうするかは明日決める」
「それでいいと思います」
本人が決めればいい。
俺とレイネ、七星の三人で大学の正門へ向かう。
通り掛かったので、いつものように受付へ確認した。
「僕宛ての伝言はありますか?」
職員が記録を見る。
「本日はありません」
「ありがとうございます」
ノルンとアイシャ。
まだ来ていない。
父さんの手紙が届いてから、かなり時間が経っている。
手紙と人間では速度が違う。
分かっている。
護衛がルイジェルドさんなら、戦闘面についても信頼している。
それでも。
「そろそろ調べますか」
俺が言う。
レイネもすぐ意味を理解した。
「はい。明日、冒険者ギルドと商会へ確認いたしましょう」
「街道の状況だけでも分かればいいですね」
「主要な宿場へ到着した商隊の情報も確認できる可能性がございます」
七星が横から尋ねる。
「妹?」
「はい」
「まだ来てないの?」
「まだです」
「心配?」
「心配です」
そこは否定しない。
「でも、何かあったと決まったわけではないので、まず情報を集めます」
七星が少しこちらを見る。
「そう」
それ以上は言わなかった。
家へ向かう。
途中。
レイネの歩調が少し軽いように見えた。
「今日は楽しそうでしたね」
俺が言う。
レイネは一瞬こちらを見る。
「……お気づきでしたか」
「エリナリーゼにも言われてましたよ」
「そうでございましたね」
少し恥ずかしそうだ。
「嫌でした?」
聞くのはそれだけにした。
レイネは考える。
「いいえ」
はっきり答える。
「少々恥ずかしくはございましたが、嫌ではございませんでした」
「ならよかったです」
それ以上、成長しただの変わっただのとは言わない。
レイネはレイネだ。
今日少しよく笑ったからといって、明日から誰にでも感情を全部見せる必要もない。
横では七星がペットボトルを眺めながら歩いている。
何度見ても、まだ信じられないのかもしれない。
俺も同じだった。
日本にあった物。
こちらの世界には存在しなかったはずの物。
それが今、七星の手にある。
今日の成功だけで帰還方法が完成したわけではない。
まだ第一歩。
それでも。
ゼロと一ではまったく違う。
「サイレントさん」
「何?」
「改めて、おめでとうございます」
七星は少しだけ黙った。
「……ありがとう」
今度は泣かなかった。
小さく笑った。
◇
家へ着くと、シルフィはすでに帰っていた。
「おかえり、ルディ、レイネ。サイレントさんも」
「ただいま」
「ただいま戻りました」
「……ただいま」
七星が最後に言う。
一週間暮らしたせいか、もう客としての「お邪魔します」ではなかった。
シルフィが少し笑う。
「今日はどうだった?」
俺が答える前に。
七星がペットボトルを出した。
「成功した」
シルフィの目が大きくなる。
「本当に?」
「うん」
七星が透明な容器を見せる。
シルフィには、それが何なのか分からない。
ただ。
この一週間。
七星がどれだけ落ち込んでいたのかは見ている。
だから物そのものより、七星の表情を見た。
「よかったね」
「……うん」
シルフィはそれ以上、研究内容を聞かなかった。
「夕食は?」
「祝賀会で食べてきました」
俺が答える。
「じゃあ、お茶くらいにしようか」
「僕が淹れます」
「ルディが?」
「その反応は何です?」
シルフィが笑う。
レイネも少し笑った。
七星まで、
「大丈夫なの?」
と聞いてくる。
「サイレントさんまで!」
「だってこの家で一週間見てたけど、料理してるの大体シルフィかレイネだったから」
「お茶くらいできます!」
「では、お願いいたします」
レイネまで楽しそうに言う。
俺は少し不満だったが、湯を沸かす。
四人分。
食卓へ並べる。
七星は今日成功したペットボトルを、自分の席の横へ大切そうに置いた。
シルフィは研究の結果について少しだけ聞き、七星が話したい範囲だけ聞いた。
俺たちも、その説明へ勝手に補足しない。
しばらくすると、七星は眠気が来たらしい。
「今日は寝る」
「はい」
「おやすみ、サイレントさん」
シルフィが言う。
「おやすみ」
レイネも、
「おやすみなさいませ」
と返す。
七星は二階へ上がっていった。
残った三人で食卓を囲む。
シルフィが小さく息を吐く。
「よかったね、本当に」
「はい」
俺も頷く。
一週間前。
あの部屋で七星が眠っていた時、今日のように笑える日がこれほど早く来るとは思っていなかった。
でも。
早く来たというより。
一人では越えられなかった壁へ、別の人間が違う道を持ってきただけなのだろう。
ザノバが人形を研究していなければ。
クリフ先輩が魔法陣を理解できなければ。
七星が二年間研究を続けていなければ。
俺の魔力がなければ。
レイネが実験の記録を残していなければ。
今日の成功はなかった。
一人で何でもできる必要はない。
俺は魔大陸で、ルイジェルドさんから似たようなことを言われた。
自分一人で全部を決めようとするな。
それでも考えることはやめるな。
仲間と考えろ。
今なら、あの時より少しだけ意味が分かる。
「明日はノルンちゃんとアイシャちゃんのこと調べるんだよね?」
シルフィが尋ねた。
「はい。何か起きたと決めつけるつもりはありません。でも、そろそろ街道や商隊の情報くらいは確認しようと思います」
「僕もできることがあるか、アリエル様に聞いてみる」
「お願いします。ただ、無理に人を動かしてもらう必要はないです」
「分かってるよ」
レイネも頷く。
「まず通常の情報網で確認いたしましょう」
焦らない。
でも、心配していることを無視もしない。
情報を集めて。
必要なら動く。
その順番でいい。
俺は湯気の立つ杯へ口をつけた。
七星の研究は一歩進んだ。
ノルンとアイシャはまだ来ない。
母様を捜している父さんたちの状況も分からない。
エリスからの結婚報告への返事も、まだ届いていない。
レイネが抱えている過去にも、俺の知らない部分は残っている。
答えの出ていないことは、いくつもある。
けれど。
分からないからといって、全部を俺一人で抱えて走り回る必要はない。
今日のペットボトルが、それをこれ以上ないほど分かりやすく教えてくれた気がした。
俺一人では思いつかなかった。
七星一人でも思いつかなかった。
クリフ先輩だけでも。
ザノバだけでも。
誰一人だけでも足りなかった。
だから。
明日も、一つずつやればいい。
まずノルンとアイシャが、どこまで来ているのかを調べる。
そして。
もし困っているなら。
今度は俺たちが迎えに行けばいい。