ルーデウス視点
六歳になった。
生活の形そのものは、一年前から大きく変わっていない。
朝食前には庭を走り、身体が温まったところでパウロとの剣術訓練を行う。昼までに魔術の復習や新しい術の試作を済ませ、午後になると植物辞典を持って村の周辺を歩き、最後には丘の上にある大木の下でシルフィと合流する。
ロキシーが去った直後には、家の中が妙に静かになったように感じていたが、今では授業で教わった内容を自分なりに発展させることが、新しい日課となっていた。
特に最近力を入れているのは、魔術と剣術を組み合わせた戦い方である。
純粋な剣術では、今もパウロに遠く及ばない。
この一年で剣神流中級の型はかなり安定し、年上の子供が相手であれば、複数人に囲まれても大きな怪我をさせずに追い払える程度にはなった。しかし、パウロを相手にすると、こちらが何を狙っているのか、動き始める前に見抜かれてしまう。
力、速度、経験、反射。
そのすべてで負けている。
ならば、魔術で不足を補えばよい。
足元へ短い風を発生させ、踏み込みを加速する。地面を僅かに盛り上げ、進行方向を変える際の足場にする。相手の周囲へ細かな水滴を撒き、視界を一瞬だけ遮る。
初めは思いつくまま試していたが、レイネに見せたところ、すぐに問題点を指摘された。
「動き出す直前に、魔力が一方向へ集まりすぎております」
庭の端でルーデウスの踏み込みを見ていたレイネは、地面に残った足跡を確認しながら告げた。
現在のレイネは実年齢二十歳となり、外見は十歳ほどまで成長している。グレイラット家へ来た当初に比べれば背丈も伸び、顔立ちにも僅かな大人びた変化が現れていたが、初対面の者が彼女を成人女性だと信じることはないだろう。
「魔力が集まるのを、父様に読まれているということですか?」
「旦那様が魔力の流れまで感じ取っておられるかは分かりません。ただ、魔術を使う瞬間だけ身体が固まり、視線が足元へ向いております。それだけでも、次に何かなさることは察せられます」
言われてみれば、風を発生させる位置を意識するあまり、無意識に地面を見ていた。
「では、どうすればいいでしょう」
「魔術を使わない踏み込みと、使う踏み込みの予備動作を同じにしてください。また、加速する瞬間に姿勢が崩れておりますので、まず弱い風から始めるべきでしょう」
「強い方が速くなります」
「速く進むことと、剣を正しく振れることは別でございます。相手へ近づいた後に足が絡まるのであれば、ご自分から斬られに行っているだけです」
厳しい言い方だったが、事実だった。
魔術で一気に加速したところで、止まれずに体勢を崩せば、パウロには簡単に避けられる。実戦であれば、その直後に反撃を受けるだろう。
レイネは訓練のため、庭へ一定の間隔で細い杭を立てた。
風魔術を使って最初の杭まで踏み込み、剣を振る代わりに軽く触れる。その後、足を止めずに方向を変え、次の杭へ移る。一つでも杭を倒したり、規定された位置から足が外れたりすれば最初からやり直しだった。
「剣術の訓練というより、踊りの練習みたいです」
「旦那様との打ち合いで同じ失敗を繰り返すより、安全でございます」
「レイネも護身術の訓練で、こういうことをしたのですか?」
質問すると、レイネは杭の傾きを直しながら、いつもの穏やかな微笑を浮かべた。
「似たようなことを教わった記憶がございます」
嘘をついているようには見えない。
それでも、簡単な護身術しか知らないという人間が、魔術を組み合わせた足運びまで分析できるものなのだろうか。
以前から感じていた小さな疑問は残ったが、レイネが答えたくないことを追及するつもりはなかった。彼女が自分へ害を与えようとしているわけではなく、実際に助言のおかげで剣術が伸びているからである。
数週間の訓練を経て、魔術による加速を使っても、以前ほど姿勢を崩さなくなった。
その状態でパウロへ挑んだところ、最初の一撃だけは、父親の予想を僅かに上回ることができた。
風を使わない踏み込みを二度見せた後、三度目だけ足元で短い風を爆発させる。予備動作を揃えたことで、パウロの反応がほんの僅かに遅れた。
木剣の先が、パウロの脇腹へ迫る。
しかし、当たる直前で手首を押さえられ、身体ごと地面へ転がされた。
「今のは驚いたぞ」
パウロはルーデウスを起こしながら、嬉しそうに笑った。
「剣神流の踏み込みに魔術を合わせたのか。悪くない。だが、速さが変わった瞬間、お前自身も剣へ振り回されていた」
「当たると思ったのですが」
「相手が反応できなければな。だが、止められた時のことも考えろ。今みたいに腕を取られれば、そのまま首を折られるぞ」
悔しかったが、これまでより確実に近づいている。
魔術を使っても一本を取れなかった事実を落ち込むべきか、一瞬でもパウロを驚かせたことを喜ぶべきか迷っていると、庭の端にいたレイネが水を持ってきた。
「魔術を使った踏み込みそのものは成功しておりました」
「でも、負けました」
「旦那様へ初めてお見せした動きで、一度驚かせられたのであれば十分でしょう。次からは知られていることを前提に、どう使うかを考える必要がございます」
「さらに別の魔術を組み合わせます」
「増やす前に、今の動きを百回繰り返しても崩れないようになさってください」
すぐに先回りされてしまった。
パウロは二人の会話を聞きながら、少し首を傾げていた。
「レイネ。お前、いつからそこまで剣術に詳しくなったんだ?」
「旦那様の訓練を毎日拝見しておりますので、ルーデウス様が失敗した箇所を指摘できるようになっただけでございます」
「見ているだけで分かるものか?」
「旦那様が、同じ点を何度も注意なさっておりますから」
パウロは自分の指導が間接的に役立っていると解釈したらしく、すぐに満足そうな顔になった。
「そういうことか。やはり俺の教え方は悪くないんだな」
「はい。旦那様の動きそのものは、非常に正確でございます」
説明については褒めていない。
そのことにパウロは気づかなかった。
◇
午後になると、ルーデウスは丘へ向かった。
大木の下には、シルフィが先に到着していた。
一年の間に僅かに背が伸びたものの、華奢な身体つきや、エメラルドグリーンの短い髪は大きく変わっていない。初めて会った頃と違い、服や髪へ泥を投げつけられることもなくなり、表情も随分明るくなっていた。
いじめを完全になくせたわけではない。
だが、年上の子供を連れてきてもルーデウスに追い払われ、パウロから親へ注意が入り、さらにシルフィ本人が初級魔術を使えるようになったことで、正面から手を出す者はほとんどいなくなった。
「ごめん、待った?」
「ううん。ボクも、今来たところ」
毎日のように繰り返している挨拶を交わし、二人は並んで木の根元へ座った。
シルフィには、この一年、文字と魔術を教えてきた。
初めのうちは数回魔術を使っただけで息切れしていたが、今では休憩を挟みながらであれば、半日ほど練習を続けられる。幼い頃から魔力を使うほど総量が増えるという仮説は、シルフィにも当てはまっているようだった。
得意なのは水と風。
土魔術も問題なく扱えるが、火魔術だけは極端に苦手としている。
以前、理由を尋ねた時、シルフィは手のひらに残る火傷の痕を見せてくれた。
幼い頃、暖炉で熱せられた鉄へ触れてしまったらしい。今では火を怖くないと言うものの、詠唱中に炎を想像すると、無意識に身体が強張る。
「無理に火を使わなくても、温かい水や風なら作れます」
ルーデウスがそう提案すると、シルフィは首を横へ振った。
「ルディは全部使えるから、ボクも使えるようになりたい」
自分で決めた以上、途中で諦めたくないらしい。
ルーデウスは炎を直接作らせるのではなく、最初は水を僅かに温めることから教えた。次に冷えた手を温める程度の弱い熱を発生させ、最後に指先ほどの小さな火を灯す。
レイネからは、シルフィの火傷を思い出させるような強い練習を一度に行わないよう注意されていた。
「苦手を克服するために、恐怖を無視させてはいけません。怖くない範囲を少しずつ広げてくださいませ」
その言葉どおりに進めた結果、時間はかかったものの、シルフィも初級火魔術を安定して使えるようになった。
その日は中級水魔術の練習を行っていた。
シルフィが教本を読み上げ、詠唱を終えると、地面から太い氷の柱が伸びた。表面が陽光を反射し、透明な光を周囲へ散らしている。
「できた!」
「綺麗に形が整っています。前よりも魔力の偏りが少なくなりましたね」
褒めると、シルフィは嬉しそうに笑った。
それから教本を何頁か戻し、首を傾げる。
「でも、この本には、ルディが作ってくれた温かいお湯の魔術が書いてないよね?」
「一つの魔術としては載っていません。水を出す魔術と、熱を作る魔術を一緒に使っているだけです」
「二つの詠唱を同時にするの?」
「僕は詠唱を使わないので、水を出しながら温めています」
言葉だけでは伝わらないと思い、空中へ水を作り、その場で温めて湯気を立たせる。
シルフィは目を丸くした。
「それ、教えて」
「混合魔術ですか?」
「言葉を言わない方」
無詠唱を教えることには、少し不安があった。
ロキシーによれば、詠唱によって魔術を使う感覚が強く定着するほど、無詠唱への切り替えは難しくなるという。シルフィはすでに一年間、詠唱を使ってきた。
それでも本人が覚えたいのなら、試してみる価値はある。
「詠唱している時、身体の中から指先へ何かが集まる感覚はありますか?」
「うん。胸の辺りから、腕に流れてくる感じ」
「その流れだけを、言葉を使わずに作ってみてください。魔力が手の先まで来たら、水球の形を想像して外へ出します」
説明しているうちに、以前パウロの擬音を聞いて困った時のことを思い出した。
感覚で行っているものを他人へ伝えるのは、想像以上に難しい。
自分も「流す」「集める」「外へ出す」といった曖昧な言葉しか使えていない。
レイネが自分の動きを細かく観察し、どこで失敗しているのかを具体的に示してくれることが、どれほど高度なことなのか、教える立場になるたびに理解させられた。
シルフィは目を閉じ、両手を前へ伸ばした。
口を固く結び、時折身体を捻りながら、魔力の流れを探している。しばらく何も起きなかったため、今日は無理かもしれないと思い始めた時、手のひらの先に小さな水球が生まれた。
「できた……」
シルフィは一度、自分の手を見つめた。
次の瞬間、先ほどより大きな水球を作り、その横に二つ目、三つ目と続けて浮かべる。
「できたよ、ルディ!」
「本当にできましたね……」
一年も詠唱を続けてきたにもかかわらず、僅かな説明だけで成功してしまった。
若いうちは新しい感覚へ適応しやすいのか、それともシルフィ自身の才能なのか。
恐らく両方だろう。
「それでは、今まで覚えた初級魔術を順番に試してください。ただし、急に連続で使いすぎてはいけません」
「うん!」
シルフィは水、風、土の順に、無詠唱で魔術を発動していった。
火だけは途中で形が崩れたものの、指先へ小さな熱を生み出すところまでは成功している。
二人とも練習へ夢中になりすぎて、空が暗くなっていることに気づくのが遅れた。
最初の雨粒が教本の頁へ落ちた直後、強い雨が一気に降り始める。
「しまった!」
ルーデウスは魔術で教本の周囲に風を作り、雨を逸らした。シルフィも自分の教本を服の中へ抱え、二人で丘を駆け下りる。
シルフィの家は大木から距離があるため、より近いグレイラット家へ向かうことにした。
道を走っているうちに、服も髪も完全に濡れてしまった。
雨を止めること自体はできる。
しかし、すでに全身が濡れているうえ、村の畑にとっては必要な雨かもしれない。個人的な都合だけで天候を変えるべきではないと考え、そのまま家まで走った。
玄関へ到着した時には、二人とも水の中へ落ちたような姿になっていた。
レイネ視点
昼を過ぎた頃から空の変化には気づいていた。
丘の方角へ厚い雲が集まり、風向きも変わっている。ルーデウスであれば雨へ対処することもできるだろうが、練習へ集中すると周囲への注意が薄くなることがある。
案の定、強い雨が降り始めて間もなく、門の向こうから二人の子供が駆け込んできた。
「ただいま戻りました!」
「お、お邪魔します……!」
ルーデウスとシルフィエットは、頭から靴までずぶ濡れだった。
レイネはすでに用意していた大きな布を二人へ渡し、玄関の床を汚さないよう、まず髪と足元の水を拭かせた。
「お帰りなさいませ。お湯と着替えを二階へご用意しております」
「準備していたのですか?」
「雨が降れば、お二人ともこちらへ戻られると思いましたので」
ルーデウスの部屋には本人の着替えを置き、その隣の空き部屋にはシルフィエットの体格に合いそうな衣服を準備してある。
ゼニスが村の子供を治療する際、衣服まで汚れてしまった者へ貸し出すために保管している物だった。
「別々のお部屋でお着替えください。濡れた衣服は、扉の外へ出しておいていただければ回収いたします」
「分かりました」
ルーデウスは素直に頷いた。
シルフィエットも小さく礼を言い、隣の部屋へ向かう。
これで問題はないはずだった。
レイネは一階へ戻り、二人へ出す温かい飲み物を用意しながら、夕食の下ごしらえへ戻った。
ルーデウスはシルフィエットを少年だと思っている。
そのことには、少し前から気づいていた。
彼が何度も「シルフィという男の子」と説明していたからだ。
最初は単なる言い間違いかと思った。シルフィエット本人も否定せず、ロールズも特に訂正していないため、二人の間では承知のうえで、そのような呼び方をしている可能性も考えた。
レイネ自身は、必要もないのに他人の性別を教えるつもりはなかった。
本人がどう扱われたいのか確認せず、勝手に訂正するのも違う。
しかし、まさか一年近く、本当に気づいていないとは思わなかった。
とはいえ、別々に着替えるよう明確に指示した以上、今さら問題が起きることもないだろう。
そう判断した直後、二階からシルフィエットの大きな声が響いた。
レイネは持っていた器を台へ置き、すぐに階段へ向かった。
ルーデウス視点
自室へ入ったルーデウスは、濡れた服を脱ぎ、用意されていた乾いた衣服へ着替えた。
魔術で温風を作れば、身体も髪もすぐに乾かせる。しかし、出力を間違えれば肌を傷めるため、レイネから一人で使用する時には弱い風へ留めるよう言われている。
布で髪を拭いた後、廊下へ出る。
隣の部屋からは、衣服を動かす音が聞こえていたものの、シルフィはまだ出てこない。
濡れた服が身体へ貼りつき、着替えに苦労しているのかもしれない。
しばらく待っても扉が開かなかったため、ルーデウスは声をかけた。
「シルフィ。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫」
返事はあったが、声には明らかな焦りが含まれていた。
「服が脱げないのですか?」
「一人でできるから!」
強く拒まれたため、一度はそのまま待つことにした。
しかし、部屋の中から何かが倒れる音が響いた。
転んだのかと思い、ルーデウスは扉を開ける。
「シルフィ!」
部屋の中では、シルフィが濡れた上着を途中まで脱いだ状態で、椅子へ身体をぶつけていた。
雨を吸った布が腕へ絡みつき、一人では外せなくなったらしい。
「入ってこないで!」
「でも、そのままでは風邪を引きます。上着だけ手伝いますから、腕を上げてください」
「いい! 自分でできる!」
「転んだじゃないですか」
シルフィが何を嫌がっているのか、ルーデウスには理解できなかった。
男同士で着替えを見られることが恥ずかしいのだろうか。六歳ともなれば、そのような感覚が芽生えても不思議ではない。
けれど、濡れた服を着たまま長時間過ごす方が身体に悪い。
ルーデウスは絡まった袖だけを外そうと、シルフィの腕へ手を伸ばした。
「やめて!」
「袖を取るだけです」
「女の子なのに、勝手に触らないでよ!」
その言葉を聞いた瞬間、ルーデウスの動きが止まった。
「……女の子?」
シルフィも、自分が口にした言葉で何が起きたのかを理解したらしい。
目を大きく見開いた後、次第に顔を赤くし、外れかけた上着を胸元へ引き寄せる。
「ルディ、知らなかったの……?」
「え……でも、ずっと僕って言っていましたし、髪も短くて……」
「ボクって言う女の子もいるよ!」
涙の滲んだ目で睨まれ、ルーデウスはようやく、自分が一年間とんでもない勘違いを続けていたことを理解した。
シルフィエット。
名前をよく考えれば、女性名に聞こえなくもない。
細い身体や高い声も、そうだと知ってから見れば何も不思議ではなかった。
勝手に男だと決めつけ、本人が嫌がっているのに、濡れた服を脱がせようとした。
善意のつもりだったかどうかは関係ない。
嫌だと言われた時点で、すぐに止めるべきだった。
「ごめんなさい」
ルーデウスは手を引き、すぐに背を向けた。
「本当に知りませんでした。でも、知らなかったから許されることではありません。勝手に部屋へ入って、触ろうとして、ごめんなさい」
「……もう、出ていって」
「はい」
それ以上何も言わず、部屋を出る。
扉を閉めたところで、階段を上がってきたレイネと出会った。
「何がございましたか?」
「僕が、シルフィを泣かせました」
説明しようとしたが、頭が混乱して言葉がまとまらない。
レイネはルーデウスの顔を一度見た後、扉の向こうにいるシルフィへ声をかけた。
「シルフィエット様。レイネでございます。お部屋へ入ってもよろしいでしょうか」
少し間を置いて、小さな返事があった。
レイネはルーデウスへその場で待つよう告げ、部屋の中へ入っていった。
廊下へ一人残されたルーデウスは、壁を背に座り込んだ。
シルフィに嫌われたかもしれない。
友達になってから一年間、毎日のように一緒に過ごしてきた。魔術を教え、文字を教え、次の日にも会う約束を繰り返した。
そのすべてが、たった一度の行動で壊れてしまった可能性がある。
自分の善意が、相手にとって迷惑になる。
前世でも似たことはあったのかもしれない。
けれど当時の自分は、相手の気持ちを考えるより、傷つけられた自分のことばかり考えていた。
今度こそやり直すと決めたのに、相手が嫌がっていることすら理解できなかった。
しばらくして、パウロが仕事から帰ってきた。
二階の廊下へ座り込んでいる息子と、閉じられた客室の扉を見て、何かあったことを察したらしい。
事情を聞かれると、ルーデウスは言い訳せずにすべて話した。
「シルフィが女の子だと知らなかったんです。でも、嫌だと言われたのに手伝おうとしました。僕が悪いです」
パウロはすぐに叱りつけることなく、少し考えてからルーデウスの隣へ腰を下ろした。
「濡れたままだと風邪を引くから、助けようとしたんだな?」
「はい」
「だが、シルフィはやめてほしいと言った」
「はい」
「なら、そこで止めるべきだった。相手が男でも女でも同じだ。助けたいと思っていても、相手が嫌がっているなら、まず理由を聞け」
「分かりました」
「謝るなら、許してもらうために謝るな。自分が悪かったと伝えるために謝れ。許すかどうかを決めるのは、シルフィだ」
パウロの言葉は、珍しく最初から最後まで分かりやすかった。
「はい」
ルーデウスが答えたところで、客室の扉が開いた。
シルフィ視点
濡れた服が腕に絡まり、一人では外せなくなった時、シルフィは本当に困っていた。
それでも、ルディに手伝ってほしくはなかった。
ルディは、自分のことを男の子だと思っている。
最初に助けてもらった時から、何度も男の子として話しかけられていた。訂正する機会はあったはずなのに、嫌われるのが怖くて言い出せなかった。
女の子だと知れば、これまでと同じようには遊んでくれないかもしれない。
魔術を教えてくれなくなるかもしれない。
一緒にいることを恥ずかしいと思われるかもしれない。
だから、いつか話さなければならないと思いながら、そのまま一年も過ごしてしまった。
けれど、知られていないことと、着替えを見られることは別だった。
嫌だと言っているのにルディが近づいてきた時、怖さと恥ずかしさで、思わず強い声を出した。
女の子なのに。
口にした瞬間、隠していたことがすべて伝わってしまった。
ルディは驚いた顔をした。
その顔を見て、やはり知らなかったのだと分かった。
すぐに謝り、部屋から出ていったが、一人になった途端に涙が止まらなくなった。
怒っているのか、恥ずかしいのか、これから嫌われることが怖いのか、自分でも分からなかった。
扉の外からレイネの声が聞こえた時、シルフィは少しだけ安心した。
レイネは部屋へ入っても、すぐに身体へ触れなかった。
「お怪我はございませんか?」
「ない……」
「濡れた衣服を外すお手伝いが必要でしょうか。それとも、ご自分でなさいますか?」
「手伝って……」
「承知いたしました。触れる前に、どこを動かすか申し上げます」
レイネは袖へ絡まった布を少しずつ緩め、シルフィが痛がらないように外してくれた。その後は大きな布で身体を隠したまま、乾いた服へ着替えられるよう手伝ってくれる。
「ルディ、怒ってるかな」
思わず尋ねると、レイネは髪の水気を拭きながら答えた。
「怒ってはおられません。ご自分がなさったことを、深く後悔しておられます」
「ボクが女の子だって、知らなかったんだよね」
「そのようでございます」
「レイネは知ってた?」
「はい」
「どうして教えてくれなかったの?」
レイネは少し考えてから、手を止めた。
「シルフィエット様ご自身が、どのように扱われたいか分からなかったためです。私が勝手にお伝えすることではないと考えました。ただ、ルーデウス様が本当にご存じないことへ、もっと早く気づくべきでした。申し訳ございません」
レイネが謝ることではないと思った。
自分が言わなかったのだから、ルディが知らないのも当然だった。
「ルディは、もう遊んでくれないかな」
「なぜ、そのようにお考えになるのですか?」
「女の子だから。ルディは、男の友達が欲しいって言ってたから……」
以前、ルディは自分が大人になったら、二人で女の子へ声をかけるような話をしていた。
意味はよく分からなかったが、男同士だからできることを想像していたのだろう。
女の子だと知れば、その計画には入れない。
レイネはシルフィの髪を乾かし終えると、布を畳みながら静かに言った。
「ルーデウス様が最初にシルフィエット様を助けたのは、男の子だと思ったからでしょうか」
「分からない……」
「一緒に文字を学び、魔術を練習し、毎日丘へ向かったのは、男の子でなければできないことでしょうか」
シルフィは首を横へ振った。
「それでは、ご本人へ確かめるのがよろしいかと思います。想像だけで、今までの時間を終わらせる必要はございません」
「でも、さっき怒鳴ったよ」
「嫌なことを嫌だと仰るのは、悪いことではございません」
レイネは、そこで僅かに表情を柔らかくした。
「お友達であれば、怒ったり、間違えたりすることもございます。その後で、もう一度お話しできるかどうかの方が大切です」
シルフィはしばらく考えた後、扉を開けた。
廊下には、ルディとパウロが並んで座っていた。
ルディは、これまで見たことがないほど落ち込んだ顔をしていた。
レイネ視点
シルフィエットが部屋から出ると、ルーデウスはすぐに立ち上がった。
普段は言葉を選び、年齢以上に整った話し方をする少年が、その時だけは何を言えばよいのか分からないように口を開閉している。
レイネは口を挟まず、少し離れた場所へ移動した。
謝罪は本人が行わなければ意味がない。
「シルフィ」
ルーデウスは深く頭を下げた。
「勝手に部屋へ入って、嫌だと言われたのに触ろうとして、本当にごめんなさい。風邪を引かせたくなかったのは本当ですが、それで嫌がることをしていい理由にはなりません」
シルフィエットは、すぐには答えなかった。
指先を握り合わせながら、床へ視線を落としている。
「もう、勝手にしない?」
「しません。何か手伝う時も、先に聞きます」
「女の子だから、もう遊ばないって言わない?」
ルーデウスは驚いたように顔を上げた。
「どうしてですか?」
「だって、ルディはボクを男の子だと思って、友達になったんでしょう?」
「男の子だと思っていたのは本当です。でも、シルフィが男でも女でも、魔術を一緒に練習したことや、友達になったことは変わりません」
「本当に?」
「はい。ただ……男の子だと思い込んでいたことについては、謝ります。確認もせずに決めつけていました」
シルフィエットは少し迷った後、ルーデウスの服の袖をつまんだ。
「じゃあ、許す」
「ありがとうございます」
「でも、今日はもう帰る」
「送ります」
「レイネと帰る」
まだ完全に普段どおりとはいかないらしい。
ルーデウスの肩が分かりやすく落ちた。
レイネはシルフィエットを家まで送り届ける役目を引き受け、玄関へ向かった。雨は先ほどより弱くなっていたが、二人分の雨具を用意する。
出発する前、ルーデウスへ振り返る。
「本日は、これ以上追いかけてはいけません」
「分かっています」
「明日、シルフィエット様が来られなかったとしても、無理にお宅へ押しかけず、お待ちください」
「はい」
素直に答えてはいるが、今夜はほとんど眠れないだろう。
それでも、待つことを覚える必要がある。
力があれば何でも解決できるわけではない。
魔術で雨を止めることはできても、人の感情を思いどおりに動かすことはできない。剣術が上達しても、傷つけた相手へ許しを強制することはできない。
ルーデウスは賢いが、そのことを実感として学ぶ機会はまだ少ない。
レイネはシルフィエットの手を取り、雨の中へ歩き出した。
「明日も、丘へ行っていいかな」
道の途中で、シルフィエットが小さな声で尋ねた。
「それをお決めになるのは、シルフィエット様でございます」
「ルディは、待ってるかな」
「朝から何度も丘の方角をご覧になるでしょう」
そう答えると、シルフィエットは少しだけ笑った。
どうやら、関係が終わることはなさそうだった。
ルーデウス視点
翌日の剣術訓練では、まるで集中できなかった。
パウロの踏み込みを見落とし、普段なら避けられる一撃を肩へ受ける。続く攻撃にも反応できず、数合も持たずに木剣を落とした。
「今日は駄目だな」
パウロは木剣を下ろした。
「心が別の場所にある時に剣を振るな。自分だけならともかく、一緒に訓練している相手まで怪我をする」
「すみません」
「シルフィのことが気になるのは分かる。だが、待つと約束したなら待て。お前が今できるのは、それだけだ」
稽古は早めに終わった。
ルーデウスは魔術の練習にも身が入らず、昼食を終えると、約束どおり丘へ向かった。
大木の下には誰もいない。
いつもシルフィが座っている根元へ腰を下ろし、教本を開いたものの、文字はほとんど頭へ入らなかった。
一時間ほど過ぎた頃、草を踏む足音が聞こえた。
顔を上げる。
丘を登ってきたのは、シルフィだった。
昨日までと同じ短い緑髪で、両腕には魔術教本を抱えている。
「来てくれたのですね」
「うん。魔術の続き、教えて」
「もちろんです」
すぐに立ち上がろうとすると、シルフィは少し警戒するように半歩下がった。
ルーデウスは動きを止める。
「隣へ座ってもいいですか?」
尋ねると、シルフィは一瞬驚いた後、小さく頷いた。
二人の間には、以前より僅かに広い隙間が空いていた。
それでも、同じ木の下へ並んで座っている。
失ったわけではない。
昨日までとまったく同じでもない。
ならば、これからもう一度、相手が嫌がることや、喜ぶことを知っていけばよい。
「今日は、無詠唱の風魔術を練習しましょう」
「うん」
「分からないところや、嫌なことがあれば、すぐに言ってください」
シルフィは少しだけ頬を膨らませた。
「昨日のこと、ずっと気にしてる?」
「気にします」
「もう許したよ」
「それでも、忘れてはいけないと思います」
答えると、シルフィは困ったように笑った。
「ルディって、変なところで真面目だね」
その笑顔は、昨日までと同じだった。
大木から少し離れた道では、洗濯物を届けに村へ向かうレイネが歩いていた。
二人の姿を見つけても声はかけず、立ち止まることもない。ただ、並んで教本を開いていることを一度確かめると、そのまま村の方へ歩いていった。
ルーデウスは、その後ろ姿に気づかなかった。
シルフィも気づかなかった。
二人は無詠唱魔術の練習を始め、昨日までと同じように、互いの失敗を笑いながら午後を過ごした。
ただし、それ以降、ルーデウスは誰かへ手を伸ばす前に、必ず一度尋ねるようになった。
剣術や魔術とは異なる、相手との距離を測るための新しい習慣だった。