無職転生IF 白髪の侍女
第一章 新しい人生
第九話 緊急家族会議
ルーデウス視点
シルフィが女の子だと判明した騒動から、数か月が過ぎた。
あの日を境に、二人の関係が大きく変わったわけではない。翌日からも丘の大木の下へ集まり、文字を読み、魔術を練習し、互いに見つけた植物や村で起きた出来事について話した。
ただし、ルーデウスは以前より、相手の反応へ注意を向けるようになった。
何かを教える際には、身体へ触れて姿勢を直す前に許可を求める。シルフィが疲れていそうなら、本人がまだ続けられると言っても、一度休憩を挟ませる。髪や服装についても、本人がどう感じるかを考えず、勝手な評価を口にしないよう気をつけた。
最初のうちは、あまりに慎重になったルーデウスを見て、シルフィの方が困った顔をしていた。
「ルディ。ボク、そこまで気にしてないよ」
「ですが、前回は僕が気づかないまま嫌なことをしてしまいました」
「もう許したって言ったでしょう?」
「許されたからといって、忘れていいことではありません」
「ルディって、たまにすごく面倒だね」
そう言われてしまったものの、シルフィの口元には笑みが浮かんでいた。
以前より僅かに距離ができた部分もあれば、反対に、相手が何を嫌がり、何を喜ぶのかを知ったことで近づいた部分もある。
少なくとも、友達であることは変わらなかった。
剣術についても、ルーデウスは順調に成長を続けていた。
朝の訓練では、パウロが振るう木剣を以前より長く捉えられるようになり、単純な型の打ち合いなら、十数合を超えても剣を失わずに耐えられる。魔術による踏み込みを混ぜた時には、パウロへ本気に近い回避をさせることもあった。
もちろん、一本を取れたことはない。
ルーデウスが新しい動きを見せれば、パウロは次の日には対応し、さらに一段上の攻撃を返してくる。
けれど、一年前とは違い、何をされたのか分からないまま地面へ転がされることは減った。
相手の足、腰、肩から攻撃を読み、最小限の動きで避け、次へつなげる。
パウロから剣術を教わり、その説明で足りない部分をレイネから補ってもらう。二人の指導が組み合わさったことで、身体の小ささという欠点を埋めるための技術が、急速に身につき始めていた。
「今日は剣だけで来い。魔術は禁止だ」
ある朝、パウロがそう告げた。
「なぜですか?」
「魔術と組み合わせる戦い方は悪くない。だが、魔術があることを前提にしすぎると、使えない状況で何もできなくなる。今日は純粋な足運びだけを見る」
訓練が始まると、パウロは普段よりも細かな連続攻撃を繰り出してきた。
ルーデウスは最初の一撃を木剣で外へ流し、二撃目を半歩下がって避ける。三撃目は剣を受けるのではなく、身体を斜めへ移して軌道から外れた。
四撃目が来るより先に、パウロの左脇へ回る。
反撃は間に合わなかったものの、パウロに追撃を中断させ、足の位置を変えさせることには成功した。
「そこだ」
パウロが嬉しそうに笑う。
「今までは、俺の攻撃を避けた後も正面へ立ち続けていた。今のように、自分が有利な位置へ回れ。身体の小さなお前が、真正面から力比べをする必要はない」
その助言は分かりやすかった。
最近のパウロは、以前ほど擬音ばかりを使わなくなっている。
ルーデウスの上達に合わせ、自分の感覚を言葉へ直そうと努力しているのだろう。レイネの補足を受け続けたルーデウスが、以前より具体的な質問をするようになったことも影響していた。
互いに少しずつ、教え方と学び方を身につけている。
そんな平穏な毎日の中で、最初の変化が訪れた。
ゼニスの妊娠が判明したのである。
一か月ほど前から、食卓へ並んだ料理へ手をつけられなかったり、朝になると気分が悪そうにしていたりすることが増えていた。
レイネは香りの強い料理を減らし、冷めても食べやすいパンや果物を用意していたが、本人から聞かされるまでは理由を口にしなかった。
医者の診察を受けたゼニスが、間違いなく子供を宿していると告げられた日の夕食では、家中の者が揃って喜んだ。
「ルディに、弟か妹ができるのよ」
ゼニスが幸せそうに腹部へ手を当てる。
まだ外から変化が分かる時期ではなかったが、その顔には、長く待ち望んでいたものをようやく手に入れた喜びがあった。
「どちらがいい?」
パウロに尋ねられ、ルーデウスは少し考えてから答えた。
「妹がいいです」
「どうしてだ?」
「弟だと、僕の大切な物を壊すかもしれません」
前世の弟に大切な物を壊された記憶から出た言葉だったが、パウロは子供らしい独占欲だと受け取ったらしい。
「兄貴なんだから、それぐらい許してやれ」
「壊されてから考えます」
「生まれる前から厳しい兄貴だな」
食卓に笑いが広がる。
リーリャも普段より僅かに表情を和らげ、ゼニスの身体を支えるため、これからの仕事をどのように分担するかレイネと相談していた。
「奥様が診療所へ出られなくなる時期を考え、薬草の在庫を早めに確認いたします」
「私が家事を多めに引き受けます。レイネは奥様の身の回りを中心にお願いします」
「承知いたしました。ただし、リーリャも無理をなさらないでください」
何気なく発せられた言葉に、リーリャの指先が僅かに止まった。
ルーデウスはその変化を見逃したものの、レイネは静かに彼女を見ていた。
その一か月後。
グレイラット家へ、二つ目の報告がもたらされた。
夕食後、リーリャが家族全員の揃った食卓で、静かに頭を下げた。
「お話ししなければならないことがございます」
いつもと変わらない声だったが、両手は白くなるほど強く握られていた。
「私も、子供を授かりました」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
リーリャ視点
自分の身体に起きている変化へ、リーリャは早い段階で気づいていた。
月のものが来ない。
朝になれば吐き気があり、これまで好んでいた食べ物の匂いへ、急に耐えられなくなる。
ゼニスの妊娠を間近で支えているだけに、その症状が何を意味するのか理解できないはずもなかった。
パウロとの関係が一度だけではなかった以上、可能性があることも分かっていた。
それでも、確定するまでは認めたくなかった。
ゼニスは、リーリャを使用人としてだけでなく、同じ家で暮らす仲間として扱ってくれていた。
身分を理由に見下すこともなく、家事の合間には料理や治癒魔術について話し、ルーデウスの成長を一緒に喜んだ。
その相手を裏切った。
パウロに一方的に迫られたわけではない。
ゼニスの妊娠によって夫婦の夜が減り、欲求を持て余していたパウロを、自分の部屋へ誘ったのはリーリャだった。
昔の関係を思い出し、情欲に負けた。
妊娠は、その報いなのだと思った。
「あと何日、隠されるおつもりですか」
症状が現れてからしばらく経ったある夜、寝具を整えている最中に、レイネからそう尋ねられた。
仕事を終えた彼女は、扉の近くに静かに立っていた。
現在のレイネは二十歳になっているが、見た目は十歳ほどにしか見えない。けれど、六年間を共に働いてきたリーリャにとって、彼女は年下の同僚というより、時に自分以上に落ち着いた判断をする相手だった。
「何のお話でしょうか」
とぼけようとすると、レイネは寝台脇の器へ目を向けた。
朝の吐き気に備えて、リーリャが密かに用意した物である。
「お身体のことです。私が断定するべきではございませんが、ご自身ではお気づきなのでしょう」
隠し通せるとは、最初から思っていなかった。
レイネは他人の体調変化へ敏感である。ゼニスが妊娠した際にも、本人が医者へ行く前から、食事と仕事の内容を調整していた。
「明日、奥様へお話しします」
「旦那様とのお子様でございますか」
直接的な問いだった。
リーリャは否定できず、目を伏せた。
レイネは驚かなかった。
それが、リーリャには少し恐ろしかった。
「気づいていたのですか」
「夜間に旦那様がこちらへ来られたことは存じております。ただ、お二人がご自身の意思でなさっていることへ、私が踏み込むべきではないと判断しました」
責める口調ではない。
だからこそ、言い訳をする気にもなれなかった。
「私が誘ったのです」
「そうですか」
「軽蔑しますか」
「私がどのように感じるかは、今の問題ではございません」
レイネはリーリャの前へ進むと、俯いた顔を無理に上げさせることなく告げた。
「奥様が深く傷つかれることも、旦那様とリーリャの責任がなくならないことも事実です。しかし、生まれてくるお子様へ責任を負わせることはできません」
「この家には残れません」
「それを決められるのは奥様です。ですが、身重のまま行き先も定めずに出ていくことを、責任を取るとは申しません」
「では、どうしろというのですか」
「事実をお話しください。言い訳をせず、奥様の判断をお待ちください」
穏やかでありながら、逃げ道を与えない言葉だった。
「もし追い出された場合には?」
「出産とその後の安全を確保できるよう、私ができる限りの準備をいたします。ただし、黙って姿を消すことには協力できません」
リーリャは、しばらく答えられなかった。
レイネは、許すとも、味方になるとも言わない。
それでも、子供ごと見捨てるつもりはないと分かった。
翌日、リーリャは医者の診察を受けた。
そして妊娠が確定したその夜、自分の口からすべてを報告した。
ゼニスの視線がパウロへ向かう。
ルーデウスも、状況を理解したように父親を見た。
パウロは顔から血の気を失い、何かを誤魔化すように口を開いたが、結局は観念するように肩を落とした。
「……すまない。俺の子だ」
ゼニスは無言で立ち上がった。
乾いた音が室内へ響き、パウロの頬が横へ弾かれる。
それから始まった家族会議で、リーリャはあらかじめ決めていたことを告げた。
「奥様のご出産をお手伝いした後、このお屋敷を辞去いたします」
「子供はどうするの?」
ゼニスの声は冷たかった。
怒鳴ってはいない。
しかし、その静けさの方が、どれほど深く傷ついているかを示していた。
「フィットア領内で出産し、身体が動くようになりましたら、南にある故郷へ戻るつもりです」
「生まれたばかりの子を連れて?」
「はい」
「あなたの故郷までは、一か月近くかかるでしょう」
「ほかに頼れる場所がございません」
「産後の身体で歩けると思っているの?」
答えられなかった。
実際には、歩き切れるとは思っていない。
それでも、この家へ残ることはできない。ゼニスの夫を奪い、その子供まで同じ家で育ててもらうなど、あまりに都合がよすぎる。
責任を取るなら、自分がすべてを背負うしかなかった。
「レイネ」
突然、ゼニスが声をかけた。
食卓から少し離れた場所で待機していたレイネが、一歩前へ出る。
「はい、奥様」
「産後のリーリャが、赤ん坊を連れて南まで旅をすることは可能?」
「不可能とまでは申しません。しかし、母子ともに命を落とす危険が非常に高いかと存じます」
レイネは感情を挟まず、事実だけを答えた。
「乗合馬車を利用した場合でも、出産直後の長旅は身体へ大きな負担となります。授乳や休息のできる場所を確保し、護衛と十分な資金を用意したとしても、安全とは申し上げられません」
「歩いた場合は?」
「お止めします」
短い返答だった。
リーリャは唇を噛んだ。
自分だけであれば、どれほど危険でも歩いたかもしれない。しかし、腹の中にいる子供まで巻き込むことはできない。
「では、どうすればいいの……」
ゼニスの声が、初めて僅かに揺れた。
怒りと悲しみの間で、彼女自身も答えを見つけられないのだろう。
好きだった相手に裏切られた。
だからといって、六年間を共にした侍女と、生まれてくる子供を死地へ追いやりたいわけではない。
その迷いが見えた時、ルーデウスが口を開いた。
ルーデウス視点
家族会議が始まってから、ルーデウスは状況を整理していた。
一番悪いのはパウロである。
もちろん、リーリャにも責任はある。相手が既婚者であることも、ゼニスが友人として信頼してくれていることも理解したうえで関係を持ったのだから、何も悪くないとは言えない。
しかし、パウロはこの家の主人であり、ゼニスの夫である。
使用人との間に子供まで作り、その結果としてリーリャ一人が家を追われるのは、どう考えても不公平だった。
何より、腹の中の子供に罪はない。
産後の母親と赤子が一か月もの旅へ出れば、レイネの言うとおり命を落とす可能性が高い。
リーリャを助けなければならない。
問題は、ゼニスが理屈だけで納得できる状況ではないということだった。
相手は、今まさに裏切られたばかりである。
正論を並べて我慢を強いれば、表面上は受け入れても、心の中に消えない傷を残す。
ならば、怒りの行き先を一つへ集めるしかない。
ルーデウスはパウロを見た。
父親には申し訳ないが、自業自得である。
「母様。一度に二人も兄弟ができるというのに、どうしてリーリャだけ家を出なければならないのですか?」
できるだけ幼い子供らしい疑問として尋ねる。
ゼニスは疲れたように目を伏せた。
「お父さんたちが、してはいけないことをしたからよ」
「ですが、リーリャは父様へ逆らえたのでしょうか」
「どういう意味?」
ゼニスが顔を上げる。
パウロも不安そうにこちらを見た。
ルーデウスは一瞬だけ迷った。
これから口にするのは、人を救うためとはいえ、非常に危険な嘘である。場合によっては、パウロとリーリャの人生を大きく変えてしまう。
それでも、ほかに家族を守れる言葉が見つからなかった。
「以前、夜中に目を覚ました時、父様がリーリャの部屋へ入るところを見ました」
ここまでは事実だった。
「その時、父様は、自分の命令へ従わなければ、昔のことを皆へ話すと言っていました」
パウロの顔が引きつった。
「ルディ、何を――」
「あなたは黙っていて!」
ゼニスの鋭い声が、パウロを遮る。
「リーリャ。本当なの?」
「いえ、そのような事実は……」
リーリャは困惑し、ルーデウスとレイネを交互に見た。
そこでレイネと視線が合う。
いつも穏やかな赤い瞳が、今は笑っていなかった。
嘘だと見抜いている。
それでも、レイネは口を挟まなかった。
ただし、後で必ず話をすることになる。
その予感に背中を冷たくしながらも、ルーデウスは言葉を続けた。
「リーリャは、父様に逆らえば、この家で働けなくなると思ったのかもしれません」
「ルーデウス様、それは――」
「リーリャ」
レイネが静かに彼女を止めた。
「奥様がお尋ねになっているのは、旦那様の立場に対し、自由に拒絶できたかどうかでございます」
それは、ルーデウスの嘘を肯定する言葉ではなかった。
同時に、完全に否定するものでもない。
主人と使用人の関係である以上、表面上は同意していても、そこに立場の差が存在することは事実だった。
ゼニスは、苦しそうに目を閉じた。
「父様が悪いのに、リーリャと子供だけが大変な目に遭うのは間違っています」
ルーデウスは続ける。
「僕はシルフィと一緒に勉強したり、遊んだりすることが楽しいです。これから生まれてくる母様の子供にも、同じぐらいの年齢の友達がいた方がいいと思います」
「ルディ……」
「それに、僕にとっては、どちらも弟か妹です。母様の子供だけが家族で、リーリャの子供は違うとは思えません」
ゼニスは腹部へ手を当てたまま、長いあいだ黙り込んだ。
パウロは口を挟める立場ではなく、顔を伏せている。
リーリャは何かを言おうとしたが、声にならない。
レイネも結論を急かさず、ゼニスの判断を待っていた。
やがて、ゼニスが深く息を吐いた。
「本当に、あなたたちには腹が立つわ」
その視線は、まずパウロへ向けられ、次にリーリャへ移った。
「許したわけではないから」
「はい」
リーリャが頭を下げる。
「これからも、すぐに以前と同じように接することはできないと思う」
「承知しております」
「でも、子供を連れて死にに行かせるほど、あなたを嫌いにはなれない」
ゼニスの声が震えた。
「リーリャ。この家にいなさい」
リーリャが顔を上げる。
「あなたは六年間、私たちと一緒に暮らしてきたの。今さら勝手に家族をやめるなんて、許さないわ」
それまで保たれていたリーリャの表情が崩れた。
唇を震わせ、口元を手で覆う。目からは次々と涙がこぼれた。
「奥様……」
「ただし、パウロ」
ゼニスの視線が夫へ移った瞬間、室内の温度が下がったように感じられた。
「あなたのことは、まだ許していません」
「はい……」
パウロは騎士とは思えないほど小さくなり、椅子の上で頭を下げた。
家族会議は、ひとまずそれで終わった。
ゼニスは一人になりたいと告げ、寝室へ戻る。
ルーデウスはすぐにその後を追った。
扉を叩くと、少し間を置いてゼニスが顔を出す。
「母様。先ほど僕が言った、父様がリーリャを脅したという話は嘘です」
ゼニスは驚いたように目を瞬かせた。
「リーリャを家に残すために、父様だけが悪いように言いました。ごめんなさい」
しばらく沈黙が続く。
やがてゼニスは苦笑すると、ルーデウスの頭へ手を置いた。
「分かっていたわ」
「分かっていたのですか?」
「リーリャが、本気で嫌がっているのに相手を部屋へ入れるとは思えないもの。それに、あなたは嘘をつく時、少しだけレイネの顔を見るのね」
見抜かれていたらしい。
「それでも、リーリャを残したのですか?」
「あなたの言ったことは、全部が嘘ではなかったからよ。パウロはこの家の主人で、リーリャは雇われている側だもの。どちらが誘ったとしても、パウロの責任が軽くなるわけではないわ」
ゼニスの手が、少し強くルーデウスの頭を掴んだ。
「でも、もうあんな嘘をついては駄目よ。人を助けるためでも、誰かを取り返しのつかない悪人にしてしまう嘘は、いつか本当に家族を壊すわ」
「はい」
「それから、ルディはシルフィちゃんを大切にしなさい。お父さんみたいになったら、私が許さないからね?」
「痛いです、母様」
頭を締めつける力が増した。
どうやら、今後の女性関係について、六歳のうちから強い警告を受けることになったらしい。
それでもゼニスが笑えているのを見て、ひとまず家族が崩壊する事態は避けられたのだと安心した。
寝室を出ると、廊下にはレイネが待っていた。
「お話がございます」
予想どおりだった。
レイネ視点
ルーデウスを連れて入ったのは、普段使われていない小さな物置だった。
叱られると分かっているのか、ルーデウスは先ほどまでの落ち着きを失い、僅かに視線を泳がせている。
レイネは扉を閉めた後、しばらく何も言わずに彼を見た。
「先ほどのお話は、事実ではございませんね」
「はい」
ルーデウスは、言い逃れをせず認めた。
「リーリャを助けるためでした」
「意図は理解しております。結果として、奥様がリーリャとお子様を残す判断をなさったことも、よかったと思います」
そこでルーデウスの表情が僅かに緩んだが、レイネは声を柔らかくしなかった。
「ですが、旦那様が立場を利用して女性を脅したという嘘は、決して軽いものではございません」
「分かっています」
「いいえ。今はまだ、十分にはお分かりではないでしょう」
レイネはルーデウスの前へ膝をつき、同じ高さから赤い瞳を向けた。
「その嘘が家の外へ広がれば、旦那様は騎士としての地位を失う可能性がございます。場合によっては、罪人として扱われるでしょう。リーリャも、望んで関係を持った事実を語れなくなり、一生、被害者として生きることを強いられます」
ルーデウスの顔から血の気が引いていく。
「目の前の方を救うために、別の方の人生を壊してよいわけではございません」
「では、どうすればよかったのですか」
苦しそうな問いだった。
「リーリャが出ていけば、子供と一緒に死んでいたかもしれません。父様は何も言えず、母様も迷っていました」
「正しい答えが、必ず存在するとは限りません」
レイネは静かに告げた。
「今回、ルーデウス様が何もなさらなければ、リーリャとお子様が危険にさらされた可能性はございます。だからこそ、私はその場で嘘を否定しませんでした」
「なら――」
「沈黙した私にも責任がございます。ですが、同じ方法を再びお使いになることは許しません」
結果がよかったから、手段も正しかったことにはならない。
その境界を曖昧にすれば、ルーデウスはいつか、自分には他人を操る資格があると思い込むかもしれない。
彼は賢い。
魔術も剣術も、同年代とは比べものにならない速度で身につけている。
だからこそ、力で解決できない問題へ直面した時、言葉や嘘を武器として振るう危険も大きかった。
「次に同じような状況がございましたら、私にもご相談ください」
「相談したら、リーリャを助けられましたか?」
「必ずとは申し上げられません。それでも、一人で結論を出すより、選べる方法を増やすことはできます」
ルーデウスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頭を下げる。
「ごめんなさい」
「私へ謝る必要はございません。旦那様へは、ご自分で事情をお話しください」
「父様にもですか?」
「当然でございます」
あからさまに嫌そうな顔になった。
ゼニスへ殴られたうえ、息子から身に覚えのない罪を着せられたパウロへ、嘘だったと説明しなければならない。
気まずいことは間違いない。
「助けてくれませんか?」
「ご自分でなさってくださいませ」
「レイネは、時々とても厳しいですね」
「ルーデウス様が、ご自分で解決できることへ手を出さないだけでございます」
その日の夜、ルーデウスはパウロへ謝罪した。
事情を聞いたパウロは、最初こそ顔を引きつらせたものの、最後には息子の頭を拳で軽く小突いただけで終わらせた。
「今回だけだからな」
「はい」
「俺が悪いのは事実だしな……」
「はい」
「そこは少し否定してくれないか?」
「無理です」
翌朝の剣術訓練は、普段より遥かに厳しくなった。
パウロは八つ当たりではないと言い張ったが、ルーデウスには、明らかに普段より木剣の速度が上がっているように思えた。
それでも、ルーデウスは以前のように一方的に打ち据えられなかった。
踏み込みの予兆を捉え、最初の三撃を最小限の動きで避ける。四撃目を木剣で外へ流し、直後に生まれた隙へ反撃を入れた。
パウロは簡単に受け止めたものの、攻撃を続けるために一歩下がらされた。
「本当に強くなったな、お前」
パウロは悔しそうでありながら、どこか誇らしげに笑った。
「レイネに何か教わっているんじゃないだろうな」
「父様の動きを理解する手伝いをしてもらっています」
以前のように完全には隠さず答える。
パウロは少し考えた後、庭の端で仕事をしているレイネを見た。
「まあいい。俺の動きを間違って教えているわけじゃないならな」
「旦那様がお見せになった内容を、言葉へ直しているだけでございます」
「それなら問題ない。だが、ルディの剣の師匠は俺だからな」
「承知しております」
レイネが素直に頭を下げると、パウロは満足そうに頷いた。
その日から、レイネによる補足は、半ば公認のものとなった。
◇
家族会議から数か月が過ぎた。
家の空気がすぐに元へ戻ったわけではない。
ゼニスとリーリャの間には、以前にはなかった沈黙が生まれた。仕事の相談は交わしても、雑談をすることは減り、同じ部屋にいる時にも互いの視線を避けることがあった。
パウロはゼニスの機嫌を取ろうとして空回りを繰り返し、余計な言葉を口にするたび、リーリャとレイネの二人から冷たい視線を向けられた。
その中で、レイネは二人の妊婦が無理をしないよう、家事の分担を大幅に組み直した。
重い物を運ぶ仕事は自分とパウロが担当し、リーリャには座ったままできる裁縫や帳簿を任せる。ゼニスが診療所へ出る回数を減らし、緊急時には村人の方から屋敷へ来てもらうよう手配した。
食事についても、二人の体調や好みの変化へ合わせ、同じ料理を無理に食べさせないよう準備する。
「私のことまで気遣う必要はありません」
リーリャが何度そう言っても、レイネは聞き入れなかった。
「お腹のお子様まで、遠慮をなさる必要はございません」
ゼニスに対しても同じだった。
「リーリャと同じ料理を食べたくない日がございましたら、別にご用意いたします」
「そんな子供みたいなことはしないわ」
「では、同じ物をお出しします。ただし、無理にお話しになる必要はございません」
仲直りを強制しない。
以前どおりに接するよう求めることもしない。
それでも、二人が同じ家で安全に出産できるよう、生活だけは滞らせなかった。
時間が経つにつれ、ゼニスとリーリャの会話は少しずつ戻った。
腹部が大きくなれば、互いにしか分からない苦労も増える。
夜に子供が動いて眠れなかったことや、急に食べたくなった物について話すうちに、完全ではないにせよ、かつての関係を取り戻し始めていた。
レイネはその変化へ余計な言葉を加えず、必要な時だけ二人の間へ茶を置いた。
レイネ視点
出産の日は、予定より慌ただしく訪れた。
先に産気づいたのはゼニスだった。
村の産婆を呼び、リーリャとレイネが出産の準備へ入り、パウロとルーデウスは湯と清潔な布を運んだ。
最初は順調に見えた。
しかし、時間が経つにつれ、産婆の表情が険しくなる。
子供の位置がよくない。
このままでは母子ともに危険だという。
「私には無理だよ」
産婆が青ざめた顔で首を横へ振る。
「普通の向きじゃない。このまま出そうとすれば、母親も子供も助からないかもしれない」
パウロの顔から血の気が失われた。
ルーデウスも動揺したようにゼニスを見たが、レイネは声を荒らげず、役割を順番に指示した。
「ルーデウス様は、奥様の体力を保つため治癒魔術をお願いいたします。ただし、一度に強くかけず、呼吸と脈を見ながら続けてください」
「分かりました」
「旦那様は奥様の上半身を支え、声をかけ続けてください。水が必要になりましたら、私どもがお渡しします」
「俺にできるのか」
「できるかではなく、なさってくださいませ」
パウロは反射的に頷いた。
レイネは産婆とリーリャへ向き直る。
以前に出産を手伝った経験があると説明し、産婆の判断を優先しながら、ゼニスが少しでも子供を出しやすい姿勢を取れるよう身体を支えた。
外から無理に子供を動かそうとはしない。
呼吸の時機を合わせ、力を入れるべき時と休むべき時を産婆とともに伝える。リーリャにはゼニスの汗を拭き、言葉が届かなくなりそうな時には名前を呼んでもらった。
長い時間がかかった。
ゼニスの叫び声が何度も室内へ響き、そのたびにパウロの顔が歪む。
ルーデウスは青ざめながらも治癒魔術を止めず、ゼニスの体力が尽きないよう支え続けた。
やがて、産婆が声を上げる。
「見えたよ! もう少しだ!」
レイネはゼニスの手を握り、呼吸の時機を伝えた。
最後の力を振り絞った直後、室内へ小さな産声が響いた。
女の子だった。
すぐに呼吸と身体の状態を確認し、清潔な布で包む。小さな手足が動き、声にも力がある。
無事に生まれた。
パウロは泣きながら笑い、ゼニスも疲れ切った顔で、腕に抱かれた娘を見つめた。
全員が安堵した、その直後だった。
リーリャが腹部を押さえ、床へ膝をついた。
「リーリャ?」
ゼニスが驚いて身体を起こそうとする。
リーリャも産気づいたのだ。
予定より早い。
「大丈夫です」
レイネは即座に立ち上がった。
「もう一組、出産用の道具を準備しております。ルーデウス様のお部屋を使用します」
「二組用意していたのですか?」
ルーデウスが驚いたように尋ねる。
「同じ時期にお二人が出産なさる可能性はございましたので」
レイネはパウロへ、リーリャを慎重に抱き上げるよう指示した。
呆然としていた彼は、声をかけられてようやく動き始める。
「ルーデウス様は産湯を作り直してください。先ほど使用した布や器具を混ぜてはいけません」
「はい」
「旦那様。リーリャを落とさないよう、しっかりお持ちください」
「分かっている!」
「でしたら、足元をご覧くださいませ」
慌てたパウロが椅子へ躓きかけ、レイネは小さく息を吐いた。
二度目の出産は、最初ほど難しくはなかった。
早産ではあったものの、産婆は似た状況を何度も経験していた。リーリャは苦痛に耐えながらパウロの手を握り、何度も彼の名を呼んだ。
レイネは必要な布や湯を渡し、産婆が動きやすいよう周囲を整える。
ルーデウスも一度目の経験から落ち着きを取り戻し、求められる前に必要な物を用意した。
やがて、二人目の産声が響いた。
こちらも女の子だった。
最初の子より身体は小さいが、懸命に泣き、細い手足を動かしている。
レイネは布へ包んだ赤子を、疲れ切ったリーリャの腕へ預けた。
「無事でございます」
リーリャは娘を抱きしめ、声を押し殺すように泣いた。
「ありがとうございます……」
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。
産婆へ。
パウロへ。
ルーデウスへ。
この家へ残すことを許したゼニスへ。
そのすべてに向けられた言葉だったのかもしれない。
レイネは返事をせず、母子の呼吸と体温を確認した。
赤子が生まれたからといって、すぐに安全が確定するわけではない。
二人の母親と、二人の子供。
全員が落ち着くまで、気を抜くことはできなかった。
ルーデウス視点
二人の赤子が無事に生まれた後、グレイラット家は、喜びと疲労の入り混じった騒がしさに包まれた。
ゼニスの娘は、ノルンと名づけられた。
リーリャの娘は、アイシャ。
二人とも同じ日に生まれた妹である。
ノルンはよく泣き、抱き上げられるとさらに大きな声を出した。一方のアイシャは身体こそ小さいものの、周囲を確かめるように目を動かし、乳を与えられる時以外は比較的静かだった。
生まれて間もない赤子に性格の違いを求めるのは早すぎるだろうが、それでも二人には、すでに別々の人間としての特徴があるように思えた。
「お兄ちゃんですよ」
ノルンの顔を覗き込みながら話しかけると、小さな手がルーデウスの指を握った。
力は弱い。
けれど、確かに生きている。
隣では、リーリャがアイシャを抱きながら、ルーデウスを見ていた。
家族会議以降、彼女の態度は少しずつ変わっている。
以前は年齢に似合わない言動を警戒し、必要以上に近づかないようにしていたが、最近では言葉の端々に、過剰なほどの敬意が含まれるようになっていた。
「ルーデウス様」
「何ですか?」
「この子が無事に育ちましたら、あなた様への恩を忘れぬよう、必ず教えます」
「僕は、自分の妹を家へ残したかっただけです」
「それでも、私とこの子の命をお救いくださったことに変わりはございません」
リーリャは深く頭を下げようとしたが、出産直後の身体で無理をするべきではない。
ルーデウスは慌てて止めた。
「今は休んでください。それに、アイシャへ恩返しをさせる必要はありません」
「ですが――」
「生まれたばかりの子供へ、本人が知らない恩を背負わせるのは違うと思います」
自分も前世では、家族から与えられた物へ報いるよう求められることを、重荷に感じた時期があった。
もちろん、実際には家族の方が遥かに苦労していたのだろう。それでも、与えた側が一方的に意味を決めれば、受け取った側には鎖となることもある。
アイシャには、アイシャ自身の人生がある。
「僕に何か返したいなら、リーリャが元気でいてください。それで十分です」
リーリャは目を見開き、やがて静かに頷いた。
「承知いたしました、ルーデウス様」
本当に理解してくれたかは分からない。
それでも、今すぐこれ以上を求めるつもりはなかった。
部屋を出ると、廊下ではレイネが二人分の洗濯物を抱えて歩いていた。
この数日、彼女はほとんど休んでいないはずである。
出産の準備から母子の体調管理、料理、洗濯、産婆への対応まで、家の中で必要な仕事の大半を引き受けている。
それなのに、足取りには目立った疲労が見えなかった。
「レイネ」
「はい」
「少し休んだ方がいいと思います」
レイネは僅かに目を瞬かせた。
いつも休むよう命じる側が、自分の体調を気遣われるとは思わなかったらしい。
「必要な仕事を終えてから休ませていただきます」
「僕が手伝います」
「ルーデウス様には、魔術訓練と剣術がございます」
「今日は父様も訓練を休むと言っていました。家のことを何もせず、妹だけを眺めているわけにはいきません」
レイネは少し考えた後、洗濯物の半分をルーデウスへ渡した。
「では、こちらを物干し場へお願いいたします。風魔術で一気に乾燥させず、布を傷めないよう普通に干してくださいませ」
「分かっています」
「以前、熱風で衣服を縮ませたことがございますので」
「一度だけです」
「壁を壊された時も、同じことを仰っていました」
反論できなかった。
二人で洗濯物を運びながら廊下を進む。
途中、ゼニスの部屋からノルンの泣き声が聞こえ、少し遅れてアイシャも泣き始めた。
静かだった屋敷は、これから以前よりずっと賑やかになるのだろう。
「レイネは、どちらが生まれると思っていましたか?」
何気なく尋ねると、レイネの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「お二人とも、女のお子様でございましたね」
質問への直接の答えではない。
ルーデウスが横顔を見上げると、レイネはすでに普段どおりの穏やかな表情へ戻っていた。
「ノルン様と、アイシャ様。よいお名前だと思います」
二つの名前を口にした時、赤い瞳が僅かに細められた。
初めて聞いた名前を覚えようとしているようにも、ずっと昔に失くした何かを、もう一度確かめているようにも見える。
けれど、それが何を意味するのか、ルーデウスには分からなかった。
「レイネも、二人を可愛がってくださいね」
「もちろんでございます」
「僕の時のように、厳しすぎない程度でお願いします」
「ルーデウス様へも、厳しくした覚えはございません」
「寝る時間や練習回数については、かなり厳しかったです」
「必要なことでございました」
いつものやり取りだった。
その日の夕方、パウロが家族全員で二人の誕生を祝いたいと言い出した。
ゼニスとリーリャは寝台から動けないため、皆が二つの部屋を行き来しながら食事を取る、落ち着かない祝いとなった。
最後にパウロが、家族で並んで二人の娘を見ようと言い出す。
ゼニス、パウロ、リーリャ、ノルン、アイシャ、そしてルーデウスが集まったところで、レイネはいつものように少し離れた場所へ立った。
「レイネもこちらへ来なさい」
ゼニスが呼んだ。
「私は使用人でございますので」
「リーリャも使用人よ」
「私は、その……」
リーリャが困ったようにアイシャを抱き直す。
「あなたも六年間、この家を支えてくれたでしょう」
ゼニスは疲れた顔で笑った。
「二人を無事に産めたのも、あなたがいてくれたからよ。今日ぐらい、家族の中へ入りなさい」
レイネはしばらく動かなかった。
やがて、断り続ける方が失礼だと判断したのか、ゼニスの寝台の傍らへ歩み寄る。
ルーデウスは自分の隣へ場所を空けた。
「ここです」
「承知いたしました」
並んだレイネの身体は、現在もルーデウスより少し大きい程度だった。
実年齢は二十歳であるにもかかわらず、見た目だけなら十歳前後の姉弟にしか見えないだろう。
パウロが満足そうに全員を見渡す。
一人の父親。
二人の母親。
三人の子供。
そして、そのすべてを支える白髪の侍女。
いびつで、問題がなくなったわけではない。
それでも、誰かを追い出し、母子を危険な旅へ向かわせる結末よりは、遥かによいと思えた。
ノルンとアイシャの泣き声が重なる。
家族が増えたことを告げる二つの声を聞きながら、ルーデウスは兄として、二人を守れる人間になろうと心に決めた。