Fate/Grand Order ――反逆の堕天使と最後のマスター―― 作:MIDNIGHT
夜明け前。
空はまだ暗く、東の地平線だけが僅かに白み始めていた。
村の中央では、消えかけた焚き火が赤い炭を残している。
戦いの跡は至るところに残っていた。
抉れた地面。
崩れた柵。
壁に突き刺さった黒い羽根。
それでも村人たちは眠ることを選ばず、朝を待ちながら壊れた家屋の修復を始めていた。
生き残ったからこそ、次の日を迎える準備をしなければならない。
それが、この時代を生きる人々の強さだった。
「先輩、通信が安定しました」
教会の脇で、マシュが腕の端末を操作する。
青白い光が明滅し、雑音に混じってカルデアからの声が届いた。
『……聞こえるかい? 藤丸君、マシュ!』
「聞こえます、ドクター」
『良かった。昨夜から通信が途切れたり戻ったりで、こちらは気が気じゃなかったよ』
安堵の色を滲ませた声の後ろから、何かが倒れる音がした。
『ちょっとロマ二、資料を床へ落とさないでくれるかな』
『今はそれどころじゃないだろう!?』
『それどころだよ。君が慌てるたびに管制室が散らかっていくんだから』
ダ・ヴィンチの呆れた声に、立香は小さく笑った。
ここが焼け落ちたフランスであることを、一瞬だけ忘れられる。
「こちらは全員無事です」
『本当に? ルシファーの霊基に大きな変動が記録されている』
その言葉に、立香は少し離れた場所へ視線を向けた。
ルシファーは村の外れにある石垣へ腰掛けていた。
傷ついた右手には、昨夜の少年が巻いた古い布がそのまま残されている。
霊基の損傷自体はすでに修復されつつあった。
だが完全ではない。
彼女が力を使うたび、英霊としての器へ負荷が掛かる。
「宝具級の攻撃を受け止めました」
『正面から!?』
正直に昨夜の戦闘の一部始終を伝えると、ロマ二の声が裏返る。
『どうしてそんな無茶を!』
「村が狙われたから」
『それでも限度というものが――』
「騒ぐな、ドクター」
ルシファーが会話へ割り込む。
「まだ消滅していない」
『消滅してからじゃ遅いんだよ!』
「ならば問題ない」
『問題しかないよ!』
珍しく強い口調で言い返したロマ二に、ルシファーは僅かに目を見開いた。
彼女が答えるより先に、ダ・ヴィンチの声が続く。
『ロマ二の言い方はともかく、ボクも同意見だ。今のキミは、元々の力を大幅に制限された状態でアヴェンジャーの霊基へ押し込められている』
ダ・ヴィンチの口調も軽薄なものではなく、真剣味を帯びている。
『強い力を引き出すほど、器の方が先に壊れる可能性が高い』
「理解している」
『理解している者は、宝具を素手で受け止めたりしないものだよ』
「他に方法がなかった」
『あったさ。マスターに令呪を使わせる、二人の防御を重ねる、攻撃の軌道を逸らす。選択肢は一つじゃない』
「令呪は使いました」
思わず口を挟んだ立香に、さらに驚きが起きる。
つまり、令呪を使ってもなお、大きな負荷が掛かっていたのだ。
サーヴァントとの契約・魔力補助の役割がある令呪でも、それだけの負荷が抑えきれなかったのだ。
『言い方を変えるよ――今後、力を出すときは最低でも令呪を使う事!』
本来の令呪の使い方とは異なってしまうが、仕方ない。
その剣幕に、ルシファーは沈黙した。
立香はその横顔を見る。
彼女は昨夜、迷わず自分たちの前へ立った。
おそらく考えるより先に身体が動いたのだ。
「次からは私も、もっと早く判断します」
立香が言うと、ロマ二は少しだけ声を和らげた。
『藤丸君を責めているわけじゃない、ただ、君たちは全員、代わりがいないんだ』
『勝つことも大事だけど、生きて帰ることはもっと大事だからね』
ロマニとダ・ヴィンチの言葉に重みがある。嫌な言い方かもしれないが、立香にもしものことがあれば、そこで人類史は終わるのだ。
「はい」
短く答えた立香の隣で、マシュも深く頷いた。
「肝に銘じます」
『うん。ところで、現地の状況を教えてくれるかい?』
立香は昨夜の出来事を報告した。
避難民の村。
黒化したランサー。
真名『クー・フーリン』。
そして、彼を従わせている黒き聖女の存在。
報告が進むにつれ、ロマ二とダ・ヴィンチの声から軽さが消えていく。
『やはり、サーヴァントの霊基そのものが汚染されているようだね』
ダ・ヴィンチが低く呟く。
『単純な召喚ではない。聖杯による改変と、何らかの強制契約が重なっている。それなら、他にも汚染されたサーヴァントはいる可能性が高い』
「ジャンヌも同じ見解です」
立香は教会前に立つ聖女を見る。
ジャンヌは村人たちから周辺の地理と被害状況を聞いていた。
地面に広げられた粗末な地図には、炭でいくつもの印が付けられている。
焼かれた村。
途絶えた街道。
竜が集まる森。
その数は、昨夜よりさらに増えていた。
『もう一つ』
ロマ二の声が慎重になる。
『北西方向に、複数のサーヴァント反応を確認した』
「敵ですか?」
『判別できない。ただし、昨夜のランサーとは違い、霊基の汚染反応は薄い』
『それと、その付近に飛竜の大群が移動している』
立香の表情が引き締まる。
「交戦している可能性は?」
『高いと思う――もしかしたら、別に召喚されたサーヴァントかもしれない。それなら、話によっては力になってくれるかもしれない』
現状、戦力が不足しているのは否めない。
無論、黒き聖女側ではないから、仲間になってくれるとは限らないが。
『場所は現在地から半日ほど。街道を外れて森を抜ければ、もう少し早く着ける』
「分かりました」
通信を終えると、ジャンヌがこちらへ歩いてきた。
「何か分かりましたか?」
「北西にサーヴァント反応があります。そこへ飛竜の群れが向かっているみたいです」
ジャンヌは地図へ視線を落とす。
「北西……この辺りですね」
指先が一つの印を示す。
街道と川が交わる、小さな宿場町の近く。
「避難民たちが集まっている可能性があります」
「行きましょう」
立香が答えると、ジャンヌは頷いた。
だが、その表情には僅かな迷いがあった。
「村の守りが薄くなります」
昨夜の敵が再び戻ってくる可能性は否定できない。
黒き聖女がこの場所を把握しているなら、次はさらに大きな戦力を送り込んでくるかもしれない。
立香も同じ懸念を抱いていた。
すると、村の兵士長が進み出た。
「お行きください」
年老いた男だった。
昨夜、村人たちの避難を指揮した兵士である。
「しかし」
「ここは我々の村です」
男は傷だらけの兜を脇へ抱える。
「守っていただいた命を、今度は我々が守ります」
「ですが、相手が飛竜なら――」
「戦って勝てるとは申しません」
兵士長は静かに首を振った。
「けれど、逃げる時間を作ることはできます」
「あなた方がここへ留まれば、他の場所で助けを待つ者が死ぬ」
「それは、我々も望みません」
ジャンヌは何も言えなかった。
男の覚悟が、虚勢ではないと分かったからだ。
「必ず戻ります」
彼女は深く頭を下げる。
「ええ」
兵士長は微笑んだ。
「聖女様のお帰りを、お待ちしております」
◇
出発の準備は短時間で終わった。
食料は必要最小限。
水。
地図。
村人から借りた毛布。
飛竜に見つからないよう、大きな荷物は持たない。
立香が背負い袋の紐を結び直していると、昨日の少女が近づいてきた。
「もう行っちゃうの?」
「うん」
「帰ってくる?」
「帰ってくるよ」
迷わず答える。
たとえ確約できる未来ではなくとも、今はそう言うべきだと思った。
少女は手の中から、小さな木彫りの鳥を差し出した。
翼の形は歪で、嘴も左右で長さが違う。
誰かが手作りしたものだろう。
「これ、あげる」
「大事なものじゃないの?」
「お母さんが作ってくれたの」
立香の手が止まる。
少女の母親は、昨日亡くなっている。
「だったら、なおさら受け取れないよ」
「持ってて」
少女は立香の手へ木彫りの鳥を押し込んだ。
「お姉ちゃんが帰ってきたら、返してもらうから」
立香は木彫りを見つめる。
これは贈り物ではない。
帰還を約束するためのもの。
「分かった」
大切に握り締める。
「絶対に返しに来るから」
少女はようやく笑った。
少し離れた場所では、昨夜の少年がルシファーを見上げていた。
「布、取らないの?」
「邪魔ではない」
「痛くない?」
「もう痛くない」
「本当?」
「私は嘘をつかない」
立香はその言葉を聞き、僅かに首を傾げた。
ルシファーはそれに気づき、鋭い視線を向ける。
「何だ?」
「いや、何でもない」
「疑っている顔だな」
「そんなことはない」
「貴様も嘘が下手だ」
少年が楽しそうに笑った。
ルシファーは不本意そうだったが、布を外そうとはしなかった。
村を出た一行は、街道を避けて北西へ進んだ。
先頭はジャンヌ。
中央に立香とマシュ。
最後尾をルシファーが務める。
街道は飛竜から見つかりやすい。
そのため、木々の密集した獣道を選ばざるを得なかった。
しかし、森の中にも安全はない。
折れた枝。
大きな爪痕。
焼けた獣の死骸。
飛竜が頻繁に行き来している痕跡が至るところに残されていた。
「この国に、元々これほど多くの竜がいたのでしょうか」
マシュが周囲を警戒しながら尋ねる。
「いいえ」
ジャンヌは首を振る。
「私が生きていた頃、飛竜など見たことはありませんでした」
「やはり、聖杯によって召喚された存在でしょうか」
「その可能性が高いと思います」
「ただの召喚ではない」
後ろからルシファーが口を挟む。
「この時代の空気そのものが、竜を生み出している」
立香が振り返る。
「どういうこと?」
「この土地へ溜まった憎悪と魔力が混ざり、形を得ている。一頭ずつ喚び出しているのではない。巣がある限り、増え続ける」
ジャンヌの表情が曇る。
「では、目の前の竜を倒すだけでは……」
「根本は変わらない」
「黒き聖女か、聖杯を止める必要がある」
「やっぱり、そこへ辿り着くしかないんだね」
立香の言葉に、ルシファーは頷く。
「だが、焦るな」
「敵は、それを待っている」
「待っている?」
「こちらが怒り、冷静さを失い、守るべきものを置き去りにして城へ向かうことを」
ルシファーは黒煙の立つ空を見上げる。
「この焼けた国そのものが、罠だ」
立香は無意識に、袋の中の木彫りを握った。
目の前の惨状を見れば、一刻も早く黒幕を倒したいと思う。
だが、それだけでは救えない命がある。
力だけでは届かない場所がある。
「一つずつ、できることをする」
立香が言う。
「それでいい?」
ルシファーは僅かに笑った。
「今のところはな、面倒なマスター」
◇
数時間後。
森を抜けると、緩やかな丘陵地帯へ出た。
遠くに一本の川が見える。
その周辺には小さな家々と、街道沿いの宿が並んでいるはずだった。
だが今は、黒煙に覆われていた。
「遅かった……?」
マシュの声が震える。
町の上空を、数十頭の飛竜が旋回している。
地上からは爆発音と、甲高い笑い声が聞こえた。
「違います!」
ジャンヌが目を凝らす。
「誰かが戦っています!」
丘を下りながら、立香たちは戦場の全貌を目にした。
宿場町の入口。
崩れかけた石橋の上で、一人の女性が飛竜の群れと対峙している。
白と青を基調とした華麗な衣装。
金色の髪。
片手には、硝子細工を思わせる杖。
戦場にはあまりにも不似合いな、明るく優雅な姿だった。
「皆、こちらよ!」
女性が声を上げる。
「怖がらなくても大丈夫!」
彼女の後ろには、避難しようとする町人たちがいた。
老人。
子ども。
負傷者。
女性は彼らを守るように橋の中央へ立ち、飛竜の炎を魔力障壁で受け止めている。
炎が硝子の壁へ激突し、色とりどりの光となって散った。
「なんて綺麗な……」
マシュが目を見開く。
しかし、状況は決して優勢ではない。
女性の障壁には亀裂が走っている。
飛竜の数が多すぎる。
さらに町の反対側では、もう一騎のサーヴァントが剣を振るっていた。
細身の中性的な男。
華美な衣装。
長い髪をなびかせながら、まるで舞うように飛竜を切り裂いていく。
「美しくない!」
男は飛竜の爪を避け、流麗な動きで剣を閃かせる。
「弱者を寄ってたかって襲うなど、あまりにも醜悪だ!」
剣光が三度走る。
飛竜の翼と首が切り裂かれ、巨体が地面へ落ちた。
「デオン!」
橋の女性が叫ぶ。
「そちらは大丈夫?」
「もちろんです、王妃!」
男――デオンは剣を構え直す。
「この程度、美しきフランスの敵ではありません!」
「頼もしいわ!」
王妃と呼ばれた女性は、苦しい状況にもかかわらず朗らかに笑った。
その笑顔が、怯える町人たちを安心させている。
「王妃……?」
立香が呟く。
その名に心当たりがある。
フランス。
王妃。
金髪の女性。
だが、この時代とは合わない。
ジャンヌも驚きを隠せずにいた。
「まさか……」
その瞬間、上空の飛竜が大きく旋回した。
十頭以上が隊列を組み、一斉に橋へ向かって降下する。
狙いは王妃ではない。
彼女の背後にいる避難民たちだった。
「来るわ!」
王妃が杖を掲げる。
ひび割れた障壁へ、さらに魔力を注ぎ込む。
だが、限界は明らかだった。
デオンは反対側の飛竜に囲まれ、すぐには戻れない。
「マシュ!」
「はい!」
立香の声と同時に、マシュが丘を駆け下りる。
人間離れした速度で石橋へ到達し、王妃の前へ盾を構えた。
「守ります!」
「まあ!」
王妃が驚いた声を上げる。
飛竜の炎が降り注ぐ。
巨大な盾と硝子の障壁が重なり、炎を受け止めた。
石橋が激しく揺れる。
マシュの靴が石畳を削り、王妃の杖を握る手が震えた。
「先輩、長くは持ちません!」
「ジャンヌ、町の人たちを!」
「はい!」
ジャンヌが白旗を掲げ、避難民の前へ走る。
「皆さん、橋を渡ってください! 走れない方を優先して!」
立香も町人たちのもとへ駆け寄る。
「こっちです! 慌てないで!」
子どもの手を取り、負傷者へ肩を貸す。
だが、飛竜は橋だけを狙っているわけではない。
数頭が隊列から離れ、丘の斜面へ降り立った。
立香たちの退路を塞ぐつもりだ。
「挟み撃ち……!」
「考える程度の知能はあるらしい」
ルシファーが立香の横を通り過ぎる。
黒い翼が広がった。
「だが、浅い」
彼女は片手を振るう。
数十枚の黒い羽根が地面すれすれを飛び、降り立った飛竜の足を切り裂いた。
巨体が次々と転倒する。
ルシファーはその間を歩くように進み、最初の一頭の頭部を片手で押さえた。
「眠れ」
黒い魔力が弾ける。
飛竜の頭が地面へ沈み、そのまま動かなくなる。
別の一頭が背後から噛みつこうとする。
ルシファーは振り返らない。
翼の先端が槍のように伸び、飛竜の顎を下から貫いた。
血が宙へ舞う。
残る飛竜たちは一瞬だけ怯んだ。
「今のうちに!」
立香が叫ぶ。
避難民たちが丘へ向かって走る。
ジャンヌは最後尾に立ち、追撃しようとする飛竜を旗で押し返していた。
橋の中央では、マシュと王妃がまだ炎を防いでいる。
「マシュ、あと少し!」
「分かりました!」
「私も頑張るわ!」
王妃の声は明るい。
しかし額には汗が浮かび、唇から血が滲んでいた。
魔力を使い過ぎている。
「無理をしないでください!」
「あなたも同じでしょう?」
王妃は苦しそうに、それでも笑う。
「初めて会った女の子が頑張っているのに、私だけ休むわけにはいかないもの」
「ですが!」
「それに」
彼女は背後を振り返る。
橋を渡り終えた町人たち。
泣きながら走る子ども。
互いに支え合う老人たち。
「民を守るのは、王妃の務めでしょう?」
マシュは一瞬、言葉を失った。
その時。
上空から巨大な影が落ちる。
通常の飛竜より二回りは大きい。
全身を黒い鱗で覆われた、群れの統率者。
巨大飛竜は口腔へ炎を溜めながら、石橋そのものへ急降下してきた。
「橋を壊すつもりです!」
ジャンヌが叫ぶ。
橋が崩れれば、まだ渡り切っていない避難民が川へ落ちる。
マシュは飛竜の炎を防いでいる。
王妃も障壁を解けない。
デオンはなお複数の敵に囲まれている。
「ルシファー!」
立香が名を呼ぶ。
「見えている」
黒い翼が大きく羽ばたいた。
ルシファーの身体が空へ舞い上がる。
巨大飛竜と正面から向かい合う。
飛竜の口から炎が放たれた。
紅蓮の濁流が夜明け前の空を赤く染める。
ルシファーは片手を前へ出した。
黒い障壁が展開され、炎を二つに割る。
分かれた火流が橋の両側へ落ち、川面から巨大な水蒸気が立ち上った。
視界が白く霞む。
その中を、巨大飛竜が突進してくる。
「ルシファー!」
「騒ぐな」
彼女は飛竜の角を掴んだ。
衝突の余波が空気を震わせる。
ルシファーの身体が後方へ押され、翼が大きく揺れた。
昨日の傷が完全には癒えていない。
右手に巻かれた布へ、再び赤い血が滲む。
立香は、契約を通じて伝わる負荷を感じ取った。
「無理しないで!」
「この程度は、無理とは言わない」
ルシファーは飛竜の角を握ったまま、身体を捻る。
自分より遥かに大きな巨体が、空中で軌道を変えた。
「下へ落ちろ」
飛竜を橋とは反対方向へ投げ飛ばす。
黒い巨体は川岸へ激突し、土砂を巻き上げた。
だが、まだ終わらない。
飛竜は怒り狂って起き上がり、翼を広げる。
ルシファーは追撃しようとした。
その瞬間、身体が僅かに揺らぐ。
「……っ」
ほんの一瞬。
だが立香は見逃さなかった。
「マシュ、障壁をジャンヌに任せられる?」
「はい!」
「王妃さんも、一度下がってください!」
「でも――」
「ルシファーを援護します!」
王妃は立香の表情を見て、すぐに状況を理解した。
「分かったわ」
彼女は杖を高く掲げる。
「デオン!」
「はい、王妃!」
反対側で戦っていたデオンが、飛竜を斬り伏せながら応える。
「彼女を助けて!」
「御意!」
デオンは石橋の欄干を蹴り、空中へ跳躍した。
着地点は巨大飛竜の背。
剣を逆手に持ち、翼の付け根へ深く突き刺す。
「ギャアアアアッ!」
飛竜が苦痛に身を捩る。
「堕天使殿!」
デオンが叫ぶ。
「こちらは私が!」
「余計な気遣いだ」
ルシファーは不満そうに答えながらも、一度距離を取った。
その隙を埋めるように、マシュが川岸へ飛び降りる。
巨大飛竜の尾が薙ぎ払われる。
マシュは盾で受け止め、地面を滑った。
「くっ……!」
「マシュ、右へ!」
立香の指示に従い、マシュは盾を傾ける。
尾の軌道が逸れ、飛竜の身体が僅かに開く。
「ジャンヌ!」
「お任せください!」
白旗の先端が飛竜の胸部を打つ。
鱗は砕けない。
だが、衝撃で巨体が仰け反った。
そこへデオンの剣が走る。
すでに傷つけられていた翼の付け根を、正確に切り裂いた。
飛竜の片翼が力を失う。
「今よ!」
王妃が杖を振るう。
周囲に無数の硝子片のような光が生まれた。
それらは一斉に巨大飛竜へ向かい、傷ついた翼と胸部へ突き刺さる。
光の花が連続して咲き、飛竜の巨体を包み込んだ。
それでも飛竜は倒れない。
最後の力を振り絞り、口へ炎を溜め始める。
狙いは王妃。
「危ない!」
立香が叫ぶ。
王妃は魔力を使い切り、すぐには動けない。
デオンは飛竜の背。
マシュとジャンヌも間に合わない。
赤い炎が口腔から漏れる。
その直前。
黒い羽根が一本、飛竜の喉へ突き刺さった。
「もういい」
ルシファーが空中に立っていた。
右手を握る。
羽根に込められた魔力が、飛竜の体内で膨張する。
「消えろ」
鈍い爆発音。
飛竜の喉が内側から破裂し、溜め込まれた炎が霧散した。
巨体は力を失い、川岸へ倒れ込む。
地面が激しく揺れた。
しばらくの間、誰も動かなかった。
残った飛竜たちは統率者を失い、空へ逃げていく。
次第に羽音が遠ざかり、戦場へ静寂が戻る。
「終わった……」
マシュが息を吐く。
立香はすぐにルシファーのもとへ向かった。
「手を見せて」
「必要ない」
「見せて」
「命令か?」
「お願い」
ルシファーは露骨に面倒そうな顔をしたが、右手を差し出した。
布は血で赤く染まっていた。
傷は深くない。
だが、治りかけていた霊基へ再び負荷が掛かっている。
「やっぱり無理してる」
「昨日よりは軽い」
「比較の問題じゃないよ」
「ドクターと同じことを言うようになったな」
「ドクターが正しかったから」
立香は予備の布を取り出そうとする。
しかし、その前に白い手が伸びた。
「少し見せてくれる?」
先ほどの王妃だった。
間近で見ると、彼女は想像以上に若い。
華やかな衣装は煤と泥に汚れている。
それでも、その笑顔は不思議なほど明るかった。
「傷を治すのは得意なの」
「不要だ」
「そう言うと思ったわ」
王妃はルシファーの拒絶を気にした様子もなく、両手で傷ついた手を包む。
淡い光が広がった。
温かく柔らかな魔力。
ルシファーの傷が、少しずつ塞がっていく。
「治癒術か」
「完全には治せないけれど、痛みは減るでしょう?」
「勝手な女だな」
「よく言われるわ」
王妃は楽しそうに笑った。
ジャンヌが静かに歩み寄る。
その表情には、驚きと戸惑いが入り混じっていた。
「失礼ですが……あなたは」
「ええ」
女性は立ち上がり、汚れたスカートの裾を軽く摘む。
戦場とは思えない優雅な一礼。
「私は、マリー・アントワネット。フランスの王妃よ」
立香とマシュは息を呑んだ。
フランス革命で処刑されたフランスの王妃。
ジャンヌは目を見開いたまま、言葉を失っている。
「マリー……アントワネット」
「そう」
マリーはにこやかに頷く。
「あなたがジャンヌ・ダルクね?」
「私を御存じなのですか」
「もちろん」
マリーは両手を合わせ、嬉しそうに笑った。
「フランスを救った、とても勇敢な女の子。一度会ってみたいと思っていたの」
ジャンヌは困惑する。
自分より数百年後を生きた王妃から、憧れの目を向けられている。
「しかし私は、あなたの時代には……」
「今は英霊同士でしょう? 生きた時代なんて関係ないわ」
マリーは一歩近づく。
「会えて嬉しい、ジャンヌ」
「……はい、ありがとうございます」
ジャンヌは戸惑いながらも、その手を取った。
「私も、お会いできて光栄です」
「固いわ」
「え?」
「もっと普通に話しましょう」
「ですが、王妃に対して――」
「ここには宮殿も、廷臣もいないもの」
マリーは周囲の焼けた町を見渡す。
その笑顔が、一瞬だけ寂しそうに揺れた。
「それに、今の私は国を守る一人のサーヴァント。あなたたちと同じよ」
デオンが静かに歩み寄り、マリーの傍らで膝をつく。
「御無事で何よりです、王妃」
「デオンもありがとう」
「当然の務めです」
デオンは立ち上がり、立香たちへ向き直る。
その剣はまだ抜かれたままだった。
「助力には感謝します。しかし、まずは名を伺いたい」
警戒を解いてはいない。
立香は一歩前へ出る。
「藤丸立香です」
「マシュ・キリエライトと申します」
「あっちが、ルシファー」
最後にジャンヌを見る。
「私たちは、この時代の異変を止めるために来ました」
デオンの目が鋭くなる。
「異変」
「黒いジャンヌ・ダルクと、竜の軍勢についてです」
その言葉に、マリーの笑顔が消えた。
デオンも剣を握り直す。
「やはり、あなたたちも彼女を追っているのですね」
「知っているんですか?」
「ええ」
マリーは静かに頷く。
「私たちは召喚されてから、避難民を守りながら移動していたの。その間、何度も竜と黒く染められたサーヴァントに襲われたわ」
「そして昨日」
デオンが続ける。
「敵から明確な宣告を告げられました――マリー・アントワネットを殺せ、と」
立香の表情が険しくなる。
昨夜の城で下された命令を、彼女たちはすでに知っていた。
「なぜ王妃を?」
「理由は分かりません」
デオンは首を振る。
「ですが敵は、王妃を執拗に狙っています」
「それは多分」
ジャンヌがマリーを見つめる。
「あなたが、フランスから愛された王妃だからです」
マリーは目を瞬かせた。
「私が?」
「黒き聖女は、フランスそのものを憎んでいます。人々の希望になる存在を、許せないのでしょう」
ジャンヌの声は沈んでいた。
黒い自分。
自分と同じ顔を持ちながら、祖国へ憎悪を向ける存在。
その心の一端が、理解できてしまうからこそ苦しい。
「愛された、か」
マリーは小さく呟いた。
その表情から、いつもの明るさが消える。
「私は、本当に愛されていたのかしら」
デオンが顔を上げる。
「王妃」
「民に憎まれていたことも知っているわ」
「贅沢な女」
「国を傾けた異国の王妃」
「そう呼ばれていたことも」
静かな声だった。
笑って誤魔化すこともせず、マリーは自分の過去を見つめている。
「最後には、処刑された」
空を見上げ、苦い表情を浮かべる。
「だから時々思うの――私がフランスを愛していたとしても、フランスは私を愛していなかったのではないかって」
誰もすぐには答えられなかった。
歴史の評価。
民衆の怒り。
革命。
断頭台。
それらを簡単な言葉で否定することなどできない。
ジャンヌが一歩近づく。
「私は、あなたの生前を詳しく知りません」
「ええ」
「ですから、あなたが正しかったとも、間違っていなかったとも言えません」
マリーは静かに彼女を見る。
「ですが」
ジャンヌは町人たちへ視線を向けた。
避難民たちは橋の向こうで身を寄せ合っている。
その多くが、マリーを見つめていた。
恐怖の中で自分たちを励まし、身を挺して守った王妃を。
「今、ここにいる人々は、あなたに救われました。あなたが笑っていたから、恐怖に負けず走ることができた」
真っ直ぐにマリーを見据え、はっきりと告げる。
「少なくとも、この場所では」
ジャンヌは微笑む。
「あなたは確かに、人々から愛されています」
マリーの瞳が僅かに揺れた。
避難民の中から、小さな女の子が駆け寄ってくる。
「王妃さま」
「どうしたの?」
マリーはすぐに膝をつく。
少女は泥だらけの花を一本差し出した。
戦いで踏み荒らされた道端に残っていた、小さな白い花。
「助けてくれて、ありがとう」
マリーは花を見つめる。
やがて、壊れものへ触れるように受け取った。
「こちらこそ、ありがとう」
笑顔が戻る。
だが、その目には薄く涙が滲んでいた。
「とても綺麗ね」
少女が去った後も、マリーはしばらく花を見つめていた。
「ジャンヌ」
「はい」
「あなたの言う通りかもしれないわ。過去がどうだったとしても……」
マリーは顔を上げる。
「今、私を必要としてくれる人がいる。それなら私は、王妃として笑わなくてはいけないわね」
「無理に笑う必要はありません」
「無理ではないわ」
マリーは涙を拭い、明るく笑った。
「私は笑うことが好きなの。笑顔は、誰かへ渡せるものだから」
ルシファーがその言葉を聞き、僅かに目を細める。
「随分と楽天的だな」
「あなたは違うの?」
「笑顔で敵を倒せない」
「でも、人を守ることはできるでしょう?」
「それとこれは別だ」
「同じよ」
マリーは迷いなく言った。
「あなたが戦ってくれたから、皆が笑える。だから、あなたも笑顔を渡しているわ」
ルシファーは露骨に嫌そうな顔をする。
「聖女の次は王妃か」
「何が?」
「厄介な女ばかり増える」
立香が思わず笑う。
「気が合いそうだね」
「どこを見ればそう思える」
「きっと仲良くなれるわ」
マリーが嬉しそうに手を合わせる。
「断る」
「即答なのね」
「面倒なマスターだけで十分だ」
「私は人数に数えられているんだ」
「不名誉そうに言うな」
マシュが口元を押さえながら笑った。
デオンは警戒を保ちながらも、その表情を少しだけ和らげている。
しかし、穏やかな時間は長く続かなかった。
カルデアの通信機が再び鳴る。
『藤丸君、緊急だ!』
ロマ二の切迫した声。
『北東方向から、さらに大きなサーヴァント反応が接近している! 一騎ではない。少なくとも二騎!』
「黒化反応は?」
『ある、それと、飛竜の群れが広範囲に展開している』
ダ・ヴィンチが続ける。
『偶然の遭遇じゃない。君たちは包囲されつつある』
デオンが剣を構える。
「やはり、先ほどの群れは先遣隊でしたか」
「町人を連れては戦えません」
ジャンヌが周辺を見渡す。
街道は開けており、上空から見つかりやすい。
宿場町もすでに大きな損害を受けている。
長く留まることはできない。
「安全な場所に心当たりはありますか?」
立香が尋ねると、デオンが地図を広げた。
「ここから西に古い砦があります。百年戦争で放棄された場所ですが、石壁は残っている」
地図を指さしながら、答える。
「避難民を収容できるかもしれません。西へ向かうなら、敵の接近方向とは逆です」
マシュが地図を確認する。
「町の人たちをそこへ」
「私たちが敵を引きつける?」
マリーの問いに、立香は頷いた。
「二手に分かれるのは危険です」
デオンが即座に反対する。
「王妃は敵の標的です」
「だからこそ、全員で移動すれば避難民まで狙われるわ」
マリーは静かに答えた。
「私が残るわ」
「なりません!」
デオンの声が強くなる。
「あなたを守ることが、私の役目です!」
「デオン」
マリーは彼を真っ直ぐ見つめる。
「私を守るために、民を危険へ晒すの?」
「それは……」
「あなたなら、そんなことはしないでしょう?」
デオンは答えられない。
主君を守る誓い。
民を守る騎士としての誇り。
どちらも捨てることはできない。
「王妃を囮にはさせません」
立香が言った。
「囮ではなく、皆で敵を止めます」
「避難民の護衛は、デオンにお願いしたい」
「私に、王妃から離れろと?」
「あなたにしか任せられないからです」
デオンの瞳が揺れる。
「町の人たちは疲れている。飛竜が少しでも現れれば、統率が崩れるかもしれない。剣が強いだけじゃなく、人を導ける人が必要です」
立香は一歩も退かずに続ける。
「マリーを守りたいなら、マリーが守ろうとしている人たちを守ってください」
沈黙。
やがてデオンは剣を胸元へ立てた。
「……承知しました」
苦渋に満ちた声だった。
「ですが、必ず王妃を無事に連れ戻してください」
「約束します」
「その約束、私も信じるわ」
マリーは立香の手を取る。
「あなたが私の新しいマスター?」
「まだ契約は――」
「細かいことは後でいいでしょう?」
彼女は楽しそうに笑う。
「あなたとなら、良い旅ができそう」
立香はその笑顔に押されるように、手を握り返した。
「よろしく、マリー」
「ええ、立香」
真名を呼び合った瞬間。
淡い魔力の糸が、二人の間に結ばれる。
正式な召喚契約ではない。
だが一時的な魔力経路が生まれ、互いの存在が明確に感じ取れるようになる。
温かい。
春の陽射しのような、柔らかな気配。
「先輩」
マシュが小さく微笑む。
「新しい仲間ですね」
「仲間か」
ルシファーが溜息をつく。
「また面倒なのが、増えたな」
「嬉しいでしょう?」
マリーが尋ねる。
「面倒が増えただけだ」
「つまり、少しは嬉しいのね」
「どうしてそうなる」
「だって、本当に嫌なら何も言わない顔をしているもの」
ルシファーは一瞬言葉を失う。
立香は思わず吹き出した。
「見抜かれてるね」
「黙れ、面倒なマスター」
遠くから、竜の咆哮が響く。
低く、重く、先ほどまでとは異なる。
同時に、二つの強大な魔力反応が近づいてくる。
一つは鋭く冷たい。
獲物を射抜く矢のような気配。
もう一つは荒々しく、巨大な獣を思わせる。
ジャンヌが白旗を握り直す。
「来ます!」
マシュは盾を構える。
「先輩、指示を!」
立香は西へ向かう避難民たちを見る。
デオンが先頭に立ち、何度もこちらを振り返りながら人々を導いている。
彼らが安全圏へ離れるまで、ここを通すわけにはいかない。
「町の入口で迎え撃つ! マシュとジャンヌは正面、マリーは後方支援、ルシファーは上空を警戒して」
「了解しました!」
「はい!」
「任せて!」
最後にルシファーが翼を広げる。
「誰に命令している」
口ではそう言いながらも、彼女はすでに空へ浮かび上がっていた。
「逃げる道は残す?」
マリーが尋ねる。
立香は近づいてくる黒い影を見据える。
「相手次第」
「話せるなら話す」
「無理なら止める」
「殺さずに?」
「できる限りは」
マリーは優しく微笑んだ。
「あなたも、随分と欲張りなのね」
「よく言われる」
「誰に?」
立香は空を見上げる。
そこには、黒い翼を広げる堕天使がいた。
「一番面倒な仲間に」
朝日が地平線から昇り始める。
光は焼けた町を照らし、崩れた建物の影を長く伸ばした。
その光の向こうから、一筋の矢が飛来する。
「伏せて!」
ジャンヌが叫ぶ。
矢は石畳へ突き刺さり、凄まじい爆発を引き起こした。
土煙が舞う。
立香たちの前方。
壊れた宿屋の屋根へ、一人の少女が降り立つ。
緑の衣。
獣のような耳。
手には、大きな弓。
黄金の瞳には、感情のない冷たい光が宿っていた。
「対象を確認」
少女は弓へ次の矢を番える。
「マリー・アントワネット。命令に従い、排除する」
同時に、町の入口から地響きが近づいてくる。
瓦礫を踏み砕きながら現れたのは、巨大な斧を担ぐ異形の戦士。
筋肉に覆われた巨体。
狂気に染まった咆哮。
黒い魔力が全身から噴き上がっている。
二騎の黒化サーヴァント。
アーチャー。
バーサーカー。
マリーは二人を見つめながら、それでも笑顔を崩さなかった。
「私を狙っているのね」
「ええ」
ジャンヌが一歩前へ出る。
「ですが、あなたには触れさせません」
マシュもその隣に並ぶ。
「私たちが守ります」
ルシファーが上空から静かに告げる。
「王妃」
「何?」
「先ほどの笑顔を、最後まで保てるか?」
挑発するような問い。
だがマリーは迷わない。
「もちろん」
杖を掲げる。
「だって、私はフランスの王妃だもの!」
その言葉とともに、戦場へ色鮮やかな光が広がった。