Fate/Grand Order ――反逆の堕天使と最後のマスター―― 作:MIDNIGHT
色鮮やかな光が、焼けた宿場町へ広がっていく。
赤。
青。
黄金。
朝露を受けた花々のような輝きが、マリーの周囲で無数の硝子片となって舞った。
崩れた石壁も、黒煙に覆われた空も、その瞬間だけは華やかな舞踏会の一幕へ塗り替えられたように見えた。
だが、その美しさに惑わされる者はいない。
屋根の上に立つ黒き狩人は、すでに二本目の矢を放っていた。
「散開!」
立香の声が響く。
矢は空中で分裂した。
一本が十本へ。
十本が百本へ。
降り注ぐ矢の雨が、立香たちだけでなく、西へ逃げる避難民の背中まで捉えようとする。
「させません!」
ジャンヌが白旗を地面へ突き立てる。
淡い光の防壁が扇状に広がり、矢の軌道を阻んだ。
次々と激突する矢。
衝撃のたびに白い光が揺れ、旗を握るジャンヌの腕が震える。
「マシュ、正面!」
「はい!」
巨大な影が、瓦礫を踏み砕いて突進してくる。
黒化した狂戦士。
筋肉に覆われた巨体は人間の枠を逸脱し、両手で握られた大斧には黒い雷が纏わりついていた。
「オオオオオオオオッ!」
咆哮とともに、大斧が振り下ろされる。
マシュは盾を頭上へ掲げた。
激突。
町全体が震えた。
「くっ……!」
盾の縁が石畳へ沈む。
マシュの膝が折れかける。
狂戦士は歯を剥き、さらに力を込めて大斧を押し込んだ。
「マシュ!」
「まだ、耐えられます!」
そう答えながらも、盾を持つ腕は震えている。
相手の力は、昨夜のランサーをも上回っていた。
技量ではない。
純粋な膂力。
理性も防御も捨て、破壊だけに特化した暴力だった。
「下がってください!」
ジャンヌが旗を横薙ぎに振るう。
柄が狂戦士の脇腹へ直撃した。
鈍い音。
だが、男は僅かに身体を揺らしただけだった。
血走った目がジャンヌへ向く。
「グアアアアッ!」
大斧が振り払われる。
ジャンヌは旗で受けたが、衝撃を殺しきれず空中へ弾き飛ばされた。
「ジャンヌ!」
「大丈夫です!」
地面を転がりながらも、旗を支えに立ち上がる。
その間に狂戦士は再びマシュへ向き直った。
敵の目的は明確だった。
前衛を打ち砕き、背後にいるマリーへ到達すること。
「マリー、支援を!」
「ええ!」
マリーが杖を掲げる。
光の花弁がマシュの身体を包み込み、傷ついた腕と脚へ温かな魔力を送り込んだ。
「力が……」
「今だけよ!」
マリーは微笑む。
「私の分まで頑張って!」
「はい!」
マシュは盾を押し上げた。
狂戦士の大斧が弾かれる。
体勢を崩した巨体へ、盾の縁を叩き込む。
だが、男は倒れない。
むしろ痛みを喜ぶように、大きく笑った。
「この人……!」
「理性がほとんど残っていない」
ルシファーの声が、上空から降ってくる。
彼女は黒い翼を広げ、屋根の上のアーチャーと向かい合っていた。
「壊れるまで動き続ける」
「なら、先に動けなくする!」
立香が答える。
「ルシファー、アーチャーを抑えて! マシュとジャンヌでバーサーカーの足を止める!」
「簡単に言う」
「できない?」
ルシファーの口元が僅かに上がる。
「誰に向かって言っている」
黒い翼が羽ばたく。
彼女の姿が掻き消えた。
直後、屋根の上で黒と緑の光が衝突する。
アーチャーは間一髪で身を沈め、ルシファーの蹴りを回避していた。
屋根の瓦がまとめて吹き飛び、後方の煙突が根元から折れる。
「速い」
少女は淡々と呟き、至近距離から矢を放つ。
狙いはルシファーの胸。
しかし黒い翼が矢を弾いた。
金属音。
火花。
少女はすでに次の矢を番えている。
「次は外さない」
「外したのではない」
ルシファーが右手を伸ばす。
「当てさせなかっただけだ」
黒い羽根が放たれる。
アーチャーは屋根の上を滑るように走り、羽根を避ける。
その動きは人ではなく、森を駆ける獣そのものだった。
瓦礫を足場に跳躍し、空中で身体を捻る。
同時に三本の矢が放たれた。
一本はルシファー。
一本は立香。
そして最後の一本はマリー。
「っ!」
ルシファーの瞳が鋭くなる。
自分へ向けられた矢を翼で弾き、反転。
立香へ向かう矢を黒い羽根で撃ち落とす。
だが、マリーを狙う三本目までには僅かに届かない。
「マリー!」
立香が叫ぶ。
マリーは避けなかった。
背後には、まだ避難を終えていない親子がいる。
杖を正面へ構え、硝子の障壁を展開する。
矢が突き刺さる。
甲高い破砕音。
障壁は一瞬で砕け散った。
「きゃっ……!」
矢は威力を失いながらも、マリーの肩を掠めた。
白い衣装が裂け、血が滲む。
「マリー!」
立香が駆け寄ろうとする。
「来ないで!」
マリーの声がそれを止めた。
彼女は傷口を押さえながらも、倒れてはいない。
「立香は皆を見ていて!」
「でも、その傷――」
「このくらい、平気よ」
いつもの笑顔。
だが顔色は悪い。
先ほどからの連戦と避難民への支援で、魔力はほとんど残っていない。
「王妃」
屋根の上からアーチャーが告げる。
「抵抗は無意味。汝を殺せば、任務は完了する」
「そう」
マリーは肩を押さえたまま、少女を見上げる。
「あなたは、それを望んでいるの?」
アーチャーの手が止まった。
「……命令だ」
「聞いているのは命令のことではないわ」
マリーはゆっくりと続ける。
「あなた自身が、私を殺したいの?」
「不要な問いだ」
「そうかしら…敵を前にして、何を望んでいるか考えるのは、とても大切なことでしょう?」
「私は狩人だ」
少女の黄金の瞳が冷たく細められる。
「獲物を狩る――それだけ」
「でも、あなたは今まで一度も、町の人たちを直接狙っていない」
マリーの言葉に、立香が息を呑む。
最初の矢は、確かに避難民の近くへ落ちた。
だが思い返せば、殺すためというより、逃げ道を制限する軌道だった。
先ほどの三本も同じ。
立香とマリーを狙いながら、背後の町人へ被害が及ばない角度を選んでいた。
「あなたは人を嫌っているわけではない、命令に従いながら、それでも無関係な人を殺さないようにしている」
「違う」
アーチャーの声が、僅かに揺れる。
「私は獲物を選んでいるだけ」
「優しいのね」
「違う!」
矢が放たれる。
今度はマリーの足元へ突き刺さった。
殺すための一射ではない。
「同情するな」
アーチャーの周囲から黒い魔力が噴き出す。
「私は黒き聖女に召喚された。命令を果たす…それが、この霊基に与えられた役割だ!」
「役割と心は同じではないわ」
マリーは一歩も退かなかった。
「あなたには、まだ心がある」
アーチャーの顔が歪む。
黒い魔力が彼女の胸元へ集まり、鎖のような形となって霊基を締めつけている。
命令へ逆らおうとするたび、汚染された霊基が苦痛を与えているのだ。
「黙れ……!」
「あなたの名前を教えて」
「黙れ!」
「名前を知れば、私たちはあなたを敵としてではなく――」
「黙れッ!」
アーチャーが叫んだ。
その声と同時に、森から無数の獣の幻影が現れる。
狼。
猪。
鹿。
牙と角を持つ魔力の獣たちが、町の屋根や石壁を駆け抜けていく。
「敵の魔力が急上昇しています!」
マシュが叫ぶ。
狂戦士の大斧を受け止めながら、必死に踏み止まっている。
「宝具が来ます!」
アーチャーは弓を空へ向けた。
周囲の獣たちが強制的な魔力光となり、一斉に矢へ吸い込まれていく。
弦が引かれる。
その矢へ込められた魔力は、町一つを消し飛ばしかねない。
「対象、マリー・アントワネット」
アーチャーの声から感情が消える。
「障害を含め、全て排除する」
「させない!」
立香は右手を掲げた。
令呪が赤く輝く。
二画目の印が消失し、魔力ブーストがルシファーを覆う。
「ルシファー!」
「分かっている」
ルシファーはアーチャーとマリーの間へ降り立つ。
黒い翼が大きく開いた。
だが、その前へマリーが進み出る。
「待って」
「下がれ、王妃」
「今、彼女を力で止めたら」
マリーはアーチャーを見つめる。
「きっと、彼女の心まで壊れてしまう」
「撃たれれば貴様が壊れる」
「それでも」
「駄目だ」
ルシファーは冷たく言い切った。
「貴様の命は、貴様一人のものではない」
マリーが目を見開く。
「後ろの人間は、貴様が生きることを望んでいる」
「デオンも、聖女も、マスターも…勝手に死ぬことは許さない」
「……あなた」
「勘違いするな」
ルシファーはアーチャーへ視線を戻す。
「私は貴様を守りたいわけではない。面倒なマスターが悲しむ顔を見たくないだけだ」
立香は一瞬言葉を失った。
「今、私のせいにした?」
「事実だ」
「ひどくない?」
「黙っていろ。集中が乱れる」
ルシファーの翼から黒い光が立ち上る。
それでも、アーチャーは矢を放たない。
弦を引いたまま、腕が震えていた。
「どうした」
ルシファーが問う。
「撃てないのか」
「違う」
「ならば撃て」
「……」
「貴様は狩人なのだろう?」
少女の額に汗が滲む。
矢の魔力が暴れ、周囲の空間を歪ませていた。
「だが、目の前にいるのは獲物ではない」
ルシファーは静かに続ける。
「自ら死地へ立ち、弱者を守ろうとする人間だ。それを撃つことが、貴様の誇りか?」
「違う……」
アーチャーの唇が震える。
「私は……」
胸元の黒い鎖が強く締まった。
「ぐっ……!」
彼女は苦痛に顔を歪める。
矢へ集まった魔力が暴走し始める。
「アーチャー!」
立香が叫ぶ。
「矢を捨てて!」
「できない……! 命令が……!」
「ならば、私に寄越せ」
ルシファーの声が響く。
アーチャーが顔を上げる。
「貴様が撃てないのなら――その力ごと、私が引き受ける!」
「何を――」
「マスター!」
ルシファーが手を伸ばす。
ルシファーには、先程の令呪でブーストが掛かっている。
立香は迷わなかった。
「ルシファー、アーチャーの宝具を止めて!」
「承知した」
ブーストした膨大な魔力が、ルシファーへ流れ込む。
彼女の黒い翼が巨大化した。
空を覆い、朝の光さえ遮るほどに。
その姿を見たアーチャーの瞳に、初めて明確な恐怖が浮かぶ。
同時に、矢へ込められた魔力が限界を超えた。
「放して!」
マリーが叫ぶ。
「矢を放して!」
「うああああああっ!」
アーチャーの指が弦から離れる。
黄金の矢が放たれた。
光が町を呑み込む。
獣たちの咆哮が重なり、巨大な奔流となってルシファーへ迫った。
彼女は逃げない。
片手を前へ出し、黒い翼を何重にも重ねる。
黄金と黒が激突した。
音が消える。
光だけが広がる。
次の瞬間、遅れて凄まじい爆音が轟いた。
石畳が剥がれ、家々の壁が崩れる。
立香はマリーを庇うように地面へ伏せた。
ジャンヌは旗を掲げ、避難民の去った西側へ衝撃が流れないよう防壁を展開する。
マシュも盾を構え、立香たちの前へ立つ。
「ルシファー!」
光の中心で、黒い影が揺れていた。
翼が一枚。
また一枚。
黄金の奔流に削られ、光の粒となって消えていく。
それでも、ルシファーの身体は退かない。
「この程度で……」
黒い魔力が矢を包み込む。
「私に神を思い出させるな」
ルシファーの瞳が金色に輝く。
握られた拳が、黄金の矢へ叩き込まれた。
「砕けろ!」
矢が折れた。
黄金の奔流が左右へ分かれ、町の上空へ散っていく。
光は無数の小さな獣へ戻り、朝焼けの中で消滅した。
アーチャーは呆然と立ち尽くしている。
「私の、宝具が……」
そこへルシファーが迫る。
一瞬だった。
アーチャーが再び矢を番えるより早く、その喉元へ黒い羽根が突きつけられる。
「終わりだ」
アーチャーは動かなかった。
もはや抵抗する力が残っていない。
「殺せ」
掠れた声。
「命令を果たせなかった。私はもう、狩人としても――」
「勝手に決めないで」
立香が二人のもとへ走る。
ルシファーの羽根が止まる。
「まだ終わってない」
「敵を庇うのか?」
立香の行動にルシファーが眉を顰める。
アーチャーが立香を見る。
「名前も知らない相手を、簡単に敵だとは決めたくない」
「またそれか」
ルシファーが呆れたように呟く。
「昨夜も同じことをしていたな――相手を知ることが、良いことばかりではないぞ」
「大事なことだから」
ルシファーの諫める言葉に頷きながら、立香はアーチャーへ向き直る。
「名前を教えて」
「……」
「あなた自身の名前を」
アーチャーは長い沈黙の後、弓を下ろした。
「アタランテ」
小さな声だった。
「アルカディアの狩人、アタランテ」
「アタランテ」
マリーが傷ついた肩を押さえながら歩み寄る。
「素敵なお名前ね」
「近づくな」
アタランテは咄嗟に弓を構えようとする。
しかし腕に力が入らない。
「まだ私を殺すつもり?」
「……命令だ」
「あなたの望みは?」
「私の望みなど、関係ない」
「関係あるわ」
マリーは彼女の前へ立つ。
「あなたは、子どもたちを傷つけなかった」
アタランテの瞳が揺れる。
「当然だ。子どもに罪はない」
「だったら、あなたにはまだ守りたいものがある。それを忘れなければ、黒い聖女の命令だけがあなたの全てにはならないわ」
「知ったようなことを……」
アタランテは顔を逸らす。
「王妃である貴様に、捨てられた子どもの何が分かる」
「分からないわ」
マリーは即座に答えた。
「あなたが見てきたものも、あなたが苦しんだことも…私は何も知らない」
アタランテは意外そうに彼女を見る。
「だから教えてほしいの、あなた自身の言葉で」
「……愚かな女だ」
「そうかもしれないわね」
マリーは微笑んだ。
「でも、私はあなたとお話がしたい」
アタランテの口元が僅かに歪む。
笑ったのか。
苦しんだのか。
判別する前に、彼女の胸元の黒い鎖が再び脈動した。
「ぐっ……!」
「アタランテ!」
黒い魔力が彼女の全身を包む。
ルシファーが羽根を伸ばす。
だが、遅かった。
「離れろ!」
アタランテの身体が霧へ変わる。
「次に会った時は……」
消えゆく姿の中で、黄金の瞳がマリーを見た。
「私は、今度こそお前を殺す!」
マリーは首を振る。
「次に会った時は…今度こそ、あなたの話を聞かせて」
「……本当に」
アタランテの声が、僅かに柔らかくなる。
「愚かな女だ」
緑の影は、黒い霧となって空へ消えた。
「オオオオオオオッ!」
戦いは、まだ終わっていなかった。
バーサーカーの咆哮が町を震わせる。
アタランテの宝具が破られたことなど理解していない。
ただ目の前の敵を破壊するため、大斧を振り回し続けている。
マシュとジャンヌは防戦を強いられていた。
「先輩!」
「今行く!」
立香が振り返る。
バーサーカーの身体には、すでに数えきれないほどの傷が刻まれている。
ジャンヌの旗。
マシュの盾。
マリーの光弾。
それらを受けても、バーサーカーは止まらない。
傷口から溢れる黒い魔力が筋肉を繋ぎ、無理やり身体を動かしている。
「普通に攻撃しても、霊基が再生しています!」
マシュが叫ぶ。
「黒い魔力の供給源を断たなければ!」
「胸だ!」
ルシファーが地上へ降り立つ。
令呪によって得た魔力はすでに薄れ、翼も元の大きさへ戻っていた。
それでも瞳は、バーサーカーの霊基を正確に見抜いている。
「心臓の奥に黒い核がある。あれが理性を奪い、身体を動かしている」
「壊せば助かる?」
「可能性は低い」
ルシファーは冷静に答える。
「あの霊基はすでに崩壊している――核を壊せば、消滅する」
立香は唇を噛む。
昨夜のクー・フーリン。
先ほどのアタランテ。
二人にはまだ言葉が届いた。
だが、目の前のバーサーカーには、自分の名前を語る理性さえ残されていない。
その名の通り、ただの破壊だけを求める戦闘狂だ。
「救う方法は?」
「ない」
断言だった。
「少なくとも、今の私たちにはな」
バーサーカーの斧が、マシュの盾へ叩きつけられる。
「きゃあっ!」
マシュの身体が大きく吹き飛ぶ。
「マシュ!」
立香が駆け寄る。
マシュは地面へ倒れながらも、盾を手放していなかった。
「大丈夫、です……」
額から血が流れている。
左腕も僅かに震えていた。
バーサーカーは倒れたマシュへ向かって進む。
大斧が持ち上がる。
「止まりなさい!」
マリーが光弾を放つ。
バーサーカーの背中で爆発するが、足は止まらない。
ジャンヌが横から旗を突き出す。
しかし、バーサーカーは片腕で旗を掴み、そのままジャンヌごと振り回した。
「きゃぁっ!」
ジャンヌが建物の壁へ叩きつけられる。
壁が崩れ、姿が瓦礫の中へ消えた。
「ジャンヌ!」
「オオオオオオッ!」
大斧が振り下ろされる。
立香は咄嗟にマシュの前へ立った。
「先輩、駄目です!」
身体が動いた。
考えるより先に。
武器もない。
防ぐ手段もない。
それでも、マシュを置いて逃げることはできなかった。
「立香!」
マリーの叫び。
斧が迫る。
その刃と立香の間へ、黒い手が差し込まれた。
ルシファーが大斧の柄を掴んでいた。
「またか」
低い声。
バーサーカーの腕と、ルシファーの腕が拮抗する。
地面が二人の足元から陥没していく。
「自分が死ねば守れると――なぜ、すぐにそう考える」
「ごめん」
「謝るな、マスター」
ルシファーの声に苛立ちが混じる。
「命令しろ」
「え?」
「私は貴様のサーヴァントだ――なら、私を使え」
立香はルシファーを見る。
彼女の腕は震えている。
アタランテの宝具を受け止めた直後。
霊基への負荷は限界に近い。
それでもルシファーは、一歩も退いていない。
「でも、これ以上は――」
「面倒なマスター」
ルシファーが振り返る。
金色の瞳には、怒りがあった。
立香へではない。
何もできずに終わることを恐れる、自分自身への怒り。
「信じろ――貴様のサーヴァントを」
短い言葉だった。
立香は息を吸う。
そして立ち上がった。
「マシュ、立てる?」
「はい!」
「ジャンヌ!」
瓦礫が崩れ、白い旗が姿を現す。
「まだ、戦えます!」
立香は頷き、すぐに指示を飛ばす。
「マリーは、バーサーカーの視界を奪って!」
「任せて!」
「マシュとジャンヌは両足を止める!」
「はいっ」
「分かりましたっ」
マリー、マシュ、ジャンヌがサポートのために動く。
「ルシファーは核を!」
「承知した!」
マリーが杖を振るう。
無数の光が、バーサーカーの顔面で弾けた。
「グオオオッ!」
怯み、バーサーカーが反射的に目を覆う。
その隙にマシュが地面すれすれへ滑り込み、盾をバーサーカーの右膝へ叩きつけた。
同時にジャンヌの旗が左足へ迫る。
「今です!」
二人が左右へ力を加える。
バーサーカーの巨体が均衡を失い、片膝をついた。
「ルシファー!」
「ああ!」
黒い翼が一度だけ羽ばたく。
ルシファーは大斧を放し、バーサーカーの胸元へ飛び込んだ。
バーサーカーが腕を振るう。
巨大な拳が、ルシファーの脇腹を捉えた。
「っ……!」
鈍い音。
彼女の身体が僅かに揺れる。
それでも止まらない。
右手を、バーサーカーの胸へ押し当てる。
「貴様の名は知らない」
黒い魔力が装甲と肉体を貫き、胸の奥へ侵入する。
「何を望んだのかも、何を守ろうとしたのかも、今の貴様からは、何も分からない」
バーサーカーの胸元が、赤黒く輝く。
心臓の奥で、黒い核が脈打っている。
「だから、せめて」
ルシファーの指が核を掴む。
「これ以上、誰かを傷つける前に終わらせる」
黒い核が引き抜かれた。
「オ――」
バーサーカーの咆哮が止まる。
ルシファーの手の中で、黒い結晶が砕け散った。
バーサーカーの身体から、力が抜ける。
大斧が地面へ落ちた。
その巨体は倒れず、片膝をついたまま静止している。
黒い魔力が消え始めた。
血走っていた瞳に、僅かな理性の光が戻る。
「……名」
掠れた声。
立香たちは息を止めた。
「我が、名は……」
バーサーカーは、遠い記憶を辿るように空を見上げる。
「エイリーク――血斧王……エイリーク」
その名を告げた瞬間、身体が粒子の光へ変わり始めた。
「ごめん」
立香が呟く。
エイリークは、立香を見た。
怒りも憎悪もなかった。
「戦場で……詫びるな」
僅かに口元を歪める。
笑ったのかもしれない。
「戦士を、倒した者なら――胸を張れ」
光が風へ流れていく。
最後に残った大斧も、静かに消えた。
―――血斧王エイリーク。
黒き聖女に狂気を与えられ、名さえ奪われた戦士は、ようやく戦いから解放された。
戦いが終わった町に、朝日が差し込む。
長かった夜が明ける。
崩れた建物。
抉れた街道。
飛竜と戦士が残した傷跡。
勝利と呼ぶには、あまりに多くのものが壊れていた。
それでも、避難民たちは生きている。
「先輩」
マシュが立香の隣へ立つ。
負傷した腕には、マリーが治癒を施していた。
「バーサーカー…エイリークさんを、救うことはできなかったのでしょうか」
「分からない」
立香は正直に答えた。
「もっと力があれば、違う方法があったのかもしれない。でも今は――」
バーサーカーが消滅した場所を見つめる。
「終わらせることしかできなかった」
「それでいい」
ルシファーが告げる。
彼女は少し離れた石壁へ寄りかかっていた。
顔色は悪い。
翼の一部も薄く透けている。
「できなかったことを数え続ければ、いずれ何も選べなくなる」
重く響く言葉。
立香は、思わず手を握り締める。
「忘れろとは言わない――覚えていろ」
そんな立香に、ルシファーが言葉を向ける。
「そして、次に同じものを見た時、違う選択ができるようにしろ」
立香は頷いた。
「うん」
マリーが治療を終え、ルシファーへ近づく。
「次はあなたの番」
「必要ない」
「必要よ」
「断る」
「立香」
マリーが立香を見る。
「マスターとして命令してくれる?」
立香は小さく笑った。
「ルシファー、治療を受けて」
「……命令か?」
「できればお願いで」
ルシファーは深く溜息をついた。
「本当に面倒だな」
それでも抵抗はしなかった。
マリーが両手を重ね、淡い光でルシファーの傷を包む。
「あなたは自分を大切にしなさすぎるわ」
「貴様に言われたくない」
「そう?」
「矢を受けながら笑っていた女が言うことではない」
呆れたように言うが、マリーは笑顔で返す。
「王妃には笑顔が必要なの」
「では、堕天使には沈黙が必要だ」
「今のは冗談?」
「違う」
「やっぱり面白い人ね」
「どこがだ」
マリーは楽しそうに笑う。
その様子を見ていたジャンヌも、僅かに表情を和らげた。
その時、遠くから馬の足音が聞こえた。
西へ避難民を導いていたデオンが戻ってきた。
町へ到着するなり、彼は馬から飛び降りる。
「王妃!」
「デオン」
「御無事ですか!」
「ええ。この通りよ」
デオンはマリーの肩の傷を見る。
次にルシファー。
立香。
マシュ。
ジャンヌ。
全員の姿を確認し、ようやく剣を収めた。
「避難民は、古砦へ到着しました。壁と井戸も使えます。しばらくは身を守れるでしょう」
「良かった」
マリーは、心から安堵したように胸へ手を置く。
「では、私たちも砦へ?」
マシュが尋ねる。
デオンは首を振った。
「その前に、お伝えすべきことがあります」
彼は地図を広げる。
古砦の東。
深い森が描かれた場所を指差した。
「避難民の中に、森の奥から逃げてきた猟師がいました。その者が言うには、数日前から、森全体が異様な力に覆われているそうです」
詳細は分からないが、この近辺にあった村が全滅している。
「夜になると竜の声が響き、近づいた者は誰も戻らない」
「竜の巣……」
ジャンヌが呟く。
ルシファーも地図へ視線を落とした。
「先ほど話した、竜を生み出す場所かもしれない」
「放っておけば、また群れが増える?」
立香の問いに、ルシファーは頷く。
「間違いなく」
マリーが白い花を胸元へ差す。
先ほど少女から受け取った花。
泥に汚れていても、朝日に照らされて小さく輝いていた。
「それなら、行きましょう」
「森へ?」
「ええ」
マリーは笑う。
「人々が安心して眠れるように――竜の巣を壊すの」
「マリー、傷は?」
「あなたたちほどではないわ」
「比較する相手が悪い」
立香が言うと、マリーは小さく笑った。
「では、少し休んでから出発しましょう」
「それなら賛成です」
マシュが強く頷く。
「特にルシファーさんは、十分な休息が必要です」
「私を基準に話すな」
「先ほど霊基が消えかけていました」
「消えてはいない」
「ドクターへ報告します」
「卑怯だぞ」
「安全管理です」
立香とジャンヌは顔を見合わせ、思わず笑った。
ルシファーは、ますます不機嫌そうな顔をする。
だが、少年から巻いてもらった布だけは、今も右手に残されていた。
朝日は少しずつ高くなっていく。
その先にあるのは、竜の森。
無数の飛竜を生み出す巣。
そして、再び敵として現れるであろう狩人。
黒き聖女の支配は、確実に立香たちの行く手を狭めていた。
それでも仲間は増えた。
ジャンヌ。
マリー。
デオン。
そして、面倒だと口にしながら誰よりも前へ立つ堕天使。
立香は袋の中の木彫りの鳥を握る。
村へ帰るという約束。
それを果たすためにも、止まることはできない。
遠く。
深い森の奥から、低い竜の咆哮が響いた。
まるで、これから訪れる者たちを待ち受けているかのように。