東方天命録~The Final Shape Begins~ 作:はならむ
霧の湖を覆っていた青白い雷光が、ようやく消えていった。
庭園や湖上に浮かんでいたステイシス結晶を飛び移りながら猛威を振るっていたアークの網は、一本、また一本と途切れ、最後に残った電流も湖面を蛇のように走った末に消失した。
しかし、誰一人として安堵する者はいなかった。
勝ったから攻撃が止まったのではない。ただ、アラークハルが放った一度目の大技が終わっただけなのだ。
荒れ果てた庭園には、耳が痛くなるほどの静寂が落ちていた。聞こえるのは、崩れた紅魔館の一部から瓦礫がぱらぱらと落ちる音と、そこかしこに倒れた者達の荒い呼吸だけだった。
「ぐぅ………っ」
霊夢は砕けた石畳へ片手をつき、辛うじて上半身を起こしていた。先ほどまでの戦闘で負っていた傷に加え、背中へアークの直撃を受けたことで全身に痺れが残っている。御札を握ろうとしても指先には十分な力が入らず、一枚を拾い上げるだけでも腕が震えた。
「シャレになんねえんぞこれ……っ」
魔理沙も似たような状態だった。箒は地面へ転がり、八卦炉も数メートル離れた場所へ弾き飛ばされている。何とか手を伸ばそうとはするものの、身体を動かすたびに痛みが走り、すぐに顔を歪めてしまう。
レミリアとフランドールも湖岸へ叩き落とされたまま、ようやく身体を起こし始めたところだった。咲夜は左腕の感覚がほとんど戻っておらず、美鈴に支えられている。その美鈴も右腕をまともに握り込むことができない。
パチュリーは小悪魔に肩を貸されながら、苦しげに呼吸を整えていた。魔力を使い果たしかけたうえにアークの直撃まで受けたことで、今すぐ大規模な魔法を放つのは難しい。
チルノ、大妖精、ルーミア、そして妖精メイド達に至っては、すでに戦線を維持すること自体が不可能に近かった。翼を焼かれた者、痺れで飛べなくなった者、意識を失った仲間を抱きかかえている者。少し前まで勇敢にハイヴの増援へ立ち向かっていた妖精達の多くが、今は立っていることさえ難しくなっている。
そして、異世界から来た戦士達も例外ではない。
ケイドの胸部装甲は黒く焦げ、首元からは時折小さな火花が散っていた。ゴーストを失っている彼にとって、受けた損傷はその場で簡単に帳消しにできるものではない。
クロウのシールドも完全には戻っておらず、イコラも片膝をついた状態からようやく顔を上げたところだった。
その中でも、ガーディアンの状態は決して軽くなかった。
「ガーディアン、ガーディアン!」
湖岸で片膝をつき、荒い呼吸を繰り返している。
アーマーの複数箇所には焼け焦げた痕が残り、先ほど三方向からアークをまともに受けたことでシールドは完全に消失していた。少し離れた場所には、手放したゼノファジが横倒しになっている。
ゴーストがその周囲を飛びながら、何度も状態を確認していた。
「シールドの再構築は始まっています。でも、まだ十分じゃありません。アーマーにもかなり損傷があります。今は無理をしないでください」
ガーディアンは答えなかった。
ただ、ゆっくりと顔を上げる。
視線の先では、湖面に白いものが一つ浮かび上がっていた。
魚だった。
腹を上へ向けたまま、波に揺られている。
やがて、その少し離れた場所でも一匹が浮かび上がり、さらにその向こうでも、また一匹と続いていく。先ほど湖全体を駆け抜けたアークは水中にいた生き物にまで届き、感電した魚達を次々と死なせていた。
「…………」
チルノが、呆然とその光景を見つめていた。
ここは彼女が毎日のように遊んできた湖だった。大妖精と飛び回り、妖精達と騒ぎ、時には一面を凍らせて遊んできた場所である。
その湖面に、今は無数の魚が白い腹を見せて浮かんでいる。
「あたいの……湖……」
……掠れた声が漏れた。
怒りも、悔しさもあった。
それでも今の身体では、拳を握りしめることしかできなかった。
だがその時。
――バチッ。
小さな放電音が、静まり返った湖へ響いた。
「……?」
クロウが顔を上げると湖中央の巨大なステイシスの足場に立つアラークハルが、再び大斧を持ち上げていた。
「……まさか」
イコラの表情が変わる。アラークハルは全身に深い傷を負っている。胸部装甲は大きく砕け、肩にも腕にもレミリアやフランドール達が刻んだ損傷が残っていた。本来ならば、あと一撃を加えれば倒れてもおかしくない状態である。
だが、その身体を包む異質な多色の揺らぎだけは、未だ健在だった。
こちらの攻撃が触れる前に無効化される、理不尽なパラコーザルの防護層。
その加護に守られたまま、アラークハルの斧へ再びアークエネルギーが集まり始めている。
――バチバチバチッ!!
刃を這う雷光が、一気に強くなった。
ゴーストが反射的に走査を始める。
「アーク反応、再上昇しています!」
その一言だけで、周囲の空気が凍りついた。
先ほどまで沈黙していたステイシス結晶が、再び一つずつ青白い光を帯び始める。
湖上に浮かぶ結晶。
岸辺へ突き刺さった破片。
そして、アラークハルが先ほど自ら粉砕した巨大なステイシスの壁、その残骸までもが再び反射点として目覚めつつあった。
「……また、あれをやるつもりなの?」
咲夜が低く呟いた。
誰も答えなかった。
答える必要がなかった。
全員が同じものを見ている。
先ほど自分達を壊滅寸前まで追い込んだ攻撃が、もう一度始まろうとしている。
「動ける者は負傷者を支えて!」
イコラがすぐに指示を飛ばした。
「少しでも距離を取るのよ!」
美鈴が咲夜を支え直し、小悪魔もパチュリーの腕を肩へ回す。レミリアはフランドールへ手を伸ばし、まだ飛べる妖精メイド達も倒れている仲間を助け起こそうとした。
しかし、誰もが理解していた。
どこへ逃げればいいのか。先ほどの乱反射は、湖だけではなく、庭園も、紅魔館の周辺も、ほとんどすべてを覆ったのだ。
「充填率、三十パーセント!」
ゴーストが告げる。霊夢が顔を上げた。
「え?どういうこと……!」
「おそらく攻撃するためにアークエネルギーの再チャージが始まっています!」
「なんですって!?」
間を置かず、再び声が飛ぶ。
「四十パーセント!」
先ほどより明らかに速い。アラークハルの大斧を包む雷光が、見る間に巨大になっていく。クロウは歯を食いしばり、地面へ落ちたホークムーンへ手を伸ばした。
しかし、今の状態ではすぐに立ち上がることすら難しい。
「く、そ………っ」
ケイドも切り札を握り直そうとするが、腕が僅かに震えていた。
「五十パーセント!」
魔理沙が八卦炉へ手を伸ばす。
ようやく指先が届いた。
「くそっ……!」
霊夢も落とした御札を拾い上げようとするが、痺れの残った指から紙が滑り落ちた。
「あいつにあたし達の攻撃が一切通じないのに一体どうすれば……っ!」
目の前に敵がいる。
なのに身体が動かない。
その光景を、ガーディアンも見ていた。
片膝をついたまま、湖中央のアラークハルを見据える。
攻撃は通らない。だが、向こうの攻撃だけはこちらへ届く。
ゼノファジを撃っても無意味だった。
自分が扱えるどの属性の力を選んだところで、あの不可解な守りを正面から破れる保証はない。
「六十パーセント!」
ゴーストの声が響く。ガーディアンは右手をゆっくりと開いたが何も起きない。
一度拳を握り、もう一度開く。
それでも、何も現れなかった。
「……ガーディアン?」
ゴーストが不安そうに相棒を見る。
ガーディアンは、自分の掌を見つめていた。
博麗神社での戦いが脳裏を過る。
あの時も同じだった。
ドレッドが不可解な力に守られ、こちらの攻撃が届かなくなった。
そしてすべてが終わると思った瞬間。光と暗黒が、自分の中で初めて一つになった謎の力『プリズム』。
けれど、あの時は意識して呼び出したわけではない。
どうやって発動したのか、何をきっかけに応えたのか。
自分自身にも完全には分かっていなかった。
あれは単なる奇跡だったのか――。
「七十パーセント!」
アラークハルの周囲で、浮遊する結晶が配置を整えていく。
庭園に残されたステイシスの破片も、一つずつ青白く輝き始めた。
あの雷撃網がもう一度完成しようとしている。
ガーディアンは拳を強く握ったが何も応えない。
光も。
暗黒も。
あの時の多色の輝きも現れない。
ほんの僅かに、ガーディアンの肩が落ちた。
ゴーストはその姿を見ながら、何も言えなかった。
「八十パーセント!」
大妖精を抱えている妖精メイドが、震える声で呟いた。
「ま……また来るの?」
隣にいた妖精も、倒れた仲間の身体を強く抱きしめる。
「もう……無理だよ……」
その言葉を責める者はいなかった。
レミリアも、咲夜も、パチュリーも、そして霊夢も、魔理沙も全員が理解していたからだ。
一度目は、辛うじて生き残った。
だが二度目まで耐えられる保証など、どこにもない。
「九十パーセント!」
ゴーストが叫んだ。アラークハルが大斧をさらに高く掲げる。
刃を包む雷光は、もはや武器に纏わせるという規模を越え、一つの巨大な雷柱のようになっていた。
周囲のステイシス結晶へも細いアークが伸び始める。
もう時間がないガーディアンは、その光景をただ見つめた。
撃てない。
守れない。
逃げられない。
今の仲間達に、もう一度あの攻撃を受ける余力はない。
自分自身も同じだった。
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
彼の中を、ある言葉が過った。
万事休す。
何度も死地を越えた。
神を倒した。
王を倒した。
世界を救った。
それでも何をしても届かない瞬間は、確かに存在する。
今がその瞬間なのか。
「…………………………」
ガーディアンは兜越しでゆっくりと目を閉じた――その時だった。
――トクン。
胸の奥で何かが脈打った。
「……?」
ガーディアンの目が開く。
もう一度。
――トクン。
ずっと身体の中にあった二つの力が。
動いた。
トラベラーから受け取った光。
そして、自らの意思で掴み取ってきた暗黒。
長い間、互いに異なるものとして扱ってきた二つが、今、ゆっくりと境界を失い始めている。
「……待ってください」
ゴーストが突然、中央眼を大きく開いた。
ガーディアンの足元に。
一粒の光が浮かぶ。
白。
続いて紫。
青。
橙。
異なる色彩の小さな粒子が、傷ついたアーマーの周囲へ一つずつ集まり始めた。最初に気づいたのは霊夢だった。
「……あれっ」
魔理沙も顔を上げる。そして、目を見開いた。
「おい……!」
クロウの表情が変わる。ケイドも痛む胸部を押さえながら、僅かに口元を上げた。
「……相棒、お前が俺のお気に入りの理由が今なら分かるぜ」
ゴーストの声にも、先ほどまで失われていたものが戻った。それは希望だった。
「プリズム反応……!」
「プリズム……?」
「神社で……ドレッドと交戦した際にガーディアンから発現した光と暗黒が調和した強力な現象です。名前は便宜的につけただけですが……」
イコラがガーディアンを見る。彼女自身は博麗神社でその瞬間を目撃していない。
霊夢。
魔理沙。
クロウ。
ケイド。
そしてゴーストは知っている。
敗北寸前だった博麗神社でこの光が現れてから形勢は逆転した。
「……そうよ」
霊夢が息を呑む。
「あの時も、これだったわ」
魔理沙の口元にも、ほんの僅かな笑みが戻る。
「まだ、私達に希望があるってことか……!」
ガーディアンはゆっくりと立ち上がった。
傷が治ったわけではない。
焦げたアーマーもそのまま。
シールドもまだ完全には戻っていない。
それでも、身体の内側では光と暗黒が再び完全に重なり始めていた。
白い輝きと深い暗黒が互いを打ち消すのではなく、むしろ足りない部分を補うように溶け合っていく。
そして――境界が消えた。
――バァァァァァン!!
鮮やかな色彩を纏うその力が、一気にガーディアンの全身から溢れ出した。
衝撃波が湖岸を走り、周囲を漂っていた霧と水蒸気を押し退ける。
白。
青。
紫。
橙。
幾つもの色彩がガーディアンを中心に渦を巻き、夜とも昼ともつかない幻想的な光で荒れ果てた戦場を照らした。
――プリズム発動。
再びその力が、完全に目覚めた。
「なに、あれ…………」
レミリアが目を見開く。咲夜も、美鈴も、パチュリーも、フランドールも。
「キレイ……」
紅魔館の面々にとっては初めて目にする現象だった。
だがガーディアンはそこで止まらない。
ゆっくりと両腕を正面へ伸ばす。そして、勢いよく胸の前で交差させた。
――ズンッ!!
今度の衝撃は、外へ広がるものではなかった。
周囲へ溢れていた多色の力が、逆にガーディアン自身へ一気に収束する。
光。
暗黒。
双方の力が、身体の内側でこれまで以上に深く噛み合った。
――プリズム強化形態【トランセンデンス】。
瞬間、ガーディアンを包む多色の輝きが、さらに一段強く燃え上がった。
「身体に虹色のオーラを纏った……?」
傷や疲労そのものが消えたわけではない。
だが、それらを押し切るほどの力が身体の奥から湧き上がってくる。
湖中央――アラークハルのアーク充填が、九十五パーセントを越えた。
「ガーディアン!」
ゴーストが叫ぶ――そして。
――ウォーロック、ステイシスSC【冬の怒り】!!
その瞬間、ガーディアンの身体を中心に青白い冷気が猛烈な勢いで集まり始めた。
――ステイシス。
ただの氷ではない。運動そのものを停止へ追いやる、暗黒の力。
濃密なステイシスが手の中で形を変え、瞬く間に一本の長大な杖、『ステイシス・ポール』を形成した。
「杖!?」
霊夢が目を瞬かせた。魔理沙も、思わずぽかんと口を開く。
「あいつ、あんなのも使えるのか!」
紅魔館の者達も同じだった。つい先ほどまで巨大なゼノファジを担いで弾丸を叩き込み、地面を滑り、空中を飛び回っていた男である。どう見ても異世界から来た兵士だったはずの彼が、今は鮮やかな多色の光を全身に纏い、青白く輝く長杖を手にしている。
「……魔法使い?」
パチュリーですら、すぐには否定できなかった。
「……見た目だけなら、完全にそうね」
その瞬間、ガーディアンが地面を蹴った。
――ドンッ!!
多色の残光を引きながら一気に空へ舞い上がり、そのままグライドで湖中央のアラークハルへ一直線に距離を詰めていく。
「行った!」
美鈴が思わず声を上げた。
アラークハルも反応した。
大斧を振り下ろそうとする。
だが、その刃が動き出すよりも早く。
ガーディアンは進路を大きく右へ変えた。
真正面から突っ込まない。
湖上を滑るような軌道で大きな弧を描き、アラークハルの右側面へ回り込み飛行したままステイシスの杖を片手で突き出すと、その先端へ青白い力が一気に凝縮されていった。
「…………!」
人の頭ほどの大きさまで膨れ上がったそれは、なおも密度を増し、巨大なステイシスの塊へと変わっていく。
「撃ちます!」
ゴーストが叫んだ。
――ドォン!!
第一射。砲弾のように撃ち出されたステイシスの塊がアラークハルの右肩へ真正面から叩き込まれた。
その身体を覆っていた多色のパラコーザルシールドが、激しく波打つ。
今までは何を撃っても届かなかった。
だが今回は違った。
ステイシスが、シールド表面へ食い込んでいる。
「……!」
霊夢が目を見開く。
「止まってない……!」
ガーディアン自身も、それを確認していた。
だから止まらない。
右肩へ一撃を入れた直後には、すでにアラークハルの頭上を越えていた。
巨体の背後へ回り込み、杖を再び突き出す。
――ドォン!!
第二射。背中へ命中した。
砕けた装甲の表面へ青白い結晶が一気に広がる。
アラークハルが大斧を振り回す。
猛烈な風圧を伴った刃が空を薙ぐ。
しかし、そこにガーディアンはいない。
攻撃が来るより早く高度を上げ、今度は左上空へ回り込んでいた。
そして杖の先端をアラークハルへ突き出した。
――バキィン!!
第三射。左腕へステイシスが叩き込まれる。
アラークハルが空いた右手を向けると、掌へ青白いアークが集まり、即座に撃ち出された。
だが、ガーディアンはそれよりも早く湖面すれすれまで急降下した。その全身を包む多色の光が、水面へ鮮やかに映り込む。
アーク弾が頭上を通過した。
そのまま湖面を掠めるように前へ出ると、今度は一気に高度を上げてアラークハルの真正面に飛び出した。その勢いのまま力強く杖を突き出す。
――ドォォン!!
第四射。胸部へ直撃。
すでに何度も破壊されている装甲の上へ、さらにステイシスが食い込んでいく。
同時に、全ての攻撃を遮断していた多色のパラコーザルシールドがこれまでで最も大きく歪んだ。
「うそっ……効いてる。今まで何をしても弾かれていたのに……」
咲夜が思わず呟く。
「間違いありません。今までの攻撃と違って、シールドに直接作用しています!」
ゴーストは確信した。そして、ガーディアンはさらにアラークハルの周囲を旋回した。
右。
左。
上空。
背後。
まるで巨大な獲物を翻弄するように位置を変えながら、杖の先から次々とステイシスを撃ち込んでいく。
第五射が右脚を捉えた。青白い結晶が関節へ絡みつき、アラークハルの足取りが僅かに鈍る。
第六射は肩から首へ叩き込まれた。アラークハルが振るう斧の速度が、目に見えて落ちた。
「凍っていってる……」
チルノが呟く。
彼女の扱う氷とは違う。
それでも動きを奪っている。
それだけは誰よりもよく分かった。
そしてガーディアンは再び高度を上げた。
アラークハルの斜め上。
そこから長大な杖を真正面へ突き出す。
青白い力が、再び先端へ集まっていく。
「………………!」
つい数十秒前までアラークハルは彼らにとって絶望そのものだった。その不可解な防護を突破することはできず、ただ一度斧を振るうだけで戦場そのものを壊滅へ追い込む怪物だった。
だが今、その巨体は空を舞う一人のウォーロックを追うことさえできず、四方八方から浴びせられるステイシスによって、少しずつ動きを奪われていた。
そして初めて、アラークハルがガーディアンを見上げる。
先ほどまで見下ろしていたはずの獲物を。
今度は、自らが見上げていた。