東方天命録~The Final Shape Begins~ 作:はならむ
ガーディアンは、再び高度を上げた。
眼下では、アラークハルが巨大なステイシスの足場に立ち、残された力を振り絞るように大斧を掲げている。その刃へ集まるアークエネルギーは、すでに一度目の乱反射を放った時とほとんど変わらない規模にまで膨れ上がっていた。
湖面に浮かぶステイシス結晶にも再び細い電流が走り始め、庭園や湖岸に散乱した破片までもが青白く明滅している。
もう一度、あれを撃たれれば終わる。
それは、その場にいる誰の目にも明らかだった。
「アーク充填、九十八パーセント!」
ゴーストの叫びが戦場へ響き渡る。
だが、その声を聞きながらも、ガーディアンは焦らなかった。
トランセンデンスによって全身を包む多色の輝きは、先ほどよりもさらに激しく燃え上がっている。光と暗黒。そのどちらか一方へ偏るのではなく、相反する二つの力が互いを補うように身体の内側で完全に噛み合い、一つの大きな奔流となって巡っていた。
その右手には、【冬の怒り】によって形成された長大なステイシス・ポール。
ガーディアンはそれを両手で構えると、杖の先端を真正面からアラークハルへ向けた。
途端に、周囲の空気が急速に冷え始める。
戦場を漂っていた霧が凍りつき、無数の細かな氷晶へと変わっていく。湖上を漂っていた水蒸気さえ白く凝結し、青白い粒子となって杖の先端へ吸い寄せられていった。
そこへ集まっていくステイシスの密度は、これまでとは明らかに違う。
一射。
二射。
三射。
先ほどまで撃ち込んできたすべての力を束ね、さらに圧縮するかのように、杖の先へ巨大な青白い塊が形成されていく。
「ガーディアン!」
ゴーストの叫びに応えるように、ガーディアンは杖を高く掲げた。
杖頭に凝縮されていたステイシスがさらに圧縮され、青白い光が眩いほどに膨れ上がる。
その一方で、湖上のアラークハルにも明確な変化が現れていた。
ゴーストの走査光が巨体をなぞる。
ステイシスに覆われた装甲には無数の亀裂が走り、凍結した関節から結晶片がぼろぼろと零れ落ちていた。
それでもアラークハルは止まらない。
「グォォォォォォォォッ!!」
咆哮とともに、アラークハルは最後の一撃を放とうと斧を振り下ろす。
だが――遅かった。
ガーディアンは両手でステイシス・ポールを振り抜いた。
――ドォォォォォォォォンッ!!
空気そのものが爆ぜた。
杖の先端から撃ち出されたものは、もはや単なるステイシスの塊ではなかった。
それは、青白い光の奔流だった。
圧縮された暗黒の力そのものが砲弾のような速度で一直線に空間を突き抜け、アラークハルへ迫っていく。
怪物も咄嗟に大斧を盾代わりに構えようとした。
しかし、それよりも早く。
ステイシスの奔流は、アラークハルの頭部へ真正面から激突した。
――バギィィィィィィンッ!!
耳をつんざくような破砕音が戦場へ響き渡る。
その瞬間、その場にいた誰もが直感的に理解した。
今までとは違う。
「……!」
霊夢が息を呑んだ。
魔理沙も地面へ片膝をついたまま顔を上げ、目を見開く。
アラークハルの全身を覆っていた多色のパラコーザルシールドが、今までとは比較にならないほど激しく波打っていた。
これまでは、どれほど攻撃を浴びても表面が僅かに揺らぐ程度だった。夢想封印も、魔法も、銃弾も、ソーラーも、ボイドも、その異常な守りの前では決定打にならなかった。
だが、今は違う。
白。
紫。
青。
橙。
いくつもの色彩が乱れ、まるで互いに衝突し合うように激しく明滅している。
そして。
――パキッ。
小さな音がした。
右肩。
シールドの表面に、一本の亀裂が走る。
「……割れた?」
咲夜が思わず呟いた。
次いで胸部。左腕。頭部。そして脚部。
――パキ、パキパキパキッ!!
無数の亀裂が瞬く間に全身へ広がっていく。
アラークハルが苦しげに身を捩った。
「グ……ォォ……!」
初めてだった。あの怪物が、自らを覆う守りの崩壊に明確な動揺を見せたのは。
――バァァァァァン!!
アラークハルの全身を覆っていた多色の光が、一斉に砕け散った。
まるで巨大なガラスを粉々に打ち砕いたかのように、無数の光片が周囲へ飛び散る。それらは湖面へ落ちるより先に淡い粒子となって消えていった。
「やった……!」
大妖精が思わず声を漏らす。
だが、変化はそれだけではなかった。
「…………………!」
ガーディアンが再び杖を高く掲げる。
頭部へ直撃したステイシスは、その動きに呼応するようにアラークハルの兜全体へと広がっていった。
重厚な黒い金属装甲を青白い結晶が覆い、隙間から内側へ食い込み、まるで構造そのものを内側から押し広げるように侵食していく。そして。
――ガシャァァァァァン!!
ステイシスの結晶が弾け飛ぶ凄まじい衝撃波と共に兜が砕けた。
巨大な金属片が回転しながら空中へ舞い上がり、いくつも湖へ落下する。
その下から、これまで分厚い装甲に覆い隠されていたアラークハルの素顔が露わになった。
「……うわ」
魔理沙が思わず顔をしかめる。
「何だよ……あれ……」
霊夢も、一瞬言葉を失った。
そこにあったのは、人間はもちろん、通常のハイヴと比べても明らかに異様な顔だった。
頭部そのものが不自然なほど肥大している。灰色がかった皮膚は幾重にも盛り上がり、内側から骨格を押し広げられたように歪んでいた。眼窩周辺の肉は異常に膨れ、その中央には、先ほどまで戦っていたオーガを思わせる巨大な発光器官が埋め込まれている。
「……さっきのデカいやつみたい」
チルノがぽつりと呟く。
その形容は、妙に的を射ていた。分厚い兜によって隠されていたその頭部は、もはや騎士というより、何か別の巨大な怪物へ変質しかけた存在を思わせた。
「グ……ォォォォ……!」
アラークハルが頭を押さえる。
その声には、初めて明確な苦痛が混じっていた。
先ほどまでは、どれほど攻撃を受けても怒りと威圧しか見せなかった怪物が、今は確かに苦しんでいる。
ステイシスが露出した皮膚へ直接食い込み、頬から首へ、さらに胸部へと結晶化を広げていく。
「グォォォォォォォォォォッ!!」
絶叫。アラークハルは怒りに任せて大斧を湖面へ叩きつけた。
――ドォン!!
巨大な水柱が上がり、砕けたステイシス結晶が辺りへ飛散する。
しかし、その一撃にはもう、先ほどまでの圧倒的な勢いがなかった。
ゴーストがすぐさま走査を開始する。
青白い光がアラークハルの巨体を頭から足元まで通過していく。
一秒。
二秒。
そして。
「パラコーザル反応、急速に低下!」
ゴーストの中央眼が大きく見開かれる。
もう一度、走査光が怪物の全身を舐めるように通過する。
「……消失しました!」
その言葉に、周囲の全員が顔を上げた。
「アラークハルのパラコーザルシールドが完全に破壊されました!今なら攻撃が通ります!」
その一言で、戦場の空気が変わった。同時にガーディアンのトランセンデンス状態が解除されて、ドレッドとの戦いのように力を使い果たすとヨロヨロと地上へ降り、膝をつく。
「ガーディアン、大丈夫ですか!」
息を荒くする彼は深く深呼吸して、整えたあと。
「…………心配ない」
と、ゴーストに無事を伝える。
「無理をしないでください、あなたに何かあったら私は……」
ゴーストから気をかけられる彼は頷いた。
「イコラ!後は頼みます!」
「……聞いたわね」
イコラが、ゆっくりと立ち上がる。
片膝をついていた身体を、痛みに耐えながら起こしていく。全身のアーマーは傷つき、呼吸も荒い。それでも、その瞳にはもう迷いがなかった。
「イコラ」
クロウが横目を向ける。
「まだやるのか?」
「……このチャンスを逃す手はないわ!」
イコラは右手を開いた。
その掌に、小さな紫色の光が生まれる。
光は瞬く間に膨れ上がり、周囲の空気そのものを吸い寄せるような濃密なボイドエネルギーへ変わっていった。
その横で、ケイドも膝へ手をつきながら立ち上がる。
胸部装甲は黒く焼け焦げ、首元からは時折小さな火花が散っていた。
今の彼には、ゴーストがいない。
ここでさらに大きな損傷を受ければ、次はない。
それでも、ケイドは腰のホルスターから切り札を抜いた。
「ケイド」
クロウが眉を寄せる。
「無茶するな」
「それ、お前にだけは言われたくないな」
「……」
「大丈夫だ」
ケイドは切り札のシリンダーを回転させながら、いつものように口の端を吊り上げた。
「外さなきゃいい」
クロウは一瞬だけ顔をしかめたものの、それ以上は何も言わなかった。
自分も、同じだからだ。
彼はホークムーンを地面へ置き、両腕を広げた。
すると黄金色のソーラーエネルギーが両手へ集まり、それぞれが無数の灼熱のナイフへ形を変えていく。
「俺も行く」
「ええ」
湖の中央では、アラークハルがなおも立っていた。
パラコーザルシールドを失い、兜も砕かれ、全身の装甲には無数の損傷が走っている。それでもなお、強大なハイヴ・ナイトとしての執念だけで戦おうとしていた。
「グォォォォォォォォ!!」
大斧を振り上げる。だが、今度はこちらの方が早い。
「アラークハル!」
イコラが叫んだ。怪物が顔を向けたその瞬間、彼女は右腕を大きく振り抜いた。
――ウォーロック、ボイドSC【ノヴァボム:ボルテックス】
巨大な紫色の球体が、彗星のように湖上を走る。
アラークハルは大斧を盾にしようとする。
だが、今度は消えない。
弾かれもしない。
ノヴァボムは真正面から胸部へ激突した。
――ドォォォォォォォォン!!
紫色の爆発がアラークハルの上半身を完全に飲み込む。
空間そのものが僅かに捩れたように見えた。
胸部装甲が大きく陥没し、ついには何枚もの装甲板が耐えきれず一気に剥がれ落ちていく。
「グォォォォォッ!!」
アラークハルの巨体が大きく仰け反った。
「クロウ!」
「任せろ!」
クロウが地面を蹴り、空高くジャンプすると残っている力をすべて燃やすかのように、ソーラーの炎が全身を包む。両腕を大きく広げた瞬間、その背後へ黄金色のナイフが翼のように無数に展開された。
――ハンター、ソーラーSC【刃の雨】!!
クロウが横回転しながら両腕を一気に振り下ろす。
「ここはお前のいるべき場所じゃない!」
無数の灼熱の刃が、黄金の雨となって降り注いだ。
右肩。
左肩。
胸部。
腹部。
脚。
次々と刃が突き刺さり、直後、一斉に爆発した。
炎がアラークハルの全身を包み、残されていた装甲が次々と吹き飛ばされて湖面へ落ちていく。
「グオォォォォォォォォッ!!」
苦悶の声とともに、アラークハルが腕を振り回す。
だが、その動きにはもう以前のような速度も力もない。
そこへ、乾いた銃声が響いた。
――ドン!
右肩。
――ズドォ!
左肩。
――ドォン!
胸部。
ケイドはステイシスの結晶を足場にして華麗にハンターお得意の二段ジャンプをしなからアラークハルに接近し、切り札で射撃する。
放たれたその弾丸は、一発撃たれるたび正確に装甲の亀裂へ吸い込まれていく。
「おいおい」
――ズドン!
「さっきまでの」
――ドンッ!
「威勢はどうした?」
そして最後。
――ズドォン!!
胸部中央へ、弾丸が深く食い込んだ。ケイドは切り札を下げると、反対の手で胸元のホルダーから一本のナイフを取り出した。
「また地獄に送り返してやんぜ。黒剣――いや、光の刃さんよ!」
刀身へソーラーの炎が走る。
「これはサービスだ!」
腕を振り抜く。
近接爆破ナイフ。
炎を纏った刃は回転しながら飛び、アラークハルの胸部へ深々と突き刺さった。一拍。
――ピッ。
ケイドがニヒルに笑う。
「釣りはいらねえ、取っとけ!」
――ドォン!!
爆発。ついに胸部を覆っていた最後の重装甲が大きく吹き飛んだ。
巨大な金属板が回転しながら湖へ落下する。
肩当て。
胸甲。
腰部。
そして、すでに砕け落ちた兜。
あれほど重厚だった装甲は、もうほとんど残っていなかった。
露出した異形の肉体はボイドによって抉られ、ソーラーに焼かれ、ステイシスに侵食されている。
それでも、アラークハルは立っていた。
だが、もはやそこにいたのは先ほどまでの絶対的な怪物ではない。
最後の意地だけで巨体を支えている、満身創痍の騎士だった。
「……はぁ……っ」
クロウは着地と同時に膝をついた。
イコラも肩で息をし、ケイドも胸部を押さえながら切り札を下ろす。
三人とも、もう大技を放つ余力は残っていない。
だが、それでよかった。
イコラは振り返った。
そこには、霊夢、魔理沙、チルノ、大妖精、ルーミア。そしてレミリア、フランドール、咲夜、美鈴、パチュリー、小悪魔。さらに、まだ動ける妖精メイド達がいる。
皆、傷だらけだった。
それでもなお、立っている。
「……今よ!」
霊夢が顔を上げた。
「みんな」
イコラは荒れ果てた庭園を一度見渡してから、静かに言った。
「トリは任せたわ」
霊夢が僅かに目を見開く。
「……私達に?」
「ええ」
イコラの視線が、紅魔館、霧の湖、抉れた石畳、燃えた芝生、倒れた妖精達へと移っていく。そのすべてを背負うように、彼女は言った。
「ここは、あなた達の世界でしょう?」
一瞬、静寂が落ちた。やがて霊夢がほんの僅かに笑う。
「……言われなくても、そのつもりよ」
震える腕を持ち上げ、御札を握る。
魔理沙も地面へ落ちていた八卦炉を拾い上げた。
「まったくだぜ」
帽子を被り直しながら、疲れ切った顔に笑みを浮かべる。
「ここまで好き放題やられて、タダで終わらせるわけにいかねえ」
「それ、私の館なんだけど」
レミリアがよろめきながら立ち上がった。
「だから家主が一番怒れよ」
「言われなくても分かっているわ」
レミリアの紅い瞳が再び強く輝く。
「紅魔館をここまで壊した代償は、きっちり払わせる」
「私も!」
フランドールもレーヴァテインを握り直した。
「お姉様だけじゃずるいもの!」
咲夜は左腕を押さえながら、右手の指の間へ銀のナイフを挟む。
「お嬢様、フラン様。最後までお供いたします」
美鈴も負傷した右腕を左手で支えながら構えた。
「門番として、ここだけは譲れません」
その傍らで、パチュリーは小悪魔の肩からゆっくり身体を離した。
「パチュリー様!?」
「大丈夫」
「全然大丈夫に見えません!」
「……あと一回くらいなら撃てるわ」
開かれた魔導書の周囲へ、僅かに残った魔力が集まり始める。
そして、チルノ。
彼女はしばらく黙ったまま湖を見つめていた。
白い腹を見せて浮かぶ魚。
焼けた湖岸。
倒れた妖精達。
泣いている者。
怪我をして動けない者。
そのすべてを、自分の目へ焼き付ける。
「あたいは……」
小さな拳が強く握り締められた。
冷気が、ゆっくりと身体の周囲へ集まり始める。
「あたいは絶対に!」
傷ついた氷の翼を大きく広げる。
青白い光が膨れ上がる。
「これ以上、あたい達の湖をめちゃくちゃにさせるもんかぁぁぁぁぁ!!」
「チルノちゃん!」
大妖精も立ち上がった。
身体はふらついている。
それでも、チルノの隣へ並ぶ。
「私も!」
「わたしもなのかー!」
ルーミアの周囲へ漆黒の闇が広がっていく。
妖精メイド達も、一人、また一人と立ち上がった。
翼が焼けていても。
服が破れていても。
顔が煤だらけでも。
それぞれが残された魔力を集め、手の中に光を作っていく。
アラークハルは、その光景を見ていた。
倒れたはずの者達。
傷ついた者達。
もう戦えないはずだった者達。
それでもなお、再び立ち上がっている。
霊夢がゆっくりと宙へ浮かび上がる。
周囲へ無数の御札が展開され、八方には巨大な光球が生まれる。
魔理沙の八卦炉へ莫大な魔力が集まり、レミリアの掌には深紅の力が凝縮されていく。
フランドールのレーヴァテインが灼熱の光を放ち、咲夜の周囲には無数のナイフが静かに浮かぶ。
美鈴の拳には極彩色の気。
パチュリーの周囲には火、水、木、金、土――五行の魔法陣。
チルノの周囲には巨大な氷塊。
大妖精と妖精メイド達の前には色とりどりの魔力弾。
そしてルーミアの身体を、底知れない漆黒の闇が包み込んでいく。
アラークハルは、最後の力で大斧を持ち上げた。
「グォォォォォォォォォォォォォッ!!」
その咆哮へ答えるように、霊夢が右手を振り下ろす。
「――一斉に行くわよ!!」
――霊符【夢想封印】。
八方から巨大な光球が飛ぶ。
「喰らいやがれぇぇぇぇぇぇ!!」
――恋符【マスタースパーク】。
極太の魔力奔流が湖面を削りながら一直線に走る。
「紅魔館を壊した代償――」
レミリアが深紅の槍、グングニルを振りかぶる。
「高くつくわよ!!」
槍が放たれる。
「ばいばーい!化け物さん!」
フランドールがレーヴァテインを振り抜いた。
同時に咲夜の銀のナイフが嵐のように降り注ぎ、美鈴の極彩色の気弾がその間隙を埋める。
「何者かは知らなかったけど、あたしの読書の邪魔をして無事に済むと思わないことよ!」
パチュリーの五行魔法が幾重にも重なり、異なる属性の奔流となってアラークハルへ殺到していく。
「いっけぇぇぇぇぇぇ!!」
チルノの氷。
大妖精の魔力弾。
妖精メイド達の弾幕。
ルーミアの闇。
すべての攻撃が、ただ一つの地点へ集中した。
アラークハルへ。
光。
炎。
氷。
闇。
魔力。
弾幕。
あまりにも多くの色彩が、同時に怪物を飲み込んだ。
夢想封印が胸部へ叩き込まれる。
マスタースパークが巨体を真正面から呑み込む。
レミリアの槍が肩を貫き、レーヴァテインの灼熱が露出した肉体を焼く。
無数のナイフが次々と突き刺さり、極彩色の気弾が炸裂する。
五行の魔法が身体を引き裂き、氷が脚を封じ、妖精達の魔力弾が雨のように降り注いだ。
――ドドドドドドドドドドドドドドッ!!
爆発。さらに爆発。
「我を斃したところで……」
光の奔流に呑まれながら、アラークハルが初めて明瞭な言葉を発した。
「――剣は倒れぬ」
湖の中央で、アラークハルの姿は完全に光の中へ消えた。
巨大な水柱が天高く立ち上がり、波が湖岸へ押し寄せる。紅魔館に残されていた窓が一斉に震え、今にも割れそうな音を立てる。
それでも、誰も攻撃を止めなかった。
最後の魔力が尽きるまで。
最後の一発を撃ち切るまで。
今度こそ、絶対に立ち上がらせないために。
やがて、一つ、また一つと光が消えていった。
マスタースパークが細くなり、夢想封印の光球が消滅する。五行の魔法も、妖精達の弾幕も、灼熱の炎も次第に途絶えていく。
最後まで残っていた爆煙も、風に流されていった。
「…………」
誰も、すぐには動かなかった。
霊夢は荒い呼吸を繰り返しながら、湖中央を見つめる。
そこに、アラークハルは立っていなかった。
巨大な大斧だけがステイシスの足場へ突き刺さっている。
その傍らで、怪物の巨体がゆっくりと前へ傾いた。
――ズゥゥゥゥン……。
重い音とともに、湖面が大きく揺れる。
倒れた。
今度こそ、もう動かない。
ゴーストがすぐさま走査を開始した。
青い光が亡骸を頭から足元まで通過する。
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
「……生命反応、消失しました」
誰も声を上げなかった。
まだ、信じ切れない。
ゴーストはもう一度確認するように亡骸を走査した後、今度ははっきりと告げた。
「アラークハル――撃破です」
ゴーストの声が響いた、その直後。
湖岸や紅魔館周辺に残っていたハイヴ達が、一斉に動きを止めた。
アコライトも、ナイトも、ウィザードも。 誰もこちらへ向かってこない。
ただ、湖上に倒れたアラークハルの亡骸を見つめていた。
「……………?」
やがて、一体のウィザードが残された力で空間を歪め、黒緑色の転移門を開く。
「まさか……逃げる気か?」
魔理沙が八卦炉を構え直す。
「追わないで」
イコラがすぐに制した。
「私達も限界よ。ここで深追いする必要はないわ」
霊夢達が警戒する中、生き残ったハイヴ達は次々と転移門へ消えていく。
最後に残った一体のナイトが、アラークハルへ僅かに視線を向けた後、その姿も暗闇の向こうへ消えた。
転移門が閉じる。
ゴーストがすぐさま周囲を走査した。
「……紅魔館周辺、霧の湖一帯。活動中のハイヴ反応はありません」
そして、改めて告げる。
「敵勢力――撤退を確認しました」
その言葉で。今度こそ、長かった戦いが終わった。
「……これで終わった?」
大妖精が恐る恐る呟く。
「はい」
ゴーストが頷く。
「終わりました」
「ほんとに?」
チルノが聞く。
「本当にです」
その瞬間、チルノの肩から一気に力が抜けた。
その場へぺたりと座り込む。
「あたい達……」
荒れ果てた湖を見る。
「勝ったんだ」
大妖精の目に涙が溜まる。
「チルノちゃん!」
そのまま勢いよく抱きついた。
「うわっ!?」
チルノは驚いたものの、すぐに小さく笑った。
「へへ……」
妖精メイド達も、互いの顔を見合わせている。
「……勝った?」
「勝った……よね?」
「終わった……?」
そして、誰かが小さく呟いた。
「やった……」
その言葉をきっかけに、歓声が一気に広がった。
「やったぁぁぁぁ!!」
「勝ったよ!」
「終わったぁ!」
抱き合う者。
泣く者。
笑う者。
安心したようにその場へ座り込む者。
倒れている仲間のもとへ駆け寄って、
「終わったよ!」
「もう大丈夫だよ!」
「勝ったんだよ!」
と、何度も声をかける者。
荒れ果てた庭園に、ようやく戦い以外の声が戻ってきた。
「はぁぁぁぁ……」
魔理沙はその場へ仰向けに倒れ込んだ。
帽子が頭から外れ、そのまま地面へ転がる。
「もう無理だぜ……。一歩も動きたくねえ」
「さっきまで八卦炉振り回してた奴が何言ってんのよ」
霊夢も力が抜けたようにその場へ腰を下ろした。
だが、その顔には僅かな笑みが浮かんでいる。
レミリアは、崩れた紅魔館を見上げていた。
壊れた屋根。
巨大な穴の開いた壁。
砕けた窓。
荒れ果てた庭園。
「……酷いわね」
「修復には相当時間がかかりそうです」
咲夜が疲れ切った声で答える。
「費用もね」
パチュリーがぼそりと付け加えた。
「それは今言わないで」
レミリアが額を押さえる。
その隣で、フランドールが紅魔館を眺めていた。
やがて、姉へ視線を向ける。
「でもさ」
「何?」
「みんな生きてるよ」
その言葉に、レミリアは一瞬何も答えなかった。
妹。
咲夜。
美鈴。
パチュリー。
小悪魔。
妖精メイド達。
皆、傷ついている。
倒れている者もいる。
それでも、ここにいる。
「……そうね」
レミリアはフランドールの頭へそっと手を置いた。
「建物なんて、直せばいいわ」
「お嬢様……」
咲夜の表情が、僅かに柔らかくなる。
霊夢はそんな光景を眺めながら、胸の奥に張り詰め続けていたものが、ようやく少しずつ解けていくのを感じていた。
――勝った、本当に勝ったのだ。
少しくらい、今だけは喜んでもいい。
そう思った――その時だった。
「……?」
霊夢は、ふと気づいた。
少し離れた場所にいるイコラ、クロウ、ケイド、ガーディアン、そしてゴースト。
誰も笑っていない。
ケイドですら勝利を祝う軽口を口にせず、切り札をホルスターへ戻したまま、ただ倒れたアラークハルを見つめている。
イコラも険しい表情を崩していない。
クロウも何かを考え込むように亡骸へ視線を向けている。
「ねえ」
霊夢が声をかけるとイコラが振り向く。
「あんた達……なんで喜ばないの?」
その言葉に、周囲で上がっていた歓声が少しずつ小さくなっていく。
魔理沙も身体を起こし、レミリア達もイコラへ目を向けた。
イコラはほんの僅かに目を伏せる。
「……素直には喜べないわ」
霊夢の笑みが消えた。
「これだけの奴を倒したのよ?」
「ええ」
「だったら――」
「でも」
イコラが静かに遮った。
「これは、始まりにすぎない」
「……え?」
魔理沙が身体を少し起こす。
「どういう意味だ?」
イコラは答える前に、湖上へ倒れた無数のハイヴへ視線を向けた。
スロール。
アコライト。
ナイト。
ウィザード。
シュリーカー。
オーガ。
そして、その中心に倒れるアラークハル。
「アラークハルがいたことと、何者かから力を得たのは予想外だった」
イコラはゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「でも、今日ここへ来たハイヴそのものは、全体から見れば先兵にすぎない。……いえ、先兵の先兵と言ってもいい」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「……これで?」
レミリアが尋ねる。
「この館を半壊させて?」
「私達を全滅寸前まで追い込んで?」
「ええ」
すべてを肯定され、レミリアの頬が僅かに引きつった。
「……冗談でしょう」
「冗談ならよかったんだけどな」
ケイドが小さく言う。
イコラは続けた。
「ハイヴは、まだまだいる」
「どれくらい?」
美鈴が恐る恐る尋ねる。
クロウは少し考えた後、静かに答えた。
「数で考えない方がいい」
「……え?」
「俺達も、全部でどれだけいるのかなんて把握していない」
幻想郷側の空気が、再び冷え込んでいく。
「把握してない?」
魔理沙が聞き返した。
「それだけ多いってことか?」
「そういうこと」
イコラが頷く。霊夢は額を押さえた。
「……ほんと勘弁してほしいわね」
「それに、まだある」
イコラが続ける、霊夢の手が止まる。
「どういうこと?」
「敵は、ハイヴだけじゃない」
霊夢は深く息を吐いた。
「ああ……それは前にも聞いたわ」
魔理沙も記憶を辿るように顔をしかめる。
「確か、フォールン、カバル、ベックス……だっけか。他にいたような気がするけど」
「よく覚えていたわね」
「名前だけな。詳しいことは全然分からん」
「今はそれでいい」
ケイドが言う。
「今は、って言い方が嫌なんだよ」
魔理沙がげんなりした顔で返した。だが、そこでクロウが再び倒れたアラークハルへ視線を向ける。
「……イコラ」
「ええ」
イコラも、その意味を理解したように僅かに頷いた。そのやり取りだけで、ケイドも察したらしい。
「……やっぱり、そこだよな」
霊夢が眉を寄せる。
「何?」
三人を順番に見る。
「さっきから何なのよ」
イコラはしばらく答えず、アラークハルの亡骸へ視線を戻した。
「彼、アラークハルがここにいることよ」
「あいつ?」
霊夢も湖を見る。
「それがどうしたの?」
「そもそも」
クロウが続ける。
「アラークハルは、こんな場所に偶然現れるような個体じゃない」
魔理沙が首を傾げた。
「どういう意味だ?」
ゴーストが亡骸へ再び走査光を向ける。
「アラークハルは、僕達が過去に何度も交戦している強力なハイヴ・ナイトです」
「何度も?」
咲夜が反応する。
「一度倒したら終わりではないの?」
「ハイヴには、通常とは異なる方法で死から戻る存在がいます」
ゴーストはそこで言葉を切った。
「そして問題は、それだけじゃない」
イコラが引き継ぐ。
パチュリーが、すぐにその意図へ気づいた。
「誰かが……意図的に、あれをここへ送り込んだ?」
「おそらく」
イコラが彼女を見る。
「そう考えるのが自然よ」
クロウも頷いた。
「雑兵を適当に放り込んだわけじゃない」
ケイドが切り札を器用にクルクル縦に回しながら腰のホルスターに戻した。
「アラークハルだ。こいつを、わざわざ選んでる」
その目から、いつもの冗談めいた色は完全に消えていた。霊夢も少しずつ状況を理解し始める。
「つまり……」
「何者かが、この幻想郷へ強力なハイヴを送り込んでいる」
イコラの言葉とともに、先ほどまで残っていた歓声の名残さえ完全に消えた。レミリアが低い声で尋ねる。
「今回の襲撃は、偶然ではないということ?」
「まず間違いない」
クロウが答えた。
「私もそう思う」
イコラが続く。
「俺もだ」
ケイドも同意する。ガーディアンも無言のまま一度頷き、ゴーストも「僕も同意見です」と答えた。
霊夢は深くため息を吐いた。
「……次から次へと」
魔理沙も顔をしかめる。
「で……誰がやったと思う?」
その質問に三人はしばらく答えなかった。
イコラも、クロウも、ケイドも。
何も思い当たらないからではない。むしろ逆だった。
思い当たる存在が複数いるからこそ、確証もないまま軽々しくその名を口にすることができなかった。
「ハイヴをこれだけ組織的に動かせる存在は、多くない」
イコラがようやく口を開く。
「ってことは」
霊夢が目を細める。
「誰か心当たりがあるのね」
イコラは否定しなかった。
「ええ」
「誰?」
「今は、まだ断定できない」
霊夢の表情が少し険しくなる。
「何か隠してない?」
「可能性だけで名前を出したくないのよ」
イコラの声は静かだった。
「間違った情報を与えれば、それが先入観になる」
パチュリーも目を細める。
「つまり候補はいる。でも証拠がない」
「そういうことよ」
イコラが頷いた。クロウは再びアラークハルを見る。
「エリスがここにいれば……何か分かるかも知れないけど」
「エリス?」
霊夢が聞き返す。
「エリス・モーン。我々の仲間よ。ハイヴへの知識なら、彼女の右に出る者はほとんどいないわ」
するとケイドが小さく肩を落とした。
「エリスか……あいつがいたら話がさらに重くなりそうだしなあ」
「ケイド」
イコラが呆れたように名前を呼ぶ。
「いや、頼りになるのは分かってるって」
ケイドは肩を竦めた。
クロウも苦笑しながら、倒れたアラークハルへ視線を戻す。
「でもまあ、確かにエリスならこいつについて何か気づいたかもしれない」
その言葉に、全員の視線が再びアラークハルへ向けられた。
「ただ、今回の件にハイヴを上から動かせる存在が絡んでいる。それだけは間違いないと思う」
「それも」
ケイドが続けた。
「一枚岩とは限らない」
霊夢が眉を寄せる。
「どういう意味?」
ケイドは少し考え込む。
「一人が侵攻して……」
「別の誰かが、その状況を利用している可能性もある」
パチュリーが先に言った。イコラ達は、一瞬だけ彼女を見る。
「……その可能性もある」
イコラが静かに答えた。
「嫌な話ね」
「同感よ」
すると魔理沙は何かを思い出したかのようにこう言う。
「なあ、イコラが神社で言っていたサバスンてのとシヴ……なんだっけ?」
「シヴ・アラスよ」
「そうそう。そいつらの仕業じゃないのか?」
「私も正直、その二人のどちらかが絡んでいる可能性は極めて高いと思う――ただ、断定するのはまだ早いわ」
イコラの視線は、アラークハルから離れない。
「今後は、ハイヴがどこから来ているのか、誰が動かしているのか、そしてなぜ幻想郷を狙うのか。そこまで突き止める必要があるわ」
クロウも頷いた。
「アラークハルを倒しただけで終わりだと思わない方がいい」
霊夢はしばらく黙っていた。そして、ふとガーディアンを見る。
「……あんた達」
ガーディアンが顔を向ける。
「ずっと……こんなのと戦ってきたの?」
ガーディアンは何も言わなかった。
ただ、静かに一度だけ頷く。
その一度の頷きが、妙に重かった。
霊夢も、魔理沙も、レミリアも、すぐには何も言えなかった。
ケイドがふと空を見上げる。
「張本人に……見られてたりしてな」
霊夢が即座に顔を向けた。
「やめてよ」
「冗談だよ」
「今の状況で冗談に聞こえないのよ」
「悪かったって」
ケイドは苦笑する。
だが、イコラは笑わなかった。
クロウも。
ガーディアンも。
ゴーストも。
何となく、同じ空を見上げていた。
そこにあるのは雲と青空だけ。
何も見えない。
けれど――その予感が完全に当たっていることを、彼らはまだ知らなかった。
◇
遥か上空。
雲海すら眼下へ沈み、幻想郷を囲む山々でさえ薄霞の向こうに小さく見えるほどの高み。
そこには、本来ならば存在するはずのない巨大な亀裂が、音もなく浮かんでいた。
空間そのものを鋭利な刃物で切り裂いたかのような、歪な裂け目。
その縁では、現実そのものが不安定に揺らいでいる。
幾何学的な光が脈打つように明滅し、その奥を這うように黒い靄が蠢く。時折、淡い虹色の光が水面に広がる波紋のように亀裂全体へ走り、それを追いかけるように暗黒の筋が絡みついては、互いを打ち消すように消えていった。
ベイル。
そしてトラベラー。
二つの巨大なパラコーザルの力が衝突し、干渉し合った末に偶発的に生じた、異なる世界同士を繋ぐ傷口。
その向こうには、人類が長きにわたり戦い続けてきた世界がある。
そして、こちら側には――幻想郷がある。
その異様な裂け目の傍らに、一つの白い影が静かに浮かんでいた。
大きく広がる翼。
頭部から伸びる長大な角。
黒ずんだ甲殻に覆われた、細身でありながら人間などとは比較にならないほど巨大な身体。
優美。
荘厳。
それでいて、その姿のどこにも人間的な温もりは感じられない。
ハイヴの女王。
狡猾と欺瞞を司り、幾度となく人類を翻弄し、敵すら味方すら己の盤上へ乗せてきた存在。
――漆黒の女王《ウィッチ・クイーン》、サバスン。
彼女はしばらく何も言わず、遥か眼下に広がる幻想郷を見下ろしていた。
その視線の先にあるのは、霧の湖。
かつて静かな水を湛えていた湖面は、今や見る影もない。
巨大なステイシス結晶がいくつも湖面から突き出し、砕けた氷の破片と瓦礫が水面を埋め尽くしている。
岸辺には吹き飛ばされたハイヴの死骸。
砕けた武器。
焼け焦げた地面。
そして湖岸に建つ紅い館もまた、凄惨な戦いの跡をその身に刻み込んでいた。
屋根は崩れ。
外壁には巨大な穴が穿たれ。
窓という窓は砕け、庭園は爆発と攻撃によって深く抉れている。
黒煙が幾筋も立ち上り、風に流されながら空へ消えていく。
その中心の湖上に、一際巨大な亡骸が横たわっていた。
重装甲はほとんど失われ、肥大した異形の頭部を晒した巨体。
片腕は不自然に投げ出され、その傍らには、かつて振るっていた巨大な斧だけが残されている。
アラークハル。
黒剣。
そして――光の刃。
今はもう、その巨体が動くことはない。
「…………」
サバスンは無言でその亡骸を見下ろしていた。
だが。
彼女が見ていたものは、アラークハルだけではなかった。
亡骸の周囲。
満身創痍になりながら、それでも立っている者達。
博麗の巫女。
白黒の魔法使い。
紅い吸血鬼と、その妹。
銀髪の従者。
門番。
魔女。
妖精達。
そして――。
イコラ。
クロウ。
ケイド。
ガーディアン。
サバスンの視線が、そこでゆっくりと止まった。
「…………フフ」
小さな笑い声が零れる。
眼下では、戦闘を終えた者達が何事かを話していた。
この高度だ。
当然、その声がここまで届くことはない。
それでもサバスンは、まるですぐ傍で彼らの会話を聞いているかのように愉快そうに目を細める。
「さすがだな、イコラ。それにあの魔法使いも」
静かな声。
敵意とも称賛ともつかない、奇妙に柔らかな響きだった。
「昔から、お前は本当によく考える」
地上のイコラが、アラークハルの亡骸を見つめている。
その表情は、勝利を喜ぶ者のものではない。
疑っている。
考えている。
なぜ。
どうして。
誰が。
雑兵だけなら、単なる侵攻で済ませることもできただろう。
だが、その中にはアラークハルがいた。
過去に幾度となくガーディアン達と激突してきた、名を持つ強力なハイヴ。
そんな存在が、ただ偶然にこの世界へ迷い込んだ。
そう考えるには、あまりにも出来すぎている。
「よくぞ気づいたな」
サバスンの口元がゆっくりと歪む。
「誰かが、意図的に駒を置いたと」
そして。
それだけではない。
地上の彼らは、もう一歩先へ進みかけている。
ひとつの意思だけでは説明できない。
侵攻を行っている者と。
その侵攻を利用している者。
別々の思惑が重なっている可能性。
「もう少し」
サバスンは囁いた。
その声には焦りなどない。
むしろ。
答えを知る者が、そこへ辿り着こうともがく者を眺めて楽しむような、静かな愉悦があった。
「あと、ほんの少しだ」
その時。
背後で、小さな光が動いた。
白い甲殻。
中央に輝く一つ目。
人類のガーディアンへ付き従うものとよく似た姿。
しかし、その造形には明確な違いがあった。
ハイヴ・ゴースト。
その中央眼が、遥か眼下へ向けられている。
アラークハル。
自らの騎士。
死した相棒。
ハイヴ・ゴーストが、僅かに前へ出た。
地上へ降りようとしている。
亡骸のもとへ。
光を注ぎ込み。
死を覆し。
再び、その巨体を戦場へ立たせるために。
「まだだ」
サバスンが言った。
振り返りもしなかった。
声を荒らげてもいない。
だが、その一言だけでハイヴ・ゴーストはぴたりと動きを止めた。
「慌てるな」
ようやくサバスンは僅かに顔を横へ向ける。
「お前の騎士は死んだ」
ハイヴ・ゴーストの中央眼が一度だけ明滅する。
その様子を見て。
サバスンは微笑んだ。
「だが――死んだだけだ」
死。
かつてのハイヴにとって、それは敗北だった。
剣の論理において、殺された者は弱者。
存在する資格を失った者。
だが。
光を得た今。
それは必ずしも終わりを意味しない。
サバスン自身が、それを誰より理解している。
彼女もまた。
一度、死んだのだから。
「今は眠らせておけばいい」
ハイヴ・ゴーストはなおもアラークハルを見ていた。
「必要になれば、その時に起こせばいい」
まるで使い終わった道具を一度棚へ戻すだけだと言わんばかりの声音だった。
その言葉が終わると同時に、サバスンの興味は再び眼下へ戻った。
「それにしても――」
湖に横たわる巨大な亡骸。
サバスンはそれを眺めながら、満足げに目を細める。
「本当によく働いてくれた」
ガーディアンを追い詰めた。
イコラ達を消耗させた。
幻想郷の住人達を限界まで戦わせた。
紅魔館を破壊し。
湖を荒らし多くの者を傷つけた。
そして何より――。
「あれを、もう一度見せてくれた」
サバスンの視線がガーディアンへ移った。
先ほどまで彼の身体を覆っていた、異質な力。
光。
暗黒。
それらが混ざり合いながら、どちらにも飲み込まれず存在する。
プリズム。
そして。
トランセンデンス。
相反するはずのものを抱え。
その矛盾を否定するのではなく、一つの力へ変える。
アラークハルが放とうとしていたアークの奔流。
それすら撃たせぬまま。
ガーディアンは冬の怒りを通してステイシスを叩き込み、その異常な守りを真正面から破壊した。
「予想以上だ」
サバスンの声に、ほんの僅かな感嘆が混ざった。
「また随分と、面白いものを手に入れたものだ」
ガーディアンは戦いを終えた今でさえ、完全には警戒を解いていない。
周囲では歓声が上がり。
抱き合う者がいて。
勝利に安堵する者がいる。
それでも彼だけは。
いや……イコラ達も、何かが終わっていないことを知っている。
「フフ……」
サバスンは笑う。
やはり面白い。
その視線が、今度は霧の湖全体へ向けられた。
無数のハイヴの亡骸。
スロール。
アコライト。
ナイト。
ウィザード。
オーガ。
シュリーカー。
そして、その中心のアラークハル。
「もっとも」
サバスンが静かに呟いた。
「今日、ここへ押し寄せた者達の大半は――私の兵ではない」
ハイヴ・ゴーストが、僅かに中央眼を傾ける。
サバスンの目が細められる。
「妹は昔から、戦争となると加減というものを知らない」
その声には、僅かな懐かしさがあった。
だが。その奥には、冷たい皮肉も混じっている。
「シヴ・アラス」
戦争の神。
剣の論理を信じ。
戦いを糧とし。
争いそのものを己の領域としてきた存在。
サバスンの妹。
彼女の名を口にしながら、サバスンは傍らの巨大な裂け目へ目を向ける。
向こう側。
目撃者。
その存在の影が、今なおこの歪な亀裂を通して幻想郷へ伸びつつある。
「今では、あの者のために剣を振るっている」
表情には、嘆きも怒りもなかった。
少なくともそう見えるものは。
「相変わらずだ」
サバスンは小さく笑う。
「敵がいる」
翼が微かに揺れる。
「ならば殺す」
指先がゆっくりと動く。
「戦場がある」
楽しげに目を細める。
「ならば戦争を運ぶ」
その言葉とともに、彼女の視線は再び荒れ果てた湖へ落ちた。
今日、この場所へ攻め込んできたハイヴ。
その多くはシヴ・アラスの配下。
目撃者の意図を受け。
幻想郷へ足を踏み入れ。
戦争を持ち込んだ者達。
本来。
そこへサバスンが関与する理由はない。
少なくとも――表向きは。
「だから」
女王の指が一本、ゆっくりと立てられた。
「ほんの少しだけ」
そして――その視線がアラークハルへ落ちる。
笑みが深まった。
「私も混ぜてもらった」
ただ一枚、己の駒をシヴ・アラスの軍勢へ紛れ込ませた。
目撃者から命じられたわけではない。
妹に頼まれたわけでもない。
ただ、興味があった。
ガーディアンがどう動くのか。
幻想郷の住人達が、異界から来た侵略者に対しどう立ち向かうのか。
そして。
互いをほとんど知らない者達が。
危機の中で何を選ぶのか。
そのための一押し。
それが、アラークハルだった。
「アラークハルが混ざっていたと知ったら――」
サバスンが首を僅かに傾ける。
「シヴは怒るかな?」
数秒。
本当に考えているような沈黙。
やがて。
「…………いや」
口元に笑みが戻る。
「戦いが激しくなったのなら、むしろ喜ぶか」
その結論が、いかにも妹らしいとでも言いたげだった。
「フフフ……」
静かな笑い声。
だが、彼女の興味はすでに妹から離れつつあった。
眼下には幻想郷。
外界から隔絶された箱庭。
人間。
妖怪。
妖精。
神。
吸血鬼。
魔法使い。
亡霊。
そして。
その世界を成立させている無数の秘密。
サバスンは、ゆっくりとその名を口にした。
「幻想郷……」
たったそれだけで欺瞞の女王の表情が楽しげに歪んだ。
「なるほど」
初めて玩具箱を開いた子供のように。
だが、その子供が手にしているものは人の心そのものだ。
「なかなか、いい場所じゃないか」
その周囲を。
一匹の淡く輝く蛾が舞った。
白い光を纏い。
ゆっくりと女王の翼の周囲を巡る。
やがて。
二匹。
三匹。
五匹。
十匹。
少しずつ数を増し。
無数の小さな光となって、サバスンの周囲を漂い始める。
「秘密がある」
一本の指が立つ。
「嘘がある」
二本目。
「疑いがある」
三本目。
「恐怖」
指が折られる。
「欲望」
また一つ。
「嫉妬」
そして僅かな沈黙。
「……信頼も」
その言葉だけほんの少し声音が違っていた。
サバスンは眼下を見た。
先ほどまで互いを完全には信用していなかった者達。
異なる世界から来た者。
幻想郷に生きてきた者。
常識も。
価値観も。
背負ってきた歴史も違う。
疑念がある。
警戒もある。
不満もある。
それでもあの瞬間、アラークハルという共通の脅威を前に彼らは背中を預けた。
一人が倒れれば、誰かが前へ出た。
誰かが傷つけば、また別の誰かが支えた。
そして、最後には全員で一つの敵へ攻撃を叩き込んだ。
「…………」
サバスンは、その光景を思い返すようにしばらく黙っていた。やがて。
「なんとも」
小さく笑う。
「弄りがいがある」
その視線が再びガーディアンへ移る。
「なあ」
もちろんその声は届かない。
それでもサバスンは語りかける。
「また面白いものを見せてくれた」
光と暗黒。その両方を抱えた存在。
サバスン自身もまた光を得た。
だからこそ、以前よりもさらに彼という存在が興味深い。
「さて」
女王の翼がゆっくりと広がる。
「次は、何をする?」
――答えはない。遥か眼下ガーディアンはこちらを見ることすらない。
だが、サバスンは、それで構わないというように笑っていた。
いつか直接、その問いを投げかける機会が来る。
そう確信しているかのように。
その背後でハイヴ・ゴーストが再びアラークハルへ中央眼を向ける。
サバスンは、その小さな動きを見逃さなかった。
「安心しろ」
少しだけ優しい声。
それが本物なのか。
演技なのか。
あるいはその両方なのか。
それを見抜ける者など、この場にはいない。
「また必要になる時は来る」
ハイヴ・ゴーストの眼が明滅する。
「今しばらく――」
サバスンの視線がアラークハルから離れる。
「舞台から下がってもらうだけだ」
一枚の駒。
今は盤上から外しただけ。
必要ならまた置けばいい。
それだけのこと。
そして今、サバスンの興味は完全に別のものへ移っていた。
翼が大きく開かれる。
両腕も、それに合わせるようにゆっくりと広げられる。
その眼下には幻想郷。
そこにいる者達を、まるごと抱え込もうとするかのように。
「博麗の巫女は――何を疑う?」
視線が霊夢へ。
「魔法使いは――何を追う?」
魔理沙へ。
「紅い吸血鬼は――誰に怒りを向ける?」
レミリアへ。
そして。
再び。
ガーディアン。
「お前は――」
サバスンの瞳が細くなる。
「次に、どんな答えを見せてくれる?」
無数の蛾が舞う。
白い女王を囲む淡い光。
その向こうで世界を繋ぐ巨大な裂け目が、不気味に脈動する。
光と暗黒という相反する二つが互いへ絡みつき、幻想郷という世界へ、少しずつ異物を流し込み続けている。
地上の者達はまだ何も知らない。
今日の戦いが、目撃者による侵攻のほんの一端にすぎないことを。
戦争の神にしてサバスンの実の妹、シヴ・アラスとその軍勢が、すでにこの世界へ剣を向け始めていることを。
そしてその陰で目撃者にも、シヴ・アラスにも頼まれていないもう一人の女王が勝手に盤上へ手を伸ばし始めていることを何も知らない。
――だからこそ面白い。
「さあ――」
サバスンの笑みが深くなる。
眼下では霊夢達が、イコラ達が、それぞれの答えを求めて、ようやく動き始めようとしている。
白い指先がまるで盤上の駒へ触れるように、ゆっくりと宙を撫でた。
「次は――」
蛾が舞う裂け目が脈打つ。
幻想郷を見下ろす女王の瞳に、妖しい光が宿る。
「誰が、この盤を動かす?」
そして、漆黒の女王は誰にも届かぬ遥かな高みで静かに楽しげに笑った。
「フフフフ……」
その笑い声だけが。
世界と世界の狭間に開いた裂け目の傍らで。
いつまでも不気味に響いていた。