その日の昼。
仕込みをしていたフィオナの下に、ドンドンドンと扉を叩く音が聞こえた。
「はーい、どちら様ー?」
玄関を開けると、居たのは革のトランクを持った旅装姿の女性に、軽装姿の兄妹らしい若い男女だった。
「フィオナ!」
女性がぱっと顔を輝かせる。艶やかな巻き髪も、透き通るような白い肌も、気の強そうな切れ長の瞳も、以前と変わらない。フィオナにとっても、よく知る人物だった。
「リリー!?」
「会いたかったわ!」
フィオナは抱き着いて来たリリーを慌てて受け止めた。移動疲れなのか、その重さは別れの時より軽く感じた。
「なーに、どうしたのー……?」
眠そうな顔で玄関まで来たシアラに、リリーは顔を綻ばせた。
「シアラ! 相変わらずね!」
「あら、リリーじゃない! 久しぶりね!」
シアラとも嬉しそうに抱き合う。
リリーは、かつて“宵の艶花”で共に働いていた娼婦仲間だ。フィオナやシアラとも付き合いが長く、仕事の合間に笑い合ったり、時には客の愚痴をこぼし合ったりした気心の知れた仲だった。
「こちらの二人は? 護衛?」
「ちょっと違うわ。この子が私付きの
「シャーリーと言います」
「キースです」
「あ、これはご丁寧に……」
フィオナがそう返したところで、ふと疑問が浮かんだ。
「……えっと、どうしたの?」
「お願い、私たちをここで働かせて!」
必死なリリーの言葉に、フィオナとシアラはお互いの顔を見合わせた。
「はい、お茶」
「ありがとー。あー、この香りよ。やっぱり癒されるわー」
「お菓子も食べて。ここの焼き菓子は美味しいわよ」
「ふぅん。あ、本当に美味しい……」
「美味しいです……」
「落ち着くなぁ……」
自家製のハーブティーと、一口大の小さな焼き菓子。ケンの菓子工場という良い店をたまたま見つけ、そこから頼んでいるものだった。
リリーは懐かしそうに茶の香りを楽しみ、菓子と茶を食べた兄妹もホッとしたような表情を見せた。
「それで、良いかしら」
一服したところで、シアラが切り出した。
「リリー、どうしたのよ? 別の店に移籍して働いてたんじゃなかったの」
「そう! それよ!」
リリーはテーブルをドン、と叩いた。
「ご飯が不味くなったのよ!!」
「あれ、リリーが移ったのって、確か“渡り鳥の止まり木”でしょ。あそこはダンカンさんだっけ。真面目で腕も良かったはずだけど」
思い出したフィオナが言った。
娼館での料理は基本的に味が良い。所属する娼婦たちが満足に働くためには、食事と休息の環境が重要だからだ。でなければ娼婦たちが働かないし、自由娼婦*1なら離れていってしまう。周りの娼館がフィオナの料理とレシピを喜んだのも、これが大きい。
「ああ、そういえばお店に習いに来てたわね」
「そうそう。煮込みが上手な人でね。特にポトフが絶品だった」
「そのダンカンさんをね!」
リリーは頬を膨らませた。
「あの馬鹿ボンボンがクビにしたのよ!」
「はぁ?」
聞けば、二代目が張り切った結果だった。
長らく宿場町でトップの座についていた“宵の艶花”が閉鎖したことで、“渡り鳥の止まり木”が拡張するチャンスとなった。また、丁度同じ頃に“渡り鳥の止まり木”も代替わりした。
高齢のオーナーから代わった息子は、長らく親に代わって実務をこなしており、問題も起こしていない評判の男だった。
だから店を大きくしたい、という言葉も反対されずに通った。
“宵の艶花”があった空き店舗を買い取り、娼婦を増やし、王都の有名店で腕を振るっていた料理人まで呼び寄せたのだ。
「ええ……? 旅人相手に王都の料理を出したの? 合わないでしょ」
「そうなの?」
「そうなの! スープは見た目は綺麗だけど碌な出汁も取ってなくて貧弱! そのくせ煮込みやローストは香辛料とバターでくどすぎる! あんなもん毎日は食えないわよ!!」
「あー、王都は内陸で偉い人の数が多いからね。有名店の料理人なら、各地から輸送してきた食材をふんだんに使ってこそ、というのがあるかな。貴族受けは良いけど、味付けは濃すぎるよ」
「そんなに濃いんですか?」
「前に王都にいた料理人に聞いたけど、濃いというより、くどいみたいよ。肉ばっかりで。濃厚な煮込みに山鳥のローストがメインで、香辛料やバター、クリームをバンバン使った料理が続く。特別な日なら良いけど、毎日食べるものじゃないよ」
「うわぁ……」
その場にいた全員が引いた顔をした。
女性、まして娼婦にとって、美しさは仕事道具でもある。毎日のように脂の多い料理を食べ続ければ、体調にも肌にも影響が出てくる。
「最初は二人とも厨房にいたのよ……。でも、皆がダンカンさんの料理だけ食べてて、その王都の料理人のご飯を食べなかったから……」
「ああ、揉めたのね。で、折角呼んだ料理人に辞められると困るから、前の人をクビにしたと」
「ダンカンさんも、自分の料理が安っぽくて店に相応しくないって言われて……」
「……そっか」
フィオナは少しだけ寂しそうに笑った。
「ダンカンさん、娼婦の健康を第一に考えてたからね」
「それからは食事も変わって、碌に食べてないのに太るし肌は荒れるし、胃もたれも起こしちゃうし……。もうやってらんなくなっちゃって……」
「それで、こっちに来たのね」
「うん……。私は自由娼婦だから、部屋代や食事代の払いだけで済んだわ。ぼられたけど。この鞄以外は売っちゃった」
「え、あんなにあった宝石やドレスも全部?」
「そうよ。ああ、それだけじゃないわよ。この二人の支払いね」
これも、よくある話だった。
兄妹はギルドマンで、一緒に村から出てきた。コツコツと依頼をこなし、揃ってブロンズまで昇格した。そこで利率が良い護衛任務を受けたのだが、護衛していた商隊が山賊の襲撃を受けた。
「そこで、僕が怪我をしてしまって……」
「治療費を捻出するため、その、私が身売りするところでリリー姉さまに助けていただいて……」
「へぇー」
「あの、リリーがねぇ……」
二人から見たリリーは、美容と宝石が好きで、自分を飾り付けることに余念がない女性だ。
そんな彼女が、見ず知らずの兄妹のために大金を払ったという事実に、少しだけ驚いていた。
「なに、文句あるの?」
「いや別に何も」
と、表では言いつつ。
(そういえば、リリーって前オーナーのこと尊敬していたっけ)
(ああ、そうね。そういうこと)
シアラもフィオナもそうだったが、前オーナーは「こんな目だけ大きい痩せっぽちの子どもなんて」と文句を言いつつも人買いから買い取り、生きていくための教育を施してくれた。それを二人に返したのだろう。
内緒話する二人に、リリーは睨んでいたが、その勢いは少しだけ弱く感じた。
「それで!」リリーが言った。「この子たちの借金は私が払ったし、治療もしたんだけど。もうギルドマンとして活動できないそうなの。だから私の小間使いにしたのよ。でも……」
リリーは少しだけ視線を逸らした。
「ダンカンさんは居なくなっちゃったし、アーケルシアに行こうと思ったけど、遠いし、旅費も心許なかったし……」
「……だから?」
「……フィオナのご飯が食べたくなったのよ」
気恥ずかしそうなリリーに対し、フィオナはニンマリと笑みを浮かべた。
「そっかー、そんなに私の料理が食べたくてかー」
「……腹が立つわね」
「えー? でも本当のことでしょ?」
「……そうだけど」
「ふふっ」
久しぶりの再会だというのに、まるで昨日まで一緒に働いていたかのように会話は続いた。
けれど、フィオナもシアラも気付いていた。
リリーはここに来るまで、ずっと気を張っていたのだ。
来た当初は昔と同じ態度だったが、どこか強がるような表情だった。けれど、それが、取り留めのない軽口を交わしているうちに、少しずつ消えていった。
「──喋ってたら疲れちゃった。少し休ませて頂戴」
会話が一区切りついたところで、リリーは残っていた茶を飲み干した。
「そうね、その方が良いわね」シアラは言った。「詳しい話は、休んでからにしましょうか」
「ええ、お願い。愚痴を言ってたらすっかり忘れてたわ」
「ふふ。それなら二階の個室になるけど、それでも良いかしら?」
「ありがとう。寝れるならどこでも良いわよ」
「キースさんとシャーリーさんもいいかしら?」
「あ、すみません。ありがとうございます……」
「ありがとうございます」
後ろで控えていたキースとシャーリーが慌てて頭を下げた。
シアラが二階へ案内するのを見送り、フィオナも準備を始めた。
「あれ、フィオナさん。どうしましたか?」
「ちょっと料理を変更ね」
そう言いながら
「今日の煮込みはポトフにしよう」
「リリーさん、ポトフ好きなんですか?」
「うん。今日はこれしかないかなって」
ポトフのレシピは色々あるが、今回は色んな部位の牛肉の塊を野菜と一緒にじっくりと煮て、味付けは香草と塩だけのシンプルなもの。しかし、奥深い料理になる。
使う肉は、老いたムーンカーフだ。今回はすね肉と肩肉、骨髄を使う。
これを寸胴鍋に入れ、ひたひたの水で茹でて、アクを取る。
その間に、香草を束ねてブーケガルニを作り、出汁に使う野菜を準備する。
「で、出汁に使うのはこれ」
「これ、安売りしてた屑野菜ですよね? こっちは捨てる部位じゃ」
「そ、屑野菜。剥いた皮とかヘタの部分。あとは器量が悪いとか、萎びたてて売れ残ったものだね」
よく水洗いし、炒めていく。このとき玉ねぎは片面がしっかりと黒く焦げ目がつくまで焼き、人参は軽く色づく程度に炒める。芋やキャベツのような葉物はスープの色を悪くしたり、匂いがきついのでここに入れない。
「洗った寸胴鍋に肉と濾した煮汁、炒めた野菜、ブーケガルニ、塩と粒胡椒、ガーゼに包んだグローブを入れる」
「グローブだけガーゼに包むのは何故ですか?」
「これは煮て出汁を取りたいから、濾すときにグローブを取りやすくするためだね。口に入ると痛いんだ」
「なるほど……」
「玉ねぎに刺す人もいるけど、野菜の出汁殻も後で使うからやらない」
これを沸騰させないよう、火加減を注意しながら肉が柔らかくなるまでじっくりと煮る。ときどき、アクを取ってやる。
しばらくして。
「煮終わったら、具を取り除いてスープを濾す。浮いた脂も取ってやるとスッキリとした味わいになる。使った野菜とブーケガルニはすり潰して、炒めた小麦粉を混ぜて固めてやると朝のスープの具になる」
「へぇ……。具に代わるんですか」
「あとはいつも通り。肉と玉ねぎ人参は煮汁と一緒に煮て、火が入ったら別茹でにした芋やキャベツを直前に合わせる。皿に盛り付けて、別の皿にマスタードを添えて、これで完成」
そろそろ、いい時間だ。
リリー達が降りて来たのは、開店前の食事の時だった。
「いい匂いね! ポトフかしら?」
「そう、良い日に来たね」
リリー達の前に、白い湯気を上げるポトフが置かれた。それだけでは足りないので、焼いた黒パンと箸休めのピクルス、麦茶が並べられる。
「はい、お待たせ」
「……いただくわ」
全員で食事前の祈りを捧げ。リリーは一口、スープを飲んだ。
「ああ、この味よ。ホッとするわ……」
思わず、声が漏れた。
気を遣ってくれたのだろう。フィオナの料理は、以前よりもずっと優しい味わいだった。
リリーでも分かった。これはダンカンのレシピだ。
フィオナを見やると、何も言わず微笑を浮かべていた。
「胃にすっと入りますね……」
「久しぶりに、食べて安心する飯を食った気がする」
王都の料理人が作る料理とは違う。
見た目の華やかさも、珍しい食材もない。けれど、毎日食べても飽きない。身体が疲れている時ほど欲しくなる味だった。
テーブルではゆったりとお喋りをしつつ、ポトフの味を楽しんだ。お代わりも食べ、黒パンでスープもしっかり食べきったリリーの表情にもようやく安堵の色が戻っていた。
「……本当に、美味しかった」
食後のお茶を両手で包み込むように持ちながら、リリーは小さく息を吐いた。
「久しぶりよ。こんなに楽しくご飯を食べられたの」
「少しは元気になった?」
「ええ。ぐっすり眠れたし、お腹いっぱい食べられたもの」
「なら良かった」
フィオナは嬉しそうに笑った。釣られてリリーも笑った。そして、真っ直ぐシアラとフィオナを見つめた。
「ここなら、もう一度。頑張れる気がしたの」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。
「それじゃあ、改めて聞くわ」穏やかな笑みを浮かべながら、シアラは問いかけた。
「リリー、本気でうちで働くつもりなのね?」
「ええ、もちろん!」
迷うことなく、リリーは満面の笑みで頷いた。
この日、“宵の艶花”に新しい仲間が加わった。
その夜。
予備の制服に着替えたリリーは、勝手知ったる様子で店を手伝っていた。その表情は、かつて"宵の艶花"で毎日を楽しそうに過ごしていた頃と変わらぬ、眩しい笑顔だった。