ようやく冬が終わり、春となった。
暖かくなって雪が解け、街道の往来も再開された。冬の間は滞っていた荷も届くようになり、少なくなっていた食材もようやく補充できる。
フィオナがヘイゼルと共に食材の買い出しから戻ってくると、何やら店が騒がしかった。
「なんでしょう……?」
「危ないから、後ろにいて」
念のため、フィオナはヘイゼルの前に出た。
乱暴にドアが開き、鎧姿の男が店から出てきた。顔を紅潮させ、肩を怒らせている。
「良いのか、このような幸運は他に無いのだぞ!?」
「泥船の間違いでしょ! とにかく、そのような話は受け入れられません!」
「後悔するぞ! 我が主の庇護を得られる機会など、そうあるものではない!」
「結構よ! 二度と来ないで頂戴!」
「クッ……! 失礼する!」
男は肩を怒らせて歩き、すれ違いざまにフィオナを見ては、憎々しげに睨みつける。そんな顔を向けられる覚えはなかった。
「ただいまー」
フィオナが店内へ入る。店内ではシアラとリリーが、顔を真っ赤にして歯を食いしばり、荒い息をしていた。
キースとシャーリーが懸命に宥めているが、あまり効果はないようだ。グリゼルダも険しい表情のままだった。その腰に愛剣のシミターを差しているあたり、碌な事じゃなかったのだろう。
フィオナは荷物を置き、シアラに近づいた。そのままシアラを胸に抱きしめた。
「え、ちょ、フィオナ……」
「はい、ここにいるから。大丈夫、大丈夫……」
シアラの背中を擦り、ゆっくりと力を解していく。するとシアラも腕を回し、縋りつくように顔を埋めた。
「ヘイゼル。みんなにお茶をお願い。キースとシャーリーは、リリーに寄り添ってあげて」
「はい、わかりました」
「え、私も? って、二人とも……」
リリーも二人に抱きしめられ、怒るに怒れないような顔になった。そのまま二人の頭を撫でる。嬉しそうな顔を向けられて、リリーはますます困ったように頬を緩めた。
その光景を見たグリゼルダも、苦笑いを浮かべていた。
「私には無いのかな?」
「私は胸が大きいから、二人まとめてなら抱きしめられるよ?」
「ふふ。魅力的な提案だが、それは後でしてもらうよ」
グリゼルダは堪えきれず、クツクツと小さく笑いを零した。
シアラたちが落ち着いたのは、ヘイゼルがハーブティーを淹れて戻ってきてからだった。
椅子に座り、カップを傾けて一服する。
ただ、シアラは恥ずかしそうに俯いていたまま。リリーは、べったりとくっついて離れない二人の世話を焼いていた。二人に聞けば、また怒り出しそうだった。
必然的に、グリゼルダに聞くこととなった。
「それで、なにがあったの?」
「それがだな――」
発端は、先日のフィオナの客だった。
冬のある日。店に珍しい客が来た。貴族だった。
ハルペリア王国の由緒正しき貴族だの、栄光ある王国だのと長々と口上を述べながら料理と酒を注文した。そして料理にはぐちぐちと文句をつけ、酒を飲んでは食い散らかした。
その時にはシアラが手を回し、巻き込まれないよう他の客たちを店から出していた。
腹も満たされ、酒に酔っていた貴族は女を所望した。そして、嗜虐的な笑みを浮かべてフィオナを選んだ。
「栄えある貴族たる我が、貴様らサングレールの穢れを払ってやろう!」
床に銀貨を投げつけ、フィオナは形式通りの笑みを浮かべて拾った。そして二階へ案内した。
「……ああ、あの時の客か。酷かったね」
「フィオナ! そんなにあっさりという事じゃないでしょ! ポーションも使ったのよ!?」
「この容姿だからね。そういう
色街にも規則はある。娼婦という職業が、世間一般の道徳から外れてはいることと、そこで何をしても許されることは別の話だった。
互助会は、娼婦と客に規則を守らせるために存在する。
その一つに、「娼婦は金を受け取ったら客の相手をしなければならない」という決まりがある。
フィオナも金を受け取った。だから客が閨で獣のような振る舞いをしても、特に文句を言うつもりはなかった。本能のままに欲望をぶつける客は多い。相手は必ずしも紳士であるとは限らない。むしろ、期待するほうが間違っている。
問題は、その客が閨の内容に対して碌な金を支払わなかったことだった。
貴族と名乗って偉ぶっている割に、やることは粗野で乱暴だった。部屋に着くや、フィオナを押し倒して服を破り、何度も暴力を振るい、調度品の一部を破壊したのに弁償しなかった。自分は偉いから、客だから、サングレール人相手なら何をしても許されると思っていた。
また、以前から他の店の娼婦たちとの間にも揉め事を起こしていた。
客としての資格の問題が大きく、互助会としてもこれ以上は見過ごせなかった。だから色街から追い出された。
フィオナにとっては、それだけの話だった。
ただ、他の面々にとっては違うらしい。特にシアラとリリーの二人は、再び怒りの表情を見せていた。
「シアラ、リリー?」
「――分かったわよ、もう」
二人は深呼吸し、茶を一口飲んで無理やりにでも落ち着かせた。
「――ええ、出禁になったわ。苦情が多すぎたし、アイツが没落貴族だったからこそできたの。貴族街にも警告が行くほどだもの」
「ただ、それを理解していないようだ。あの貴族はハギアリ商会と繋がりがあった家出身だからな。どちらもとっくに没落して爵位も剥奪されているが、その資産はまだ残っている。先ほどの男は、その貴族の従士だ」
「それで?」
「要点を搔い摘むと、店の権利を寄越せ、女は妾にしてやる、特別に子を恵んでやろう。だったかな」
「………え、真面目に言ってるの?」
「残念ながら、従士は羊皮紙まで広げて真面目な表情で言った」
「春の陽気で、余計な知恵でも回っちゃった?」
フィオナが心底理解できないという表情で言うと、軽い笑いが起きた。
「ふふ、余計な知恵……。そうね、沸いちゃったのよ」
「もう花まで咲かせちゃったのね。男なのに早いわね」
「それだけ養分が溜まっていた、ということなのだろう」
その瞬間、堰を切ったように笑いが起きた。
「ふふ……、あはははっ!」
フィオナは机に突っ伏して笑っている。リリーも口元を押さえているが、肩が震えていた。
「まったく……。本人は大真面目だったのよ?」
シアラも笑いながら言う。
「それが余計に面白いのでしょう」
「まあ、ふふふ」
「笑い事じゃないんだがな」
シャーリーとヘイゼルも小さく笑い、キースが苦笑しながら茶を啜る。男として、その従士には少しだけ同情はしていた。
「まあ、そう言うな。これでもフィオナが絡んでいる話だ」
グリゼルダの言葉に、フィオナは首を傾げた。
「私?」
「そうだ。先方の言い分では、お前が目的だそうだ」
「……なんで?」
「店の権利もそうだが、その貴族本人がお前を気に入ったらしい。飯は美味いし、顔も身体も良かったそうだ」
「なるほど。それで、さっきの話に?」
「そういうことになる。ただ、最初は店の権利が狙いだったらしい。庇護してやるから、上納金を寄越せ。そんなところだ」
「……随分と都合がいいね。没落した貴族に、そんな権力は無いのに」
「全くだ」
グリゼルダが肩を竦める。続けてシアラが言った。
「この冬で、フィオナの料理が評判になったのよ。衛兵も食べに来るし、“アルテミス”との繋がりもできた。あの店を手に入れれば、没落から這い上がれる。そう考えたんでしょうね」
「ふん。でも、あの男の言い分は庇護じゃないわ。従属させたいだけよ」
「そうね」
リリーが冷ややかに吐き捨て、シアラも頷いた。
「だから断ったわ。店もフィオナも渡すつもりはないし、あんな男の妾になるつもりもない。ましてや、子を『恵んでやる』なんて……。喜ぶ女が、いると思う?」
「そうだね」フィオナは困ったように頬を掻いた。「いやでも、従士はどうして怒っていたの? どう考えても不可能だってわかりそうだけど」
「断られるなんて思っていなかったのよ」
シアラが吐き捨てる。
「『貴族様が声を掛けてやったのだから、ありがたく従え』って顔だったもの」
「……春の陽気って、怖いね」
「ふふっ」
「まったくだ」
「だから笑い事じゃないってば!」
リリーが呆れたように言う。けれど、その顔にはもう怒りより安堵が浮かんでいた。
店に、ようやくいつもの空気が戻り始める。
――少なくとも、今は。
フィオナは窓の外を見た。春の陽気に包まれた街は、何事もなかったように穏やかだった。
ただ、先ほどの男の言葉だけが、妙に胸に引っかかっている。
「……後悔するぞ、か」
「しないわ。あんな男には渡さない」
シアラの声には、もう怒りではなく、静かな決意があった。フィオナは少しだけ目を細めた。
「……そうだね」
念のため、今日の顛末は互助会と衛兵にも伝えておいた。店の者たちにも、しばらくは周囲を警戒するよう言い聞かせる。できる限りのことは、した。
それでも、だ。
まさか、その日のうちに事を起こしてくるほどの早打ち男だとは、思っていなかった。
* * *
深夜。
店が閉まり、娼婦たちが二階で客を取っている頃。
本来なら、賊たちは裏口から侵入し、店の者を脅して終わるはずだった。従士から受けた命令はそうだった。
だが、はした金で雇われたチンピラに、そんなものを守る気はなかった。
何もわかっていない、雪解けとともにレゴールへ流れてきたばかりの連中だ。美女がいる店。折角だから、味見ぐらいは、その程度の考えの持ち主だった。
そして、夜番のキースは、庭で三人の賊を相手に必死に立ち回っていた。
「せぇい!」
横薙ぎに棒を振るう。大きく振り回さず、小さく、素早く。相手を牽制し、距離を保つ。
キースは教えられた通り、決して無理に攻めない。ひたすら倒されないことだけを考えて立ち回っていた。
「クソ、粘るぞコイツ!?」
「ガキが!」
賊の一人が剣を振りかざして踏み込んだ瞬間、棒が脛を打ち払った。碌な防具もない。狙うなら、そこだった。
「ぐうっ!?」
男が顔を歪め、足を引きずる。たった一人が動けなくなっただけで、三人の連携は大きく崩れた。
「飛びかかれ! 棒を掴まえれば動きが止まる!」
「じゃあテメェがやれ!」
足を打たれた男が投げナイフを放り込んだ。雑な投擲だ。キースはそれを避けて、膝の古傷が痛んだ。一瞬、動きが止まった。
「このクソガキがぁ!」
「ぎぃ……」
別の男が横から蹴りを放った。防御したが、キースは吹き飛ばされた。
キースは急いで立ち上がった。振り下ろされた剣を、跳んで避ける。転んだ拍子に顔にできた擦り傷と、古傷がジクジクと痛む。左手に力が入らない。それでも、棒を握り直した。
勝てない。それは最初から分かっている。だから倒れず、応援が来るまで粘る。それが役目だった。
ようやく弱った姿を見せたキースを、賊たちは嘲笑った。
「いい加減に倒れろ!」
とどめをさそうと剣を振りかざした瞬間。
上から、何かが落ちて来た。
ドン、と三人の賊たちの目の前に何かが落ちた。地面が衝撃でへこみ、土埃が舞う。
そこにいたのは、全裸の女だった。
ゆっくりと立ち上がる。月明かりに照らされ、赤みが差した白い肌に浮いた汗が輝いている。形の崩れていない豊満な胸も、丸みを帯びた大きな尻も、すべてが晒されている。本人はそれを気にする様子もない。白髪の向こうから覗く金眼だけが、敵を爛々と睥睨していた。
「――私の、シアラの店で、なにやってるの?」
「ひィ……!?」
「フィオナさん、こいつら賊です!」
「――そう」
フィオナの顔から笑みが消えた。
身体強化を最大。一瞬で踏み込み、正面の男に飛びかかった。
あまりの速度に反応すらできなかった男の顔面に恥丘が衝突し、両腿で頭を締め付ける。そのまま身体を反らし、地面へ叩きつけた。
フランケンシュタイナー。
賊は頭から地面に突き刺さった。
「ひとつ」
「…………は、え?」
残った二人が絶句する。キースも唖然とした表情を浮かべていた。
「キース!」
「えっ、あ、はい!!」
「攻撃!」
「はい!!」
返事と同時にキースが踏み込んだ。横薙ぎに棒を一閃。再び男の脛を打った。
「ぐうっ!?」
よろめいたところへ、キースは肩へめがけて思いっきり振り落とした。
ボキッ、という鈍い音と手ごたえ。骨を折った。
「ぎ、があっあ!!」
「クソがっ!?」
二人が倒れたのを見て、最後の一人が踵を返した。剣を振り回しながら逃げ出した。
「逃がすと思うか?」
その前に、グリゼルダが立ちはだかっていた。ローブを纏っただけの姿に、手に鞘とシミターを持っている。
「どけよ売たっ――」
「遅い」
男が剣を振り抜くよりも速く、グリゼルダは滑らかに一歩踏み込んだ。
速度を合わせたシミターが男の剣と相打ち、グリゼルダはクルリと手首を返した。
シャオン――
澄んだ金属音と共に、男の剣が宙を舞った。
「え、あ……」
声にならず、口を半開きにした男の頭に、グリゼルダは鞘を振り落とした。
鈍い音と共に、頭を殴られた男は崩れ落ちた。
「……終わりか?」
「ここにいるのは、それで全部」
「そうか」グリゼルダはシミターを鞘に戻した。「すまない、出遅れた」
「いや、凄く良いタイミングだったよ。キースも大丈夫?」
「どうにか……」
キースは倒れた男たちを一か所にまとめていた。見れば、男たちの革靴の紐は雁字搦めに縛られていた。逃げられないようにするためらしい。
「よく頑張ってくれたね。お陰で間に合ったよ」
「必死でした、ホントに……」
「三対一で、援護が来るまで粘ったのだ。誇ってよい勝利だ」
「うん、ちゃんと逃げ道まで塞いでたんだ。偉い偉い」
フィオナは笑顔でキースの頭をぽんぽんと撫でた。本人としては、本当に心から褒めている。
ただ、戦闘の緊張感を引きずっているのも、目の前の光景に困惑しているのも、キースだけだった。
「あの、フィオナさん?」
「なに?」
「服、着てください。色々と見えてます……」
「別に、見られて困るような身体はしてないけど」
「ふむ」グリゼルダが上から下まで眺めた。「……確かに、色々と見えているな」
「違う、違うんです……」
キースは途方に暮れた。どう説明すればいいのか、まるで分からない。
「お前らのせいだ!」
門の向こうから怒鳴り声が響いた。振り向いて見やる。昼間に見たあの従士だった。手にはダートが握られている。
「俺だってこんなことしたくなかった! 黙って従っていれば良かったものを!」
「何を――」
「死ねぇ!」
僅かな煌めきと共に、ダートが釣瓶打ちに飛んだ。キースに向かっていた。
「キース!」
フィオナが身体を滑り込ませ、手で弾いた。一本、二本と手で弾く。
しかし――
「……っ」
一本だけ、暗色に塗られたダートが、フィオナの腹へ突き刺さっていた。
「ふ、ひひっ! やってやったぞ! そいつは毒付きだ!!」
ぐらり、と視界が歪むような感覚。せり上がってくる嘔吐感。ああ、覚えがある。村で使われたことがあった。死ぬことは無かったが、結構、しんどい毒だ。
なら――。
もう、身体は覚えている。慣れるのも早い。
「フィオナ!?」
「大丈夫」ギフトが発動する音が鳴った。「私に、
フィオナは刺さったダートを抜き捨て、何事もなかったかのように立ち上がった。
近くにあった薪置き場から一本を拾い、一足で間合いを詰める。金眼に赤い光が灯る。
「はっ、えっ――」
「“
薪による一撃が、従士の顔面をひっぱたいた。
衛兵隊は直ぐにやって来た。襲撃の際、キースがこっそりシャーリーに呼びに行かせたそうだ。
従士や賊は騒いでいたが、周りの証言と荷物に油と着火器があるのを見咎められ、そのまま引っ立てられていった。また“宵の艶花”の面々にも事情聴取となった。
ローブを纏ったフィオナは、衛兵と共に個室で聞き取りを受けていた。窓を開けているとはいえ、寝台には特有の情事の匂いが残っている。
「それで、フィオナさん。襲撃者を倒したときの状況を確認したいのですが」
「はい」
「その……、裸だったというのは、本当ですか?」
「…………あー」
フィオナの顔が、初めて赤くなった。別に裸を見られること自体は恥ずかしくない。だが、それを自分の口で、しかも第三者に説明するとなると話は別だった。
「……はい」
「何故ですか?」
「娼婦なので、接客中でして……。その、物音がして見たらキースが襲われていて、慌てて二階から飛び降りたので、服を着ている暇がありませんでした……」
「……なるほど」
「……さすがに、少し恥ずかしいです」
「……分かりました。ですが、職務ですので、はい。あの……」
結局、フィオナは全裸で二階から飛び降り、フランケンシュタイナーをかまして、従士を薪で殴ったところまで、律儀に説明させられた。
しかし、皆が無事でよかった。襲撃から店も守れた。それは確かだ。喜ばしいことだ。
――でも。
「……この記録、残りますか?」
「……すみません、規則なので……」
死ぬほど、恥ずかしかった。
感想評価、誤字脱字がありましたらお願いします。
お待たせしました。やっと書けた。