楽しんでいただければ幸いです。
ケンの菓子工場は物凄く分かりづらい店だ。市場に近い通りにあるが、扉に小さな看板が掛かっているだけで、外から見ても営業中かどうか分からない。
「ここ……?」
「うん、今日はやってるはず」
シアラは店を訪れるのは初めてだった。何とも言えない表情が浮かんでいる。
店主のケンには“宵の艶花”で出している焼き菓子を頼んでいるため、その為人は知っている。頑固者で拘りの強い職人だ。冬の間は材料が尽きたとかで店を休業していたのも聞いている。だが、店がこんな有様だとは思っていなかったらしい。
扉を開けると、濃厚なバターと砂糖の甘い香りが漂ってきた。酒場をそのまま利用したような店内には素っ気ないテーブルと椅子が並んでいる。僅かに敷物や花瓶が置かれているが、殺風景だった。
「おや……お客さんですか?」
「やあ、ケンさん。食べに来たよ」
「ああ、フィオナさんにシアラさん! よくいらっしゃいましたねぇ! さあさあ、そこの席に座ってください。いまお持ちしますからねぇ」
奥から顔を出したケンは、二人を見るなり嬉しそうに笑った。勧められた席に腰を下ろすと、シアラが改めて店内を見回す。
「……随分と寂しいお店ね」
「前はもっと何もなかったよ」
「これでも良くなったの?」
「うん。敷物も花瓶もなかったからね。流石に増やしてって言ったっけ」
「そう……」
シアラは微妙な表情を浮かべた。ほどなくして、ケンが盆を手に戻ってきた。
「お待たせしました。ミカベリーのタルトとタンポポ茶になります」
白い皿に載せられたタルトは艶やかな赤紫色のジャムが輝いていた。香ばしく焼き上がった生地からはバターの良い香りがする。隣には、黒々としたタンポポ茶が湯気を立てていた。
「ここのお菓子は本当に美味しいんだよ。さ、食べてみて」
「ええ、頂くわ」
シアラがフォークを入れると、サクリと軽い音がした。一口食べた彼女の目が、わずかに見開かれる。
「……美味しい」
「でしょ?」
「生地は香ばしいし、ジャムの酸味もちょうど良いわ。甘すぎないのね」
「ぬふふ。そうでしょう、そうでしょう。ミカベリーは香りと酸味が良いですからねぇ。生地の甘さとの釣り合いが大事なんですよぉ」
褒められたケンは得意げに胸を張った。
フィオナもタルトを一口食べる。土台となるしっかりとしたクッキー生地にバターの風味が豊かなクリーム生地が重なっている。これだけでも美味しいが、甘酸っぱいジャムが濃厚なバターの風味を引き締め、よく調和している。よく考えられて組み合わされている。たっぷりのジャムを載せているのに土台の歯触りは失われず、クリーム生地はしっとりとしている。焼き加減も良いし、ジャムの煮詰め具合も絶妙だ。
ふと顔を上げると、シアラが微笑ましげにこちらを見ていた。少し恥ずかしかった。
「相変わらず良い腕だね。さすが」
「ぬふふ、私ですからねぇ」
フィオナは照れ隠しにタンポポ茶を飲んだ。コーヒーに似たしっかりとした苦味が口の中の甘さを洗い流してくれた。
「これも美味しいわね。少し苦いけれど」
「甘い菓子には合うでしょ?」
「ええ。気に入ったわ」
シアラはもう一口、タンポポ茶を飲んだ。
「ぬふふ。お二人に気に入っていただけて何よりですよぉ。“宵の艶花”さんにも随分と助けていただいておりますしねぇ」
「ケンさんの焼き菓子、評判が良いからね」
「ありがたいことです。お陰様で配達の注文も増えましてねぇ。以前よりは随分と持ち直しましたよぉ」
そう言って、ケンは満足そうに頷いた。
「それなら良かったわ。お店のほうも繁盛しているの?」
「それが、なかなか……」ケンの笑顔が少し曇った。「焼き菓子は売れるんですがねぇ。こうして店で食べていかれるお客さんは、相変わらず少ないんですよぉ」
「こんなに美味しいのに?」
「ええ、まったく不思議なものです」
フィオナは首を傾げた。
「なんでだろうね。美味しいなら売れるはずなのに」
「そうですよねぇ。私の菓子はレゴール一なのに」
「アナタたちねぇ……」
シアラが呆れたように溜息を吐いた。まったく、似た者同士だこと。
「そもそも、あの看板じゃお店があることにも気づかれないでしょう?」
「おや、やはり小さいですかねぇ」
「小さいわよ。私だってフィオナに連れてこられなければ通り過ぎていたわ」
「ふむ……」
ケンは考え込むように顎を撫でた。
「実は今日、モングレルさんという方がいらっしゃいましてねぇ」
「あれ、モングレルさん?」
「お知り合いですか? いやあ、店を繁盛させる相談役を引き受けてくださるそうでしてねぇ」
「へえ、あの人が?」
「ぬふふ。何やら良い考えがあるとか。上手くいくと良いんですがねぇ」
ケンはもう一度笑ったが、不安と期待が半々といった表情だった。
フィオナはもう一度店内を見回した。確かに、以前よりは多少マシになっている。だが、せっかく美味しい菓子を作っているのに客がほとんど来ないというのは勿体ない。
もっとも、客を呼ぶために何をすれば良いのかと聞かれても、フィオナには妙案が浮かばなかった。料理ならいくらでも工夫できるが、商売となればシアラのほうがずっと詳しい。
「まあ、あの人なら任せても問題ないでしょ。引き受けた以上はやってくれるよ」
「そうなの?」
「うん。変なものを色々作ってるしね」
「変なもの、ですか……?」
ケンが不思議そうに首を傾げる。
「まあ、腕と知識は確かだから。相談して損はないと思うよ」
「それは心強いですねぇ」
フィオナは残ったタルトを口に運び、タンポポ茶を飲んだ。
「それにしても、これだけ美味しいお菓子なら匂いで分かると思うけどなぁ」
「そうですよねぇ」
「……だから、アナタたち本当に分かってる?」
首を捻る二人に、シアラはまたしてもため息をついた。
何はともあれ、ケンの菓子が美味しいことだけは間違いない。難しい商売の話はモングレルに任せよう。せっかくのデートなのだ。
その後、追加で豊穣クッキーを頼んだ。麦芽糖で固められた木の実や種の香ばしさに、柑橘の風味がよく合う。シアラも気に入ったらしく、お茶をお代わりして、ゆっくりと味わっていた。
結局、二人はすっかり長居してから店を後にした。
店を出ると、日はすっかり傾き、街並みが薄赤く染まっていた。じきに日も暮れる。そろそろ《宵の艶花》へ戻る時間だった。
帰り道も、二人は手を繋いで歩いた。行きと違うのは、シアラが時折、絡めた指をきゅっと握ってくることだった。フィオナもそのたびに握り返した。
他愛もない話をしながら“宵の艶花”へ戻ると、グリゼルダが待っていた。
「おかえり。楽しんできたようだな」
「ええ、楽しかったわ」
「うん、ただいま」
「風呂は用意してある。二人とも入ってくると良い」
「あら……」
「さ、行こうよ」
シアラは不思議そうにしていたが、フィオナに促されてそのまま風呂に向かった。汗を流して着替えを済ませた二人が食堂に戻ると、先ほどとは様子が違っていた。店の中央に白いテーブルクロスの掛かった席が用意されており、二人分の食器とカトラリーだけが並んでいた。
「戻って来たわね。こっちに座りなさい」
「え、ええ……」
リリーに案内され、二人揃って用意された席に座る。
「いま、ヘイゼルたちが料理を持ってきてくれるわ。待ってなさい」
ほどなくして、ヘイゼルたちが料理を運んできた。用意されていたのはサラダと白パン、そしてムーンカーフの頬肉の赤ワイン煮込み*1。シアラの好物だった。
シアラが目を丸くしているのを見て、フィオナは苦笑いを浮かべた。
「私が作る予定だったんだけど、ヘイゼルたちがお祝いだから作らせてほしいと言ってね。あと、リリーに怒られちゃった」
「当たり前でしょ。せっかくの初デートで恋人をほったらかしなんて」
リリーが二人の銀のゴブレットに赤ワインを注いでくれた。ラベルにあるのは少し値が張る銘柄で、店にはなかったはずだ。
シアラは一瞬言葉に詰まり、それから柔らかく微笑んだ。
「……リリー、ありがとう」
「どういたしまして。私以外にも言ってあげて」
「そうね、みんな、本当にありがとう」
「ありがとう。嬉しいよ」
二人の言葉に、皆は軽く手を振ったり、親指を立てたり、照れくさそうに笑ったりしていた。
「さて。じゃ、私たちは上にいるから」
「僕は中庭で警備してますので……」
「え、大丈夫?」
「テントも毛布もあるので大丈夫ですよ」
「じゃ、ごゆっくり~」
リリーはひらひらと手を振り、ほかの皆を連れて階段を上がっていった。キースも中庭へ向かい、食堂には二人だけが残された。
「気を遣わせちゃったかな」
「そうね。でも、ありがたく受け取っておきましょう」
二人は同時にゴブレットを掲げた。
「乾杯」
「乾杯」
一口飲む。口当たりは柔らかく豊かで、渋みと酸味がちょうど良い。ほのかな甘みがあり、余韻にかけて花のような香りがふわりと広がった。
「美味しい」
「これ、良いね。口当たりが柔らかいし、店でも少し出したいな」
「ダメよ、少しなら私が全部飲んじゃうもの」
「ありゃ」
顔を見合わせ、二人で同時に吹き出した。なんだか、いつもより少し浮かれている。
フィオナはゴブレットを置き、赤ワイン煮込みにスプーンを入れた。頬肉はほとんど抵抗もなくほろりと崩れた。ソースを絡めて口に運ぶと、肉の旨味と赤ワインの風味が重なった。
「これも美味しい」
「うん、うん。美味しい。丁寧に煮てあるし、塩加減も丁度良い」
じっくり煮込まれた赤ワインの酸味は穏やかで、ブイヨンのお陰で味に深みがある。濃厚なのに、くどさは感じられない。教えた基本をきちんと押さえている。よく見れば、付け合わせの蒸し芋や、煮込まれた人参や玉ねぎの切り方がところどころ不揃いになっている。煮崩れではない。ヘイゼルやキース、シャーリーの仕事ではない。となれば、グリゼルダとリリーも手伝ってくれたのだろう。
(なんか、色々とやってもらってばっかりだな)
胸の奥が、じんわりと温かかった。フィオナは小さく笑みを浮かべて蒸し芋を口に運んだ。濃厚なソースに素朴な芋の味がよく合う。シアラも白パンをちぎってソースを吸わせ、口に運んでいた。
それからは料理を味わいながら、今日の出来事をあれこれ話した。
スプーンを動かして口に運び、合間にサラダを食べ、ワインを飲む。市場で見かけた品物のこと、ケンの菓子工場で食べたタルトやクッキーのこと。いつも一緒にいるのだから、今さら話すこともないと思っていたのに、不思議と話題は尽きなかった。
気がつけば、ワインも二杯、三杯と進んでいた。いつしか心地よい酔いが回り始め、シアラの頬にはほんのり朱が差している。藍色の瞳がとろりと潤み、ゴブレットに口づけるたびに唇が赤く濡れていた。
「……フィオナ、見過ぎよ」
「だって、綺麗なんだもん」
「もう……、本当に……――嬉しいけど」
シアラが左手のバングルをそっと指でなぞった。フィオナも自分の首元のネックレスに指を当てた。目が合うと、二人は揃って微笑んだ。
やがて、皿は空になった。テーブルの向こうで、シアラが満ち足りた表情で息を吐いた。
しばらく食卓で寛いだあと、二人で食器を片すことにした。そこまで時間はかからない。作業を終えたフィオナが手を拭くと、シアラが手を絡めてきた。温かい。
「まだ水気取れてないのに」
「ふふ、良いのよ」
シアラは妙に楽しそうだった。絡めた手を優しく引き寄せ、もう片方の手で胸元を開くと、そこへフィオナの手を滑り込ませた。冷たい指先に肌の柔らかい感触と熱が移ってくる。同時に、速い鼓動が伝わってきた。
「……もしかして、酔ってる?」
「んふ、少し。でも、それ以上に楽しかったから」
「もうちょっと、初デートの余韻を楽しみたかったんだけどなぁ」
少しだけ指に力を入れる。柔らかな膨らみに指が沈み、掌に重みと熱が伝わってくる。撫でまわしながら固くなったところを爪の先で軽くひっかくと、シアラは短く喘いだ。長い睫毛が揺れ、熱を孕んだ藍色の瞳が何かを待っているようにフィオナを見つめていた。
まったく、今さらデート一つで二人揃って浮かれるなんて。
苦笑しながらシアラを抱き寄せると、身を寄せてきてフィオナの首筋に顔を埋めた。短い吐息が肌を撫で、酒と香油、シアラの甘い香りが混ざって頭の芯が緩んでいく。
フィオナは肩を抱き、悪戯心の赴くままにシアラを虐めながらゆっくりと寝室へ向かった。
自分たちは世間一般の恋人たちとはずいぶん違う。今さらそれをどうこう思うつもりもないし、今の暮らしに不満があるわけでもない。
ただ、今日になって気づいたことがある。自分たちにも、世間の恋人たちと同じように過ごす選択肢があったのだと。
街を歩いて、お茶を飲んで、二人で食事をする。普段と大して変わらないことばかりなのに、デートだと思うだけで妙に楽しかった。
「ねぇ、シアラ」
「ふ、あぅ……、なぁに?」
寝室の扉を開けたところで、弄んでいた手を止めた。もたれ掛かっていたシアラは情欲に惚けた表情でこちらを見た。潤んだ瞳に少し不満げな色があった。
「また行こうね。デート」
「……うん。ねぇ、抱っこして頂戴」
「はいはい」
横抱きに持ち上げると、シアラはふわりと笑った。そのまま首に手を回し、フィオナの頬にそっと唇を寄せた。フィオナも笑みを浮かべ、お返しにその赤い唇に口づけた。甘いワインの味がした。
まあ、いつも通りだ。それでも、こういう一日は悪くない。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
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