長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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本作は執筆にAIを使用しています。近ごろ恋姫の二次創作が減ってしまい、読みたいものが読めないなら自分で供給するしかない、という動機で書き始めました。プロット・設定・キャラクター解釈・修正指示は筆者が行っていますが、本文の生成にAIを用いています。

AI利用作品に抵抗のある方は、ここで引き返していただいて構いません。不快な思いをさせるのは本意ではありませんので、合わないと感じた時点でそっと閉じてください。


濁り水

春の終わりの長江は、俺の知る限り一年でいちばん質が悪い。

 

 上流の山々で溶けた雪と、南から居座った雨とが一緒くたになって流れ下ってくるせいで、水は黄土を溶かした濁り水になり、川幅は平時の倍近くまで膨れ上がる。岸だったところが水の底に沈み、葦の原だったところが浅瀬に変わる。去年まで舟を寄せられた砂州が、今年は影も形もない。川そのものが、毎年少しずつ形を変える生き物のようなものだった。

 

 その濁り水の上を、俺たちの船はゆっくりと下っていた。

 

「伯符さまの渡し場を過ぎたな」

 

 艫で櫓を握っている呂庚(りょこう)が、暗がりの中で言った。六十を越えた舟人頭で、この川で生まれてこの川で老いた男だ。目はもうあまり利かないが、水の音と船底に伝わる感触だけで、自分がいまどのあたりにいるのかを言い当てる。

 

「灯りが見えたか」

 

「見えとらん。水の音が変わった。あそこは川底に岩が寝とるでな、増水しとってもわしの耳は誤魔化せん」

 

 呂庚は誇るでもなくそう言って、櫓を軽く押した。俺は舳先に立ったまま、目だけを闇に慣らしていた。月は雲に隠れていて、水面は墨を流したように黒い。舟に灯りは点けていない。この時期のこの川で灯りを掲げて下るのは、自分はここにいますと大声で触れ回るのと同じことだった。

 

 積み荷は塩と、麻布と、鉄の地金がいくらか。呉郡の商人が江夏まで運ぶもので、俺と、俺が集めた男が四人、雇われて船に乗っている。用心棒というほど格好のいいものではない。荷主が銭を払い、俺たちが刃物を持って乗り、何事もなければ酒代を貰って別れる。それだけの仕事だ。

 

 だが、この一月ばかり、何事もなく済んだ船のほうが少なかった。

 

「楚航(そこう)どの」

 

 胴の間から這い出してきたのは阿六(あろく)という若い水夫だった。まだ二十にもならない。腕は細いが目は良く、暗い水面のわずかな乱れを見つけるのが上手い。

 

「北の葦原に、鳥が立ちました」

 

 俺は顔を上げた。北岸は一面の葦で、増水で根元まで水に浸かっている。ここからでは黒い壁にしか見えない。

 

「数は」

 

「二十羽ばかり。……いっぺんにです」

 

 阿六の声は落ち着いていたが、末尾がわずかに硬かった。鳥が一度に飛び立つのは、何かが下から葦を揺すったからだ。獣なら数羽ずつ驚く。まとまって立つのは、人が並んで入っているときの立ち方だった。

 

 俺は腰から刀を抜き、鞘を舷側に立てかけた。抜き身のまま持っているほうが、闇では鞘の擦れる音がしなくていい。

 

「呂庚。舵を南に寄せろ、思い切り」

 

「南は浅いぞ」

 

「浅いのは承知だ。葦から出てくる舟は喫水が浅い。深いところで並ばれたら囲まれる。浅瀬に引きずり込んで、あいつらの舟の底を擦らせる」

 

 呂庚は一つ唸って、それきり何も言わずに櫓を倒した。船が重たく傾いで、水を掻き分けながら南へ振れる。荷を積んだ船は動きが鈍い。それでも、あの葦原から出てくるものよりは大きい。大きいというのは、この川では一つの武器だった。

 

「阿六。ほかの連中を起こせ。灯りはまだ点けるな。俺が言うまで、誰も舷側から顔を出させるな」

 

 言い終わらないうちに、北の闇で水が鳴った。

 

 葦を分ける音は、聞き慣れれば聞き間違えようがない。細い舟が三艘、黒い影になって滑り出してきた。それぞれに六人か七人。棹を持った者が二人、あとは刃物を握っている。声は上げない。近ごろの連中は喚かない。喚けば逃げられると知っているからだ。

 

 俺は舷側に寄って、腹の底から息を吐いた。

 

 斬るのは嫌いだ。好きだという奴に会ったことがないわけではないが、俺はそちら側の人間ではない。ただ、嫌いだからといって斬らずに済ませられるほど、この川は甘くない。ここで俺が退けば、明日には呂庚も阿六も水の底だ。それだけの話だった。

 

 先頭の舟が舷にかかった。鉤縄が飛んできて、木を噛む硬い音を立てる。

 

 俺はその縄を斬らなかった。かわりに縄を掴んで、思い切り引いた。

 

 向こうの舟が引き寄せられ、乗っていた男たちが体勢を崩す。膝が落ちたところへ、俺は舷を蹴って跳んだ。

 

 自分の船から降りて敵の舟に乗り移る。誰にでも勧められるやり方ではない。だが、狭くて不安定な舟の上では、先に足を据えたほうが勝つ。俺は着地と同時に一人を袈裟に落とし、返す刀で棹持ちの腿を薙いだ。棹が水に落ち、舟が回る。回れば残りは立っていられない。

 

「――――ッ」

 

 声にならない声を上げて、三人目が突き込んできた。刃筋は素人のそれだ。俺は身を捻ってやり過ごし、そいつの襟を掴んで水へ落とした。増水した川に落ちれば、鎧を着ていなくとも自力では上がれない。斬らずに済むならそれでいい。

 

 二艘目が横腹に取り付こうとしているのが見えた。俺は落ちた棹を拾って水を突き、舟ごと体を寄せ、その舷を蹴りつけた。舟同士がぶつかって、鈍い音が夜に響く。

 

「楚航どのっ、上ですっ」

 

 阿六の声が飛んだ。上――俺の船の舷から、いつの間にか一人が身を乗り出して、こちらへ弓を引いている。

 

 矢が来る前に、俺は水を蹴った。舟から舟へ、そして自分の船の舷へ。手をかけて体を引き上げ、そのまま弓を持った男の脛を払った。倒れたところを踏みつけて、刀の峰で首の後ろを打つ。男は声もなく伸びた。

 

 その頃には、俺の連れの四人も起きて舷に取り付いていた。夜の斬り合いは長く続かない。相手は三十人足らずで、こちらは船が大きい。何人か水に落ち、何人か動かなくなり、残りは舟の向きを変えて葦原へ逃げ込んでいった。追わなかった。夜の葦原に入るのは、待ち伏せの中へ自分から歩いていくのと変わらない。

 

 水音が遠ざかり、川は何事もなかったように流れる音だけになった。

 

 俺は舷に膝をつき、動かなくなった男の顔を覗き込んだ。若い。阿六とそう変わらないだろう。手には刃こぼれのひどい短刀を握っている。ろくな得物も持たされずに、こんなところまで出されたのだ。

 

「――名は」

 

 俺は、伸びているほうの男の襟を掴んで引き起こした。弓を持っていた男だ。頬を張ると、薄く目が開いた。

 

「お前の名だ。言え」

 

「……なん、で」

 

「答えろ。名だ」

 

 男は目を泳がせてから、掠れた声で「王甲(おうこう)」と言った。俺は頷いて、それを胸の内で二度繰り返した。

 

 俺には、そういう癖がある。斬った相手の名を、生きているなら聞く。死んでいれば、船の連中に心当たりがないかを尋ねる。誰の役にも立たない癖だと呂庚には言われるが、やめる気はなかった。人を土や砂と同じもののように積み上げていると、いつか本当にそう思うようになる。俺はそれが怖い。

 

「王甲。お前たちはどこの手の者だ」

 

「……」

 

「言わなくてもいい。だが、この川に出るなら、次は俺の顔を覚えておけ。二度目はない」

 

 俺は男の縄を解いてやり、舷から水へ突き落とした。岸まで泳げる距離だ。泳げなければそれまでだが、そこまで面倒は見きれない。

 

 背後で、呂庚が呆れたように鼻を鳴らした。

 

「あんたは相変わらずじゃな。あれをそのまま川に返しても、あやつらは明日また同じことをするぞ」

 

「するだろうな」

 

「なら斬っておけばよかろう」

 

「斬っても同じだ。あいつが死んだところで、明日は別の若いのが同じ舟に乗る。飯が食えんから乗るんだ。俺が斬っているのは、飯じゃない」

 

 呂庚は答えなかった。しばらく櫓を押してから、独り言のように言った。

 

「昔からそうじゃったな、あんたは」

 

 東の空が、わずかに白み始めていた。

 

 濁った水が、少しずつ色を持ち始める。夜のあいだは黒一色だった川面が、灰になり、やがて土の色になっていく。俺はその変わり目が嫌いではなかった。何もかもが同じ色に沈んでいた世界に、また境目が戻ってくる。

 

 俺はこの川で拾われて、この川で大きくなった。

 

 生まれた村がどこだったのかは、はっきりとは覚えていない。十かそこらのときに賊に焼かれて、母と一緒に逃げて、母は途中で動かなくなって、俺は水に流されて、下流の漁師の家に引っかかった。それからは船で飯を食っている。姓は楚だと母が言っていたので、そのまま使っている。名の航は、拾ってくれた爺が「どうせ川から流れてきたんだ」と適当につけた。字の子渡(したく)も同じ爺がつけたもので、渡しの渡だ。ずいぶん雑な名づけだが、俺はこの名を悪くないと思っている。

 

 真名も、ある。

 

 母が呼んでいた名だ。灘(なだ)という。荒れた瀬のことだ。生まれた年に川が大水を出したからだと聞いた覚えがある。母が死んでからこちら、その名で俺を呼んだ者は一人もいない。俺も誰にも許していない。真名は自分が認めた相手にだけ呼ぶことを許す名だと、この土地の者はみな言う。認めるほどの相手に、俺はまだ会っていなかった。

 

 二十四になった。川の上で。

 

 朝のうちに、俺たちは南岸の集落に船を着けた。

 

 積み荷の半分をここで下ろす手はずになっていたが、桟橋には人が出ていなかった。代わりに、集落のほうから煙が上がっている。炊事の煙ではない。もっと黒く、もっと荒い煙だった。

 

「先月と同じだ」

 

 俺の連れの一人、周平(しゅうへい)という三十絡みの男が舌打ちした。もとは漁師で、網を捨てて刀を持つようになった口だ。

 

「あの煙は納屋を焼いた煙だな。荷を取ったあとで火をかけたんだ」

 

 俺は先に立って歩いた。集落には十数戸の家があり、そのうち三戸が焼け落ちていた。人は死んでいない。少なくとも、目につくところには倒れていなかった。逃げる時間はあったということだ。

 

 年寄りが一人、焼け跡に座り込んでいた。俺の顔を見ると、もう驚きもしないという顔で口を開いた。

 

「楚のあんちゃんか。今度は塩を持って行かれたよ。麦もだ。この時期の麦を持っていかれたら、秋まで何を食えばいい」

 

「役所へは」

 

「届けた。届けたとも。ひと月前にな。次の月にも届ける。届けても誰も来ん。呉郡の役人は、賊は郡の外の者だと言う。郡の外の役人は、この川は呉郡の縄張りだと言う。あいだの川には誰の役人もおらんのさ」

 

 年寄りはそう言って、乾いた声で笑った。笑いながら、目だけは笑っていなかった。

 

 この一年で、こういう場所ばかりを見ている。長江の中流から下流にかけて、水の上に住む賊が急に増えた。もともと川には食い詰めた者が集まる。だが、以前の連中は荷を取るだけ取って引き上げた。近ごろの連中は違う。村を焼き、人を連れ去り、そして誰にも咎められない。役人が来ないからだ。役人が来ないのは、都で誰かが誰かを追い落とすのに忙しいからだと、船に乗る商人たちは口を揃えて言う。

 

 誰の縄張りでもない川。そういうものが世の中にできると、そこには必ず別の主が生まれる。

 

「あんちゃん。あんた、うちの村に居着かんか」

 

 年寄りが言った。

 

「三度も助けてもらった。飯くらいは出す。そのかわり、賊が来たら追い払ってくれ」

 

 俺は焼け跡を眺めながら、しばらく黙っていた。

 

 悪い話ではなかった。俺一人がここに居座れば、この村は今より確かに安全になる。だが、俺が居座ったぶん、上流の村が襲われる。俺は一人しかいない。一人を十の村で割れば、どの村も守れない。それを何度も繰り返して、俺は自分の限界を知っていた。

 

「爺さん。俺が居着いても、隣の里は焼ける」

 

「隣の里のことは知らんよ」

 

「知らんで済むならそうしてくれ。俺は済まん。……悪いな」

 

 年寄りは怒らなかった。ただ小さく頷いて、また焼け跡に目を戻した。責められるより、そのほうがこたえた。

 

 その日の昼下がりに、川下から軍船が来た。

 

 最初に気づいたのは阿六だった。桟橋の杭に登って川面を見ていた男が、素っ頓狂な声を上げた。

 

「楚航どの、旗です。旗が来ます」

 

 俺は目を細めた。上ってくるのは三艘。いずれも商船ではない。舳先が高く、舷が厚く、櫓の数が多い。増水した流れに逆らって上ってくるのだから、漕ぎ手も相当に鍛えられている。

 

 旗は赤かった。真昼の川の上で、驚くほどよく目立つ赤だ。

 

「孫か」

 

 周平が唸った。

 

「孫堅どのだ。江東の虎の。……こんなところまで出張ってくるのか」

 

 名前は知っていた。この川で船に乗っていて知らずにいるほうが難しい。孫堅文台。字よりも「江東の虎」という呼び名のほうが先に耳に入るような人だ。長沙で賊を潰し、荊州で軍を潰し、いまは揚州のあたりで暴れているという。

 

 軍船は速度を落とさずに近づいてきて、先頭の一艘が桟橋の手前で見事に横づけした。増水した川で、あの大きさの船をあの速さで着けるのは、腕がなければできない芸当だ。

 

 舷から真っ先に飛び降りてきた人影を見て、俺は思わず足を止めた。

 

 女だった。

 

 背は高い。俺より少し低いくらいだが、肩の張り方と腰の据わり方が、明らかに武を積んだ者のそれだった。赤みの強い髪を無造作に束ね、袖を大きく捲り上げている。腕は俺の腕とさして変わらない太さがあった。腰に佩いているのは幅の広い長剣で、拵えに装飾がまるでない。飾りを削って重さに回した、実戦のためだけの得物だ。

 

 その人が、焼け落ちた納屋を一瞥して、盛大に舌を鳴らした。

 

「――遅かったか。チッ、また一足違いかよ」

 

 声が大きい。地の底から出てくるような声だった。

 

「粋怜(すいれい)! どのくらい前だ!」

 

「火の入り方から見て、今朝の早いうちねー。半日ってところかしら」

 

 船から降りてきた女がそう答えた。こちらは対照的に落ち着いた気配で、年の頃は三十を越えているだろうか。髪をきちんと結い上げ、焼け跡の灰を指で摘まんで具合を確かめている。

 

「半日か。畜生、また逃げられた」

 

 赤い髪の人は焼け跡を蹴りつけ、それから、桟橋に突っ立っている俺たちのほうへ目を向けた。

 

 目が合った瞬間に、背筋が冷えた。

 

 喧嘩慣れした人間の目つきというものがある。相手を見て、どこから斬れば早いかを勝手に計算してしまう目だ。俺もそういう目をしていると人に言われたことがある。だが、この人の目はそういう次元ではなかった。

 

 こちらの武器も、間合いも、足の位置も、瞬きひとつのあいだに全部見終わっている。そのうえで、まだ余っている。

 

「おい、そこの」

 

「……何か」

 

「貴様、川の者だな。刀を持って、船に乗って、しかも今朝の斬り合いで手を汚してる。賊か?」

 

 周平が身構えるのが気配でわかった。俺は手を上げてそれを止めた。

 

「用心棒だ。呉郡の商人に雇われて荷を運んでいる。昨夜、上流の葦原で三艘に襲われて、追い払った。手を汚したのはそのときのものだ」

 

「追い払った? 貴様一人でか」

 

「一人ではない。五人だ。船が大きかったので助かった」

 

 赤い髪の人は片眉を上げ、ずかずかとこちらへ歩いてきた。近づかれると背の高さがよくわかる。俺の目の高さに、その人の目があった。

 

 そして、いきなり俺の右腕を掴んだ。

 

 驚く暇もなかった。掴まれた腕を持ち上げられ、袖を捲られ、前腕から手首までをじろじろと検分される。

 

「――なるほど。骨の太さの割に、肉の付き方が妙だな。櫓を漕ぐ筋と、刀を振る筋が両方入ってやがる。手のひらの潰れ方は棹だ。貴様、舟の上で斬るのが本業か」

 

「そうなるな。陸の上ではあまり役に立たん」

 

「面白ぇ」

 

 その人はにやりと笑って、ようやく俺の腕を放した。

 

「オレは孫堅。字は文台だ。この辺りの賊を狩りに来た。貴様、名は」

 

「――楚航。字は子渡だ」

 

「楚航。よし覚えた」

 

 あっさりと言って、孫堅どのはくるりと背を向けた。

 

「粋怜、祭(さい)! こいつを借りるぞ!」

 

「借りるって、あんた……」

 

 船のほうから、渋い声とともにもう一人が降りてきた。年は四十をいくつか越えたあたりか。がっしりとした体つきの女で、片手に大ぶりの鉄の棍を提げている。降りるなり、焼け跡と俺たちを順に眺めて、深々と溜め息をついた。

 

「文台さま。人様の船の用心棒を、その辺の犬っころみたいに借りると言うのはやめてくだされ。まずは話を通すのが筋というものじゃろうが」

 

「話は通した。名前を聞いたぞ」

 

「それは話とは言わん。名を聞いただけじゃ」

 

 女はそう言って、俺のほうへ向き直った。

 

「わしは黄蓋。字は公覆じゃ。この暴れ馬の手綱を握るのがわしの仕事でな、いつも謝って回っておる。すまんな、若いの」

 

「……いや」

 

 俺は正直、どう答えていいかわからなかった。

 

 そこから半刻ばかり、俺は焼け跡に腰を下ろして、この一年に見てきたことを話す羽目になった。

 

 どのあたりで襲われたか。何艘だったか。相手の舟の形はどうだったか。逃げていった先はどちらか。俺が答えるたびに、粋怜と呼ばれた女――程普どのというらしい――が竹簡に書きつけ、黄蓋どのが「ふむ」と唸り、孫堅どのは腕を組んで足で地面を叩いていた。

 

「――で、逃げるときは決まって北の葦原に入る、と」

 

「入る。だが、あそこは行き止まりのはずだ。奥は湿地で、舟では抜けられない」

 

「抜けられないところへ逃げ込む奴はいねぇだろ」

 

 孫堅どのが言った。

 

「つまり抜けられるってことだ。貴様、あの葦原の奥に何がある」

 

「……何もない。少なくとも、俺が子供の頃にはなかった」

 

 言いながら、俺は妙な引っかかりを覚えた。

 

 なかった。子供の頃には。だが、川は毎年形を変える。増水と土砂で、あそこの水路がどう変わったかを、俺はここ数年きちんと見ていない。

 

「――いや。あるかもしれん」

 

 俺は立ち上がって、地面に指で線を引いた。

 

「この川は、去年の秋の大水で北岸を大きく削った。俺の船が浅瀬に乗り上げかけたのがこの辺りだ。ということは、削られたぶんの土砂はどこかに溜まっている。溜まる場所は、流れの緩いところ。……葦原の奥は、緩い」

 

「土砂が溜まって陸ができたと言いたいのか」

 

「陸というほどのものではない。だが、舟を隠して人が寝られるくらいの中州はできる。あそこに寨を組めば、川からは見えん。葦が壁になる。しかも、抜ける水路が一本あれば、追われたときに北の内陸へ逃げられる」

 

 俺が言い終わるより先に、孫堅どのが笑い出していた。

 

 豪快というより、獣に近い笑い方だった。喉を鳴らして、それから両手で自分の膝を叩いた。

 

「はっ、はははは! いいぞ! 貴様、いい頭してるじゃねぇか!」

 

「……待て。今のは推測だ。確かめたわけでは」

 

「確かめりゃいいだろ。今すぐ行くぞ」

 

「今すぐ?」

 

「今すぐだ。この時期の葦は背が高い。日が落ちてから入れば、向こうもこっちも同じだけ見えねぇ。だが今なら日がある。オレのほうが数が多い。数が多いほうが明るいうちに殴り込むのが道理だろうが」

 

 俺は思わず黄蓋どのを見た。黄蓋どのは、諦めきった顔で首を振っていた。

 

「若いの。無駄じゃ。この方はこう言い出したら止まらん」

 

「――止めないのか」

 

「止めるだけの理屈があるならな。だが、今回はこの方が正しい。半日の遅れで済んでおるうちに叩かねば、あやつらはまた散る。散った賊を集め直すのに、わしらは半年かけとるんじゃ」

 

 結局、俺は行くことになった。

 

 断ることもできたはずだった。俺は雇われの用心棒で、荷を江夏まで届けるのが仕事だ。賊の巣を潰すのは俺の仕事ではない。

 

 だが、断らなかった理由もはっきりしていた。焼け跡に座り込んでいた年寄りの顔と、あの村に居着けないと言った自分の口が、腹の底に引っかかったままだったからだ。

 

 葦原に入ったのは、日が傾き始めた頃だった。

 

 軍船は大きすぎて入れないので、小舟に分けた。俺の船からは俺と阿六が乗り、あとは孫堅どのの兵が三十ばかり。孫堅どのは当然のような顔で先頭の舟に乗り込み、黄蓋どのがその後ろについた。程普どのは軍船に残り、逃げ出す舟を川で捕らえる役に回った。

 

「楚航、道は貴様が引け」

 

「引くのはいいが、条件がある」

 

「言え」

 

「葦の中では声を出すな。棹の音も立てるな。それから、俺が止まれと言ったら止まってくれ。水の底に杭が打ってあることがある」

 

「杭?」

 

「賊が沈めるんだ。舟の底を割るためのな。俺は舟の揺れでわかる。あんたにはわからん」

 

 孫堅どのはじろりと俺を見て、それから存外あっさりと頷いた。

 

「わかった。従う」

 

 その素直さのほうが意外だった。この人は、自分より詳しい者の言うことは聞くらしい。

 

 葦の中は、想像していたより暗かった。背丈の倍はある葦が両側から覆いかぶさり、空はほとんど見えない。水は淀んでいて、櫂を入れるたびに黒い泥が舞い上がる。虫の羽音と、遠くの鳥の声のほかには何も聞こえない。

 

 俺は棹の先で水底を探りながら、記憶と勘を頼りに舟を進めた。

 

 三度、止まれと合図した。二度は杭で、一度は沈んだ舟の残骸だった。孫堅どのは文句ひとつ言わずに止まり、俺が「行ける」と手を上げるまで待った。

 

 四半刻ほど進んだところで、風向きが変わった。

 

 俺は棹を止めた。

 

 葦の匂いに混じって、別の匂いが流れてきていた。煙と、獣の脂と、人の集まっている場所の匂いだ。

 

 俺は後ろへ手を伸ばし、指を三本立てた。近い、という合図だ。

 

 葦の壁が途切れた向こうに、それはあった。

 

 中州だった。俺の予想より大きい。舟が十艘以上舫われ、葦を編んだ小屋が並び、粗末な柵まで組まれている。人の数は、ぱっと見て百は下らない。焚き火の周りに座り込んでいる者、荷を担いで運んでいる者、女を柵の中へ追い立てている者。連れ去られた者たちが、あの柵の中にいるということだ。

 

 これは賊の隠れ家ではない。集落だ。誰の役人も来ない川の上に、誰かが作った、もう一つの村だった。

 

 俺の隣で、孫堅どのが低く息を吐いた。

 

 顔を横目で見て、俺は少し驚いた。この人は笑っていなかった。焼け跡を見たときと同じ、腹の底で何かが煮えている顔をしていた。

 

「――柵の中に、人が入ってやがる」

 

「ああ」

 

「楚航。あれを見て、まだ舟の底の杭の心配ができるか」

 

「できる。杭で沈んだら、柵の中の連中を出してやれん」

 

 孫堅どのは俺を見て、ふっと口の端を上げた。

 

「……気に入った」

 

 そして、次の瞬間には舟の舳先を蹴っていた。

 

 止める暇などなかった。孫堅どのは十歩ばかりの水面を三歩で渡り――正確には、舫ってあった賊の舟を二艘、踏み台にして跳んだ――中州の岸に降り立つと同時に、長剣を抜き放っていた。

 

「貴様ら! オレの通る川で好き放題やった落とし前、つける覚悟はできてんだろうなァ!」

 

 絶叫に近い声が葦原を揺らした。

 

 賊たちが一斉に立ち上がる。百人が、たった一人に向かって殺到する。

 

 その一人が、まったく退かなかった。

 

 俺はあの日の光景を、たぶん死ぬまで忘れない。

 

 孫堅どのの剣は、大きいのに速かった。ふつう、あれだけの得物を振り回せば、一撃ごとに体が流れて隙ができる。だがあの人の場合、振り抜いた勢いがそのまま次の一撃に繋がっていた。剣が回り、体が回り、そのたびに人が二人三人とまとめて弾き飛ばされる。斬るというより、薙ぎ払っていた。

 

「祭ェ! 右をやれ!」

 

「言われんでもやっとるわ!」

 

 黄蓋どのが鉄棍を振り回しながら怒鳴り返す。こちらはこちらで、当たれば骨がまとめて折れる打ち方だった。四十を越えているとは思えない足腰の据わり方をしている。

 

 俺も舟を岸に着け、飛び降りた。

 

 だが、俺は柵のほうへ走った。

 

「阿六! ついて来い!」

 

 人だかりの中心では孫堅どのが暴れている。そこへ加勢に行っても、正直、俺の刀は要らない。それより、賊が逃げるときに柵の中の者をどうするかのほうが問題だった。連れて逃げるならまだいい。面倒になって火をかける奴もいる。

 

 柵の前には五人いた。

 

 俺は走る勢いのまま、一人目の膝を薙いだ。倒れたところを踏み越えて、二人目の手首を斬る。三人目が突き出した槍を、俺は避けずに左の脇で挟み込んだ。柄をへし折って、そのまま柄の先で顎を打ち上げる。四人目は逃げた。五人目は、俺のほうへ火のついた薪を投げようとしていた。

 

 俺はそいつの名を聞く前に斬った。

 

 柵の縄を切り落とすと、中から二十人あまりが転がり出てきた。ほとんどが女と、年寄りと、子供だった。手足が汚れ、目が落ち窪んでいる。何日も水しか与えられていない顔だ。

 

「立てる者は立て。立てない者は背負え。川のほうへ走れ、そっちに軍船がいる」

 

 阿六が先に立って誘導し、俺は最後尾に残った。

 

 振り返ると、中州の戦いは、もう戦いと呼べる形をしていなかった。

 

 賊の頭らしい大男が、孫堅どのの前で剣を構えている。周りの賊はすでに逃げ散っていた。大男は俺よりも一回り大きく、腕には古い刀傷がいくつも走っている。腕は立つほうだろう。

 

 その男が、明らかに怯えていた。

 

「て、てめえ……なんで、こんな、こんなところまで……」

 

「なんでだ?」

 

 孫堅どのが、剣を肩に担いだ。

 

「オレの川だからだよ」

 

 そして、笑った。

 

 今度は獣ではなく、心の底から愉快そうな顔だった。

 

「久しぶりだ。歯応えのありそうな面をしてるじゃねぇか。――来い。血が滾ってきた」

 

 一合だった。

 

 大男の剣は、根本から折れて宙を舞った。二撃目が来る前に、男は膝から崩れ落ちて、顔を地面に押しつけて震えていた。孫堅どのは剣を振り下ろさなかった。かわりに、その男の頭を無造作に踏みつけた。

 

「柵の中の連中を、貴様は幾人殺した」

 

「こ、殺しちゃいねえ! 売っただけだ! 売っただけで――」

 

「売っただけ、か」

 

 孫堅どのは足に力を込めた。男の悲鳴が上がった。

 

「じゃあ、貴様も売られてみるか? どこがいい。腕か、脚か、それとも舌か。オレが直々に値をつけてやるよ」

 

 俺は思わず声をかけていた。

 

「――孫堅どの」

 

 振り向いた目に、一瞬、本物の殺気が乗っていた。それが俺だとわかって、すっと引いていく。

 

「……なんだ」

 

「その男は生かして連れ帰ってもらいたい。連中がどこへ人を売っていたか、買った先があるはずだ。買う奴がいなくならん限り、この巣はまたできる」

 

 孫堅どのは、しばらく黙って俺を見ていた。それから、足をどけた。

 

「祭。縄をかけろ」

 

「へいへい」

 

 黄蓋どのが縄を投げてよこしながら、俺のほうにちらりと視線を寄越した。何か言いたそうな顔だったが、結局何も言わなかった。

 

 日が落ちてから、俺たちは川へ戻った。

 

 助け出した者は二十七人。賊のうち生きて捕らえたのが四十人あまり、逃げたのが三十ばかり。中州の小屋はすべて焼き払った。焼く前に、孫堅どのが「小屋の柱を全部数えておけ」と兵に命じているのが聞こえた。あとで柱の数から、あそこに何人が寝起きしていたかを割り出すのだという。この人は、暴れているだけの人ではないらしい。

 

 軍船の甲板で、俺は塩水で刀を洗っていた。

 

 助けられた者たちは船倉で粥を配られている。すすり泣く声と、粥をかき込む音が、板一枚下から聞こえてくる。阿六がそちらの世話に張りついていた。

 

「精が出るな」

 

 声のほうを見ると、孫堅どのが酒の入った瓶を提げて立っていた。鎧はもう脱いでいる。返り血を浴びた腕を洗いもせずに、こちらへ歩いてきて、どっかりと俺の隣に腰を下ろした。

 

「飲め」

 

「……いや、俺は」

 

「飲めと言ってんだ。人を斬った日に飲まない奴は、そのうち壊れるぞ」

 

 押しつけられた瓶を、俺は仕方なく受け取った。一口飲んで、咽せそうになった。ひどく強い酒だった。

 

 孫堅どのは俺の様子を見て喉を鳴らして笑い、瓶を取り返してあおった。

 

「楚航。オレのところに来い」

 

 単刀直入すぎて、俺は返事が遅れた。

 

「……何の話だ」

 

「聞こえただろ。オレの下に来いと言った。貴様、船の上でオレの兵の三人ぶんは働いた。おまけに川の底の杭の場所まで知ってやがる。オレは水の上が苦手だ。得物が振れねぇからな。そういうのが要る」

 

「俺は雇われの用心棒だ。将でもなければ、兵でもない」

 

「だから何だ。オレだって、はじめは郡の下っ端の兵だぞ。海賊を追っかけ回して名を売った口だ」

 

 あっけらかんと言われて、俺は言葉に詰まった。

 

「――こう言っては何だが。あんたのところに行けば、俺はあんたの都合で動くことになる。俺が動くのはこの川で暮らしている連中のためだ。それが揃っているあいだはいい。揃わなくなったらどうする」

 

「揃わなくなるか?」

 

「わからん。だが、大きな軍というのはそういうものだと聞いている。北で袁だの何だのが小競り合いをするたびに、この川の男が徴発されて連れて行かれた。帰ってきた者は半分もいない。あれと同じことをするなら、俺は行かない」

 

 黙って聞いていた孫堅どのが、瓶を甲板に置いた。

 

 それから、意外なほど静かな声で言った。

 

「――オレはな、楚航。この川で生まれた」

 

 俺は顔を上げた。

 

「富春の生まれだ。親父は瓜を売ってた。十七のときに、港で海賊が荷を分けてるのを見つけてな。役人は来ねぇ、船の連中は震えてる。だからオレが一人で刀持って走った。あとで死ぬほど怒られたよ。だが、あのとき殴った海賊の顔は、いまでも覚えてる」

 

 その人は自分の掌を眺めていた。血が乾いて、爪のあいだが黒くなっている。

 

「オレが軍を持ってるのは、天下が欲しいからじゃねえ。……いや、そりゃ欲しいさ。欲しいが、順番が違う。オレの目の届く範囲で、勝手に人がさらわれるのが我慢ならねぇんだ。目の届く範囲を広げたら、我慢しなくていい場所が増えるだろうが。それだけの話だ」

 

「……」

 

「だから、貴様が言った条件は飲む。川の連中を売り飛ばすような戦は、オレはやらねぇ。やったらそのとき、貴様がオレを殴りに来い」

 

 俺は、それを冗談だと受け取らなかった。この人は、たぶん本当にそう言っている。

 

「――一つ、聞いていいか」

 

「言え」

 

「あんたは、俺の名を昼に一度聞いただけだ。それで、なぜここまで言う」

 

 孫堅どのは、しばらく考えるふうもなく答えた。

 

「貴様、柵のほうへ走っただろ」

 

 俺は瞬きをした。

 

「オレが百人の真ん中で暴れてるのを見て、加勢に来る奴は多い。手柄になるからな。だが貴様は、こっちを一度も見ずに柵へ走った。あそこで柵へ走る奴を、オレは信用することにしてる」

 

 それきり、その人は立ち上がって、瓶を俺の膝の上に置いていった。

 

「飲んどけ。明日から忙しいぞ」

 

「……まだ行くとは言っていない」

 

「言うさ」

 

 孫堅どのは振り返りもせずに手を振った。

 

 その夜遅く、軍船は下流の陣へ着いた。

 

 俺は結局、そこまでついて行った。荷は呂庚に任せた。爺は「わしの目玉はあんたより利く」と言って、あっさり櫓を握った。

 

 陣といっても、川岸に囲いを作って幕を張っただけのものだ。だが、思っていたより静かで、思っていたより整っていた。兵が酒に酔って喚いていない。夜番が交代の刻限をきちんと守っている。孫堅どのの見た目からは、正直、想像しにくい光景だった。

 

「意外そうな顔じゃな」

 

 黄蓋どのが横に並んだ。

 

「もっと荒くれておると思うたか」

 

「……正直に言えば」

 

「あの方は、荒くれとるぞ。じゃがな、荒くれておる者が上に立つと、下は逆にきちんとするもんじゃ。あの方に怒鳴られたくないからのう」

 

 黄蓋どのは笑った。それから、少し声を落とした。

 

「若いの。あんた、中州であの賊の頭を殺すなと言うたな」

 

「――言った」

 

「あれを言えるのは、腕っぷしの強い奴の中には滅多におらん。斬るのが一番早いからな。わしは長いこと兵を見とるが、強い者ほど早いほうを選ぶ。あんたは遅いほうを選んだ」

 

「効率が悪いのは自分でもわかっている」

 

「悪いとは言うとらん。……ただな、その選び方はしんどいぞ。覚悟しておくといい」

 

 言い残して、黄蓋どのは幕のほうへ歩いていった。

 

 俺がその意味をきちんと理解するのは、これより何年もあとのことになる。

 

 幕の前まで来たとき、中から高い声が飛んできた。

 

「――だから、私も行くって言ってるでしょ!」

 

 子供の声だった。それも、かなり怒っている。

 

 黄蓋どのが露骨に顔をしかめて、幕を捲った。

 

 中には、孫堅どのがあぐらをかいて座っていた。その正面に、十四、五ほどの少女が仁王立ちになっている。

 

 髪の色が孫堅どのと同じだった。目つきも似ている。似ているが、まだ細い。子供の細さだ。それでも背筋の伸ばし方だけは、すでに一人前の武人のそれだった。

 

「母様は前に、私が船の上でも足を取られなくなったら連れて行くって言ったわ。言ったでしょ? 私、もう取られない。今日だって粋怜と水練したもの」

 

「言ったな」

 

「じゃあ――」

 

「取られなくなったら、だ。オレは今日の水練を見てねぇ。見てねぇもんは認めねぇ」

 

「じゃあ見てよ! 今から!」

 

「夜だ。寝ろ」

 

「ずるい!」

 

 少女が地団太を踏んだ。その勢いで振り返って、幕のところに突っ立っている俺に気がついた。

 

 視線が、上から下まで走った。子供のくせに、値踏みの仕方が大人だった。

 

「……誰?」

 

「今日拾った」

 

 孫堅どのが顎で俺を指した。拾った、と言われた。

 

「楚航という。川の男だ。今日、葦原の巣を潰したのはこいつの読みだ」

 

 少女の目が、わずかに変わった。値踏みが、興味に変わった。

 

「ふうん。じゃあ、あなた強いの」

 

「――そこそこには」

 

「そこそこじゃわからないわ。母様と比べたらどう」

 

 俺は正直に答えた。

 

「比べものにならん。俺は今日、あの人が百人の真ん中に飛び込むのを見て、正気を疑った」

 

 少女は一瞬きょとんとして、それから、ぱっと笑った。

 

 その笑い方が、あまりに孫堅どのに似ていたので、俺は少し面食らった。

 

「そう。ならいいわ。わかってる人は好きよ」

 

「これ、雪蓮さま。人様に向かって好きだの嫌いだの、いきなり言うものではありませんぞ」

 

 黄蓋どのが窘めたが、少女――雪蓮というらしい――はまるで聞いていなかった。

 

「私は孫策。字は伯符。いつか母様より強くなるの」

 

 言い切って、少女は胸を張った。

 

 そのとき、幕の奥から小さな影が出てきた。

 

 もっと幼い。八つか九つほどの子だ。眠そうな目をこすりながら、姉の袖を引っ張っている。

 

「お姉様……うるさい」

 

「あら、蓮華。起きちゃった?」

 

「起きたんじゃなくて、起こされたの」

 

 蓮華と呼ばれた子は、俺のほうを見上げて、それから慌てて姉の背中に半分隠れた。人見知りらしい。だが、隠れながらも、こちらから目を逸らさなかった。じっと見ている。何者なのかを確かめようとする目だった。

 

 この子は、姉とはずいぶん違う育ち方をするのだろうな、とそのとき思った。

 

 幕の奥からは、さらに小さな寝息が聞こえていた。もう一人いるらしい。孫堅どのが親指でそちらを指して、面倒くさそうに言った。

 

「一番下だ。まだ乳臭い。……おい楚航、覚えとけ。オレの娘は三人だ。全員うるさい」

 

「母様!」

 

 俺はどう返事をすればいいのかわからず、黙って頭を下げた。

 

 この人たちが、あと十年でどうなるのか。この小さいのが誰の前に立つことになるのか。そのときの俺は、当然ながら何も知らなかった。

 

 その夜、俺は陣の端に一人で座って、川を眺めていた。

 

 水はまだ濁っている。月が出ていて、濁った水面が鈍く光っていた。上流のどこかで、また誰かの村が焼けているかもしれない。俺一人ではどうにもならない。ずっとそう思ってきた。

 

 背後に足音がした。振り向くと、孫堅どのが立っていた。今度は酒を持っていなかった。

 

「返事は」

 

 俺は少し考えてから、立ち上がった。

 

「行く。ただし、俺は陸では役に立たん」

 

「知ってる」

 

「それと、俺の連れが四人いる。あいつらも一緒でいいなら」

 

「連れて来い。飯は食わせる」

 

 あっさりしたものだった。

 

「あと、一つだけ」

 

「まだあんのか」

 

「……あんたが川の連中を売る戦をしたら、俺は本当に殴りに行く」

 

 孫堅どのは、しばらく俺を見下ろしていた。それから、鼻の頭を掻いて、この日いちばん機嫌のよさそうな声で言った。

 

「上等だ。楽しみにしとくよ」

 

 そう言って、その人は俺の肩を、思い切り叩いた。

 

 骨が軋むほどの力だった。俺はよろけて、危うく川に落ちるところだった。

 

 あとになって思えば、俺の一生はあの一晩で決まったのだと思う。

 

 俺は名もない川の男で、雇われで刀を振っていて、明日どこで飯を食うかも決めていなかった。それが、一人の女に腕を掴まれ、酒を押しつけられ、肩を叩かれて、それきり三十年ばかり、この一家から離れられなくなった。

 

 のちに人は俺のことを、長江の古狼と呼ぶようになる。

 

 狼というほど賢くもなかったし、古いというほど長く生きるつもりもなかった。ただ、この川を離れなかっただけだ。

 

 濁った水はいずれ澄む。澄んだ水はまた濁る。

 

 俺はその繰り返しのそばに、ずっと立っていた。




話の進行に合わせて気になることがあれば修正していきます。
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