長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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裏庭の卓

館での暮らしは、退屈だった。

 

 退屈だというのは、平穏だという意味ではない。やることがないのに、気を抜けない、という意味だ。

 

 俺たちは客ということになっていた。だが、門を出るには許しが要り、出れば必ず誰かがついてきた。買い物に行くだけで、二人つく。三人で行けば、三人つく。

 

「――あれ、数が合っとるのう」

 

 ある朝、祭どのが門のあたりを眺めながら言った。

 

「合っている。……こちらが出す人数と、向こうがつける人数が、いつも同じだ」

 

「几帳面じゃな」

 

「几帳面というより、決まりがあるんだろう。……たぶん、一人につき一人と決められている」

 

 俺は、そう言った。

 

「決まりがあるということは、決めた者がいる。決めた者がいるということは、報告を受けている者がいる。……つまり、うちの出入りは全部、どこかに書かれている」

 

「書かれとるのか」

 

「書かれているはずだ。……俺なら書く」

 

 祭どのは、そこで少し嫌そうな顔をした。

 

「若いの。あんた、そういうことを朝から言うな」

 

「聞いたのはあんただ」

 

「聞いたが、ここまで言えとは言うとらん」

 

「では、次からは短く答える。……『合っている』とだけ言う」

 

「それはそれで腹が立つのう」

 

 俺は、その日から、館の出入りを数え始めた。

 

 誰が、いつ、どこへ出て、何人ついたか。帳面に書いた。書いたところで何にもならないが、書いておくと、そのうち形が見えることがある。

 

 三月ほどで、形が見えた。

 

 台所へ入る商人は、ついてくる者が少ない。米や菜を運ぶ荷車は、門で改められるが、中身までは見られない。そして、月に二度、川から魚を運んでくる舟がある。

 

 その舟に乗っている男が、俺の顔を見て、二度目に会ったときにこう言った。

 

「……あんた、楚の旦那じゃないか」

 

 俺は、その言い方に覚えがあった。

 

「――川の者か」

 

「そうだよ。長江の下流だ。あんたには昔、二度助けてもらった」

 

 俺は、その男の顔をしばらく見た。

 

 思い出せなかった。だが、思い出せないと言うのは失礼な気がした。

 

「――すまん。顔は覚えていない」

 

 俺は、正直に言った。

 

「だが、名を教えてくれ。今から覚える」

 

 男は、少しきょとんとして、それから笑った。

 

「……相変わらずだな、あんたは」

 

 その男の名を、俺は帳面に書いた。

 

 書いてから、冥琳どののところへ行った。

 

「――一つ、報告がある」

 

「なんでしょう」

 

「月に二度、川から魚を運んでくる舟がある。乗っているのは、長江の下流の者だ。……この館と、川が繋がっている」

 

 冥琳どのは、書き物の手を止めた。

 

「……それは、大きな話ですね」

 

「大きいか」

 

「大きいです」

 

 この人は、そう言った。

 

「今の我らは、外と繋がる手段を持っておりません。文を出せば改められる。人を出せば見張られる。……ですが、魚を運ぶ舟は、月に二度、必ず来る」

 

「そして、帰る」

 

「帰ります。……帰るということは、何かを持って帰れるということです」

 

「そうだ」

 

「楚航どの。その男は、信用できますか」

 

「わからん」

 

 俺は、正直に言った。

 

「二度助けたと言っていたが、俺は覚えていない。……向こうが嘘をついている可能性もある」

 

「では、どうなさいます」

 

「三年かける」

 

 俺は、そう言った。

 

「――三年」

 

「三年だ。……月に二度、顔を合わせる。何も頼まん。世間話だけする。魚を買う。値を値切らん」

 

 俺は、そう言った。

 

「三年やって、それでも向こうが同じ顔で来るなら、そのときに一つだけ頼む。……頼むのは、三年目だ」

 

 冥琳どのは、しばらく俺を見ていた。

 

「……気が長いですね」

 

「長い。だが、これは急ぐと壊れる」

 

 俺は、そう言った。

 

「人を信用するのは、水位を測るのと同じだ。一日測っても何もわからん。三年測ると、その川の癖がわかる」

 

「癖、ですか」

 

「癖だ。……この川は、夏に何尺上がるか。秋に何尺下がるか。それがわかって初めて、その川で舟が出せる」

 

 俺は、そう言った。

 

「人も同じだ。三年見れば、その男が何をするときに嘘をつくかがわかる」

 

 冥琳どのは、その言葉をしばらく吟味していた。

 

 それから、こう言った。

 

「……楚航どの。あなたは、時々、私より気の長いことを仰る」

 

「あんたは気が短いのか」

 

「短くはありません。ですが、三年待てと言われたら、その三年で他に何ができるかを先に考えます」

 

「では、考えてくれ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は三年かけてその男を測る。あんたは、その三年で他に何ができるかを考える。……そのほうが早い」

 

 冥琳どのが、そこで少し笑った。

 

「……なるほど。役割の分け方としては、悪くない」

 

 その頃、館の裏手に、卓が一つ置かれた。

 

 置いたのは冥琳どのだ。

 

 場所は、館の一番奥まったところにある、川に面したテラスだった。

 

「――なぜここなのですか」

 

 初めてそこへ通されたとき、若い娘がそう聞いた。

 

 冥琳どのが、荊州で拾ってきた弟子だという。年は十五かそこら。本を三冊抱えていて、そのうち一冊をすでに落としていた。

 

「陸遜と申します。字は伯言。……真名は、穏といいます」

 

 その娘は、落とした本を拾いながら、そう名乗った。

 

 喋り方が独特だった。急いでいない。一語ずつ、置くように喋る。

 

「――楚航だ。字は子渡」

 

「存じております。師より伺いました」

 

「どう聞いた」

 

「川のことなら何でもわかる方だと」

 

「買いかぶりだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「川のことしかわからん、と言われたのではないか」

 

 穏どのは、そこで少し困った顔をした。

 

「……あの、それは」

 

「当たっているな」

 

「……はい」

 

「正直でいい」

 

 俺は、そう言った。

 

「隠されるほうが困る。……で、さっきの問いだが。なぜここか、はもう答えが出ているんじゃないか」

 

「え?」

 

「あんた、ここへ来る途中で、二度後ろを振り返っただろう」

 

 穏どのが、目を丸くした。

 

「……見ておられましたか」

 

「見ていた。……なぜ振り返った」

 

「その、道が細くて、後ろから人が来ると、すぐわかるので」

 

 穏どのは、そう言った。

 

「あの、……つまり、ここは、近づく人が見えるということですか」

 

「そうだ」

 

 冥琳どのが、頷いた。

 

「ここなら、盗み聞きをしている人がよく見えます。……それに、普段からここで話をしていれば、いざ事を起こすときにも、こそこそせずに堂々と相談ができる」

 

「……姑息じゃな」

 

 祭どのが、瓢箪を傾けながら言った。

 

「姑息で結構」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「私たちを取り巻く環境は、なかなかどうして、厳しいものがありますので」

 

 俺は、その卓から川を見ていた。

 

 長江ではない。荊州の川だ。流れが違う。匂いも違う。

 

 だが、川は川だった。

 

「――公瑾どの」

 

「なんでしょう」

 

「この場所を選んだ理由は、もう一つあるだろう」

 

 冥琳どのが、こちらを見た。

 

「……ほう」

 

「川に面している。……この館から外へ出るのに、門を通らずに済む道が一つだけある。それがここだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「舟を寄せられる。今は寄せていないが、寄せようと思えば寄せられる」

 

 冥琳どのは、しばらく黙っていた。

 

 それから、少し笑った。

 

「……よくお気づきになりました」

 

「気づく。俺は水の男だ」

 

「そう仰ると思っておりました」

 

「では、なぜ黙っていた」

 

「あなたが気づかれるかどうかを、見ておりました」

 

 この人は、そう言った。

 

「気づかれなければ、それはそれで構いません。……ですが、気づかれたなら、この話は早く進みます」

 

「試したのか」

 

「試しました」

 

「……性格が悪いな」

 

「よく言われます」

 

 俺は、その返しに少し笑った。

 

 俺が言われ慣れている台詞を、この人も言われ慣れているらしい。

 

「――で、いつ抜ける」

 

 俺は、そう聞いた。

 

 卓の空気が、そこで変わった。

 

 穏どのが、明らかに身を固くした。祭どのが、瓢箪を置いた。

 

 冥琳どのだけが、表情を変えなかった。

 

「……早いですね」

 

「早いか」

 

「早いです。まだ館に入って一年です」

 

「一年で聞くのが早いなら、二年目には聞いていいのか」

 

「屁理屈です」

 

「屁理屈だ。……だが、聞いておきたい」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは、いつか抜けるつもりでいる。それは顔を見ればわかる。……問題は、いつかだ」

 

 冥琳どのは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、卓の上に指を三つ置いた。

 

「三年です」

 

「三年」

 

「三年のうちに、あの家から抜けます」

 

 この人は、川のほうを見た。

 

「抜けるには、三つ要ります。一つ、兵。二つ、銭。三つ、名分」

 

「今、どれもない」

 

「ありません」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「兵は七百。銭は長沙から持ってきた分が尽きかけています。名分に至っては、ゼロです」

 

「では、どう作る」

 

「作りません。もらいます」

 

「――もらう?」

 

「あちらから、です」

 

 この人は、そう言った。

 

「あの家は、我らを使いたがっています。……使われるたびに、こちらは何かを受け取れます」

 

「兵をか」

 

「兵と、銭と、名分をです」

 

 冥琳どのは、指を折った。

 

「戦に出れば、兵を貸してくれます。貸された兵は、戦のあいだこちらの指揮下に入る。……そのあいだに、こちらの隊に馴染ませる」

 

「馴染ませてどうする」

 

「返すときに、何人か残ります」

 

 この人は、平然と言った。

 

「戦で死んだことにすれば、帳面の上では消えます。……あちらは、貸した兵を一人ずつ数えたりはしません」

 

 俺は、その言い方に、少し眉を寄せた。

 

「――それは、危ないな」

 

「危ないです」

 

「見つかったら、それこそ賊だ」

 

「見つかりません」

 

 冥琳どのは、はっきりと言った。

 

「なぜなら、あちらは兵を数えていないからです。……楚航どの。あなたが以前、仰いました。あの家は、うちの兵が何人いて、そのうち何人動けるかを知らずに下知を出していると」

 

「言った」

 

「数えていない者は、消えたことにも気づきません」

 

 俺は、その理屈を認めざるを得なかった。

 

 認めたうえで、一つ言った。

 

「――公瑾どの。一つ頼みがある」

 

「なんでしょう」

 

「消えたことにする者は、こちらで選ばせてくれ」

 

「……理由を伺っても」

 

「消えたことにするというのは、その者の名前を帳面から消すということだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「消された名前は、二度と戻らん。……その者の身内が、あとで死んだかどうかを聞きに来たとき、こちらは嘘をつくことになる」

 

「……」

 

「だから、選ぶのは俺にやらせてくれ。……身内のいない者から選ぶ。それと、本人に必ず話す。黙って消すのはなしだ」

 

 冥琳どのは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……手間が増えますね」

 

「増える」

 

「増えますが、承知しました」

 

 この人は、そう言った。

 

「あなたに任せます。……そのほうが、後々こじれない」

 

「助かる」

 

「一つ、伺ってよろしいですか」

 

「言え」

 

「あなたは、なぜそこまで名前にこだわられるのですか」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

 考えて、こう答えた。

 

「――俺の母は、名前がない」

 

 卓の全員が、こちらを見た。

 

「賊に村を焼かれて、逃げる途中で死んだ。俺は十だった。……母の名を、俺は知らん」

 

 俺は、そう言った。

 

「呼んだことがないからだ。俺にとっては『母』だった。それで足りていた。……足りていたと思っていた」

 

「……」

 

「あの人が死んだあと、誰かに『お前の母の名は』と聞かれて、答えられなかった。……そのとき初めて、足りていなかったと気づいた」

 

 俺は、そう言った。

 

「だから書く。書いておけば、誰かが聞いたときに答えられる」

 

 しばらく、卓は静かだった。

 

 やがて、祭どのが瓢箪を持ち上げた。

 

「……若いの。それは、朝から話す話ではないのう」

 

「聞いたのはあんたじゃない」

 

「そうじゃが、聞いてしもうたら飲むしかないじゃろうが」

 

 この人は、そう言って一口飲んだ。

 

「わしの親父はな、行商じゃった。瓜を担いで村を回っとった。……名は覚えとる。じゃが、顔は覚えとらん」

 

「――どちらかは残るのか」

 

「残らんよ。どっちも消えていくわ」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「じゃからな、若いの。書いとけ。……わしも、そのうち書く」

 

 その頃から、俺は少しずつ舟を触るようになった。

 

 といっても、館の裏に繋いだ小舟が二艘あるだけだ。魚を買うのに使う。それ以上のことは許されていない。

 

 だが、二艘でも舟は舟だった。

 

 俺は、左脚を庇いながら舟に乗り、櫓を握った。

 

 握って、すぐにわかった。

 

 ――押せる。

 

 舟の上では、脚は使わない。踏ん張るのは腰と足の裏だ。左足の脛から下が利かなくても、板を踏んでいるだけなら支障はなかった。

 

 俺は、その日、半刻ほど川に出ていた。

 

 戻ってきたとき、桟橋に小蓮さまが立っていた。

 

「そこう! 舟のってた!」

 

「乗った」

 

「あるけないのに?」

 

「舟は歩かん」

 

「そっか」

 

 その子は、あっさり納得した。

 

「わたしものる」

 

「乗せてもいいが、条件がある」

 

「またじょうけん?」

 

「またとは何だ。……条件をつけるのは、俺の癖だ。諦めろ」

 

「わかった。なに」

 

「一つ。舟の上で立つな。慣れた者でも落ちる」

 

「うん」

 

「二つ。乗るからには漕げ。見物は乗せん」

 

「こぐ!」

 

「三つ」

 

 俺は、そこで少し考えた。

 

「三つ。……姉上たちに、俺から話す。黙って乗せるのはなしだ」

 

「えー」

 

「えー、ではない。……黙って乗せると、俺があんたの姉上二人に殴られる」

 

「そこう、よわいね」

 

「弱い。……特に上の姉上は、手加減を知らん」

 

 小蓮さまが、そこで笑った。

 

「わたし、そこうがおねえちゃんにおこられるの、みたい」

 

「見せん」

 

 その子を舟に乗せたのは、その三日後だった。

 

 櫓は、案の定ひどいものだった。力任せに押すので拍が乱れる。半刻で手のひらが赤くなった。

 

 それでも、この子は最後まで押した。

 

「――小蓮さま」

 

「なに」

 

「手を見せろ」

 

 見せると、豆が潰れかけていた。

 

「……痛いか」

 

「いたい」

 

「では、今日はここまでだ」

 

「やだ。まだやる」

 

「駄目だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「今日ここで無理をすると、明日、櫓が握れん。……明日握れないと、明後日も握れん。三日休むと、覚えたことを忘れる」

 

「……」

 

「今日半刻で止めれば、明日も半刻できる。明後日もできる。……そのほうが、十日で見れば長く漕げる」

 

 小蓮さまは、しばらく手のひらを見ていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……そこう、けいさんばっかりだね」

 

「計算ばかりだ」

 

「たのしい?」

 

「楽しい」

 

 俺は、即答した。

 

「――たのしいの?」

 

「楽しい。……数えると、先が見える。先が見えると、慌てずに済む」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は昔、慌ててばかりいた。目の前で人が連れて行かれると、数も数えずに舟を出した。……それで何度も失敗した」

 

「しっぱいしたの?」

 

「した。……四十人助けに行って、五十一人で行って、四人死なせたことがある」

 

 小蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

「……そこう」

 

「なんだ」

 

「それ、しっぱい?」

 

「失敗だ」

 

「でも、よんじゅうにんはたすかったんでしょ」

 

「三十一人だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「四十人のうち、三十一人。九人は間に合わなかった」

 

「……」

 

「そして、四人死なせた。……差し引きで言えば、二十七人だ」

 

「さしひきでかんがえるの?」

 

 その子が、そう聞いた。

 

 俺は、その質問に、少し詰まった。

 

「……考えないほうがいいと思っている」

 

「じゃあ、なんでかんがえるの」

 

「考えないと、次に同じことをやるからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「……だが、考えすぎると、人を数で見るようになる。……そうなったら終わりだと、あの人に言われた」

 

「あのひとって?」

 

「祭どのだ」

 

「祭が?」

 

「祭どのが、昔そう言った。……三百人の名前を全部言えるうちは、それを捨てるなと」

 

 小蓮さまは、しばらく考えていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……そこう、いま、なんにんおぼえてる?」

 

「七百人だ」

 

 俺は、即答した。

 

「――ぜんぶ?」

 

「全部だ」

 

「うそだ」

 

「嘘ではない」

 

「じゃあ、いってみて」

 

「――今からか」

 

「うん」

 

 俺は、そこで少し困った。

 

「……半刻かかるぞ」

 

「いいよ」

 

 結局、俺は舟の上で七百人の名前を言った。

 

 途中で日が暮れた。

 

 小蓮さまは、最後まで聞いていた。

 

 三百人を過ぎたあたりから、この子は俺の膝に頭を乗せて寝ていた。

 

 寝ていたが、俺は最後まで言った。

 

 言い終わったとき、桟橋に雪蓮さまが立っていた。

 

「……あなた、何やってるの」

 

「名前を言っていた」

 

「聞こえてたわよ。半刻ずっと」

 

「聞いていたのか」

 

「聞いてたわ。……途中から、桟橋に座って聞いてた」

 

 その人は、そう言って、舟に乗り移ってきた。

 

 小蓮さまを起こさないように、そっとだ。

 

「……この子、寝ちゃったのね」

 

「寝た。三百人目あたりでな」

 

「かわいそうに」

 

「気の毒なのは俺のほうだ。……起きている者がいないのに、四百人分喋った」

 

「私が聞いてたじゃない」

 

「あんたは途中からだろう」

 

「そうだけど」

 

 雪蓮さまは、そう言って、俺の隣に座った。

 

 しばらく、二人とも川を見ていた。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「あなた、七百人の名前、なんで覚えてるの」

 

「覚えようと思ったからだ」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ。……特別な方法はない。一人ずつ会って、名前を聞いて、出身を聞いて、それを帳面に書く。書いたものを毎晩読む」

 

 俺は、そう言った。

 

「七百人を一巡するのに、二月かかる。……二月経ったら、また最初から読む」

 

「……それ、何年やってるの」

 

「二十年だ」

 

 雪蓮さまは、そこで少し黙った。

 

「……ねえ」

 

「なんだ」

 

「私の名前も、その帳面に書いてある?」

 

 俺は、その質問に、少し面食らった。

 

「――書いていない」

 

「なんで!」

 

「あんたは兵ではないからだ」

 

「じゃあ書いてよ」

 

「書くのはいいが、なんと書く」

 

 俺は、そう言った。

 

「兵の帳面には、名前と、出身と、乗る舟の番号を書く。……あんたは舟を持っていない」

 

「じゃあ持つわ」

 

「――は?」

 

「舟。私、持つ」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「今は無理よ。でも、いつか持つわ。……そのときは、書いて」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「……わかった」

 

「約束よ」

 

「約束する。……ただし、条件が一つある」

 

「またそれ?」

 

「またそれだ。……舟を持つなら、漕げ」

 

 俺は、そう言った。

 

「持っているだけの者は、書かん。漕ぐ者だけ書く」

 

 雪蓮さまは、そこで笑った。

 

「……相変わらずね、あなた」

 

「相変わらずだ」

 

「十四のときも、同じこと言われたわ」

 

「言った。三つ条件を出した」

 

「覚えてるの?」

 

「覚えている。……舟の上で立つな、母上に話を通す、乗るからには漕げ、の三つだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「さっき、小蓮さまにも同じことを言った。三つ目だけ変えたがな」

 

「なにに変えたの」

 

「姉上たちに俺から話す、だ。……あんたに黙って乗せると、俺が殴られる」

 

 雪蓮さまが、そこで吹き出した。

 

「……殴らないわよ」

 

「殴る」

 

「殴らないってば」

 

「殴らんのか」

 

「……たぶん、殴るわね」

 

 その人は、そう言って、また笑った。

 

 翌朝、俺は冥琳どのに呼ばれた。

 

 テラスの卓に、全員が集まっていた。

 

 雪蓮さまと、蓮華さまと、祭どのと、穏どの。それに、俺だ。

 

 卓の上に、文が一通置かれていた。

 

「――出頭命令です」

 

 冥琳どのが、そう言った。

 

「用件は」

 

「まだわかりません。ですが、察しはつきます」

 

 この人は、そう言った。

 

「荊州で、黄巾の残党が暴れております。北と南に分かれた二つの群れで、北のほうが本体です」

 

「……そして、うちは北に当てられる」

 

「当てられます」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「間違いなく。……あちらは、我らを減らしたがっていますので」

 

 俺は、その言葉を聞いて、少し身構えた。

 

 身構えたが、同時に、別のことも考えていた。

 

「――公瑾どの」

 

「なんでしょう」

 

「あんた、さっき言ったな。使われるたびに、こちらは何かを受け取れると」

 

「言いました」

 

「では、今回は何を受け取る」

 

 冥琳どのが、そこで初めて、少し笑った。

 

 その笑い方が、俺には少し不気味だった。

 

「兵です」

 

 この人は、そう言った。

 

「北の本体は、数が多い。……多い相手に当てるからには、あちらも兵を貸さねばなりません」

 

「貸すか」

 

「貸します。貸さねば、我らが負ける。負ければ、荊州が荒れる。……荒れて困るのは、あちらです」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「そして、貸された兵は、戦のあいだこちらの指揮下に入ります」

 

 俺は、その言葉の意味を理解した。

 

 理解して、少し息をついた。

 

「……それが、三年の一年目か」

 

「一年目です」

 

 この人は、頷いた。

 

「三年で抜けると申し上げました。……その一年目が、今日から始まります」

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