長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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二十万

 出頭から戻ってきた雪蓮さまの顔を見て、俺は用件を察した。

 

 察したが、一応聞いた。

 

「――で、何を言われた」

 

「聞きたい?」

 

「聞きたくない。だが聞く」

 

「黄巾党の本体を叩けって」

 

 雪蓮さまは、そう言って、テラスの卓に腰を下ろした。

 

 腰を下ろすというより、投げ出した。

 

「二十万よ」

 

「……二十万」

 

「少なく見積もって二十万。多く見積もったら三十万ですって」

 

「うちは」

 

「七百」

 

「――七百で二十万か」

 

「そうよ」

 

「それは戦とは言わん。ただの散歩だ。行って帰ってくるだけの」

 

「帰ってこられないでしょ、それ」

 

「帰ってこられんな」

 

 俺は、そう言って、自分でも呆れた。

 

 卓の向かいで、冥琳どのが文を広げていた。読み終わって、あっさりと言った。

 

「話にならんな」

 

「でしょ」

 

「敵うわけがない。……七百で二十万に当たれというのは、水を桶で汲んで川を干せというのと変わらん」

 

「桶か」

 

 俺は、そこで少し引っかかった。

 

「――公瑾どの。桶で川は干せんが、堰を作れば流れは変えられるぞ」

 

「例え話に食いつかないでください」

 

「食いつく。俺は川の男だ」

 

「……そうでしたね」

 

 冥琳どのは、そう言って溜め息をついた。

 

「まあ、川の話でいいでしょう。……堰を作るにも人手が要ります。七百では、堰も作れません」

 

「では、人手を集めればいい」

 

「どこから」

 

「――そこは、あんたが考えるところだろう」

 

「押しつけましたね、今」

 

「押しつけた」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は舟と人の勘定はできる。軍略はできん。……できんことを考えるふりをするより、できる者に振ったほうが早い」

 

「開き直りが見事です」

 

「褒めているのか」

 

「褒めていません」

 

 冥琳どのは、そう言って、卓に肘をついた。

 

 ついてから、こう言った。

 

「――旧臣を呼ぶ」

 

 その一言で、場の空気が変わった。

 

 祭どのが、瓢箪を持ち上げる手を止めた。

 

「……冥琳。あんた、それ本気か」

 

「本気だ」

 

「文台さまの代の連中じゃぞ。……散り散りになって、もう三年になる」

 

「三年なら、まだ生きている」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「五年経てば別の主に仕える。十年経てば忘れる。……三年なら、まだ間に合う」

 

「間に合うかのう」

 

「間に合わせる」

 

 この人は、そう言った。

 

「それに、袁術どのは許可を出した」

 

 雪蓮さまが、そこで顔を上げた。

 

「そう。出したのよ、あの子」

 

「……よく出したのう」

 

「馬鹿なのよ」

 

 雪蓮さまは、あっさりと言った。

 

「二十万に当たれって言うなら、こっちも人を集めないと無理でしょって言ったら、『ならば見込んでやる、さっさと呼び寄せて討伐に向かえ』ですって」

 

「……ふむ」

 

「わかる? あの子、私が兵を増やすのを許可したのよ」

 

「わかるわ」

 

 祭どのが、そこで大笑いした。

 

「あの二人は、正真正銘のバカさんじゃな」

 

「バカよ」

 

「バカじゃ」

 

 俺は、その二人のやりとりを聞きながら、少し気になったことを口にした。

 

「――一つ聞くが」

 

「なによ」

 

「本当に馬鹿なのか」

 

 卓が、少し静かになった。

 

「……どういう意味?」

 

「そのままの意味だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「二十万に七百で当たれというのは、こちらを殺す気の下知だ。……殺す気の相手が、こちらに兵を増やす許可を出す。それは変だろう」

 

「変じゃないわよ。あの子、そこまで考えてないもの」

 

「考えていないのか、考えた上でそう見せているのか。……そこが違う」

 

 俺は、そう言った。

 

「もし後者なら、集めた旧臣ごと北で潰す気だ。……二十万に当てて、こちらの古株を根こそぎ減らす。そのほうが、七百を減らすより効く」

 

 冥琳どのが、そこで俺を見た。

 

「……楚航どの」

 

「なんだ」

 

「あなた、軍略はわからないと仰いませんでしたか」

 

「わからん」

 

「今のは軍略です」

 

「今のは勘定だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「七百を潰すのと、七百に旧臣二千を足して潰すのと、どちらが得か。……そういう話だ。数を比べただけで、策は何も立てていない」

 

「同じことです」

 

「違う。……策というのは、そこから『では、どうするか』を出すことだろう。俺はそこが出せん」

 

 冥琳どのは、しばらく黙っていた。

 

 それから、少し笑った。

 

「……いいでしょう。では、私が出します」

 

 この人は、卓の上に地図を広げた。

 

「集めます。潰される前提でも集めます」

 

「――潰される前提か」

 

「前提です。……ですが、潰されるかどうかは、当てられた場所で決まる」

 

 冥琳どのは、地図の北を指した。

 

「北の本体は二十万。ここに正面から当たれば、確かに全滅します。……ですが、二十万というのは、一つの塊ではありません」

 

「――ほう」

 

「二十万を一箇所に置けるとお思いですか」

 

 この人は、そう言った。

 

「一日に食う米が二千石です。二十日で四万石。……それだけの糧を一箇所に集められるなら、そもそも反乱など起きていません」

 

「……つまり」

 

「散っています」

 

 冥琳どのは、はっきりと言った。

 

「散らざるを得ない。二十万は、たぶん十以上の群れに分かれている。……そのうち、まとまって動けるのは三万か、せいぜい五万でしょう」

 

 俺は、その話を聞いて、腹の底が少し軽くなった。

 

「――なるほど。飯の話か」

 

「飯の話です」

 

「それなら俺にもわかる」

 

「わかると思って申し上げました」

 

「気を遣われたな」

 

「遣いました」

 

 冥琳どのは、涼しい顔でそう言った。

 

「……あんた、意外と嫌味だな」

 

「よく言われます」

 

 旧臣を呼び集めるのに、半年かかった。

 

 文を出すだけでは来ない。三年も散っていた連中だ。多くは別の土地で別の仕事をしている。田を耕している者、荷を運んでいる者、賊に落ちている者。

 

 だから、人を出した。

 

 誰を出すかで、少し揉めた。

 

「――わしが行く」

 

 祭どのが、真っ先にそう言った。

 

「あんたは駄目だ」

 

 俺は、即座に言った。

 

「なぜじゃ」

 

「顔が知られすぎている」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたが動くと、袁の家がすぐ気づく。……気づかれると、集める先が先回りされる」

 

「では、誰が行く」

 

「俺だ」

 

 俺は、そう言った。

 

 祭どのが、瓢箪を置いた。

 

「……あんた、脚がその様じゃろうが」

 

「脚は関係ない。俺が行くのは川沿いだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「文台さまの代の兵は、半分が川の出だ。散ったなら、たぶん川へ戻っている。……川なら、俺は歩かなくていい。舟で回れる」

 

「一人でか」

 

「一人ではない。……阿六を連れて行く」

 

 冥琳どのが、そこで口を挟んだ。

 

「監視がつきますよ」

 

「つくだろうな」

 

「どうなさいます」

 

「一緒に乗せる」

 

 俺は、そう言った。

 

「――は?」

 

「舟に乗せる。二人つくなら、二人とも乗せる」

 

「……理由を伺っても」

 

「三つある」

 

 俺は、指を立てて、それからやめた。

 

「――いや、二つでいい」

 

「なぜ減らしました」

 

「三つ目が思いつかなかった」

 

「……」

 

「一つ。追われるより、隣にいてもらうほうが動きやすい。……離れたところから見られていると、こちらが何をしているか勝手に想像される。隣にいれば、見たままを報告する」

 

「なるほど」

 

「二つ。舟の上は狭い」

 

 俺は、そう言った。

 

「半月も同じ舟に乗っていれば、飯も一緒に食う。話もする。……そのうち、名前で呼ぶようになる」

 

 冥琳どのが、そこで少し目を細めた。

 

「……それは、取り込むおつもりですか」

 

「取り込むつもりはない」

 

「では」

 

「ただ、名前を知っておきたいだけだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの二人は、俺を見張るのが仕事だ。仕事でやっているだけで、俺に恨みはない。……恨みのない相手に、いつまでも他人の顔をしているのは、しんどい」

 

 冥琳どのは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……あなた、それを自然にやるから性質が悪い」

 

「褒めているのか」

 

「褒めていません。呆れています」

 

「あんた、さっきからそればかりだな」

 

 舟を出したのは、その半月後だった。

 

 監視の二人は、最初の三日、舟の後ろで固まっていた。

 

 四日目に、一人が櫓を握った。

 

 五日目に、二人とも握った。

 

 十日目には、俺の隊の男と一緒に飯を食っていた。

 

 二十日目に、片方が俺のところへ来て、こう言った。

 

「……楚航どの。一つ、伺ってもよろしいですか」

 

「なんだ」

 

「なぜ、我らを乗せたのです」

 

「乗せたほうが楽だからだ」

 

「……我らは、あなた方を見張る者ですよ」

 

「知っている」

 

 俺は、そう言った。

 

「知っているが、見張るのが仕事なら、仕事をしてくれればいい。……こちらが隠すのは、隠すべきことだけだ。それ以外は、見てもらって構わん」

 

「隠すべきこと、とは」

 

「言えるわけがないだろう」

 

 俺が言うと、その男は少し笑った。

 

「……なるほど」

 

「それと、名を教えてくれ」

 

「――は?」

 

「二十日も同じ舟に乗っている。……いい加減、『おい』と呼ぶのが面倒になった」

 

 その男は、しばらく黙っていた。

 

 それから、名乗った。

 

 俺は、それを帳面に書いた。

 

 書いたところを、その男が覗き込んだ。

 

「……何を書いておられるのです」

 

「名前だ」

 

「それは見ればわかります。……なぜ書くのです」

 

「覚えるためだ」

 

「覚えて、どうなさる」

 

「どうもならん」

 

 俺は、そう言った。

 

「ただ、あんたがいつか死んだときに、俺が『あの見張りの男』としか言えないのは、嫌だからだ」

 

 その男は、それきり何も言わなかった。

 

 旧臣は、思っていたより多く集まった。

 

 半年で、二千三百。

 

 そのうち八百は、俺が川で見つけた。残りは、方々から自分で歩いてきた。

 

 中には、賊に落ちていた者もいた。

 

 そういう連中を連れて帰ったとき、冥琳どのが少し嫌な顔をした。

 

「……賊上がりを、そのまま入れるのですか」

 

「入れる」

 

「軍規を知りませんよ」

 

「教える」

 

「三月で厄介事を起こします」

 

「起こすだろうな」

 

 俺は、あっさり認めた。

 

「……わかっていて入れるのですか」

 

「わかっている。……だが、あいつらが賊に落ちたのは、うちが解体されたからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「三年前、二千五百が召し上げられた。残りの七百も、飯が減った。……食えなくなった者が、川で盗るようになった。それは、あいつらのせいか」

 

「……」

 

「うちのせいだ。少なくとも半分は」

 

 俺は、そう言った。

 

「半分こちらのせいなら、半分は引き受ける。……全部は無理だが、半分なら」

 

 冥琳どのは、しばらく黙っていた。

 

 それから、溜め息をついた。

 

「……わかりました。ですが、揉め事はあなたが処理してください」

 

「処理する」

 

「即答ですね」

 

「即答だ。……揉め事の処理は得意だ」

 

「そうなのですか」

 

「得意だ。……二十年、揉め事ばかり処理してきた」

 

 俺は、そう言った。

 

「賊と漁師の揉め事、隊と村の揉め事、飯の量の揉め事。……刀を抜かずに済ませる方法なら、たぶん誰より知っている」

 

 冥琳どのは、その言葉に、少し表情を緩めた。

 

「……それは、確かに得意そうです」

 

 揉め事は、案の定、二月目に起きた。

 

 場所は市だった。うちの兵が四人、店の者と揉めて、店先の台をひっくり返した。

 

 俺が駆けつけたときには、市の者が二十人ばかり集まって、四人を取り囲んでいた。

 

 俺は、まず店の主に聞いた。

 

「――代金が足りないと言ったのは、あんたか」

 

「そうだよ」

 

「いくら足りない」

 

「五銭だ」

 

「その干物、一枚いくらだ」

 

「二十銭だ」

 

「三日前は」

 

 男が黙った。

 

 俺は、懐から帳面を出した。この城に入った日から、市の値を書き取らせていた。

 

「三日前は十二銭だ。昨日が十五銭。今日が二十銭。……三日で倍近い」

 

「そりゃ、あんたらが来たから――」

 

「そうだ。俺たちが来たからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「兵が二千入れば、物は足りなくなる。値が上がるのは当たり前だ。……あんたが値を上げたことを、俺は責めていない」

 

 店の主が、口を開けたまま俺を見た。

 

「だが、あんたは値を上げたことを言わなかった。言わずに『足りない』とだけ言った。……それを聞いたこの四人は、自分が騙されたと思った」

 

 俺は、市の者を見回した。

 

「もう一つある。……この四人を賊と呼んだ者がいるな」

 

 誰も答えなかった。

 

「呼んだ理由はわかる。この四人は、去年までこの辺で船を襲っていた。……あんたたちの中には、荷を取られた者もいるだろう」

 

 何人かが、目を逸らした。

 

「その恨みを、俺は消せと言わない。消えるものではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、今日この四人は銭を払った。払ったのに賊と呼ばれた。……もし、払っても賊と呼ばれるなら、次からこいつらは払わなくなる。それは、あんたたちが困る」

 

 しばらく、誰も口を利かなかった。

 

「台をひっくり返したのはこちらの非だ。干物の代金は、うちが全部持つ。値は三日前のもので払う。……それでいいか」

 

 店の主は、しばらく口をもごもごさせて、それから小さく頷いた。

 

 市を出て、館へ戻る道すがら、四人のうちの一人が後ろからついてきた。

 

「……隊長」

 

「なんだ」

 

「なんで、俺らを叱らないんですか」

 

「叱ったぞ」

 

「叱ってないでしょう。台の話だけです」

 

「それでいい」

 

 俺は、そう言った。

 

「お前たちは銭を払った。手も、最初は出していない。……台をひっくり返したのは、賊と呼ばれたあとだ。あれを我慢しろというのは、俺には言えん」

 

「……」

 

「俺だって我慢できん。三十過ぎたが、たぶん今でも無理だ」

 

 その男は、しばらく黙って歩いていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……隊長、変わりましたね」

 

「――そうか」

 

「昔はもっと怖かったですよ」

 

「怖かったか」

 

「怖かったです。無口だし、目つき悪いし。……なんか、殴られそうな感じでした」

 

「殴らんだろう」

 

「殴られませんでしたけど、そういう感じでした」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「……それは、たぶん、俺が喋らなかったからだ」

 

「喋らなかったんですか」

 

「喋らなかった。……喋る必要がないと思っていた」

 

 俺は、そう言った。

 

「命じれば動く。動けば済む。……そう思っていたんだが、脚をやってから、それでは駄目だと気づいた」

 

「なんでです」

 

「動けんからだ」

 

 俺は、自分の左脚を示した。

 

「昔は、俺が先頭に立てば済んだ。今は立てん。……立てない者が隊を動かすには、喋るしかない」

 

 その男は、そこで少し考えた。

 

「……じゃあ、脚のおかげですか」

 

「おかげと言うな」

 

「すみません」

 

「……いや、間違ってはいない」

 

 俺は、そう言った。

 

「おかげとは思わんが、そういうことだ」

 

 出陣が決まったのは、その年の秋だった。

 

 テラスの卓に、全員が集まった。

 

 雪蓮さま、蓮華さま、祭どの、冥琳どの、穏どの。それに、俺だ。

 

 冥琳どのが、地図を広げた。

 

「――兵は、二千三百に七百を足して三千。それと、袁術どのから貸された千五百」

 

「四千五百か」

 

「四千五百です」

 

「二十万に対して四千五百」

 

「はい」

 

「まだ足りんな」

 

「足りません」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「ですが、先ほど申し上げた通り、二十万は散っております。……我らが最初に当たるのは、城に籠っている一群です。数は八千ほど」

 

「八千か。……それなら、まだ話になる」

 

「なりません」

 

 この人は、はっきりと言った。

 

「城に籠っている八千です。攻める側は、三倍要る。……二万四千が要る計算です」

 

「四千五百しかない」

 

「ありません」

 

「……つまり、どうするんだ」

 

「攻めません」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「城は攻めません。……出させます」

 

 俺は、その一言で、この人が何を考えているかを察した。

 

「――出させて、野で叩くか」

 

「そうです」

 

「どうやって出させる」

 

「そこが問題です」

 

 この人は、そう言った。

 

「籠っている者は、出れば負けるとわかっています。……出す理由を作らねばなりません」

 

 しばらく、卓は静かだった。

 

 俺は、地図を見ていた。

 

 見ていて、一つ気になったことがあった。

 

「――公瑾どの。この城、川はどうなっている」

 

「川、ですか」

 

「城の水だ。……八千が籠っているなら、水が要る。井戸だけでは足りん」

 

 冥琳どのが、地図を覗き込んだ。

 

「……北に川があります。城壁のすぐ外です」

 

「外か」

 

「外です」

 

「では、汲みに出ているな」

 

 俺は、そう言った。

 

「八千が一日に飲む水は、相当な量だ。……井戸で足りるなら、城の中に井戸が十以上ないといかん。そんな城は珍しい」

 

「……つまり、毎日、水汲みの隊が外に出ていると」

 

「出ている」

 

 俺は、そう言った。

 

「出ているなら、そこを押さえればいい。……押さえれば、向こうは出るしかなくなる」

 

 冥琳どのは、しばらく地図を睨んでいた。

 

 それから、顔を上げた。

 

「……楚航どの」

 

「なんだ」

 

「今のは、軍略です」

 

「――また言うのか」

 

「言います。何度でも言います」

 

 この人は、そう言った。

 

「あなたは、軍略がわからないのではありません。……水の話だと気づかないと、動けないだけです」

 

「……」

 

「ですから、これからは私が水の話に直します。あなたは、それに答えてください」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「――前にも同じことを言った気がするが」

 

「言いました。今度は、私から申し上げております」

 

「では、そうしよう」

 

 俺は、そう言った。

 

「ただし、一つ条件がある」

 

「またですか」

 

「またです」

 

 俺は、そう言った。

 

「水の話に直せないときは、直せないと言ってくれ。……無理に直されると、俺が間違える」

 

「……承知しました」

 

 その夜、俺は舟の上にいた。

 

 出陣の前に、舟の様子を見ておきたかった。二艘しかない小舟だが、それでも見ておくと落ち着く。

 

 桟橋に、足音がした。

 

 雪蓮さまだった。

 

「――こんな時間に何をしている」

 

「あなたこそ」

 

「舟を見ていた」

 

「私も舟を見に来たわ」

 

「嘘だな」

 

「嘘よ」

 

 その人は、あっさり認めて、舟に乗り移ってきた。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「明日から、戦よ」

 

「そうだな」

 

「私、三年ぶりよ。戦」

 

「そうか」

 

「怖いって言ったら、笑う?」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

「――笑わん」

 

「即答ね」

 

「即答した。……というより、笑うところがない」

 

 俺は、そう言った。

 

「三年前、あんたは母上を亡くした。母上は戦で死んだ。……その戦へ、明日から行く。怖くないほうがおかしい」

 

「……」

 

「それに、俺も怖い」

 

「あなたも?」

 

「怖い」

 

 俺は、そう言った。

 

「三年、まともに戦っていない。脚はこれだ。……昔と同じつもりで動いて、動けなかったらどうしようと思っている」

 

「……そうなの」

 

「そうだ。……舟の上なら大丈夫だと思っているが、思っているだけだ。実際にやってみるまでわからん」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「そういうこと、みんなの前では言わないのね」

 

「言わん」

 

「なんで」

 

「言うと、みんなが怖くなるからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「隊を預かっている者が『怖い』と言うと、隊全体が怖くなる。……だから、隊の前では言わん」

 

「じゃあ、なんで私には言うの」

 

「あんたが先に言ったからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「先に言われたら、こちらも言う。……そうしないと、あんたが一人で怖いことになる」

 

 雪蓮さまは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、少し笑った。

 

「……ずるいわね、あなた」

 

「ずるいか」

 

「ずるいわよ。……そういうこと言われたら、怖いのが半分になっちゃうじゃない」

 

「半分になったなら、上出来だ」

 

「上出来じゃないわよ。……半分残ってるもの」

 

「残りの半分は、明日勝てば消える」

 

 俺は、そう言った。

 

「勝てば消える。負ければ増える。……単純な話だ」

 

「単純すぎるでしょ」

 

「単純でいい」

 

 俺は、そう言った。

 

「戦の前の夜に難しいことを考えると、寝られん。……寝られない者から、明日死ぬ」

 

 雪蓮さまは、そこで吹き出した。

 

「……あなた、それ、慰めてるつもり?」

 

「慰めてはいない。事実を言った」

 

「事実でも、言い方があるでしょ」

 

「よく言われる」

 

 俺が言うと、その人はまた笑った。

 

 笑って、それから、川のほうを見た。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「明日、勝ったらね」

 

「うん」

 

「一つ、頼んでいい?」

 

「聞こう」

 

「……名前、書いて」

 

 俺は、その言葉の意味を、一瞬つかみかねた。

 

「――誰のだ」

 

「私の」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「あなた、言ったでしょ。漕ぐ者だけ書くって。……私、明日、漕ぐわ」

 

「――明日は陸の戦だぞ」

 

「じゃあ、明後日でもいいわよ」

 

 その人は、そう言った。

 

「いつでもいいの。……ただ、書いてほしいだけ」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

 それから、頷いた。

 

「――書く」

 

「約束よ」

 

「約束する」

 

 その約束を果たすのに、俺はこのあと何年かかったか。

 

 思い出すたびに、自分の腰の重さに呆れる。

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