長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
出陣の前の日に、一つ揉めた。
揉めたのは、蓮華さまだった。
「――なぜ、私だけ残るのですか」
テラスの卓で、この人がそう言った。
珍しく、声が硬かった。この人が人前で不服を言うのを、俺は初めて見た。
「決めたのは私よ」
雪蓮さまが、そう言った。
「理由を伺えますか」
「うちが全滅したときのため」
あっさりした言い方だった。
「……全滅」
「そう。四千五百で二十万に当たるのよ。全滅する目はあるわ」
雪蓮さまは、そう言った。
「そのときにね、あなたが残っていれば、孫家は絶えないの。……絶えなければ、いつかまた立てるでしょ」
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
黙ってから、こう言った。
「……つまり、私は保険ですか」
「そうよ」
「即答ですね」
「即答よ。他に言いようがないもの」
俺は、その会話を横で聞いていて、少し口を挟みたくなった。
挟むべきかどうかを、しばらく考えた。
考えているうちに、蓮華さまが立ち上がった。
「……承知しました」
声が、さっきより硬くなっていた。
「留守は預かります。……ですが、一つだけ申し上げます」
「なによ」
「保険というのは、使われないほうが良いものです」
この人は、そう言った。
「使われるということは、本体が失われたということですから。……私は、私が使われない戦を望みます」
言い終わって、この人はさっさとテラスを出て行った。
残された卓が、少し静かになった。
「……怒らせたわね」
「怒っておられましたな」
祭どのが、瓢箪を傾けながら言った。
「あの子が、ああいう言い方をするのは珍しいのう」
「珍しいわよ。……私、たぶん、言い方を間違えたわ」
「間違えたな」
俺が言うと、雪蓮さまがこちらを見た。
「……あなた、そこは慰めるところじゃないの」
「慰めん。間違えていた」
「はっきり言うわね」
「はっきり言う。……あんたの言ったことは、全部正しい。だが、順番が悪い」
俺は、そう言った。
「先に『あなたが残っていれば孫家は絶えない』と言えばよかった。……あんたは、全滅の話から入った」
「同じでしょ」
「同じではない」
俺は、そう言った。
「先に全滅の話をすると、あの人は『自分は死なずに済む側だ』と聞く。……あとから聞けば、『自分が最後の一人になるかもしれない』と聞く」
「……」
「重さが違う。あの人が欲しかったのは、たぶん後者だ」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、椅子に深く座り直した。
「……あなた、たまに嫌なことを正確に言うわね」
「よく言われる」
「もう。……あとで謝ってくるわ」
「謝るな」
「なんでよ」
「謝ると、あの人が困る」
俺は、そう言った。
「あの人は、あんたの判断が正しいことを知っている。……正しい判断をした者に謝られると、受け取る側は行き場がなくなる」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「言い直せばいい」
俺は、そう言った。
「謝るのではなく、順番を入れ替えて、もう一度言え。……『あなたが残っていれば孫家は絶えない』から始めて、そのあとに理由をつけろ」
雪蓮さまは、しばらく俺を見ていた。
「……あなた、そういうの、どこで覚えたの」
「村を回っていたときだ」
俺は、そう言った。
「烽火を頼みに、二十三の村を回った。……最初の五つは断られた。断られた理由を考えて、話す順番を変えたら、六つ目で通った」
「順番だけで?」
「順番だけでだ」
俺は、そう言った。
「言っていることは、五つ目も六つ目も同じだった。……変えたのは順番だけだ」
その夜、雪蓮さまは蓮華さまの部屋へ行ったらしい。
何を話したかは、俺は知らない。
ただ、翌朝、蓮華さまが門まで見送りに出てきた。
出てきて、俺のところへ来て、こう言った。
「子渡」
「なんだ」
「お姉様に、何か言いましたか」
「――言った」
「即答ですね」
「即答した。隠しても、あんたにはすぐわかる」
蓮華さまは、そこで少しだけ表情を緩めた。
「……お姉様、昨日と同じことを、順番を変えて言いました」
「そうか」
「はい。……あなたの入れ知恵ですね」
「入れ知恵だ」
「……それ、ずるくないですか」
「ずるい」
俺は、そう言った。
「だが、順番を変えるだけで伝わるものが変わるなら、変えたほうがいい。……変えずに伝わらないほうが、よほど損だ」
蓮華さまは、しばらく俺を見ていた。
「……子渡。一つ聞いていいですか」
「聞け」
「あなたは、私が留守番でいいと思っていますか」
俺は、その質問に、少し考えた。
「――半分は思っている」
「半分ですか」
「半分だ。……あんたが残るのは、理屈としては正しい」
「では、残りの半分は」
「あんたが、それを納得していないことのほうが大事だ」
俺は、そう言った。
「納得していない者を残すと、残された側は三月で腐る。……腐ると、次に呼んだときに動かん」
「私は腐りません」
「腐らんだろうな。あんたは真面目だ」
俺は、そう言った。
「だから、こうしてくれ。……留守のあいだ、館の帳面を全部作り直せ」
「――帳面、ですか」
「帳面だ。人の数、糧の量、出入りの記録。……今のうちの帳面は、俺が片手間に書いたものだ。読みにくい」
俺は、そう言った。
「あんたが作り直せば、たぶん俺のものより十倍見やすくなる。……戻ってきたときに、それがあると助かる」
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
「……それ、仕事をくれているんですか」
「くれている」
「気を遣いましたね」
「遣った」
俺は、そう言った。
「だが、必要なのも本当だ。……両方本当だ」
蓮華さまは、そこで少し笑った。
「……また、それですね」
「またそれだ」
「わかりました。作ります」
この人は、そう言った。
「戻ってきたら、見てください。……絶対に見てください」
「見る」
「約束ですよ」
「約束する」
行軍の三日目に、新しい顔が合流した。
といっても、旧臣の一人だ。呼び集めた二千三百のうち、遅れて来た組だった。
俺の舟に乗り込んできたその娘は、こちらを見るなり、ぱっと顔を輝かせた。
「――楚航さま!」
「……あんたは」
「周泰と申します! 字は幼平、真名は明命です!」
その娘は、そう言って、勢いよく頭を下げた。
年は二十そこそこ。背は低いが、体つきが引き締まっている。動きが速い。
俺は、その名前を頭の中で探した。
探して、見つけた。
「――ああ。文台さまの代に、斥候をやっていた者か」
「はい! 覚えていてくださったのですか!」
「覚えている。……ただ、あんたの顔は覚えていない。当時は十かそこらだっただろう」
「十二でした!」
「では、覚えていなくても仕方がないな」
俺は、そう言った。
「あんたは、なぜ俺を覚えている」
「楚航さまは、私の父の名を覚えてくださっていました」
その娘は、そう言った。
「父は、文台さまの代の兵でした。私が十二のときに死にました。……そのとき、楚航さまが帳面に父の名を書いてくださったのを、私は見ておりました」
「……そうか」
「はい!」
「では、書いた甲斐があった」
俺は、そう言った。
「甲斐というのは、こういうときに使う言葉だな。……初めて使った気がする」
明命という娘は、そこできょとんとした。
「……あの、楚航さま。もっと難しい方かと思っておりました」
「難しいか」
「はい。父が『あの方は無口で怖い』と申しておりましたので」
「昔はそうだった」
俺は、そう言った。
「今は喋る。……喋らんと、脚が動かんぶんを埋められん」
「あ、それは……」
「気を遣うな。事実だ」
俺は、そう言った。
「それより、斥候ができるなら助かる。……このあと、城の周りを見てもらいたい」
「はい! なんでも見てまいります!」
「なんでも見なくていい。見るものを決める」
俺は、地図を広げた。
「北の川と、城のあいだだ。……水汲みの隊が、いつ、何人で、どの道を通るか。それだけを見てくれ」
「水、ですか」
「水だ」
俺は、そう言った。
「城に八千籠っている。八千が一日に飲む水は、たぶん八十石を超える。……井戸だけで足りるとは思えん」
「なるほど……!」
「見てきてくれるか」
「行ってまいります!」
その娘は、そう言うなり、舟から跳んだ。
跳んで、岸に降りて、走っていった。
速かった。
「……隊長」
阿六が、隣で呆れたように言った。
「あの子、今、二間くらい跳びませんでした?」
「跳んだな」
「あれ、人ですか」
「人だ。……たぶん」
明命が戻ってきたのは、その日の夜だった。
報告は、驚くほど正確だった。
「水汲みの隊は、一日に三度出ています。朝と、昼と、夕方です」
この娘は、そう言った。
「人数は、朝が二百、昼が百五十、夕方が二百。……桶を担いだ者と、それを守る兵が半々です」
「守りの兵は」
「弓が三十、槍が七十ほど。……ですが、あまり緊張しておりません。三日見ましたが、毎回同じ道を通ります」
「同じ道か」
「はい。城の北門から出て、川まで真っ直ぐです。……距離は二町ほど」
俺は、その報告を聞いて、しばらく地図を見ていた。
見てから、冥琳どのに言った。
「――公瑾どの。ここを押さえられる」
「押さえたら、どうなります」
「城に水が入らん」
俺は、そう言った。
「八千が一日八十石だ。城の中の井戸で賄えるのは、たぶん三十石か四十石。……足りない分が毎日積み上がる」
「何日保ちますか」
「五日」
俺は、即答した。
「五日で、水が足りなくなる。……足りなくなったら、出るしかない」
冥琳どのは、地図を睨んでいた。
「……その五日、こちらは何をしていますか」
「待っている」
「待つだけですか」
「待つだけだ」
俺は、そう言った。
「川と城のあいだに陣を張って、水汲みの隊が来たら追い返す。斬らん。追い返すだけでいい」
「なぜ斬らないのです」
「斬ると、向こうが必死になる」
俺は、そう言った。
「追い返すだけなら、向こうは『次はもっと兵を出そう』と考える。……考えているうちに、日が経つ」
「……なるほど」
「斬ると、翌日には総出で来る。……そうなると、五日待たずに大戦になる」
冥琳どのは、しばらく黙っていた。
それから、少し笑った。
「……楚航どの。あなた、意地が悪いですね」
「意地が悪いか」
「悪いです。……相手に希望を持たせておいて、その希望のぶんだけ日を稼ぐ」
「褒めているのか」
「褒めています」
「珍しいな」
「たまには褒めます」
この人は、そう言った。
水汲みの道を押さえたのは、その翌日だった。
俺は千を出した。川と城のあいだに横に並べて、柵を立てさせた。
朝の水汲みが来た。
二百のうち、守りの兵が前に出てきた。
俺は、柵の後ろから声を張った。
「――帰れ!」
それだけ言った。
向こうは、しばらく戸惑っていた。
「斬らん! だが通さん! ……帰れ!」
俺は、もう一度言った。
向こうの隊長らしい男が、何か怒鳴り返してきた。距離があって、聞こえなかった。
それから、槍を構えて突っ込んできた。
三十人ほどだった。
俺は、柵の後ろで待った。
柵は、こちらの腰の高さまである。乗り越えるには、一度足を止めなければならない。
足を止めたところを、こちらの槍が突く。
五人が倒れて、残りが下がった。
俺は、また声を張った。
「――斬らんと言った! 次は退け! 退けば追わん!」
向こうは、倒れた五人を引きずって下がっていった。
五人とも、足か腕をやられているだけだった。俺の隊には、そう命じてある。
「……隊長」
阿六が、隣で言った。
「あれ、追わなくていいんですか」
「追わん」
「追えば、たぶん崩れますよ」
「崩れるだろうな」
俺は、そう言った。
「だが、崩したら追撃になる。追撃になったら、城の門が開く。門が開いたら、そこで大戦だ」
「……まだ早いってことですか」
「早い。四日早い」
俺は、そう言った。
「四日待てば、向こうは喉が渇いて出てくる。……渇いて出てくる者と、そうでない者は、まるで違う」
昼の隊も、夕方の隊も、同じように追い返した。
二日目も、三日目も同じだった。
三日目の夜、向こうの陣で動きがあったと、明命が報告に来た。
「城の中で、揉めているようです」
「揉めている?」
「はい。……夜中に、城壁の上で言い合いをしている声が聞こえました」
この娘は、そう言った。
「一つは『出て叩け』、もう一つは『待て』と言っておりました」
「どちらが多い」
「『出て叩け』のほうが多いです」
「……そうか」
俺は、その報告を聞いて、少し息をついた。
「――明日か、明後日だな」
「出てきますか」
「出てくる」
俺は、そう言った。
「三日渇いた人間は、四日目に決める。……五日目まで待てるのは、よほど我慢強い者だけだ」
冥琳どのが、そこで地図を広げた。
「では、出てきたときの形を決めましょう」
「――どう並べる」
「あなたが決めてください」
「――俺がか」
「あなたです」
この人は、そう言った。
「今回の戦は、水を断つ戦です。……水を断った者が、断ったあとの形も決めるべきです」
「……それは、責任の押しつけではないか」
「押しつけです」
「認めるのか」
「認めます」
冥琳どのは、そう言った。
「ですが、私が並べるより、あなたが並べたほうが良い。……あなたは、渇いた者がどう動くかを知っている」
俺は、その言い方に、少し考えた。
「――知っているか」
「知っておられます。……飢饉の年に、村を回られたと伺いました」
「回った」
「そのときに、飢えた者を見ておられる」
「見た」
俺は、そう言った。
「飢えた者は、まっすぐ走る」
俺は、地図に指を置いた。
「……渇いた者も同じだ。水が見えたら、水へまっすぐ走る。……途中に何があっても、避けない」
「では」
「川へ走らせる」
俺は、そう言った。
「柵を、真ん中だけ開けておく。……そこを通れば川へ出られるように見せる」
「通ったら、どうなさいます」
「通した先が浅瀬だ」
俺は、地図の川筋を指した。
「この辺りは、この時期、膝までしかない。……走り込んだ連中は、水に足を取られる」
「そこを」
「囲む」
俺は、そう言った。
「ただし、斬るのは前に出てきた兵だけだ。……桶を担いでいる連中は斬るな。あれは兵ではない」
冥琳どのは、しばらく地図を見ていた。
それから、顔を上げた。
「……一つ、伺ってよろしいですか」
「言え」
「桶を担いでいる者を斬らないのは、なぜです」
「あれは、たぶん、もとは百姓だ」
俺は、そう言った。
「黄巾は、飯が食えなくなった者の集まりだ。……戦うつもりで入った者と、飯のために入った者がいる。桶を担いでいるのは後者だ」
「……」
「あれを斬ると、あとが面倒になる」
俺は、そう言った。
「城が落ちたあと、この辺りには何千人も残る。……残った連中を全部斬るわけにはいかん。かといって、放っておけばまた賊になる」
「では、どうなさいます」
「田に戻す」
俺は、そう言った。
「戻すには、こちらが斬っていないことが要る。……身内を斬られた者は、田に戻らん」
冥琳どのは、その言葉をしばらく吟味していた。
それから、こう言った。
「……楚航どの」
「なんだ」
「あなたは、戦のあとのことばかり考えておられますね」
「考えている」
「戦の最中は」
「あんたが考えてくれ」
俺が言うと、この人は少し吹き出した。
「……役割の分け方としては、悪くありません」
城が出てきたのは、四日目の朝だった。
北門が開いて、兵が出てきた。
数は、五千を超えていた。
思っていたより多い。
「――多いな」
俺は、そう言った。
「八千のうち五千だ。……籠っている意味がなくなっている」
「渇きは、判断を狂わせます」
冥琳どのが、そう言った。
「予定通りに」
「予定通りにやる」
俺は、そう言って、旗を上げさせた。
柵の真ん中が、開いた。
開いた瞬間に、向こうの先頭がそこへ殺到した。
止まらなかった。誰も、そこが罠かどうかを考えなかった。
俺は、その光景を見ていて、少し胸が悪くなった。
あれは、戦っている顔ではなかった。
――水を飲みに行く顔だった。
「……隊長」
阿六が、低い声で言った。
「あれ、酷いですね」
「酷い」
「やめますか」
「やめん」
俺は、そう言った。
「やめたら、こちらが死ぬ。……それに、今やめても、あいつらは水を飲めん」
五千のうち、三千ほどが柵を抜けた。
抜けて、川へ走った。
そして、浅瀬で足を取られた。
膝までの水は、走るには一番厄介な深さだ。深ければ泳ぐ。浅ければ走れる。膝までは、どちらもできない。
そこへ、両側から俺の隊が入った。
「――前に出ている者だけを狙え! 桶を担いでいる者には手を出すな!」
俺は、そう怒鳴った。
「それと、水は飲ませてやれ!」
「――は?」
阿六が、素っ頓狂な声を出した。
「隊長、今なんて」
「水を飲ませろと言った」
俺は、そう言った。
「武器を捨てた者には、飲ませてやれ。……飲ませれば、それ以上は暴れん」
その命令は、たぶん、軍略としては馬鹿げていた。
だが、効いた。
武器を捨てた者から順に、水を飲み始めた。飲み始めた者は、もう戦わなかった。
半刻ほどで、川べりは戦場ではなくなっていた。
三千のうち、斬られたのは四百ほどだった。
残りは、川に座り込んで水を飲んでいた。
柵の内側に残った二千は、それを見て、城へ引き返した。
その日の夕方、城は開いた。
開いたというより、勝手に門が開いた。中の連中が、自分で開けた。
俺たちは、城に入った。
中には、四千ほどが残っていた。ほとんどが、動けない者だった。
「――水を配れ」
俺は、そう命じた。
「川から運べ。桶は向こうにいくらでも転がっている」
「隊長。捕虜の扱いは」
「あとで決める。……今は水だ」
俺は、そう言った。
「三日渇いた人間に、明日の話をしても届かん」
その夜、俺は城壁の上に座っていた。
左脚が痛んだ。この日は、朝からずっと立っていた。
足音がして、雪蓮さまが上がってきた。
「――こんなところで何してるの」
「座っている。……立っていると痛い」
「大丈夫?」
「大丈夫ではないが、明日には治る」
俺は、そう言った。
「一日休むと戻る。……二日続けると、三日休まないと戻らん。だから今日は座っている」
「計算ばっかりね、あなた」
「計算ばかりだ」
雪蓮さまは、そう言って、隣に座った。
しばらく、二人とも城下を見ていた。
城下には、火が点々と灯っていた。捕虜に配った水と、粥を炊いている火だ。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「今日の戦、私、あんまり戦ってないわ」
「そうだな」
「あなたが全部やっちゃったもの」
「全部ではない。……あんたの隊が柵を守った。あれがなければ、二千が横から来ていた」
「そう?」
「そうだ」
俺は、そう言った。
「あんたの隊は、四日間ずっと柵の後ろで立っていた。斬るなと言われて、追い返すだけをやっていた。……あれは、突っ込むより難しい」
「……そうかしら」
「そうだ。……兵が一番嫌がるのは、待つことだ」
俺は、そう言った。
「突っ込むのは楽だ。目の前のことだけ考えればいい。……待つのは、考える時間が長い。長いと、怖くなる」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「あなた、今日、水を飲ませろって言ったでしょ」
「言った」
「あれ、なんで」
「飲ませたほうが早いからだ」
俺は、そう言った。
「渇いている者は、水以外のことを考えない。……水をやれば、考え始める。考え始めた者は、武器を捨てる」
「……それだけ?」
「それだけだ」
「嘘ね」
雪蓮さまが、そう言った。
「……嘘だ」
俺は、認めた。
「本当は、見ていられなかった」
俺は、そう言った。
「三千が、水に向かって走っていくのを見ていた。……あれは、戦っている顔ではなかった」
「……」
「飢饉の年に、同じ顔を見たことがある。……北から流れてきた者たちだ。うちの陣の周りに小屋を建てて住み着いた」
俺は、そう言った。
「あのとき、十九人死んだ。うち七人は、名前もわからなかった」
「……」
「今日、同じ顔をした連中を四百斬った」
俺は、そう言った。
「四百斬って、残りに水を飲ませた。……差し引きで何がしたかったのか、自分でもよくわからん」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……両方でしょ」
俺は、その言葉に顔を上げた。
「あなた、いつも言うじゃない。両方本当だって」
その人は、そう言った。
「斬りたくなかったのも本当。斬らないと勝てないのも本当。……両方でしょ」
俺は、しばらく答えられなかった。
「――そうだな」
やっと、そう言った。
「そうだ。……両方だ」
「でしょ」
雪蓮さまは、少し得意そうな顔をした。
「私、あなたの言うこと、ちゃんと覚えてるのよ」
「覚えていたか」
「覚えてるわよ。……何年前だと思ってるの」
その人は、そう言った。
「北から帰ってきた年よ。私が十七のとき。……人を斬って、褒められて、嬉しくて、そのあと吐いたって話をしたの」
「覚えている」
「あのとき、あなた『両方だ』って言ったのよ」
「言った」
「私、あれで救われたの」
雪蓮さまは、そう言った。
「だから、今度は私が言うわ。……両方でいいのよ、灘」
俺は、その言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。
「――ありがたい」
「素直ね」
「素直に言った」
俺は、そう言った。
「あんたに救われるとは思っていなかったが、救われた。……礼を言う」
「もう。そういうこと、真顔で言わないでよ」
「真顔で言うしかない」
「照れるでしょ」
「照れるのか」
「照れるわよ!」
雪蓮さまは、そう言って、俺の肩を軽く叩いた。
叩いた手が、思ったより強かった。
「……痛い」
「痛くしたのよ」
城を落としてから、俺たちは半月ほどそこにいた。
捕虜の処理に、それだけかかった。
四千のうち、田に戻したのが三千二百。うちの隊に入ったのが四百。残りは、動けないか、死んだ。
田に戻す先は、穏どのが調べた。
この娘は、半月で近隣の村を全部回って、どこに何人受け入れられるかを紙にまとめてきた。
「――速いな」
俺が言うと、この娘は少し嬉しそうな顔をした。
「あの、村の帳面を見せてもらいました」
「見せてくれたのか」
「はい。……最初は断られたのですが、『税を増やす話ではありません』と申し上げたら、見せてくださって」
「……なるほど」
「あの、それで、田の広さと人の数を比べたら、余っている村と足りない村がわかりまして」
この娘は、そう言った。
「余っている村に人を入れると、来年の収穫が増えます。……増えた分から、少しだけ税をいただけば、うちの糧も増えます」
俺は、その紙をしばらく見ていた。
見てから、こう言った。
「――公瑾どのを呼んでくれ」
「え?」
「これは、俺が褒めるより、あの人に見せたほうがいい」
俺は、そう言った。
「俺が褒めても、『川の男が褒めた』で終わる。……あの人が褒めれば、あんたの手柄になる」
穏どのは、そこできょとんとした。
「……あの、手柄とか、そういうつもりでは」
「つもりがなくても、要る」
俺は、そう言った。
「あんたは十五だ。……十五の者の言うことを、大人は聞かん。聞かせるには、誰かが後ろに立つ必要がある」
「……」
「今は公瑾どのが立つ。……そのうち、あんた一人で立てるようになる」
穏どのは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……あの、楚航さま」
「なんだ」
「私、こういうことを言われたのは初めてです」
「そうか」
「はい。……師は、褒めてくださいません」
「褒めんだろうな」
俺は、そう言った。
「あの人は、褒めるかわりに次の仕事をよこす。……それが、あの人の褒め方だ」
「……そうなのですか」
「そうだ。……今度、次の仕事を渡されたら、それは褒められたと思っていい」
穏どのは、その言葉に、少し目を丸くした。
そして、次の日、冥琳どのから次の仕事を渡されていた。
城を出て、荊州へ戻る道すがら、俺は帳面をつけていた。
この戦で、うちの兵は二百三十七人減った。
四千五百で出て、四千二百六十三が帰る。
俺は、その二百三十七人の名を、全部書いた。
書き終わったとき、隣で明命が覗き込んでいた。
「……楚航さま」
「なんだ」
「それ、全部お書きになるのですか」
「書く」
「毎回ですか」
「毎回だ」
俺は、そう言った。
「二十年やっている。……そのうち、書かない年もあった。書かなかった年のことは、あまり覚えていない」
「……そうなのですか」
「そうだ。……だから、書く」
俺は、そう言った。
「書いた年のことは、覚えている。……覚えているというより、思い出せる。帳面を開けば、そこに名前がある」
明命は、しばらくその帳面を見ていた。
それから、こう言った。
「……あの、私にも書かせていただけませんか」
「――あんたが?」
「はい」
この娘は、そう言った。
「私、字はあまり上手ではありませんが、書けます。……父の名も、自分で書きたかったです」
俺は、その言葉を聞いて、少し黙った。
それから、筆を渡した。
「――では、ここからだ」
「はい!」
「ただし、間違えるな」
俺は、そう言った。
「名前を間違えるのは、書かないより悪い」
「……はい」
その娘は、そう言って、筆を握り直した。
握り方が、緊張していた。
俺は、その様子を横で見ていた。
二十年やってきたことを、誰かに渡すというのは、こういうことなのかもしれないと思った。
思ったが、まだ渡す気にはならなかった。
館に戻ったのは、その半月後だった。
門のところに、蓮華さまが立っていた。
手に、帳面を持っていた。
俺の顔を見るなり、この人はそれを差し出した。
「――できました」
「早いな」
「三月ありましたので」
俺は、それを受け取って、開いた。
開いて、少し言葉を失った。
人の数、糧の量、出入りの記録。全部が、月ごとに整理されて、比べられるようになっていた。
俺が片手間に書いたものとは、まるで別物だった。
「……これは」
「見やすいですか」
「見やすい」
俺は、そう言った。
「見やすいというより、これは俺の帳面ではない」
「え?」
「別のものだ」
俺は、そう言った。
「俺のは、記録だ。書いて、残すだけのものだ。……これは、比べられるようになっている。比べられるということは、先が読める」
「……はい」
「あんた、これを三月で作ったのか」
「はい」
「……たいしたものだ」
俺が言うと、蓮華さまは耳まで赤くなった。
「そ、そんなに褒めなくても」
「褒める」
俺は、そう言った。
「これは褒めるところだ。……それと、一つ頼みがある」
「なんですか」
「これからも、あんたが書いてくれ」
俺は、そう言った。
「俺の帳面は、俺が死んだら読めん。字が汚いからな。……あんたのなら、誰でも読める」
蓮華さまは、そこで少し困った顔をした。
「……縁起でもないことを言わないでください」
「事実だ」
「事実でも、言い方があります」
「よく言われる」
俺は、そう言った。
この人が、少しだけ笑った。
だが、笑ってから、こう言った。
「……子渡」
「なんだ」
「留守番、思っていたより辛かったです」
俺は、その言葉に、少し表情を改めた。
「……そうか」
「はい。……仕事はありました。あなたがくれましたから」
この人は、そう言った。
「でも、報せが来るたびに、誰が死んだかを数えていました。……数えることしかできませんでした」
「……」
「三月、それだけです」
俺は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「――次からは、連れて行く」
「え?」
「連れて行く。……あんたの姉上には、俺から言う」
俺は、そう言った。
「反対されたら、三度は言う。……四度目は、あんたが言え」
蓮華さまは、しばらく俺を見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「……はい」
声が、少し震えていた。