長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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空手形

 六千で帰ってきた俺たちを見て、袁術の家の門番が固まったのを、俺は今でも覚えている。

 

 四千五百で出た軍が、六千で帰ってくる。

 

 門番からすれば、意味がわからなかっただろう。

 

「――ねえ、灘」

 

 門の前で待たされているあいだに、雪蓮さまが言った。

 

「あの人、三回数え直したわよ」

 

「見ていたのか」

 

「見てたわ。指使ってたもの」

 

「指では数えきれんだろう、六千は」

 

「そうよね。……途中で諦めてたわ」

 

 俺は、その光景を想像して、少し気の毒になった。

 

 通されるまで、一刻半かかった。

 

 前に来たときは二刻だったから、少しは早くなったことになる。

 

 奥の座に、袁術という娘が座っていた。前と同じように、脇息にもたれて扇を弄んでいる。

 

 脇に、七乃という女官が控えていた。こちらも前と同じで、にこにこと笑っていた。

 

「――孫策さん、お帰りなさーい」

 

 その女が、間延びした声で言った。

 

「ご無事で何よりですぅ。……あら、思ったより人が多いですねぇ?」

 

「多いわよ」

 

 雪蓮さまが、あっさりと言った。

 

「六千で帰ってきたの」

 

「六千……ですかぁ」

 

「四千五百で出て、六千で帰ってきたの。増えたのよ」

 

「……増えた」

 

「増えたわ」

 

 七乃が、扇の陰で袁術という娘と何か囁き合った。

 

 しばらくして、こちらへ向き直った。

 

「あの、それは、どうやって……?」

 

「拾ったのよ」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「賊のうち、食えなくて群れに入っただけの者がいたの。……そういうのに米を配ったら、二千三百が抜けてきたわ」

 

「米を配った」

 

「配ったわ」

 

「……どこの米ですかぁ?」

 

 七乃の声が、そこで少しだけ変わった。

 

 俺は、そこで前に出た。

 

 出る役は、最初から決めていた。

 

「――こちらの米だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「借りた分から回した。……三日ぶんだ」

 

「三日ぶん、ですかぁ」

 

「三日ぶん、荷車で三台だ。……その三台で、二千三百人がこちらへ来た」

 

 俺は、帳面を開いた。

 

「勘定を申し上げる。……あの二千三百を斬るには、こちらは三百は死ぬ。三百の兵を養い直すのに、米は年にどれだけ要るか」

 

「……」

 

「三百人に一年食わせるのに、およそ三千六百石だ。……荷車三台の米は、四十石に満たん」

 

 俺は、そう言った。

 

「四十石で三千六百石を浮かせた。……九十倍だ」

 

 部屋が、静かになった。

 

 七乃が、扇を止めていた。

 

「――さらに言えば」

 

 俺は、続けた。

 

「その二千三百は、今こちらの隊にいる。……つまり、四十石で二千三百人を買った勘定になる」

 

「……買った」

 

「言い方が悪ければ、雇ったと言い直す。……どちらでも、勘定は変わらん」

 

 俺は、そう言った。

 

「二千三百人を新たに集めるのに、普通は何年かかるか。……ご存じか」

 

 七乃は、答えなかった。

 

 答えられなかったのだと思う。

 

「三年だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「三年かけて集めるものを、四十石で三月で集めた。……この勘定に、どこか間違いがあるなら、教えていただきたい」

 

 しばらく、誰も口を利かなかった。

 

 やがて、奥の座で、袁術という娘が扇を閉じた。

 

「……ふん」

 

 その娘は、そう言った。

 

「なかなか言うではないか」

 

「恐れ入る」

 

「わらわは、算盤は嫌いじゃ」

 

「……存じ上げなかった」

 

「嫌いじゃが、九十倍と言われれば、それは得なのじゃろう」

 

 その娘は、そう言った。

 

「得なら、よい。……七乃、よいな?」

 

「……はい。よいと思いますぅ」

 

 七乃は、そう言って、笑顔を作り直した。

 

 作り直したのが、こちらからは見えた。

 

 俺は、そのとき初めて、この女が笑っているのではないと確信した。

 

 笑うことにしているだけだ。

 

「――では、恩賞の話をさせてもらうわ」

 

 雪蓮さまが、そう切り出した。

 

「出陣の前に、約束したでしょ。……北の本体を叩いたら、それに見合うものを出すって」

 

「言いましたねぇ」

 

「言ったわね」

 

「言いましたぁ」

 

 七乃は、そう言って、また笑った。

 

「では、いただけるのね」

 

「もちろんですぅ。……ただ」

 

「ただ?」

 

「今、ちょっと蔵が寂しくてですねぇ」

 

 俺は、その一言で、話の行き先を悟った。

 

「南の別動隊のほうにも出さないといけなくて、そちらで結構使っちゃったんですぅ。……あ、でも大丈夫ですよ。ちゃんとお出しします。ええ、必ず」

 

「いつ」

 

「……そうですねぇ。秋くらいには」

 

「秋ね」

 

「はい、秋くらいには」

 

「くらい、って何よ」

 

「くらい、はくらいですぅ」

 

 雪蓮さまが、そこで卓に手をついた。

 

 俺は、その手が拳になるより先に、横から口を挟んだ。

 

「――一つ、伺いたい」

 

 七乃が、こちらを見た。

 

「はぁい?」

 

「秋というのは、今年の秋か」

 

「……え?」

 

「今年の秋か、と聞いている」

 

 俺は、そう言った。

 

「今日は春だ。今年の秋なら、あと半年。……来年の秋なら、一年半だ。どちらか」

 

 七乃は、少し口ごもった。

 

「……そ、それは、その」

 

「決まっていないのか」

 

「決まって、いない、といいますか」

 

「では、決めていただきたい」

 

 俺は、そう言った。

 

「こちらは六千を養っている。六千が一日に食う米は六十石だ。ひと月で千八百石」

 

 俺は、帳面を開いた。

 

「今の蓄えで、あと四月保つ。……秋が今年なら、ぎりぎり間に合う。来年なら、間に合わん」

 

「……」

 

「間に合わなければ、うちの兵は飯を探しに行く。……前にも申し上げたはずだ。飯を探しに行った兵が何をするか」

 

 部屋が、また静かになった。

 

 俺は、そこで少し声を落とした。

 

「――脅しているわけではない」

 

「そう聞こえますけどぉ」

 

「聞こえるだろうな。……だが、俺が言っているのは、算盤の話だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「六千の兵は、飯があるあいだは兵だ。飯がなくなったら賊になる。……これは、あんたたちが悪いのでも、こちらが悪いのでもない。ただ、そうなるというだけの話だ」

 

「……」

 

「だから、日を決めていただきたい。……日が決まれば、こちらはそこまで保たせる算段ができる」

 

 七乃は、しばらく黙っていた。

 

 やがて、こう言った。

 

「……秋、ということで」

 

「今年のか」

 

「……今年の」

 

「では、そう聞いた」

 

 俺は、帳面にそれを書いた。

 

 書いているところを、七乃がじっと見ていた。

 

「……あの、それ、何を書いてるんですかぁ?」

 

「今日の話だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「日付と、場所と、誰が何を言ったか。……それだけだ」

 

「……」

 

「間違いがあれば、今ここで直す。……読み上げようか」

 

「い、いえ。結構ですぅ」

 

 その女は、そう言って、初めて笑顔を崩した。

 

 館へ帰る道すがら、雪蓮さまがずっと機嫌が悪かった。

 

 馬にも乗らず、地面を蹴りながら歩いている。

 

「……あの子たち、絶対払わないわよ」

 

「払わんだろうな」

 

「即答ね」

 

「即答した。……というより、あれは払う気のある者の言い方ではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「払う気があるなら、日を先に言う。……向こうから日を言わなかった時点で、答えは出ている」

 

「じゃあ、なんで日を決めさせたのよ」

 

「――決めさせたのではない。言わせた」

 

「同じでしょ」

 

「違う」

 

 俺は、そう言った。

 

「決めさせたなら、守らせる必要がある。……言わせただけなら、守らなくてもいい」

 

「……意味がわからないんだけど」

 

「秋になって、向こうが払わなかったとする」

 

 俺は、そう言った。

 

「そのとき、こちらは『約束が違う』と言える。……言えるだけだ。それで米が出るわけではない」

 

「じゃあ意味ないじゃない」

 

「意味はある。……その一言を言うために、こちらは半年待った、という形が残る」

 

 雪蓮さまが、そこで足を止めた。

 

「……形?」

 

「形だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「うちがあの家から離れるとき、必ず誰かが言う。『恩を受けておいて裏切った』とな」

 

「……」

 

「そのときに、こちらは帳面を出す。……こう言った、こう約束した、守られなかった。それが三度あった、と」

 

 俺は、そう言った。

 

「三度あれば、離れる理由になる。……一度では足りん」

 

 雪蓮さまは、しばらく俺を見ていた。

 

「……あなた、それ、いつから考えてたの」

 

「今日だ」

 

「今日?」

 

「今日、あの部屋で思いついた」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの女官が『秋くらいには』と言ったときに、これは三度目まで数えられるな、と思った」

 

「……三度目まで」

 

「三度だ。……今日で一度目だ」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「あなた、たまにすごく怖いこと考えるわね」

 

「怖いか」

 

「怖いわよ。……だって、あなた、今日のうちに『あと二回』って数え始めたのよ」

 

「数えた」

 

「……即答しないでよ」

 

「即答した」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は数える男だ。……数えていないと落ち着かん」

 

 テラスの卓に、その日の夜、全員が集まった。

 

 俺は、帳面を広げて、その日のやりとりを読み上げた。

 

 読み終わって、冥琳どのが最初に言った。

 

「……一度目だな」

 

「――あんたも同じことを考えたのか」

 

「考えた」

 

 この人は、あっさりと言った。

 

「三度で足りるかどうかは、少し迷うが。……二度でも通るかもしれん」

 

「二度では足りん」

 

「なぜだ」

 

「二度目までは、偶然と言い張れる」

 

 俺は、そう言った。

 

「三度目で、初めて『そういう家だ』という話になる」

 

 冥琳どのは、少し目を細めた。

 

「……その理屈、どこで覚えました」

 

「川だ」

 

「またですか」

 

「またです」

 

 俺は、そう言った。

 

「船着き場で、荷主が銭を渋ることがある。一度なら、たまたま懐が寂しかったのだろうと思う。二度なら、まあ、そういうこともある」

 

「三度目は」

 

「三度目で、その荷主とは二度と取引しない」

 

 俺は、そう言った。

 

「川の連中は、それを『三度の掟』と呼んでいた。……誰が決めたわけでもないが、みんなそうしていた」

 

「……なるほど。存外、理に適っていますね」

 

「理に適っている。……三度あれば、こちらが我慢したことも証明できる」

 

 卓の隅で、穏どのが帳面に書き込んでいた。

 

「……穏どの。何を書いている」

 

「三度の掟、と」

 

 その娘は、そう言った。

 

「あの、これは、覚えておいたほうがよい気がしましたので」

 

「いい勘だ」

 

「そうでしょうか」

 

「そうだ。……というより、あんた、最近ずっと俺の話を書いているな」

 

「書いております」

 

 穏どのは、あっさり認めた。

 

「師の話は、難しくて追いつけません。……ですが、楚航どのの話は、たいてい川か飯の話なので、書き取れます」

 

「褒められている気がせんな」

 

「褒めております」

 

「本当か」

 

「本当です」

 

 その娘は、そう言った。

 

「師の策は、私には十年かかっても立てられません。……ですが、楚航どのの数え方は、真似ができます」

 

「……真似をしたいのか」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

「私は、決めるのが苦手なのです」

 

 穏どのは、そう言った。

 

「策は、いくつでも出せます。五つでも六つでも。……ですが、そのうちどれを取るかが決められません」

 

「ふむ」

 

「楚航どのは、いつも即答なさいます。……なぜ即答できるのか、知りたいのです」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

 考えて、正直に答えた。

 

「――迷っているからだ」

 

「え?」

 

「俺は、いつも迷っている」

 

 俺は、そう言った。

 

「即答しているように見えるだろうが、あれは迷った末に、迷ったまま口に出しているだけだ」

 

「……迷ったままで、よいのですか」

 

「よくない」

 

「では、なぜ」

 

「迷っているうちに人が死ぬからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺のいた場所では、迷っている時間が長いと、その分だけ人が減った。……舟が沈む。村が焼ける。だから、迷ったまま決める癖がついた」

 

「……それは、間違えませんか」

 

「間違える」

 

 俺は、即答した。

 

「よく間違える。……間違えたら、次に直す。それだけだ」

 

 穏どのは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……あの、では、間違えたときは、どうなさるのですか」

 

「書く」

 

「書く、ですか」

 

「書く。……何を間違えたか、なぜ間違えたかを書いておく」

 

 俺は、そう言った。

 

「そうすると、次に同じ場面が来たときに、思い出せる。……思い出せれば、少しはましな間違いをする」

 

「ましな間違い」

 

「ましな間違いだ。……正しくはならん。だが、ましにはなる」

 

 穏どのは、その言葉を、しばらく口の中で繰り返していた。

 

 それから、帳面に書いた。

 

 俺は、その様子を見ながら、少し可笑しくなった。

 

 二十年前、俺は同じことを祭どのに教わった。

 

 教わったことを、いま、俺が誰かに渡している。

 

 二度目は、その年の夏に来た。

 

 今度は、南の別動隊の手伝いに出ろという下知だった。

 

 冥琳どのは、その文を読んで、あっさり言った。

 

「二度目だな」

 

「――これも数えるのか」

 

「数える。……恩賞の話ではないが、約束の話ではある」

 

 この人は、そう言った。

 

「あちらは、春に『秋に払う』と言った。……秋を待たずに、次の戦に出せというのは、順序が違う」

 

「順序か」

 

「順序だ。……払ってから頼むのが筋だろう」

 

 俺は、その言い方に頷いた。

 

「では、二度目だ」

 

「二度目です」

 

 出陣は、結局した。

 

 断れなかった。断れば、そこで一度こちらが約束を破ることになる。

 

 ただし、条件を一つつけた。

 

 ――蓮華さまを連れて行く。

 

 これは、俺が言い出した。

 

「――なぜですか」

 

 軍議で、雪蓮さまが真っ先に聞いてきた。

 

「前に約束した」

 

 俺は、そう言った。

 

「黄巾のとき、あの人は留守番だった。三月、報せを待って、誰が死んだかを数えるだけだった。……次からは連れて行くと言った」

 

「……勝手に約束したのね」

 

「した」

 

「私に相談なく?」

 

「なく、だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「相談すると、あんたは断るからだ」

 

「断るわよ」

 

「だろうな」

 

「……あなた、それわかってて約束したの?」

 

「わかっていた」

 

 俺は、そう言った。

 

「だから、こう言った。……反対されたら三度は言う、四度目はあんたが言え、と」

 

 雪蓮さまが、そこで動きを止めた。

 

 卓の向かいで、蓮華さまが少し肩を縮めた。

 

「……蓮華」

 

「……はい」

 

「あなた、それ聞いたのね」

 

「……はい」

 

「で、四度目を言う気なのね」

 

「……言います」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

 声が、少し震えていた。だが、目は逸らさなかった。

 

「お姉様。……私、留守番はもうしたくありません」

 

「危ないのよ」

 

「危ないのは知っています」

 

「知ってて言ってるの?」

 

「知っているから言っています」

 

 この人は、そう言った。

 

「私は、前には出ません。出られません。……でも、数えるなら現場でやりたいんです」

 

「なんで」

 

「館で数えると、報せが来てから数えることになります」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「報せが来た時点で、もう終わっているんです。……終わったものを数えるのは、記録です。まだ終わっていないものを数えるのが、戦です」

 

 卓が、静かになった。

 

 俺は、その言い方に、正直、少し驚いていた。

 

 この人は、十六だった。

 

 雪蓮さまが、しばらく妹を見ていた。

 

 それから、俺のほうを向いた。

 

「……灘」

 

「なんだ」

 

「あなた、この子に何を吹き込んだの」

 

「何も吹き込んでいない」

 

「嘘」

 

「嘘ではない。……俺が言ったのは、次からは連れて行く、それだけだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「今の話は、この人が自分で考えたことだ。……俺は、そんなに上手いことは言えん」

 

 雪蓮さまは、そこで小さく溜め息をついた。

 

 それから、蓮華さまのほうへ向き直った。

 

「……蓮華」

 

「はい」

 

「一つだけ、条件があるわ」

 

「なんでしょう」

 

「思春を連れて行きなさい」

 

 俺は、その名前に少し引っかかった。

 

「――思春?」

 

「甘寧よ。旧臣の中にいたでしょ」

 

「……ああ、あの水賊上がりの」

 

「そう。あの子、蓮華に付けるわ」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「あの子、腕は立つし、命令はきちんと聞くの。……ただ、誰にも懐かないのよ」

 

「懐かんのか」

 

「懐かないわ。……祭にも冥琳にも、必要なこと以外は喋らないの」

 

「では、なぜ蓮華さまに付ける」

 

「なんとなくよ」

 

 その人は、あっさりそう言った。

 

「……なんとなくか」

 

「なんとなく。……あの子、蓮華のこと見てるのよ。時々」

 

 俺は、その言葉に、少し興味を持った。

 

「――見ている、とは」

 

「見てるの。遠くから」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「話しかけるでもなく、近寄るでもなく、ただ見てるの。……気味が悪いって言う人もいるけど、私はそうは思わないわ」

 

「なぜだ」

 

「あれ、たぶん、見張ってるんじゃなくて、見てるのよ」

 

 その人は、そう言った。

 

「うちの兵が、川で舟を見てるのと同じ顔してるわ」

 

 俺は、その例え方に、少し感心した。

 

「――上手いことを言う」

 

「でしょ」

 

「あんた、川の話がわかるようになったな」

 

「二十年もあなたの話を聞いてれば、覚えるわよ」

 

 雪蓮さまは、そう言って笑った。

 

 出陣の前の日、俺は思春という娘と初めてまともに話した。

 

 といっても、向こうから来たわけではない。俺が桟橋へ行ったら、そこにいた。

 

 舟を見ていた。

 

 年は二十そこそこ。硬い顔をしていて、こちらに気づいても会釈もしなかった。

 

「――甘寧どのか」

 

「……そうだ」

 

「楚航だ」

 

「知っている」

 

 それきり、この娘は何も言わなかった。

 

 俺は、その隣に立って、しばらく一緒に舟を見た。

 

 半刻ほど、二人とも黙っていた。

 

 やがて、俺のほうから聞いた。

 

「――なぜ、舟を見ている」

 

「……見て悪いか」

 

「悪くない。……ただ、半刻見ているのは、少し長い」

 

「貴様も見ていただろう」

 

「俺は水軍の長だ。仕事だ」

 

「……」

 

「あんたは違うだろう」

 

 思春という娘は、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……昔、乗っていた」

 

「賊のときか」

 

「そうだ」

 

「どのあたりだ」

 

「河口のほうだ。海にも出た」

 

「――海か」

 

 俺は、そこで少し身を乗り出した。

 

「海の舟は、川の舟と造りが違うだろう」

 

「違う」

 

「どう違う」

 

「……聞きたいのか」

 

「聞きたい」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は川しか知らん。……海のことは、聞いたことしかない」

 

 その娘は、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、ぽつりぽつりと喋り始めた。

 

 舷の高さのこと。波の受け方のこと。川では底を擦るから使えない造りのこと。

 

 喋りながら、少しずつ言葉が増えた。

 

 半刻ほど経った頃には、この娘は自分から地面に図を描いていた。

 

「――なるほど。舷を高くすると、波は被らんが、風を食うわけだ」

 

「そうだ。だから、風が強い日は帆を下ろす」

 

「川では逆だな。川は風より流れだ」

 

「流れが強いのか」

 

「強い。……特に増水期は、櫓より流れのほうが速い」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの時期は、下るのは楽だが、上るのは地獄だ。……男が半刻で肩を上げられなくなる」

 

「……それは、船足が落ちるということか」

 

「落ちる。……だから、遡るときは荷を捨てる」

 

「捨てるのか」

 

「捨てる。……荷は買い直せる」

 

その言葉に、少し目を細めた。

 

「……買い直せないものは」

 

「人だ」

 

 俺は、即答した。

 

 その娘は、しばらく黙っていた。

 

 それから、地面の図を靴の先で消した。

 

「……明日から、蓮華さまに付く」

 

「聞いている」

 

「私は、命令されたことしかしない」

 

「そう聞いた」

 

「……だが、一つだけ聞いておきたい」

 

 その娘は、そう言った。

 

「あの方は、前に出るのか」

 

「出ない」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの人は、数える人だ。……前に出るのは、俺と、雪蓮さまだ」

 

「では、なぜ連れて行く」

 

「本人が来たいと言ったからだ」

 

「……理由になっていない」

 

「なっていないな」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、それしか理由がない。……あの人が、自分で言った。三度断られて、四度目に自分で言った」

 

「……四度目か」

 

「四度目だ」

 

「……そうか」

 

 その娘は、それだけ言って、行ってしまった。

 

 俺は、その背中を見ながら、少し考えていた。

 

 この娘は、何かを聞き取ったらしかった。

 

 何を聞き取ったのかは、そのときの俺にはわからなかった。

 

 わかったのは、ずっとあとになってからだ。

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