長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
南の黄巾は、北とはまるで違った。
北は、城に籠っていた。籠っているものは、囲めばいい。水を断てばいい。
南は、籠っていなかった。
「――散っています」
明命が、そう報告してきた。
この娘は、先発して十日ほど見て回っていた。戻ってきたときには、泥だらけだった。
「村を三十ほど見ましたが、どこにも千を超える群れはおりません。……多いところで三百、少ないところで五十です」
「全部でどれくらいだ」
「わかりません」
明命は、正直にそう言った。
「散らばりすぎていて、数えられませんでした。……ただ、村の者に聞くと、『あちこちにいる』としか言いません」
「あちこちか」
「はい。……その、申し訳ありません。もう少し粘れば」
「粘らんでいい」
俺は、そう言った。
「数えられんものを数えようとすると、時間を食うだけだ。……あんたは十日で三十村を見た。それで十分だ」
「……はい」
「それより、別のことを聞きたい」
俺は、そう言った。
「その三十村のうち、黄巾を追い出したがっている村はいくつあった」
明命は、その質問にきょとんとした。
「――追い出したがっている、ですか」
「そうだ。……村に居着いている連中と、村の者は、仲がいいのか悪いのか」
この娘は、しばらく考えた。
「……半々です」
「半々か」
「はい。米を取っていく群れもいれば、村を手伝っている群れもいます」
「手伝っている?」
「はい。……田を耕したり、水路を直したり」
明命は、そう言った。
「もともと、その村の者だった者が多いようです。飢饉で逃げて、黄巾に入って、また戻ってきた、という」
俺は、その報告を聞いて、少し頭が痛くなった。
「……厄介だな」
「厄介ですか」
「厄介だ。……それは、賊ではない」
俺は、そう言った。
「田を耕している者を斬ったら、村ごと敵に回る。……村が敵に回ると、こちらは糧が入らん」
テラスの卓で、その話をした。
冥琳どのは、地図を睨んで、しばらく黙っていた。
「……面倒ですね」
「面倒だ」
「斬れば早いのですが」
「早いな。……三月で片づく」
「そのあと、十年荒れます」
冥琳どのは、そう言った。
「村を焼いた土地は、十年戻りません。……祭どのがご存じでしょう」
瓢箪を傾けていた祭どのが、そこで手を止めた。
「……知っとる」
「長沙で」
「長沙でな。……二十年前じゃ」
この人は、そう言った。
「三年やり合うて、最後は山を焼いた。……あのあと、あの山には誰も戻らんかった」
「今も、ですか」
「今もじゃ」
祭どのは、そう言った。
「二十年経っても、木は生えたが人は戻らん。……人が戻らん土地は、租も入らん」
「――では、焼かない」
俺は、そう言った。
「焼かんとなると、どうする」
冥琳どのが、そう聞いた。
「分ける」
俺は、そう言った。
「あんた、さっき言ったな。半々だと。……米を取っていく群れと、村を手伝っている群れが半々だ」
「明命が言いました」
「そうだ。……つまり、半分は敵で、半分は敵ではない」
俺は、そう言った。
「敵でないほうを先に味方にする。……そうすれば、敵のほうが浮く」
冥琳どのは、しばらく黙っていた。
「……どうやって味方にします」
「田の話をする」
俺は、そう言った。
「田を耕している連中は、来年の秋のことを考えている。……考えている者には、話が通る」
「話とは」
「租を三年待つ」
俺は、そう言った。
卓が、少し静かになった。
「……三年、ですか」
「三年だ。……今年から三年、この地域の租を取らん。そのかわり、黄巾を名乗るのをやめてもらう」
「それは、うちの取り分が減りますよ」
「減る」
「三年もですか」
「三年もだ」
俺は、そう言った。
「だが、今この地域から取れている租は、どのみちゼロだ。……ゼロが三年続いても、ゼロのままだ」
冥琳どのが、そこで目を細めた。
「……なるほど」
「三年後に取れるようになれば、それは増えたことになる」
「そうなりますね」
「そして、そのあいだに人が増える」
俺は、そう言った。
「租を取らない土地には、人が集まる。……集まった人は、三年後には租を払う側になる」
冥琳どのは、しばらく地図を見ていた。
それから、こう言った。
「……楚航どの。それ、袁術どのの土地ですよ」
俺は、その指摘に、少し止まった。
止まってから、正直に言った。
「――忘れていた」
「忘れないでください」
「すまん。……勝手に三年決めていた」
「勝手にです」
冥琳どのは、そう言った。
「あの家の土地の租を、こちらが三年免除する権限はありません」
「では、無理か」
「無理ではありません」
この人は、そう言った。
「言わなければいい」
「――言わない?」
「言いません。……こちらは『討伐した』と報告します。実際に、黄巾の旗は降ろさせるのですから、嘘ではない」
冥琳どのは、そう言った。
「租については、報告しません。……そもそも、今その地域から租は入っていない。入っていないものが入らなくても、誰も気づきません」
俺は、その理屈を聞いて、少し感心した。
「……あんた、平気でそういうことを言うな」
「言います」
「よく思いつく」
「三月前から考えていました」
「――三月前?」
「南に当てられるのは、去年からわかっておりましたので」
この人は、あっさりと言った。
俺は、その返事に、少し呆れた。
「……あんた、いつも先に考えているな」
「考えます。それが仕事です」
「では、俺の仕事はなんだ」
「思いつくことです」
冥琳どのは、そう言った。
「私は、三月かけて『租を免除する』という手を考えました。……ですが、それを『田を耕す者には話が通る』という形で言えるのは、あなただけです」
「――同じことだろう」
「違います」
この人は、はっきりと言った。
「私の言い方だと、策になります。あなたの言い方だと、話になります。……村の年寄りは、策には乗りませんが、話には乗ります」
編成を決めるとき、冥琳どのが妙なことを言い出した。
「――二手に分けます」
「二手か」
「はい。散っている相手を、一つの隊で追うのは無駄です」
この人は、そう言った。
「東と西で分けます。東は雪蓮、西は――」
そこで、少し間があった。
「……蓮華に」
卓が、静かになった。
俺は、思わず冥琳どののほうを見た。
「――本気か」
「本気です」
「あの人は、隊を率いたことがない」
「ありません」
「では」
「ですから、今やらせます」
冥琳どのは、そう言った。
「今回は、大きな戦になりません。散らばった相手を、村ごとに一つずつ片づけるだけです。……失敗しても、致命傷になりません」
「……」
「初めてやらせるなら、今です」
俺は、その理屈を、しばらく考えた。
考えて、こう言った。
「――一つだけ、確かめたい」
「なんでしょう」
「これは、あんたが考えたことか。それとも、あの人が言ったことか」
冥琳どのは、少し目を細めた。
「……蓮華が、私に言いました」
「――やはりな」
「なぜ、わかりました」
「あんたは、あの人を前に出さん」
俺は、そう言った。
「あんたは、あの人を保険だと思っている。……保険を前に出す軍師はいない」
「……」
「だから、あの人が言い出した。あんたはそれを聞いて、断らなかった」
冥琳どのは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……三度断りました」
「四度目に、頷いたか」
「頷きました」
「なぜだ」
「四度目の言い方が、良かったからです」
この人は、そう言った。
「あの子は、四度目にこう言いました。『私は、数える人です。数える人が、数えているだけで一生を終えるなら、誰が数えられない人の代わりに前に出るのですか』と」
俺は、その言葉を聞いて、少し胸を突かれた。
「……あの人らしいな」
「あの子らしいです」
冥琳どのは、そう言った。
「それと、もう一つ言われました。……『楚航どのが、三度断られたら三度言い返せと教えてくれました』と」
俺は、そこで少し気まずくなった。
「……余計なことを教えたか」
「教えましたね」
「すまん」
「謝らないでください」
冥琳どのは、そう言った。
「あれは、良い教えです。……ただ、教えた相手が悪かった」
「悪いか」
「悪いです。あの子は、真面目に守ります」
西へ向かう別動隊は、千二百だった。
率いるのは蓮華さま。副が祭どの。それに、思春という娘が親衛として付いた。
俺は、東の隊に入った。雪蓮さまと一緒だ。
出発の朝、俺は蓮華さまのところへ行った。
「――子渡」
「一つ、渡しておく」
俺は、帳面を差し出した。
「これは」
「西の三十村の名前だ。……明命が見てきたものを、俺が写した」
俺は、そう言った。
「村の名前と、戸数と、そこにいる群れの数。……それから、その群れが田を耕しているかどうか」
蓮華さまは、それを開いた。
「……耕しているかどうかまで、書いてあるんですか」
「書いてある。……そこが一番大事だ」
俺は、そう言った。
「耕している群れには、租の話をしろ。三年待つと言え。……耕していない群れは、話が通らん。そちらは祭どのに任せろ」
「……はい」
「それと、一つ頼みがある」
「なんですか」
「村へ行ったら、まず飯を食え」
俺は、そう言った。
「知っています。三度聞きました」
「四度目だ」
「はい」
「四度言うということは、それだけ大事だということだ」
俺は、そう言った。
「順番を間違えるな。飯を食う。話を聞く。去年何が穫れたかを聞く。……それから、初めて用件を言え」
蓮華さまは、帳面を胸に抱えた。
「……子渡」
「なんだ」
「怖いです」
「そうだろうな」
「……即答ですね」
「即答した。……怖くない者が隊を率いると、隊が死ぬ」
俺は、そう言った。
「怖いままやれ。……怖いのは、あんたが千二百人の名前を知っているからだ」
「知りません。まだ全部は」
「では、覚えろ」
俺は、そう言った。
「帰ってくるまでに、全部覚えろ。……覚えたら、たぶん、もっと怖くなる」
「……それ、慰めですか」
「慰めではない」
「ですよね」
蓮華さまは、そう言って、少し笑った。
笑ってから、こう言った。
「……行ってきます」
「行ってこい」
俺は、そう言った。
「それと、一つだけ約束しろ」
「なんですか」
「帰ってきたら、数を報告しろ」
俺は、そう言った。
「出た数と、帰った数だ。……合わなかったら、合わない理由を書け」
蓮華さまは、しばらく俺を見ていた。
それから、深く頷いた。
「……はい」
東の戦は、退屈だった。
退屈だというのは、楽だったという意味ではない。
村を一つずつ回って、話をつけて、次へ行く。それを二十日続けた。
斬り合いになったのは、三度だけだった。
三度とも、田を耕していない群れだった。米を取っていくだけの連中で、村の者が真っ先に「あそこにいる」と教えてくれた。
「……楽ですね、これ」
十日目に、阿六がそう言った。
「楽ではない」
「楽ですよ。飯食って、話して、たまに斬るだけです」
「その飯を食うのが大変なんだ」
俺は、そう言った。
「一日に三村回ると、三回飯を食う。……腹が保たん」
「あー」
「昨日、俺は粥を四杯食った」
「四杯ですか」
「四杯だ。……断ると、話が通らん」
阿六は、そこで少し笑った。
「隊長、太りますよ」
「太る。……だが、痩せるよりましだ」
その夜、俺は雪蓮さまと焚き火のそばにいた。
この人も、粥を三杯食っていた。
「……お腹いっぱい」
「そうだろうな」
「灘、あなたよく四杯も食べられるわね」
「食えるわけがない」
俺は、そう言った。
「三杯目からは、味がしない」
「じゃあ、なんで食べるのよ」
「残すと、村の者が気にする」
俺は、そう言った。
「粥というのは、村にとっては安いものではない。……三杯目まで出してくるのは、こちらを歓迎しているからだ。それを残すと、歓迎が足りなかったと思われる」
「……面倒くさいわね」
「面倒くさい」
俺は、そう言った。
「だが、この面倒を省くと、あとで十倍面倒になる」
雪蓮さまは、しばらく火を見ていた。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「蓮華、大丈夫かしら」
俺は、その質問に、少し考えた。
「――大丈夫だ」
「即答ね」
「即答した。……根拠もある」
「言ってみて」
「祭どのがいる」
俺は、そう言った。
「あの人は、若い者に無茶をさせん。……四十年、それをやってきた」
「それだけ?」
「それと、思春という娘だ」
俺は、そう言った。
「あの娘は、命じられたことしかしないと言った。……逆に言えば、命じられたことは必ずやる」
「あなた、あの子と話したの?」
「一度だけな。舟の話をした」
「舟の話?」
「川舟と海舟の違いだ」
俺は、そう言った。
「あの娘は、海の舟を知っていた。……舷の高さの話をしたら、こちらの話に食いついてきた」
「ふうん」
「そのあと、一つ聞かれた」
俺は、そう言った。
「蓮華さまは前に出るのか、と」
「……なんて答えたの」
「出ない、と答えた」
「そう」
「そうしたら、なぜ連れて行くのかと聞かれた」
俺は、そう言った。
「本人が来たいと言ったからだ、と答えた。……理由になっていないと言われた」
「なってないわね」
「なっていない」
俺は、認めた。
「だが、それしか理由がない。……あの人は、四度目に自分で言った。四度目に自分で言った者を、止める理由が俺にはない」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「あの子、変わったわね」
「変わった」
「昔は、私の後ろに隠れてたのよ」
その人は、そう言った。
「九つのとき、あなたに初めて会った日。……あの子、私の背中に半分隠れてたわ」
「覚えている」
「覚えてるの?」
「覚えている。……隠れながら、こちらから目を逸らさなかった」
俺は、そう言った。
「人見知りのくせに、目だけは逸らさなかった。……あれは、今も同じだ」
雪蓮さまは、そこで少し笑った。
「……よく見てるのね、あなた」
「見ている」
「私のことも?」
「見ている」
「即答ね」
「即答した。……見ていないと、隊が動かん」
「……そこは、もうちょっと別の言い方があるでしょ」
雪蓮さまが、そう言った。
「別の言い方か」
「そうよ」
「……なんと言えばいい」
「自分で考えなさいよ」
その人は、そう言って、火に枝を放り込んだ。
俺は、しばらく考えた。
考えて、こう言った。
「――『見ている』でいい気がする」
「もういいわ」
西の隊が戻ってきたのは、東より五日早かった。
千二百で出て、千百九十四で帰ってきた。
六人が帰らなかった。
蓮華さまは、館の門で俺を待っていた。
待っていて、俺の顔を見るなり、こう言った。
「――六人です」
「聞いた」
「名前を書きました」
「見せてくれ」
この人は、帳面を差し出した。
六人の名前と、その隣に、それぞれの死んだ場所と状況が書いてあった。
俺は、それをしばらく読んだ。
「……状況まで書いたのか」
「書きました」
「なぜだ」
「……名前だけだと、足りない気がして」
蓮華さまは、そう言った。
「名前だけだと、六人が同じに見えます。……でも、六人とも違う死に方をしていました」
「……そうか」
「一人は、村の者を庇いました。一人は、逃げようとして背中を斬られました」
この人は、そう言った。
「……逃げた者のことも、書きました。書かないほうがいいのかと思ったのですが」
「書け」
俺は、即答した。
「……いいんですか」
「いい」
俺は、そう言った。
「逃げた者を書かないと、逃げたことがなかったことになる。……なかったことになると、次に逃げる者が出たときに、誰も理由を考えん」
「理由、ですか」
「理由だ」
俺は、そう言った。
「その男が逃げた理由は、たぶん、そいつだけのものではない。……同じ場所にいた者が、みんな同じことを思っていた」
「……」
「思っていて、逃げなかっただけだ。……逃げなかった者のことも、考えないといかん」
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……子渡」
「なんだ」
「私、その男を追いませんでした」
「追わなかったか」
「はい。……祭どのが『追え』と仰いましたが、追いませんでした」
この人は、そう言った。
「軍規では、逃げた者は追って斬ります。……でも、追いませんでした」
「なぜだ」
「怖かったからです」
蓮華さまは、そう言った。
「追って、斬って、それを千百九十四人が見ます。……見た者が、私をどう思うかが怖かったんです」
「……」
「私は、正しい判断をしませんでした」
この人は、そう言った。
「怖くて、できませんでした。……それだけです」
俺は、その言葉を聞いて、しばらく考えた。
考えて、こう言った。
「――祭どのは、なんと言った」
「『まあよかろう』と」
「それだけか」
「それだけです」
「では、それでいい」
俺は、そう言った。
「あの人が『まあよかろう』と言うのは、たいてい『それでいい』という意味だ」
「……でも、私は」
「聞け」
俺は、遮った。
「あんたは、追わなかった理由を『怖かったから』だと言った。……それは、たぶん半分だ」
「半分、ですか」
「半分だ。……もう半分がある」
俺は、そう言った。
「あんたは、その男を斬ったら、六人が七人になると思ったんだろう」
蓮華さまが、顔を上げた。
「……」
「違うか」
「……違いません」
「では、それも書いておけ」
俺は、そう言った。
「怖かったのも本当、七人にしたくなかったのも本当だ。……両方書け」
蓮華さまは、しばらく俺を見ていた。
それから、少し笑った。
「……また、両方ですね」
「またそれだ」
「あなた、それしか言いませんね」
「それしか言えん」
俺は、そう言った。
「二十年考えたが、それ以上の答えが出ていない」
その夜、テラスに全員が集まった。
雪蓮さま、蓮華さま、祭どの、冥琳どの、穏どの。それに、思春という娘が、少し離れて立っていた。
卓の上に、文が一通置かれていた。
袁術からのものだ。
俺は、それを読んだ。
読んで、しばらく黙った。
「……三度目だな」
「三度目です」
冥琳どのが、そう言った。
文の中身は、こうだった。
南の黄巾討伐、大儀であった。ついては、次は北の残党を討て。兵は貸さぬ。恩賞は、討伐の後に検討する。
「――貸さぬ、と書いてあるな」
「書いてあります」
「前は貸したのに」
「前は貸しました。今度は貸しません」
冥琳どのは、そう言った。
「そして、恩賞は『後に検討する』です。……前は絹三十匹でした。今度は、ゼロと書いてある」
「ゼロとは書いていないぞ」
「同じことです」
この人は、はっきりと言った。
「『後に検討する』というのは、『出さない』と同じです。……検討する時期が書いていない」
俺は、その文をもう一度読んだ。
読んで、こう言った。
「……三度目か」
「三度目です」
「一度目は絹三十匹。二度目は租を取らせずに済ませた。三度目は、これだ」
俺は、そう言った。
「一度目は偶然、二度目は運、三度目は相手の性質だ。……商人の言い草だがな」
「言い得て妙です」
冥琳どのは、そう言った。
「そして、これは性質です」
雪蓮さまが、卓に肘をついた。
「……で、どうするの」
「行きます」
冥琳どのが、即答した。
「――行くの?」
「行きます。……ただし、今回は違います」
この人は、そう言った。
「今回は、こちらから条件を出します」
「条件?」
「はい。……兵を貸さぬというなら、こちらは自前で集めます。集めた兵は、こちらのものです」
冥琳どのは、そう言った。
「そう書いて、文を出します。……返事を待たずに集めます」
「……それ、勝手じゃない」
「勝手です」
「怒られるわよ」
「怒られます」
この人は、あっさりと言った。
「怒られたら、こう言います。『兵を貸さぬと仰ったので、自前で用意いたしました』と」
俺は、その言い方に、少し笑った。
「……喧嘩を売っているな」
「売っています」
「認めるのか」
「認めます」
冥琳どのは、そう言った。
「そろそろ、売ってもよい頃です」
卓が、静かになった。
俺は、その静けさの意味を理解した。
これは、二年の始まりだった。
「――公瑾どの」
「なんでしょう」
「一つ、確かめておく」
俺は、そう言った。
「あんたは、こちらから先に手を出さんと約束した。……覚えているな」
「覚えております」
「これは、手を出したことになるか」
冥琳どのは、少し考えた。
「……ならないと思います」
「思う、では困る」
「では、言い直します」
この人は、そう言った。
「なりません。……こちらは、兵を集めるだけです。集めた兵で、あちらの命じた敵を討ちます」
「命じられた通りにやるのか」
「やります。……そこは、きちんとやります」
冥琳どのは、そう言った。
「命じられたことをきちんとやったうえで、こちらの取り分だけを増やす。……これは、裏切りではありません」
「では、何だ」
「解釈です」
この人は、そう言った。
「文に『兵を貸さぬ』と書いてあります。『自前で集めるな』とは書いてありません」
「……そういう読み方か」
「そういう読み方です」
俺は、その言い方に、しばらく考えた。
考えて、こう言った。
「――一つ、頼みがある」
「またですか」
「またです」
「どうぞ」
「その文、写しを取っておいてくれ」
俺は、そう言った。
「あちらから来た文は、全部取っておく。……こちらが出した文も、写しを取る」
「……理由を伺っても」
「いつか、必要になる」
俺は、そう言った。
「こちらが先に手を出していないことを、あとで誰かに示さないといかん日が来る。……そのときに、口で言っても誰も信じん」
「文があれば」
「文があれば、読める者は読む」
俺は、そう言った。
「読める者が読んで、そのあと百年経っても残る。……そういうものだ」
冥琳どのは、しばらく俺を見ていた。
それから、こう言った。
「……蓮華」
「はい」
「聞いていたか」
「聞いていました」
蓮華さまが、そう答えた。
「では、任せる。……あちらからの文も、こちらからの文も、全部写せ」
「はい」
「書き方は」
「日付と、差出人と、要旨を先に書きます」
この人は、そう言った。
「そのあとに、本文を写します。……そうすれば、あとで探すときに早いです」
冥琳どのが、そこで少し目を細めた。
「……もう考えていたか」
「三月前から考えていました」
蓮華さまは、そう言った。
「あの、袁術どのから最初に『厚く弔うな』という文が来たときに、私は畳んで取っておきました。……あれを取っておいて、よかったと思っています」
「――あれか」
俺は、そう言った。
「三年前だな」
「三年前です」
「まだ持っているのか」
「持っています」
蓮華さまは、そう言った。
「あのとき、あなたが言いました。……『二人で持てば、二倍残る』と」
「言った」
「私、あれから、全部二つ書いています」
この人は、そう言った。
「一つは館に置いて、もう一つは別の場所に置いています」
俺は、その言葉に、少し驚いた。
「……別の場所とは」
「言いません」
「――言わんのか」
「言いません。……あなたにも言いません」
蓮華さまは、そう言った。
「一人が知っていれば、その一人が消えたら消えます。二人が知っていれば、二倍残ります。……でも、置き場所は、知る人が少ないほど安全です」
「……なるほど」
「あなたの教えを、少し変えました」
この人は、そう言った。
「中身は二人で持ちます。場所は一人で持ちます」
俺は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「――上手いな」
「上手いですか」
「上手い。……俺が言ったことより、上等だ」
蓮華さまは、そこで耳を赤くした。
「そ、そんなに褒めなくても」
「褒める」
俺は、そう言った。
「これは褒めるところだ」
その夜、俺はテラスに残っていた。
全員が去ったあと、川を見ていた。
しばらくして、足音がした。
思春という娘だった。
「――隊長」
この娘は、そう呼んだ。
俺は、少し驚いた。
「……いつから、そう呼ぶことにした」
「西で決めました」
「理由は」
「呼び方がないと不便だからです」
この娘は、そう言った。
「甘寧と申します。……蓮華さまの親衛につきました」
「聞いている」
「一つ、報告があります」
「言え」
「西で、蓮華さまが逃げた兵を追われませんでした」
俺は、その報告に、少し身構えた。
「……聞いている」
「はい。……それについて、私の考えを申し上げます。私は、追うべきだったと思います」
「――そうか」
「はい。……軍規は軍規です。守らねば、次から誰も守りません」
「そうだな」
「ですが」
この娘は、そこで少し間を置いた。
「……私は、それを蓮華さまには申し上げませんでした」
「なぜだ」
「あの方が、自分で気づいておられたからです。あの方は、追わなかったあと、一晩中帳面を書いておられました。……私は、外で見ておりました」
「……」
「翌朝、あの方は隊の前で、こう仰いました。『昨日、私は逃げた者を追いませんでした。これは私の落ち度です。次は追います』と」
俺は、その報告を聞いて、少し驚いた。
「……それは、聞いていない」
「あの方は、仰らなかったのでしょう。私は、それを見て、決めました」
「――何をだ」
「あの方に付くと決めました」
この娘は、そう言った。
「私は、命じられたことしかしません。……ですが、命じられたことをきちんとやる者は、上がきちんとしていないと続きません」
「そうだな」
「あの方は、きちんとしておられます。自分の落ち度を、千百九十四人の前で言える方は、そう多くありません」
俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「――甘寧どの」
「思春でよろしい」
この娘は、そう言った。
「……真名か」
「はい。……蓮華さまには、昨日お渡ししました」
「早いな」
「早いです。……自分でも早いと思います。ですが、私は八年、真名を渡す相手がおりませんでした。……渡す相手が見つかったら、渡すのが早いのは当然です」
「……八年か」
「八年です」
この娘は、そう言った。
「その話は、いずれいたします。……今は、まだ」
「わかった。待つ」
俺は、そう言った。
「待つのは得意だ」
「そう伺っております」
「――誰にだ」
「祭どのに」
思春は、そう言った。
「『あの男は、水位を三年測る男じゃ』と」
俺は、その言い方に、少し笑った。
「……三年ではない。今のところ二年半だ」
「では、あと半年で三年ですね」
「そうなる」
「では、あと半年で何かが起きるのですね」
俺は、その言葉に、少し驚いた。
「――なぜ、そう思う」
「三年測る男が、二年半測っているのなら、あと半年で結論が出るからです。私は、命じられたことしかしません。……ですが、耳は使います」
「……そうか」
「はい」
「では、覚えておく」
俺は、そう言った。
「あんたは、耳を使う」
思春は、少し頭を下げて、去っていった。
俺は、その背中を見ながら、川のほうへ目を戻した。
あと半年。
冥琳どのは二年と言った。二年のうち、一年半が過ぎている。
残り半年で、あの家は必ず動く。
動いたときに、こちらが構えていられるかどうか。
俺の仕事は、それだけだった。
初めて作品作っていますがやっぱり難しいですね…
今後も作っていきたいので反省は生かせるようにしたいです。