長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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別の道

南の黄巾は、北とはまるで違った。

 

 北は、城に籠っていた。籠っているものは、囲めばいい。水を断てばいい。

 

 南は、籠っていなかった。

 

「――散っています」

 

 明命が、そう報告してきた。

 

 この娘は、先発して十日ほど見て回っていた。戻ってきたときには、泥だらけだった。

 

「村を三十ほど見ましたが、どこにも千を超える群れはおりません。……多いところで三百、少ないところで五十です」

 

「全部でどれくらいだ」

 

「わかりません」

 

 明命は、正直にそう言った。

 

「散らばりすぎていて、数えられませんでした。……ただ、村の者に聞くと、『あちこちにいる』としか言いません」

 

「あちこちか」

 

「はい。……その、申し訳ありません。もう少し粘れば」

 

「粘らんでいい」

 

 俺は、そう言った。

 

「数えられんものを数えようとすると、時間を食うだけだ。……あんたは十日で三十村を見た。それで十分だ」

 

「……はい」

 

「それより、別のことを聞きたい」

 

 俺は、そう言った。

 

「その三十村のうち、黄巾を追い出したがっている村はいくつあった」

 

 明命は、その質問にきょとんとした。

 

「――追い出したがっている、ですか」

 

「そうだ。……村に居着いている連中と、村の者は、仲がいいのか悪いのか」

 

 この娘は、しばらく考えた。

 

「……半々です」

 

「半々か」

 

「はい。米を取っていく群れもいれば、村を手伝っている群れもいます」

 

「手伝っている?」

 

「はい。……田を耕したり、水路を直したり」

 

 明命は、そう言った。

 

「もともと、その村の者だった者が多いようです。飢饉で逃げて、黄巾に入って、また戻ってきた、という」

 

 俺は、その報告を聞いて、少し頭が痛くなった。

 

「……厄介だな」

 

「厄介ですか」

 

「厄介だ。……それは、賊ではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「田を耕している者を斬ったら、村ごと敵に回る。……村が敵に回ると、こちらは糧が入らん」

 

 テラスの卓で、その話をした。

 

 冥琳どのは、地図を睨んで、しばらく黙っていた。

 

「……面倒ですね」

 

「面倒だ」

 

「斬れば早いのですが」

 

「早いな。……三月で片づく」

 

「そのあと、十年荒れます」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「村を焼いた土地は、十年戻りません。……祭どのがご存じでしょう」

 

 瓢箪を傾けていた祭どのが、そこで手を止めた。

 

「……知っとる」

 

「長沙で」

 

「長沙でな。……二十年前じゃ」

 

 この人は、そう言った。

 

「三年やり合うて、最後は山を焼いた。……あのあと、あの山には誰も戻らんかった」

 

「今も、ですか」

 

「今もじゃ」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「二十年経っても、木は生えたが人は戻らん。……人が戻らん土地は、租も入らん」

 

「――では、焼かない」

 

 俺は、そう言った。

 

「焼かんとなると、どうする」

 

 冥琳どのが、そう聞いた。

 

「分ける」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんた、さっき言ったな。半々だと。……米を取っていく群れと、村を手伝っている群れが半々だ」

 

「明命が言いました」

 

「そうだ。……つまり、半分は敵で、半分は敵ではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「敵でないほうを先に味方にする。……そうすれば、敵のほうが浮く」

 

 冥琳どのは、しばらく黙っていた。

 

「……どうやって味方にします」

 

「田の話をする」

 

 俺は、そう言った。

 

「田を耕している連中は、来年の秋のことを考えている。……考えている者には、話が通る」

 

「話とは」

 

「租を三年待つ」

 

 俺は、そう言った。

 

 卓が、少し静かになった。

 

「……三年、ですか」

 

「三年だ。……今年から三年、この地域の租を取らん。そのかわり、黄巾を名乗るのをやめてもらう」

 

「それは、うちの取り分が減りますよ」

 

「減る」

 

「三年もですか」

 

「三年もだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、今この地域から取れている租は、どのみちゼロだ。……ゼロが三年続いても、ゼロのままだ」

 

 冥琳どのが、そこで目を細めた。

 

「……なるほど」

 

「三年後に取れるようになれば、それは増えたことになる」

 

「そうなりますね」

 

「そして、そのあいだに人が増える」

 

 俺は、そう言った。

 

「租を取らない土地には、人が集まる。……集まった人は、三年後には租を払う側になる」

 

 冥琳どのは、しばらく地図を見ていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……楚航どの。それ、袁術どのの土地ですよ」

 

 俺は、その指摘に、少し止まった。

 

 止まってから、正直に言った。

 

「――忘れていた」

 

「忘れないでください」

 

「すまん。……勝手に三年決めていた」

 

「勝手にです」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「あの家の土地の租を、こちらが三年免除する権限はありません」

 

「では、無理か」

 

「無理ではありません」

 

 この人は、そう言った。

 

「言わなければいい」

 

「――言わない?」

 

「言いません。……こちらは『討伐した』と報告します。実際に、黄巾の旗は降ろさせるのですから、嘘ではない」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「租については、報告しません。……そもそも、今その地域から租は入っていない。入っていないものが入らなくても、誰も気づきません」

 

 俺は、その理屈を聞いて、少し感心した。

 

「……あんた、平気でそういうことを言うな」

 

「言います」

 

「よく思いつく」

 

「三月前から考えていました」

 

「――三月前?」

 

「南に当てられるのは、去年からわかっておりましたので」

 

 この人は、あっさりと言った。

 

 俺は、その返事に、少し呆れた。

 

「……あんた、いつも先に考えているな」

 

「考えます。それが仕事です」

 

「では、俺の仕事はなんだ」

 

「思いつくことです」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「私は、三月かけて『租を免除する』という手を考えました。……ですが、それを『田を耕す者には話が通る』という形で言えるのは、あなただけです」

 

「――同じことだろう」

 

「違います」

 

 この人は、はっきりと言った。

 

「私の言い方だと、策になります。あなたの言い方だと、話になります。……村の年寄りは、策には乗りませんが、話には乗ります」

 

 編成を決めるとき、冥琳どのが妙なことを言い出した。

 

「――二手に分けます」

 

「二手か」

 

「はい。散っている相手を、一つの隊で追うのは無駄です」

 

 この人は、そう言った。

 

「東と西で分けます。東は雪蓮、西は――」

 

 そこで、少し間があった。

 

「……蓮華に」

 

 卓が、静かになった。

 

 俺は、思わず冥琳どののほうを見た。

 

「――本気か」

 

「本気です」

 

「あの人は、隊を率いたことがない」

 

「ありません」

 

「では」

 

「ですから、今やらせます」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「今回は、大きな戦になりません。散らばった相手を、村ごとに一つずつ片づけるだけです。……失敗しても、致命傷になりません」

 

「……」

 

「初めてやらせるなら、今です」

 

 俺は、その理屈を、しばらく考えた。

 

 考えて、こう言った。

 

「――一つだけ、確かめたい」

 

「なんでしょう」

 

「これは、あんたが考えたことか。それとも、あの人が言ったことか」

 

 冥琳どのは、少し目を細めた。

 

「……蓮華が、私に言いました」

 

「――やはりな」

 

「なぜ、わかりました」

 

「あんたは、あの人を前に出さん」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは、あの人を保険だと思っている。……保険を前に出す軍師はいない」

 

「……」

 

「だから、あの人が言い出した。あんたはそれを聞いて、断らなかった」

 

 冥琳どのは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……三度断りました」

 

「四度目に、頷いたか」

 

「頷きました」

 

「なぜだ」

 

「四度目の言い方が、良かったからです」

 

 この人は、そう言った。

 

「あの子は、四度目にこう言いました。『私は、数える人です。数える人が、数えているだけで一生を終えるなら、誰が数えられない人の代わりに前に出るのですか』と」

 

 俺は、その言葉を聞いて、少し胸を突かれた。

 

「……あの人らしいな」

 

「あの子らしいです」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「それと、もう一つ言われました。……『楚航どのが、三度断られたら三度言い返せと教えてくれました』と」

 

 俺は、そこで少し気まずくなった。

 

「……余計なことを教えたか」

 

「教えましたね」

 

「すまん」

 

「謝らないでください」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「あれは、良い教えです。……ただ、教えた相手が悪かった」

 

「悪いか」

 

「悪いです。あの子は、真面目に守ります」

 

 西へ向かう別動隊は、千二百だった。

 

 率いるのは蓮華さま。副が祭どの。それに、思春という娘が親衛として付いた。

 

 俺は、東の隊に入った。雪蓮さまと一緒だ。

 

 出発の朝、俺は蓮華さまのところへ行った。

 

「――子渡」

 

「一つ、渡しておく」

 

 俺は、帳面を差し出した。

 

「これは」

 

「西の三十村の名前だ。……明命が見てきたものを、俺が写した」

 

 俺は、そう言った。

 

「村の名前と、戸数と、そこにいる群れの数。……それから、その群れが田を耕しているかどうか」

 

 蓮華さまは、それを開いた。

 

「……耕しているかどうかまで、書いてあるんですか」

 

「書いてある。……そこが一番大事だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「耕している群れには、租の話をしろ。三年待つと言え。……耕していない群れは、話が通らん。そちらは祭どのに任せろ」

 

「……はい」

 

「それと、一つ頼みがある」

 

「なんですか」

 

「村へ行ったら、まず飯を食え」

 

 俺は、そう言った。

 

「知っています。三度聞きました」

 

「四度目だ」

 

「はい」

 

「四度言うということは、それだけ大事だということだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「順番を間違えるな。飯を食う。話を聞く。去年何が穫れたかを聞く。……それから、初めて用件を言え」

 

 蓮華さまは、帳面を胸に抱えた。

 

「……子渡」

 

「なんだ」

 

「怖いです」

 

「そうだろうな」

 

「……即答ですね」

 

「即答した。……怖くない者が隊を率いると、隊が死ぬ」

 

 俺は、そう言った。

 

「怖いままやれ。……怖いのは、あんたが千二百人の名前を知っているからだ」

 

「知りません。まだ全部は」

 

「では、覚えろ」

 

 俺は、そう言った。

 

「帰ってくるまでに、全部覚えろ。……覚えたら、たぶん、もっと怖くなる」

 

「……それ、慰めですか」

 

「慰めではない」

 

「ですよね」

 

 蓮華さまは、そう言って、少し笑った。

 

 笑ってから、こう言った。

 

「……行ってきます」

 

「行ってこい」

 

 俺は、そう言った。

 

「それと、一つだけ約束しろ」

 

「なんですか」

 

「帰ってきたら、数を報告しろ」

 

 俺は、そう言った。

 

「出た数と、帰った数だ。……合わなかったら、合わない理由を書け」

 

 蓮華さまは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、深く頷いた。

 

「……はい」

 

 東の戦は、退屈だった。

 

 退屈だというのは、楽だったという意味ではない。

 

 村を一つずつ回って、話をつけて、次へ行く。それを二十日続けた。

 

 斬り合いになったのは、三度だけだった。

 

 三度とも、田を耕していない群れだった。米を取っていくだけの連中で、村の者が真っ先に「あそこにいる」と教えてくれた。

 

「……楽ですね、これ」

 

 十日目に、阿六がそう言った。

 

「楽ではない」

 

「楽ですよ。飯食って、話して、たまに斬るだけです」

 

「その飯を食うのが大変なんだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「一日に三村回ると、三回飯を食う。……腹が保たん」

 

「あー」

 

「昨日、俺は粥を四杯食った」

 

「四杯ですか」

 

「四杯だ。……断ると、話が通らん」

 

 阿六は、そこで少し笑った。

 

「隊長、太りますよ」

 

「太る。……だが、痩せるよりましだ」

 

 その夜、俺は雪蓮さまと焚き火のそばにいた。

 

 この人も、粥を三杯食っていた。

 

「……お腹いっぱい」

 

「そうだろうな」

 

「灘、あなたよく四杯も食べられるわね」

 

「食えるわけがない」

 

 俺は、そう言った。

 

「三杯目からは、味がしない」

 

「じゃあ、なんで食べるのよ」

 

「残すと、村の者が気にする」

 

 俺は、そう言った。

 

「粥というのは、村にとっては安いものではない。……三杯目まで出してくるのは、こちらを歓迎しているからだ。それを残すと、歓迎が足りなかったと思われる」

 

「……面倒くさいわね」

 

「面倒くさい」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、この面倒を省くと、あとで十倍面倒になる」

 

 雪蓮さまは、しばらく火を見ていた。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「蓮華、大丈夫かしら」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

「――大丈夫だ」

 

「即答ね」

 

「即答した。……根拠もある」

 

「言ってみて」

 

「祭どのがいる」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの人は、若い者に無茶をさせん。……四十年、それをやってきた」

 

「それだけ?」

 

「それと、思春という娘だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの娘は、命じられたことしかしないと言った。……逆に言えば、命じられたことは必ずやる」

 

「あなた、あの子と話したの?」

 

「一度だけな。舟の話をした」

 

「舟の話?」

 

「川舟と海舟の違いだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの娘は、海の舟を知っていた。……舷の高さの話をしたら、こちらの話に食いついてきた」

 

「ふうん」

 

「そのあと、一つ聞かれた」

 

 俺は、そう言った。

 

「蓮華さまは前に出るのか、と」

 

「……なんて答えたの」

 

「出ない、と答えた」

 

「そう」

 

「そうしたら、なぜ連れて行くのかと聞かれた」

 

 俺は、そう言った。

 

「本人が来たいと言ったからだ、と答えた。……理由になっていないと言われた」

 

「なってないわね」

 

「なっていない」

 

 俺は、認めた。

 

「だが、それしか理由がない。……あの人は、四度目に自分で言った。四度目に自分で言った者を、止める理由が俺にはない」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「あの子、変わったわね」

 

「変わった」

 

「昔は、私の後ろに隠れてたのよ」

 

 その人は、そう言った。

 

「九つのとき、あなたに初めて会った日。……あの子、私の背中に半分隠れてたわ」

 

「覚えている」

 

「覚えてるの?」

 

「覚えている。……隠れながら、こちらから目を逸らさなかった」

 

 俺は、そう言った。

 

「人見知りのくせに、目だけは逸らさなかった。……あれは、今も同じだ」

 

 雪蓮さまは、そこで少し笑った。

 

「……よく見てるのね、あなた」

 

「見ている」

 

「私のことも?」

 

「見ている」

 

「即答ね」

 

「即答した。……見ていないと、隊が動かん」

 

「……そこは、もうちょっと別の言い方があるでしょ」

 

 雪蓮さまが、そう言った。

 

「別の言い方か」

 

「そうよ」

 

「……なんと言えばいい」

 

「自分で考えなさいよ」

 

 その人は、そう言って、火に枝を放り込んだ。

 

 俺は、しばらく考えた。

 

 考えて、こう言った。

 

「――『見ている』でいい気がする」

 

「もういいわ」

 

 西の隊が戻ってきたのは、東より五日早かった。

 

 千二百で出て、千百九十四で帰ってきた。

 

 六人が帰らなかった。

 

 蓮華さまは、館の門で俺を待っていた。

 

 待っていて、俺の顔を見るなり、こう言った。

 

「――六人です」

 

「聞いた」

 

「名前を書きました」

 

「見せてくれ」

 

 この人は、帳面を差し出した。

 

 六人の名前と、その隣に、それぞれの死んだ場所と状況が書いてあった。

 

 俺は、それをしばらく読んだ。

 

「……状況まで書いたのか」

 

「書きました」

 

「なぜだ」

 

「……名前だけだと、足りない気がして」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「名前だけだと、六人が同じに見えます。……でも、六人とも違う死に方をしていました」

 

「……そうか」

 

「一人は、村の者を庇いました。一人は、逃げようとして背中を斬られました」

 

 この人は、そう言った。

 

「……逃げた者のことも、書きました。書かないほうがいいのかと思ったのですが」

 

「書け」

 

 俺は、即答した。

 

「……いいんですか」

 

「いい」

 

 俺は、そう言った。

 

「逃げた者を書かないと、逃げたことがなかったことになる。……なかったことになると、次に逃げる者が出たときに、誰も理由を考えん」

 

「理由、ですか」

 

「理由だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「その男が逃げた理由は、たぶん、そいつだけのものではない。……同じ場所にいた者が、みんな同じことを思っていた」

 

「……」

 

「思っていて、逃げなかっただけだ。……逃げなかった者のことも、考えないといかん」

 

 蓮華さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……子渡」

 

「なんだ」

 

「私、その男を追いませんでした」

 

「追わなかったか」

 

「はい。……祭どのが『追え』と仰いましたが、追いませんでした」

 

 この人は、そう言った。

 

「軍規では、逃げた者は追って斬ります。……でも、追いませんでした」

 

「なぜだ」

 

「怖かったからです」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「追って、斬って、それを千百九十四人が見ます。……見た者が、私をどう思うかが怖かったんです」

 

「……」

 

「私は、正しい判断をしませんでした」

 

 この人は、そう言った。

 

「怖くて、できませんでした。……それだけです」

 

 俺は、その言葉を聞いて、しばらく考えた。

 

 考えて、こう言った。

 

「――祭どのは、なんと言った」

 

「『まあよかろう』と」

 

「それだけか」

 

「それだけです」

 

「では、それでいい」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの人が『まあよかろう』と言うのは、たいてい『それでいい』という意味だ」

 

「……でも、私は」

 

「聞け」

 

 俺は、遮った。

 

「あんたは、追わなかった理由を『怖かったから』だと言った。……それは、たぶん半分だ」

 

「半分、ですか」

 

「半分だ。……もう半分がある」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは、その男を斬ったら、六人が七人になると思ったんだろう」

 

 蓮華さまが、顔を上げた。

 

「……」

 

「違うか」

 

「……違いません」

 

「では、それも書いておけ」

 

 俺は、そう言った。

 

「怖かったのも本当、七人にしたくなかったのも本当だ。……両方書け」

 

 蓮華さまは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、少し笑った。

 

「……また、両方ですね」

 

「またそれだ」

 

「あなた、それしか言いませんね」

 

「それしか言えん」

 

 俺は、そう言った。

 

「二十年考えたが、それ以上の答えが出ていない」

 

 その夜、テラスに全員が集まった。

 

 雪蓮さま、蓮華さま、祭どの、冥琳どの、穏どの。それに、思春という娘が、少し離れて立っていた。

 

 卓の上に、文が一通置かれていた。

 

 袁術からのものだ。

 

 俺は、それを読んだ。

 

 読んで、しばらく黙った。

 

「……三度目だな」

 

「三度目です」

 

 冥琳どのが、そう言った。

 

 文の中身は、こうだった。

 

 南の黄巾討伐、大儀であった。ついては、次は北の残党を討て。兵は貸さぬ。恩賞は、討伐の後に検討する。

 

「――貸さぬ、と書いてあるな」

 

「書いてあります」

 

「前は貸したのに」

 

「前は貸しました。今度は貸しません」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「そして、恩賞は『後に検討する』です。……前は絹三十匹でした。今度は、ゼロと書いてある」

 

「ゼロとは書いていないぞ」

 

「同じことです」

 

 この人は、はっきりと言った。

 

「『後に検討する』というのは、『出さない』と同じです。……検討する時期が書いていない」

 

 俺は、その文をもう一度読んだ。

 

 読んで、こう言った。

 

「……三度目か」

 

「三度目です」

 

「一度目は絹三十匹。二度目は租を取らせずに済ませた。三度目は、これだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「一度目は偶然、二度目は運、三度目は相手の性質だ。……商人の言い草だがな」

 

「言い得て妙です」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「そして、これは性質です」

 

 雪蓮さまが、卓に肘をついた。

 

「……で、どうするの」

 

「行きます」

 

 冥琳どのが、即答した。

 

「――行くの?」

 

「行きます。……ただし、今回は違います」

 

 この人は、そう言った。

 

「今回は、こちらから条件を出します」

 

「条件?」

 

「はい。……兵を貸さぬというなら、こちらは自前で集めます。集めた兵は、こちらのものです」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「そう書いて、文を出します。……返事を待たずに集めます」

 

「……それ、勝手じゃない」

 

「勝手です」

 

「怒られるわよ」

 

「怒られます」

 

 この人は、あっさりと言った。

 

「怒られたら、こう言います。『兵を貸さぬと仰ったので、自前で用意いたしました』と」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「……喧嘩を売っているな」

 

「売っています」

 

「認めるのか」

 

「認めます」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「そろそろ、売ってもよい頃です」

 

 卓が、静かになった。

 

 俺は、その静けさの意味を理解した。

 

 これは、二年の始まりだった。

 

「――公瑾どの」

 

「なんでしょう」

 

「一つ、確かめておく」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは、こちらから先に手を出さんと約束した。……覚えているな」

 

「覚えております」

 

「これは、手を出したことになるか」

 

 冥琳どのは、少し考えた。

 

「……ならないと思います」

 

「思う、では困る」

 

「では、言い直します」

 

 この人は、そう言った。

 

「なりません。……こちらは、兵を集めるだけです。集めた兵で、あちらの命じた敵を討ちます」

 

「命じられた通りにやるのか」

 

「やります。……そこは、きちんとやります」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「命じられたことをきちんとやったうえで、こちらの取り分だけを増やす。……これは、裏切りではありません」

 

「では、何だ」

 

「解釈です」

 

 この人は、そう言った。

 

「文に『兵を貸さぬ』と書いてあります。『自前で集めるな』とは書いてありません」

 

「……そういう読み方か」

 

「そういう読み方です」

 

 俺は、その言い方に、しばらく考えた。

 

 考えて、こう言った。

 

「――一つ、頼みがある」

 

「またですか」

 

「またです」

 

「どうぞ」

 

「その文、写しを取っておいてくれ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あちらから来た文は、全部取っておく。……こちらが出した文も、写しを取る」

 

「……理由を伺っても」

 

「いつか、必要になる」

 

 俺は、そう言った。

 

「こちらが先に手を出していないことを、あとで誰かに示さないといかん日が来る。……そのときに、口で言っても誰も信じん」

 

「文があれば」

 

「文があれば、読める者は読む」

 

 俺は、そう言った。

 

「読める者が読んで、そのあと百年経っても残る。……そういうものだ」

 

 冥琳どのは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……蓮華」

 

「はい」

 

「聞いていたか」

 

「聞いていました」

 

 蓮華さまが、そう答えた。

 

「では、任せる。……あちらからの文も、こちらからの文も、全部写せ」

 

「はい」

 

「書き方は」

 

「日付と、差出人と、要旨を先に書きます」

 

 この人は、そう言った。

 

「そのあとに、本文を写します。……そうすれば、あとで探すときに早いです」

 

 冥琳どのが、そこで少し目を細めた。

 

「……もう考えていたか」

 

「三月前から考えていました」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「あの、袁術どのから最初に『厚く弔うな』という文が来たときに、私は畳んで取っておきました。……あれを取っておいて、よかったと思っています」

 

「――あれか」

 

 俺は、そう言った。

 

「三年前だな」

 

「三年前です」

 

「まだ持っているのか」

 

「持っています」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「あのとき、あなたが言いました。……『二人で持てば、二倍残る』と」

 

「言った」

 

「私、あれから、全部二つ書いています」

 

 この人は、そう言った。

 

「一つは館に置いて、もう一つは別の場所に置いています」

 

 俺は、その言葉に、少し驚いた。

 

「……別の場所とは」

 

「言いません」

 

「――言わんのか」

 

「言いません。……あなたにも言いません」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「一人が知っていれば、その一人が消えたら消えます。二人が知っていれば、二倍残ります。……でも、置き場所は、知る人が少ないほど安全です」

 

「……なるほど」

 

「あなたの教えを、少し変えました」

 

 この人は、そう言った。

 

「中身は二人で持ちます。場所は一人で持ちます」

 

 俺は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「――上手いな」

 

「上手いですか」

 

「上手い。……俺が言ったことより、上等だ」

 

 蓮華さまは、そこで耳を赤くした。

 

「そ、そんなに褒めなくても」

 

「褒める」

 

 俺は、そう言った。

 

「これは褒めるところだ」

 

 その夜、俺はテラスに残っていた。

 

 全員が去ったあと、川を見ていた。

 

 しばらくして、足音がした。

 

 思春という娘だった。

 

「――隊長」

 

 この娘は、そう呼んだ。

 

 俺は、少し驚いた。

 

「……いつから、そう呼ぶことにした」

 

「西で決めました」

 

「理由は」

 

「呼び方がないと不便だからです」

 

 この娘は、そう言った。

 

「甘寧と申します。……蓮華さまの親衛につきました」

 

「聞いている」

 

「一つ、報告があります」

 

「言え」

 

「西で、蓮華さまが逃げた兵を追われませんでした」

 

 俺は、その報告に、少し身構えた。

 

「……聞いている」

 

「はい。……それについて、私の考えを申し上げます。私は、追うべきだったと思います」

 

「――そうか」

 

「はい。……軍規は軍規です。守らねば、次から誰も守りません」

 

「そうだな」

 

「ですが」

 

 この娘は、そこで少し間を置いた。

 

「……私は、それを蓮華さまには申し上げませんでした」

 

「なぜだ」

 

「あの方が、自分で気づいておられたからです。あの方は、追わなかったあと、一晩中帳面を書いておられました。……私は、外で見ておりました」

 

「……」

 

「翌朝、あの方は隊の前で、こう仰いました。『昨日、私は逃げた者を追いませんでした。これは私の落ち度です。次は追います』と」

 

 俺は、その報告を聞いて、少し驚いた。

 

「……それは、聞いていない」

 

「あの方は、仰らなかったのでしょう。私は、それを見て、決めました」

 

「――何をだ」

 

「あの方に付くと決めました」

 

 この娘は、そう言った。

 

「私は、命じられたことしかしません。……ですが、命じられたことをきちんとやる者は、上がきちんとしていないと続きません」

 

「そうだな」

 

「あの方は、きちんとしておられます。自分の落ち度を、千百九十四人の前で言える方は、そう多くありません」

 

 俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「――甘寧どの」

 

「思春でよろしい」

 

 この娘は、そう言った。

 

「……真名か」

 

「はい。……蓮華さまには、昨日お渡ししました」

 

「早いな」

 

「早いです。……自分でも早いと思います。ですが、私は八年、真名を渡す相手がおりませんでした。……渡す相手が見つかったら、渡すのが早いのは当然です」

 

「……八年か」

 

「八年です」

 

 この娘は、そう言った。

 

「その話は、いずれいたします。……今は、まだ」

 

「わかった。待つ」

 

 俺は、そう言った。

 

「待つのは得意だ」

 

「そう伺っております」

 

「――誰にだ」

 

「祭どのに」

 

 思春は、そう言った。

 

「『あの男は、水位を三年測る男じゃ』と」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「……三年ではない。今のところ二年半だ」

 

「では、あと半年で三年ですね」

 

「そうなる」

 

「では、あと半年で何かが起きるのですね」

 

 俺は、その言葉に、少し驚いた。

 

「――なぜ、そう思う」

 

「三年測る男が、二年半測っているのなら、あと半年で結論が出るからです。私は、命じられたことしかしません。……ですが、耳は使います」

 

「……そうか」

 

「はい」

 

「では、覚えておく」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは、耳を使う」

 

 思春は、少し頭を下げて、去っていった。

 

 俺は、その背中を見ながら、川のほうへ目を戻した。

 

 あと半年。

 

 冥琳どのは二年と言った。二年のうち、一年半が過ぎている。

 

 残り半年で、あの家は必ず動く。

 

 動いたときに、こちらが構えていられるかどうか。

 

 俺の仕事は、それだけだった。




初めて作品作っていますがやっぱり難しいですね…
今後も作っていきたいので反省は生かせるようにしたいです。
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