長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
兵を自前で集めると文に書いて出したら、三日で返事が来た。
早かった。
冥琳どのは、その速さに少し目を細めた。
「……早いですね」
「早い。……前は半月待たされた」
「今回は三日です」
「怒っているな」
「怒っておられます」
この人は、そう言って文を開いた。
開いて、一行目で笑った。
「――なんて書いてある」
「『勝手を許した覚えはない』と」
「一行目からそれか」
「一行目からです」
冥琳どのは、そう言った。
「二行目は『しかし、兵を貸さぬと申したのは事実である』」
「……三行目は」
「『よって、集めるのは構わぬ』」
俺は、その流れに少し呆れた。
「……三行で折れているぞ」
「折れております」
「早いな」
「早いです。……ですが、四行目があります」
「なんだ」
「『ただし、集めた兵の糧は自弁とする』」
俺は、その一言で理解した。
「……なるほど。そこで締めるか」
「締めます」
冥琳どのは、そう言った。
「兵を集めるのは許す。ただし飯は自分で用意しろ。……これは、あちらから見れば損のない話です」
「兵が増えて、飯は出さん」
「はい。……そして、飯が足りなければ、こちらは集めた兵を養えず、勝手に潰れます」
「潰れるか」
「普通なら潰れます」
この人は、そこで少しだけ笑った。
「……普通ならな」
俺は、その笑い方を見て、少し安心した。
この人がこういう笑い方をするときは、たいてい手がある。
「――で、いくつ持っている」
「三十村です」
冥琳どのは、あっさりと言った。
「去年、あなたと蓮華が回られた三十村。……あそこに預けた米が、九千三百石」
「あれは、うちの糧だ」
「うちの糧です。……あちらは知りません」
「知らんな」
「知りませんし、こちらから言う義理もありません」
この人は、そう言った。
「『糧は自弁とする』と書いてきたのは、あちらです。……こちらは、自弁いたします」
俺は、その言い方に、少し笑ってしまった。
「……あんた、去年から仕込んでいたのか」
「仕込んでおりません」
「嘘だな」
「嘘です」
冥琳どのは、即答した。
「仕込んでおりました。……ただ、あそこまで都合よく『自弁とする』と書いてくるとは思っておりませんでした」
「思っていなかったのか」
「思っておりませんでした。……もう少し面倒な条件を出してくると踏んでおりました」
この人は、そう言った。
「たとえば、『集めた兵の名簿を毎月提出せよ』とか。……そちらのほうが、よほど厄介です」
「なぜだ」
「数がわかると、あちらが動く時期を決められます」
冥琳どのは、そう言った。
「こちらが三千なら、五千で来ればいい。五千なら、八千で来ればいい。……数を知られるというのは、そういうことです」
「……なるほど」
「ですが、あちらは名簿を求めてきませんでした」
「求めなかったな」
「求めませんでした。……これは、大きい」
この人は、そう言った。
「あちらは、我らを『飯で潰せる』と思っています。……思っているうちは、数を数えません」
兵集めは、俺と蓮華さまでやった。
といっても、去年の三十村を回るのとは違う。
今度は、人を募る。
村へ行って、飯を食って、話を聞いて、それから「うちに来ないか」と言う。
断られることのほうが多かった。
「――今日は、三人ですね」
十日目の夕方、蓮華さまが帳面を閉じながら言った。
「三人か」
「はい。四つの村を回って、三人です」
「少ないな」
「少ないです」
この人は、そう言った。
「去年、米を預けたときは、三十九村で三十村が受けました。……今回は、四村で三人です」
「比べるものが違う」
俺は、そう言った。
「米を預けるのは、村が損をしない。人を出すのは、村が損をする」
「……そうですね」
「一人出せば、田を耕す手が一つ減る。……減った分は、村の誰かが埋めることになる」
俺は、そう言った。
「だから、村は嫌がる。当たり前だ」
「では、どうすれば」
「どうもならん」
俺は、即答した。
「――即答ですね」
「即答した。……こればかりは、手がない」
俺は、そう言った。
「一日三人でいい。三十日で九十人だ。……百日で三百人になる」
「三百人ですか」
「三百人だ。……足りんな」
「足りません」
「足りんが、ゼロよりましだ」
俺は、そう言った。
蓮華さまは、しばらく帳面を見ていた。
それから、こう言った。
「……子渡。一つ、思いついたことがあるんですけど」
「言え」
「村から人を募るのをやめて、村から出た人を探すのはどうでしょう」
俺は、その言葉に、少し止まった。
「――村から出た人?」
「はい」
この人は、そう言った。
「今、村にいる人を連れ出すと、村が損をします。……でも、もう村にいない人なら、村は損をしません」
「……」
「たとえば、次男や三男です。田を継げないので、村を出るしかない人たち」
蓮華さまは、そう言った。
「あと、去年うちが帰農させた者のうち、村に馴染めなかった者もいます。……三千二百人戻しましたが、全員が上手くいったとは限りません」
俺は、その話を聞いて、少し感心した。
「――どこで思いついた」
「帳面です」
「帳面か」
「はい。去年の帰農の記録と、今年の村の人数を比べました」
この人は、そう言った。
「合いません。三千二百人戻したはずなのに、村の人数はそこまで増えていません」
「差は」
「四百人ほどです」
「四百人が、どこかへ行ったか」
「行きました」
蓮華さまは、そう言った。
「どこへ行ったかはわかりません。……ですが、村を出た四百人が、この辺りにいるはずです」
俺は、その四百人を探すことにした。
探し方は、単純だった。
村ではなく、村と村のあいだを回る。
道端に小屋を建てて住んでいる者、川で魚を獲って食っている者、街道の宿場で日雇いをしている者。そういう場所を、順に回った。
二十日で、百七十人が見つかった。
そのうち、九十四人が来ると言った。
「――多いな」
俺は、その数を聞いて、少し驚いた。
「多いですね」
「村で募ると一日三人だ。……こちらは、一日五人近い」
「理由は明白です」
蓮華さまが、そう言った。
「行き場がないからです」
「……そうだな」
「行き場がない人は、来ると言います。……でも、それは選んでいるわけではありません」
この人は、そう言った。
「私、少し気になっています。……これは、人を集めているのか、拾っているのか」
俺は、その質問に、少し考えた。
考えて、こう答えた。
「――拾っている」
「即答ですね」
「即答した。……拾っている」
俺は、そう言った。
「そして、それでいいと思っている」
「……いいんですか」
「いい」
俺は、そう言った。
「俺も拾われた口だ」
蓮華さまが、そこで顔を上げた。
「……子渡が、ですか」
「そうだ。……十のときに村を焼かれて、川に流されて、下流の漁師の家に引っかかった」
俺は、そう言った。
「その爺が拾ってくれなかったら、俺は死んでいた。……拾われた者が、拾うのを悪いことだとは言えん」
「……」
「ただし、拾ったあとが大事だ」
俺は、そう言った。
「拾って、飯を食わせて、名前を覚えて、仕事を教える。……そこまでやって、初めて拾ったことになる」
「途中でやめると」
「捨てたのと同じだ」
俺は、そう言った。
「拾って捨てるのは、拾わないより悪い」
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……九十四人、全員の名前を書きます」
「頼む」
「出身も、なぜ村を出たかも書きます」
「そこまで書くか」
「書きます」
この人は、そう言った。
「あとで、村に戻したくなったときに、どこへ戻せばいいかがわかりますので」
北の残党討伐は、三度目の戦だった。
兵は四千。うち、自前で集めたのが千二百。
残党は、前回の生き残りだった。城を追われて、山へ逃げ込んだ連中だ。
数は、二千ほど。
「――山ですね」
冥琳どのが、地図を見ながら言った。
「山だ」
「祭どのが嫌がられます」
「嫌がるだろうな」
俺は、そう言った。
「あの人は、山で三年やり合って、最後に焼いた口だ」
「では、今回はどうします」
「山に入らん」
俺は、即答した。
「……入らないのですか」
「入らん。……入ったら、こちらが損をする」
俺は、そう言った。
「山は、向こうの土地だ。……道も、水も、隠れる場所も、全部向こうが知っている」
「では、どうやって討ちます」
「討たん」
「――討たないのですか」
「討たん。……下ろす」
俺は、そう言った。
「二千が山にいる。山には田がない。……つまり、飯は下から取っている」
「里から」
「里からだ」
俺は、そう言った。
「その里を押さえる。押さえて、山へ米が上がらないようにする。……そうすれば、下りてくる」
「また、水と同じ手ですね」
「同じ手だ」
俺は、そう言った。
「俺は、手数が少ない。……同じ手ばかり使う」
「悪いことではありません」
冥琳どのは、そう言った。
「同じ手でも、通るなら通ります。……ただ、三度目です。あちらが読んでいるかもしれません」
「読んでいたら、どうなる」
「先に里から米を集めます。……集めて、山に運び上げる」
「では、それを見張ればいい」
俺は、そう言った。
「明命に、里から山へ上がる道を見てもらう。……道は、そう多くない」
道は、四本だった。
明命が三日で見つけてきた。
「四本です。……そのうち、二本は細くて、荷車が通りません」
「では、二本か」
「はい。東の道と、南の道です」
この娘は、そう言った。
「東の道は、里からまっすぐ上がっています。南の道は、遠回りですが、緩やかです」
「荷を運ぶなら」
「南です」
「では、南を押さえる」
俺は、そう言った。
「東は」
「東は、開けておく」
「――開けるのですか」
「開ける」
俺は、そう言った。
「二本とも塞ぐと、向こうは別の道を探す。……探されると、こちらが四本を見張らねばならん」
「一本開けておけば」
「そこを使う」
俺は、そう言った。
「使うとわかっている道は、見張るのが楽だ」
冥琳どのが、そこで少し笑った。
「……相変わらず、意地が悪い」
「意地が悪いか」
「悪いです。……ですが、上手い」
その戦は、ひと月で片づいた。
南の道を押さえて、東の道だけを残した。
東の道は細い。荷車が通らない。だから、担いで運ぶことになる。
担いで運べる量は、知れている。
二十日目に、山から人が下りてきた。
最初は、二十人ほどだった。武器を持たずに下りてきた。
俺は、斬らせなかった。
「――飯を食わせろ」
俺は、そう命じた。
「……隊長、また飯ですか」
阿六が、呆れた顔で言った。
「また飯だ」
「毎回それですね」
「毎回だ。……効くからな」
俺は、そう言った。
「渇いている者に水をやり、飢えている者に飯をやる。……これで大抵は済む」
「済まないときは」
「済まないときは斬る」
俺は、そう言った。
「だが、済むことのほうが多い」
二十人が下りたあと、三日で二百人が下りてきた。
その次の日に、五百人。
ひと月で、千四百人が下りた。
残った六百は、山に籠ったまま出てこなかった。
「……どうします」
「放っておく」
俺は、そう言った。
「――放っておくのですか」
「放っておく。……六百では、里は襲えん」
俺は、そう言った。
「襲うには、山を下りねばならん。下りたら、こちらが待っている。……それがわかっているから、下りてこない」
「では、山に籠ったままですか」
「籠ったままだ。……そのうち、勝手に減る」
俺は、そう言った。
「山に籠って六百が食える土地なら、そもそも下に降りてきていない」
冥琳どのが、その報告を聞いて、頷いた。
「……妥当です」
「討たなくていいのか」
「討たなくて結構です」
この人は、そう言った。
「あちらへの報告には『残党を鎮圧、千四百を帰農させた』と書きます。……六百については書きません」
「書かんのか」
「書きません。……聞かれたら答えます」
「聞かれるか」
「聞かれません」
冥琳どのは、あっさりと言った。
「あちらは、数を数えませんので」
その戦の帰り道に、思春と話す機会があった。
夜、陣の外れで、この娘が一人で座っていた。
俺は、そこへ行って、隣に座った。
座るのに、少し手間がかかった。
「……隊長」
「隣、いいか」
「もう座っておられます」
「座ってから聞いた」
「順番が逆です」
「よく言われる」
俺は、そう言った。
思春は、少し呆れた顔をした。
「……何かご用ですか」
「用はない。……ただ、あんたが一人で座っているのを見たので、来た」
「一人が好きなのです」
「そうか。……では、帰る」
俺は、そう言って立とうとした。
立とうとして、左脚が引っかかった。
思春が、無言で腕を掴んだ。
「……すまん」
「いえ」
「情けないな」
「情けなくありません」
この娘は、そう言った。
「私の育った村では、脚を悪くした者は川に流されました」
俺は、その言葉に、少し止まった。
「……なんだと」
「飢饉のときです」
思春は、あっさりと言った。
「働けない者から順に、減らします。……年寄りと、脚の悪い者と、赤子です」
「……」
「私は、それを見て育ちました」
俺は、しばらく答えられなかった。
答えられないまま、また座った。
「――座り直した」
「そのようですね」
「あんたの話を聞かずに帰るのは、寝覚めが悪い」
「聞いても寝覚めは悪いと思います」
「たぶんな」
俺は、そう言った。
「だが、聞かなかったほうが悪い」
思春は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……十二のときに、村を出ました」
「出たか」
「出ました。……いえ、正確には、追い出されました」
この娘は、そう言った。
「その年、飢饉でした。……村で、減らす者を決める話になりました」
「……」
「私の家は、父も母も死んでいました。……身寄りのない子供です。真っ先に名が挙がりました」
俺は、その言葉を聞いて、腹の底が重くなった。
「……それで」
「逃げました」
思春は、そう言った。
「夜のうちに、川へ出ました。……舟を盗んで、下りました」
「舟を盗んだのか」
「盗みました。……最初の盗みです」
「……そうか」
「はい」
この娘は、そう言った。
「その舟で、三日下って、河口まで出ました。……そこで、拾われました」
「誰にだ」
「賊です」
思春は、あっさりと言った。
「趙徳という男でした。……水賊の頭です」
俺は、その名前を頭に入れた。
「……趙徳」
「はい」
「字は」
「知りません」
この娘は、そう言った。
「真名も知りません。……あの男は、誰にも言いませんでした」
「……そうか」
「三年前に死にました」
思春は、そう言った。
「病です。……誰も名を覚えていません。墓もありません」
俺は、その話を聞いて、しばらく黙っていた。
それから、懐から帳面を出した。
「――何を」
「書く」
「――は?」
「趙徳という男の名を書く」
俺は、そう言った。
「うちの帳面に書いておく。……この隊に来た者の、拾い親として書く」
思春は、しばらく俺を見ていた。
「……なぜ、そこまで」
「書かないと、いなかったことになる」
俺は、そう言った。
「あんたが今、その名を言った。……言われた俺が書かなければ、その名は今日また消える」
「……」
「それは、嫌だ」
俺は、そう言った。
「俺の勝手な嫌さだ。……だから、あんたが嫌なら書かん」
思春は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……書いてください」
「書く」
俺は、その場で書いた。
書いたところを、この娘が覗き込んだ。
「……字が汚いですね」
「汚い」
「もう少し丁寧に書けませんか」
「書けん」
俺は、そう言った。
「二十年、この字で書いてきた。……今さら直らん」
「……そうですか」
「だが、読める」
俺は、そう言った。
「読めれば、それでいい」
思春は、その帳面をしばらく見ていた。
それから、こう言った。
「……隊長」
「なんだ」
「私は、八年、賊をやりました」
「聞いている」
「八十人ほど食わせました。……最後は、六十三人になっていました」
「……減ったな」
「減りました」
この娘は、そう言った。
「二十二人、死にました。……そのうち十四人は、名前を覚えています」
「残りの八人は」
「覚えていません」
思春は、そう言った。
「覚えていないのが、一番こたえます」
俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「――十四人を書け」
「え?」
「十四人分でいい。……残りは『名を知らず』と書く」
俺は、そう言った。
「名を知らずと書いてあると、そこに人がいたことがわかる。……空白だと、何もなかったことになる」
思春は、しばらく俺を見ていた。
「……そういう書き方があるのですか」
「ある」
俺は、そう言った。
「昔、うちの隊で十九人死んだ。冬の飢饉だ。……そのうち七人は、誰も名前を知らなかった」
「……」
「あのとき、俺はそう書いた。……書いてよかったと、今でも思っている」
思春は、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……明日、持ってきます」
「頼む」
「それと」
この娘は、そう言った。
「……礼は、言いませんよ」
「言われても困る」
俺は、そう言った。
「礼を言われると、こちらが何かいいことをしたような気になる。……そういうのは、居心地が悪い」
「では、言いません」
「そうしてくれ」
思春は、そこで初めて、少しだけ表情を緩めた。
「……隊長は、変な方ですね」
「よく言われる」
「祭どのも同じことを仰っていました」
「……あの人は、何と言っていた」
「『あの男は、拾ったものを数える癖がある』と」
俺は、その言い方に、少し笑った。
「……当たっているな」
「当たっておりますか」
「当たっている」
俺は、そう言った。
「俺は、拾った者しか数えん。……捨てた者は、数えられん」
館へ戻ったのは、その半月後だった。
四千で出て、三千九百二十一で帰った。
七十九人が、帰らなかった。
そして、帰農させた千四百のうち、四百三十人がうちに入った。
差し引きで、兵は四千三百を超えた。
「――増えましたね」
冥琳どのが、帳面を見ながら言った。
「増えた。……四千三百二十七だ」
「一年前は、三千でした」
「そうだな」
「二年前は、七百でした」
「そうだったな」
俺は、そう言った。
「七百から四千三百だ。……六倍になっている」
「六倍です」
この人は、そう言った。
「そして、糧は自弁です」
「保つか」
「保ちます」
冥琳どのは、あっさりと言った。
「三十村の九千三百石があります。……それと、今回帰農させた千四百人の村から、来年少しずつ入ります」
「入るのか」
「入ります。……あの者たちは、うちが飯をやったことを覚えていますので」
この人は、そう言った。
「租ではありません。礼です。……礼は、あちらの帳面には載りません」
「……上手いな」
「上手いです」
「自分で言うのか」
「言います」
冥琳どのは、そう言った。
「褒める人が少ないので、自分で言うことにしております」
「褒めるぞ、俺は」
「あなたは、褒めるのが下手です」
「――下手か」
「下手です。『上手いな』しか言いません」
「……ほかに何と言えばいい」
「自分で考えてください」
この人は、そう言った。
その夜、テラスに全員が集まった。
冥琳どのが、卓の上に一枚の紙を置いた。
それは、文ではなかった。
数字が並んでいた。
「――これは」
「あちらの兵の数です」
冥琳どのが、そう言った。
「寿春に六千。周辺の城に、合わせて一万二千。……それと、袁術どのの直属が三千」
「二万一千か」
「二万一千です」
俺は、その数を見て、しばらく考えた。
「……こちらは四千三百だ」
「四千三百です」
「五倍だな」
「五倍です」
「無理だな」
「無理です」
冥琳どのは、あっさりと言った。
「――即答するな」
「即答します。……正面からやれば、無理です」
「では」
「正面からはやりません」
この人は、そう言った。
「二万一千のうち、寿春の六千以外は、動きません」
「動かんのか」
「動きません。……あれは、城に張りついている兵です」
冥琳どのは、そう言った。
「城の兵は、城を離れられません。離れれば、その城が取られる。……つまり、実際に動かせるのは、直属の三千と、寿春の六千だけです」
「九千か」
「九千です」
「四千三百対九千」
「はい」
「……まだ倍だ」
「倍です」
この人は、そう言った。
「ですが、五倍よりはましです」
俺は、その紙をしばらく見ていた。
見てから、一つ気になったことを言った。
「――公瑾どの」
「なんでしょう」
「この数、どこから取った」
「あちらの糧の帳面です」
冥琳どのは、あっさりと言った。
「――見たのか」
「見ておりません。……ですが、糧を運ぶ荷車の数は見られます」
「荷車か」
「はい。寿春へ入る荷車の数を、去年から数えております」
この人は、そう言った。
「一台に載る米の量は決まっています。……台数を数えれば、月にどれだけ入っているかがわかる」
「……そして、食う人数がわかる」
「わかります」
俺は、その手口に、少し感心した。
「……誰が数えた」
「明命です」
「あの娘か」
「あの娘です。……一年、数えておりました」
冥琳どのは、そう言った。
「毎月三日、寿春の門の前に座って、荷車を数えております」
「……よく怪しまれなかったな」
「物乞いの格好をしておりました」
俺は、その言葉に、少し呆れた。
「……あの娘は、そういうこともするのか」
「します」
冥琳どのは、そう言った。
「本人は『楽しいです』と申しております」
「……そうか」
「はい。……ただ、一つ問題があります」
「なんだ」
「あの娘は、数えるのは得意ですが、書くのが苦手です」
この人は、そう言った。
「一年分の数字が、全部あの娘の頭の中にあります」
「――頭の中?」
「頭の中です」
「書いていないのか」
「書いておりません」
俺は、その話を聞いて、少し焦った。
「……それは、まずいだろう」
「まずいです」
「あの娘が死んだら、一年分が消える」
「消えます」
冥琳どのは、あっさりと言った。
「ですから、蓮華に書き取らせております」
「――もうやっているのか」
「三月前から」
この人は、そう言った。
「毎晩、あの娘が思い出したことを、蓮華が書いております。……今、七割ほど終わりました」
「……手が早いな」
「早いです」
「褒めているぞ」
「今のは、少し褒め言葉に聞こえました」
冥琳どのは、そう言った。
「進歩しております」
卓が、少し笑った。
笑ってから、冥琳どのは真顔に戻った。
「――さて。ここからが本題です」
この人は、そう言った。
「二万一千のうち、動かせるのが九千。……こちらは四千三百」
「倍だな」
「倍です。……ですが、あちらには弱点があります」
「言え」
「寿春です」
冥琳どのは、地図の一点を指した。
「あそこは、袁術どのの本拠です。……そして、あそこに全部が集まっている」
「――集まっていると、何が悪い」
「集まっているものは、一度に失えます」
この人は、そう言った。
俺は、その言い方に、少し背筋が寒くなった。
「……あんた、寿春を取る気か」
「取ります」
「四千三百でか」
「四千三百でです」
冥琳どのは、あっさりと言った。
「――どうやって」
「それは、これから考えます」
「考えていないのか」
「考えております。……ですが、まだ話せません」
この人は、そう言った。
「一つ、足りないものがあります」
「なんだ」
「あちらが、先に手を出すことです」
俺は、その言葉に、少し黙った。
黙って、それから頷いた。
「……そうだったな」
「そうです」
冥琳どのは、そう言った。
「あなたが出された条件です。……こちらからは先に手を出さない」
「出さん」
「では、待ちます」
この人は、そう言った。
「あと半年です」
俺は、その半年という言葉を、しばらく胸の中で転がした。
転がして、こう言った。
「――半年で、動くと思うか」
「動きます」
「根拠は」
「ここにあります」
冥琳どのは、紙を指した。
「四千三百です。……去年は三千でした。一昨年は七百です」
「増えたな」
「増えました。……そして、あちらもいずれ気づきます」
この人は、そう言った。
「あちらは数を数えません。……ですが、四千三百は、数えなくても見えます」
「――見えるか」
「見えます」
冥琳どのは、そう言った。
「三千までは、館に収まりました。四千三百は、収まりません。……もう、外に陣を張っております」
俺は、その指摘に、初めて気づいた。
言われてみれば、その通りだった。
館の周りに、三つの陣を張っている。張らないと入りきらないからだ。
「……気づかれるな」
「気づかれます」
「いつだ」
「もう気づいております」
冥琳どのは、あっさりと言った。
「……もうか」
「もうです。……三月前から」
この人は、そう言った。
「ですから、半年です」
俺は、その夜、テラスに残った。
全員が去ったあと、川を見ていた。
半年。
二年と言われたのが、一年半前だ。
残り半年で、あの家は動く。
動いたときに、こちらが構えていられるかどうか。
足音がして、雪蓮さまが上がってきた。
「……また、ここにいるの」
「いる」
「あなた、テラスが好きね」
「川が見えるからだ」
俺は、そう言った。
「川が見えないところにいると、落ち着かん」
「二十年、そうなの?」
「三十年だ」
俺は、そう言った。
「十で流されてから、ずっとだ」
雪蓮さまは、隣に座った。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「半年後ね」
「半年後だ」
「勝てるかしら」
「わからん」
俺は、即答した。
「……即答で『わからん』は、ひどいわよ」
「ひどいな」
「もう少し、こう、あるでしょ」
「……では、こう言おう」
俺は、そう言った。
「勝てるかどうかはわからん。……だが、負けても、あんたは死なん」
「なにそれ」
「そういうふうに組む」
俺は、そう言った。
「舟を六艘、いつでも出せるようにしてある。……最悪、川へ出れば、下れる」
「逃げるってこと?」
「逃げる」
「王が逃げるの?」
「逃げろ」
俺は、そう言った。
「あんたの母上は、逃げなかった。……三十騎で山に入って、そのままだ」
「……」
「俺は、あれを二度見たくない」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「あなた、私が逃げたら、一緒に逃げてくれる?」
俺は、その質問に、少し考えた。
「――逃げん」
「え」
「俺は、殿だ」
俺は、そう言った。
「逃げる者を逃がすのが、俺の役だ。……昔からそうだ」
「……それ、あなたが死ぬってことじゃない」
「死なん」
俺は、そう言った。
「殿は、逃げる者が全部抜けたら退く。……抜けたら退くのが、殿だ」
「抜けなかったら?」
「抜けさせる」
俺は、そう言った。
「そのために、六艘用意した。……六艘で二百人だ。二百人ずつ、三度往復すれば六百運べる」
「六百じゃ足りないでしょ」
「足りん」
「じゃあ」
「足りんから、負けないようにする」
俺は、そう言った。
「逃げる算段をしておくのは、負けたときのためだ。……だが、算段があるからといって、負けていいわけではない」
「……ややこしいわね」
「ややこしい」
俺は、そう言った。
「だが、両方要る」
雪蓮さまは、そこで少し笑った。
「……また、両方ね」
「またそれだ」
俺は、そう言った。
「二十年、それしか言っていない」