長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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自前

兵を自前で集めると文に書いて出したら、三日で返事が来た。

 

 早かった。

 

 冥琳どのは、その速さに少し目を細めた。

 

「……早いですね」

 

「早い。……前は半月待たされた」

 

「今回は三日です」

 

「怒っているな」

 

「怒っておられます」

 

 この人は、そう言って文を開いた。

 

 開いて、一行目で笑った。

 

「――なんて書いてある」

 

「『勝手を許した覚えはない』と」

 

「一行目からそれか」

 

「一行目からです」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「二行目は『しかし、兵を貸さぬと申したのは事実である』」

 

「……三行目は」

 

「『よって、集めるのは構わぬ』」

 

 俺は、その流れに少し呆れた。

 

「……三行で折れているぞ」

 

「折れております」

 

「早いな」

 

「早いです。……ですが、四行目があります」

 

「なんだ」

 

「『ただし、集めた兵の糧は自弁とする』」

 

 俺は、その一言で理解した。

 

「……なるほど。そこで締めるか」

 

「締めます」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「兵を集めるのは許す。ただし飯は自分で用意しろ。……これは、あちらから見れば損のない話です」

 

「兵が増えて、飯は出さん」

 

「はい。……そして、飯が足りなければ、こちらは集めた兵を養えず、勝手に潰れます」

 

「潰れるか」

 

「普通なら潰れます」

 

 この人は、そこで少しだけ笑った。

 

「……普通ならな」

 

 俺は、その笑い方を見て、少し安心した。

 

 この人がこういう笑い方をするときは、たいてい手がある。

 

「――で、いくつ持っている」

 

「三十村です」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「去年、あなたと蓮華が回られた三十村。……あそこに預けた米が、九千三百石」

 

「あれは、うちの糧だ」

 

「うちの糧です。……あちらは知りません」

 

「知らんな」

 

「知りませんし、こちらから言う義理もありません」

 

 この人は、そう言った。

 

「『糧は自弁とする』と書いてきたのは、あちらです。……こちらは、自弁いたします」

 

 俺は、その言い方に、少し笑ってしまった。

 

「……あんた、去年から仕込んでいたのか」

 

「仕込んでおりません」

 

「嘘だな」

 

「嘘です」

 

 冥琳どのは、即答した。

 

「仕込んでおりました。……ただ、あそこまで都合よく『自弁とする』と書いてくるとは思っておりませんでした」

 

「思っていなかったのか」

 

「思っておりませんでした。……もう少し面倒な条件を出してくると踏んでおりました」

 

 この人は、そう言った。

 

「たとえば、『集めた兵の名簿を毎月提出せよ』とか。……そちらのほうが、よほど厄介です」

 

「なぜだ」

 

「数がわかると、あちらが動く時期を決められます」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「こちらが三千なら、五千で来ればいい。五千なら、八千で来ればいい。……数を知られるというのは、そういうことです」

 

「……なるほど」

 

「ですが、あちらは名簿を求めてきませんでした」

 

「求めなかったな」

 

「求めませんでした。……これは、大きい」

 

 この人は、そう言った。

 

「あちらは、我らを『飯で潰せる』と思っています。……思っているうちは、数を数えません」

 

 兵集めは、俺と蓮華さまでやった。

 

 といっても、去年の三十村を回るのとは違う。

 

 今度は、人を募る。

 

 村へ行って、飯を食って、話を聞いて、それから「うちに来ないか」と言う。

 

 断られることのほうが多かった。

 

「――今日は、三人ですね」

 

 十日目の夕方、蓮華さまが帳面を閉じながら言った。

 

「三人か」

 

「はい。四つの村を回って、三人です」

 

「少ないな」

 

「少ないです」

 

 この人は、そう言った。

 

「去年、米を預けたときは、三十九村で三十村が受けました。……今回は、四村で三人です」

 

「比べるものが違う」

 

 俺は、そう言った。

 

「米を預けるのは、村が損をしない。人を出すのは、村が損をする」

 

「……そうですね」

 

「一人出せば、田を耕す手が一つ減る。……減った分は、村の誰かが埋めることになる」

 

 俺は、そう言った。

 

「だから、村は嫌がる。当たり前だ」

 

「では、どうすれば」

 

「どうもならん」

 

 俺は、即答した。

 

「――即答ですね」

 

「即答した。……こればかりは、手がない」

 

 俺は、そう言った。

 

「一日三人でいい。三十日で九十人だ。……百日で三百人になる」

 

「三百人ですか」

 

「三百人だ。……足りんな」

 

「足りません」

 

「足りんが、ゼロよりましだ」

 

 俺は、そう言った。

 

 蓮華さまは、しばらく帳面を見ていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……子渡。一つ、思いついたことがあるんですけど」

 

「言え」

 

「村から人を募るのをやめて、村から出た人を探すのはどうでしょう」

 

 俺は、その言葉に、少し止まった。

 

「――村から出た人?」

 

「はい」

 

 この人は、そう言った。

 

「今、村にいる人を連れ出すと、村が損をします。……でも、もう村にいない人なら、村は損をしません」

 

「……」

 

「たとえば、次男や三男です。田を継げないので、村を出るしかない人たち」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「あと、去年うちが帰農させた者のうち、村に馴染めなかった者もいます。……三千二百人戻しましたが、全員が上手くいったとは限りません」

 

 俺は、その話を聞いて、少し感心した。

 

「――どこで思いついた」

 

「帳面です」

 

「帳面か」

 

「はい。去年の帰農の記録と、今年の村の人数を比べました」

 

 この人は、そう言った。

 

「合いません。三千二百人戻したはずなのに、村の人数はそこまで増えていません」

 

「差は」

 

「四百人ほどです」

 

「四百人が、どこかへ行ったか」

 

「行きました」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「どこへ行ったかはわかりません。……ですが、村を出た四百人が、この辺りにいるはずです」

 

 俺は、その四百人を探すことにした。

 

 探し方は、単純だった。

 

 村ではなく、村と村のあいだを回る。

 

 道端に小屋を建てて住んでいる者、川で魚を獲って食っている者、街道の宿場で日雇いをしている者。そういう場所を、順に回った。

 

 二十日で、百七十人が見つかった。

 

 そのうち、九十四人が来ると言った。

 

「――多いな」

 

 俺は、その数を聞いて、少し驚いた。

 

「多いですね」

 

「村で募ると一日三人だ。……こちらは、一日五人近い」

 

「理由は明白です」

 

 蓮華さまが、そう言った。

 

「行き場がないからです」

 

「……そうだな」

 

「行き場がない人は、来ると言います。……でも、それは選んでいるわけではありません」

 

 この人は、そう言った。

 

「私、少し気になっています。……これは、人を集めているのか、拾っているのか」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

 考えて、こう答えた。

 

「――拾っている」

 

「即答ですね」

 

「即答した。……拾っている」

 

 俺は、そう言った。

 

「そして、それでいいと思っている」

 

「……いいんですか」

 

「いい」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺も拾われた口だ」

 

 蓮華さまが、そこで顔を上げた。

 

「……子渡が、ですか」

 

「そうだ。……十のときに村を焼かれて、川に流されて、下流の漁師の家に引っかかった」

 

 俺は、そう言った。

 

「その爺が拾ってくれなかったら、俺は死んでいた。……拾われた者が、拾うのを悪いことだとは言えん」

 

「……」

 

「ただし、拾ったあとが大事だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「拾って、飯を食わせて、名前を覚えて、仕事を教える。……そこまでやって、初めて拾ったことになる」

 

「途中でやめると」

 

「捨てたのと同じだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「拾って捨てるのは、拾わないより悪い」

 

 蓮華さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……九十四人、全員の名前を書きます」

 

「頼む」

 

「出身も、なぜ村を出たかも書きます」

 

「そこまで書くか」

 

「書きます」

 

 この人は、そう言った。

 

「あとで、村に戻したくなったときに、どこへ戻せばいいかがわかりますので」

 

 北の残党討伐は、三度目の戦だった。

 

 兵は四千。うち、自前で集めたのが千二百。

 

 残党は、前回の生き残りだった。城を追われて、山へ逃げ込んだ連中だ。

 

 数は、二千ほど。

 

「――山ですね」

 

 冥琳どのが、地図を見ながら言った。

 

「山だ」

 

「祭どのが嫌がられます」

 

「嫌がるだろうな」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの人は、山で三年やり合って、最後に焼いた口だ」

 

「では、今回はどうします」

 

「山に入らん」

 

 俺は、即答した。

 

「……入らないのですか」

 

「入らん。……入ったら、こちらが損をする」

 

 俺は、そう言った。

 

「山は、向こうの土地だ。……道も、水も、隠れる場所も、全部向こうが知っている」

 

「では、どうやって討ちます」

 

「討たん」

 

「――討たないのですか」

 

「討たん。……下ろす」

 

 俺は、そう言った。

 

「二千が山にいる。山には田がない。……つまり、飯は下から取っている」

 

「里から」

 

「里からだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「その里を押さえる。押さえて、山へ米が上がらないようにする。……そうすれば、下りてくる」

 

「また、水と同じ手ですね」

 

「同じ手だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は、手数が少ない。……同じ手ばかり使う」

 

「悪いことではありません」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「同じ手でも、通るなら通ります。……ただ、三度目です。あちらが読んでいるかもしれません」

 

「読んでいたら、どうなる」

 

「先に里から米を集めます。……集めて、山に運び上げる」

 

「では、それを見張ればいい」

 

 俺は、そう言った。

 

「明命に、里から山へ上がる道を見てもらう。……道は、そう多くない」

 

 道は、四本だった。

 

 明命が三日で見つけてきた。

 

「四本です。……そのうち、二本は細くて、荷車が通りません」

 

「では、二本か」

 

「はい。東の道と、南の道です」

 

 この娘は、そう言った。

 

「東の道は、里からまっすぐ上がっています。南の道は、遠回りですが、緩やかです」

 

「荷を運ぶなら」

 

「南です」

 

「では、南を押さえる」

 

 俺は、そう言った。

 

「東は」

 

「東は、開けておく」

 

「――開けるのですか」

 

「開ける」

 

 俺は、そう言った。

 

「二本とも塞ぐと、向こうは別の道を探す。……探されると、こちらが四本を見張らねばならん」

 

「一本開けておけば」

 

「そこを使う」

 

 俺は、そう言った。

 

「使うとわかっている道は、見張るのが楽だ」

 

 冥琳どのが、そこで少し笑った。

 

「……相変わらず、意地が悪い」

 

「意地が悪いか」

 

「悪いです。……ですが、上手い」

 

 その戦は、ひと月で片づいた。

 

 南の道を押さえて、東の道だけを残した。

 

 東の道は細い。荷車が通らない。だから、担いで運ぶことになる。

 

 担いで運べる量は、知れている。

 

 二十日目に、山から人が下りてきた。

 

 最初は、二十人ほどだった。武器を持たずに下りてきた。

 

 俺は、斬らせなかった。

 

「――飯を食わせろ」

 

 俺は、そう命じた。

 

「……隊長、また飯ですか」

 

 阿六が、呆れた顔で言った。

 

「また飯だ」

 

「毎回それですね」

 

「毎回だ。……効くからな」

 

 俺は、そう言った。

 

「渇いている者に水をやり、飢えている者に飯をやる。……これで大抵は済む」

 

「済まないときは」

 

「済まないときは斬る」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、済むことのほうが多い」

 

 二十人が下りたあと、三日で二百人が下りてきた。

 

 その次の日に、五百人。

 

 ひと月で、千四百人が下りた。

 

 残った六百は、山に籠ったまま出てこなかった。

 

「……どうします」

 

「放っておく」

 

 俺は、そう言った。

 

「――放っておくのですか」

 

「放っておく。……六百では、里は襲えん」

 

 俺は、そう言った。

 

「襲うには、山を下りねばならん。下りたら、こちらが待っている。……それがわかっているから、下りてこない」

 

「では、山に籠ったままですか」

 

「籠ったままだ。……そのうち、勝手に減る」

 

 俺は、そう言った。

 

「山に籠って六百が食える土地なら、そもそも下に降りてきていない」

 

 冥琳どのが、その報告を聞いて、頷いた。

 

「……妥当です」

 

「討たなくていいのか」

 

「討たなくて結構です」

 

 この人は、そう言った。

 

「あちらへの報告には『残党を鎮圧、千四百を帰農させた』と書きます。……六百については書きません」

 

「書かんのか」

 

「書きません。……聞かれたら答えます」

 

「聞かれるか」

 

「聞かれません」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「あちらは、数を数えませんので」

 

 その戦の帰り道に、思春と話す機会があった。

 

 夜、陣の外れで、この娘が一人で座っていた。

 

 俺は、そこへ行って、隣に座った。

 

 座るのに、少し手間がかかった。

 

「……隊長」

 

「隣、いいか」

 

「もう座っておられます」

 

「座ってから聞いた」

 

「順番が逆です」

 

「よく言われる」

 

 俺は、そう言った。

 

 思春は、少し呆れた顔をした。

 

「……何かご用ですか」

 

「用はない。……ただ、あんたが一人で座っているのを見たので、来た」

 

「一人が好きなのです」

 

「そうか。……では、帰る」

 

 俺は、そう言って立とうとした。

 

 立とうとして、左脚が引っかかった。

 

 思春が、無言で腕を掴んだ。

 

「……すまん」

 

「いえ」

 

「情けないな」

 

「情けなくありません」

 

 この娘は、そう言った。

 

「私の育った村では、脚を悪くした者は川に流されました」

 

 俺は、その言葉に、少し止まった。

 

「……なんだと」

 

「飢饉のときです」

 

 思春は、あっさりと言った。

 

「働けない者から順に、減らします。……年寄りと、脚の悪い者と、赤子です」

 

「……」

 

「私は、それを見て育ちました」

 

 俺は、しばらく答えられなかった。

 

 答えられないまま、また座った。

 

「――座り直した」

 

「そのようですね」

 

「あんたの話を聞かずに帰るのは、寝覚めが悪い」

 

「聞いても寝覚めは悪いと思います」

 

「たぶんな」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、聞かなかったほうが悪い」

 

 思春は、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……十二のときに、村を出ました」

 

「出たか」

 

「出ました。……いえ、正確には、追い出されました」

 

 この娘は、そう言った。

 

「その年、飢饉でした。……村で、減らす者を決める話になりました」

 

「……」

 

「私の家は、父も母も死んでいました。……身寄りのない子供です。真っ先に名が挙がりました」

 

 俺は、その言葉を聞いて、腹の底が重くなった。

 

「……それで」

 

「逃げました」

 

 思春は、そう言った。

 

「夜のうちに、川へ出ました。……舟を盗んで、下りました」

 

「舟を盗んだのか」

 

「盗みました。……最初の盗みです」

 

「……そうか」

 

「はい」

 

 この娘は、そう言った。

 

「その舟で、三日下って、河口まで出ました。……そこで、拾われました」

 

「誰にだ」

 

「賊です」

 

 思春は、あっさりと言った。

 

「趙徳という男でした。……水賊の頭です」

 

 俺は、その名前を頭に入れた。

 

「……趙徳」

 

「はい」

 

「字は」

 

「知りません」

 

 この娘は、そう言った。

 

「真名も知りません。……あの男は、誰にも言いませんでした」

 

「……そうか」

 

「三年前に死にました」

 

 思春は、そう言った。

 

「病です。……誰も名を覚えていません。墓もありません」

 

 俺は、その話を聞いて、しばらく黙っていた。

 

 それから、懐から帳面を出した。

 

「――何を」

 

「書く」

 

「――は?」

 

「趙徳という男の名を書く」

 

 俺は、そう言った。

 

「うちの帳面に書いておく。……この隊に来た者の、拾い親として書く」

 

 思春は、しばらく俺を見ていた。

 

「……なぜ、そこまで」

 

「書かないと、いなかったことになる」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたが今、その名を言った。……言われた俺が書かなければ、その名は今日また消える」

 

「……」

 

「それは、嫌だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺の勝手な嫌さだ。……だから、あんたが嫌なら書かん」

 

 思春は、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……書いてください」

 

「書く」

 

 俺は、その場で書いた。

 

 書いたところを、この娘が覗き込んだ。

 

「……字が汚いですね」

 

「汚い」

 

「もう少し丁寧に書けませんか」

 

「書けん」

 

 俺は、そう言った。

 

「二十年、この字で書いてきた。……今さら直らん」

 

「……そうですか」

 

「だが、読める」

 

 俺は、そう言った。

 

「読めれば、それでいい」

 

 思春は、その帳面をしばらく見ていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……隊長」

 

「なんだ」

 

「私は、八年、賊をやりました」

 

「聞いている」

 

「八十人ほど食わせました。……最後は、六十三人になっていました」

 

「……減ったな」

 

「減りました」

 

 この娘は、そう言った。

 

「二十二人、死にました。……そのうち十四人は、名前を覚えています」

 

「残りの八人は」

 

「覚えていません」

 

 思春は、そう言った。

 

「覚えていないのが、一番こたえます」

 

 俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「――十四人を書け」

 

「え?」

 

「十四人分でいい。……残りは『名を知らず』と書く」

 

 俺は、そう言った。

 

「名を知らずと書いてあると、そこに人がいたことがわかる。……空白だと、何もなかったことになる」

 

 思春は、しばらく俺を見ていた。

 

「……そういう書き方があるのですか」

 

「ある」

 

 俺は、そう言った。

 

「昔、うちの隊で十九人死んだ。冬の飢饉だ。……そのうち七人は、誰も名前を知らなかった」

 

「……」

 

「あのとき、俺はそう書いた。……書いてよかったと、今でも思っている」

 

 思春は、しばらく黙っていた。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……明日、持ってきます」

 

「頼む」

 

「それと」

 

 この娘は、そう言った。

 

「……礼は、言いませんよ」

 

「言われても困る」

 

 俺は、そう言った。

 

「礼を言われると、こちらが何かいいことをしたような気になる。……そういうのは、居心地が悪い」

 

「では、言いません」

 

「そうしてくれ」

 

 思春は、そこで初めて、少しだけ表情を緩めた。

 

「……隊長は、変な方ですね」

 

「よく言われる」

 

「祭どのも同じことを仰っていました」

 

「……あの人は、何と言っていた」

 

「『あの男は、拾ったものを数える癖がある』と」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「……当たっているな」

 

「当たっておりますか」

 

「当たっている」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は、拾った者しか数えん。……捨てた者は、数えられん」

 

 館へ戻ったのは、その半月後だった。

 

 四千で出て、三千九百二十一で帰った。

 

 七十九人が、帰らなかった。

 

 そして、帰農させた千四百のうち、四百三十人がうちに入った。

 

 差し引きで、兵は四千三百を超えた。

 

「――増えましたね」

 

 冥琳どのが、帳面を見ながら言った。

 

「増えた。……四千三百二十七だ」

 

「一年前は、三千でした」

 

「そうだな」

 

「二年前は、七百でした」

 

「そうだったな」

 

 俺は、そう言った。

 

「七百から四千三百だ。……六倍になっている」

 

「六倍です」

 

 この人は、そう言った。

 

「そして、糧は自弁です」

 

「保つか」

 

「保ちます」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「三十村の九千三百石があります。……それと、今回帰農させた千四百人の村から、来年少しずつ入ります」

 

「入るのか」

 

「入ります。……あの者たちは、うちが飯をやったことを覚えていますので」

 

 この人は、そう言った。

 

「租ではありません。礼です。……礼は、あちらの帳面には載りません」

 

「……上手いな」

 

「上手いです」

 

「自分で言うのか」

 

「言います」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「褒める人が少ないので、自分で言うことにしております」

 

「褒めるぞ、俺は」

 

「あなたは、褒めるのが下手です」

 

「――下手か」

 

「下手です。『上手いな』しか言いません」

 

「……ほかに何と言えばいい」

 

「自分で考えてください」

 

 この人は、そう言った。

 

 その夜、テラスに全員が集まった。

 

 冥琳どのが、卓の上に一枚の紙を置いた。

 

 それは、文ではなかった。

 

 数字が並んでいた。

 

「――これは」

 

「あちらの兵の数です」

 

 冥琳どのが、そう言った。

 

「寿春に六千。周辺の城に、合わせて一万二千。……それと、袁術どのの直属が三千」

 

「二万一千か」

 

「二万一千です」

 

 俺は、その数を見て、しばらく考えた。

 

「……こちらは四千三百だ」

 

「四千三百です」

 

「五倍だな」

 

「五倍です」

 

「無理だな」

 

「無理です」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「――即答するな」

 

「即答します。……正面からやれば、無理です」

 

「では」

 

「正面からはやりません」

 

 この人は、そう言った。

 

「二万一千のうち、寿春の六千以外は、動きません」

 

「動かんのか」

 

「動きません。……あれは、城に張りついている兵です」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「城の兵は、城を離れられません。離れれば、その城が取られる。……つまり、実際に動かせるのは、直属の三千と、寿春の六千だけです」

 

「九千か」

 

「九千です」

 

「四千三百対九千」

 

「はい」

 

「……まだ倍だ」

 

「倍です」

 

 この人は、そう言った。

 

「ですが、五倍よりはましです」

 

 俺は、その紙をしばらく見ていた。

 

 見てから、一つ気になったことを言った。

 

「――公瑾どの」

 

「なんでしょう」

 

「この数、どこから取った」

 

「あちらの糧の帳面です」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「――見たのか」

 

「見ておりません。……ですが、糧を運ぶ荷車の数は見られます」

 

「荷車か」

 

「はい。寿春へ入る荷車の数を、去年から数えております」

 

 この人は、そう言った。

 

「一台に載る米の量は決まっています。……台数を数えれば、月にどれだけ入っているかがわかる」

 

「……そして、食う人数がわかる」

 

「わかります」

 

 俺は、その手口に、少し感心した。

 

「……誰が数えた」

 

「明命です」

 

「あの娘か」

 

「あの娘です。……一年、数えておりました」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「毎月三日、寿春の門の前に座って、荷車を数えております」

 

「……よく怪しまれなかったな」

 

「物乞いの格好をしておりました」

 

 俺は、その言葉に、少し呆れた。

 

「……あの娘は、そういうこともするのか」

 

「します」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「本人は『楽しいです』と申しております」

 

「……そうか」

 

「はい。……ただ、一つ問題があります」

 

「なんだ」

 

「あの娘は、数えるのは得意ですが、書くのが苦手です」

 

 この人は、そう言った。

 

「一年分の数字が、全部あの娘の頭の中にあります」

 

「――頭の中?」

 

「頭の中です」

 

「書いていないのか」

 

「書いておりません」

 

 俺は、その話を聞いて、少し焦った。

 

「……それは、まずいだろう」

 

「まずいです」

 

「あの娘が死んだら、一年分が消える」

 

「消えます」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「ですから、蓮華に書き取らせております」

 

「――もうやっているのか」

 

「三月前から」

 

 この人は、そう言った。

 

「毎晩、あの娘が思い出したことを、蓮華が書いております。……今、七割ほど終わりました」

 

「……手が早いな」

 

「早いです」

 

「褒めているぞ」

 

「今のは、少し褒め言葉に聞こえました」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「進歩しております」

 

 卓が、少し笑った。

 

 笑ってから、冥琳どのは真顔に戻った。

 

「――さて。ここからが本題です」

 

 この人は、そう言った。

 

「二万一千のうち、動かせるのが九千。……こちらは四千三百」

 

「倍だな」

 

「倍です。……ですが、あちらには弱点があります」

 

「言え」

 

「寿春です」

 

 冥琳どのは、地図の一点を指した。

 

「あそこは、袁術どのの本拠です。……そして、あそこに全部が集まっている」

 

「――集まっていると、何が悪い」

 

「集まっているものは、一度に失えます」

 

 この人は、そう言った。

 

 俺は、その言い方に、少し背筋が寒くなった。

 

「……あんた、寿春を取る気か」

 

「取ります」

 

「四千三百でか」

 

「四千三百でです」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「――どうやって」

 

「それは、これから考えます」

 

「考えていないのか」

 

「考えております。……ですが、まだ話せません」

 

 この人は、そう言った。

 

「一つ、足りないものがあります」

 

「なんだ」

 

「あちらが、先に手を出すことです」

 

 俺は、その言葉に、少し黙った。

 

 黙って、それから頷いた。

 

「……そうだったな」

 

「そうです」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「あなたが出された条件です。……こちらからは先に手を出さない」

 

「出さん」

 

「では、待ちます」

 

 この人は、そう言った。

 

「あと半年です」

 

 俺は、その半年という言葉を、しばらく胸の中で転がした。

 

 転がして、こう言った。

 

「――半年で、動くと思うか」

 

「動きます」

 

「根拠は」

 

「ここにあります」

 

 冥琳どのは、紙を指した。

 

「四千三百です。……去年は三千でした。一昨年は七百です」

 

「増えたな」

 

「増えました。……そして、あちらもいずれ気づきます」

 

 この人は、そう言った。

 

「あちらは数を数えません。……ですが、四千三百は、数えなくても見えます」

 

「――見えるか」

 

「見えます」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「三千までは、館に収まりました。四千三百は、収まりません。……もう、外に陣を張っております」

 

 俺は、その指摘に、初めて気づいた。

 

 言われてみれば、その通りだった。

 

 館の周りに、三つの陣を張っている。張らないと入りきらないからだ。

 

「……気づかれるな」

 

「気づかれます」

 

「いつだ」

 

「もう気づいております」

 

 冥琳どのは、あっさりと言った。

 

「……もうか」

 

「もうです。……三月前から」

 

 この人は、そう言った。

 

「ですから、半年です」

 

 俺は、その夜、テラスに残った。

 

 全員が去ったあと、川を見ていた。

 

 半年。

 

 二年と言われたのが、一年半前だ。

 

 残り半年で、あの家は動く。

 

 動いたときに、こちらが構えていられるかどうか。

 

 足音がして、雪蓮さまが上がってきた。

 

「……また、ここにいるの」

 

「いる」

 

「あなた、テラスが好きね」

 

「川が見えるからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「川が見えないところにいると、落ち着かん」

 

「二十年、そうなの?」

 

「三十年だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「十で流されてから、ずっとだ」

 

 雪蓮さまは、隣に座った。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「半年後ね」

 

「半年後だ」

 

「勝てるかしら」

 

「わからん」

 

 俺は、即答した。

 

「……即答で『わからん』は、ひどいわよ」

 

「ひどいな」

 

「もう少し、こう、あるでしょ」

 

「……では、こう言おう」

 

 俺は、そう言った。

 

「勝てるかどうかはわからん。……だが、負けても、あんたは死なん」

 

「なにそれ」

 

「そういうふうに組む」

 

 俺は、そう言った。

 

「舟を六艘、いつでも出せるようにしてある。……最悪、川へ出れば、下れる」

 

「逃げるってこと?」

 

「逃げる」

 

「王が逃げるの?」

 

「逃げろ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたの母上は、逃げなかった。……三十騎で山に入って、そのままだ」

 

「……」

 

「俺は、あれを二度見たくない」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「あなた、私が逃げたら、一緒に逃げてくれる?」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

「――逃げん」

 

「え」

 

「俺は、殿だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「逃げる者を逃がすのが、俺の役だ。……昔からそうだ」

 

「……それ、あなたが死ぬってことじゃない」

 

「死なん」

 

 俺は、そう言った。

 

「殿は、逃げる者が全部抜けたら退く。……抜けたら退くのが、殿だ」

 

「抜けなかったら?」

 

「抜けさせる」

 

 俺は、そう言った。

 

「そのために、六艘用意した。……六艘で二百人だ。二百人ずつ、三度往復すれば六百運べる」

 

「六百じゃ足りないでしょ」

 

「足りん」

 

「じゃあ」

 

「足りんから、負けないようにする」

 

 俺は、そう言った。

 

「逃げる算段をしておくのは、負けたときのためだ。……だが、算段があるからといって、負けていいわけではない」

 

「……ややこしいわね」

 

「ややこしい」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、両方要る」

 

 雪蓮さまは、そこで少し笑った。

 

「……また、両方ね」

 

「またそれだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「二十年、それしか言っていない」

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