長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
待つというのは、何もしないことではない。
俺は、それを長いことかけて覚えた。
水位を測るのも、村の年寄りが頷くのを待つのも同じだ。待っているあいだ、こちらは動き続けている。動き続けていないと、いざというときに間に合わない。
半年待つと決めた日から、俺は毎日、同じことを繰り返した。
舟を六艘、必ず出す。出さない日を作ると板が乾いて隙間ができる。隙間のできた舟は、いざというときに水が入る。
三十村に預けた米の残りを、月ごとに確かめる。村が食っている以上、減る。減った分が秋に戻るかどうかは、村ごとに違う。
それから、兵の配置を書き直す。
「――なぜ、毎月動かすのです」
三月目に、思春がそう聞いてきた。
「形が固まるからだ」
「固まると、まずいのですか」
「まずい」
俺は、そう言った。
「向こうは、こちらを見ている。三月同じ形をしていれば、三月分の絵が向こうの頭に入る。……絵が入っていると、考えずに動ける。考えずに動かれるのが、一番速い」
「動かせば」
「向こうが考える。考えるあいだ、半日は稼げる」
思春は、しばらく黙っていた。
「……半日ですか」
「半日だ」
「そのために、毎月三千人を動かすのですか」
「動かす」
俺は、そう言った。
「割に合わんと思うだろう」
「思います」
「即答だな」
「即答しました」
この娘は、そう言った。
「……ですが、隊長がそうするなら、理由があるのでしょう」
「今言った」
「もう一つあるはずです」
俺は、その言い方に少し笑った。
「……兵が飽きるからだ」
「飽きる」
「半年、何もせずに同じ場所に置いておくと、兵は腐る。腐ると喧嘩を始める。……毎月引っ越しをさせておけば忙しい。忙しい者は、余計なことを考えん」
思春は、そこで露骨に呆れた顔をした。
「……隊長。それ、兵に言わないほうがいいですね」
「言わん」
俺は、そう言った。
「あんたにも言わなければよかった」
雨が降ったのは、四月目の初めだった。
三日続いた。三日続くと川は濁って流れが速くなり、流木が出る。流木が出ているあいだは舟を出せない。
出せないと、やることがなくなる。
四日目の夜、俺は館の広間の前を通りかかって、足を止めた。
明かりがついていた。
覗くと、女たちが集まって何かをしていた。
「……何をしている」
「あら、灘」
雪蓮さまが顔を上げた。
「見ればわかるでしょ」
「わからん」
「繕い物よ」
言われて、俺はようやく理解した。
広間の床に、布が山になっている。甲冑の紐、衣の綻び、旗の破れ。戦のあとには、必ずこういうものが溜まる。溜まったまま、誰も手をつけずにいた。
「……ずいぶん溜まっているな」
「溜まってるわよ。三度分」
雪蓮さまは、そう言った。
「立ってないで、入りなさいよ」
「――俺がか」
「あなたよ。他に誰がいるの」
「男が入る場面か、これは」
「男とか女とか関係ないわ。手が足りないの」
言い返す暇もなく、俺は座らされた。
座らされて、目の前に旗を置かれた。孫家の旗だ。端が裂けている。
「……これを縫えと」
「縫って」
「俺は針を持ったことがない」
「嘘つきなさいよ」
雪蓮さまが、そう言った。
「あなた、ずっと一人で暮らしてたんでしょ。衣が破れたらどうしてたのよ」
「……縄で縛っていた」
「縄?」
「縄だ。舟の縄なら、俺は誰よりも上手く結べる。……破れたところを縛れば、とりあえず着られる」
「見苦しいでしょ、それ」
「見苦しいな」
俺は、認めた。
「だが、舟の上では誰も見ていない」
広間で笑いが起きた。
笑ったのは祭どのだった。この人は、手元を見もせずに針を動かしている。速い。しかも縫い目が揃っている。
「――上手いな、あんた」
「上手いとも」
祭どのは、そう言った。
「わしはな、若い頃、船の帆を繕うのが仕事じゃった」
「――帆か」
「帆じゃ。文台さまの家は瓜屋じゃったが、わしの家は船具屋じゃったからのう。……帆を縫うのと衣を縫うのは同じじゃ。針の運び方は変わらん」
「では、俺にもできるか」
「できるわけがなかろう」
即答だった。
「――なぜだ」
「あんたは縄を綯うほうじゃ。縄と針は違う。……縄は太いものを組む。針は細いものを通す。手の使い方が逆じゃ」
俺は、その説明を聞きながら旗に針を刺した。
刺した。指も刺した。
「……痛い」
「ほれ見い」
祭どのが笑った。
しばらくして、隣で悲鳴が上がった。
「――痛っ」
雪蓮さまだった。指をくわえている。
「……あんたもか」
「うるさいわね」
「今ので四度目だぞ」
「数えないでよ!」
「数えている」
俺は、そう言った。
「四半刻で四度だ。この調子だと、一晩で二十回は刺す」
「そういうこと言わないでよ!」
「お姉様」
向かいから、蓮華さまが言った。この人は驚くほど丁寧に縫っている。ただし遅い。俺が旗の端を三寸縫うあいだに、一寸も進んでいない。
「そこは、押さえるところです」
「押さえてるわよ」
「押さえていません。布が動いています。……左手で押さえて、右手だけを動かします。両手を動かすから刺すんです」
「……なるほど」
「わかりましたか」
「わかったわ」
そう言って、雪蓮さまはまた指を刺した。
俺は、その横で旗の裂け目を見ていた。
見ていて、気づいた。
「……この旗、二度目だな」
「――え?」
「二度、裂けている。ここに古い縫い目がある。前に一度、同じところが裂けて、誰かが縫った」
俺は、その縫い目を指した。
「縫い方が雑だ。……たぶん、急いでいた」
広間が少し静かになった。
祭どのが手を止めて覗き込んだ。
「……ああ。これはわしじゃ」
「あんたか」
「わしじゃ。……岘山のあとじゃな」
この人は、そう言った。
「あのとき旗が裂けた。文台さまの棺に掛けるのに、裂けたままではいかんと思うてな。……夜中に縫うた。手元が見えんかったし、急いどったから雑になった」
俺は、その縫い目をもう一度見た。
雑だった。雑だが、糸が二重に通してある。
「――二重に通しているな」
「通した」
「なぜだ」
「切れると困るからじゃ。……棺に掛けるものが途中で切れたら、みっともないじゃろうが」
俺は、しばらくその縫い目を見ていた。
それから、こう言った。
「……解かんでおく」
「――なんじゃと」
「あんたの縫い目は解かん。その横を縫う。……そのほうが丈夫だ」
祭どのは、しばらく俺を見ていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……好きにせい」
言い方が、少し乱暴だった。
その夜、いちばん上手かったのは明命だった。
この娘は黙々と縫っている。速くて、細かくて、しかも縫い目が見えない。
「……あんた、上手いな」
「そうですか?」
「上手い。祭どのより上手い」
「わしより上手いのは事実じゃ」
祭どのがあっさり認めた。
「わしは速いが雑じゃ。あの子は速くて丁寧じゃ」
「どこで覚えた」
俺が聞くと、明命は少し手を止めた。
「……父です」
この娘は、そう言った。
「母が早くに死んだので、父が全部やっておりました。……私が七つのときから、隣で見ておりました」
「……そうか」
「はい。父は、こう言っておりました。『兵の衣は、自分で繕えないと恥だ』と」
「いい教えだな」
「はい」
この娘は、そう言って、また針を動かし始めた。
俺は、その手元を見ていた。
見ながら、思い出していた。この娘の父の名は、俺の帳面に書いてある。書いたのは、この娘が十二の年だ。
俺は、それを口に出さなかった。
穏どのは、本を読みながら縫おうとしていた。当然、失敗していた。
「……穏どの」
「はい」
「それは、どちらも中途半端になる」
「……そうですね」
この娘は、そう言って本を置いた。置いてから、また開いた。
「――置かんのか」
「置きました。……でも、気になって」
「何が書いてある」
「布の話です。北のほうでは、麻ではない草から糸を取るそうです。……その草は荊州にも生えているのですが、誰も使っていません」
「なぜ使わん」
「取り方を知らないからです。……本には書いてあります。ですが、この辺りの者は、この本を読んでいません」
「では、教えればいい」
「教えても、たぶん信じてもらえません。……私が『本に書いてあった』と言っても、誰も動きません」
俺は、その言葉に少し引っかかった。
「――あんたが自分で取ってみろ」
「はい?」
「本の通りにやって、糸を取る。……取れたものを見せれば、村の者は動く」
「……失敗したら」
「本が間違っていたということだ。それも、わかったことになる」
穏どのは、しばらく本を見ていた。
「……やってみます」
「頼む」
「あの、楚航さま」
「なんだ」
「失敗したら、笑いますか」
「笑わん」
俺は、即答した。
「笑うのは、やらなかった者だ。やった者は笑わん」
思春は、その隣で乱暴に縫っていた。速いが、縫い目が大きい。
「……思春」
「なんだ」
「それは、すぐ解ける」
「持てばよいのだろう」
この娘は、そう言った。
「一度の戦で持てば、それでいい。……戦のあとに、また縫えばいい」
「毎回縫うのか」
「毎回縫う。……賊のときは、そうしていた。先のことを考えて縫う余裕がなかった」
「今は、余裕があるだろう」
「……ある」
この娘は、そこで手を止めた。
「あるのだが、体が覚えている。……隊長。八年というのは、なかなか抜けません」
俺は、その言葉を、しばらく考えた。
「――抜かなくていい」
「え?」
「そのやり方が要る場面が、必ず来る。……先を考える余裕がないときが来る。そのときに、その縫い方ができる者が要る」
思春は、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……そうか」
「そうだ」
「では、抜かん」
この娘は、そう言って、また乱暴に縫い始めた。
その夜、俺は結局、旗の端を五寸しか縫えなかった。
指を七度刺した。
雪蓮さまは、十一度刺した。
「……あなた、私より上手いじゃない」
「そうでもない」
「七度と十一度でしょ」
「数えていたのか」
「数えてたわよ。あなたが数えるから、私も数えたの」
その人は、そう言って、縫いかけの衣を放り出した。
「もう無理。指が痛い」
「まだ半分だぞ」
「明日やるわ」
俺は、その夜、自分の部屋へ戻って帳面を開いた。
開いたのは、名簿だった。
四千三百人分ある。俺は毎晩これを読む。読まないと、名前が抜ける。
その夜、俺は妙な気を起こした。
名前の横に、年を書いてみようと思ったのだ。
理由は、たいしたことではない。繕い物のとき、明命が「七つのときから父の隣で見ていた」と言った。あの娘が今いくつなのかを、俺は正確に知らなかった。
名簿には、名前と出身と乗る舟の番号しか書いていない。
年を書いていなかった。
俺は、翌日から十日かけて、それを聞いて回った。
十日目の夜、書き終わった帳面を、俺は最初から読み返した。
読み返して、手が止まった。
四千三百人のうち、四十を越えているのが、百九十七人だった。
三十を越えているのが、八百四十人。
残り三千二百六十三人が、三十より下だった。
俺は、その数をしばらく見ていた。
それから、別の紙を出して、こう書いた。
――文台さまの代からいる者。
数えると、四百十一人だった。
四千三百のうち、四百十一。
十人に一人もいない。
俺は、その紙を持って、テラスへ出た。
夜だった。
祭どのが、いつも通りそこにいた。瓢箪を提げて、川を見ていた。
「……若いの。しけた顔をしとるのう」
「している」
「何じゃ」
俺は、その紙を差し出した。
祭どのは、それを受け取って、しばらく眺めていた。
眺めてから、こう言った。
「……四百十一か」
「四百十一だ」
「思うたより多いのう」
「――多いか」
「多いとも」
この人は、そう言った。
「わしは、三百おらんと思うとった」
俺は、その言い方に、少し驚いた。
「……あんた、数えていたのか」
「数えとらん。じゃが、顔は見とる」
祭どのは、そう言った。
「陣を回ると、知った顔が減っていくのはわかる。……去年より、今年のほうが少ない」
俺は、その紙を取り返して、もう一度見た。
見ながら、こう言った。
「――祭どの」
「なんじゃ」
「一つ聞きたい」
「言え」
「この四百十一の中に、俺は入るか」
祭どのが、こちらを見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、盛大に笑い出した。
「……はっ、はははは!」
「――何がおかしい」
「おかしいわ。おかしいとも」
この人は、目のあたりを拭いながら言った。
「あんた、今それに気づいたのか」
「……気づいた」
「今日か」
「今日だ」
俺は、正直に言った。
「名簿に年を書いた。書いて、読み返して、それで気づいた」
祭どのは、瓢箪を置いた。
置いてから、俺の顔をまじまじと見た。
「……若いの。あんた、いくつじゃ」
「三十六だ」
「わしは五十四じゃ」
「知っている」
「十八違うのう」
「違うな」
「じゃがな」
この人は、そう言った。
「あの四百十一の中では、あんたもわしも同じ側じゃ」
俺は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。
「あんたはな、ずっと自分を若い者じゃと思うとる」
祭どのは、そう言った。
「わしが『若いの』と呼ぶからじゃろう。……わしは、あんたを拾われた日から知っとる。じゃから、いつまでも若いのなんじゃ」
「……」
「じゃが、周りは違う」
この人は、川のほうを見た。
「思春はいくつじゃ」
「二十二だ」
「明命は」
「二十一」
「穏は」
「十六」
「小蓮さまは」
「十五だ」
「――蓮華さまは」
「二十だ」
俺は、そう答えて、そこで気づいた。
全部、即答できた。
「……あんた、全部覚えとるのう」
「覚えている」
「なぜじゃ」
「十日前に聞いた」
俺は、そう言った。
「名簿に書くのに、全員に聞いて回った。……あの連中にも聞いた」
「聞いて、どう思うた」
「……若い、と思った」
「そうじゃろう」
祭どのは、そう言った。
「あの子らはな、あんたが拾われた年には、まだ子供じゃった。……穏なんぞ、生まれとらんかもしれん」
「……生まれてはいたはずだ」
「どちらでもよいわ」
この人は、瓢箪を傾けた。
「若いの。……あんた、あの子らに何を教えとる」
「――何を、とは」
「そのままの意味じゃ」
祭どのは、そう言った。
「思春に何を教えた。明命に何を教えた。穏に何を教えた」
俺は、その質問に、少し考えた。
「……思春には、名前を書けと言った」
「うむ」
「明命には、帳面を書かせた。……あの娘は、父の名を俺が書いたのを見て、それで覚えていた」
「うむ」
「穏には、失敗しても笑わんと言った」
「小蓮さまには」
「……座ったままの勝負を教えた」
俺は、そう言った。
「あれは、俺が転ぶのを見られたときだ。……勝負にして、退屈でないようにした」
「蓮華さまには」
「両方でいい、と言った」
俺は、そう言った。
「片方を選ぶな、両方本当だと認めろ、と。……あの人は、それを帳面に書いている」
祭どのは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……若いの。それ、全部あんたじゃぞ」
「――は?」
「全部あんたが教えたことじゃ」
この人は、そう言った。
「思春が名を書くのは、あんたがそう言うたからじゃ。明命が帳面をつけるのも、穏が失敗を恐れんのも、小蓮さまが棒を握るのも、蓮華さまが両方持つのも……全部、あんたが元じゃ」
「……」
「あんたがおらんようになったら、あの子らはどうなる」
俺は、その質問に、答えられなかった。
答えられないまま、しばらく川を見ていた。
「……考えたことがない」
「じゃろうな」
祭どのは、あっさりと言った。
「あんたは、自分がおらんでも回る仕組みを作るのが得意じゃ。……烽火も、名簿も、そうやって作った」
「作った」
「じゃが、あれは物の話じゃ」
この人は、そう言った。
「人の心は、仕組みでは回らん」
俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。
「――祭どの」
「なんじゃ」
「あんたは、それを考えたことがあるか」
「ある」
即答だった。
「……いつだ」
「文台さまが死んだときじゃ」
祭どのは、そう言った。
「あのとき、わしは思うた。……あの方がおらんようになって、わしはどうやって立つのかとな」
「……」
「三月、動けんかった。前に言うたじゃろう」
「聞いた」
「あれはな、若いの」
この人は、そう言った。
「わしが四十年、あの方を柱にして立っとったからじゃ。……柱が抜けたら、立てんかった」
俺は、その言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。
転がして、こう言った。
「……俺は、柱か」
「柱じゃ」
「そんなつもりはない」
「つもりの話ではないわ」
祭どのは、そう言った。
「柱かどうかを決めるのは、寄りかかっとるほうじゃ」
俺は、その夜、部屋に戻ってからも寝つけなかった。
寝つけないまま、名簿をもう一度開いた。
四千三百人分。そのうち四百十一人が、孫堅どのの代からいる。
残り三千九百人近くは、俺が拾ったか、あるいは俺が拾った者が拾った者だ。
俺は、その数を見ながら、一つ数え直した。
この隊で、俺より年上の者が何人いるか。
――百二十七人だった。
四千三百のうち、百二十七。
俺は、その数字を書いた紙を、しばらく見ていた。
見てから、筆を取って、その下にこう書いた。
――誰に渡すか。
書いてみたが、そこから先が続かなかった。
烽火は村に渡した。名簿は蓮華さまが写している。風の読み方は、小蓮さまが毎朝ついてきて覚え始めている。
物は、渡せる。
だが、思春に名前を書けと言ったのは俺だ。あの娘は、俺が言ったから書いている。
俺がいなくなったあと、誰があの娘に「書け」と言うのか。
俺は、その紙を畳んで、帳面に挟んだ。
翌日から、俺は少し違うことを始めた。
といっても、大したことではない。
用事を、直接頼まなくなった。
「――穏どの。糸の話だが」
「はい」
「あんたが取った糸を、思春に見せてくれ」
「……思春どのに、ですか」
「そうだ」
俺は、そう言った。
「あの娘は、縫うのが乱暴だ。……乱暴でも切れない糸なら、あの娘の縫い方でも持つ」
「なるほど」
「それと、河口へ行ったときに売れるかもしれん。……あの娘は、河口に顔が利く」
穏どのは、その話を聞いて、少し目を輝かせた。
「……あの、それは、思いつきませんでした」
「思いつかんだろう」
俺は、そう言った。
「あんたは本を読む。あの娘は河口を知っている。……二人で話せば、俺が間に入るより早い」
その半月後、二人が並んで俺のところへ来た。
糸を持っていた。
思春が、それで縫った布を見せてきた。
「――持ちますね、これは」
「持つか」
「持ちます。私の縫い方でも、三度の戦は持ちます」
この娘は、そう言った。
「それと、河口で売れます。……漁の網に使えると、向こうの者が言っておりました」
「もう聞きに行ったのか」
「先月、塩を運びに行った折に」
思春は、あっさりと言った。
俺は、その返事に、少し笑った。
「……早いな」
「穏どのが急かしましたので」
「私は急かしておりません」
穏どのが、慌てて言った。
「……あの、三度ほど、進み具合を伺っただけです」
「それを急かすと言うのだ」
思春が、そう言った。
俺は、二人のやりとりを黙って見ていた。
見ていて、少し妙な気分になった。
半年前、この二人はほとんど口を利かなかった。片方は賊上がりで、片方は本ばかり読んでいる。接点がなかった。
今は、糸の話をしている。
俺を介さずに。
「……隊長。どうかしましたか」
「いや」
俺は、そう言った。
「……いい話だ、と思っただけだ」
思春が、少し訝しげな顔をした。
「糸の話がですか」
「糸の話がだ」
俺は、そう言った。
「俺は糸のことを何も知らん。……知らん話を、あんたたちが勝手に進めている。これは、いい話だ」
二人は、顔を見合わせた。
わからん、という顔をしていた。
わからなくていいと思った。
思春が名簿を持ってきたのは、その数日後だった。
紙が三枚。
俺は、それを受け取って開いた。
十四人分の名前が書いてあった。字が、驚くほど下手だった。
「……あんた、字は」
「下手です」
思春が即答した。
「わかっています。……ですが、自分で書きたかったので」
「そうか」
「はい。隊長に書いてもらうこともできました。……ですが、それでは意味がありません」
「なぜだ」
「私が覚えているのですから、私が書くべきです」
思春は、そう言った。
「私しか覚えていない名前です。……私が書かなければ、誰が書くのですか」
俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。
それから、頷いた。
「……その通りだ」
「はい」
「では、俺の帳面に貼る」
「――貼る、ですか」
「貼る。……書き写すと、俺の字になる」
俺は、そう言った。
「あんたの字のまま残したほうがいい。そのほうが、あんたが書いたことがわかる」
思春は、しばらく俺を見ていた。
「……そういうものですか」
「そういうものだ」
俺は、そう言った。
「俺の帳面には、俺の字しかない。……ずっと俺一人で書いてきたからだ。あんたの字が入れば、二人になる」
言ってから、俺は少し考えて、こう付け加えた。
「――それと、一つ頼みがある」
「なんですか」
「あんたも、名簿を作れ」
思春が、そこで手を止めた。
「……私が、ですか」
「あんたがだ」
俺は、そう言った。
「あんたの下に、六十三人いる。……あの六十三人の名前を、あんたが書け」
「隊長の帳面にあるのでは」
「ある」
「では、要らないのでは」
「要る」
俺は、そう言った。
「俺の帳面は、俺が死んだら誰かが読む。……読める者は、たぶんいる。字は汚いが、読めんことはない」
「……」
「だが、読むのと、覚えているのは違う」
俺は、そう言った。
「俺があの六十三人を覚えているのは、俺が毎晩読んでいるからだ。……あんたが覚えるには、あんたが書くしかない」
思春は、しばらく黙っていた。
「……隊長」
「なんだ」
「それは、隊長がいなくなる前提の話ですか」
俺は、その質問に、少し詰まった。
詰まってから、正直に言った。
「――そうだ」
「……即答ですね」
「即答した」
俺は、そう言った。
「俺は三十六だ。この隊で、俺より年上の者は百二十七人しかいない」
「……数えたのですか」
「数えた。先月な」
俺は、そう言った。
「数えて、初めて気づいた。……俺は、自分をまだ若いほうだと思っていた」
「……」
「思っていたが、違った」
思春は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……隊長。私は、それを聞きたくありません」
「聞かんでいい」
「聞かんでいい、と言われても」
この娘は、そう言った。
「言われてしまえば、聞いたことになります」
「そうだな」
「……ずるいです」
「ずるい」
俺は、認めた。
「だが、言わずに死ぬほうが、もっとずるい」
思春は、そこで顔を上げた。
しばらく、俺を睨んでいた。
「……わかりました。書きます」
「頼む」
「ですが、条件があります」
「言え」
「隊長より先に死んだら、書けません」
この娘は、そう言った。
「ですから、私が書き終わるまで、生きていてください」
俺は、その言い方に、少し笑った。
「……六十三人だ。すぐ書けるだろう」
「私は字が下手です」
思春は、そう言った。
「一日に三人が限度です。……二十日以上かかります」
「では、二十日は生きる」
「二十日では足りません」
「――なぜだ」
「書き終わったら、次を書きます」
この娘は、そう言った。
「六十三人が七十人になれば、七人書きます。……つまり、増え続けます」
俺は、その言い方に、しばらく黙った。
黙ってから、こう言った。
「……上手いな」
「上手いですか」
「上手い。……それは、俺が言えなくなる言い方だ」
俺は、そう言った。
「わかった。……書き終わるまで生きる」
「はい」
「だが、一つ言っておく」
俺は、そう言った。
「俺がいなくなったあと、あんたが誰かに『書け』と言え」
思春は、その言葉に、少し目を見開いた。
「……私が、ですか」
「あんたがだ」
俺は、そう言った。
「俺があんたに言った。……次は、あんたが誰かに言う。それで続く」
「……誰に言えばいいのですか」
「その時に決めろ」
俺は、そう言った。
「今決めても、どうせ変わる」
蓮華さまと明命の書き取りが終わったのは、その半月後だった。
寿春に入る荷車の、一年分の数字。明命が頭に入れていたものを、蓮華さまが全部紙に書き出した。
俺は、その紙を見た。
「……よく覚えていたな」
「はい!」
明命は、そう言って胸を張った。
「私、数だけは覚えられるんです。……名前は、あまり」
「――名前は苦手か」
「苦手です。顔は覚えるのですが、名前が出てきません。……父にも、よく叱られました」
「謝ることではない」
俺は、そう言った。
「あんたは数を覚える。俺は名前を覚える。……両方いれば、それでいい」
明命は、その言葉に、少しきょとんとした。
「……両方、ですか」
「両方だ」
俺は、そう言った。
「一人で全部やろうとすると、必ずどこかが抜ける。……抜けたところを、誰かが持てばいい」
蓮華さまが、そこで口を挟んだ。
「子渡。それ、私にも言いましたね」
「言ったか」
「言いました。村を回ったときです。……『二つ持っているほうが、一つを磨くより早い』と」
「……言ったな」
「言いました。書いてあります」
蓮華さまは、懐を軽く叩いた。
俺は、その仕草を見て、少し笑った。
「……まだ書いているのか」
「書いています」
「何冊目だ」
「三冊目です」
「――三冊」
「はい。十のときから始めて、三冊目です」
俺は、その数を聞いて、しばらく黙った。
この人が十のとき、俺は二十六だった。
十年経っている。
「……十年か」
「十年です」
「三冊は、少なくないか」
「少ないです」
蓮華さまは、そう言った。
「あなた、昔はそんなに喋りませんでしたから。……最近は増えました。三冊目は、この二年で半分埋まりました」
俺は、その言葉に、少し気まずくなった。
「……喋りすぎか」
「いいえ」
蓮華さまは、即答した。
「ちょうどいいです」
紙を見ながら、公瑾どのが計算を始めた。
半刻ほどして、この人が顔を上げた。
「……見えたわ」
「何が」
「あちらの兵の増減」
公瑾どのは、紙を指した。
「荷車の数が、月ごとに違うの。多い月と少ない月がある。……多い月は、兵が増えている月」
「そうだな」
「三月に増えて、五月に減っている。七月にまた増えて、九月に減る」
「……周期があるな」
「あるわ。……たぶん、農繁期」
この人は、そう言った。
「あちらの兵の半分は農民よ。田植えと稲刈りの時期には、村へ帰す。帰さないと翌年の租が入らないもの」
「……つまり」
「五月と九月は、あちらの兵が減る」
公瑾どのは、あっさりと言った。
「一番減るのは九月。……稲刈りのあいだ、寿春の兵は三千を切るわ」
俺は、その言葉に、しばらく黙った。
「……三千か」
「三千」
「こちらは四千三百だ」
「四千三百ね」
この人は、そう言った。
「初めて、こちらが上回るわ」
卓が、静かになった。
俺は、その紙をもう一度見た。
見て、こう言った。
「――今は四月だ」
「四月ね」
「九月まで、五月ある」
「あるわ」
公瑾どのは、そう言った。
「そして、半年待つと申し上げてから、四月経っております。……残り二月です」
「あと二月で、あちらが動く」
「動きます。……動いてから九月まで持ちこたえれば、勝てます」
俺は、その言い方に、少し引っかかった。
「――持ちこたえる、と言ったな」
「言いました」
「つまり、二月から九月まで、こちらは殴られっぱなしか」
「そうなります」
公瑾どのは、あっさりと言った。
「あなたの条件です。こちらからは先に手を出さない。……ですから、殴られます」
「……四月分か」
「四月分です」
俺は、その言葉を、しばらく胸の中で転がした。
「――何人死ぬ」
「わかりません」
この人は、正直に言った。
「守り方によります。……上手く守れば、百人以下で済みます。下手に守れば、五百は死にます」
「……では、上手く守る」
「上手く守ってください」
「即答だな」
「即答します」
公瑾どのは、そう言った。
「これは、あなたの領分です。……私は、殴り返す日を決めるだけ」
その夜、俺はテラスに出ていた。
星が出ていた。
足音がして、雪蓮さまが上がってきた。
この人は、俺の隣に座って、しばらく黙っていた。
黙ってから、こう言った。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「あなた、最近、変よ」
「――変か」
「変よ」
その人は、そう言った。
「なんか、急に年寄りくさいことを言うようになったわ」
俺は、その言い方に、少し笑った。
「……年寄りだからだ」
「三十六でしょ」
「三十六だ」
「まだ若いじゃない」
「若くない」
俺は、そう言った。
「この隊で、俺より年上の者は百二十七人しかいない」
「……数えたの?」
「数えた」
「なんで数えたのよ」
「名簿に年を書いた。……書いて、読み返して、それで気づいた」
俺は、そう言った。
「気づかんかったのは、俺だけだったらしい」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……知ってたわよ、私」
「――知っていたか」
「知ってたわ」
その人は、そう言った。
「だって、あなた、私が十四のときからいるのよ。……その私が二十六なんだから、あなたが年上に決まってるじゃない」
「……そうだな」
「そうよ」
雪蓮さまは、そう言った。
「……でも、あなたが自分でそれを言うのは、初めて聞いたわ」
俺は、その言葉に、返す言葉を探した。
探して、こう言った。
「――言うようになった」
「なんで」
「祭どのに言われた」
俺は、そう言った。
「柱かどうかを決めるのは、寄りかかっているほうだ、と」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、俺の肩に頭を乗せた。
「……そうよ」
「……」
「私も、寄りかかってるもの」
その人は、そう言った。
「あなた、それも数えてないでしょ」
「数えていない」
「数えなさいよ」
「――数えられん」
「なんでよ」
「数えると、たぶん、動けなくなる」
俺は、そう言った。
「四千三百人の名前は数えられる。……だが、何人が俺に寄りかかっているかは、数えたくない」
雪蓮さまは、しばらく何も言わなかった。
それから、こう言った。
「……じゃあ、私が数えといてあげる」
「――あんたが?」
「そう」
その人は、そう言った。
「あなたが数えられないものは、私が数えるわ。……そのかわり、あなたは兵の名前を数えて」
「……役割の分け方としては、悪くないな」
「でしょ」
雪蓮さまは、そう言って、少し笑った。
「ねえ、灘」
「なんだ」
「あなた、倒れないでよ」
俺は、その言葉に、しばらく答えられなかった。
「……善処する」
「善処じゃなくて」
「――努力する」
「それも違うわ」
その人は、そう言った。
「約束して」
俺は、しばらく黙っていた。
黙ってから、こう言った。
「――約束はせん」
「なんでよ!」
「守れん約束はせん」
俺は、そう言った。
「あんたの母上に、俺は『あの人は死なん』と言った。……守れなかった」
「……」
「あれから、約束の仕方を変えた」
俺は、そう言った。
「守れることだけ約束する。……倒れないというのは、俺が決められることではない」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……じゃあ、何なら約束できるの」
「倒れる前に言う」
俺は、そう言った。
「体がおかしいと思ったら、隠さずに言う。……それなら約束できる」
「……それでいいわ」
その人は、そう言った。
「絶対よ」
「約束する」
二月後。
袁術が動いた。
最初の一手は、俺が予想していたものではなかった。
兵ではなかった。
塩だった。