長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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構え

待つというのは、何もしないことではない。

 

 俺は、それを長いことかけて覚えた。

 

 水位を測るのも、村の年寄りが頷くのを待つのも同じだ。待っているあいだ、こちらは動き続けている。動き続けていないと、いざというときに間に合わない。

 

 半年待つと決めた日から、俺は毎日、同じことを繰り返した。

 

 舟を六艘、必ず出す。出さない日を作ると板が乾いて隙間ができる。隙間のできた舟は、いざというときに水が入る。

 

 三十村に預けた米の残りを、月ごとに確かめる。村が食っている以上、減る。減った分が秋に戻るかどうかは、村ごとに違う。

 

 それから、兵の配置を書き直す。

 

「――なぜ、毎月動かすのです」

 

 三月目に、思春がそう聞いてきた。

 

「形が固まるからだ」

 

「固まると、まずいのですか」

 

「まずい」

 

 俺は、そう言った。

 

「向こうは、こちらを見ている。三月同じ形をしていれば、三月分の絵が向こうの頭に入る。……絵が入っていると、考えずに動ける。考えずに動かれるのが、一番速い」

 

「動かせば」

 

「向こうが考える。考えるあいだ、半日は稼げる」

 

 思春は、しばらく黙っていた。

 

「……半日ですか」

 

「半日だ」

 

「そのために、毎月三千人を動かすのですか」

 

「動かす」

 

 俺は、そう言った。

 

「割に合わんと思うだろう」

 

「思います」

 

「即答だな」

 

「即答しました」

 

 この娘は、そう言った。

 

「……ですが、隊長がそうするなら、理由があるのでしょう」

 

「今言った」

 

「もう一つあるはずです」

 

 俺は、その言い方に少し笑った。

 

「……兵が飽きるからだ」

 

「飽きる」

 

「半年、何もせずに同じ場所に置いておくと、兵は腐る。腐ると喧嘩を始める。……毎月引っ越しをさせておけば忙しい。忙しい者は、余計なことを考えん」

 

 思春は、そこで露骨に呆れた顔をした。

 

「……隊長。それ、兵に言わないほうがいいですね」

 

「言わん」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたにも言わなければよかった」

 

 雨が降ったのは、四月目の初めだった。

 

 三日続いた。三日続くと川は濁って流れが速くなり、流木が出る。流木が出ているあいだは舟を出せない。

 

 出せないと、やることがなくなる。

 

 四日目の夜、俺は館の広間の前を通りかかって、足を止めた。

 

 明かりがついていた。

 

 覗くと、女たちが集まって何かをしていた。

 

「……何をしている」

 

「あら、灘」

 

 雪蓮さまが顔を上げた。

 

「見ればわかるでしょ」

 

「わからん」

 

「繕い物よ」

 

 言われて、俺はようやく理解した。

 

 広間の床に、布が山になっている。甲冑の紐、衣の綻び、旗の破れ。戦のあとには、必ずこういうものが溜まる。溜まったまま、誰も手をつけずにいた。

 

「……ずいぶん溜まっているな」

 

「溜まってるわよ。三度分」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「立ってないで、入りなさいよ」

 

「――俺がか」

 

「あなたよ。他に誰がいるの」

 

「男が入る場面か、これは」

 

「男とか女とか関係ないわ。手が足りないの」

 

 言い返す暇もなく、俺は座らされた。

 

 座らされて、目の前に旗を置かれた。孫家の旗だ。端が裂けている。

 

「……これを縫えと」

 

「縫って」

 

「俺は針を持ったことがない」

 

「嘘つきなさいよ」

 

 雪蓮さまが、そう言った。

 

「あなた、ずっと一人で暮らしてたんでしょ。衣が破れたらどうしてたのよ」

 

「……縄で縛っていた」

 

「縄?」

 

「縄だ。舟の縄なら、俺は誰よりも上手く結べる。……破れたところを縛れば、とりあえず着られる」

 

「見苦しいでしょ、それ」

 

「見苦しいな」

 

 俺は、認めた。

 

「だが、舟の上では誰も見ていない」

 

 広間で笑いが起きた。

 

 笑ったのは祭どのだった。この人は、手元を見もせずに針を動かしている。速い。しかも縫い目が揃っている。

 

「――上手いな、あんた」

 

「上手いとも」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「わしはな、若い頃、船の帆を繕うのが仕事じゃった」

 

「――帆か」

 

「帆じゃ。文台さまの家は瓜屋じゃったが、わしの家は船具屋じゃったからのう。……帆を縫うのと衣を縫うのは同じじゃ。針の運び方は変わらん」

 

「では、俺にもできるか」

 

「できるわけがなかろう」

 

 即答だった。

 

「――なぜだ」

 

「あんたは縄を綯うほうじゃ。縄と針は違う。……縄は太いものを組む。針は細いものを通す。手の使い方が逆じゃ」

 

 俺は、その説明を聞きながら旗に針を刺した。

 

 刺した。指も刺した。

 

「……痛い」

 

「ほれ見い」

 

 祭どのが笑った。

 

 しばらくして、隣で悲鳴が上がった。

 

「――痛っ」

 

 雪蓮さまだった。指をくわえている。

 

「……あんたもか」

 

「うるさいわね」

 

「今ので四度目だぞ」

 

「数えないでよ!」

 

「数えている」

 

 俺は、そう言った。

 

「四半刻で四度だ。この調子だと、一晩で二十回は刺す」

 

「そういうこと言わないでよ!」

 

「お姉様」

 

 向かいから、蓮華さまが言った。この人は驚くほど丁寧に縫っている。ただし遅い。俺が旗の端を三寸縫うあいだに、一寸も進んでいない。

 

「そこは、押さえるところです」

 

「押さえてるわよ」

 

「押さえていません。布が動いています。……左手で押さえて、右手だけを動かします。両手を動かすから刺すんです」

 

「……なるほど」

 

「わかりましたか」

 

「わかったわ」

 

 そう言って、雪蓮さまはまた指を刺した。

 

 俺は、その横で旗の裂け目を見ていた。

 

 見ていて、気づいた。

 

「……この旗、二度目だな」

 

「――え?」

 

「二度、裂けている。ここに古い縫い目がある。前に一度、同じところが裂けて、誰かが縫った」

 

 俺は、その縫い目を指した。

 

「縫い方が雑だ。……たぶん、急いでいた」

 

 広間が少し静かになった。

 

 祭どのが手を止めて覗き込んだ。

 

「……ああ。これはわしじゃ」

 

「あんたか」

 

「わしじゃ。……岘山のあとじゃな」

 

 この人は、そう言った。

 

「あのとき旗が裂けた。文台さまの棺に掛けるのに、裂けたままではいかんと思うてな。……夜中に縫うた。手元が見えんかったし、急いどったから雑になった」

 

 俺は、その縫い目をもう一度見た。

 

 雑だった。雑だが、糸が二重に通してある。

 

「――二重に通しているな」

 

「通した」

 

「なぜだ」

 

「切れると困るからじゃ。……棺に掛けるものが途中で切れたら、みっともないじゃろうが」

 

 俺は、しばらくその縫い目を見ていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……解かんでおく」

 

「――なんじゃと」

 

「あんたの縫い目は解かん。その横を縫う。……そのほうが丈夫だ」

 

 祭どのは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「……好きにせい」

 

 言い方が、少し乱暴だった。

 

 その夜、いちばん上手かったのは明命だった。

 

 この娘は黙々と縫っている。速くて、細かくて、しかも縫い目が見えない。

 

「……あんた、上手いな」

 

「そうですか?」

 

「上手い。祭どのより上手い」

 

「わしより上手いのは事実じゃ」

 

 祭どのがあっさり認めた。

 

「わしは速いが雑じゃ。あの子は速くて丁寧じゃ」

 

「どこで覚えた」

 

 俺が聞くと、明命は少し手を止めた。

 

「……父です」

 

 この娘は、そう言った。

 

「母が早くに死んだので、父が全部やっておりました。……私が七つのときから、隣で見ておりました」

 

「……そうか」

 

「はい。父は、こう言っておりました。『兵の衣は、自分で繕えないと恥だ』と」

 

「いい教えだな」

 

「はい」

 

 この娘は、そう言って、また針を動かし始めた。

 

 俺は、その手元を見ていた。

 

 見ながら、思い出していた。この娘の父の名は、俺の帳面に書いてある。書いたのは、この娘が十二の年だ。

 

 俺は、それを口に出さなかった。

 

 穏どのは、本を読みながら縫おうとしていた。当然、失敗していた。

 

「……穏どの」

 

「はい」

 

「それは、どちらも中途半端になる」

 

「……そうですね」

 

 この娘は、そう言って本を置いた。置いてから、また開いた。

 

「――置かんのか」

 

「置きました。……でも、気になって」

 

「何が書いてある」

 

「布の話です。北のほうでは、麻ではない草から糸を取るそうです。……その草は荊州にも生えているのですが、誰も使っていません」

 

「なぜ使わん」

 

「取り方を知らないからです。……本には書いてあります。ですが、この辺りの者は、この本を読んでいません」

 

「では、教えればいい」

 

「教えても、たぶん信じてもらえません。……私が『本に書いてあった』と言っても、誰も動きません」

 

 俺は、その言葉に少し引っかかった。

 

「――あんたが自分で取ってみろ」

 

「はい?」

 

「本の通りにやって、糸を取る。……取れたものを見せれば、村の者は動く」

 

「……失敗したら」

 

「本が間違っていたということだ。それも、わかったことになる」

 

 穏どのは、しばらく本を見ていた。

 

「……やってみます」

 

「頼む」

 

「あの、楚航さま」

 

「なんだ」

 

「失敗したら、笑いますか」

 

「笑わん」

 

 俺は、即答した。

 

「笑うのは、やらなかった者だ。やった者は笑わん」

 

 思春は、その隣で乱暴に縫っていた。速いが、縫い目が大きい。

 

「……思春」

 

「なんだ」

 

「それは、すぐ解ける」

 

「持てばよいのだろう」

 

 この娘は、そう言った。

 

「一度の戦で持てば、それでいい。……戦のあとに、また縫えばいい」

 

「毎回縫うのか」

 

「毎回縫う。……賊のときは、そうしていた。先のことを考えて縫う余裕がなかった」

 

「今は、余裕があるだろう」

 

「……ある」

 

 この娘は、そこで手を止めた。

 

「あるのだが、体が覚えている。……隊長。八年というのは、なかなか抜けません」

 

 俺は、その言葉を、しばらく考えた。

 

「――抜かなくていい」

 

「え?」

 

「そのやり方が要る場面が、必ず来る。……先を考える余裕がないときが来る。そのときに、その縫い方ができる者が要る」

 

 思春は、しばらく黙っていた。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……そうか」

 

「そうだ」

 

「では、抜かん」

 

 この娘は、そう言って、また乱暴に縫い始めた。

 

 その夜、俺は結局、旗の端を五寸しか縫えなかった。

 

 指を七度刺した。

 

 雪蓮さまは、十一度刺した。

 

「……あなた、私より上手いじゃない」

 

「そうでもない」

 

「七度と十一度でしょ」

 

「数えていたのか」

 

「数えてたわよ。あなたが数えるから、私も数えたの」

 

 その人は、そう言って、縫いかけの衣を放り出した。

 

「もう無理。指が痛い」

 

「まだ半分だぞ」

 

「明日やるわ」

 

 俺は、その夜、自分の部屋へ戻って帳面を開いた。

 

 開いたのは、名簿だった。

 

 四千三百人分ある。俺は毎晩これを読む。読まないと、名前が抜ける。

 

 その夜、俺は妙な気を起こした。

 

 名前の横に、年を書いてみようと思ったのだ。

 

 理由は、たいしたことではない。繕い物のとき、明命が「七つのときから父の隣で見ていた」と言った。あの娘が今いくつなのかを、俺は正確に知らなかった。

 

 名簿には、名前と出身と乗る舟の番号しか書いていない。

 

 年を書いていなかった。

 

 俺は、翌日から十日かけて、それを聞いて回った。

 

 十日目の夜、書き終わった帳面を、俺は最初から読み返した。

 

 読み返して、手が止まった。

 

 四千三百人のうち、四十を越えているのが、百九十七人だった。

 

 三十を越えているのが、八百四十人。

 

 残り三千二百六十三人が、三十より下だった。

 

 俺は、その数をしばらく見ていた。

 

 それから、別の紙を出して、こう書いた。

 

 ――文台さまの代からいる者。

 

 数えると、四百十一人だった。

 

 四千三百のうち、四百十一。

 

 十人に一人もいない。

 

 俺は、その紙を持って、テラスへ出た。

 

 夜だった。

 

 祭どのが、いつも通りそこにいた。瓢箪を提げて、川を見ていた。

 

「……若いの。しけた顔をしとるのう」

 

「している」

 

「何じゃ」

 

 俺は、その紙を差し出した。

 

 祭どのは、それを受け取って、しばらく眺めていた。

 

 眺めてから、こう言った。

 

「……四百十一か」

 

「四百十一だ」

 

「思うたより多いのう」

 

「――多いか」

 

「多いとも」

 

 この人は、そう言った。

 

「わしは、三百おらんと思うとった」

 

 俺は、その言い方に、少し驚いた。

 

「……あんた、数えていたのか」

 

「数えとらん。じゃが、顔は見とる」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「陣を回ると、知った顔が減っていくのはわかる。……去年より、今年のほうが少ない」

 

 俺は、その紙を取り返して、もう一度見た。

 

 見ながら、こう言った。

 

「――祭どの」

 

「なんじゃ」

 

「一つ聞きたい」

 

「言え」

 

「この四百十一の中に、俺は入るか」

 

 祭どのが、こちらを見た。

 

 しばらく、何も言わなかった。

 

 それから、盛大に笑い出した。

 

「……はっ、はははは!」

 

「――何がおかしい」

 

「おかしいわ。おかしいとも」

 

 この人は、目のあたりを拭いながら言った。

 

「あんた、今それに気づいたのか」

 

「……気づいた」

 

「今日か」

 

「今日だ」

 

 俺は、正直に言った。

 

「名簿に年を書いた。書いて、読み返して、それで気づいた」

 

 祭どのは、瓢箪を置いた。

 

 置いてから、俺の顔をまじまじと見た。

 

「……若いの。あんた、いくつじゃ」

 

「三十六だ」

 

「わしは五十四じゃ」

 

「知っている」

 

「十八違うのう」

 

「違うな」

 

「じゃがな」

 

 この人は、そう言った。

 

「あの四百十一の中では、あんたもわしも同じ側じゃ」

 

 俺は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。

 

「あんたはな、ずっと自分を若い者じゃと思うとる」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「わしが『若いの』と呼ぶからじゃろう。……わしは、あんたを拾われた日から知っとる。じゃから、いつまでも若いのなんじゃ」

 

「……」

 

「じゃが、周りは違う」

 

 この人は、川のほうを見た。

 

「思春はいくつじゃ」

 

「二十二だ」

 

「明命は」

 

「二十一」

 

「穏は」

 

「十六」

 

「小蓮さまは」

 

「十五だ」

 

「――蓮華さまは」

 

「二十だ」

 

 俺は、そう答えて、そこで気づいた。

 

 全部、即答できた。

 

「……あんた、全部覚えとるのう」

 

「覚えている」

 

「なぜじゃ」

 

「十日前に聞いた」

 

 俺は、そう言った。

 

「名簿に書くのに、全員に聞いて回った。……あの連中にも聞いた」

 

「聞いて、どう思うた」

 

「……若い、と思った」

 

「そうじゃろう」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「あの子らはな、あんたが拾われた年には、まだ子供じゃった。……穏なんぞ、生まれとらんかもしれん」

 

「……生まれてはいたはずだ」

 

「どちらでもよいわ」

 

 この人は、瓢箪を傾けた。

 

「若いの。……あんた、あの子らに何を教えとる」

 

「――何を、とは」

 

「そのままの意味じゃ」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「思春に何を教えた。明命に何を教えた。穏に何を教えた」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

「……思春には、名前を書けと言った」

 

「うむ」

 

「明命には、帳面を書かせた。……あの娘は、父の名を俺が書いたのを見て、それで覚えていた」

 

「うむ」

 

「穏には、失敗しても笑わんと言った」

 

「小蓮さまには」

 

「……座ったままの勝負を教えた」

 

 俺は、そう言った。

 

「あれは、俺が転ぶのを見られたときだ。……勝負にして、退屈でないようにした」

 

「蓮華さまには」

 

「両方でいい、と言った」

 

 俺は、そう言った。

 

「片方を選ぶな、両方本当だと認めろ、と。……あの人は、それを帳面に書いている」

 

 祭どのは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……若いの。それ、全部あんたじゃぞ」

 

「――は?」

 

「全部あんたが教えたことじゃ」

 

 この人は、そう言った。

 

「思春が名を書くのは、あんたがそう言うたからじゃ。明命が帳面をつけるのも、穏が失敗を恐れんのも、小蓮さまが棒を握るのも、蓮華さまが両方持つのも……全部、あんたが元じゃ」

 

「……」

 

「あんたがおらんようになったら、あの子らはどうなる」

 

 俺は、その質問に、答えられなかった。

 

 答えられないまま、しばらく川を見ていた。

 

「……考えたことがない」

 

「じゃろうな」

 

 祭どのは、あっさりと言った。

 

「あんたは、自分がおらんでも回る仕組みを作るのが得意じゃ。……烽火も、名簿も、そうやって作った」

 

「作った」

 

「じゃが、あれは物の話じゃ」

 

 この人は、そう言った。

 

「人の心は、仕組みでは回らん」

 

 俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。

 

「――祭どの」

 

「なんじゃ」

 

「あんたは、それを考えたことがあるか」

 

「ある」

 

 即答だった。

 

「……いつだ」

 

「文台さまが死んだときじゃ」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「あのとき、わしは思うた。……あの方がおらんようになって、わしはどうやって立つのかとな」

 

「……」

 

「三月、動けんかった。前に言うたじゃろう」

 

「聞いた」

 

「あれはな、若いの」

 

 この人は、そう言った。

 

「わしが四十年、あの方を柱にして立っとったからじゃ。……柱が抜けたら、立てんかった」

 

 俺は、その言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。

 

 転がして、こう言った。

 

「……俺は、柱か」

 

「柱じゃ」

 

「そんなつもりはない」

 

「つもりの話ではないわ」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「柱かどうかを決めるのは、寄りかかっとるほうじゃ」

 

 俺は、その夜、部屋に戻ってからも寝つけなかった。

 

 寝つけないまま、名簿をもう一度開いた。

 

 四千三百人分。そのうち四百十一人が、孫堅どのの代からいる。

 

 残り三千九百人近くは、俺が拾ったか、あるいは俺が拾った者が拾った者だ。

 

 俺は、その数を見ながら、一つ数え直した。

 

 この隊で、俺より年上の者が何人いるか。

 

 ――百二十七人だった。

 

 四千三百のうち、百二十七。

 

 俺は、その数字を書いた紙を、しばらく見ていた。

 

 見てから、筆を取って、その下にこう書いた。

 

 ――誰に渡すか。

 

 書いてみたが、そこから先が続かなかった。

 

 烽火は村に渡した。名簿は蓮華さまが写している。風の読み方は、小蓮さまが毎朝ついてきて覚え始めている。

 

 物は、渡せる。

 

 だが、思春に名前を書けと言ったのは俺だ。あの娘は、俺が言ったから書いている。

 

 俺がいなくなったあと、誰があの娘に「書け」と言うのか。

 

 俺は、その紙を畳んで、帳面に挟んだ。

 

 翌日から、俺は少し違うことを始めた。

 

 といっても、大したことではない。

 

 用事を、直接頼まなくなった。

 

「――穏どの。糸の話だが」

 

「はい」

 

「あんたが取った糸を、思春に見せてくれ」

 

「……思春どのに、ですか」

 

「そうだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの娘は、縫うのが乱暴だ。……乱暴でも切れない糸なら、あの娘の縫い方でも持つ」

 

「なるほど」

 

「それと、河口へ行ったときに売れるかもしれん。……あの娘は、河口に顔が利く」

 

 穏どのは、その話を聞いて、少し目を輝かせた。

 

「……あの、それは、思いつきませんでした」

 

「思いつかんだろう」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは本を読む。あの娘は河口を知っている。……二人で話せば、俺が間に入るより早い」

 

 その半月後、二人が並んで俺のところへ来た。

 

 糸を持っていた。

 

 思春が、それで縫った布を見せてきた。

 

「――持ちますね、これは」

 

「持つか」

 

「持ちます。私の縫い方でも、三度の戦は持ちます」

 

 この娘は、そう言った。

 

「それと、河口で売れます。……漁の網に使えると、向こうの者が言っておりました」

 

「もう聞きに行ったのか」

 

「先月、塩を運びに行った折に」

 

 思春は、あっさりと言った。

 

 俺は、その返事に、少し笑った。

 

「……早いな」

 

「穏どのが急かしましたので」

 

「私は急かしておりません」

 

 穏どのが、慌てて言った。

 

「……あの、三度ほど、進み具合を伺っただけです」

 

「それを急かすと言うのだ」

 

 思春が、そう言った。

 

 俺は、二人のやりとりを黙って見ていた。

 

 見ていて、少し妙な気分になった。

 

 半年前、この二人はほとんど口を利かなかった。片方は賊上がりで、片方は本ばかり読んでいる。接点がなかった。

 

 今は、糸の話をしている。

 

 俺を介さずに。

 

「……隊長。どうかしましたか」

 

「いや」

 

 俺は、そう言った。

 

「……いい話だ、と思っただけだ」

 

 思春が、少し訝しげな顔をした。

 

「糸の話がですか」

 

「糸の話がだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は糸のことを何も知らん。……知らん話を、あんたたちが勝手に進めている。これは、いい話だ」

 

 二人は、顔を見合わせた。

 

 わからん、という顔をしていた。

 

 わからなくていいと思った。

 

 思春が名簿を持ってきたのは、その数日後だった。

 

 紙が三枚。

 

 俺は、それを受け取って開いた。

 

 十四人分の名前が書いてあった。字が、驚くほど下手だった。

 

「……あんた、字は」

 

「下手です」

 

 思春が即答した。

 

「わかっています。……ですが、自分で書きたかったので」

 

「そうか」

 

「はい。隊長に書いてもらうこともできました。……ですが、それでは意味がありません」

 

「なぜだ」

 

「私が覚えているのですから、私が書くべきです」

 

 思春は、そう言った。

 

「私しか覚えていない名前です。……私が書かなければ、誰が書くのですか」

 

 俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。

 

 それから、頷いた。

 

「……その通りだ」

 

「はい」

 

「では、俺の帳面に貼る」

 

「――貼る、ですか」

 

「貼る。……書き写すと、俺の字になる」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたの字のまま残したほうがいい。そのほうが、あんたが書いたことがわかる」

 

 思春は、しばらく俺を見ていた。

 

「……そういうものですか」

 

「そういうものだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺の帳面には、俺の字しかない。……ずっと俺一人で書いてきたからだ。あんたの字が入れば、二人になる」

 

 言ってから、俺は少し考えて、こう付け加えた。

 

「――それと、一つ頼みがある」

 

「なんですか」

 

「あんたも、名簿を作れ」

 

 思春が、そこで手を止めた。

 

「……私が、ですか」

 

「あんたがだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたの下に、六十三人いる。……あの六十三人の名前を、あんたが書け」

 

「隊長の帳面にあるのでは」

 

「ある」

 

「では、要らないのでは」

 

「要る」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺の帳面は、俺が死んだら誰かが読む。……読める者は、たぶんいる。字は汚いが、読めんことはない」

 

「……」

 

「だが、読むのと、覚えているのは違う」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺があの六十三人を覚えているのは、俺が毎晩読んでいるからだ。……あんたが覚えるには、あんたが書くしかない」

 

 思春は、しばらく黙っていた。

 

「……隊長」

 

「なんだ」

 

「それは、隊長がいなくなる前提の話ですか」

 

 俺は、その質問に、少し詰まった。

 

 詰まってから、正直に言った。

 

「――そうだ」

 

「……即答ですね」

 

「即答した」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は三十六だ。この隊で、俺より年上の者は百二十七人しかいない」

 

「……数えたのですか」

 

「数えた。先月な」

 

 俺は、そう言った。

 

「数えて、初めて気づいた。……俺は、自分をまだ若いほうだと思っていた」

 

「……」

 

「思っていたが、違った」

 

 思春は、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……隊長。私は、それを聞きたくありません」

 

「聞かんでいい」

 

「聞かんでいい、と言われても」

 

 この娘は、そう言った。

 

「言われてしまえば、聞いたことになります」

 

「そうだな」

 

「……ずるいです」

 

「ずるい」

 

 俺は、認めた。

 

「だが、言わずに死ぬほうが、もっとずるい」

 

 思春は、そこで顔を上げた。

 

 しばらく、俺を睨んでいた。

 

「……わかりました。書きます」

 

「頼む」

 

「ですが、条件があります」

 

「言え」

 

「隊長より先に死んだら、書けません」

 

 この娘は、そう言った。

 

「ですから、私が書き終わるまで、生きていてください」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「……六十三人だ。すぐ書けるだろう」

 

「私は字が下手です」

 

 思春は、そう言った。

 

「一日に三人が限度です。……二十日以上かかります」

 

「では、二十日は生きる」

 

「二十日では足りません」

 

「――なぜだ」

 

「書き終わったら、次を書きます」

 

 この娘は、そう言った。

 

「六十三人が七十人になれば、七人書きます。……つまり、増え続けます」

 

 俺は、その言い方に、しばらく黙った。

 

 黙ってから、こう言った。

 

「……上手いな」

 

「上手いですか」

 

「上手い。……それは、俺が言えなくなる言い方だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「わかった。……書き終わるまで生きる」

 

「はい」

 

「だが、一つ言っておく」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺がいなくなったあと、あんたが誰かに『書け』と言え」

 

 思春は、その言葉に、少し目を見開いた。

 

「……私が、ですか」

 

「あんたがだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺があんたに言った。……次は、あんたが誰かに言う。それで続く」

 

「……誰に言えばいいのですか」

 

「その時に決めろ」

 

 俺は、そう言った。

 

「今決めても、どうせ変わる」

 

 蓮華さまと明命の書き取りが終わったのは、その半月後だった。

 

 寿春に入る荷車の、一年分の数字。明命が頭に入れていたものを、蓮華さまが全部紙に書き出した。

 

 俺は、その紙を見た。

 

「……よく覚えていたな」

 

「はい!」

 

 明命は、そう言って胸を張った。

 

「私、数だけは覚えられるんです。……名前は、あまり」

 

「――名前は苦手か」

 

「苦手です。顔は覚えるのですが、名前が出てきません。……父にも、よく叱られました」

 

「謝ることではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは数を覚える。俺は名前を覚える。……両方いれば、それでいい」

 

 明命は、その言葉に、少しきょとんとした。

 

「……両方、ですか」

 

「両方だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「一人で全部やろうとすると、必ずどこかが抜ける。……抜けたところを、誰かが持てばいい」

 

 蓮華さまが、そこで口を挟んだ。

 

「子渡。それ、私にも言いましたね」

 

「言ったか」

 

「言いました。村を回ったときです。……『二つ持っているほうが、一つを磨くより早い』と」

 

「……言ったな」

 

「言いました。書いてあります」

 

 蓮華さまは、懐を軽く叩いた。

 

 俺は、その仕草を見て、少し笑った。

 

「……まだ書いているのか」

 

「書いています」

 

「何冊目だ」

 

「三冊目です」

 

「――三冊」

 

「はい。十のときから始めて、三冊目です」

 

 俺は、その数を聞いて、しばらく黙った。

 

 この人が十のとき、俺は二十六だった。

 

 十年経っている。

 

「……十年か」

 

「十年です」

 

「三冊は、少なくないか」

 

「少ないです」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「あなた、昔はそんなに喋りませんでしたから。……最近は増えました。三冊目は、この二年で半分埋まりました」

 

 俺は、その言葉に、少し気まずくなった。

 

「……喋りすぎか」

 

「いいえ」

 

 蓮華さまは、即答した。

 

「ちょうどいいです」

 

 紙を見ながら、公瑾どのが計算を始めた。

 

 半刻ほどして、この人が顔を上げた。

 

「……見えたわ」

 

「何が」

 

「あちらの兵の増減」

 

 公瑾どのは、紙を指した。

 

「荷車の数が、月ごとに違うの。多い月と少ない月がある。……多い月は、兵が増えている月」

 

「そうだな」

 

「三月に増えて、五月に減っている。七月にまた増えて、九月に減る」

 

「……周期があるな」

 

「あるわ。……たぶん、農繁期」

 

 この人は、そう言った。

 

「あちらの兵の半分は農民よ。田植えと稲刈りの時期には、村へ帰す。帰さないと翌年の租が入らないもの」

 

「……つまり」

 

「五月と九月は、あちらの兵が減る」

 

 公瑾どのは、あっさりと言った。

 

「一番減るのは九月。……稲刈りのあいだ、寿春の兵は三千を切るわ」

 

 俺は、その言葉に、しばらく黙った。

 

「……三千か」

 

「三千」

 

「こちらは四千三百だ」

 

「四千三百ね」

 

 この人は、そう言った。

 

「初めて、こちらが上回るわ」

 

 卓が、静かになった。

 

 俺は、その紙をもう一度見た。

 

 見て、こう言った。

 

「――今は四月だ」

 

「四月ね」

 

「九月まで、五月ある」

 

「あるわ」

 

 公瑾どのは、そう言った。

 

「そして、半年待つと申し上げてから、四月経っております。……残り二月です」

 

「あと二月で、あちらが動く」

 

「動きます。……動いてから九月まで持ちこたえれば、勝てます」

 

 俺は、その言い方に、少し引っかかった。

 

「――持ちこたえる、と言ったな」

 

「言いました」

 

「つまり、二月から九月まで、こちらは殴られっぱなしか」

 

「そうなります」

 

 公瑾どのは、あっさりと言った。

 

「あなたの条件です。こちらからは先に手を出さない。……ですから、殴られます」

 

「……四月分か」

 

「四月分です」

 

 俺は、その言葉を、しばらく胸の中で転がした。

 

「――何人死ぬ」

 

「わかりません」

 

 この人は、正直に言った。

 

「守り方によります。……上手く守れば、百人以下で済みます。下手に守れば、五百は死にます」

 

「……では、上手く守る」

 

「上手く守ってください」

 

「即答だな」

 

「即答します」

 

 公瑾どのは、そう言った。

 

「これは、あなたの領分です。……私は、殴り返す日を決めるだけ」

 

 その夜、俺はテラスに出ていた。

 

 星が出ていた。

 

 足音がして、雪蓮さまが上がってきた。

 

 この人は、俺の隣に座って、しばらく黙っていた。

 

 黙ってから、こう言った。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「あなた、最近、変よ」

 

「――変か」

 

「変よ」

 

 その人は、そう言った。

 

「なんか、急に年寄りくさいことを言うようになったわ」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「……年寄りだからだ」

 

「三十六でしょ」

 

「三十六だ」

 

「まだ若いじゃない」

 

「若くない」

 

 俺は、そう言った。

 

「この隊で、俺より年上の者は百二十七人しかいない」

 

「……数えたの?」

 

「数えた」

 

「なんで数えたのよ」

 

「名簿に年を書いた。……書いて、読み返して、それで気づいた」

 

 俺は、そう言った。

 

「気づかんかったのは、俺だけだったらしい」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……知ってたわよ、私」

 

「――知っていたか」

 

「知ってたわ」

 

 その人は、そう言った。

 

「だって、あなた、私が十四のときからいるのよ。……その私が二十六なんだから、あなたが年上に決まってるじゃない」

 

「……そうだな」

 

「そうよ」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「……でも、あなたが自分でそれを言うのは、初めて聞いたわ」

 

 俺は、その言葉に、返す言葉を探した。

 

 探して、こう言った。

 

「――言うようになった」

 

「なんで」

 

「祭どのに言われた」

 

 俺は、そう言った。

 

「柱かどうかを決めるのは、寄りかかっているほうだ、と」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、俺の肩に頭を乗せた。

 

「……そうよ」

 

「……」

 

「私も、寄りかかってるもの」

 

 その人は、そう言った。

 

「あなた、それも数えてないでしょ」

 

「数えていない」

 

「数えなさいよ」

 

「――数えられん」

 

「なんでよ」

 

「数えると、たぶん、動けなくなる」

 

 俺は、そう言った。

 

「四千三百人の名前は数えられる。……だが、何人が俺に寄りかかっているかは、数えたくない」

 

 雪蓮さまは、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、こう言った。

 

「……じゃあ、私が数えといてあげる」

 

「――あんたが?」

 

「そう」

 

 その人は、そう言った。

 

「あなたが数えられないものは、私が数えるわ。……そのかわり、あなたは兵の名前を数えて」

 

「……役割の分け方としては、悪くないな」

 

「でしょ」

 

 雪蓮さまは、そう言って、少し笑った。

 

「ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「あなた、倒れないでよ」

 

 俺は、その言葉に、しばらく答えられなかった。

 

「……善処する」

 

「善処じゃなくて」

 

「――努力する」

 

「それも違うわ」

 

 その人は、そう言った。

 

「約束して」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

 黙ってから、こう言った。

 

「――約束はせん」

 

「なんでよ!」

 

「守れん約束はせん」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたの母上に、俺は『あの人は死なん』と言った。……守れなかった」

 

「……」

 

「あれから、約束の仕方を変えた」

 

 俺は、そう言った。

 

「守れることだけ約束する。……倒れないというのは、俺が決められることではない」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……じゃあ、何なら約束できるの」

 

「倒れる前に言う」

 

 俺は、そう言った。

 

「体がおかしいと思ったら、隠さずに言う。……それなら約束できる」

 

「……それでいいわ」

 

 その人は、そう言った。

 

「絶対よ」

 

「約束する」

 

 二月後。

 

 袁術が動いた。

 

 最初の一手は、俺が予想していたものではなかった。

 

 兵ではなかった。

 

 塩だった。

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