長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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最初に気づいたのは、台所だった。

 

 その朝、飯の味がしなかった。

 

 粥に菜を刻んだだけのものが出てきて、俺は二口食って箸を止めた。

 

「……塩は」

 

「切れました」

 

 配膳の女が、そう言った。

 

「昨日届く予定でしたが、来ませんでした」

 

「商人は来なかったのか」

 

「来ました。……ですが、塩だけ積んでいませんでした」

 

 俺は、その言い方に引っかかった。

 

「――塩だけか」

 

「はい。米も菜もいつも通りです。塩だけです」

 

「理由は」

 

「聞きましたが、『上のほうで止まっている』と」

 

 俺は、粥を全部食ってから立ち上がった。

 

「――若いの。どこへ行く」

 

 祭どのが、そう聞いた。

 

「川だ」

 

「朝から川か」

 

「塩は川から来る。……止まっているなら、どこで止まっているかを見てくる」

 

 塩の道は、頭の中に入っている。

 

 この辺りの塩は、海で焼いたものが川を遡ってくる。河口から荊州まで二十日。途中に中継地がある。

 

 俺は六艘のうち一艘を出して、一番近い中継地まで下った。半日かかった。

 

 着いてみると、塩は積んであった。

 

 倉に、山ほど積んであった。積んだまま、動いていなかった。

 

「――なぜ動かさん」

 

 俺が聞くと、倉番の男が露骨に目を逸らした。

 

「……上のご指示がありませんので」

 

 俺は、その返事を、以前どこかで聞いた気がした。

 

 連合のときだ。糧が止まったときも、同じ言い方をされた。

 

「――上とは、どこだ」

 

「申し上げられません」

 

「言わんでいい」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたに恨みはない。仕事だろう」

 

 男は、少し驚いた顔をした。

 

「……あの」

 

「なんだ」

 

「塩以外は、通してよいと言われております」

 

 俺は、その一言で足を止めた。

 

「――はっきり、そう言われたか」

 

「……はい」

 

 俺は、しばらくその男の顔を見ていた。

 

「――ありがたい」

 

「え?」

 

「教えてくれて、ありがたい」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは、言ってはいけないことを言っていない。……『塩以外は通してよい』というのは、あんたの仕事の中身だ。それを言うのは落ち度にならん」

 

 男は、しばらくぽかんとしていた。

 

 それから、少しだけ頭を下げた。

 

 館へ戻って、テラスで報告した。

 

 公瑾どのは、俺の話を最後まで聞いて、短く言った。

 

「……上手いわね」

 

「上手いか」

 

「上手いわ」

 

 この人は、そう言った。

 

「塩だけを止めるって、思いつくようで思いつかないの。……米を止めれば、こちらはすぐ気づく。気づけば備蓄を出す。備蓄があることが、あちらにばれるでしょう」

 

「……そうだな」

 

「塩なら、こちらは備えていない。備えようがないもの」

 

 公瑾どのは、そう言った。

 

「それに、塩はすぐには死なない。三月なくても人は生きるわ。……ただ、じわじわ弱る」

 

「弱るか」

 

「弱ります。……特に、汗をかく者から」

 

 俺は、その説明を聞いて、腹の底が冷えた。

 

「……夏だな」

 

「夏ね」

 

 この人は、あっさりと言った。

 

「これから一番暑くなるわ。訓練をすれば汗をかく。汗をかいた者が塩を摂らないと、倒れる」

 

「何月から出る」

 

「二月目でしょう」

 

「……九月まで持たせる気か」

 

「たぶん」

 

 公瑾どのは、そう言った。

 

「九月にあちらの兵は減る。……でも、そのころには、こちらの兵も半分が動けない」

 

「――狙ってやっているのか」

 

「わからないわ」

 

 この人は、正直に言った。

 

「そこまで読んでいるなら、たいしたもの。……ただ、たまたまかもしれない」

 

 俺は、その日から塩を探した。

 

 海から直接運ぶのが、一番確実だった。河口まで下って、焼いている者から買う。ただし往復で四十日かかる。

 

 それは、思春に任せた。

 

「――行けるか」

 

「行けます」

 

 この娘は、即答した。

 

「河口には、私の昔の縄張りがあります。……塩を焼いている者に顔が利きます」

 

「盗るなよ」

 

「盗りません」

 

 思春は、そう言った。

 

「……いえ、正直に言えば、盗ったほうが早いです」

 

「早いだろうな」

 

「ですが、盗りません。……盗ると、来年から売ってもらえません」

 

 この娘は、そう言った。

 

「賊のときは、来年のことを考えませんでした。今は考えます」

 

「――いい返事だ」

 

「はい」

 

「では、行ってこい。銭は持っていけ。……値切るな。言い値で買え」

 

「値切らないのですか」

 

「今この川で塩を売ってくれる者は貴重だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「貴重なものを値切ると、次から売ってもらえん」

 

 村から買う分は、蓮華さまに任せた。

 

 三十村のうち、いくつかは井戸の水を煮て塩を作っている。海から遠いので量は少ない。

 

「――村から買うのですか」

 

「買う。ただし、余っている分だけだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「去年の帳面を見ろ。塩を作っている村が六つある。そのうち二つは、隣の村に売っている」

 

 蓮華さまは、帳面をめくった。

 

「……ありました」

 

「その二つから買う。……隣の村に売る分は、減らさせるな」

 

「それでは、少ししか取れません」

 

「少しでいい」

 

 俺は、そう言った。

 

「隣の村の分を止めたら、その村が困る。困った村は、うちを恨む」

 

「……子渡。それだと、うちの兵が倒れます」

 

「倒れるな」

 

「倒れてもいいんですか」

 

「よくない」

 

 俺は、そう言った。

 

「よくないが、村を恨ませるよりましだ。……兵は倒れても起き上がる。塩が入れば三日で戻る。だが、恨まれた村は三年経っても戻らん」

 

 蓮華さまは、その言葉をしばらく考えていた。

 

 それから、帳面に書き込んだ。

 

「……わかりました」

 

 俺は、自分でも一つ試した。

 

 川の水を煮た。

 

 結果を言えば、無駄だった。半日かけて、取れた塩は茶碗に半分もなかった。

 

「……若いの」

 

 祭どのが、それを覗き込んで言った。

 

「あんた、それを半日やっとったのか」

 

「やっていた」

 

「それで、それだけか」

 

「これだけだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「川の水は海より薄い。薄いものを煮ても、大して取れん」

 

「わかっとるなら、なぜやった」

 

「わからんかったからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「やってみるまで、どれくらい取れるか知らなかった。……今わかった」

 

「……阿呆じゃな」

 

「阿呆だ」

 

 俺は、あっさり認めた。

 

「だが、これで試す手が一つ減った」

 

 祭どのは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、盛大に笑った。

 

「……あんた、半日無駄にして、それでも何かを得た顔をしとるのう」

 

「実際、得た」

 

「得とらんわ」

 

 この人は、そう言って俺の背中を叩いた。

 

 六月の半ばに、最初の一人が倒れた。

 

 訓練中だった。走っていて、そのまま倒れた。

 

 医者が診て、こう言った。

 

「――塩が足りておりません」

 

「治るか」

 

「治ります。塩と水をやれば、半日で戻ります」

 

「では、やってくれ」

 

「やります。……ですが、一人にやれば、他の者にも配らねばなりません」

 

「配れ」

 

「足りません」

 

 俺は、その一言で黙った。

 

 黙って、しばらく考えた。

 

「――訓練を減らす」

 

「え?」

 

「昼の訓練をやめる。朝と夕方だけにする。……汗をかかせなければ、塩は減らん」

 

 その日の夕方、テラスで揉めた。

 

「――減らすの?」

 

 雪蓮さまが、そう言った。

 

「減らす」

 

「訓練を減らしたら、兵が鈍るわよ」

 

「鈍る」

 

「わかってて減らすの?」

 

「わかっている」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、倒れるよりましだ。……鈍った兵は、訓練すれば戻る。倒れた兵は、塩がないと戻らん」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、卓を叩いた。

 

「――ねえ。そろそろじゃない?」

 

 俺は、その言葉の意味をすぐに理解した。

 

「……まだだ」

 

「まだって、いつまでよ」

 

「向こうが手を出すまでだ」

 

「出してるでしょ!」

 

 その人は、そう言った。

 

「塩を止めてるのよ。うちの兵が倒れてるのよ。……これが手を出してることじゃないなら、何なのよ」

 

 俺は、その問いに、すぐには答えられなかった。

 

「――塩は、止めていない」

 

「止めてるじゃない」

 

「向こうは『塩を止める』とは言っていない。……『上の指示がない』と言っているだけだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「もし今こちらが動けば、向こうはこう言う。『我らは塩を止めていない、指示が遅れていただけだ、それを口実に兵を出したのは孫策のほうだ』と」

 

「……」

 

「そう言われたら、こちらは返せん。……返せんまま、賊になる」

 

 雪蓮さまは、しばらく俺を睨んでいた。

 

 それから、公瑾どののほうを向いた。

 

「冥琳。あなたはどう思うの」

 

 公瑾どのは、しばらく答えなかった。

 

 答えてから、こう言った。

 

「……私は、もう十分だと思うわ」

 

 俺は、その返事に少し驚いた。

 

「――あんたが、そう言うか」

 

「言うわ」

 

 この人は、そう言った。

 

「楚航どのの理屈は正しい。……ですが、正しさには賞味期限があります」

 

「……賞味期限」

 

「はい。……今こちらから動けば、確かに口実を与えます。でも、九月まで待って兵の半分が倒れていたら、そもそも動けない」

 

 公瑾どのは、そう言った。

 

「動けなくなってから正しくても、意味がありません」

 

 俺は、その言葉に、返す言葉を探した。

 

 探して、見つからなかった。

 

「――二月前に、あんたは俺の条件を飲んだ」

 

「飲みました」

 

「飲んでおいて、今それを言うのか」

 

「言います」

 

 公瑾どのは、はっきりと言った。

 

「あのときは、こういう手で来ると思っていませんでした。……兵を出してくると思っていたの」

 

「……」

 

「兵を出してくれば、はっきりする。でも、塩を止めるというのは、はっきりしないわ」

 

 この人は、そう言った。

 

「はっきりしない手には、はっきりした答えが出せません」

 

 卓が、静かになった。

 

「――一つ聞かせてくれ。今動いたとして、勝てるか」

 

 公瑾どのは、少し目を伏せた。

 

「……勝てません」

 

「即答だな」

 

「即答します。……こちらは四千三百。あちらは九千。しかも、こちらは塩不足で動けない者が出始めている」

 

「では、なぜ動けと言う」

 

「動けとは言っておりません」

 

 この人は、そう言った。

 

「『もう十分だ』と申し上げました。……名分は立つ、という意味です」

 

「名分が立っても、勝てんなら意味がない」

 

「意味はあります。……名分が立っているうちに、こちらから交渉ができるでしょう」

 

「――交渉か」

 

「ええ」

 

 公瑾どのは、そう言った。

 

「『塩が届いておりません。このままでは兵が飢えます。塩を通していただけないなら、我らは糧の道を自分で確保せねばなりません』と申し入れる」

 

「……それは、脅しだな」

 

「脅しです」

 

 この人は、あっさり言った。

 

「ただし、脅す前に、こちらが困っていることを認めることになります」

 

「……弱みを見せるのか」

 

「見せます」

 

 公瑾どのは、そう言った。

 

「見せたうえで、それでも塩が来なければ、こちらは動く名分を得ます。……向こうは『知らなかった』と言えなくなる」

 

 俺は、その筋道をしばらく考えた。

 

「――いい手だ。だが、一つ足りん」

 

「なんでしょう」

 

「文を出しても、返事が来なかったらどうする」

 

 公瑾どのが、そこで顔を上げた。

 

「……ああ」

 

「返事が来なければ、こちらは待つことになる。……待っているあいだも、塩は来ない」

 

 俺は、そう言った。

 

「向こうは、返事を出さないだけで、こちらを弱らせ続けられる」

 

「……その通りですね」

 

「だから、期限を切る」

 

 俺は、そう言った。

 

「文に日を書く。『何月何日までに塩が届かなければ、我らは自ら糧を確保する』と」

 

 公瑾どのは、その言葉に少し目を細めた。

 

「……それ、宣戦布告に近いですよ」

 

「近い。だが、布告ではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「『糧を確保する』としか書かない。確保の仕方は書かない」

 

 この人は、しばらく黙っていた。

 

 それから、少し笑った。

 

「……あなた、そういう手を思いつくようになりましたね」

 

「あんたに教わった」

 

「教えておりません」

 

「教わった」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたは前に、『文に兵を貸さぬと書いてある、自前で集めるなとは書いていない』と言った。……あれと同じだ」

 

 公瑾どのは、その言葉に少し呆れた顔をした。

 

「……覚えていらっしゃるとは」

 

「覚えている」

 

「性質が悪いわね」

 

「よく言われる」

 

 文は、その日のうちに出した。

 

 期限は、八月の末日にした。

 

 七月に入って、倒れる者が増えた。

 

 一日に二人か三人。多い日は五人。

 

 俺は、その全員の名前を書いた。死んではいない。倒れただけだ。だが、書いた。

 

 倒れた日と、戻った日も書いた。

 

 書いていると、わかることがあった。

 

 倒れる者に、偏りがあった。新入りが多い。それから、若い者が多い。

 

 俺は、その理由を蓮華さまに聞いた。

 

「――なぜだと思う」

 

 この人は、帳面を見て、しばらく考えた。

 

「……慣れていないからです」

 

「慣れ、か」

 

「はい。同じ動きをしても、慣れていない者は無駄が多い。無駄が多いと汗をかきます」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「それと、若い者は無理をします。……倒れる前に休めばいいのに、休みません」

 

「なぜ休まん」

 

「休むと、恥だと思っているからです」

 

 俺は、その言葉に、少し引っかかった。

 

「……誰が、それを恥だと言った」

 

「誰も言っていません」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「言っていませんが、みんなそう思っています。……特に、あなたの隊は」

 

「――俺の隊が、か」

 

「はい」

 

 この人は、そこで少し言いにくそうにした。

 

「あなた、休みませんから」

 

 俺は、その一言で黙った。

 

「あなたが朝から晩まで動いているのを、みんな見ています」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「脚が悪いのに、舟に乗って、陣を回って、帳面を書いて。……それを見ていて、自分が休めますか」

 

「……休め、と言っている」

 

「言っています。でも、あなたが休んでいません」

 

 この人は、そう言った。

 

「言葉より、そちらが効きます」

 

 俺は、しばらく答えられなかった。

 

「……気づかんかった」

 

「気づかないと思います」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「あなたは、自分を数に入れませんから」

 

 八月に入って、塩が足りなくなった。

 

 思春が二度目に出たあとだ。戻るまで、あと二十日ある。

 

 俺は、館の全員を集めて、こう言った。

 

「――今日から、塩の配り方を変える」

 

 四千三百人の前で、声を張った。

 

「今まで、全員に同じだけ配っていた。……これをやめる。汗をかく者に多く、かかない者に少なく配る」

 

 ざわめきが起きた。

 

「訓練に出る者、荷を運ぶ者、川に出る者。これらには倍を配る。書き物、門番、炊事。これらは減らす」

 

 俺は、そう言った。

 

「文句がある者は、俺のところへ来い。理由を説明する」

 

 その夜、七人が来た。

 

 塩は汗と一緒に出ていく。汗をかかない者は、出ていく量が少ない。だから少なくても足りる。贔屓ではない。体の話だ。

 

 五人は納得した。二人は納得しなかった。

 

「――納得できません」

 

 そのうちの一人が、そう言った。門番の男だった。四十を過ぎている。

 

「なぜだ」

 

「俺は、一日中立っております。……立っているだけでも汗はかきます。夏ですから」

 

「かくな」

 

「では、なぜ減らすのですか」

 

「立っているのと、走るのは違うからだ」

 

「……どう違うのですか」

 

 俺は、その質問に、すぐには答えられなかった。

 

「――試そう」

 

「え?」

 

「明日、あんたに一日、俺の隣にいてもらう。……そのあいだ、俺とあんたが飲む水の量を数える」

 

 俺は、そう言った。

 

「水を多く飲む者は、汗を多くかいている。それで測れる」

 

 男は、しばらくぽかんとしていた。

 

「……それを、やるのですか」

 

「やる」

 

「私一人のために」

 

「あんた一人のためではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたが納得できんということは、他にも納得できん者がいる。……七人来たということは、来ていない者が七十人はいる」

 

 翌日、俺はその男を隣に置いて一日過ごした。

 

 結果を言えば、その男が飲んだ水は、俺の七割だった。

 

「……七割です」

 

「七割だ」

 

「では、七割配ればよいのですか」

 

「そうなる。……半分ではなかった。俺が間違えていた」

 

 その男は、少し驚いた顔をした。

 

「……間違いを、認めるのですか」

 

「認める。測った結果が七割だった。七割配る」

 

 俺は、そう言った。

 

「それと、他の者も測る。門番だけではない。全部測る」

 

 測るのに、十日かかった。

 

 十日かけて、四千三百人を八つの組に分けた。汗をかく量で分けたので、隊の分け方とは違う形になった。

 

 その表を作ったのは、蓮華さまと穏どのだ。

 

「……子渡」

 

「なんだ」

 

「これ、面白いです」

 

 蓮華さまが、そう言った。

 

「同じ隊の中でも、飲む水の量が違います。……新入りが多い隊は、塩を多く使います。逆に言えば、塩の使用量で、その隊がどれくらい練れているかがわかります」

 

 俺は、その言葉に、しばらく黙った。

 

「……それは、思いつかなかった」

 

「本当ですか」

 

「本当だ。俺は、配るために測った。……あんたは、測ったものから別のことを読んだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「それは、俺にはできん」

 

 蓮華さまは、そこで少し照れた顔をした。

 

 照れてから、表をめくった。

 

 めくって、手が止まった。

 

「……子渡」

 

「なんだ」

 

「あなたの組は、どこですか」

 

 俺は、その質問に、答えなかった。

 

「……子渡」

 

「――八つの組に、俺は入っていない」

 

「なぜですか」

 

「俺は、配る側だからだ」

 

 蓮華さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、静かにこう言った。

 

「……あなた、飲んでいませんね」

 

「飲んでいる」

 

「嘘です」

 

 この人は、そう言った。

 

「昨日、水を測ったとき、あなたが一番多く飲んでいました。……つまり、一番汗をかいています」

 

「……」

 

「なのに、あなたの分は、どこにも書いてありません」

 

 俺は、しばらく答えられなかった。

 

「――一人分だ」

 

「一人分でも、一人分です」

 

「四千三百のうちの一人だ」

 

「その一人が倒れたら、四千三百が困ります」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

 声が、少し硬かった。

 

「……子渡。あなた、先月、お姉様に何か約束しましたね」

 

 俺は、その言葉に、顔を上げた。

 

「――なぜ、それを」

 

「お姉様が言っていました」

 

 この人は、そう言った。

 

「『灘に、倒れる前に言うって約束させたわ』と。……嬉しそうに言っていました」

 

「……」

 

「約束したんですね」

 

「した」

 

「では、今、言ってください」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

 黙ってから、正直に言った。

 

「――少し、ふらつく」

 

「いつからですか」

 

「五日前からだ」

 

「五日」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「五日、黙っていたんですね」

 

「黙っていた」

 

「約束は」

 

「――破った」

 

 俺は、そう言った。

 

 言ってから、自分でも少し情けなくなった。

 

「……すまん」

 

「私に謝らないでください」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「お姉様に謝ってください」

 

「……そうだな」

 

「それと。今すぐ、塩を飲んでください」

 

 俺が実際に倒れたのは、その二日後だった。

 

 場所が悪かった。桟橋だった。

 

 舟から降りて、五歩ほど歩いたところで、視界が白くなった。

 

 白くなって、そのまま膝が落ちた。

 

 落ちてから、板に手をついた。手をついたが、腕に力が入らなかった。

 

 周りで、声が上がった。

 

 俺は、その音を聞きながら、まずいと思った。

 

 倒れたことがまずいのではない。

 

 ――見られたのがまずい。

 

 桟橋には、俺の隊の者が三十人ほどいた。

 

 その三十人が、全員こちらを見ていた。

 

「――隊長!」

 

「触るな」

 

 俺は、そう言った。

 

 言ったつもりだったが、声が出ていなかったらしい。

 

 抱え起こされた。

 

「隊長、聞こえますか!」

 

「……聞こえる」

 

「医者を呼びます!」

 

「呼ばんでいい。塩と水をくれ」

 

 俺は、そう言った。

 

「……それで戻る。半日で戻る」

 

「半日って、そんな」

 

「戻る」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は、これを二百人分見てきた。……全員、半日で戻った」

 

 実際には、半日では戻らなかった。

 

 二日かかった。

 

 二日目の朝、寝床の脇に人が並んでいた。

 

 穏どのがいた。明命がいた。小蓮さまがいた。

 

 三人とも、顔色が悪かった。

 

「……何をしている」

 

「起きられましたか!」

 

 明命が、飛び上がるように言った。

 

「起きた。……あんたたち、いつからそこにいる」

 

「一昨日からです」

 

「――二日か」

 

「二日です」

 

「寝たか」

 

「寝ておりません」

 

「寝ろ」

 

 俺は、そう言った。

 

「……俺のために二日起きているのは、無駄だ」

 

「無駄ではありません」

 

 穏どのが、そう言った。

 

 この娘が、こんなにはっきり言うのを、俺は初めて聞いた。

 

「……無駄ではありません」

 

「なぜだ」

 

「……わかりません」

 

 穏どのは、そう言った。

 

「わかりませんが、無駄ではありません」

 

 俺は、その返事に、少し詰まった。

 

「……理屈になっていないぞ」

 

「なっていません」

 

 この娘は、そう言った。

 

「私は、理屈を並べるのが仕事です。……ですが、今は並べられません」

 

「……」

 

「並べられないので、ここにいます」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

 黙ってから、小蓮さまのほうを見た。

 

 この子は、何も言わずに座っていた。俺が見ても、目を合わせなかった。

 

「……小蓮さま」

 

「……」

 

「怒っているのか」

 

「怒ってない」

 

 この子は、そう言った。

 

「……嘘だな」

 

「嘘じゃない」

 

「では、なぜ目を合わせん」

 

 小蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……そこうが倒れるとこ、見てないから」

 

「――見ていない?」

 

「うん」

 

 この子は、そう言った。

 

「わたし、そこうが転ぶのは、三月見たよ。夜中に、庭で」

 

「……見ていたな」

 

「うん。でも、あれは転んでるだけだった」

 

 小蓮さまは、そう言った。

 

「起きてくるって、わかってたもん。……でも、今度は、起きてこないかもって思った」

 

 俺は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。

 

「……わたし、それが嫌だった。だから、目を合わせない」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

 黙ってから、こう言った。

 

「――小蓮さま」

 

「なに」

 

「悪かった」

 

 小蓮さまは、そこで初めてこちらを見た。

 

 目が赤かった。

 

「……あやまるの?」

 

「謝る」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は、自分の分の塩を配っていた。……四千三百のうちの一人だと思っていた」

 

「……」

 

「そう思っていたのは、俺だけだったらしい」

 

 小蓮さまは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、鼻をすすった。

 

「……そうだよ」

 

「そうか」

 

「そうだよ!」

 

 この子は、そう言った。

 

「そこうが一人分だと思ってても、こっちは一人分だと思ってないもん!」

 

 その日の昼に、雪蓮さまが来た。

 

 入ってくるなり、俺の顔を見て、こう言った。

 

「――約束、破ったわね」

 

「破った」

 

「五日ですって?」

 

「五日だ」

 

「……最低ね」

 

「最低だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「言い訳はせん。……破った」

 

 雪蓮さまは、寝床の脇に座った。

 

 座って、しばらく何も言わなかった。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「私、怒ってるのよ」

 

「わかっている」

 

「わかってないわ」

 

 その人は、そう言った。

 

「私が怒ってるのは、あなたが倒れたからじゃないの」

 

「――では、なんだ」

 

「あなたが、自分を数に入れなかったから」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「私、言ったでしょ。あなたが数えられないものは、私が数えるって」

 

「……言われた」

 

「言ったのに、あなた、私に数えさせなかった」

 

 その人は、そう言った。

 

「自分で隠したのよ。……それは、私が数える邪魔をしたってことでしょ」

 

 俺は、その言い方に、しばらく黙っていた。

 

「……その通りだ」

 

「でしょ」

 

「すまん」

 

「謝らなくていいわ」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「かわりに、これから毎日、私に言いなさい」

 

「――毎日か」

 

「毎日よ。今日は具合がどうか、水をどれだけ飲んだか、塩を飲んだか。……全部言って」

 

「……面倒だな」

 

「面倒よ」

 

 その人は、あっさり言った。

 

「でも、あなたが四千三百人分やってることを、私は一人分やるだけよ。……楽なもんでしょ」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

 笑って、それが少し響いた。まだ体が戻っていない。

 

「……わかった」

 

「約束よ」

 

「約束する」

 

 俺は、そう言った。

 

「これなら守れる」

 

 思春が戻ってきたのは、五十日目だった。

 

 塩を倍積んでいた。

 

 そして、五十人のうち四十七人しか帰ってこなかった。

 

「――三人か」

 

「三人です」

 

 思春は、そう言った。

 

 日に焼けて、頬が痩けていた。

 

「別の一党と揉めました。……話はつきましたが、その前に三人斬られました」

 

「……名は」

 

「覚えています。三人とも、覚えています」

 

「では、書け」

 

 俺は、帳面と筆を差し出した。

 

 思春は、それを受け取って、その場で書いた。相変わらず、下手な字だった。

 

 書き終わって、こう言った。

 

「……隊長」

 

「なんだ」

 

「顔色が悪いですね」

 

 俺は、その一言で、少し身構えた。

 

「……見てわかるか」

 

「わかります。……倒れられたと聞きました」

 

 思春は、そう言った。

 

「河口へ発つ前に、私は隊長に申し上げました。『私が倒れたら名前を書いてください』と」

 

「言われた」

 

「隊長は『書く』と即答されました。……ですが、逆は考えていませんでした」

 

 この娘は、そう言った。

 

「隊長が倒れたら、誰が隊長の名前を書くのですか」

 

 俺は、その質問に、しばらく答えられなかった。

 

 答えられないまま、こう言った。

 

「――帳面に、書いてある」

 

「え?」

 

「俺の名は、もう書いてある。……三年前だ。あんたに言われて書いた」

 

 思春は、しばらく黙っていた。

 

「……覚えておられましたか」

 

「覚えている。……あんたが『その帳面には、貴様の名も書いてあるのか』と聞いた。俺が『書いていない』と答えたら、『書け』と言われた」

 

「言いました」

 

「だから書いた。……あれから三年、そこに俺の名前がある」

 

 思春は、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、こう言った。

 

「……真名は」

 

「書いていない」

 

「なぜですか」

 

「わからん」

 

 俺は、正直に言った。

 

「書こうとして、書けなかった。……理由は、自分でもわからん」

 

 思春は、その返事を、しばらく考えていた。

 

「……では、いつか書いてください」

 

「――いつかか」

 

「いつかです」

 

 この娘は、そう言った。

 

「急ぎません。……ですが、書かないまま終わるのは、たぶん、隊長らしくありません」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

「……手厳しいな」

 

「事実です」

 

 八月の末日が来た。

 

 塩は、届かなかった。

 

 返事も、来なかった。

 

 その日の夕方、テラスに全員が集まった。

 

 卓の上には、何も置かれていなかった。置くべき文が来なかったからだ。

 

「――期限です」

 

 公瑾どのが、そう言った。

 

「期限だ」

 

「返事はありません。塩も届いておりません」

 

「ない」

 

 俺は、そう言った。

 

「……これで、名分は立つか」

 

「立ちます」

 

 公瑾どのは、はっきりと言った。

 

「こちらは文を出した。期限を書いた。返事はなかった。……これだけ揃えば、誰に聞かれても説明できます」

 

 俺は、頷いた。

 

 頷いてから、卓を見回した。

 

 この四月で、倒れた者が二百人を超えた。

 

 そのうちの一人が、俺だった。

 

「――一つ、言っておく」

 

 俺は、そう言った。

 

「四月、待たせた。……その分、二百人が倒れた。決めたのは俺だ」

 

「若いの」

 

 祭どのが、そこで口を挟んだ。

 

「前にも言うたが、それは違うぞ」

 

「わかっている」

 

「わかっとらんから言うとる」

 

 この人は、そう言った。

 

「あんたが決めたのは、先に手を出さんことじゃ。……殴ると決めたのは、向こうじゃ」

 

「……理屈ではそうだ」

 

「理屈のほうも忘れるな」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「忘れると、潰れる。……あんたは、もう一度潰れかけたじゃろうが」

 

 俺は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。

 

 持たないまま、頷いた。

 

「――覚えておく」

 

「そうせい」

 

 雪蓮さまが、卓に肘をついた。

 

「……ねえ。これで、動けるのね」

 

「動ける」

 

「やっとね」

 

「やっとだ」

 

 その人は、そう言った。

 

「……悔しくないの?」

 

「悔しい」

 

 俺は、即答した。

 

「即答ね」

 

「即答した」

 

 俺は、そう言った。

 

「四月で二百人が倒れた。死んだ者はいないが、二百人だ。……全員の名前を書いた。戻らなかった者はいない。それだけが救いだ」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……ねえ。あなたが待つって言ったの、正しかったと思う?」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

 考えて、正直に答えた。

 

「――わからん」

 

「わからないの?」

 

「わからん」

 

 俺は、そう言った。

 

「二百人倒れた。二月前に動いていたら、この二百人は倒れなかった。……だが、そのかわり、うちは賊になっていた」

 

「……」

 

「どちらが良かったかは、たぶん、十年経たないとわからん」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……じゃあ、十年後に聞くわ」

 

「――聞くか」

 

「聞くわよ」

 

 その人は、そう言った。

 

「十年後、江東で、あなたに聞くの。……『あのとき待って、正しかった?』って」

 

 俺は、その言葉に、少し笑った。

 

「……覚えていられるか」

 

「覚えてるわよ」

 

「十年だぞ」

 

「十年でも覚えてる」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「それと」

 

「なんだ」

 

「十年後も生きてなさいよ。……聞く相手がいないと、困るじゃない」

 

 俺は、その言い方に、返す言葉を探した。

 

 探して、こう言った。

 

「――善処する」

 

「また善処?」

 

「善処だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「約束はせん。……だが、毎日報告する。それは約束した」

 

「そうね」

 

「守る」

 

「守りなさいよ」

 

 雪蓮さまは、そう言って、少し笑った。

 

 翌朝、俺は舟を出した。

 

 六艘全部だ。

 

 四月ぶりに、こちらから動いた。

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