長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
最初に気づいたのは、台所だった。
その朝、飯の味がしなかった。
粥に菜を刻んだだけのものが出てきて、俺は二口食って箸を止めた。
「……塩は」
「切れました」
配膳の女が、そう言った。
「昨日届く予定でしたが、来ませんでした」
「商人は来なかったのか」
「来ました。……ですが、塩だけ積んでいませんでした」
俺は、その言い方に引っかかった。
「――塩だけか」
「はい。米も菜もいつも通りです。塩だけです」
「理由は」
「聞きましたが、『上のほうで止まっている』と」
俺は、粥を全部食ってから立ち上がった。
「――若いの。どこへ行く」
祭どのが、そう聞いた。
「川だ」
「朝から川か」
「塩は川から来る。……止まっているなら、どこで止まっているかを見てくる」
塩の道は、頭の中に入っている。
この辺りの塩は、海で焼いたものが川を遡ってくる。河口から荊州まで二十日。途中に中継地がある。
俺は六艘のうち一艘を出して、一番近い中継地まで下った。半日かかった。
着いてみると、塩は積んであった。
倉に、山ほど積んであった。積んだまま、動いていなかった。
「――なぜ動かさん」
俺が聞くと、倉番の男が露骨に目を逸らした。
「……上のご指示がありませんので」
俺は、その返事を、以前どこかで聞いた気がした。
連合のときだ。糧が止まったときも、同じ言い方をされた。
「――上とは、どこだ」
「申し上げられません」
「言わんでいい」
俺は、そう言った。
「あんたに恨みはない。仕事だろう」
男は、少し驚いた顔をした。
「……あの」
「なんだ」
「塩以外は、通してよいと言われております」
俺は、その一言で足を止めた。
「――はっきり、そう言われたか」
「……はい」
俺は、しばらくその男の顔を見ていた。
「――ありがたい」
「え?」
「教えてくれて、ありがたい」
俺は、そう言った。
「あんたは、言ってはいけないことを言っていない。……『塩以外は通してよい』というのは、あんたの仕事の中身だ。それを言うのは落ち度にならん」
男は、しばらくぽかんとしていた。
それから、少しだけ頭を下げた。
館へ戻って、テラスで報告した。
公瑾どのは、俺の話を最後まで聞いて、短く言った。
「……上手いわね」
「上手いか」
「上手いわ」
この人は、そう言った。
「塩だけを止めるって、思いつくようで思いつかないの。……米を止めれば、こちらはすぐ気づく。気づけば備蓄を出す。備蓄があることが、あちらにばれるでしょう」
「……そうだな」
「塩なら、こちらは備えていない。備えようがないもの」
公瑾どのは、そう言った。
「それに、塩はすぐには死なない。三月なくても人は生きるわ。……ただ、じわじわ弱る」
「弱るか」
「弱ります。……特に、汗をかく者から」
俺は、その説明を聞いて、腹の底が冷えた。
「……夏だな」
「夏ね」
この人は、あっさりと言った。
「これから一番暑くなるわ。訓練をすれば汗をかく。汗をかいた者が塩を摂らないと、倒れる」
「何月から出る」
「二月目でしょう」
「……九月まで持たせる気か」
「たぶん」
公瑾どのは、そう言った。
「九月にあちらの兵は減る。……でも、そのころには、こちらの兵も半分が動けない」
「――狙ってやっているのか」
「わからないわ」
この人は、正直に言った。
「そこまで読んでいるなら、たいしたもの。……ただ、たまたまかもしれない」
俺は、その日から塩を探した。
海から直接運ぶのが、一番確実だった。河口まで下って、焼いている者から買う。ただし往復で四十日かかる。
それは、思春に任せた。
「――行けるか」
「行けます」
この娘は、即答した。
「河口には、私の昔の縄張りがあります。……塩を焼いている者に顔が利きます」
「盗るなよ」
「盗りません」
思春は、そう言った。
「……いえ、正直に言えば、盗ったほうが早いです」
「早いだろうな」
「ですが、盗りません。……盗ると、来年から売ってもらえません」
この娘は、そう言った。
「賊のときは、来年のことを考えませんでした。今は考えます」
「――いい返事だ」
「はい」
「では、行ってこい。銭は持っていけ。……値切るな。言い値で買え」
「値切らないのですか」
「今この川で塩を売ってくれる者は貴重だ」
俺は、そう言った。
「貴重なものを値切ると、次から売ってもらえん」
村から買う分は、蓮華さまに任せた。
三十村のうち、いくつかは井戸の水を煮て塩を作っている。海から遠いので量は少ない。
「――村から買うのですか」
「買う。ただし、余っている分だけだ」
俺は、そう言った。
「去年の帳面を見ろ。塩を作っている村が六つある。そのうち二つは、隣の村に売っている」
蓮華さまは、帳面をめくった。
「……ありました」
「その二つから買う。……隣の村に売る分は、減らさせるな」
「それでは、少ししか取れません」
「少しでいい」
俺は、そう言った。
「隣の村の分を止めたら、その村が困る。困った村は、うちを恨む」
「……子渡。それだと、うちの兵が倒れます」
「倒れるな」
「倒れてもいいんですか」
「よくない」
俺は、そう言った。
「よくないが、村を恨ませるよりましだ。……兵は倒れても起き上がる。塩が入れば三日で戻る。だが、恨まれた村は三年経っても戻らん」
蓮華さまは、その言葉をしばらく考えていた。
それから、帳面に書き込んだ。
「……わかりました」
俺は、自分でも一つ試した。
川の水を煮た。
結果を言えば、無駄だった。半日かけて、取れた塩は茶碗に半分もなかった。
「……若いの」
祭どのが、それを覗き込んで言った。
「あんた、それを半日やっとったのか」
「やっていた」
「それで、それだけか」
「これだけだ」
俺は、そう言った。
「川の水は海より薄い。薄いものを煮ても、大して取れん」
「わかっとるなら、なぜやった」
「わからんかったからだ」
俺は、そう言った。
「やってみるまで、どれくらい取れるか知らなかった。……今わかった」
「……阿呆じゃな」
「阿呆だ」
俺は、あっさり認めた。
「だが、これで試す手が一つ減った」
祭どのは、しばらく俺を見ていた。
それから、盛大に笑った。
「……あんた、半日無駄にして、それでも何かを得た顔をしとるのう」
「実際、得た」
「得とらんわ」
この人は、そう言って俺の背中を叩いた。
六月の半ばに、最初の一人が倒れた。
訓練中だった。走っていて、そのまま倒れた。
医者が診て、こう言った。
「――塩が足りておりません」
「治るか」
「治ります。塩と水をやれば、半日で戻ります」
「では、やってくれ」
「やります。……ですが、一人にやれば、他の者にも配らねばなりません」
「配れ」
「足りません」
俺は、その一言で黙った。
黙って、しばらく考えた。
「――訓練を減らす」
「え?」
「昼の訓練をやめる。朝と夕方だけにする。……汗をかかせなければ、塩は減らん」
その日の夕方、テラスで揉めた。
「――減らすの?」
雪蓮さまが、そう言った。
「減らす」
「訓練を減らしたら、兵が鈍るわよ」
「鈍る」
「わかってて減らすの?」
「わかっている」
俺は、そう言った。
「だが、倒れるよりましだ。……鈍った兵は、訓練すれば戻る。倒れた兵は、塩がないと戻らん」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、卓を叩いた。
「――ねえ。そろそろじゃない?」
俺は、その言葉の意味をすぐに理解した。
「……まだだ」
「まだって、いつまでよ」
「向こうが手を出すまでだ」
「出してるでしょ!」
その人は、そう言った。
「塩を止めてるのよ。うちの兵が倒れてるのよ。……これが手を出してることじゃないなら、何なのよ」
俺は、その問いに、すぐには答えられなかった。
「――塩は、止めていない」
「止めてるじゃない」
「向こうは『塩を止める』とは言っていない。……『上の指示がない』と言っているだけだ」
俺は、そう言った。
「もし今こちらが動けば、向こうはこう言う。『我らは塩を止めていない、指示が遅れていただけだ、それを口実に兵を出したのは孫策のほうだ』と」
「……」
「そう言われたら、こちらは返せん。……返せんまま、賊になる」
雪蓮さまは、しばらく俺を睨んでいた。
それから、公瑾どののほうを向いた。
「冥琳。あなたはどう思うの」
公瑾どのは、しばらく答えなかった。
答えてから、こう言った。
「……私は、もう十分だと思うわ」
俺は、その返事に少し驚いた。
「――あんたが、そう言うか」
「言うわ」
この人は、そう言った。
「楚航どのの理屈は正しい。……ですが、正しさには賞味期限があります」
「……賞味期限」
「はい。……今こちらから動けば、確かに口実を与えます。でも、九月まで待って兵の半分が倒れていたら、そもそも動けない」
公瑾どのは、そう言った。
「動けなくなってから正しくても、意味がありません」
俺は、その言葉に、返す言葉を探した。
探して、見つからなかった。
「――二月前に、あんたは俺の条件を飲んだ」
「飲みました」
「飲んでおいて、今それを言うのか」
「言います」
公瑾どのは、はっきりと言った。
「あのときは、こういう手で来ると思っていませんでした。……兵を出してくると思っていたの」
「……」
「兵を出してくれば、はっきりする。でも、塩を止めるというのは、はっきりしないわ」
この人は、そう言った。
「はっきりしない手には、はっきりした答えが出せません」
卓が、静かになった。
「――一つ聞かせてくれ。今動いたとして、勝てるか」
公瑾どのは、少し目を伏せた。
「……勝てません」
「即答だな」
「即答します。……こちらは四千三百。あちらは九千。しかも、こちらは塩不足で動けない者が出始めている」
「では、なぜ動けと言う」
「動けとは言っておりません」
この人は、そう言った。
「『もう十分だ』と申し上げました。……名分は立つ、という意味です」
「名分が立っても、勝てんなら意味がない」
「意味はあります。……名分が立っているうちに、こちらから交渉ができるでしょう」
「――交渉か」
「ええ」
公瑾どのは、そう言った。
「『塩が届いておりません。このままでは兵が飢えます。塩を通していただけないなら、我らは糧の道を自分で確保せねばなりません』と申し入れる」
「……それは、脅しだな」
「脅しです」
この人は、あっさり言った。
「ただし、脅す前に、こちらが困っていることを認めることになります」
「……弱みを見せるのか」
「見せます」
公瑾どのは、そう言った。
「見せたうえで、それでも塩が来なければ、こちらは動く名分を得ます。……向こうは『知らなかった』と言えなくなる」
俺は、その筋道をしばらく考えた。
「――いい手だ。だが、一つ足りん」
「なんでしょう」
「文を出しても、返事が来なかったらどうする」
公瑾どのが、そこで顔を上げた。
「……ああ」
「返事が来なければ、こちらは待つことになる。……待っているあいだも、塩は来ない」
俺は、そう言った。
「向こうは、返事を出さないだけで、こちらを弱らせ続けられる」
「……その通りですね」
「だから、期限を切る」
俺は、そう言った。
「文に日を書く。『何月何日までに塩が届かなければ、我らは自ら糧を確保する』と」
公瑾どのは、その言葉に少し目を細めた。
「……それ、宣戦布告に近いですよ」
「近い。だが、布告ではない」
俺は、そう言った。
「『糧を確保する』としか書かない。確保の仕方は書かない」
この人は、しばらく黙っていた。
それから、少し笑った。
「……あなた、そういう手を思いつくようになりましたね」
「あんたに教わった」
「教えておりません」
「教わった」
俺は、そう言った。
「あんたは前に、『文に兵を貸さぬと書いてある、自前で集めるなとは書いていない』と言った。……あれと同じだ」
公瑾どのは、その言葉に少し呆れた顔をした。
「……覚えていらっしゃるとは」
「覚えている」
「性質が悪いわね」
「よく言われる」
文は、その日のうちに出した。
期限は、八月の末日にした。
七月に入って、倒れる者が増えた。
一日に二人か三人。多い日は五人。
俺は、その全員の名前を書いた。死んではいない。倒れただけだ。だが、書いた。
倒れた日と、戻った日も書いた。
書いていると、わかることがあった。
倒れる者に、偏りがあった。新入りが多い。それから、若い者が多い。
俺は、その理由を蓮華さまに聞いた。
「――なぜだと思う」
この人は、帳面を見て、しばらく考えた。
「……慣れていないからです」
「慣れ、か」
「はい。同じ動きをしても、慣れていない者は無駄が多い。無駄が多いと汗をかきます」
蓮華さまは、そう言った。
「それと、若い者は無理をします。……倒れる前に休めばいいのに、休みません」
「なぜ休まん」
「休むと、恥だと思っているからです」
俺は、その言葉に、少し引っかかった。
「……誰が、それを恥だと言った」
「誰も言っていません」
蓮華さまは、そう言った。
「言っていませんが、みんなそう思っています。……特に、あなたの隊は」
「――俺の隊が、か」
「はい」
この人は、そこで少し言いにくそうにした。
「あなた、休みませんから」
俺は、その一言で黙った。
「あなたが朝から晩まで動いているのを、みんな見ています」
蓮華さまは、そう言った。
「脚が悪いのに、舟に乗って、陣を回って、帳面を書いて。……それを見ていて、自分が休めますか」
「……休め、と言っている」
「言っています。でも、あなたが休んでいません」
この人は、そう言った。
「言葉より、そちらが効きます」
俺は、しばらく答えられなかった。
「……気づかんかった」
「気づかないと思います」
蓮華さまは、そう言った。
「あなたは、自分を数に入れませんから」
八月に入って、塩が足りなくなった。
思春が二度目に出たあとだ。戻るまで、あと二十日ある。
俺は、館の全員を集めて、こう言った。
「――今日から、塩の配り方を変える」
四千三百人の前で、声を張った。
「今まで、全員に同じだけ配っていた。……これをやめる。汗をかく者に多く、かかない者に少なく配る」
ざわめきが起きた。
「訓練に出る者、荷を運ぶ者、川に出る者。これらには倍を配る。書き物、門番、炊事。これらは減らす」
俺は、そう言った。
「文句がある者は、俺のところへ来い。理由を説明する」
その夜、七人が来た。
塩は汗と一緒に出ていく。汗をかかない者は、出ていく量が少ない。だから少なくても足りる。贔屓ではない。体の話だ。
五人は納得した。二人は納得しなかった。
「――納得できません」
そのうちの一人が、そう言った。門番の男だった。四十を過ぎている。
「なぜだ」
「俺は、一日中立っております。……立っているだけでも汗はかきます。夏ですから」
「かくな」
「では、なぜ減らすのですか」
「立っているのと、走るのは違うからだ」
「……どう違うのですか」
俺は、その質問に、すぐには答えられなかった。
「――試そう」
「え?」
「明日、あんたに一日、俺の隣にいてもらう。……そのあいだ、俺とあんたが飲む水の量を数える」
俺は、そう言った。
「水を多く飲む者は、汗を多くかいている。それで測れる」
男は、しばらくぽかんとしていた。
「……それを、やるのですか」
「やる」
「私一人のために」
「あんた一人のためではない」
俺は、そう言った。
「あんたが納得できんということは、他にも納得できん者がいる。……七人来たということは、来ていない者が七十人はいる」
翌日、俺はその男を隣に置いて一日過ごした。
結果を言えば、その男が飲んだ水は、俺の七割だった。
「……七割です」
「七割だ」
「では、七割配ればよいのですか」
「そうなる。……半分ではなかった。俺が間違えていた」
その男は、少し驚いた顔をした。
「……間違いを、認めるのですか」
「認める。測った結果が七割だった。七割配る」
俺は、そう言った。
「それと、他の者も測る。門番だけではない。全部測る」
測るのに、十日かかった。
十日かけて、四千三百人を八つの組に分けた。汗をかく量で分けたので、隊の分け方とは違う形になった。
その表を作ったのは、蓮華さまと穏どのだ。
「……子渡」
「なんだ」
「これ、面白いです」
蓮華さまが、そう言った。
「同じ隊の中でも、飲む水の量が違います。……新入りが多い隊は、塩を多く使います。逆に言えば、塩の使用量で、その隊がどれくらい練れているかがわかります」
俺は、その言葉に、しばらく黙った。
「……それは、思いつかなかった」
「本当ですか」
「本当だ。俺は、配るために測った。……あんたは、測ったものから別のことを読んだ」
俺は、そう言った。
「それは、俺にはできん」
蓮華さまは、そこで少し照れた顔をした。
照れてから、表をめくった。
めくって、手が止まった。
「……子渡」
「なんだ」
「あなたの組は、どこですか」
俺は、その質問に、答えなかった。
「……子渡」
「――八つの組に、俺は入っていない」
「なぜですか」
「俺は、配る側だからだ」
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
それから、静かにこう言った。
「……あなた、飲んでいませんね」
「飲んでいる」
「嘘です」
この人は、そう言った。
「昨日、水を測ったとき、あなたが一番多く飲んでいました。……つまり、一番汗をかいています」
「……」
「なのに、あなたの分は、どこにも書いてありません」
俺は、しばらく答えられなかった。
「――一人分だ」
「一人分でも、一人分です」
「四千三百のうちの一人だ」
「その一人が倒れたら、四千三百が困ります」
蓮華さまは、そう言った。
声が、少し硬かった。
「……子渡。あなた、先月、お姉様に何か約束しましたね」
俺は、その言葉に、顔を上げた。
「――なぜ、それを」
「お姉様が言っていました」
この人は、そう言った。
「『灘に、倒れる前に言うって約束させたわ』と。……嬉しそうに言っていました」
「……」
「約束したんですね」
「した」
「では、今、言ってください」
俺は、しばらく黙っていた。
黙ってから、正直に言った。
「――少し、ふらつく」
「いつからですか」
「五日前からだ」
「五日」
蓮華さまは、そう言った。
「五日、黙っていたんですね」
「黙っていた」
「約束は」
「――破った」
俺は、そう言った。
言ってから、自分でも少し情けなくなった。
「……すまん」
「私に謝らないでください」
蓮華さまは、そう言った。
「お姉様に謝ってください」
「……そうだな」
「それと。今すぐ、塩を飲んでください」
俺が実際に倒れたのは、その二日後だった。
場所が悪かった。桟橋だった。
舟から降りて、五歩ほど歩いたところで、視界が白くなった。
白くなって、そのまま膝が落ちた。
落ちてから、板に手をついた。手をついたが、腕に力が入らなかった。
周りで、声が上がった。
俺は、その音を聞きながら、まずいと思った。
倒れたことがまずいのではない。
――見られたのがまずい。
桟橋には、俺の隊の者が三十人ほどいた。
その三十人が、全員こちらを見ていた。
「――隊長!」
「触るな」
俺は、そう言った。
言ったつもりだったが、声が出ていなかったらしい。
抱え起こされた。
「隊長、聞こえますか!」
「……聞こえる」
「医者を呼びます!」
「呼ばんでいい。塩と水をくれ」
俺は、そう言った。
「……それで戻る。半日で戻る」
「半日って、そんな」
「戻る」
俺は、そう言った。
「俺は、これを二百人分見てきた。……全員、半日で戻った」
実際には、半日では戻らなかった。
二日かかった。
二日目の朝、寝床の脇に人が並んでいた。
穏どのがいた。明命がいた。小蓮さまがいた。
三人とも、顔色が悪かった。
「……何をしている」
「起きられましたか!」
明命が、飛び上がるように言った。
「起きた。……あんたたち、いつからそこにいる」
「一昨日からです」
「――二日か」
「二日です」
「寝たか」
「寝ておりません」
「寝ろ」
俺は、そう言った。
「……俺のために二日起きているのは、無駄だ」
「無駄ではありません」
穏どのが、そう言った。
この娘が、こんなにはっきり言うのを、俺は初めて聞いた。
「……無駄ではありません」
「なぜだ」
「……わかりません」
穏どのは、そう言った。
「わかりませんが、無駄ではありません」
俺は、その返事に、少し詰まった。
「……理屈になっていないぞ」
「なっていません」
この娘は、そう言った。
「私は、理屈を並べるのが仕事です。……ですが、今は並べられません」
「……」
「並べられないので、ここにいます」
俺は、しばらく黙っていた。
黙ってから、小蓮さまのほうを見た。
この子は、何も言わずに座っていた。俺が見ても、目を合わせなかった。
「……小蓮さま」
「……」
「怒っているのか」
「怒ってない」
この子は、そう言った。
「……嘘だな」
「嘘じゃない」
「では、なぜ目を合わせん」
小蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……そこうが倒れるとこ、見てないから」
「――見ていない?」
「うん」
この子は、そう言った。
「わたし、そこうが転ぶのは、三月見たよ。夜中に、庭で」
「……見ていたな」
「うん。でも、あれは転んでるだけだった」
小蓮さまは、そう言った。
「起きてくるって、わかってたもん。……でも、今度は、起きてこないかもって思った」
俺は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。
「……わたし、それが嫌だった。だから、目を合わせない」
俺は、しばらく黙っていた。
黙ってから、こう言った。
「――小蓮さま」
「なに」
「悪かった」
小蓮さまは、そこで初めてこちらを見た。
目が赤かった。
「……あやまるの?」
「謝る」
俺は、そう言った。
「俺は、自分の分の塩を配っていた。……四千三百のうちの一人だと思っていた」
「……」
「そう思っていたのは、俺だけだったらしい」
小蓮さまは、しばらく俺を見ていた。
それから、鼻をすすった。
「……そうだよ」
「そうか」
「そうだよ!」
この子は、そう言った。
「そこうが一人分だと思ってても、こっちは一人分だと思ってないもん!」
その日の昼に、雪蓮さまが来た。
入ってくるなり、俺の顔を見て、こう言った。
「――約束、破ったわね」
「破った」
「五日ですって?」
「五日だ」
「……最低ね」
「最低だ」
俺は、そう言った。
「言い訳はせん。……破った」
雪蓮さまは、寝床の脇に座った。
座って、しばらく何も言わなかった。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「私、怒ってるのよ」
「わかっている」
「わかってないわ」
その人は、そう言った。
「私が怒ってるのは、あなたが倒れたからじゃないの」
「――では、なんだ」
「あなたが、自分を数に入れなかったから」
雪蓮さまは、そう言った。
「私、言ったでしょ。あなたが数えられないものは、私が数えるって」
「……言われた」
「言ったのに、あなた、私に数えさせなかった」
その人は、そう言った。
「自分で隠したのよ。……それは、私が数える邪魔をしたってことでしょ」
俺は、その言い方に、しばらく黙っていた。
「……その通りだ」
「でしょ」
「すまん」
「謝らなくていいわ」
雪蓮さまは、そう言った。
「かわりに、これから毎日、私に言いなさい」
「――毎日か」
「毎日よ。今日は具合がどうか、水をどれだけ飲んだか、塩を飲んだか。……全部言って」
「……面倒だな」
「面倒よ」
その人は、あっさり言った。
「でも、あなたが四千三百人分やってることを、私は一人分やるだけよ。……楽なもんでしょ」
俺は、その言い方に、少し笑った。
笑って、それが少し響いた。まだ体が戻っていない。
「……わかった」
「約束よ」
「約束する」
俺は、そう言った。
「これなら守れる」
思春が戻ってきたのは、五十日目だった。
塩を倍積んでいた。
そして、五十人のうち四十七人しか帰ってこなかった。
「――三人か」
「三人です」
思春は、そう言った。
日に焼けて、頬が痩けていた。
「別の一党と揉めました。……話はつきましたが、その前に三人斬られました」
「……名は」
「覚えています。三人とも、覚えています」
「では、書け」
俺は、帳面と筆を差し出した。
思春は、それを受け取って、その場で書いた。相変わらず、下手な字だった。
書き終わって、こう言った。
「……隊長」
「なんだ」
「顔色が悪いですね」
俺は、その一言で、少し身構えた。
「……見てわかるか」
「わかります。……倒れられたと聞きました」
思春は、そう言った。
「河口へ発つ前に、私は隊長に申し上げました。『私が倒れたら名前を書いてください』と」
「言われた」
「隊長は『書く』と即答されました。……ですが、逆は考えていませんでした」
この娘は、そう言った。
「隊長が倒れたら、誰が隊長の名前を書くのですか」
俺は、その質問に、しばらく答えられなかった。
答えられないまま、こう言った。
「――帳面に、書いてある」
「え?」
「俺の名は、もう書いてある。……三年前だ。あんたに言われて書いた」
思春は、しばらく黙っていた。
「……覚えておられましたか」
「覚えている。……あんたが『その帳面には、貴様の名も書いてあるのか』と聞いた。俺が『書いていない』と答えたら、『書け』と言われた」
「言いました」
「だから書いた。……あれから三年、そこに俺の名前がある」
思春は、しばらく何も言わなかった。
それから、こう言った。
「……真名は」
「書いていない」
「なぜですか」
「わからん」
俺は、正直に言った。
「書こうとして、書けなかった。……理由は、自分でもわからん」
思春は、その返事を、しばらく考えていた。
「……では、いつか書いてください」
「――いつかか」
「いつかです」
この娘は、そう言った。
「急ぎません。……ですが、書かないまま終わるのは、たぶん、隊長らしくありません」
俺は、その言い方に、少し笑った。
「……手厳しいな」
「事実です」
八月の末日が来た。
塩は、届かなかった。
返事も、来なかった。
その日の夕方、テラスに全員が集まった。
卓の上には、何も置かれていなかった。置くべき文が来なかったからだ。
「――期限です」
公瑾どのが、そう言った。
「期限だ」
「返事はありません。塩も届いておりません」
「ない」
俺は、そう言った。
「……これで、名分は立つか」
「立ちます」
公瑾どのは、はっきりと言った。
「こちらは文を出した。期限を書いた。返事はなかった。……これだけ揃えば、誰に聞かれても説明できます」
俺は、頷いた。
頷いてから、卓を見回した。
この四月で、倒れた者が二百人を超えた。
そのうちの一人が、俺だった。
「――一つ、言っておく」
俺は、そう言った。
「四月、待たせた。……その分、二百人が倒れた。決めたのは俺だ」
「若いの」
祭どのが、そこで口を挟んだ。
「前にも言うたが、それは違うぞ」
「わかっている」
「わかっとらんから言うとる」
この人は、そう言った。
「あんたが決めたのは、先に手を出さんことじゃ。……殴ると決めたのは、向こうじゃ」
「……理屈ではそうだ」
「理屈のほうも忘れるな」
祭どのは、そう言った。
「忘れると、潰れる。……あんたは、もう一度潰れかけたじゃろうが」
俺は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。
持たないまま、頷いた。
「――覚えておく」
「そうせい」
雪蓮さまが、卓に肘をついた。
「……ねえ。これで、動けるのね」
「動ける」
「やっとね」
「やっとだ」
その人は、そう言った。
「……悔しくないの?」
「悔しい」
俺は、即答した。
「即答ね」
「即答した」
俺は、そう言った。
「四月で二百人が倒れた。死んだ者はいないが、二百人だ。……全員の名前を書いた。戻らなかった者はいない。それだけが救いだ」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……ねえ。あなたが待つって言ったの、正しかったと思う?」
俺は、その質問に、少し考えた。
考えて、正直に答えた。
「――わからん」
「わからないの?」
「わからん」
俺は、そう言った。
「二百人倒れた。二月前に動いていたら、この二百人は倒れなかった。……だが、そのかわり、うちは賊になっていた」
「……」
「どちらが良かったかは、たぶん、十年経たないとわからん」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……じゃあ、十年後に聞くわ」
「――聞くか」
「聞くわよ」
その人は、そう言った。
「十年後、江東で、あなたに聞くの。……『あのとき待って、正しかった?』って」
俺は、その言葉に、少し笑った。
「……覚えていられるか」
「覚えてるわよ」
「十年だぞ」
「十年でも覚えてる」
雪蓮さまは、そう言った。
「それと」
「なんだ」
「十年後も生きてなさいよ。……聞く相手がいないと、困るじゃない」
俺は、その言い方に、返す言葉を探した。
探して、こう言った。
「――善処する」
「また善処?」
「善処だ」
俺は、そう言った。
「約束はせん。……だが、毎日報告する。それは約束した」
「そうね」
「守る」
「守りなさいよ」
雪蓮さまは、そう言って、少し笑った。
翌朝、俺は舟を出した。
六艘全部だ。
四月ぶりに、こちらから動いた。