長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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草鞋

九月に入って、川の色が変わった。

 

 夏のあいだ濁っていた水が、上から順に澄んでくる。上流の雨が減って、泥が流れ込まなくなるからだ。澄むと流れが緩む。緩むと、舟が出しやすくなる。

 

 塩を取りに行くには、いい季節だった。

 

 俺は、期限の切れた翌朝から、六艘を毎日出した。

 

 やることは単純だった。中継地まで下って、こちらで積んで、こちらで運ぶ。倉番の男は止めなかった。止める理由が、あの男の側にもなかったからだ。上の指示がないので動かせない、と言われたので、こちらが動かす。それだけの話だった。

 

 三度目に行ったとき、その男が桟橋まで見送りに出てきた。

 

 何か言いたそうにしていたので、待った。この男は言葉を選ぶのに時間がかかる。

 

「……あの、私は、止めておりません」

 

「知っている」

 

「上に、そう報告いたします。止めたが押し切られた、と」

 

「そう書け」

 

 俺は、そう言った。

 

「そのほうが、あんたの首が繋がる。……こちらは押し切ったことにしてくれて構わん」

 

 男は、少し情けない顔をした。それから、俵を一つ余分に舟へ乗せた。値は取らなかった。

 

 俺は、それについては何も言わなかった。言うと、この男が困る。

 

 塩が入り始めると、館の空気が目に見えて変わった。

 

 倒れる者が減った。三日で、一日に一人か二人になった。十日で、ほとんど出なくなった。

 

 訓練を戻したのは、その十日目だ。

 

 朝、桟橋から陣のほうを見ていると、走る音が戻ってきていた。夏のあいだ、あの音が消えていた。消えていたことに、俺は音が戻ってから気づいた。

 

 人が走る音は、思っているより大きい。

 

 その日、俺は蓮華さまに水の帳面を返した。

 

 この人が三日かけて作った、八つの組の表だ。組ごとに配る量を書き直して、余った分をどう回すかまで決めてあった。

 

 返しながら、俺は一つだけ書き足してあることに気づいた。

 

 九つ目の組が、作ってあった。

 

 人が一人しか入っていない。

 

 俺の名前だった。

 

「……これは」

 

「作りました」

 

 蓮華さまは、俺の顔を見ずにそう言った。帳面を受け取って、膝の上で開いて、その頁を指で押さえた。

 

「一人で一つの組です。八つに入れると、あなたは自分の組の分を配ってしまいますから。……別にしました。この組の分は、私が持ちます」

 

「あんたが持つのか」

 

「私が持って、毎日あなたに渡します」

 

 この人は、そこで初めて顔を上げた。

 

「渡したら、目の前で飲んでください。……飲むまで見ています」

 

 言い方が淡々としていたので、かえって断りにくかった。

 

 俺は、わかった、と言った。言ってから、少し情けなくなった。三十六の男が、二十の娘に塩を数えられている。

 

 だが、そう思ったこと自体が、たぶんよくなかった。

 

 情けないと思っているうちは、また同じことをやる。

 

 塩の道が戻って、館が落ち着いて、その十日ほどのあいだ、俺たちは久しぶりに戦の話をしていなかった。

 

 だから、蓮華さまが草鞋を編んでいるのを見たとき、俺は少し驚いた。

 

 テラスの隅で、この人が一人で藁を捻っていた。

 

 夕方だった。日が傾いて、川面が赤くなり始めていた。

 

 編み方が、ひどかった。

 

 目が揃っていない。締めが甘い。緒の通し方が逆になっている。片方は形になっているが、もう片方は途中で歪んで、爪先の側が細くなっていた。

 

 俺が黙って見ていると、この人は気づいて、慌てて隠そうとした。

 

「……見ないでください」

 

「もう見た」

 

「見なかったことにしてください」

 

「それは無理だ」

 

 俺は、そう言って、隣に腰を下ろした。座るのに、少し時間がかかる。左脚を先に投げ出さないと座れない。

 

 蓮華さまは、しばらく編みかけの片方を膝に置いたままでいた。それから、諦めたように差し出した。

 

「……三日で切れる、と言われました」

 

「誰にだ」

 

「祭どのに。……昨日、通りかかって、笑われました」

 

「三日は保つな」

 

 俺は、その草鞋を手に取って、緒を引いてみた。緒がすぐ緩んだ。

 

「二日だ」

 

「もっと悪いじゃないですか」

 

「悪い」

 

 俺は、そう言って、緒を全部抜いた。

 

 この人が何か言う前に、藁を捻り直し始めた。

 

 草鞋は、締めが全部だ。編み目を詰めても、緒が緩ければ意味がない。歩いているうちに足が中で泳いで、泳いだところから擦り切れる。

 

 俺は、緒を三重に通し直して、踵の側で結び目を内側へ入れた。

 

 外に出しておくと、地面に擦れて先に切れる。

 

 やっていると、蓮華さまが横で覗き込んできた。近い。

 

「……あなた、こんなこともできるんですか」

 

「川の男は、たいてい自分で直す」

 

 俺は、手を止めずに言った。

 

「舟に乗っていると、履物がすぐ駄目になる。濡れて、乾いて、また濡れる。……買っていたら足りん。だから直す。直しているうちに、作れるようになる」

 

「繕い物は下手だったのに」

 

「針は駄目だ。……縄と藁は別だ。手の使い方が違う」

 

 俺は、そう言った。

 

「祭どのに、前にそう言われた。あの人の言うことは、たいてい合っている」

 

 編み直すのに、半刻ほどかかった。

 

 その半刻、蓮華さまは何も言わずに横に座っていた。

 

 途中で一度だけ、日が落ちて手元が暗くなった。この人は立ち上がって灯りを持ってきて、俺の手元に置いた。置いてから、また座った。

 

 俺は、それについても何も言わなかった。

 

 編み終わって渡すと、この人は両手で受け取って、しばらく見ていた。

 

「……揃っています」

 

「揃えた」

 

「私が編んだところは」

 

「そのまま使った。……端のほうは、悪くない」

 

 俺は、そう言った。

 

「最初の五段は、あんたが編んだところだ。あそこは目が揃っている。……途中から急いだだろう」

 

 蓮華さまは、そこで少し目を見開いた。

 

「……わかるんですか」

 

「わかる。急ぐと、目が粗くなる。……粗いところから駄目になる」

 

 この人は、草鞋をもう一度見て、それから膝の上に置いた。

 

「……なぜ、編んでいたんですか」

 

 俺がそう聞くと、しばらく答えなかった。

 

 答えないまま、川のほうを見た。

 

「……村へ行くときのためです」

 

「村」

 

「三十村です」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「秋になったら、預けた米を確かめに行くことになっています。……去年もそうしました。今年も行きます」

 

「そうだったな」

 

「去年は、馬を使いました。でも、村の中は歩きます。……歩くと、履物が駄目になります」

 

 この人は、そう言った。

 

「去年、途中で切れました。……村の年寄りが、代わりのをくれました。ありがたかったんですけど、そのぶん、こちらが借りを作りました」

 

 俺は、その言い方に、少し感心した。

 

 借りを作った、という言い方をする者は多くない。草鞋一足だ。ふつうは忘れる。

 

「だから、今年は自分で編もうと思ったんです」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「借りを作らずに行きたかったので」

 

 村を回る支度が整ったのは、その三日後だった。

 

 行くのは蓮華さまと、俺と、思春が率いる五十。それに、明命が斥候として先に出る。

 

 道順は去年と同じにした。下流から順に上って、最後に一番奥の村へ行く。

 

 その一番奥の村が、去年、蓮華さまが最初に話をつけた村だった。

 

 三村目で断られ続けて、そこで初めて通った。年寄りが帳面の数字に驚いて、あんた村に来たことがあるのかと聞いた、あの村だ。

 

 俺は、その村の名を帳面で確かめた。確かめてから、順番を変えようかと少し考えた。

 

 一番奥は、館から遠い。何かあっても、すぐには戻れない。

 

 だが、去年と同じにしたほうが、村の側が落ち着く。

 

 結局、変えなかった。

 

 変えなかったことを、俺は今でも考える。

 

 出立の朝、蓮華さまは新しい草鞋を履いていた。

 

 俺が編み直した片方と、この人が編んだ片方。左右で目の詰まり方が違うのだが、履いてしまえばわからない。

 

 馬に乗る前に、この人は足元を見て、少し満足そうな顔をした。

 

 その顔を見たのは、その朝が最後だった。

 

 ――正確には、その顔をした人を見たのが、最後だった。

 

 四日目までは、何もなかった。

 

 村を五つ回った。どこも、預けた米はきちんと残っていた。減っている村もあったが、減った分は帳面に書いてあった。誰が、いつ、どれだけ食ったかまで書いてある村もあった。

 

 その帳面を見て、蓮華さまが妙に嬉しそうな顔をした。

 

「……書いてあります」

 

「書いてあるな」

 

「去年、書き方を教えました。……覚えていてくれました」

 

 この人は、そう言って、村の年寄りに丁寧に頭を下げた。

 

 年寄りのほうが、かえって恐縮していた。

 

 五日目の朝に、明命が戻ってきた。

 

 斥候に出したのは形式のようなもので、この辺りに敵はいない。前の村から次の村までの道を確かめて、橋が落ちていないかを見てくるだけだ。

 

 だから、この娘が息を切らして戻ってきたとき、俺は最初、意味がわからなかった。

 

 馬から降りるのももどかしそうに、走ってきた。

 

 顔が白かった。

 

「――煙です」

 

 その一言で、俺は立ち上がっていた。

 

「どこだ」

 

「北です。……北の、一番奥の」

 

 明命は、そこで一度息を吸った。吸って、吐いて、それから言った。

 

「炊事の煙ではありません。……三筋、上がっています」

 

 俺は、その言葉の意味を、体で理解した。

 

 炊事の煙は細い。真っ直ぐ上がって、途中で散る。三筋まとまって上がるのは、家が焼けているときだ。

 

 俺は、走った。

 

 走ろうとして、三歩で転んだ。

 

 左脚が、地面を蹴れなかった。蹴ったつもりで、踏み外した。

 

 村の道は土が固くて、掌をついたところが擦れた。

 

 立ち上がる前に、思春が横から腕を掴んで引き起こした。

 

「――隊長。馬に」

 

「乗れん」

 

「わかっております。荷馬に乗ってください。私が引きます」

 

 この娘は、そう言うなり、俺を荷馬の背に押し上げた。

 

 乗れないのではない。降りるときに落ちる。だが、今はそれを言っている場合ではなかった。

 

 北の村までは、七里あった。

 

 馬で半刻。

 

 その半刻が、長かった。

 

 荷馬の背は揺れる。揺れるたびに、掌の擦り傷が鞍を擦った。痛みは大したことがなかったが、その痛みだけが、やけにはっきりしていた。

 

 俺は、その半刻のあいだに、いくつものことを考えた。

 

 三筋の煙。家が三軒。あの村は四十七戸ある。三軒なら、まだ全部ではない。

 

 風は北西から来ている。火は南東へ流れる。村の南東には田がある。田は今、稲が立っている。刈り入れ前だ。

 

 ――田に火が回ったら、村は今年を越せない。

 

 考えながら、俺は同時に、別のことも考えていた。

 

 考えたくないことだった。

 

 岘山で、俺は舟を出した。支流を遡って、山の西の麓まで行った。あのとき、俺は自分の判断が正しいと思っていた。実際、正しかった。あれより速い道はなかった。

 

 それでも、間に合わなかった。

 

 速い道を選ぶことと、間に合うことは、別だ。

 

 俺は、それを一度学んだはずだった。

 

 村に着いたのは、日が高くなってからだった。

 

 煙は、もう三筋ではなかった。

 

 九つ、あるいはそれ以上。数えるのをやめた。

 

 村の入り口に、人が固まっていた。

 

 三十人ほど。ほとんどが女と子供と年寄りだった。荷を抱えている者もいれば、何も持っていない者もいた。

 

 その向こうで、家が焼けていた。

 

 俺は、荷馬から降りた。降りるときに、やはり落ちた。膝から落ちて、そのまま前へつんのめった。

 

 誰も、笑わなかった。

 

 笑うどころではなかったのだと、あとで思った。

 

 立ち上がって、俺は真っ先に村の南東を見た。

 

 田は、無事だった。

 

 風が北西から来ていたのに、田には火が回っていない。誰かが、水を入れていた。

 

 刈り入れ前の田に水を入れると、稲が倒れる。倒れた稲は刈りにくい。それでも、水を入れた者がいた。

 

 俺は、その水路の口を見た。

 

 板が抜いてある。抜いた板が、脇に転がっていた。

 

 俺は、そこでようやく人のほうを見た。

 

 人の数を、数えた。

 

 三十四人。

 

 四十七戸の村だ。人は二百十一人いた。去年、蓮華さまが帳面の数字を読み上げて、年寄りが目を丸くした、その数だ。

 

 三十四人しかいなかった。

 

「――残りは」

 

 俺が聞くと、誰も答えなかった。

 

 答えられる者がいなかったのだ。

 

 やっと口を開いたのは、一人の女だった。子供を二人抱えていた。

 

「……山へ、逃げました」

 

「何人だ」

 

「わかりません。……ばらばらに逃げたので」

 

 女は、そう言った。声が震えていた。

 

「兵が来て、いきなり火をかけたんです。……何も言わずに。米を出せとも言わずに、いきなり」

 

 俺は、その言葉を、しばらく飲み込めなかった。

 

 米を出せと言わなかった。

 

 つまり、米が目当てではなかったということだ。

 

 俺たちが預けた九千三百石のうち、この村には三百石ある。それを取りに来たのなら、まず出せと言う。出さなければ探す。探して、それから焼く。

 

 いきなり焼いたということは、焼くこと自体が目的だった。

 

「……年寄りは」

 

 俺は、そう聞いた。

 

 去年、話をつけた年寄りのことだ。

 

 女は、答えなかった。

 

 答えないかわりに、村の奥のほうを見た。

 

 俺は、そちらへ歩いた。

 

 左脚を引きずりながら歩いたので、遅かった。誰かが手を貸そうとしたが、断った。

 

 断ったのは、意地ではない。手を貸されると、着くのが早くなる。

 

 早く着きたくなかったのだと、あとで気づいた。

 

 年寄りは、家の前で倒れていた。

 

 家は焼けていた。年寄りは、その入り口のところで、うつ伏せになっていた。

 

 背中を斬られていた。

 

 逃げようとしたのではない。向きが逆だった。家のほうを向いていた。

 

 中に、何か取りに戻ろうとしたのだと思う。

 

 俺は、その脇に膝をついた。片膝しか、つけなかった。

 

 顔を確かめた。去年、帳面の数字に驚いた年寄りだった。あんた村に来たことがあるのかと聞いた、あの人だ。

 

 名前を、俺は知っていた。

 

 帳面に書いてある。去年、この村で話をつけたときに聞いて、書いた。

 

 俺は、その名前を口の中で言ってみた。

 

 言ってみて、それ以上、何も出てこなかった。

 

 背後で、足音がした。

 

 振り返らなくても、誰かはわかった。歩き方が、少し速い。

 

 蓮華さまだった。

 

 この人は、俺の横まで来て、そこで止まった。

 

 止まって、しばらく動かなかった。

 

 俺は、何か言わなければならなかった。

 

 言うべき言葉を探した。探して、見つからなかった。

 

 結局、出てきたのは、これだった。

 

「――間に合わなかった」

 

 言ってから、俺は自分の口を殴りたくなった。

 

 同じことを、俺は十年前に言った。

 

 岘山の道の上で、母親のそばに膝をついたこの人の姉に、同じ言葉を言った。

 

 あのとき、返ってきたのは「そう」の一言だった。

 

 今度は、違った。

 

 蓮華さまは、しばらく黙っていた。

 

 黙ってから、俺の隣に膝をついた。

 

 この人は、年寄りの顔を見て、それから背中の傷を見た。見てから、静かにこう言った。

 

「……この方の名前は」

 

 俺は、その名前を言った。

 

 蓮華さまは、それを聞いて、頷いた。

 

「知っています。書いてありますから」

 

 この人は、そう言った。

 

「去年、あなたが書いたのを、私が写しました。……村の名前と、戸数と、話をつけた相手の名前」

 

「……そうだったな」

 

「四十七戸、二百十一人。……この方が、去年そう聞いて驚いていました」

 

 蓮華さまは、そう言って、そこで初めて声が揺れた。

 

 揺れたが、続けた。

 

「今、何人ですか」

 

「――三十四人だ」

 

「山へ逃げた方は」

 

「わからん。数えられていない」

 

「では、数えます」

 

 この人は、そう言った。

 

 言ってから、立ち上がった。

 

 立ち上がるときに、袖で顔を拭った。拭ってから、俺のほうを見ずに歩き出した。

 

 俺は、その背中に声をかけようとして、やめた。

 

 かけるべき言葉が、まだ見つかっていなかった。

 

 その日から三日、俺たちはその村にいた。

 

 やったことは、たいしたことではない。

 

 山へ逃げた者を集めた。集めるのに、明命と思春の隊が山を歩いた。二日かかった。

 

 集まったのは、百六十二人だった。

 

 二百十一人のうち、百六十二人。

 

 三十四人が村に残っていたので、合わせて百九十六人。

 

 十五人が、戻らなかった。

 

 そのうち七人は、村の中で見つかった。年寄りと、逃げ遅れた子供と、その子供を連れ戻しに行った者だった。

 

 八人は、見つからなかった。

 

 山で迷ったのか、川へ落ちたのか、それとも連れて行かれたのか。誰にもわからなかった。

 

 蓮華さまは、その全員の名前を書いた。

 

 村の者に聞いて回って、書いた。

 

 書きながら、この人は一度も泣かなかった。

 

 泣かなかったのは、たぶん、泣くと書けなくなるからだ。

 

 三日目の夜、俺はその帳面を見せてもらった。

 

 十五人の名前が並んでいた。

 

 七人には、死んだ場所が書いてある。

 

 八人には、何も書いていない。

 

 名前の下が、空いていた。

 

「――ここは」

 

「わかりませんでしたので」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「わからないことを、わかったように書くのは嫌でした。……ですから、空けました」

 

「……空けるのは、いい」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、空けたままにするな」

 

「――どういう意味ですか」

 

「空白は、そのうち忘れられる」

 

 俺は、そう言った。

 

「十年経って誰かがこれを見たとき、この八人は『書き忘れた者』に見える。……そうではないと、わかるようにしておけ」

 

 この人は、しばらくその頁を見ていた。

 

 それから、筆を取って、八人の名前の下に一行ずつ書いた。

 

 ――行方知れず。九月十九日、この村にて。

 

 書き終わってから、俺のほうを見た。

 

「……これでいいですか」

 

「いい」

 

 俺は、そう言った。

 

「これなら、十年後に読んだ者にもわかる」

 

 蓮華さまは、帳面を閉じた。

 

 閉じてから、しばらく膝の上に置いたままでいた。

 

 俺は、その横で、焼け跡のほうを見ていた。

 

 三日経って、煙はもう上がっていない。だが、匂いが残っていた。焼けた木と、焼けた土の匂いは、雨が降るまで消えない。

 

「……子渡」

 

「なんだ」

 

「あなた、さっき、間に合わなかったと言いましたね」

 

 俺は、その言葉に、身構えた。

 

「言った」

 

「お姉様にも、同じことを言ったそうですね」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「十年前です。……お姉様が、いつだったか話してくれました。あの人、あのとき『そう』としか言えなかったのを、ずっと悔やんでいます」

 

「……」

 

「私は、悔やまないことにします」

 

 この人は、そう言った。

 

「ですから、今言います」

 

 蓮華さまは、そこで俺のほうへ向き直った。

 

 目が赤かった。三日、泣かずにいた目だった。

 

「あなたは、間に合いませんでした。……それは、事実です」

 

「そうだ」

 

「ですが、あなたが遅れたわけではありません」

 

 この人は、そう言った。

 

「あなたは、煙が上がったと聞いて、すぐ走りました。走って転んで、荷馬に乗って、七里を半刻で来ました。……あれより速い来方は、ありません」

 

「……」

 

「速く来ることと、間に合うことは、別です」

 

 俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。

 

 同じことを、俺は馬の上で考えていた。

 

 考えていたことを、この人に言われた。

 

「……それは、俺が言うべき言葉だ」

 

「あなたは言いません」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「あなたは、自分に対しては言いません。……ですから、私が言います」

 

 この人は、そう言って、帳面をもう一度開いた。

 

「それと、もう一つあります」

 

「なんだ」

 

「田です」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「田に、火が回っていません。……誰かが水を入れました」

 

「入れていたな」

 

「刈り入れ前です。水を入れれば稲が倒れます。倒れた稲は、刈るのに倍の手間がかかります。……それでも、入れた人がいます」

 

 この人は、そう言った。

 

「なぜだと思いますか」

 

 俺は、その質問に、少し考えた。

 

「――来年のためだ」

 

「はい」

 

「田が焼けたら、来年植えられん。……今年の稲が倒れても、田さえ残れば来年は作れる」

 

「そうです」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「その人は、家が焼けているときに、来年のことを考えました」

 

 この人は、そこで少し声を落とした。

 

「……去年、あなたが言いました。三年待つと。租を三年取らないと。あれは、南の黄巾の話でしたけど」

 

「言った」

 

「あのとき、あなたはこう言いました。田を耕している者には、来年の秋の話が通る、と」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「……この村の人は、今年、それをやりました。家が焼けているときに、来年の田を守りました」

 

 俺は、その言葉を聞いて、しばらく何も言えなかった。

 

 言えないまま、田のほうを見た。

 

 稲は、半分ほど倒れていた。倒れたまま、水に浸かっている。刈るのは、確かに手間だろう。

 

 だが、田は残っている。

 

「……誰が入れた」

 

「わかりません」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「聞いて回りましたが、誰も名乗りません。……たぶん、当たり前のことをしたと思っているのだと思います」

 

「……」

 

「ですから、それも書きました」

 

 この人は、帳面をめくって、別の頁を見せた。

 

 そこには、こう書いてあった。

 

 ――九月十九日、火の際、何者かが水路の板を抜き、田に水を入れる。名を知らず。

 

 俺は、その一行をしばらく見ていた。

 

 見てから、こう言った。

 

「……上手いな」

 

「上手いですか」

 

「上手い」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺なら、書かなかった。……死んだ者と、行方知れずの者は書く。だが、田に水を入れた者は書かん」

 

「なぜですか」

 

「死んでいないからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は、死んだ者と、いなくなった者を書いてきた。……生きている者は、名前を聞けばいい。聞けば書ける」

 

「でも、この人は名乗りません」

 

「名乗らんな」

 

「では、書けません。……名乗らない人は、書かないと消えます」

 

 蓮華さまは、そう言った。

 

「私は、それが嫌でした」

 

 俺は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。

 

 持たないまま、こう言った。

 

「――俺は、二十年やってきて、それを思いつかなかった」

 

「そうですか」

 

「そうだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたのほうが、先へ行っている」

 

 蓮華さまは、そこで少しだけ表情を変えた。

 

 照れたのではない。もっと複雑な顔だった。

 

「……そういうことを、今言わないでください」

 

「なぜだ」

 

「今言われると、泣きます」

 

 この人は、そう言った。

 

「三日、泣かずにいたので。……もう少し、持たせてください」

 

 館へ戻ったのは、その二日後だった。

 

 テラスに全員が集まった。

 

 俺は、村で見たことをそのまま話した。三筋の煙。米を出せと言わなかったこと。年寄りの背中の傷。田に水を入れた者。二百十一人のうち、百九十六人が戻り、十五人が戻らなかったこと。

 

 話し終わると、しばらく誰も口を利かなかった。

 

 最初に喋ったのは、祭どのだった。

 

 この人は、瓢箪を握ったまま、一度も飲まずに聞いていた。

 

「……米を出せと言わんかったか」

 

「言わなかった」

 

「では、それは焼くための火じゃな」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「取るための火ではない。……見せるための火じゃ」

 

「誰に見せる」

 

「わしらにじゃ」

 

 この人は、そう言った。

 

「あんたらが預けた米は、こうやって焼けるぞ、と。……次はどの村じゃろうな、と思わせるための火じゃ」

 

 俺は、その言い方に、腹の底が冷えるのを感じた。

 

 三十村ある。

 

 どの村が次かはわからない。わからないから、こちらは三十村を守らねばならない。三十村を守るには、兵を三十に分けることになる。

 

 分けたところを、まとめて叩かれる。

 

「……上手いな」

 

「上手いとも」

 

 祭どのは、そう言った。

 

「じゃがな、若いの。上手すぎる」

 

「――どういう意味だ」

 

「あの姫さんに、ここまでの手が打てるか」

 

 この人は、そう言った。

 

「わしは何度か会うとる。……あの子は、そういう頭の使い方をせん。あれは、思いついたことを言うだけじゃ」

 

 俺は、その言葉に、少し考えた。

 

 考えて、公瑾どののほうを見た。

 

 この人は、さっきから一度も口を開いていなかった。

 

 卓に肘をついて、指で湯呑みを回している。

 

「――冥琳」

 

 雪蓮さまが、そう呼んだ。

 

「あなた、さっきから黙ってるわね」

 

「考えているの」

 

 公瑾どのは、湯呑みを回しながら言った。

 

「……祭どのの仰る通りよ。あの方の手ではないわ。あれは、七乃どのの手」

 

 この人は、そう言った。

 

「あの方は、こちらが困る形を正確に知っている。塩のときもそうだった。……今度は、三十村ね」

 

「防げるの?」

 

「防げないわ」

 

 公瑾どのは、即答した。

 

「三十村を守るには、三十に分けるしかない。分けたら潰される。……分けなければ、村が焼ける」

 

 この人は、そう言って、湯呑みを置いた。

 

「防げないから、防ぎません」

 

 卓が、静かになった。

 

 俺は、その言葉の意味を理解した。

 

 理解して、こう言った。

 

「――攻めるか」

 

「攻めます」

 

 公瑾どのは、はっきりと言った。

 

「今月です。九月のうちに」

 

「九月なら、あちらの兵は三千を切る」

 

「切ります。稲刈りですから」

 

 この人は、そう言った。

 

「あちらは、村を焼いてこちらを引きずり回すつもりでしょう。……三十村を守らせて、こちらを疲れさせて、冬まで持たせる。冬になれば、兵は戻ります」

 

「……つまり、冬を待たせない」

 

「待たせません」

 

 公瑾どのは、そう言った。

 

「稲刈りが終わる前に、寿春を取ります」

 

 その夜、俺はテラスに残った。

 

 全員が去ったあと、川を見ていた。

 

 九月の川は、夏より静かだ。流れが緩んで、音が変わる。夏のあいだ、水は絶えず何かを削る音を立てているが、秋になると、その音が止む。

 

 足音がして、雪蓮さまが上がってきた。

 

 この人は、何も言わずに隣に座った。

 

 座って、しばらく黙っていた。

 

 黙ったまま、俺の顔を横から見ていた。

 

「……何だ」

 

「見てるのよ」

 

「何を」

 

「顔色」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「毎日言うって約束したでしょ。……村へ行ってた八日分、聞いてないわ」

 

 俺は、その言い方に、少し詰まった。

 

「――八日分か」

 

「八日分よ。今から言いなさい」

 

 俺は、しばらく考えてから、順に言った。

 

 初日は何ともなかった。二日目に少し脚が張った。三日目に、村を歩き回って夜に痛んだ。四日目は、雨の前で肩が上がらなかった。五日目に、走ろうとして転んだ。掌を擦った。六日目と七日目は、村の者を集めるのに歩き回って、夜に膝が笑った。八日目、帰り道で荷馬に乗っていて、腰が固まった。

 

 言い終わると、雪蓮さまは黙っていた。

 

 しばらく黙ってから、こう言った。

 

「……ずいぶん詳しいわね」

 

「言えと言われたから言った」

 

「そこまで言えとは言ってないわ」

 

「言われた通りにした」

 

 俺は、そう言った。

 

「……それに、書いておいた」

 

「書いた?」

 

「毎日、その日の分を書いた。……忘れると、あんたに言えん」

 

 俺は、懐から紙を出した。八日分が、日付をつけて書いてある。

 

 雪蓮さまは、それを受け取って、灯りにかざして読んだ。

 

 読んで、しばらく何も言わなかった。

 

 読み終わって、紙を膝の上に置いて、それから小さく笑った。

 

「……あなた、変な人ね」

 

「よく言われる」

 

「褒めてるのよ」

 

 この人は、そう言った。

 

「約束を守るのに、帳面をつける人なんて、そういないわ」

 

「帳面しか知らん」

 

 俺は、そう言った。

 

「守ろうと思っても、忘れる。……忘れないためには、書くしかない」

 

 雪蓮さまは、その紙を丁寧に畳んで、懐に入れた。

 

 入れてから、川のほうを見た。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「村の年寄り、蓮華が名前を知ってたんですって」

 

「知っていた」

 

「あの子、覚えてたのよね」

 

「覚えていた。……去年、俺が書いたのを写した。写したから覚えていた」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの人は、写したものを全部覚えている。……たぶん、四千三百人分も覚えている」

 

「そうなの?」

 

「試したことはない」

 

 俺は、そう言った。

 

「試したら、覚えていると思う」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……あの子ね、私には言わないの」

 

「何をだ」

 

「辛いこと」

 

 この人は、そう言った。

 

「昔からそうよ。私には言わないの。……たぶん、私が姉だからだと思う。姉に言うと、姉が何とかしようとするでしょ」

 

「……そうだな」

 

「でも、あなたには言うのよ」

 

 雪蓮さまは、そう言った。

 

「三日泣かずにいたって、あの子、あなたに言ったんでしょ」

 

「言った」

 

「私には言わないわ」

 

 この人は、そう言った。

 

 言い方が、少し寂しそうだった。

 

「……悔しいの?」

 

「悔しくないわよ」

 

 即答だった。

 

 即答してから、少し間を置いて、こう続けた。

 

「……嘘。ちょっと悔しい」

 

 俺は、その言い方に、少し笑った。

 

 笑って、それから、こう言った。

 

「――あの人は、あんたには言わん。俺には言う。それはそうだ」

 

「なによ」

 

「俺は、何とかしようとせんからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺にできるのは、書くことだけだ。……書いても、死んだ者は戻らん。あの人は、それを知っている」

 

「……」

 

「何とかしてくれる相手には、辛いことは言いにくい。……何ともできない相手にしか、言えんことがある」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 黙ってから、俺の肩に頭を乗せた。

 

「……じゃあ、私も言っていい?」

 

「言え」

 

「怖いのよ、私」

 

 この人は、そう言った。

 

「今月、寿春を取るんでしょ。……取れなかったら、うちは終わりよ。全員死ぬわ」

 

「そうだな」

 

「怖くないの?」

 

「怖い」

 

 俺は、即答した。

 

「じゃあ、なんで平気な顔してるのよ」

 

「平気ではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「だが、隊の前で怖い顔はできん。……あそこには四千三百人いる。俺が怖い顔をすると、四千三百人が怖くなる」

 

「じゃあ、いつ怖がるの」

 

「今だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「今、あんたの前で怖がっている」

 

 雪蓮さまは、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、少し肩を揺らした。笑ったのだと思う。

 

「……じゃあ、二人で怖がってましょうか」

 

「そうしよう」

 

 俺は、そう言った。

 

「二人なら、たぶん半分だ」

 

「半分にならないわよ」

 

「ならんか」

 

「ならないわ。二人分怖いだけよ」

 

 この人は、そう言った。

 

「でも、一人よりましね」

 

 九月の半ばに、寿春へ発った。

 

 兵は四千三百。減っていない。塩が戻って、倒れた者が全員戻ったからだ。

 

 出立の朝、俺は蓮華さまの足元を見た。

 

 新しい草鞋を履いていた。

 

 俺が編み直した片方は、まだ形が残っている。この人が編んだ片方は、緒が緩み始めていた。

 

 だが、切れてはいなかった。

 

 村を八日歩いて、まだ切れていない。

 

 二日で切れると言ったのは、俺だった。

 

 外れた。

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