長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
九月に入って、川の色が変わった。
夏のあいだ濁っていた水が、上から順に澄んでくる。上流の雨が減って、泥が流れ込まなくなるからだ。澄むと流れが緩む。緩むと、舟が出しやすくなる。
塩を取りに行くには、いい季節だった。
俺は、期限の切れた翌朝から、六艘を毎日出した。
やることは単純だった。中継地まで下って、こちらで積んで、こちらで運ぶ。倉番の男は止めなかった。止める理由が、あの男の側にもなかったからだ。上の指示がないので動かせない、と言われたので、こちらが動かす。それだけの話だった。
三度目に行ったとき、その男が桟橋まで見送りに出てきた。
何か言いたそうにしていたので、待った。この男は言葉を選ぶのに時間がかかる。
「……あの、私は、止めておりません」
「知っている」
「上に、そう報告いたします。止めたが押し切られた、と」
「そう書け」
俺は、そう言った。
「そのほうが、あんたの首が繋がる。……こちらは押し切ったことにしてくれて構わん」
男は、少し情けない顔をした。それから、俵を一つ余分に舟へ乗せた。値は取らなかった。
俺は、それについては何も言わなかった。言うと、この男が困る。
塩が入り始めると、館の空気が目に見えて変わった。
倒れる者が減った。三日で、一日に一人か二人になった。十日で、ほとんど出なくなった。
訓練を戻したのは、その十日目だ。
朝、桟橋から陣のほうを見ていると、走る音が戻ってきていた。夏のあいだ、あの音が消えていた。消えていたことに、俺は音が戻ってから気づいた。
人が走る音は、思っているより大きい。
その日、俺は蓮華さまに水の帳面を返した。
この人が三日かけて作った、八つの組の表だ。組ごとに配る量を書き直して、余った分をどう回すかまで決めてあった。
返しながら、俺は一つだけ書き足してあることに気づいた。
九つ目の組が、作ってあった。
人が一人しか入っていない。
俺の名前だった。
「……これは」
「作りました」
蓮華さまは、俺の顔を見ずにそう言った。帳面を受け取って、膝の上で開いて、その頁を指で押さえた。
「一人で一つの組です。八つに入れると、あなたは自分の組の分を配ってしまいますから。……別にしました。この組の分は、私が持ちます」
「あんたが持つのか」
「私が持って、毎日あなたに渡します」
この人は、そこで初めて顔を上げた。
「渡したら、目の前で飲んでください。……飲むまで見ています」
言い方が淡々としていたので、かえって断りにくかった。
俺は、わかった、と言った。言ってから、少し情けなくなった。三十六の男が、二十の娘に塩を数えられている。
だが、そう思ったこと自体が、たぶんよくなかった。
情けないと思っているうちは、また同じことをやる。
塩の道が戻って、館が落ち着いて、その十日ほどのあいだ、俺たちは久しぶりに戦の話をしていなかった。
だから、蓮華さまが草鞋を編んでいるのを見たとき、俺は少し驚いた。
テラスの隅で、この人が一人で藁を捻っていた。
夕方だった。日が傾いて、川面が赤くなり始めていた。
編み方が、ひどかった。
目が揃っていない。締めが甘い。緒の通し方が逆になっている。片方は形になっているが、もう片方は途中で歪んで、爪先の側が細くなっていた。
俺が黙って見ていると、この人は気づいて、慌てて隠そうとした。
「……見ないでください」
「もう見た」
「見なかったことにしてください」
「それは無理だ」
俺は、そう言って、隣に腰を下ろした。座るのに、少し時間がかかる。左脚を先に投げ出さないと座れない。
蓮華さまは、しばらく編みかけの片方を膝に置いたままでいた。それから、諦めたように差し出した。
「……三日で切れる、と言われました」
「誰にだ」
「祭どのに。……昨日、通りかかって、笑われました」
「三日は保つな」
俺は、その草鞋を手に取って、緒を引いてみた。緒がすぐ緩んだ。
「二日だ」
「もっと悪いじゃないですか」
「悪い」
俺は、そう言って、緒を全部抜いた。
この人が何か言う前に、藁を捻り直し始めた。
草鞋は、締めが全部だ。編み目を詰めても、緒が緩ければ意味がない。歩いているうちに足が中で泳いで、泳いだところから擦り切れる。
俺は、緒を三重に通し直して、踵の側で結び目を内側へ入れた。
外に出しておくと、地面に擦れて先に切れる。
やっていると、蓮華さまが横で覗き込んできた。近い。
「……あなた、こんなこともできるんですか」
「川の男は、たいてい自分で直す」
俺は、手を止めずに言った。
「舟に乗っていると、履物がすぐ駄目になる。濡れて、乾いて、また濡れる。……買っていたら足りん。だから直す。直しているうちに、作れるようになる」
「繕い物は下手だったのに」
「針は駄目だ。……縄と藁は別だ。手の使い方が違う」
俺は、そう言った。
「祭どのに、前にそう言われた。あの人の言うことは、たいてい合っている」
編み直すのに、半刻ほどかかった。
その半刻、蓮華さまは何も言わずに横に座っていた。
途中で一度だけ、日が落ちて手元が暗くなった。この人は立ち上がって灯りを持ってきて、俺の手元に置いた。置いてから、また座った。
俺は、それについても何も言わなかった。
編み終わって渡すと、この人は両手で受け取って、しばらく見ていた。
「……揃っています」
「揃えた」
「私が編んだところは」
「そのまま使った。……端のほうは、悪くない」
俺は、そう言った。
「最初の五段は、あんたが編んだところだ。あそこは目が揃っている。……途中から急いだだろう」
蓮華さまは、そこで少し目を見開いた。
「……わかるんですか」
「わかる。急ぐと、目が粗くなる。……粗いところから駄目になる」
この人は、草鞋をもう一度見て、それから膝の上に置いた。
「……なぜ、編んでいたんですか」
俺がそう聞くと、しばらく答えなかった。
答えないまま、川のほうを見た。
「……村へ行くときのためです」
「村」
「三十村です」
蓮華さまは、そう言った。
「秋になったら、預けた米を確かめに行くことになっています。……去年もそうしました。今年も行きます」
「そうだったな」
「去年は、馬を使いました。でも、村の中は歩きます。……歩くと、履物が駄目になります」
この人は、そう言った。
「去年、途中で切れました。……村の年寄りが、代わりのをくれました。ありがたかったんですけど、そのぶん、こちらが借りを作りました」
俺は、その言い方に、少し感心した。
借りを作った、という言い方をする者は多くない。草鞋一足だ。ふつうは忘れる。
「だから、今年は自分で編もうと思ったんです」
蓮華さまは、そう言った。
「借りを作らずに行きたかったので」
村を回る支度が整ったのは、その三日後だった。
行くのは蓮華さまと、俺と、思春が率いる五十。それに、明命が斥候として先に出る。
道順は去年と同じにした。下流から順に上って、最後に一番奥の村へ行く。
その一番奥の村が、去年、蓮華さまが最初に話をつけた村だった。
三村目で断られ続けて、そこで初めて通った。年寄りが帳面の数字に驚いて、あんた村に来たことがあるのかと聞いた、あの村だ。
俺は、その村の名を帳面で確かめた。確かめてから、順番を変えようかと少し考えた。
一番奥は、館から遠い。何かあっても、すぐには戻れない。
だが、去年と同じにしたほうが、村の側が落ち着く。
結局、変えなかった。
変えなかったことを、俺は今でも考える。
出立の朝、蓮華さまは新しい草鞋を履いていた。
俺が編み直した片方と、この人が編んだ片方。左右で目の詰まり方が違うのだが、履いてしまえばわからない。
馬に乗る前に、この人は足元を見て、少し満足そうな顔をした。
その顔を見たのは、その朝が最後だった。
――正確には、その顔をした人を見たのが、最後だった。
四日目までは、何もなかった。
村を五つ回った。どこも、預けた米はきちんと残っていた。減っている村もあったが、減った分は帳面に書いてあった。誰が、いつ、どれだけ食ったかまで書いてある村もあった。
その帳面を見て、蓮華さまが妙に嬉しそうな顔をした。
「……書いてあります」
「書いてあるな」
「去年、書き方を教えました。……覚えていてくれました」
この人は、そう言って、村の年寄りに丁寧に頭を下げた。
年寄りのほうが、かえって恐縮していた。
五日目の朝に、明命が戻ってきた。
斥候に出したのは形式のようなもので、この辺りに敵はいない。前の村から次の村までの道を確かめて、橋が落ちていないかを見てくるだけだ。
だから、この娘が息を切らして戻ってきたとき、俺は最初、意味がわからなかった。
馬から降りるのももどかしそうに、走ってきた。
顔が白かった。
「――煙です」
その一言で、俺は立ち上がっていた。
「どこだ」
「北です。……北の、一番奥の」
明命は、そこで一度息を吸った。吸って、吐いて、それから言った。
「炊事の煙ではありません。……三筋、上がっています」
俺は、その言葉の意味を、体で理解した。
炊事の煙は細い。真っ直ぐ上がって、途中で散る。三筋まとまって上がるのは、家が焼けているときだ。
俺は、走った。
走ろうとして、三歩で転んだ。
左脚が、地面を蹴れなかった。蹴ったつもりで、踏み外した。
村の道は土が固くて、掌をついたところが擦れた。
立ち上がる前に、思春が横から腕を掴んで引き起こした。
「――隊長。馬に」
「乗れん」
「わかっております。荷馬に乗ってください。私が引きます」
この娘は、そう言うなり、俺を荷馬の背に押し上げた。
乗れないのではない。降りるときに落ちる。だが、今はそれを言っている場合ではなかった。
北の村までは、七里あった。
馬で半刻。
その半刻が、長かった。
荷馬の背は揺れる。揺れるたびに、掌の擦り傷が鞍を擦った。痛みは大したことがなかったが、その痛みだけが、やけにはっきりしていた。
俺は、その半刻のあいだに、いくつものことを考えた。
三筋の煙。家が三軒。あの村は四十七戸ある。三軒なら、まだ全部ではない。
風は北西から来ている。火は南東へ流れる。村の南東には田がある。田は今、稲が立っている。刈り入れ前だ。
――田に火が回ったら、村は今年を越せない。
考えながら、俺は同時に、別のことも考えていた。
考えたくないことだった。
岘山で、俺は舟を出した。支流を遡って、山の西の麓まで行った。あのとき、俺は自分の判断が正しいと思っていた。実際、正しかった。あれより速い道はなかった。
それでも、間に合わなかった。
速い道を選ぶことと、間に合うことは、別だ。
俺は、それを一度学んだはずだった。
村に着いたのは、日が高くなってからだった。
煙は、もう三筋ではなかった。
九つ、あるいはそれ以上。数えるのをやめた。
村の入り口に、人が固まっていた。
三十人ほど。ほとんどが女と子供と年寄りだった。荷を抱えている者もいれば、何も持っていない者もいた。
その向こうで、家が焼けていた。
俺は、荷馬から降りた。降りるときに、やはり落ちた。膝から落ちて、そのまま前へつんのめった。
誰も、笑わなかった。
笑うどころではなかったのだと、あとで思った。
立ち上がって、俺は真っ先に村の南東を見た。
田は、無事だった。
風が北西から来ていたのに、田には火が回っていない。誰かが、水を入れていた。
刈り入れ前の田に水を入れると、稲が倒れる。倒れた稲は刈りにくい。それでも、水を入れた者がいた。
俺は、その水路の口を見た。
板が抜いてある。抜いた板が、脇に転がっていた。
俺は、そこでようやく人のほうを見た。
人の数を、数えた。
三十四人。
四十七戸の村だ。人は二百十一人いた。去年、蓮華さまが帳面の数字を読み上げて、年寄りが目を丸くした、その数だ。
三十四人しかいなかった。
「――残りは」
俺が聞くと、誰も答えなかった。
答えられる者がいなかったのだ。
やっと口を開いたのは、一人の女だった。子供を二人抱えていた。
「……山へ、逃げました」
「何人だ」
「わかりません。……ばらばらに逃げたので」
女は、そう言った。声が震えていた。
「兵が来て、いきなり火をかけたんです。……何も言わずに。米を出せとも言わずに、いきなり」
俺は、その言葉を、しばらく飲み込めなかった。
米を出せと言わなかった。
つまり、米が目当てではなかったということだ。
俺たちが預けた九千三百石のうち、この村には三百石ある。それを取りに来たのなら、まず出せと言う。出さなければ探す。探して、それから焼く。
いきなり焼いたということは、焼くこと自体が目的だった。
「……年寄りは」
俺は、そう聞いた。
去年、話をつけた年寄りのことだ。
女は、答えなかった。
答えないかわりに、村の奥のほうを見た。
俺は、そちらへ歩いた。
左脚を引きずりながら歩いたので、遅かった。誰かが手を貸そうとしたが、断った。
断ったのは、意地ではない。手を貸されると、着くのが早くなる。
早く着きたくなかったのだと、あとで気づいた。
年寄りは、家の前で倒れていた。
家は焼けていた。年寄りは、その入り口のところで、うつ伏せになっていた。
背中を斬られていた。
逃げようとしたのではない。向きが逆だった。家のほうを向いていた。
中に、何か取りに戻ろうとしたのだと思う。
俺は、その脇に膝をついた。片膝しか、つけなかった。
顔を確かめた。去年、帳面の数字に驚いた年寄りだった。あんた村に来たことがあるのかと聞いた、あの人だ。
名前を、俺は知っていた。
帳面に書いてある。去年、この村で話をつけたときに聞いて、書いた。
俺は、その名前を口の中で言ってみた。
言ってみて、それ以上、何も出てこなかった。
背後で、足音がした。
振り返らなくても、誰かはわかった。歩き方が、少し速い。
蓮華さまだった。
この人は、俺の横まで来て、そこで止まった。
止まって、しばらく動かなかった。
俺は、何か言わなければならなかった。
言うべき言葉を探した。探して、見つからなかった。
結局、出てきたのは、これだった。
「――間に合わなかった」
言ってから、俺は自分の口を殴りたくなった。
同じことを、俺は十年前に言った。
岘山の道の上で、母親のそばに膝をついたこの人の姉に、同じ言葉を言った。
あのとき、返ってきたのは「そう」の一言だった。
今度は、違った。
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
黙ってから、俺の隣に膝をついた。
この人は、年寄りの顔を見て、それから背中の傷を見た。見てから、静かにこう言った。
「……この方の名前は」
俺は、その名前を言った。
蓮華さまは、それを聞いて、頷いた。
「知っています。書いてありますから」
この人は、そう言った。
「去年、あなたが書いたのを、私が写しました。……村の名前と、戸数と、話をつけた相手の名前」
「……そうだったな」
「四十七戸、二百十一人。……この方が、去年そう聞いて驚いていました」
蓮華さまは、そう言って、そこで初めて声が揺れた。
揺れたが、続けた。
「今、何人ですか」
「――三十四人だ」
「山へ逃げた方は」
「わからん。数えられていない」
「では、数えます」
この人は、そう言った。
言ってから、立ち上がった。
立ち上がるときに、袖で顔を拭った。拭ってから、俺のほうを見ずに歩き出した。
俺は、その背中に声をかけようとして、やめた。
かけるべき言葉が、まだ見つかっていなかった。
その日から三日、俺たちはその村にいた。
やったことは、たいしたことではない。
山へ逃げた者を集めた。集めるのに、明命と思春の隊が山を歩いた。二日かかった。
集まったのは、百六十二人だった。
二百十一人のうち、百六十二人。
三十四人が村に残っていたので、合わせて百九十六人。
十五人が、戻らなかった。
そのうち七人は、村の中で見つかった。年寄りと、逃げ遅れた子供と、その子供を連れ戻しに行った者だった。
八人は、見つからなかった。
山で迷ったのか、川へ落ちたのか、それとも連れて行かれたのか。誰にもわからなかった。
蓮華さまは、その全員の名前を書いた。
村の者に聞いて回って、書いた。
書きながら、この人は一度も泣かなかった。
泣かなかったのは、たぶん、泣くと書けなくなるからだ。
三日目の夜、俺はその帳面を見せてもらった。
十五人の名前が並んでいた。
七人には、死んだ場所が書いてある。
八人には、何も書いていない。
名前の下が、空いていた。
「――ここは」
「わかりませんでしたので」
蓮華さまは、そう言った。
「わからないことを、わかったように書くのは嫌でした。……ですから、空けました」
「……空けるのは、いい」
俺は、そう言った。
「だが、空けたままにするな」
「――どういう意味ですか」
「空白は、そのうち忘れられる」
俺は、そう言った。
「十年経って誰かがこれを見たとき、この八人は『書き忘れた者』に見える。……そうではないと、わかるようにしておけ」
この人は、しばらくその頁を見ていた。
それから、筆を取って、八人の名前の下に一行ずつ書いた。
――行方知れず。九月十九日、この村にて。
書き終わってから、俺のほうを見た。
「……これでいいですか」
「いい」
俺は、そう言った。
「これなら、十年後に読んだ者にもわかる」
蓮華さまは、帳面を閉じた。
閉じてから、しばらく膝の上に置いたままでいた。
俺は、その横で、焼け跡のほうを見ていた。
三日経って、煙はもう上がっていない。だが、匂いが残っていた。焼けた木と、焼けた土の匂いは、雨が降るまで消えない。
「……子渡」
「なんだ」
「あなた、さっき、間に合わなかったと言いましたね」
俺は、その言葉に、身構えた。
「言った」
「お姉様にも、同じことを言ったそうですね」
蓮華さまは、そう言った。
「十年前です。……お姉様が、いつだったか話してくれました。あの人、あのとき『そう』としか言えなかったのを、ずっと悔やんでいます」
「……」
「私は、悔やまないことにします」
この人は、そう言った。
「ですから、今言います」
蓮華さまは、そこで俺のほうへ向き直った。
目が赤かった。三日、泣かずにいた目だった。
「あなたは、間に合いませんでした。……それは、事実です」
「そうだ」
「ですが、あなたが遅れたわけではありません」
この人は、そう言った。
「あなたは、煙が上がったと聞いて、すぐ走りました。走って転んで、荷馬に乗って、七里を半刻で来ました。……あれより速い来方は、ありません」
「……」
「速く来ることと、間に合うことは、別です」
俺は、その言葉に、しばらく黙っていた。
同じことを、俺は馬の上で考えていた。
考えていたことを、この人に言われた。
「……それは、俺が言うべき言葉だ」
「あなたは言いません」
蓮華さまは、そう言った。
「あなたは、自分に対しては言いません。……ですから、私が言います」
この人は、そう言って、帳面をもう一度開いた。
「それと、もう一つあります」
「なんだ」
「田です」
蓮華さまは、そう言った。
「田に、火が回っていません。……誰かが水を入れました」
「入れていたな」
「刈り入れ前です。水を入れれば稲が倒れます。倒れた稲は、刈るのに倍の手間がかかります。……それでも、入れた人がいます」
この人は、そう言った。
「なぜだと思いますか」
俺は、その質問に、少し考えた。
「――来年のためだ」
「はい」
「田が焼けたら、来年植えられん。……今年の稲が倒れても、田さえ残れば来年は作れる」
「そうです」
蓮華さまは、そう言った。
「その人は、家が焼けているときに、来年のことを考えました」
この人は、そこで少し声を落とした。
「……去年、あなたが言いました。三年待つと。租を三年取らないと。あれは、南の黄巾の話でしたけど」
「言った」
「あのとき、あなたはこう言いました。田を耕している者には、来年の秋の話が通る、と」
蓮華さまは、そう言った。
「……この村の人は、今年、それをやりました。家が焼けているときに、来年の田を守りました」
俺は、その言葉を聞いて、しばらく何も言えなかった。
言えないまま、田のほうを見た。
稲は、半分ほど倒れていた。倒れたまま、水に浸かっている。刈るのは、確かに手間だろう。
だが、田は残っている。
「……誰が入れた」
「わかりません」
蓮華さまは、そう言った。
「聞いて回りましたが、誰も名乗りません。……たぶん、当たり前のことをしたと思っているのだと思います」
「……」
「ですから、それも書きました」
この人は、帳面をめくって、別の頁を見せた。
そこには、こう書いてあった。
――九月十九日、火の際、何者かが水路の板を抜き、田に水を入れる。名を知らず。
俺は、その一行をしばらく見ていた。
見てから、こう言った。
「……上手いな」
「上手いですか」
「上手い」
俺は、そう言った。
「俺なら、書かなかった。……死んだ者と、行方知れずの者は書く。だが、田に水を入れた者は書かん」
「なぜですか」
「死んでいないからだ」
俺は、そう言った。
「俺は、死んだ者と、いなくなった者を書いてきた。……生きている者は、名前を聞けばいい。聞けば書ける」
「でも、この人は名乗りません」
「名乗らんな」
「では、書けません。……名乗らない人は、書かないと消えます」
蓮華さまは、そう言った。
「私は、それが嫌でした」
俺は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。
持たないまま、こう言った。
「――俺は、二十年やってきて、それを思いつかなかった」
「そうですか」
「そうだ」
俺は、そう言った。
「あんたのほうが、先へ行っている」
蓮華さまは、そこで少しだけ表情を変えた。
照れたのではない。もっと複雑な顔だった。
「……そういうことを、今言わないでください」
「なぜだ」
「今言われると、泣きます」
この人は、そう言った。
「三日、泣かずにいたので。……もう少し、持たせてください」
館へ戻ったのは、その二日後だった。
テラスに全員が集まった。
俺は、村で見たことをそのまま話した。三筋の煙。米を出せと言わなかったこと。年寄りの背中の傷。田に水を入れた者。二百十一人のうち、百九十六人が戻り、十五人が戻らなかったこと。
話し終わると、しばらく誰も口を利かなかった。
最初に喋ったのは、祭どのだった。
この人は、瓢箪を握ったまま、一度も飲まずに聞いていた。
「……米を出せと言わんかったか」
「言わなかった」
「では、それは焼くための火じゃな」
祭どのは、そう言った。
「取るための火ではない。……見せるための火じゃ」
「誰に見せる」
「わしらにじゃ」
この人は、そう言った。
「あんたらが預けた米は、こうやって焼けるぞ、と。……次はどの村じゃろうな、と思わせるための火じゃ」
俺は、その言い方に、腹の底が冷えるのを感じた。
三十村ある。
どの村が次かはわからない。わからないから、こちらは三十村を守らねばならない。三十村を守るには、兵を三十に分けることになる。
分けたところを、まとめて叩かれる。
「……上手いな」
「上手いとも」
祭どのは、そう言った。
「じゃがな、若いの。上手すぎる」
「――どういう意味だ」
「あの姫さんに、ここまでの手が打てるか」
この人は、そう言った。
「わしは何度か会うとる。……あの子は、そういう頭の使い方をせん。あれは、思いついたことを言うだけじゃ」
俺は、その言葉に、少し考えた。
考えて、公瑾どののほうを見た。
この人は、さっきから一度も口を開いていなかった。
卓に肘をついて、指で湯呑みを回している。
「――冥琳」
雪蓮さまが、そう呼んだ。
「あなた、さっきから黙ってるわね」
「考えているの」
公瑾どのは、湯呑みを回しながら言った。
「……祭どのの仰る通りよ。あの方の手ではないわ。あれは、七乃どのの手」
この人は、そう言った。
「あの方は、こちらが困る形を正確に知っている。塩のときもそうだった。……今度は、三十村ね」
「防げるの?」
「防げないわ」
公瑾どのは、即答した。
「三十村を守るには、三十に分けるしかない。分けたら潰される。……分けなければ、村が焼ける」
この人は、そう言って、湯呑みを置いた。
「防げないから、防ぎません」
卓が、静かになった。
俺は、その言葉の意味を理解した。
理解して、こう言った。
「――攻めるか」
「攻めます」
公瑾どのは、はっきりと言った。
「今月です。九月のうちに」
「九月なら、あちらの兵は三千を切る」
「切ります。稲刈りですから」
この人は、そう言った。
「あちらは、村を焼いてこちらを引きずり回すつもりでしょう。……三十村を守らせて、こちらを疲れさせて、冬まで持たせる。冬になれば、兵は戻ります」
「……つまり、冬を待たせない」
「待たせません」
公瑾どのは、そう言った。
「稲刈りが終わる前に、寿春を取ります」
その夜、俺はテラスに残った。
全員が去ったあと、川を見ていた。
九月の川は、夏より静かだ。流れが緩んで、音が変わる。夏のあいだ、水は絶えず何かを削る音を立てているが、秋になると、その音が止む。
足音がして、雪蓮さまが上がってきた。
この人は、何も言わずに隣に座った。
座って、しばらく黙っていた。
黙ったまま、俺の顔を横から見ていた。
「……何だ」
「見てるのよ」
「何を」
「顔色」
雪蓮さまは、そう言った。
「毎日言うって約束したでしょ。……村へ行ってた八日分、聞いてないわ」
俺は、その言い方に、少し詰まった。
「――八日分か」
「八日分よ。今から言いなさい」
俺は、しばらく考えてから、順に言った。
初日は何ともなかった。二日目に少し脚が張った。三日目に、村を歩き回って夜に痛んだ。四日目は、雨の前で肩が上がらなかった。五日目に、走ろうとして転んだ。掌を擦った。六日目と七日目は、村の者を集めるのに歩き回って、夜に膝が笑った。八日目、帰り道で荷馬に乗っていて、腰が固まった。
言い終わると、雪蓮さまは黙っていた。
しばらく黙ってから、こう言った。
「……ずいぶん詳しいわね」
「言えと言われたから言った」
「そこまで言えとは言ってないわ」
「言われた通りにした」
俺は、そう言った。
「……それに、書いておいた」
「書いた?」
「毎日、その日の分を書いた。……忘れると、あんたに言えん」
俺は、懐から紙を出した。八日分が、日付をつけて書いてある。
雪蓮さまは、それを受け取って、灯りにかざして読んだ。
読んで、しばらく何も言わなかった。
読み終わって、紙を膝の上に置いて、それから小さく笑った。
「……あなた、変な人ね」
「よく言われる」
「褒めてるのよ」
この人は、そう言った。
「約束を守るのに、帳面をつける人なんて、そういないわ」
「帳面しか知らん」
俺は、そう言った。
「守ろうと思っても、忘れる。……忘れないためには、書くしかない」
雪蓮さまは、その紙を丁寧に畳んで、懐に入れた。
入れてから、川のほうを見た。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「村の年寄り、蓮華が名前を知ってたんですって」
「知っていた」
「あの子、覚えてたのよね」
「覚えていた。……去年、俺が書いたのを写した。写したから覚えていた」
俺は、そう言った。
「あの人は、写したものを全部覚えている。……たぶん、四千三百人分も覚えている」
「そうなの?」
「試したことはない」
俺は、そう言った。
「試したら、覚えていると思う」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……あの子ね、私には言わないの」
「何をだ」
「辛いこと」
この人は、そう言った。
「昔からそうよ。私には言わないの。……たぶん、私が姉だからだと思う。姉に言うと、姉が何とかしようとするでしょ」
「……そうだな」
「でも、あなたには言うのよ」
雪蓮さまは、そう言った。
「三日泣かずにいたって、あの子、あなたに言ったんでしょ」
「言った」
「私には言わないわ」
この人は、そう言った。
言い方が、少し寂しそうだった。
「……悔しいの?」
「悔しくないわよ」
即答だった。
即答してから、少し間を置いて、こう続けた。
「……嘘。ちょっと悔しい」
俺は、その言い方に、少し笑った。
笑って、それから、こう言った。
「――あの人は、あんたには言わん。俺には言う。それはそうだ」
「なによ」
「俺は、何とかしようとせんからだ」
俺は、そう言った。
「俺にできるのは、書くことだけだ。……書いても、死んだ者は戻らん。あの人は、それを知っている」
「……」
「何とかしてくれる相手には、辛いことは言いにくい。……何ともできない相手にしか、言えんことがある」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
黙ってから、俺の肩に頭を乗せた。
「……じゃあ、私も言っていい?」
「言え」
「怖いのよ、私」
この人は、そう言った。
「今月、寿春を取るんでしょ。……取れなかったら、うちは終わりよ。全員死ぬわ」
「そうだな」
「怖くないの?」
「怖い」
俺は、即答した。
「じゃあ、なんで平気な顔してるのよ」
「平気ではない」
俺は、そう言った。
「だが、隊の前で怖い顔はできん。……あそこには四千三百人いる。俺が怖い顔をすると、四千三百人が怖くなる」
「じゃあ、いつ怖がるの」
「今だ」
俺は、そう言った。
「今、あんたの前で怖がっている」
雪蓮さまは、しばらく何も言わなかった。
それから、少し肩を揺らした。笑ったのだと思う。
「……じゃあ、二人で怖がってましょうか」
「そうしよう」
俺は、そう言った。
「二人なら、たぶん半分だ」
「半分にならないわよ」
「ならんか」
「ならないわ。二人分怖いだけよ」
この人は、そう言った。
「でも、一人よりましね」
九月の半ばに、寿春へ発った。
兵は四千三百。減っていない。塩が戻って、倒れた者が全員戻ったからだ。
出立の朝、俺は蓮華さまの足元を見た。
新しい草鞋を履いていた。
俺が編み直した片方は、まだ形が残っている。この人が編んだ片方は、緒が緩み始めていた。
だが、切れてはいなかった。
村を八日歩いて、まだ切れていない。
二日で切れると言ったのは、俺だった。
外れた。