長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
寿春までは、陸を行けば十二日かかる。
川を使えば、八日で着く。
ただし、四千三百人を舟で運ぶことはできない。うちの舟は六艘だ。二百人乗せるのが限度で、荷を積めば百五十に減る。往復を繰り返せば二十日かかる。
結局、大半は歩くしかなかった。
問題は、四千三百人が歩けば目立つということだった。
「――というより、目立たずに歩くほうが無理よ」
出立して三日目の夜、公瑾どのは冷えた粥を匙で掬いながら言った。陣は川から半里ほど入った林の中にあり、火は焚いていない。飯は昼のうちに炊いて、冷えたものを食っていた。
「四千三百人が歩けば、道が荒れるわ。土が踏み固められて、草が倒れる。翌日通った者が見れば、何人通ったかまでわかるのよ」
掬った粥は、口に運ばれずに椀へ戻された。
「隠すのは無理。だから、隠さないの」
俺は、その言い方の意味をしばらく考えた。
「――見せるのか」
「見せるわ。ただし、別のものに見せるの」
匙が置かれた。
「四千三百人が北へ歩いている。これをあちらが見たときに、何だと思うかしら」
「軍だろうな」
「そうよ。旗が立っていて、隊が組んであって、荷駄が続いていれば、軍に見えるわ。……では、旗を降ろして、隊を崩して、荷駄をばらしたら」
そこで、俺は理解した。
「人が移動しているだけに見える」
「そう」
公瑾どのは、少しだけ身を乗り出した。
「今は九月よ。稲刈りの時期。この時期は、人がよく動くの。刈り入れの手伝いに隣の郡まで行く者がいる。逆に、自分の村へ帰る者もいる。街道は年で一番人が多い月なのよ」
声が、そこで落ちた。
「そこへ、四千三百人を混ぜる」
言い方は静かだった。中身は静かではなかった。
「四千三百人を、農民に化けさせるのか」
「化けさせるわ」
「化けきれるか」
「無理ね」
あっさりしたものだった。
「近くで見られたら終わりよ。手を見ればわかるもの。刀を握る手と鍬を握る手は違うわ。だから、近くで見られない形にするの」
公瑾どのは、地面に指で線を引いた。
「まとまって歩かない。二十人ずつに分けて、半刻ずつずらして歩かせる。二十人なら村の一行に見えるでしょう。それが半刻おきに通れば、街道が混んでいるだけに見えるわ」
「二百十五組になるぞ」
「なるわね」
「その二百十五組を、どうやって同じ場所に集める」
この人が、そこで初めて少し笑った。
「そこは、あなたの仕事よ」
俺は、その返しにしばらく言葉を探した。
「……押しつけたな」
「押しつけたわ。あなた、二十年、烽火でそれをやってきたでしょう」
公瑾どのは、線の端を指でなぞった。
「二十三の村に火を置いて、上流から下流へ順に伝えた。あれは、離れた者を同じ刻に動かす仕組みよ。今回はその逆をやるだけ」
「逆か」
「逆よ。散らばった者を、同じ場所へ同じ刻に集める。仕組みとしては同じでしょう」
同じではない。烽火は、上流で見たものを下流へ伝えるだけだ。伝わったあと村がどう動くかは、村に任せてある。
だが、この人の言い分にも一理あった。伝えるのが目的でないなら、伝える形は変えていい。
「――一つ、要るものがある。合図ではなく、日にちだ」
俺は、地面の線の先を指した。
「烽火は、その場で見た者が動く。だが今度は八日かけて動く。八日先の刻を、二百十五組に持たせねばならん」
「持たせられる?」
「持たせられる。ただし、書けん。紙を持たせると、一組でも捕まったら全部ばれる」
「では、口で」
「口で覚えさせるしかない」
公瑾どのは、頷いた。
「では、口で覚えさせて」
「二百十五組にか」
「あなたが回らないと、覚えないでしょう」
この人は、俺の顔を正面から見た。
「あなたは、四千三百人の名前を覚えているの。名前を覚えている者が来て言えば、兵は覚えるわ。私が言っても覚えない」
それは、認めるしかなかった。
「だが、脚がこれだ。二百十五組を歩いて回るのは無理だ」
「舟を使いなさい。街道は川沿いでしょう」
言われてみれば、そうだった。
俺が舟で下って要所に着け、組のほうから通りかかるのを待てばいい。組が来たら覚えさせ、覚えたら次の要所へ下る。
「……できるな」
「できるでしょう」
「あんた、それも考えていたのか」
「今考えたわ。あなたが脚のことを言ってから」
覚えさせる中身は、単純にした。
難しくすると、伝言のうちに変わる。二十人が八日持ち歩くのだから、単純でなければならない。
俺が決めたのは、月の形と、川の音だった。
月は、その日から数えて八日後に半分になる。半月の夜に、決めた場所へ集まる。それだけだ。日を数えるのが苦手な者でも、月は見ればわかる。
場所は、川の音で決めた。寿春の南に川が二本合わさるところがあり、水がぶつかって音が変わる。夜でも聞こえる。歩いていてその音が聞こえたら、川のほうへ折れる。
それを二百十五組に一つずつ言って回るのに、六日かかった。
舟で下って、要所で待って、通りかかった組を止める。組の頭を呼び、名前を確かめ、月の話と川の音の話をする。二度言わせて、覚えたのを確かめてから行かせる。一組に四半刻。一日に三十組が限度だった。
三日目の夕方、俺は舟の上で少し眠った。
棹を握ったまま船底に座って、そのまま瞼が落ちた。
起こしたのは阿六だった。
「隊長。次の組が来ます」
「……ああ」
「顔色が悪いですよ」
「悪いだろうな。三日、まともに寝ていない」
「寝てくださいよ」
「寝ると、組が通り過ぎる」
「通り過ぎたら、俺が止めます」
「止めても、お前は名前を知らん」
阿六が、口を閉じた。
「名前を呼ばれた者は覚える。呼ばれなかった者は忘れる。……この仕事は、それが全部だ」
この男は、しばらく黙っていた。それから、水の入った竹筒を差し出した。
「じゃあ、これ飲んでください」
「……水か」
「塩水です。蓮華さまから預かってきました。一日分ずつ、俺が持ってます」
俺は、その竹筒を受け取って手の中で転がした。
あの人は、館に残っていない。この行軍に来ている。来ているのに、わざわざ阿六に預けている。自分で渡すと俺が断ると思ったのだろう。
「……あの人は、俺を疑っているな」
「疑ってますね。隊長、前科がありますから」
返す言葉がなかった。俺は黙って塩水を飲んだ。
六日目に、全部の組を回り終えた。
その夜、俺は川岸に舟をつけて、初めてまともに眠った。
翌朝、目を覚ましたら、舟の上に人が座っていた。
祭どのだった。瓢箪を提げて、舷に腰かけて、川を見ている。
「……いつからそこにいる」
「夜明け前からじゃ」
こちらを見もしない。
「あんた、よう寝とったのう。起こすのが惜しいくらいじゃった」
「起こせばよかっただろう」
「起こしたら、あんたはまた動く。……動いてほしゅうない用件じゃからな」
俺は、その言い方で身構えた。起き上がって、舷に背中を預ける。朝の川は冷えていて、板が濡れていた。
「――やめておけ」
「まだ何も言うとらん」
「言わんでもわかる。あんたは、一揆の頭をやると言うつもりだろう」
祭どのが、そこで初めてこちらを見た。少し驚いた顔をして、それから笑った。
「……よう読むのう」
「昨日、公瑾どのが言っていた。一揆に見せるには頭が要る、名の知れた者が旗を掲げないとただの人の群れになる、と。……それを聞いたときに、あんたが手を挙げるだろうと思った。あんたは、そういう人だ」
瓢箪の栓が抜かれた。朝から飲む人だ。
「……なぜ、やめておけと言う」
「頭は死ぬからだ。一揆の頭は必ず最初に狙われる。あちらが本気で潰すなら、まず旗を掲げている者を斬る。斬れば残りは散る」
「知っとる」
「知っていて言うのか」
「知っとるから言うんじゃ」
この人は、川のほうへ目を戻した。
「若いの。わしはな、この役に一番向いとる。……わしは顔が知られとる。孫堅の代からおる者じゃ。わしが旗を掲げれば、あちらは本気にする。若い者が掲げても、誰も信じん」
声が、そこで少し低くなった。
「それと、わしはもう長うない」
「――長くないとは」
「言葉通りじゃ。五十四じゃぞ。膝は雨のたびに痛む。目も落ちてきた。……あと何年、前に立てると思う」
俺は、その質問に答えなかった。答えるべきではないと思った。
「わしはな、使い道のあるうちに使ってほしいんじゃ。使い道がなくなってから、城で若い者に稽古をつけるだけの婆になるのは、それはそれで悪うはない。悪うはないが、選べるならこちらを選ぶ」
朝の光が水面に散っていた。この時期の朝は、川面が銀色になる。
「……祭どの。一つ、聞いていいか」
「言え」
「あんたは、それを文台さまに言われたら、どうする」
瓢箪が、口に運ばれかけたまま止まった。
「……なんじゃと」
「文台さまが、同じことを言ったとする。わしはもう長うない、使い道のあるうちに使ってくれ、と。……あの人がそう言ったら、あんたは何と答える」
長いこと、答えが返ってこなかった。
瓢箪が膝の上に降ろされ、栓が締められた。
「……殴っとるな」
「そうだろう」
「殴って、酒を飲ませとる。そのあと、二人で泥酔して、朝まで昔話をしとる」
「では、俺もそうする。……殴りはせん。俺の腕では、あんたを殴っても効かん。だが、酒は飲ませる」
祭どのが、少し笑った。笑ってから、溜め息をついた。
「……ずるいのう、あんたは。文台さまを持ち出すのは反則じゃ」
「反則だ。だが、効いた」
「効いたわ」
瓢箪が、また傾けられた。
「……ただしな、若いの。今回だけじゃぞ。次に同じ話が出たときは、わしは言わずにやる。あんたに相談せずにやる」
「それは困る」
「困ってもらう。相談すると止められる。止められるとわかっとるなら、相談せんのが道理じゃろうが」
返す言葉がなかったので、俺は別のことを言った。
「――では、こうしよう。次に同じ話が出たとき、俺が先に気づく」
「なんじゃと」
「あんたが言い出す前に、俺が気づいて、先に止める。……それなら、相談したことにならん」
祭どのは、しばらく俺を見ていた。それから、盛大に笑い出した。
「……あんた、屁理屈だけは達者じゃな」
「達者だ」
「褒めとらんぞ」
「知っている」
結局、一揆の頭は思春がやることになった。
この娘は賊上がりで、人を集めて動かした経験がある。しかも顔が知られていない。孫家の名簿には載っているが、袁術の家の連中は誰も知らない。
名の知れた者が要る、という公瑾どのの条件には合わない。
だが、この人はあっさり条件を変えた。
「――名前が要るなら、名前を作ればいいのよ」
「作る?」
「一揆の頭に、新しい名を名乗らせるの。噂だけ先に流しておけば、あちらは本物だと思うわ。……噂は、こちらで作れます。三十村があるでしょう。あそこから流せばいい」
俺は、その案に一つだけ口を挟んだ。
「――村を使うのは、条件がある。噂を流すのはいい。だが、村の者を一揆に混ぜるな」
卓の向かいで、公瑾どのの指が止まった。
「混ぜれば、あちらが村を焼く口実になる。……もう一つ焼かれたら、俺は堪えん」
この人は、しばらく黙っていた。それから、目を伏せた。
「……混ぜたほうが、本物らしくなるのだけれど」
「知っている」
「わかっていて言っているのね」
「言っている。……本物らしくするために村を使えば、次に焼かれるのは噂を流した村だ。九月十九日に、俺たちは十五人失った。あれで十分だ」
公瑾どのは、それきり何も言わなかった。
しばらくして、湯呑みを持ち上げ、飲まずに置いた。
「……わかりました。村は使いません。噂だけです。かわりに、こちらの兵で数を揃えます。千五百ほど」
「千五百なら出せる」
化けるのに、三日かかった。
千五百人を農民に見せるのは、思っていたより面倒だった。衣を替えるだけでは駄目だ。持ち物が違う。歩き方が違う。何より、まとまり方が違う。兵は放っておいても列になる。列になった農民はいない。
思春が、それを一つずつ直させた。この娘は賊のときに同じことをやっていたらしい。荷を運ぶ人足に化けて船に乗り込むという手だ。
「列になるな。三人以上並ぶな」
陣を歩きながら、この娘が指図していた。
「歩幅を揃えるな。速い者は先へ行け。遅い者は遅れろ。揃うと兵に見える」
その的確さに、俺は少し感心していた。
感心していると、後ろで妙な声が上がった。
「……あら、これ、けっこう似合うんじゃない?」
雪蓮さまだった。髪を解いて藁で束ね、染めの落ちた麻を着て、裾に泥をつけている。
似合っていなかった。似合っていないというより、別のものに見えた。
祭どのが、遠慮なく言った。
「孫策どの。それは、農民ではなく盗賊じゃ」
「盗賊?」
「盗賊じゃな。しかも、頭のほうじゃ」
雪蓮さまは、しばらく自分の格好を見下ろしていた。
「……褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めとらんぞ」
「褒めてるでしょ。頭って言ったもの」
この人が腰に手を当てると、祭どのが瓢箪を傾けながら唸った。
俺は、その横で穏どのを見た。
この娘は、何もしていなかった。衣も替えていない。髪も直していない。本を抱えたまま、いつも通り立っている。
「……穏どの。あんたは化けんのか」
「化けなくていいと言われました。思春どのに、『貴様はそのままで農民に見える』と」
俺は、笑うのを堪えた。
「……確かに、見える」
「そうですか?」
「見える。たぶん、その本のせいだ。……農民は本を読まん、と思うだろう。だが、村の帳面をつけている者は本を持っている。あんたは、村の書役に見える」
穏どのが、少し嬉しそうな顔をした。
「……では、そのままで行きます」
一揆の噂は、五日で寿春まで届いた。
届いたことは、こちらからは見えない。見えたのは、あちらの動きだった。
寿春の兵が動いた。といっても、大きくは動いていない。城の南に五百ほどが出た。それだけだ。
その報せを明命から受けて、俺は少し引っかかった。
「……五百か」
「五百です。もっと出ると思っておられましたか」
「思っていた。一揆が千五百と聞けば、ふつうは千は出す。五百は少ない」
「なぜ少ないのでしょう」
俺は、そこで一つ思い当たった。思い当たったが、口には出さずに公瑾どののところへ行った。
この人は、俺の話を聞いて湯呑みを回した。回して、しばらく黙ってから、指を止めた。
「……疑われているわね」
「そうだろうな」
「五百は様子見の数よ。本気で潰すつもりなら出さない数。かといって、無視するには多い」
湯呑みが、卓に置かれた。
「つまり、あちらは『一揆かもしれないし、そうでないかもしれない』と思っているの」
「――七乃か」
「たぶんね。あの方は、こちらが動いたことを知っているはずよ。四千三百人が館から消えているのだから、気づかないほうがおかしいわ。……気づいていて、それが一揆と結びつくかどうかを測っている」
「では、こちらの狙いはばれているか」
「ばれてはいないでしょう。ばれていたら、五百ではなく門を閉じるわ」
公瑾どのは、そこで少し目を細めた。
「あの方は、まだ決めかねている。……決めかねているうちに、着かせます。あと三日よ」
半月の夜が来た。
俺は、その夜、川の合わさるところに舟を並べていた。六艘を横に繋いで、板を渡してある。集まった組を順に川の向こうへ渡すためだ。
月は、確かに半分になっていた。
最初の組が来たのは、日が落ちて一刻ほど経ってからだった。二十人。組の頭が俺の顔を見て、少しほっとした顔をした。
名前を確かめて、渡らせた。
次の組が、四半刻ほどして来た。その次は、もっと早く来た。
真夜中には、組が重なり始めた。渡すのが追いつかなくなって、岸に待たせる列ができた。
列ができると、音が出る。人が二百も集まれば、囁いていても音になる。
俺は、待っている組を川の中へ入らせた。膝までの深さのところに立たせる。水の中では、人は喋らない。冷たいからだ。
その手は効いた。半刻ほどで、岸が静かになった。
夜が明ける前に、二百十五組のうち二百六組が着いた。
九組が、来なかった。
俺は、その九組の名前をその場で書いた。組の頭の名前と、二十人分の名前。合わせて百八十人。
「――待ちますか」
思春が、そう聞いてきた。
「待たん。日が昇る。昇ったら、この人数は隠せん」
「では、九組は」
「置いていく」
言ってから、自分の声が硬かったことに気づいた。
「……置いていくが、消したわけではない。この九組は、道を間違えたか、遅れたか、捕まったかのどれかだ。どれかは、あとでわかる。わかるまで、名前は残す」
思春は、しばらく黙っていた。
「……隊長。私が探しに行きましょうか」
「行かんでいい」
「ですが」
「あんたは一揆の頭だ。頭が消えたら、千五百が散る。……九組のために千五百を捨てるのは、俺は嫌だ」
この娘の口元が、そこで少し硬くなった。
「……隊長は、いつもそう仰います。九人のために千人を捨てるな、と。塩のときも、同じことを」
「言うな」
「ですが、九人の名前は書かれます。……捨てるのに、書くのですか」
「書く。捨てたことを、忘れないためだ」
思春は、しばらく俺を見ていた。それから、頷いた。
「……わかりました」
夜が明けて、俺たちは寿春の南三里まで進んだ。
四千百二十人。九組、百八十人が欠けている。
その日の昼、寿春の城門が閉じた。閉じたということは、こちらの正体が知れたということだ。
公瑾どのは、その報せを聞いても顔色を変えなかった。
「――予定通りよ」
「予定通りか」
「遅くとも今日だと思っていたわ。四千人が三里まで来たのよ。気づかないなら、あちらは目がないということ」
「では、これからどうする」
「囲みます。ただし、攻めません。……稲刈りが終わるまで」
「――終わるまで、か」
「今、あちらの城には三千を切る兵しかいない。稲刈りが終われば村から兵が戻ってきます。戻れば六千です」
「では、戻る前に攻めるのが道理だろう」
「道理よ。でも、攻めません」
公瑾どのが、そこで少し笑った。
「三千の城を四千で攻めても、落ちないもの。攻城には三倍要るわ。……それに、今のこちらは一揆の格好をしているのよ。攻城の道具もない」
「では、なぜ来た」
「囲むためよ。稲刈りの季節に城を囲めば、村から兵が戻れないわ。戻ろうとしても、こちらが道を塞いでいる」
俺は、その言葉の意味をしばらく考えた。考えて、腹の底が冷えた。
「……つまり、あちらは永久に三千のままか」
「そうよ」
「そして、こちらは四千百二十だ」
「城の中の飯は、三千が籠ってひと月ももたないわ。稲刈り前だもの。蔵は一年で一番空いている時期よ」
その計算を頭の中で辿って、俺は一つ気づいた。
「――待て。それは、こちらも同じではないか」
公瑾どのの目が、そこで俺のほうへ向いた。
「こちらも稲刈り前だ。四千百二十人が、ひと月食う糧はあるのか」
この人は、そこで初めてはっきりと笑った。
「ないわ」
「ないのか」
「ないわね。……ふつうなら」
湯呑みが、また回り始めた。
「でも、あなたが去年、三十村に九千三百石預けたでしょう」
俺は、その一言で理解した。同時に、腹の底がもっと冷えた。
「……あれを、ここへ運ぶのか」
「運びます」
「一つ焼かれたぞ」
「焼かれました。二十九村残っています。……三百石が焼けて、九千石残っているの。四千人が一日に食うのは四十石。二百日分よ」
「――だが、あれは村が食っている分だ。秋に返してもらう約束だ。……今は九月だ。刈り入れ前だ」
俺は、卓に手をついた。
「今持ち出せば、村は今年を越せん」
公瑾どのは、しばらく黙っていた。黙ってから、湯呑みを置いた。
「……わかっているわ」
「わかっていて言うのか」
「言います。楚航どの。私は、あなたが嫌がることを言っています。それは承知の上です」
この人の目が、そこで少しだけ伏せられた。
「でも、他に手がないの。ここで退けば、あちらは冬に兵を戻して、春に三十村を全部焼くわ。……村を守るために村から取る。矛盾しているのは知っています」
俺は、返す言葉を探した。探して、見つからなかった。
「――俺が行く」
「え?」
「二十九村を、俺が回る。頼みに行く。……取りに行くのではない。頼みに行く」
公瑾どのが、しばらく俺を見ていた。
「……違いますか」
「違う」
即答した。
「取りに行けば、次から預けてもらえん。頼みに行けば、断られるかもしれんが、次がある」
「時がありませんよ」
「二十日で回る。去年は二月かかった。今度は二十日でやる。舟を使えば、川沿いの十七村は五日で回れる」
「残りの十二村は」
「蓮華さまに頼む。あの人は去年一緒に回っている。顔を知られているし、帳面を持っている」
公瑾どのは、その案をしばらく考えていた。
「……いいでしょう。二十日です。二十日で足りなければ、私は取りに行かせます。そこは、譲れません」
「わかっている。二十日で足りるようにする」
その夜、俺は舟を出す支度をしていた。
六艘のうち四艘を使う。二艘は寿春の囲みに残す。
支度をしていると、蓮華さまが来た。
「――十二村ですね」
「聞いたか」
「聞きました。冥琳から。……一つ、確かめたいことがあります」
「言え」
「あなたは、頼みに行くと言ったそうですね。断られたら、どうしますか」
「――断られたら、引く」
「引くのですか」
「引く。断った村から取れば、その村は二度とうちに何も預けん。……一年ぶんの米より、二十九村の信のほうが重い」
「では、糧が足りなくなります。足りなければ囲みが解けます。解ければ、寿春は落ちません」
声が、少し硬かった。
「あなたは、それでいいのですか」
俺は、すぐには答えられなかった。答えられないまま、舟の縄を結び直した。
結び終わってから、口を開いた。
「――よくない」
「では」
「よくないが、両方は取れん。村の信と、寿春の城は、両方は取れん。……取れんときは、こちらが選ぶしかない」
「あなたは、どちらを選びますか」
「村だ」
蓮華さまが、少し目を見開いた。
「……即答ですね」
「即答した」
「理由を伺えますか」
「城は、また攻められる。今年落ちなくても、来年落とせばいい。三年かかっても、十年かかってもいい。……だが、村の信は、一度失うと戻らん」
俺は、縄の結び目を確かめた。
「二十年かけて、俺はそれを覚えた」
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
「……冥琳には、そう言いましたか」
「言っていない」
「なぜですか」
「言うと、止められる。あの人は正しい。正しいから、こちらの言い分が通らん。……だから、言わずに行く」
「それは、卑怯です」
「卑怯だ。だが、二十日で足りれば、この話は起きん。……起きない話を先にするのは、無駄だ」
この人は、しばらく何も言わなかった。それから、深く息を吐いた。
「……わかりました」
「――止めんのか」
「止めません。かわりに、私も同じことをします。十二村で断られたら、私も引きます」
「――あんたが引けば、あんたが責められる」
「責められます。ですが、あなた一人が責められるのは、私が嫌です」
俺は、答えられないまま縄を握り直した。
「……あんたは、変わったな。九つのときは、椀を運んできて、それだけで帰った」
「今も運びます。塩水を。……阿六に預けて」
俺は、その返しに少し笑った。
「――ばれていたか」
「ばれていました」
「自分で渡さんかったな」
「渡すと、断られると思いましたので。……あなたは、私から渡されると断ります。でも、阿六からなら受け取ります。相手を困らせたくないからです」
その分析に、返す言葉がなかった。俺は黙って舟に乗った。
乗ってから、一つだけ言った。
「――二十日だ。戻らなかったら、公瑾どのに任せろ」
「戻ってください。戻らなかったら、私、二十九村を全部回って、あなたを探します」
「……それは、時間の無駄だ」
「無駄でも回ります。私は、無駄なことをするのが好きなんです」
蓮華さまは、桟橋の端まで来て、そこで足を止めた。
「……あなたに教わりました」