長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
将になれ、と言われて素直に頷ける人間がいるとしたら、俺はそいつの神経を疑う。
陣に入って十日目の朝、俺は幕の中に呼ばれて、孫堅どのから縄で綴じた木簡の束を投げてよこされた。受け取ってみると、兵の名簿だった。二百人分ある。
「今日から貴様のだ」
「……何がだ」
「兵がだよ。二百。船は十二艘つける。増やしたけりゃ自分で集めろ」
俺は名簿を捲った。名前と、年と、出身の郡が並んでいる。ほとんどが揚州の沿岸か、川沿いの県の生まれだった。要するに、水に慣れている者を選り分けたということだ。
「孫堅どの。俺は兵を率いたことがない」
「知ってる」
「軍のいろはも知らん。号令のかけ方も、隊の分け方も、飯の配り方も知らん」
「オレも知らなかった」
その人はあぐらをかいたまま、脛を掻いていた。
「十七のときに三十人まとめて海賊を追っかけた。誰も号令のかけ方なんか教えてくれねぇから、怒鳴った。全員ついてきた。それだけだ」
「あんたが特別なんだ」
「特別じゃねぇよ。二百のうち百八十は、貴様のことをもう知ってる」
俺は顔を上げた。
「祭に調べさせた。名簿の連中に、貴様の名を知ってるかと一人ずつ聞いた。塩の船に乗ってた奴、去年あんたに助けられた村の出の奴、あんたの連れの船で櫓を漕いだことのある奴。……この川で十年も刀を持って生きてりゃ、そういうことになる。貴様は自分が無名だと思ってるようだが、川の上じゃ違う」
俺は木簡の束を手の中で持ち直した。急に重くなった気がした。
「もう一つ言っとくとな、楚航。オレが貴様に水の連中を任せるのは、贔屓でも人手不足でもねぇ。オレの兵は陸の兵だ。陸の兵に船を漕がせると、こいつら櫓を武器みてぇに振り回す。あれを見てると腹が立って仕方ねぇ」
「……それは、確かに見たくないな」
「だろう。だから貴様がやれ」
話は終わりだという顔で、孫堅どのは横になった。
幕を出ると、外で黄蓋どのが待っていた。待ち構えていた、という顔だった。
「引き受けたか」
「引き受けさせられた」
「同じことじゃ」
黄蓋どのは笑って、俺の持っている木簡を覗き込んだ。
「若いの。ひとつだけ先に言うておく。兵は、あんたが思うとる十倍は言うことを聞かん」
その言葉の意味を、俺は三日で理解することになった。
二百人を陣の一角に集めた初日、俺は自分の考えていた段取りを、開始から半刻で捨てた。
まず、集合の刻限に半分しか来なかった。残りは川岸で寝ていたり、隣の集落へ酒を買いに行っていたり、そもそも起きていなかったりした。ようやく揃ったところで隊を四つに分けようとすると、今度は「あいつと同じ隊は嫌だ」という声が三十ほど上がった。理由を聞けば、去年の漁場争いで殴り合った仲だという。
その最中に、後ろのほうで喧嘩が始まった。
俺が割って入ったときには、片方が相手の耳を噛みちぎる寸前だった。二人とも引き剥がして水に叩き込んでから、俺は残りの全員に向かって、この十年で一番大きな声を出した。
静かにはなった。半刻ほどは。
夕方には、七人が逃げていた。
「初日で七人なら上出来じゃ」
その晩、黄蓋どのは酒を舐めながらそう言った。
「わしが最初に任された隊は、三日で三十人逃げた。しかも、そのうち十人は隣の郡の賊に加わった。あのときは文台さまに殴られたぞ。今でも歯が一本ないのはそのせいじゃ」
「……慰めになっていない」
「慰めておらん。事実を言うとるだけじゃ」
黄蓋どのは杯を置いて、俺のほうへ体を向けた。
「若いの。あんたは今日、あの連中に何をさせようとした」
「隊を分けて、櫓の合わせ方を揃えようとした。舟は一人で漕ぐものじゃない。十人で漕ぐなら、十人が同じ拍で押さないと進まん」
「正しい。それで、あんたはなぜそれをやるのか、あの連中に説明したか」
俺は口を開いて、閉じた。
していなかった。言えばわかると思っていた。船に乗る男なら、櫓を合わせる意味くらい体で知っているはずだと。
「言うたはずじゃ。兵は言うことを聞かん。じゃが、聞かんのは馬鹿だからではないぞ。あの連中は、自分の腹が満ちる理由が見えんうちは動かん。あんたが川で用心棒をしとったとき、荷主が理由も言わずに『そこに立て』と命じたら、あんた立ったか」
「――立たなかっただろうな。銭の話を先にする」
「そういうことじゃ」
俺は杯の中を見ながら、しばらく考えていた。
「黄蓋どの。俺はあの連中を、兵にしなければならんのか」
「ん?」
「兵にすると、たぶん今より死ぬ。俺が号令をかけて、あいつらがその通りに動くようになれば、あいつらは俺の号令で死ぬ場所まで行く。用心棒なら逃げられる。兵は逃げられん」
黄蓋どのは、意外なほど長く黙っていた。
それから、酒を一口飲んで言った。
「そうじゃな。死ぬ。……わしが知っとる兵は、みんな死んだよ」
あっさりした声だった。
「じゃがな、若いの。あの連中は、あんたが号令をかけんでも死ぬ。去年の冬、この川で凍えて死んだ漁師が何人おったと思う。賊に売られた者が何人おったと思う。誰の号令もなしに、勝手に死んどるんじゃ。せめて、死ぬときに隣に誰かがおるようにしてやるのが、わしらの仕事じゃとわしは思うておる」
俺は何も言えなかった。
翌朝、俺はやり方を変えた。
まず、集合をかけるのをやめた。かわりに、飯の場所を川岸に移した。陣の炊事場から鍋を運ばせて、川べりで食わせるようにした。船に乗る男は、飯の匂いのするほうへは勝手に集まる。
次に、櫓の話をする前に、名簿を持って一人ずつのところへ行った。
名前を聞いて、出身を聞いて、どの船に乗っていたかを聞いた。二百人分をやるのに三日かかった。そのあいだ、訓練らしいことは何もしなかった。
四日目に、俺は全員を集めてこう言った。
「お前たちの半分は、俺と同じで、賊に何か取られている。村を焼かれた奴が三十七人、身内を売られた奴が二十二人、船を沈められた奴が四十一人いた。全部聞いた。俺の場合は母だ」
誰も口を利かなかった。
「取り返しには行けん。死んだ者は返ってこん。だが、次に取られる村を減らすことはできる。減らすためには、あの葦原みたいな寨を、川の上から見つけて潰さなきゃならん。それをやるのに一番いるのは、腕っぷしじゃない。船足だ」
俺は一艘の舟を指した。
「今の俺たちの船足では、賊の舟に追いつけん。追いつけなければ、俺たちは焼けたあとの村に着くだけだ。俺は焼けたあとの村にはもう飽きた。だから櫓を合わせる。追いつくためだ。それだけの話だ」
その日、十人漕ぎの舟を並べて競わせた。
最初はばらばらだった。だが、三度目には形になった。四度目には、負けた組が悔しがって、勝った組の押し方を聞きに行った。それを見て、俺はようやく息をついた。
逃げた七人のうち四人が、その日のうちに戻ってきた。飯の匂いに釣られたのだと本人たちは言い張ったが、たぶん半分は本当だろう。
半月ほどで、二百人は形になり始めた。
同時に、別の問題が起きた。
その日、俺が川で舟を出しているあいだに、陣で騒ぎがあった。戻ってみると、俺の隊の男が五人、後ろ手に縛られて地面に座らされていた。周りを囲んでいるのは孫堅どのの正規の兵で、そちらも三人ほど顔が腫れている。
「どういうことだ」
俺が聞くと、囲んでいる兵の一人が硬い声で答えた。
「こちらの者が、糧秣の割り当てに不服を申し立てまして。言い合いになり、先に手を出したのはそちらです」
「割り当てとは」
「水の隊には陸の隊と同じ量が出ています。ですが、こちらの者たちは『櫓を漕ぐぶん多く寄越せ』と」
俺は縛られている五人を見た。全員、名前を覚えている。そのうちの一人は、去年、賊に舟を沈められて弟を亡くした男だった。
「言い分は」
男は、ふてくされた顔で唾を吐いた。
「櫓ってのは、鍬より重いんだよ。半日押してみりゃわかる。同じ飯で同じだけ動けるかってんだ」
「それで殴ったのか」
「向こうが先に、水の連中は所詮川の賊上がりだと言った」
俺は少し考えて、囲んでいる兵のほうへ向き直った。
「その言葉を言った者は」
兵たちが顔を見合わせた。腫れた顔の一人が、渋々といったふうに前へ出た。
「……私です」
「なぜ言った」
「言い過ぎました。ですが、こちらにも言い分はあります。我々は昨日、夜通しで柵を組みました。その横で、水の隊は昼のうちから川で飯を食っていた。楽をしていると見えたのです」
俺は頷いた。
「そう見えるだろうな。俺が飯を川岸に運ばせている。そのぶん、あんたたちは炊事場が狭くなっているはずだ。そこまで気が回っていなかった。悪かった」
兵が虚を突かれた顔をした。俺が謝るとは思っていなかったのだろう。
俺は縛られている五人のほうへ向き直った。
「お前たちは、飯を余分に寄越せと言った。それは筋が通っている。櫓は重い。だが、筋が通っている話を、殴って通したのはお前たちの負けだ。殴って通した要求は、次から誰も聞かなくなる」
「じゃあどうしろってんだ。黙って腹減らしてろってのか」
「俺のところへ来い」
俺は名簿の束を掲げた。
「俺がお前たちの飯の量を数えて、上に持っていく。通らなかったら、俺が孫堅どのに直に言う。それでも通らなかったら、俺の分をお前たちで分けろ。それで足りないと言うなら、そのときは俺を殴っていい」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、縛られている男が、ぼそりと言った。
「……あんた、変な将だな」
「将になって半月だ。まだ何が変かもわからん」
その晩、俺は黄蓋どのと一緒に糧秣の帳面を見た。
水の隊の消費が、陸の隊より確かに多いことは数字に出ていた。だが、それを増やすと全体の勘定が合わなくなる。半刻ほど二人で唸ってから、黄蓋どのが言った。
「量は増やせん。じゃが、中身は変えられるかもしれんな」
「中身」
「魚じゃ。この川は魚が獲れる。あんたの隊は舟を出しとるんじゃから、網を積んでいけばよかろう。獲った魚はあんたの隊のものにする。これなら軍の勘定に触らん」
俺は、思わず声を上げて笑った。
「――それは考えなかった」
「あんたは真面目すぎるんじゃ。真面目な将は好かれるが、飯は増やせん。増やせる将のほうが、長く保つぞ」
結局、その案は通った。
翌日から、俺の隊の舟には網が積まれるようになった。訓練の帰りに網を入れ、獲れた魚は川岸で焼いて食う。文句を言っていた五人が、誰よりも熱心に網を打つようになった。ついでに、陸の兵にも余った分を回すようにさせた。ひと月もすると、殴り合いは起きなくなった。
この頃から、俺の後ろに小さな影がつくようになった。
「ねぇ、今日はどこまで行くの」
朝、桟橋で舟の縄を解いていると、いつの間にか雪蓮さまが立っていた。
この十日ほど、毎朝これだ。夜が明けるより早く起きて、川岸まで降りてきている。孫堅どのが知っているのかどうかは、俺は聞かないことにしていた。
「下流の州の手前までだ。舟を並べて漕ぐ稽古をする」
「私も乗せて」
「駄目だ」
「なんで」
「あんたの母上が許していないからだ」
雪蓮さまは、露骨に頬を膨らませた。
「母様は『水練で足を取られなくなったら』って言ったの。私はもう取られないわ。証明できる」
「どうやって」
「ここから飛び込んで、向こう岸まで泳いでみせる」
俺は縄を解く手を止めた。
「――やめておけ。今の時期は流れが速い。あんたが向こう岸に着く頃には、ここから三里は流されている」
「三里くらい平気よ」
「あんたが平気でも、俺が困る。あんたを迎えに行くために舟を出したら、今日の稽古が半日潰れる。二百人の半日だ」
雪蓮さまは、そこで初めて口を閉じた。
この子は、頭ごなしに駄目だと言うと倍になって返ってくるが、数の話をすると急に黙る。母親譲りなのだろう。
「……なら、乗せてくれたら潰れないじゃない」
「屁理屈だな」
「屁理屈でも通ればいいのよ、って母様が言ってたわ」
俺は溜め息をついた。
「一つだけ聞く。あんたはなぜ舟に乗りたい」
雪蓮さまは、少し意外そうな顔をした。それから、真面目に考える顔になった。
「……母様が、いつか私に軍を渡すって言ったから」
「ほう」
「渡されたときに、私が何も知らなかったら、みんな死ぬでしょ。母様の兵は強いけど、水の上では弱い。それは私でもわかるもの。だから、水のことは早く知りたいの」
俺は、しばらくこの子の顔を見ていた。
十四か、五だ。俺がその年の頃には、明日の飯のことしか考えていなかった。
「――わかった。乗せる」
「ほんと!?」
「ただし条件がある。三つだ」
俺は指を立てた。
「一つ。俺の許しなく舟から立つな。舟の上で立つのは、慣れた者でも落ちる。二つ。母上と黄蓋どのには俺から話す。あんたが黙って乗ったことにするのは無しだ。三つ」
「三つ?」
「乗るからには漕げ。見物は乗せん」
雪蓮さまは、目を丸くして、それから笑った。
この子の笑い方は、本当に母親そっくりだった。
「いいわ。漕ぐ」
その日から、俺の舟には十人と少し乗るようになった。
言っておくが、雪蓮さまの櫓はひどいものだった。力任せに押すので拍が乱れ、周りの九人が引きずられる。半刻で手のひらが破れて血が出た。それでも、その日は最後まで押した。次の日も来た。その次の日も来た。
十日ほどで、この子は八人漕ぎの舟の拍を乱さなくなった。
俺は正直、舌を巻いた。
初陣は、思っていたより早く来た。
下流の県から、賊が三度続けて村を襲ったという報せが入った。二十艘ほどの舟で来て、荷を取り、人を連れて南へ下る。孫堅どのが討伐に出ることになり、俺の隊にも下知が下りた。
「陸から追い込む。貴様は川で受けろ」
幕の中で、孫堅どのはそう言った。
「南へ下る道は、この山と川に挟まれてる。オレが山側から押せば、連中は川へ逃げるしかねぇ。そこを叩け」
「叩き方はこちらで決めていいか」
「好きにしろ」
俺はその晩、隊の全員を川岸に集めた。
焚き火を挟んで、地面に川の形を描いた。
「明日、賊はこの辺りで川へ出てくる。二十艘だ。まともにぶつかると、こっちの十二艘では包まれる。だから、ぶつからん」
俺は、描いた川の中ほどを指した。
「ここに浅瀬がある。増水で沈んでいるが、去年の秋に土砂が溜まった場所だ。深さは腰くらいしかない。俺たちの舟は喫水が浅いから通れる。連中の舟は荷を積んでいるから、通れば底を擦る」
「誘い込むんですね」
声を上げたのは阿六だった。この半月で、こいつは俺の伝令のようなことをするようになっていた。
「そうだ。そのために、まず逃げる」
男たちがざわついた。
「逃げるんですか。初陣で」
「逃げる。全力でだ。追わせて、浅瀬の上を通らせる。連中の舟が動かなくなったところで、こっちが向き直る。それから――」
俺は焚き火の枝で、舟を横に並べた形を描いた。
「舟を横に並べて縛る。舷と舷を縄で結んで、板を渡す。そうすれば足場が広くなる。舟の上で斬り合うと、慣れた者でも三人に一人は水に落ちる。落ちれば戦力にならん。俺たちは足場を作って、向こうは足場がないまま来る。それで勝つ」
「縛ったら動けなくなるんじゃ」
「動けなくなる。だから浅瀬に嵌めてからやる。順番の話だ」
男たちは、しばらく地面の絵を眺めていた。
やがて、例の五人のうちの一人――弟を亡くした男が、口を開いた。
「隊長。逃げるところ、俺にやらせてくれ」
「なぜだ」
「一番速く漕げる自信がある。それに、逃げるふりってのは、たぶん一番怖い。怖い役は、慣れてる奴がやったほうがいい」
俺は頷いた。
「頼む」
翌日は、雨だった。
増水した川に雨が加わって、流れは前日よりさらに速かった。俺たちは夜明け前から浅瀬の下流に舟を伏せ、待った。
昼近くに、山のほうで喊声が上がった。孫堅どのが押し始めたのだ。
半刻ほどで、上流から舟の影が現れた。数えると十九艘。荷を積み、人も乗せている。連れ去られた者だろう。舟は思ったより速く、こちらへ真っ直ぐ下ってくる。
「――行け」
俺の合図で、先頭の三艘が飛び出した。
賊の舟から声が上がった。こちらを見つけて、追ってくる。三艘は舳先を返して逃げた。逃げ方が上手かった。速すぎず、遅すぎず、追いつけそうで追いつけない距離を保っている。
賊の舟が、次々と浅瀬に乗り上げていった。
鈍い音が、雨の中を続けて響いた。舟が止まり、傾き、櫓が空を掻く。舵を切ろうとした後続が、前の舟にぶつかって重なった。十九艘のうち、十二艘までが動きを止めた。
「並べろ! 縛れ!」
俺は怒鳴った。
伏せていた九艘が一斉に出て、舷を寄せる。縄が投げられ、舷と舷が結ばれ、渡し板が架けられていく。半月のあいだ、飽きるほどやらせた作業だった。四十を数える前に、九艘は一枚の板の上のようになった。
俺は先頭に立った。
「――行くぞ」
賊が飛び移ってくる。だが、こちらは足場がある。二人がかりで一人を相手にできる。俺は正面の一人を斬り伏せ、次の一人の膝を薙いだ。左右で味方が槍を突き出している。舟の上の斬り合いというより、狭い橋の上の戦いに近かった。
思ったより、あっけなかった。
四半刻ほどで、賊の半分は水へ落ち、残りは舟を捨てて岸へ逃げた。岸には孫堅どのの兵が回っている。逃げた先で捕まるだろう。
俺は肩で息をしながら、連れ去られた者を乗せた舟を探した。三艘目にいた。縄で繋がれた十数人が、舟底に座らされている。
そこへ、賊の一人が刀を振り上げるのが見えた。
距離があった。俺の足では間に合わない。
――間に合わせたのは、俺ではなかった。
横合いから舟が突っ込んで、賊を舷ごと吹き飛ばした。
舳先に立っていたのは、雪蓮さまだった。
俺は自分の目を疑った。この子は陣に置いてきたはずだ。孫堅どのに話を通して、今日は出さないと決めていた。
「――雪蓮さま!」
「話はあと!」
舟が横づけになる。雪蓮さまは、腰の短い剣を抜いて、縄を切りにかかった。
俺は舷を蹴って、その舟に飛び移った。
飛び移りながら、背筋が冷たくなっていた。この子の舟には、漕ぎ手が三人しか乗っていない。舵も甘い。増水した川でこの人数は、流されたら戻れない。
「なぜ来た」
「だって、あなたが誰も見てなかったんだもの」
雪蓮さまは縄を切りながら答えた。
「あなた、正面ばっかり見てた。私、上から見てたからわかったの。人を乗せた舟が三艘、後ろに残ってるって。誰も行かないなら私が行くしかないでしょ」
俺は言葉に詰まった。
その通りだった。俺は自分の隊の足場を作ることに気を取られて、連れ去られた者の乗った舟を見ていなかった。半月かけて仕込んだ戦法が上手くいったことに、少し浮かれてもいた。
「――あとで叱る」
「わかってる」
その舟にいた十四人は、全員無事だった。
陣に戻ったのは、日が落ちてからだった。
俺は真っ先に孫堅どのの幕へ行き、雪蓮さまが勝手に舟を出したこと、それを止められなかったのは俺の落ち度であること、その結果として十四人が助かったこと、この三つを順に報告した。
孫堅どのは、腕を組んで聞いていた。
聞き終わって、最初に言ったのはこうだった。
「その三艘に気づかなかったのは、貴様の落ち度だな」
「――ああ」
「次は数えろ。敵の舟の数を最初に数えて、潰した数を引け。合わなけりゃ、どこかに残ってる」
「わかった」
「よし。じゃあ、そっちは終わりだ」
孫堅どのは、そこで幕の入り口へ声を投げた。
「雪蓮。入れ」
入ってきた雪蓮さまは、さすがに神妙な顔をしていた。
孫堅どのは、娘を正面に座らせて、しばらく黙って見ていた。それから、拳で娘の頭を、軽くない力で殴った。
雪蓮さまが、頭を押さえてうずくまった。
「痛っ!」
「漕ぎ手三人で増水した川に出るな。馬鹿か貴様は」
「でも、助けたわ!」
「助けた。そこは褒める。だから一発で済ませてやってんだよ」
孫堅どのは、そう言って娘の頭をわしわしと撫でた。
「いいか雪蓮。今日、貴様が流されて死んでたら、助けた十四人はまとめて『孫堅の娘を殺した連中』になる。あいつらの村ごと、この先ずっとそう言われる。それが嫌なら、次は漕ぎ手を六人集めてから行け」
「……はい」
「返事はいい。楚航」
「なんだ」
「こいつを舟に乗せてるらしいな。祭から聞いた」
俺は姿勢を正した。ここは怒られるところだと思った。
「――勝手に決めた。悪かった。だが、この子は」
「続けろ」
「……いいのか」
「オレが水の上で娘を守れねぇのは事実だからな。貴様が守るなら文句はねぇ。ただし」
孫堅どのは、指を一本立てた。
「死なせたら、オレは貴様を斬る。手加減はしねぇ」
「――当然だ」
それだけの話だった。
その夜、川岸で焚き火を囲んでいると、雪蓮さまがまたやってきた。
頭を押さえながら、俺の隣に腰を下ろす。周りの男たちが慌てて姿勢を正したが、この子は手を振ってそれを止めた。
「痛いわ。母様、加減ってものを知らないんだから」
「加減されていたと思うぞ。あの人が本気で殴ったら、あんたの頭は残っていない」
「あなたも言うようになったわね」
雪蓮さまは焚き火に手をかざした。
しばらく、二人とも黙っていた。川の音と、遠くで男たちが魚を焼いている音だけがしていた。
「――ねえ、楚航」
「なんだ」
「あなた、今日、私が来たとき怒ったでしょ」
「怒った」
「でも、殴らなかった。母様は殴ったのに」
「俺はあんたの母上ではないからな。それに、俺が殴ったら、あんたの母上に殴られるのは俺のほうだ」
雪蓮さまは笑った。それから、少し声を落とした。
「あのね。母様に殴られるのは、慣れてるの。私が悪いことをしたときは、いつも殴られる。だから、殴られると『ああ、終わったな』って思えるの」
「……ふむ」
「でも、あなたに怒られたときは、終わらなかった。ずっと考えてた。次はどうすればいいのか。漕ぎ手を六人集めるとか、そういうこと。……これって、あなたのほうが厳しいってことじゃない?」
俺は思わず、この子の顔を見た。
十四か五の子供が言うことではなかった。
「――そうかもしれんな」
「やっぱり」
「だが、それはあんたの手柄だ。考えたのはあんただ。俺は何も言っていない」
雪蓮さまは、少し驚いた顔をして、それから照れくさそうに膝を抱えた。
「……ねえ、楚航って呼ぶの、そろそろやめてもいい?」
「なんと呼ぶ」
「子渡。字のほうよ。あなた、母様の家臣なんでしょ。だったら私が名で呼ぶのは失礼だって、祭が言ってたわ」
俺は少し考えて、頷いた。
「好きにしてくれ」
「じゃあ子渡ね。……あ、そうだ。私の真名、教えてあげる。雪蓮っていうの」
「知っている。皆がそう呼んでいる」
「知ってるのと、私が許すのは違うのよ」
雪蓮さまは、まっすぐにこちらを見た。
子供の顔をしていたが、目だけは大人と同じ据わり方をしていた。
「私が許すわ。呼んでいいわよ、雪蓮って」
俺は返事に迷った。
この土地では、真名は自分が認めた相手にだけ許す名だ。俺のような、拾われて十日かそこらの男が受け取っていいものではない。
だが、断るのは、それ以上に失礼だった。
「――ありがたく」
「うん」
雪蓮さまは満足そうに頷いて、それから、思い出したように付け加えた。
「じゃあ、あなたの真名も教えてよ」
俺は、火を見たまま黙った。
母が呼んでいた名がある。灘、という。荒れた瀬のことだ。もう十年以上、誰にも呼ばれていない。
この子に教えるのは、たぶん、そう難しいことではなかった。この子は今日、十四人を助けた。母親譲りの度胸があり、母親にはない目の配り方をする。悪い相手ではない。
それでも、俺の口はなぜか動かなかった。
「……いずれな」
「ええー、ずるい。私は教えたのに」
「俺のは、まだ渡せるほど磨けていない。もう少し置かせてくれ」
我ながら、ずいぶん苦しい言い訳だった。
雪蓮さまはしばらく頬を膨らませていたが、やがて立ち上がって、こちらを見下ろした。
「いいわ。待ってあげる。……でも、私が最初だからね。ほかの誰かに先に教えたら怒るわよ」
言い残して、走っていった。
俺は焚き火に枝を足しながら、しばらく自分の膝を眺めていた。
なぜ言わなかったのか、自分でもわからなかった。
あのとき言っておけばよかったのだと、俺が思うのはずっと先のことだ。
その頃には、この子はもう、あの笑い方をしなくなっていた。
口調やセリフも試行錯誤しながら進めてます