長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
千九百人が出てきたあと、城は三日静かだった。
門は開いたままだった。閉じる者がいなかったのだと、後で知った。門を閉じるには、内側から閂を通す者が要る。その役目の兵が、千九百人の中に混じって出ていた。
俺たちは、その三日、何もしなかった。
攻めなかったのではない。攻める必要がなかった。開いた門の前に兵を並べて、出てくる者に飯をやり、名前を聞いて、村へ帰すか隊へ入れるかを決める。それを三日続けた。
三日目の朝、公瑾どのが陣へ来て、そろそろですね、と言った。湯呑みを持たずに来ていた。この人が手ぶらで来るのは珍しい。
「五百残っています。三日出てこないということは、出る気がないということです。……あるいは、出られない」
「出られん、とは」
「出たら殺されると思っているのでしょう。あるいは、出ることを許されていない」
俺はその言い方に引っかかった。許されていない、というのは、五百のうちに出たい者がいるという意味だ。公瑾どのは頷いて、そういう例は珍しくありません、と続けた。籠城が終わるときは、たいてい中で割れる。開けたい者と、開けたくない者に。
「入りますか」
「入る。……ただし、条件が一つある」
条件、と復唱されたので、俺は前もって考えていたことを言った。門から入るのは百人までにする。四千人で押し込めば、中の者は殺されると思う。思えば刀を抜く。抜かせたら、そこから先は戦になる。
百では危ないですよ、と公瑾どのが言った。危ない、と俺は認めた。危ないが、四千で入るほうが危ない。
「では、その百は誰が率いますか」
聞くまでもない、という顔をされたので、俺は素直に答えた。
「俺が行く」
中に入って、まず驚いたのは静けさだった。
城の中に五百人いるはずだった。それだけの人数が籠っていれば、必ず音がする。飯を炊く音、水を汲む音、話し声。そのどれもがなかった。
俺は百人を三つに分けて、道の左右と真ん中を進ませた。左右は建物の陰を見ながら、真ん中は俺が歩いた。歩くのが遅いので、両側のほうが先に進む。それでいい。俺が先頭になっても仕方がない。
三町ほど進んだところで、最初の人影を見つけた。
道の脇に、男が座っていた。兵の格好をしている。槍を膝に横たえて、壁にもたれていた。目は開いていた。
俺が近づくと、その男は顔を上げた。上げただけで、槍には手をかけなかった。
「……孫策の兵か」
「そうだ」
「遅かったな」
男はそう言って、少し笑った。笑おうとして、うまくいかなかったらしい。頬が動いただけだった。
「あんたら、三日待っただろう。……あの三日で、三十人死んだ」
俺はその場に膝をついた。片膝しかつけないので、格好が悪い。それでも、立ったまま話す気にはなれなかった。
「なぜ死んだ」
「飯だ。……いや、正確には水だ。井戸が涸れた」
男はそう答えて、槍の柄を握り直した。握ったが、それだけだった。
「一昨日から、井戸に水が来ない。……この城の井戸は、雨に頼っとる。今年は少なかった」
俺はその言葉を、しばらく飲み込めなかった。
水を断つ、というのは、俺が北の黄巾を囲んだときに使った手だ。あのときは、川へ出る道を押さえた。今回は、何もしていない。囲んだだけだ。
それでも、井戸は涸れた。
「――水を持ってこさせる」
俺はそう言って、後ろへ合図した。阿六が走っていく。城の外に、川から汲んだ水がある。三千六百人分を毎日運んでいるので、余分はいくらでもあった。
男は、その様子を黙って見ていた。見てから、こう聞いた。
「……なぜ、水をくれる」
「渇いている者に水をやる。飢えている者に飯をやる。……それで済むことが多い」
「済まんこともあるだろう」
「ある。そのときは斬る」
男は、その答えに少し目を細めた。それから、槍を地面に置いた。置いてから、両手を膝の上に載せた。
「……奥だ。姫さまは、奥の間におられる」
城の奥へ着くまでに、俺たちは百二十人ほどを見つけた。
ほとんどが座り込んでいた。歩ける者は少なかった。水を配りながら進んだので、着くまでに半日かかった。
水を配る役は、途中から城の兵が手伝い始めた。誰が言い出したわけでもない。動ける者が桶を持って、動けない者のところへ運ぶ。俺の隊の者と、城の兵が混ざって同じことをしていた。
その光景を見ながら、俺は少し妙な気分になっていた。半日前まで、こちらは囲む側で、あちらは籠る側だった。
奥の間の前に、女が一人立っていた。
絹の袍を着ていた。汚れていた。裾が泥で黒くなっていて、袖が破れている。三日、何もしていないわけではないのだと、その汚れ方でわかった。
顔は、以前見たときと同じだった。にこにこと笑っていて、目が笑っていない。
「……あらー。楚航さんですねぇ」
名前を覚えられていた。俺はそのことに少し驚いた。
「一度しか会っていないはずだが」
「二度ですよぉ。連合のときと、恩賞のときと」
七乃はそう言って、袖で額を拭いた。拭った袖のほうが汚れていたので、額に泥がついた。本人は気づいていない。
「わたしは、楚航さんのことをずっと調べておりました。……なので、覚えているんです」
「調べていたか」
「調べていましたよぉ。塩を止めたのも、村を焼いたのも、わたしです」
あっさりと言われた。俺は、それを聞いても腹が立たなかった。腹が立たなかったことに、自分で少し驚いた。
「――村を焼いたのは、なぜだ」
「守るものを増やせば、兵が分かれるからです」
この女は、そう答えた。答え方が事務的だった。
「三十村ありましたよねぇ。全部守ろうとしたら、兵を三十に分けるしかない。分けたところを叩けば、まとめて潰せます。……そういう算段でした」
「うまくいかなかったな」
「うまくいきませんでした」
七乃はそう言って、少し首を傾げた。
「楚航さんが、村を守らなかったからです。……あれは、意外でした」
俺はその言い方に、初めて何かを感じた。
村を守らなかった。確かに、そうだ。俺は焼かれた村へ駆けつけたが、間に合わなかった。間に合わなかったあと、残りの二十九村に兵を置かなかった。
置けば、この女の思う壺だったからだ。
「……置いたほうがよかったか」
「置いてほしかったですねぇ」
あっさり言われた。
「置いてくれたら、わたしたち、勝てました。……でも、置かなかった。かわりに、村を回って米をもらってきた。あれは、わたしには思いつきませんでした」
この女は、そこで初めて笑い方を変えた。目が笑った。
「悔しいです」
奥の間には、袁術がいた。最初、俺は子供が寝ていると思った。それくらい小さく見えた。
卓の下に潜り込んで、膝を抱えて座っていた。豪奢な衣を着ているが、それも汚れていた。顔を見ると、以前と同じだった。十をいくつか越えたくらいにしか見えない。実際にはもっと上のはずだが、そうは見えなかった。
俺が入ると、その娘は顔を上げた。上げて、こちらを見て、それから七乃を見た。
「……七乃。この者は」
「孫策さんのところの方ですよぉ」
「そうか」
袁術は、それだけ言って、また膝に顔を埋めた。俺はその様子を、しばらく見ていた。
この娘が何をしたかは知っている。塩を止め、村を焼き、うちの兵を二百人倒れさせた。孫堅どのを荊州へ行かせたのも、この家だ。
それが全部、この娘の頭から出たとは思えなかった。だが、この娘の名で行われたことは事実だった。
俺は、その日、雪蓮さまを城へ呼んだ。
呼ぶ前に、一つだけ手を打った。城の中の五百人を、全員外へ出した。動けない者は運ばせた。全員に水と飯をやってから、名前を聞いた。
名前を聞き終わるのに、また半日かかった。
その半日、袁術と七乃は奥の間に置いた。逃げるとは思わなかった。逃げる場所がない。
雪蓮さまが城に入ったのは、その夜だった。
公瑾どのと、蓮華さまと、祭どのが一緒だった。思春は外に残した。この娘は一揆の頭として顔を晒しているので、城の中に入れると話がややこしくなる。
奥の間に入って、雪蓮さまは真っ先に卓の下を見た。それから、しばらく黙っていた。
「……これが」
「そうだ」
「小さいわね」
声が硬かった。俺はその硬さの意味を測りかねた。
袁術は、卓の下から出てこなかった。出てこないまま、こう言った。
「妾は、袁術じゃ」
「知ってるわよ」
「そうか」
それきり、また黙った。
七乃が横から口を挟んだ。姫さま、出てきてくださいねぇ、と言う。袁術は首を振った。振ってから、小さい声で、怖い、と言った。
その一言で、部屋の空気が変わった。誰も、すぐには喋らなかった。
最初に動いたのは、祭どのだった。この人は卓の脇に膝をついて、下を覗き込んだ。
「姫さん。わしは黄蓋という」
「知らぬ」
「知らんでよい。……ただ、一つだけ聞かせてくれんか」
祭どのはそう言って、少し声を柔らかくした。
「あんた、村を焼けと言うたか」
袁術は、しばらく答えなかった。
答えないまま、七乃のほうを見た。七乃は何も言わなかった。何も言わないことが、答えだった。
「……妾は、言うておらぬ」
「そうか」
「じゃが、妾の名で焼いたのじゃろう。……七乃が、そうしたのなら、それは妾がしたのと同じじゃ」
その答えを聞いて、祭どのが少し目を細めた。俺も、少し意外だった。この娘は、そういう理屈を持っているらしい。
祭どのは膝をついたまま、しばらく黙っていた。それから立ち上がって、雪蓮さまのほうを見た。
「孫策どの。……わしは、これ以上聞かん」
雪蓮さまは、その言葉に頷いた。頷いてから、卓の下へ向かって言った。
「出てきなさい。話をするわ」
袁術は、しばらく動かなかった。動かないまま、こう聞いた。
「妾を斬るのか」
「たぶんね」
雪蓮さまは、正直に答えた。
「たぶん、って何じゃ」
「まだ決めてないの。……決めるのに、あなたの顔を見たいのよ」
その言い方に、袁術がようやく顔を上げた。上げて、卓の下から這い出してきた。
立ち上がると、俺の腰くらいまでしかなかった。その夜の話し合いを、俺は最後まで聞いていた。
話し合いというより、雪蓮さまが聞いて、袁術が答える形だった。塩を止めた理由。村を焼いた理由。孫堅を荊州へ行かせた理由。
答えたのは、ほとんど七乃だった。
袁術は、途中で何度か口を挟んだ。挟んだ内容は、たいてい的外れだった。だが、一つだけ、はっきりと自分で答えた場面があった。
孫堅を荊州へ行かせた理由を聞かれたときだ。
「……あれは、妾が決めた」
七乃が、そこで初めて焦った顔をした。姫さま、と止めようとしたが、袁術は続けた。
「孫堅は強かった。強すぎた。……妾の下におるのに、妾より強いのは、おかしいじゃろう」
その理屈を聞いて、雪蓮さまがしばらく黙った。
「だから、減らそうと思うた。荊州へやれば減ると、七乃が言うた。……妾は、それでよいと言うた」
袁術は、そこで少し口を尖らせた。
「じゃが、死ぬとは思うておらんかった」
俺はその言葉を聞いて、腹の底が重くなった。思っていなかった、というのは、たぶん本当だろう。この娘は、減らすということが何を意味するかを、たぶん本当に知らなかった。
知らないまま、決めた。雪蓮さまは、その答えを聞いてから、長いこと何も言わなかった。
言わないまま、立ち上がった。
「――明日の朝、決めるわ」
その夜、俺は城壁の上にいた。左脚が痛んだので、階段を上るのに手間がかかった。上ってしまえば、あとは座っているだけだ。
城壁からは、外の陣が見えた。焚き火が並んでいる。三千六百人分の火だ。その手前に、城から出た五百人分の火がある。混ざって見分けがつかない。
足音がして、雪蓮さまが上がってきた。この人は、俺の隣に座って、しばらく黙っていた。
「……ねえ、灘。あの子、いくつだと思う」
「わからん。……十四か、十五くらいに見える」
「十七ですって」
俺はその数字に少し驚いた。見た目より三つ上だ。
「小蓮より二つ上よ」
雪蓮さまはそう言って、膝を抱えた。
「私、それを聞いたとき、何とも思わなかったの。……思わなかったことに、あとで気づいたわ」
声が、少し低かった。
「小蓮より二つ上の子を、明日斬るのよ。……なのに、何とも思わなかった」
俺はその言い方を、しばらく考えていた。考えて、こう答えた。
「思わなかったのではない。……思わないようにしていたんだろう」
「同じでしょ」
「違う」
俺はそう言って、外の焚き火を見た。
「思わないようにしている者は、あとで気づく。……あんたは、気づいた。だから、こうして俺のところへ来た」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
「……ねえ、灘。あなたなら、どうする」
「斬る」
即答したので、この人はこちらを見た。目が、少し驚いていた。
「即答ね」
「即答した。……理由は二つある」
俺はそう言って、指を折りかけて、やめた。数える癖が出そうになった。
「一つは、生かすと戦が続くからだ」
「この娘を生かして、どこかへ置く。……そうすると、この娘の名を担ぎたい者が必ず出る。担がれた娘は、また誰かに命じられて、また誰かを減らそうとする」
「……」
「もう一つは、うちの兵に説明できんからだ」
俺はそう続けた。
「二百人が倒れた。村が焼けて、十五人が戻らなかった。……その二百十五人に、なぜあの娘が生きているのかを、俺は説明できん」
雪蓮さまは、しばらく何も言わなかった。言わないまま、こう聞いた。
「……あなた、それでいいと思ってるの?」
「思っていない」
俺は正直に答えた。
「思っていないが、他の答えを持っていない」
「持ってないの?」
「持っていない。……二十年考えたが、こういうときの答えは出ていない」
この人は、そこで少しだけ笑った。笑い方が、疲れていた。
「……そう。じゃあ、私が決めるわ」
「そうしてくれ」
「決めるのが仕事だものね」
雪蓮さまはそう言って、立ち上がった。立ち上がってから、こちらを見ずに言った。
「灘。一つだけ、頼んでいい?」
「言え」
「あの子の名前、書いておいて」
俺はその頼みを、すぐには飲み込めなかった。
「……あんたの敵だぞ」
「敵よ。でも、書いておいて」
この人はそう言って、階段のほうへ歩いた。
「うちの兵の名前は、あなたが全部書いてるでしょ。……あの子の名前だけ書かないのは、なんか、卑怯な気がするの」
翌朝、雪蓮さまは袁術を斬った。場所は城の庭で、見ていたのは十人ほどだった。
俺は、その十人の中にいた。
袁術は、暴れなかった。泣きもしなかった。庭の真ん中に座らされて、しばらく空を見ていた。それから、七乃のほうを見た。
「七乃」
「はい、姫さま」
「妾は、うまくやれたか」
その問いに、七乃はすぐには答えなかった。答えないまま、この娘の前に膝をついた。膝をついて、汚れた袖で袁術の頬の泥を拭いた。
「……よくやりました。姫さまは、よくやりましたよぉ」
「そうか」
「はい」
「なら、よい」
袁術はそう言って、また空を見た。雪蓮さまが剣を抜いたとき、この娘は目を閉じなかった。閉じないまま、最後にこう言った。
「妾は、蜂蜜が好きじゃ」
一合だった。俺は、その言葉を帳面に書いた。
名前と、その日と、その一言を書いた。なぜ書いたのかは、自分でもよくわからなかった。ただ、書かないと消える気がした。
七乃は、その場で自分から斬られようとした。雪蓮さまが止めた。
「――あなたは斬らないわ」
「なぜですかぁ」
「使えるからよ」
その答えを聞いて、七乃が初めて本気で驚いた顔をした。
「……使う、ですか」
「そう。あなた、うちの兵が何人倒れたか知ってるでしょ。塩を止めたら何日で倒れるかも、村を焼いたら兵がどう分かれるかも、全部計算したんでしょ」
雪蓮さまはそう言って、剣を鞘に納めた。
「その頭を捨てるのは、もったいないわ」
七乃は、しばらく何も言わなかった。言わないまま、地面を見ていた。それから、こう聞いた。
「……姫さまを斬っておいて、わたしを使うんですか」
「使うわ」
「わたしは、恨みますよぉ」
「恨みなさい」
雪蓮さまは、あっさりと言った。
「恨んで、それでも使えるなら、それでいいわ」
七乃はそのあと、三日黙っていた。三日目に、公瑾どののところへ行って、寿春の帳面を全部差し出したという。
その話を聞いたとき、俺は少し複雑な気分になった。九組・百八十人の行方がわかったのは、その帳面からだった。
半月の夜に来なかった九組だ。俺は名前を全部書いて、置いていった。
帳面には、こう記録されていた。
九月十四日、南の街道にて不審の一団を捕らえる。人数は百八十。うち七十を斬り、百十を城内に収容。
俺は、その行を三度読んだ。七十が斬られている。百十が城の中にいた。
城から出てきた者の中に、いたはずだった。
「――名簿を出せ」
俺は蓮華さまに言った。この人は、城から出てきた者の名前を全部書いている。三日かけて、二千二百人分を書いた。
照らし合わせるのに、また二日かかった。百十のうち、九十四人が見つかった。
残る十六人は、城の中で死んでいた。井戸が涸れた三日で死んだ三十人の中に、混じっていたのだろう。
九十四人は、うちの隊に戻った。
戻ってきた者たちに、俺は何も言わなかった。言うことがなかった。捕まったのはこちらの手落ちで、置いていったのは俺の判断だ。
一人が、俺の前に来て、頭を下げた。
「……隊長。申し訳ありません」
「謝ることではない」
「道を間違えました。……月を見て曲がるところを、雲で見えなくて」
俺はその言葉を聞いて、しばらく黙った。
半月の夜は、確かに雲が出ていた。俺は川の合流点にいたので、月が見えなくても水音でわかった。だが、街道を歩いていた者には、月しか手がかりがなかった。
俺の作った仕組みが、雲一つで穴を開けた。
「……こちらの落ち度だ」
「月だけに頼らせた。……次は、二つ用意する」
その男は、しばらく何か言いたそうにしていた。だが、結局何も言わずに下がった。
寿春を出たのは、九月の末だった。城は、そのままにした。壊さず、焼かず、置いていった。
公瑾どのは、それについて何も言わなかった。言わないかわりに、城の帳面を全部持ち出した。租の記録、兵の名簿、糧の出入り。七乃が差し出したものと合わせて、荷車三台分になった。
「……あんた、それを全部持っていくのか」
「持っていきます。これが一番の戦利品ですよ」
この人はそう答えて、少し笑った。
「城は残ります。焼いても、また建つ。……でも、二十年分の帳面は、焼いたら戻りません」
俺はその言い方に、少し感心した。感心してから、一つ気づいた。
「――伯言どのに読ませるのか」
「読ませます。あの子なら、三月で全部頭に入れます」
「三月か」
「三月です。……そのあと、あの子は使えるようになります」
公瑾どのは荷車を見ながら、そう言った。
「私がいなくなっても、あの子がいれば呉は回る。……そのために持っていくんです」
俺はその言葉に、少し引っかかった。いなくなっても、という言い方が、少し早い気がした。
この人は、まだ二十七か二十八のはずだった。だが、俺はそれについて何も聞かなかった。
聞かなかったことを、俺は後で悔やむことになる。寿春を出る朝、俺は最後にもう一度、城の中を歩いた。
誰もいない城は、思っていたより広かった。人がいたときは狭く見えたのに、空になると廊下の長さがわかる。
奥の間へ行くと、卓がそのままになっていた。卓の下を覗くと、何か落ちていた。
拾ってみると、壺だった。小さい壺で、蓋が開いている。中を見ると、底に薄く残っていた。
匂いを嗅いで、それが蜂蜜だとわかった。俺はしばらく、その壺を持ったまま立っていた。
持ったまま、卓の下を見た。この娘は、三日ここに座っていた。水が涸れて、飯がなくなって、三日ここにいた。
その三日、この壺の中身を舐めていたのだろう。俺は、その壺を懐に入れた。
入れてから、なぜ入れたのかを考えた。考えて、答えが出なかった。
城を出るとき、門のところに雪蓮さまが立っていた。この人は、俺の顔を見て、それから懐のふくらみを見た。
「……何持ってるの」
「壺だ」
「壺?」
「蜂蜜の壺だ。……奥の間に落ちていた」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。黙ってから、手を出した。
「見せて」
渡すと、この人は蓋を開けて中を覗いた。覗いて、匂いを嗅いだ。
嗅いでから、しばらくそのまま持っていた。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「私、勝ったのよね」
「勝った」
「じゃあ、なんでこんな気分なのかしら」
俺はその問いに、すぐには答えられなかった。答えられないまま、門の外を見た。
三千六百人と、城から出た二千二百人。合わせて五千八百人が、街道に並んでいる。これから江東へ向かう列だ。
勝った側の列だった。
「……たぶん、両方だからだ」
「勝ったのも本当。……気分が悪いのも本当だ。片方だけを選ぶ必要はない」
雪蓮さまは、その言葉にしばらく黙っていた。黙ってから、壺を俺に返した。
「……また、それね」
「またそれだ」
「あなた、それしか言わないわね」
「それしか言えん」
「二十年考えたが、それ以上の答えが出ていない」
この人は、少し笑った。笑ってから、門を出た。
出てから、振り返らずに言った。
「その壺、捨てないでよ」
「捨てん」
「絶対よ」
俺はその壺を、江東まで持っていった。持っていって、家を持ってから、棚に置いた。
今も、そこにある。