長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
江東までは、五百里ある。
五千八百人でその道を行くとなると、俺の頭にまず浮かぶのは糧の勘定だった。一日に五十八石。三十日で千七百四十石。寿春から持ち出せる糧は、城の蔵にあった分と二十九村から集めた残りを足して、二千四百石ほどしかない。
紙の上では、ぎりぎり届く。届くが、途中で雨が降れば止まる。止まれば足りない。
その計算を公瑾どのに見せたら、この人は湯呑みを回しながらこう言った。
「五千八百人で行かなくていいのよ」
「――行かんのか」
「行きません。三千で行きます」
残りは、と聞くと、途中で降ろします、と返ってきた。うちの兵の出身は、寿春から江東までのあいだに散らばっている。道すがら、村ごとに降ろしていく。降ろした者は、そのまま村で冬を越して、春に江東へ来ればいい。
「江東に着いてから、いきなり五千八百人を食わせる算段のほうが難しいわ。着いた先に蔵があるわけではないもの」
言われてみればその通りだった。俺は江東を、烽火と村と川筋でしか知らない。城の蔵がどうなっているかは、十年見ていない。
春まで待たせるのか、と聞くと、公瑾どのは頷いた。待たせます。冬のあいだに、こちらは江東で蔵を作る。作ってから呼ぶ。そのほうが、全員生き延びます。
降ろす者を選ぶのは、俺の仕事になった。
名簿を繰って、出身の村を確かめる。道の順に並べ替えて、どの村でどれだけ降ろすかを決める。それを蓮華さまと二人でやった。
三日目の夜、この人が筆を止めて、こう言った。
「子渡。降ろす人に、何を持たせますか」
「――持たせる?」
「はい。手ぶらで村へ帰しても、村が困ります。冬のあいだ、食う口が一つ増えるだけですから」
俺はその指摘に、しばらく黙った。
言われるまで考えていなかった。降ろせば、こちらの糧は減る。減った分だけ楽になると、それしか見ていなかった。
「……持たせるものがあるか」
「あります。米です」
蓮華さまは帳面をめくって、寿春から持ち出した二千四百石の欄を指した。
「二千八百人を降ろすなら、一人あたり半石を持たせても、千四百石です。残りが千石。三千人で三十日なら、九百石。……足ります」
「ぎりぎりだな」
「ぎりぎりです。ですが、降ろす人が手ぶらでないほうが、春に戻ってきます」
その言い方に、俺は少し感心した。
半石持たせるのは、施しではない。春に戻ってこさせるための仕掛けだ。手ぶらで帰した兵は、村で冬を越すうちに、戻る理由を失う。
「――あんた、そういうことを、どこで覚えた」
「あなたが村を回るのを見て、覚えました」
この人はそう答えて、少し目を伏せた。
「借りを作らずに行きたい、と私が言ったとき、あなたは何も言いませんでした。……でも、あのとき思ったんです。うちが村に借りを作らないのと同じで、兵にも借りを作らせないほうがいい、と」
出立の前の晩、俺は荷をまとめていた。
まとめる、というほどのものではない。刀と、替えの衣が二枚、それに帳面。帳面がいちばんかさばる。二十年分あるので、全部は持てない。必要なところだけを写したものを持つ。写したのは蓮華さまだ。
あとは、蜂蜜の壺が一つ。包んでいると、後ろで声がした。
「……子渡。それだけですか」
蓮華さまだった。この人は、俺の荷を見て、明らかに驚いた顔をしていた。
「それだけだ」
「本当にそれだけですか。……衣が二枚と、刀と、帳面と、その壺」
「そうだ」
「家財は」
「ない」
俺がそう答えると、この人はしばらく黙った。黙ってから、なぜですか、と聞いた。
「舟が家だった」
「十で流されて、下流の漁師の家に拾われた。……その家にいたのは三年だ。あとは、ずっと舟に寝ていた。舟には物が置けん。置くと、増水したときに全部流れる」
「では、三十年、物を持たずに」
「持っていない。……用心棒をしていた頃は、刀と衣だけだった。孫堅どのに拾われてからは、それに帳面が加わった」
蓮華さまは、俺の荷をもう一度見た。見てから、こう言った。
「……壺は」
「壺は、最近だ」
「最近ですね」
この人はそう言って、少しだけ笑った。笑い方が、複雑だった。
「――あんたは、何を持っていく」
俺がそう聞くと、蓮華さまは自分の荷のほうを見た。積んである。俺のより明らかに多い。
「帳面が十二冊です。……それと、母様の形見が一つ」
「形見か」
「櫛です。母様が使っていたものを、お姉様が持っていて、私にくれました」
この人はそう言って、荷の中から小さな包みを出した。開けずに、しばらく手の中に持っていた。
「私、これを持って歩くのが、少し怖いんです」
「――なぜだ」
「失くしたら、母様が消える気がして」
俺はその言い方を、しばらく考えた。考えて、こう答えた。
「消えん」
「即答ですね」
「即答した。……あんたは、母上の顔を覚えているか」
「覚えています」
「では、消えん」
俺は包みを指した。
「その櫛は、あんたが覚えていることの一部だ。全部ではない。……全部が入っている物は、たぶんこの世にない」
蓮華さまは、しばらく櫛の包みを見ていた。見てから、荷の中へ戻した。戻すときの手つきが、少し変わった。
あわせという娘が合流したのは、その翌朝だった。寿春の兵の中にいたらしい。城から出てきた二千二百人のうちの一人で、蓮華さまが名前を書いたときには気づかなかったという。
気づいたのは、公瑾どのだった。行軍二日目の朝、この人が俺のところへ来て、面白い者がいます、と言った。
「呂蒙という娘です。年は十六。……寿春の兵の中で、書き物をしていました」
「書き物か」
「はい。糧の出納です。……七乃どのの下で、三年やっていたそうです」
俺はその話に、少し身構えた。七乃の下にいた者を入れるのは、うちの兵が嫌がる。塩を止めたのも村を焼いたのも、あの女の算段だ。
「……本人は、何と言っている」
「入りたい、と」
公瑾どのはそう答えて、少し目を細めた。
「ただし、条件をつけてきました」
「条件か」
「はい。『字を教えてほしい』と」
俺はその条件の意味が、すぐにはわからなかった。わからないまま、その娘に会いに行った。
列の後ろのほうにいた。小柄で、俺の胸くらいまでしかない。荷を背負っていて、その荷が本人より大きく見えた。
俺が名前を呼ぶと、この娘は飛び上がるように振り返って、それから深く頭を下げた。
「呂蒙と申します! 字は子明、真名は亞莎と申します!」
声が大きかった。列の前のほうまで届いていた。
「……そう張り上げんでいい」
「はっ、申し訳ありません!」
「今のも大きい」
「あっ……はい」
この娘は、そこでようやく声を落とした。落としてから、荷を背負い直した。背負い直す動きで、荷の紐が緩んで、中身が半分落ちた。
落ちたのは、木簡と紙だった。俺はそれを拾いながら、量に少し驚いた。二十枚以上ある。
「……これは」
「寿春の出納の写しです」
あわせはそう答えて、慌てて拾い集め始めた。
「三年分あります。……全部は持ち出せなかったので、大事なところだけ写しました」
「いつ写した」
「城が囲まれているあいだです」
俺は、その答えでしばらく手が止まった。
城が囲まれていたのは、ひと月近い。その間、水が涸れて、三十人が死んだ。その中で、この娘は写しを取っていたことになる。
「――なぜ、写した」
「焼かれると思ったからです」
あわせはそう答えて、拾った紙を胸に抱えた。
「城が落ちたら、たぶん焼かれます。焼かれたら、三年分の記録が消えます。……消えると、誰が何石納めたかがわからなくなります」
この娘は、そこで少し早口になった。
「わからなくなると、村が困ります。去年三十石納めた村と、五石しか納めなかった村が、同じ扱いになりますから。……そういうのは、不公平だと思います」
俺はその言い分を、しばらく聞いていた。聞いてから、こう聞いた。
「……その村は、あんたの村か」
「違います」
即答だった。
「私の村は、寿春の近くではありません。……ですが、帳面に名前が載っている村は、全部見ました。三年見ていると、覚えます」
「覚えているのか」
「はい」
「では、一つ言ってみろ。……去年、寿春から北へ三里の村は、何石納めた」
この娘は、そこで少し考えた。考えたのは一呼吸だった。
「二十七石です。一昨年が三十一石で、その前が二十九石。……去年減ったのは、夏に水が出たからです」
俺は、その答えに、しばらく黙った。
黙ってから、公瑾どののほうを見た。この人は、少し離れたところで俺たちを見ていた。目が合うと、わずかに肩をすくめた。
「――亞莎」
「はい」
「なぜ、字を教えてほしいと言った。……あんた、書けるだろう」
「書けます」
この娘はそう答えて、それから少し声を落とした。
「書けますが、下手です。……七乃さまに、いつも笑われていました」
「笑われたか」
「はい。『亞莎ちゃんの字は、鶏が歩いたみたい』と」
俺はその言い回しに、少し笑いそうになった。堪えて、こう言った。
「……うちに、もっと下手なのがいる」
「そうなんですか」
「いる。……そいつは、名前を書くのに一日三人が限度だ」
その日から、あわせは蓮華さまの下についた。字を教えるのは、蓮華さまの役になった。あの人の字は、俺が知る中で一番読みやすい。
教え始めて三日目の夜、俺は二人が並んで書いているのを見た。
焚き火の脇に紙を広げて、蓮華さまが手本を書き、あわせがそれを真似る。真似た字を、蓮華さまが直す。直されるたびに、この娘が「あっ」と声を出す。
声を出すたびに、周りの兵が振り返る。
「……亞莎」
「はい!」
「声を落とせ」
「はっ、申し訳ありません!」
「今のも大きい」
「……はい」
蓮華さまが、その横で笑いを堪えていた。堪えきれずに、少し肩が揺れていた。
俺はその様子を見ながら、少し離れたところに座った。座ってから、思った。
この娘は、七乃の下にいた。塩を止める算段の帳面を、たぶん自分で書いた。村を焼く前に、どの村に何石あるかを数えたのも、この娘かもしれない。
それを、うちに入れた。入れたことを、俺は正しいと思っていない。だが、間違っているとも思っていない。
両方だった。江東へ入ったのは、出立から二十六日目だった。
途中で二千八百人を降ろした。降ろすたびに、名前を読み上げて、米を渡して、春に来いと言った。言われた者は、たいてい妙な顔をした。戻ってこいと言われるのに慣れていないのだと思う。
残り三千人で、長江の下流に着いた。
着いた場所は、俺が二十年前に用心棒をしていた辺りだった。桟橋があって、その脇に集落がある。十年前、俺が二百三十人を残していった場所だ。
舟から降りて、俺はしばらく桟橋を見ていた。
杭が腐っていた。板が半分落ちている。船着きの脇にあった小屋は、屋根が抜けていた。
「……ここですか」
後ろで、亞莎が聞いた。
「ここだ」
「隊長が、昔いた場所ですか」
「いた。……十年前だ」
俺は腐った杭に手を触れた。触れると、表面が崩れて指についた。
「隊長」
「なんだ」
「この杭、直せますか」
俺はその質問に、少し驚いた。
「――直す?」
「はい。私、川のことは知りませんが、杭は木ですよね。……木なら、腐ったところを切って、新しいのを継げばいいのではないですか」
この娘はそう言って、杭を覗き込んだ。
「上のほうは腐っていますが、水の下は生きている気がします。……水の中の木は、腐りにくいと聞きました」
俺はその指摘に、しばらく黙った。
言われてみればその通りだった。水中の木は空気に触れないので、地上より保つ。俺は二十年舟に乗っていて、それを知っていた。
知っていて、この十年、この桟橋のことを考えていなかった。
「……直す」
「明日から直す。……阿六を呼べ。あいつは杭を打つのが上手い」
集落の者が出てきたのは、その夕方だった。
最初は一人だった。年寄りが、鍬を持って集落の入り口に立っていた。手が震えている。
俺はその年寄りの顔を、しばらく見ていた。見ていて、見覚えがないことに気づいた。十年前、俺が知っていた者ではない。
「――誰じゃ」
「楚航という」
俺がそう名乗ると、年寄りはしばらく黙った。黙ってから、鍬を落とした。
「……楚の、あんちゃんか」
俺はその呼び方に、覚えがあった。覚えがあったが、この年寄りの顔には覚えがない。
「……俺を知っているのか」
「知らんよ」
この人はそう答えて、少し笑った。
「知らんが、聞いとる。……ここへ来た者は、みんな『楚のあんちゃんが戻ってくる』と言うとった」
「みんな、とは」
「二百三十人じゃ」
年寄りは口を閉じた。
「あんたが置いていった連中じゃよ。……わしは、そのうちの一人の親父じゃ」
その夜、集落の者から話を聞いた。聞いて、俺は十年分を知った。
二百三十人のうち、今この集落にいるのは四十七人だった。残りは、散ったか、死んだか、村へ帰ったか。
散った理由は、舟を取り上げられたことだった。俺が長沙へ発って三年目に、袁の家の兵が来て、十八艘を全部持っていった。舟がなくなれば、烽火が上がっても行けない。行けなければ、村は火をつけなくなる。
五年目に、火の小屋は十まで減った。今は六つだと聞いた。
「……六つ、残ったのか」
「残った」
年寄りは口を閉じた。
「五年目に、みんなで決めたそうじゃ。全部は守れん。じゃったら、六つだけ守ろうとな」
「なぜ六つだ」
「上流の二つと、中流の三つと、この村の一つじゃ。この六つが繋がっとれば、下流の連中は逃げる時間が作れる」
俺はその話を聞いて、しばらく何も言えなかった。それは、俺が三年かけて作った網の、骨だけを残したものだった。
そして、それを決めたのは俺ではない。俺がいないところで、俺の知らない者が話し合って決めた。
「……誰が決めた」
「みんなで決めた。三日話し合ったそうじゃ」
年寄りはそう答えて、少し笑った。
「うちの倅は反対したらしい。全部残すべきだと言うたそうな。……多数決で負けたと、悔しがっとった」
俺はその話を、翌日、公瑾どのに伝えた。この人は、六つという数を聞いて、しばらく黙っていた。
黙ってから、こう言った。
「……多いわね」
「多いか」
「多いわ。私の知る限り、そういうものは主がいなくなれば三年で消えるの。……人は、報われないことを三年以上は続けられません」
公瑾どのは、湯呑みを持たない手で、指を組んだ。
「六つ残ったのは、あの網があなたの持ち物ではなかったからよ」
「……俺の持ち物ではない」
「ええ。あなたは十年前、あれを村へ渡した。渡したものは、渡した相手のものです。……だから残ったの」
俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。転がして、思い出した。
置いていくのではない、渡すのだ、と言ったのは孫堅どのだ。長沙へ発つ前に、俺がその網を手放せずにいたとき、あの人がそう言った。
自分がいなくても回る仕組みを作ると言ったんだろう、なら貴様がいなくなっても回るはずだ。回らないなら、貴様の三年はまだ足りていなかったということだ。
あのとき、俺はその言葉に納得していなかった。十年経って、六つ残った。
旗を立てたのは、江東に着いて七日目だった。場所は、集落の裏手の丘の上だった。丘というほどの高さもないが、川から見上げると目立つ。
旗は、繕った旗だった。館の広間で、俺と雪蓮さまと祭どのと明命が縫った、あの旗だ。俺が五寸しか縫えず、雪蓮さまが十一度指を刺した旗。
祭どのが岘山のあとに縫った古い縫い目が、まだ残っている。立てる前に、雪蓮さまがその縫い目を指でなぞった。
「……ねえ、祭。これ、あなたが縫ったのよね」
「縫うた」
「岘山のあとに」
「岘山のあとじゃ」
この人はそう答えて、瓢箪を提げたまま丘の上を見た。
「あのときは、棺に掛けるのに縫うた。……今度は、立てるのに使うことになるとはのう」
「文句ある?」
「文句はないわ。……ただ、あのときのわしに教えてやりたい」
祭どのはそう言って、少し笑った。旗を立てたとき、三千人が丘の下に並んでいた。
誰も、何も言わなかった。歓声も上がらなかった。
俺は、その静けさが少し意外だった。意外に思ってから、理由に気づいた。
この三千人のうち、半分以上は寿春から来た者だ。城から出てきて、名前を聞かれて、うちに入った。孫家の旗を見ても、感慨があるはずがない。
残り半分のうちにも、孫堅どのを知る者は少ない。俺は、その並びを後ろから見ていた。
見ていると、祭どのが隣に来た。
「……若いの。あんた、何を考えとる」
「数を数えていた」
「何のじゃ」
「文台さまを知っている者の数だ」
「三千のうち、何人いるかと思ってな。……たぶん、三百もいない」
祭どのは、その答えにしばらく黙った。黙ってから、こう言った。
「三百もおらんな」
「そうか」
「そうじゃ。わしが顔で覚えとるのは、二百と少しじゃ」
この人はそう言って、瓢箪を傾けた。
「じゃがな、若いの。それでよいのじゃ」
「――よいか」
「よい。……あの旗はな、文台さまのものではない。孫家のものじゃ」
祭どのは、丘の上を見た。
「孫家は、これから雪蓮さまのものになる。……あの三千人は、雪蓮さまの旗を見ておる。文台さまを知らんでも、それでよいのじゃ」
俺はその言い方に、少し考えた。考えて、こう聞いた。
「……あんたは、寂しくないか」
「寂しいわ」
即答だった。
「寂しいが、それとこれとは別じゃ。……わしはな、文台さまを知っとる者が減るのが寂しい。じゃが、旗の下に人が増えるのは嬉しい」
この人はそう言って、俺の背中を叩いた。相変わらず、手加減がない。
「両方じゃ。あんたの言い方を借りるとな」
その夜、集落で酒が出た。
誰が出したのかはわからない。集落の者が持ち寄ったものらしい。三千人分には全然足りないので、隊ごとに回し飲みになった。
俺は、桟橋の端に座って飲んでいた。左脚が痛んだので、階段のない場所を選んだ。座っていれば痛まない。
足音がして、雪蓮さまが来た。この人は、俺の隣に腰を下ろして、しばらく川を見ていた。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「私、今日、王になったのかしら」
俺はその問いを、しばらく考えた。
「なった」
「即答ね」
「即答した。……旗を立てた。誰の下にもいない旗を立てた。それを王と言う」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。黙ってから、膝を抱えた。
「……実感がないわ」
「そうだろうな」
「なんで即答するのよ」
「実感がある王を、俺は見たことがない」
「あんたの母上も、長沙の太守になった日に、あぐらをかいて脛を掻いていた。……太守だと言われて、木簡を膝に載せたまま黙っていた」
「そうなの?」
「そうだ。……あの人は、こう言った。座って考えている、と」
雪蓮さまは、その話にしばらく黙っていた。黙ってから、少し笑った。
「……母様らしいわね」
「らしい」
この人は、そのあとしばらく何も言わなかった。
川の音がしていた。十年前と同じ音だ。この川は、毎年形を変えるが、音は変わらない。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「一つ、頼んでいい?」
「言え」
「明日、みんなの前で、私の名前を呼んで」
俺はその頼みの意味が、すぐにはわからなかった。
「――名前か」
「真名よ」
雪蓮さまはそう言って、こちらを見た。
「あなた、二人のときしか呼ばないでしょ。……明日、人前で呼んで」
「……なぜだ」
「王になったからよ」
この人はそう答えて、川のほうへ目を戻した。
「王って、名前を呼ばれない立場なの。孫策さま、孫策どの、姫さま。……誰も、真名で呼ばないわ」
「冥琳は呼ぶだろう」
「冥琳は呼ぶわ。祭も呼ぶ。蓮華も小蓮も呼ぶ。……でも、みんな身内よ」
雪蓮さまはそう言って、少し声を落とした。
「身内以外の三千人の前で、誰かに呼ばれたいの。……そうしないと、私、明日から『孫策さま』でしかなくなる」
俺はその言い分を、しばらく考えていた。考えて、一つだけ聞いた。
「……それは、俺でいいのか」
「あなたがいいのよ」
「なぜだ」
「あなたが最初だからよ」
この人は口を閉じた。
「あなたが十六の私に真名を渡したとき、あなたは『二人目だ』って言ったわ。一人目は母様だって」
「言った」
「私、あのとき嬉しかったの。……だから、明日はあなたに呼んでほしい」
翌朝、三千人の前で、雪蓮さまは短く話した。
話の中身は、たいしたことではなかった。ここが江東で、これから冬を越して、春に残りの二千八百人を呼ぶ。それだけだ。
話し終わって、この人はこちらを見た。見られたので、俺は前へ出た。
左脚を引きずって出たので、少し時間がかかった。誰も急かさなかった。
俺は、三千人の前に立って、深く息を吸った。吸ってから、言った。
「――雪蓮」
自分の声が、思ったより大きく出た。
列がざわついた。ざわついたのは、たぶん、俺が真名を呼んだからだ。この三千人のうち、それが真名だと知っている者がどれだけいるかはわからない。だが、名の呼び方が変わったことは、誰にでもわかる。
俺は、その名前を呼んだあと、少し言葉に詰まった。詰まったので、そのまま続けた。
「……俺は、二十年前、この川で用心棒をしていた」
三千人が、静かになった。
「賊に村を焼かれて、母を亡くして、川に流されて、下流の漁師に拾われた。……それから、ずっとこの川にいた」
俺は川のほうを見た。
「十六年前、この川に赤い旗が上ってきた。……その旗を掲げていた人に、俺は拾われた」
列の中で、誰かが何か言った。聞き取れなかった。
「その人は、もういない。……だが、旗はある」
俺は丘の上を指した。
「あの旗は、繕ってある。破れたところを、俺たちが縫った。俺は五寸しか縫えんかった。……縫い目が汚いのは、俺のせいだ」
列から、少し笑いが起きた。起きてから、また静かになった。
「あの旗の下に、今、三千人いる」
「そのうち、文台さまを知っている者は三百もいない。……だが、それでいい」
俺は、雪蓮さまのほうを見た。
「これから旗を掲げるのは、雪蓮だ。……俺は、その旗の下で漕ぐ」
言い終わって、俺は前を見た。三千人が、こちらを見ていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に声を上げたのは、列の後ろのほうだった。誰かが「おう」と言った。それが二人になり、十人になり、気がついたら三千人になっていた。
俺は、その音を聞きながら、少し耳が遠くなった気がした。人が三千人まとめて声を出すと、そうなる。
あとで、雪蓮さまに言われた。
「……あなた、あんなに喋る人だったっけ」
「喋った」
「喋ったわよ。しかも上手かったわ」
「上手くはない」
「途中で詰まった。……あそこで言葉が出なかったので、昔の話をした。他に思いつかんかった」
「あれ、思いつきだったの?」
「思いつきだ」
この人は、その答えにしばらく黙った。黙ってから、少し笑った。
「……あなた、たまにそういうところがずるいわ」
「ずるいか」
「ずるいわよ。……三千人が、みんなあなたの話を聞いてたもの」
雪蓮さまはそう言って、丘の上を見た。旗が、川からの風で動いていた。
「ねえ、灘」
「なんだ」
「私、あの旗を降ろさないわよ」
「そうしてくれ」
「絶対よ」
この人はそう言って、それから少し声を落とした。
「……あなたも、降りないでよ」
俺はその頼みに、すぐには答えなかった。答えられなかったのは、答え方を考えていたからだ。
考えて、こう答えた。
「――降りん」
「即答じゃないわね」
「即答ではない。……少し考えた」
「なんで」
「俺は、いつか漕げなくなる」
「今、三十七だ。あと十年か、十五年で、舟に乗れなくなる。……そのときに『降りない』と言ったのは嘘になる」
「じゃあ、なんて言うのよ」
「漕げるうちは漕ぐ。……漕げなくなったら、漕げる者に渡す」
「渡すまでは、降りん」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。黙ってから、頷いた。
「……それでいいわ」
その冬、俺たちは江東で蔵を作った。
作ったというより、直した。集落の脇に古い蔵があって、屋根が抜けていた。それを直して、寿春から持ってきた残りの米を入れた。
桟橋も直した。あわせの言った通り、水の下の杭は生きていた。腐っているのは水面から上だけで、そこを切って新しい木を継いだ。
継ぐのに、十日かかった。十日目に、阿六が最後の杭を打ち終わって、こう言った。
「隊長。これ、あと二十年は保ちますよ」
「二十年か」
「二十年です。……木が乾いてないので、締まってきます」
俺は、その言葉に、少し考えた。
二十年後、俺は五十七だ。たぶん、まだ生きている。生きているが、この桟橋に立っているかどうかはわからない。
「……阿六」
「はい」
「お前は、いくつだ」
「三十四です」
「では、二十年後は五十四だ」
「そうなりますね」
この男はそう答えて、少し笑った。
「隊長より、三つ若いですよ」
「そうだな」
俺は新しい杭に手を触れた。木の匂いがした。切ったばかりの木の匂いは、しばらく残る。
「――阿六。この杭が腐ったら、また継げ」
「継ぎますよ」
「俺がいなくてもだ」
阿六は、その言葉にしばらく黙った。黙ってから、こう答えた。
「……継ぎます」
「頼む」
「ですが、隊長」
この男はそう言って、杭を叩いた。
「隊長がいるうちは、隊長が継いでください。……俺は、隣で見てますから」
春が来て、二千八百人が戻ってきた。
全員ではなかった。二千三百人だった。五百人が、村に残った。
残った五百人の名前を、俺は帳面に書いた。書いて、その横に「村に残る」と記した。
書いていると、蓮華さまが横から覗き込んだ。
「……戻らなかった人も、書くんですか」
「書く」
「なぜですか」
「戻らなかったのも、選んだことだからだ」
「あの五百人は、逃げたわけではない。……冬のあいだに村で家を持った者もいるし、親が死んで田を継いだ者もいる。それは、選んだことだ」
「……選んだことは、書くんですね」
「書く。……選ばずに消えた者と、選んで残った者は、別だ」
蓮華さまは、その言い方にしばらく黙っていた。黙ってから、自分の帳面を開いた。
「……子渡。私、一つ数えました」
「何をだ」
「江東に着いてから、うちに入った人の数です」
この人はそう言って、数字を指した。
「四百七十二人です。……集落の者と、近くの村の者と、それから川で拾った者」
「多いな」
「多いです。冬のあいだに、これだけ増えました」
蓮華さまはそう言って、少し顔を上げた。
「三千に、二千三百が戻って、四百七十二が加わって。……五千七百七十二人です」
俺はその数を、しばらく頭の中で置いた。寿春を出たとき、五千八百人だった。今、五千七百七十二人。
ほとんど同じ数だ。だが、中身が違う。
「……蓮華さま」
「はい」
「その四百七十二人の名前は、書いたか」
「書きました。全員分です」
この人はそう答えて、帳面をめくった。
「出身も、なぜうちに来たかも書きました。……去年、あなたが言いましたから。あとで村に戻したくなったときに、どこへ戻せばいいかがわかるように、と」
俺はその言葉に、少し黙った。黙ってから、こう聞いた。
「――なぜ来たと、書いてあるのか」
「書いてあります」
「見せてくれ」
渡された頁を、俺はしばらく読んだ。
理由は、さまざまだった。飯が食えない。田がない。親が死んだ。村に居場所がない。
そして、いくつかの行に、同じことが書いてあった。――烽火の男が戻ったと聞いて。
俺は、その行を三度読んだ。読んでから、帳面を閉じた。
「……子渡?」
「なんでもない」
俺は帳面を返した。返してから、桟橋のほうへ歩いた。
歩きながら、少し目のあたりが熱かった。それは風のせいだと、自分に言い聞かせた。