長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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自分の旗

江東までは、五百里ある。

 

 五千八百人でその道を行くとなると、俺の頭にまず浮かぶのは糧の勘定だった。一日に五十八石。三十日で千七百四十石。寿春から持ち出せる糧は、城の蔵にあった分と二十九村から集めた残りを足して、二千四百石ほどしかない。

 

 紙の上では、ぎりぎり届く。届くが、途中で雨が降れば止まる。止まれば足りない。

 

 その計算を公瑾どのに見せたら、この人は湯呑みを回しながらこう言った。

 

「五千八百人で行かなくていいのよ」

 

「――行かんのか」

 

「行きません。三千で行きます」

 

 残りは、と聞くと、途中で降ろします、と返ってきた。うちの兵の出身は、寿春から江東までのあいだに散らばっている。道すがら、村ごとに降ろしていく。降ろした者は、そのまま村で冬を越して、春に江東へ来ればいい。

 

「江東に着いてから、いきなり五千八百人を食わせる算段のほうが難しいわ。着いた先に蔵があるわけではないもの」

 

 言われてみればその通りだった。俺は江東を、烽火と村と川筋でしか知らない。城の蔵がどうなっているかは、十年見ていない。

 

 春まで待たせるのか、と聞くと、公瑾どのは頷いた。待たせます。冬のあいだに、こちらは江東で蔵を作る。作ってから呼ぶ。そのほうが、全員生き延びます。

 

 降ろす者を選ぶのは、俺の仕事になった。

 

 名簿を繰って、出身の村を確かめる。道の順に並べ替えて、どの村でどれだけ降ろすかを決める。それを蓮華さまと二人でやった。

 

 三日目の夜、この人が筆を止めて、こう言った。

 

「子渡。降ろす人に、何を持たせますか」

 

「――持たせる?」

 

「はい。手ぶらで村へ帰しても、村が困ります。冬のあいだ、食う口が一つ増えるだけですから」

 

 俺はその指摘に、しばらく黙った。

 

 言われるまで考えていなかった。降ろせば、こちらの糧は減る。減った分だけ楽になると、それしか見ていなかった。

 

「……持たせるものがあるか」

 

「あります。米です」

 

 蓮華さまは帳面をめくって、寿春から持ち出した二千四百石の欄を指した。

 

「二千八百人を降ろすなら、一人あたり半石を持たせても、千四百石です。残りが千石。三千人で三十日なら、九百石。……足ります」

 

「ぎりぎりだな」

 

「ぎりぎりです。ですが、降ろす人が手ぶらでないほうが、春に戻ってきます」

 

 その言い方に、俺は少し感心した。

 

 半石持たせるのは、施しではない。春に戻ってこさせるための仕掛けだ。手ぶらで帰した兵は、村で冬を越すうちに、戻る理由を失う。

 

「――あんた、そういうことを、どこで覚えた」

 

「あなたが村を回るのを見て、覚えました」

 

 この人はそう答えて、少し目を伏せた。

 

「借りを作らずに行きたい、と私が言ったとき、あなたは何も言いませんでした。……でも、あのとき思ったんです。うちが村に借りを作らないのと同じで、兵にも借りを作らせないほうがいい、と」

 

 出立の前の晩、俺は荷をまとめていた。

 

 まとめる、というほどのものではない。刀と、替えの衣が二枚、それに帳面。帳面がいちばんかさばる。二十年分あるので、全部は持てない。必要なところだけを写したものを持つ。写したのは蓮華さまだ。

 

 あとは、蜂蜜の壺が一つ。包んでいると、後ろで声がした。

 

「……子渡。それだけですか」

 

 蓮華さまだった。この人は、俺の荷を見て、明らかに驚いた顔をしていた。

 

「それだけだ」

 

「本当にそれだけですか。……衣が二枚と、刀と、帳面と、その壺」

 

「そうだ」

 

「家財は」

 

「ない」

 

 俺がそう答えると、この人はしばらく黙った。黙ってから、なぜですか、と聞いた。

 

「舟が家だった」

 

「十で流されて、下流の漁師の家に拾われた。……その家にいたのは三年だ。あとは、ずっと舟に寝ていた。舟には物が置けん。置くと、増水したときに全部流れる」

 

「では、三十年、物を持たずに」

 

「持っていない。……用心棒をしていた頃は、刀と衣だけだった。孫堅どのに拾われてからは、それに帳面が加わった」

 

 蓮華さまは、俺の荷をもう一度見た。見てから、こう言った。

 

「……壺は」

 

「壺は、最近だ」

 

「最近ですね」

 

 この人はそう言って、少しだけ笑った。笑い方が、複雑だった。

 

「――あんたは、何を持っていく」

 

 俺がそう聞くと、蓮華さまは自分の荷のほうを見た。積んである。俺のより明らかに多い。

 

「帳面が十二冊です。……それと、母様の形見が一つ」

 

「形見か」

 

「櫛です。母様が使っていたものを、お姉様が持っていて、私にくれました」

 

 この人はそう言って、荷の中から小さな包みを出した。開けずに、しばらく手の中に持っていた。

 

「私、これを持って歩くのが、少し怖いんです」

 

「――なぜだ」

 

「失くしたら、母様が消える気がして」

 

 俺はその言い方を、しばらく考えた。考えて、こう答えた。

 

「消えん」

 

「即答ですね」

 

「即答した。……あんたは、母上の顔を覚えているか」

 

「覚えています」

 

「では、消えん」

 

 俺は包みを指した。

 

「その櫛は、あんたが覚えていることの一部だ。全部ではない。……全部が入っている物は、たぶんこの世にない」

 

 蓮華さまは、しばらく櫛の包みを見ていた。見てから、荷の中へ戻した。戻すときの手つきが、少し変わった。

 

 あわせという娘が合流したのは、その翌朝だった。寿春の兵の中にいたらしい。城から出てきた二千二百人のうちの一人で、蓮華さまが名前を書いたときには気づかなかったという。

 

 気づいたのは、公瑾どのだった。行軍二日目の朝、この人が俺のところへ来て、面白い者がいます、と言った。

 

「呂蒙という娘です。年は十六。……寿春の兵の中で、書き物をしていました」

 

「書き物か」

 

「はい。糧の出納です。……七乃どのの下で、三年やっていたそうです」

 

 俺はその話に、少し身構えた。七乃の下にいた者を入れるのは、うちの兵が嫌がる。塩を止めたのも村を焼いたのも、あの女の算段だ。

 

「……本人は、何と言っている」

 

「入りたい、と」

 

 公瑾どのはそう答えて、少し目を細めた。

 

「ただし、条件をつけてきました」

 

「条件か」

 

「はい。『字を教えてほしい』と」

 

 俺はその条件の意味が、すぐにはわからなかった。わからないまま、その娘に会いに行った。

 

 列の後ろのほうにいた。小柄で、俺の胸くらいまでしかない。荷を背負っていて、その荷が本人より大きく見えた。

 

 俺が名前を呼ぶと、この娘は飛び上がるように振り返って、それから深く頭を下げた。

 

「呂蒙と申します! 字は子明、真名は亞莎と申します!」

 

 声が大きかった。列の前のほうまで届いていた。

 

「……そう張り上げんでいい」

 

「はっ、申し訳ありません!」

 

「今のも大きい」

 

「あっ……はい」

 

 この娘は、そこでようやく声を落とした。落としてから、荷を背負い直した。背負い直す動きで、荷の紐が緩んで、中身が半分落ちた。

 

 落ちたのは、木簡と紙だった。俺はそれを拾いながら、量に少し驚いた。二十枚以上ある。

 

「……これは」

 

「寿春の出納の写しです」

 

 あわせはそう答えて、慌てて拾い集め始めた。

 

「三年分あります。……全部は持ち出せなかったので、大事なところだけ写しました」

 

「いつ写した」

 

「城が囲まれているあいだです」

 

 俺は、その答えでしばらく手が止まった。

 

 城が囲まれていたのは、ひと月近い。その間、水が涸れて、三十人が死んだ。その中で、この娘は写しを取っていたことになる。

 

「――なぜ、写した」

 

「焼かれると思ったからです」

 

 あわせはそう答えて、拾った紙を胸に抱えた。

 

「城が落ちたら、たぶん焼かれます。焼かれたら、三年分の記録が消えます。……消えると、誰が何石納めたかがわからなくなります」

 

 この娘は、そこで少し早口になった。

 

「わからなくなると、村が困ります。去年三十石納めた村と、五石しか納めなかった村が、同じ扱いになりますから。……そういうのは、不公平だと思います」

 

 俺はその言い分を、しばらく聞いていた。聞いてから、こう聞いた。

 

「……その村は、あんたの村か」

 

「違います」

 

 即答だった。

 

「私の村は、寿春の近くではありません。……ですが、帳面に名前が載っている村は、全部見ました。三年見ていると、覚えます」

 

「覚えているのか」

 

「はい」

 

「では、一つ言ってみろ。……去年、寿春から北へ三里の村は、何石納めた」

 

 この娘は、そこで少し考えた。考えたのは一呼吸だった。

 

「二十七石です。一昨年が三十一石で、その前が二十九石。……去年減ったのは、夏に水が出たからです」

 

 俺は、その答えに、しばらく黙った。

 

 黙ってから、公瑾どののほうを見た。この人は、少し離れたところで俺たちを見ていた。目が合うと、わずかに肩をすくめた。

 

「――亞莎」

 

「はい」

 

「なぜ、字を教えてほしいと言った。……あんた、書けるだろう」

 

「書けます」

 

 この娘はそう答えて、それから少し声を落とした。

 

「書けますが、下手です。……七乃さまに、いつも笑われていました」

 

「笑われたか」

 

「はい。『亞莎ちゃんの字は、鶏が歩いたみたい』と」

 

 俺はその言い回しに、少し笑いそうになった。堪えて、こう言った。

 

「……うちに、もっと下手なのがいる」

 

「そうなんですか」

 

「いる。……そいつは、名前を書くのに一日三人が限度だ」

 

 その日から、あわせは蓮華さまの下についた。字を教えるのは、蓮華さまの役になった。あの人の字は、俺が知る中で一番読みやすい。

 

 教え始めて三日目の夜、俺は二人が並んで書いているのを見た。

 

 焚き火の脇に紙を広げて、蓮華さまが手本を書き、あわせがそれを真似る。真似た字を、蓮華さまが直す。直されるたびに、この娘が「あっ」と声を出す。

 

 声を出すたびに、周りの兵が振り返る。

 

「……亞莎」

 

「はい!」

 

「声を落とせ」

 

「はっ、申し訳ありません!」

 

「今のも大きい」

 

「……はい」

 

 蓮華さまが、その横で笑いを堪えていた。堪えきれずに、少し肩が揺れていた。

 

 俺はその様子を見ながら、少し離れたところに座った。座ってから、思った。

 

 この娘は、七乃の下にいた。塩を止める算段の帳面を、たぶん自分で書いた。村を焼く前に、どの村に何石あるかを数えたのも、この娘かもしれない。

 

 それを、うちに入れた。入れたことを、俺は正しいと思っていない。だが、間違っているとも思っていない。

 

 両方だった。江東へ入ったのは、出立から二十六日目だった。

 

 途中で二千八百人を降ろした。降ろすたびに、名前を読み上げて、米を渡して、春に来いと言った。言われた者は、たいてい妙な顔をした。戻ってこいと言われるのに慣れていないのだと思う。

 

 残り三千人で、長江の下流に着いた。

 

 着いた場所は、俺が二十年前に用心棒をしていた辺りだった。桟橋があって、その脇に集落がある。十年前、俺が二百三十人を残していった場所だ。

 

 舟から降りて、俺はしばらく桟橋を見ていた。

 

 杭が腐っていた。板が半分落ちている。船着きの脇にあった小屋は、屋根が抜けていた。

 

「……ここですか」

 

 後ろで、亞莎が聞いた。

 

「ここだ」

 

「隊長が、昔いた場所ですか」

 

「いた。……十年前だ」

 

 俺は腐った杭に手を触れた。触れると、表面が崩れて指についた。

 

「隊長」

 

「なんだ」

 

「この杭、直せますか」

 

 俺はその質問に、少し驚いた。

 

「――直す?」

 

「はい。私、川のことは知りませんが、杭は木ですよね。……木なら、腐ったところを切って、新しいのを継げばいいのではないですか」

 

 この娘はそう言って、杭を覗き込んだ。

 

「上のほうは腐っていますが、水の下は生きている気がします。……水の中の木は、腐りにくいと聞きました」

 

 俺はその指摘に、しばらく黙った。

 

 言われてみればその通りだった。水中の木は空気に触れないので、地上より保つ。俺は二十年舟に乗っていて、それを知っていた。

 

 知っていて、この十年、この桟橋のことを考えていなかった。

 

「……直す」

 

「明日から直す。……阿六を呼べ。あいつは杭を打つのが上手い」

 

 集落の者が出てきたのは、その夕方だった。

 

 最初は一人だった。年寄りが、鍬を持って集落の入り口に立っていた。手が震えている。

 

 俺はその年寄りの顔を、しばらく見ていた。見ていて、見覚えがないことに気づいた。十年前、俺が知っていた者ではない。

 

「――誰じゃ」

 

「楚航という」

 

 俺がそう名乗ると、年寄りはしばらく黙った。黙ってから、鍬を落とした。

 

「……楚の、あんちゃんか」

 

 俺はその呼び方に、覚えがあった。覚えがあったが、この年寄りの顔には覚えがない。

 

「……俺を知っているのか」

 

「知らんよ」

 

 この人はそう答えて、少し笑った。

 

「知らんが、聞いとる。……ここへ来た者は、みんな『楚のあんちゃんが戻ってくる』と言うとった」

 

「みんな、とは」

 

「二百三十人じゃ」

 

 年寄りは口を閉じた。

 

「あんたが置いていった連中じゃよ。……わしは、そのうちの一人の親父じゃ」

 

 その夜、集落の者から話を聞いた。聞いて、俺は十年分を知った。

 

 二百三十人のうち、今この集落にいるのは四十七人だった。残りは、散ったか、死んだか、村へ帰ったか。

 

 散った理由は、舟を取り上げられたことだった。俺が長沙へ発って三年目に、袁の家の兵が来て、十八艘を全部持っていった。舟がなくなれば、烽火が上がっても行けない。行けなければ、村は火をつけなくなる。

 

 五年目に、火の小屋は十まで減った。今は六つだと聞いた。

 

「……六つ、残ったのか」

 

「残った」

 

 年寄りは口を閉じた。

 

「五年目に、みんなで決めたそうじゃ。全部は守れん。じゃったら、六つだけ守ろうとな」

 

「なぜ六つだ」

 

「上流の二つと、中流の三つと、この村の一つじゃ。この六つが繋がっとれば、下流の連中は逃げる時間が作れる」

 

 俺はその話を聞いて、しばらく何も言えなかった。それは、俺が三年かけて作った網の、骨だけを残したものだった。

 

 そして、それを決めたのは俺ではない。俺がいないところで、俺の知らない者が話し合って決めた。

 

「……誰が決めた」

 

「みんなで決めた。三日話し合ったそうじゃ」

 

 年寄りはそう答えて、少し笑った。

 

「うちの倅は反対したらしい。全部残すべきだと言うたそうな。……多数決で負けたと、悔しがっとった」

 

 俺はその話を、翌日、公瑾どのに伝えた。この人は、六つという数を聞いて、しばらく黙っていた。

 

 黙ってから、こう言った。

 

「……多いわね」

 

「多いか」

 

「多いわ。私の知る限り、そういうものは主がいなくなれば三年で消えるの。……人は、報われないことを三年以上は続けられません」

 

 公瑾どのは、湯呑みを持たない手で、指を組んだ。

 

「六つ残ったのは、あの網があなたの持ち物ではなかったからよ」

 

「……俺の持ち物ではない」

 

「ええ。あなたは十年前、あれを村へ渡した。渡したものは、渡した相手のものです。……だから残ったの」

 

 俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。転がして、思い出した。

 

 置いていくのではない、渡すのだ、と言ったのは孫堅どのだ。長沙へ発つ前に、俺がその網を手放せずにいたとき、あの人がそう言った。

 

 自分がいなくても回る仕組みを作ると言ったんだろう、なら貴様がいなくなっても回るはずだ。回らないなら、貴様の三年はまだ足りていなかったということだ。

 

 あのとき、俺はその言葉に納得していなかった。十年経って、六つ残った。

 

 旗を立てたのは、江東に着いて七日目だった。場所は、集落の裏手の丘の上だった。丘というほどの高さもないが、川から見上げると目立つ。

 

 旗は、繕った旗だった。館の広間で、俺と雪蓮さまと祭どのと明命が縫った、あの旗だ。俺が五寸しか縫えず、雪蓮さまが十一度指を刺した旗。

 

 祭どのが岘山のあとに縫った古い縫い目が、まだ残っている。立てる前に、雪蓮さまがその縫い目を指でなぞった。

 

「……ねえ、祭。これ、あなたが縫ったのよね」

 

「縫うた」

 

「岘山のあとに」

 

「岘山のあとじゃ」

 

 この人はそう答えて、瓢箪を提げたまま丘の上を見た。

 

「あのときは、棺に掛けるのに縫うた。……今度は、立てるのに使うことになるとはのう」

 

「文句ある?」

 

「文句はないわ。……ただ、あのときのわしに教えてやりたい」

 

 祭どのはそう言って、少し笑った。旗を立てたとき、三千人が丘の下に並んでいた。

 

 誰も、何も言わなかった。歓声も上がらなかった。

 

 俺は、その静けさが少し意外だった。意外に思ってから、理由に気づいた。

 

 この三千人のうち、半分以上は寿春から来た者だ。城から出てきて、名前を聞かれて、うちに入った。孫家の旗を見ても、感慨があるはずがない。

 

 残り半分のうちにも、孫堅どのを知る者は少ない。俺は、その並びを後ろから見ていた。

 

 見ていると、祭どのが隣に来た。

 

「……若いの。あんた、何を考えとる」

 

「数を数えていた」

 

「何のじゃ」

 

「文台さまを知っている者の数だ」

 

「三千のうち、何人いるかと思ってな。……たぶん、三百もいない」

 

 祭どのは、その答えにしばらく黙った。黙ってから、こう言った。

 

「三百もおらんな」

 

「そうか」

 

「そうじゃ。わしが顔で覚えとるのは、二百と少しじゃ」

 

 この人はそう言って、瓢箪を傾けた。

 

「じゃがな、若いの。それでよいのじゃ」

 

「――よいか」

 

「よい。……あの旗はな、文台さまのものではない。孫家のものじゃ」

 

 祭どのは、丘の上を見た。

 

「孫家は、これから雪蓮さまのものになる。……あの三千人は、雪蓮さまの旗を見ておる。文台さまを知らんでも、それでよいのじゃ」

 

 俺はその言い方に、少し考えた。考えて、こう聞いた。

 

「……あんたは、寂しくないか」

 

「寂しいわ」

 

 即答だった。

 

「寂しいが、それとこれとは別じゃ。……わしはな、文台さまを知っとる者が減るのが寂しい。じゃが、旗の下に人が増えるのは嬉しい」

 

 この人はそう言って、俺の背中を叩いた。相変わらず、手加減がない。

 

「両方じゃ。あんたの言い方を借りるとな」

 

 その夜、集落で酒が出た。

 

 誰が出したのかはわからない。集落の者が持ち寄ったものらしい。三千人分には全然足りないので、隊ごとに回し飲みになった。

 

 俺は、桟橋の端に座って飲んでいた。左脚が痛んだので、階段のない場所を選んだ。座っていれば痛まない。

 

 足音がして、雪蓮さまが来た。この人は、俺の隣に腰を下ろして、しばらく川を見ていた。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「私、今日、王になったのかしら」

 

 俺はその問いを、しばらく考えた。

 

「なった」

 

「即答ね」

 

「即答した。……旗を立てた。誰の下にもいない旗を立てた。それを王と言う」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。黙ってから、膝を抱えた。

 

「……実感がないわ」

 

「そうだろうな」

 

「なんで即答するのよ」

 

「実感がある王を、俺は見たことがない」

 

「あんたの母上も、長沙の太守になった日に、あぐらをかいて脛を掻いていた。……太守だと言われて、木簡を膝に載せたまま黙っていた」

 

「そうなの?」

 

「そうだ。……あの人は、こう言った。座って考えている、と」

 

 雪蓮さまは、その話にしばらく黙っていた。黙ってから、少し笑った。

 

「……母様らしいわね」

 

「らしい」

 

 この人は、そのあとしばらく何も言わなかった。

 

 川の音がしていた。十年前と同じ音だ。この川は、毎年形を変えるが、音は変わらない。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「一つ、頼んでいい?」

 

「言え」

 

「明日、みんなの前で、私の名前を呼んで」

 

 俺はその頼みの意味が、すぐにはわからなかった。

 

「――名前か」

 

「真名よ」

 

 雪蓮さまはそう言って、こちらを見た。

 

「あなた、二人のときしか呼ばないでしょ。……明日、人前で呼んで」

 

「……なぜだ」

 

「王になったからよ」

 

 この人はそう答えて、川のほうへ目を戻した。

 

「王って、名前を呼ばれない立場なの。孫策さま、孫策どの、姫さま。……誰も、真名で呼ばないわ」

 

「冥琳は呼ぶだろう」

 

「冥琳は呼ぶわ。祭も呼ぶ。蓮華も小蓮も呼ぶ。……でも、みんな身内よ」

 

 雪蓮さまはそう言って、少し声を落とした。

 

「身内以外の三千人の前で、誰かに呼ばれたいの。……そうしないと、私、明日から『孫策さま』でしかなくなる」

 

 俺はその言い分を、しばらく考えていた。考えて、一つだけ聞いた。

 

「……それは、俺でいいのか」

 

「あなたがいいのよ」

 

「なぜだ」

 

「あなたが最初だからよ」

 

 この人は口を閉じた。

 

「あなたが十六の私に真名を渡したとき、あなたは『二人目だ』って言ったわ。一人目は母様だって」

 

「言った」

 

「私、あのとき嬉しかったの。……だから、明日はあなたに呼んでほしい」

 

 翌朝、三千人の前で、雪蓮さまは短く話した。

 

 話の中身は、たいしたことではなかった。ここが江東で、これから冬を越して、春に残りの二千八百人を呼ぶ。それだけだ。

 

 話し終わって、この人はこちらを見た。見られたので、俺は前へ出た。

 

 左脚を引きずって出たので、少し時間がかかった。誰も急かさなかった。

 

 俺は、三千人の前に立って、深く息を吸った。吸ってから、言った。

 

「――雪蓮」

 

 自分の声が、思ったより大きく出た。

 

 列がざわついた。ざわついたのは、たぶん、俺が真名を呼んだからだ。この三千人のうち、それが真名だと知っている者がどれだけいるかはわからない。だが、名の呼び方が変わったことは、誰にでもわかる。

 

 俺は、その名前を呼んだあと、少し言葉に詰まった。詰まったので、そのまま続けた。

 

「……俺は、二十年前、この川で用心棒をしていた」

 

 三千人が、静かになった。

 

「賊に村を焼かれて、母を亡くして、川に流されて、下流の漁師に拾われた。……それから、ずっとこの川にいた」

 

 俺は川のほうを見た。

 

「十六年前、この川に赤い旗が上ってきた。……その旗を掲げていた人に、俺は拾われた」

 

 列の中で、誰かが何か言った。聞き取れなかった。

 

「その人は、もういない。……だが、旗はある」

 

 俺は丘の上を指した。

 

「あの旗は、繕ってある。破れたところを、俺たちが縫った。俺は五寸しか縫えんかった。……縫い目が汚いのは、俺のせいだ」

 

 列から、少し笑いが起きた。起きてから、また静かになった。

 

「あの旗の下に、今、三千人いる」

 

「そのうち、文台さまを知っている者は三百もいない。……だが、それでいい」

 

 俺は、雪蓮さまのほうを見た。

 

「これから旗を掲げるのは、雪蓮だ。……俺は、その旗の下で漕ぐ」

 

 言い終わって、俺は前を見た。三千人が、こちらを見ていた。

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 

 最初に声を上げたのは、列の後ろのほうだった。誰かが「おう」と言った。それが二人になり、十人になり、気がついたら三千人になっていた。

 

 俺は、その音を聞きながら、少し耳が遠くなった気がした。人が三千人まとめて声を出すと、そうなる。

 

 あとで、雪蓮さまに言われた。

 

「……あなた、あんなに喋る人だったっけ」

 

「喋った」

 

「喋ったわよ。しかも上手かったわ」

 

「上手くはない」

 

「途中で詰まった。……あそこで言葉が出なかったので、昔の話をした。他に思いつかんかった」

 

「あれ、思いつきだったの?」

 

「思いつきだ」

 

 この人は、その答えにしばらく黙った。黙ってから、少し笑った。

 

「……あなた、たまにそういうところがずるいわ」

 

「ずるいか」

 

「ずるいわよ。……三千人が、みんなあなたの話を聞いてたもの」

 

 雪蓮さまはそう言って、丘の上を見た。旗が、川からの風で動いていた。

 

「ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「私、あの旗を降ろさないわよ」

 

「そうしてくれ」

 

「絶対よ」

 

 この人はそう言って、それから少し声を落とした。

 

「……あなたも、降りないでよ」

 

 俺はその頼みに、すぐには答えなかった。答えられなかったのは、答え方を考えていたからだ。

 

 考えて、こう答えた。

 

「――降りん」

 

「即答じゃないわね」

 

「即答ではない。……少し考えた」

 

「なんで」

 

「俺は、いつか漕げなくなる」

 

「今、三十七だ。あと十年か、十五年で、舟に乗れなくなる。……そのときに『降りない』と言ったのは嘘になる」

 

「じゃあ、なんて言うのよ」

 

「漕げるうちは漕ぐ。……漕げなくなったら、漕げる者に渡す」

 

「渡すまでは、降りん」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。黙ってから、頷いた。

 

「……それでいいわ」

 

 その冬、俺たちは江東で蔵を作った。

 

 作ったというより、直した。集落の脇に古い蔵があって、屋根が抜けていた。それを直して、寿春から持ってきた残りの米を入れた。

 

 桟橋も直した。あわせの言った通り、水の下の杭は生きていた。腐っているのは水面から上だけで、そこを切って新しい木を継いだ。

 

 継ぐのに、十日かかった。十日目に、阿六が最後の杭を打ち終わって、こう言った。

 

「隊長。これ、あと二十年は保ちますよ」

 

「二十年か」

 

「二十年です。……木が乾いてないので、締まってきます」

 

 俺は、その言葉に、少し考えた。

 

 二十年後、俺は五十七だ。たぶん、まだ生きている。生きているが、この桟橋に立っているかどうかはわからない。

 

「……阿六」

 

「はい」

 

「お前は、いくつだ」

 

「三十四です」

 

「では、二十年後は五十四だ」

 

「そうなりますね」

 

 この男はそう答えて、少し笑った。

 

「隊長より、三つ若いですよ」

 

「そうだな」

 

 俺は新しい杭に手を触れた。木の匂いがした。切ったばかりの木の匂いは、しばらく残る。

 

「――阿六。この杭が腐ったら、また継げ」

 

「継ぎますよ」

 

「俺がいなくてもだ」

 

 阿六は、その言葉にしばらく黙った。黙ってから、こう答えた。

 

「……継ぎます」

 

「頼む」

 

「ですが、隊長」

 

 この男はそう言って、杭を叩いた。

 

「隊長がいるうちは、隊長が継いでください。……俺は、隣で見てますから」

 

 春が来て、二千八百人が戻ってきた。

 

 全員ではなかった。二千三百人だった。五百人が、村に残った。

 

 残った五百人の名前を、俺は帳面に書いた。書いて、その横に「村に残る」と記した。

 

 書いていると、蓮華さまが横から覗き込んだ。

 

「……戻らなかった人も、書くんですか」

 

「書く」

 

「なぜですか」

 

「戻らなかったのも、選んだことだからだ」

 

「あの五百人は、逃げたわけではない。……冬のあいだに村で家を持った者もいるし、親が死んで田を継いだ者もいる。それは、選んだことだ」

 

「……選んだことは、書くんですね」

 

「書く。……選ばずに消えた者と、選んで残った者は、別だ」

 

 蓮華さまは、その言い方にしばらく黙っていた。黙ってから、自分の帳面を開いた。

 

「……子渡。私、一つ数えました」

 

「何をだ」

 

「江東に着いてから、うちに入った人の数です」

 

 この人はそう言って、数字を指した。

 

「四百七十二人です。……集落の者と、近くの村の者と、それから川で拾った者」

 

「多いな」

 

「多いです。冬のあいだに、これだけ増えました」

 

 蓮華さまはそう言って、少し顔を上げた。

 

「三千に、二千三百が戻って、四百七十二が加わって。……五千七百七十二人です」

 

 俺はその数を、しばらく頭の中で置いた。寿春を出たとき、五千八百人だった。今、五千七百七十二人。

 

 ほとんど同じ数だ。だが、中身が違う。

 

「……蓮華さま」

 

「はい」

 

「その四百七十二人の名前は、書いたか」

 

「書きました。全員分です」

 

 この人はそう答えて、帳面をめくった。

 

「出身も、なぜうちに来たかも書きました。……去年、あなたが言いましたから。あとで村に戻したくなったときに、どこへ戻せばいいかがわかるように、と」

 

 俺はその言葉に、少し黙った。黙ってから、こう聞いた。

 

「――なぜ来たと、書いてあるのか」

 

「書いてあります」

 

「見せてくれ」

 

 渡された頁を、俺はしばらく読んだ。

 

 理由は、さまざまだった。飯が食えない。田がない。親が死んだ。村に居場所がない。

 

 そして、いくつかの行に、同じことが書いてあった。――烽火の男が戻ったと聞いて。

 

 俺は、その行を三度読んだ。読んでから、帳面を閉じた。

 

「……子渡?」

 

「なんでもない」

 

 俺は帳面を返した。返してから、桟橋のほうへ歩いた。

 

 歩きながら、少し目のあたりが熱かった。それは風のせいだと、自分に言い聞かせた。

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