長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
江東に落ち着いて最初にやったのは、烽火の勘定だった。
六つ残っている。上流に二つ、中流に三つ、この集落に一つ。十年前に四十一まで増やしたものが、そこまで削られていた。俺はその六つを、一つずつ見て回ることにした。舟で回れば、往復で九日かかる。
出る前に、公瑾どのが妙なことを言った。
「楚航どの。数える前に、一つ決めておいてほしいの」
「何をだ」
「あの六つを、あなたのものにするかどうかです」
俺はその言い方を、しばらく飲み込めなかった。
黙っていると、この人は湯呑みを置いて、説明を足した。十年前、あの網は村のものだった。だから残った。今、こちらが江東を取って、あの六つを軍の施設として組み込むこともできる。組み込めば、番人に手当てが出せる。薪も配れる。増やすのも速くなる。
「でも、そうしたら、次に誰かがいなくなったときに、また消えるわ」
「……消えるか」
「消えます。うちが払うから燃える火は、うちが払えなくなったら消えるの。……十年前と同じことになります」
俺はその指摘を、しばらく考えていた。考えて、こう答えた。
「――村のままにする」
「即答ですね」
「即答した。……ただし、一つだけ変える」
俺は帳面を開いて、六つの村の名を指した。十年前、この六つを決めたのは村の者だ。三日話し合って、上流二つ、中流三つ、この集落一つと決めた。その決め方が正しかったかどうかを、俺は確かめていない。
「回って、聞いてくる。……なぜその六つを選んだのかを、本人たちから聞く」
「聞いてどうなさるの」
「増やすときに、同じ理屈で選べる」
九日かけて、六つを回った。最初の村で聞いた答えは、俺が思っていたものと違った。
俺は、見通しのいい丘があるからだと思っていた。実際は違った。その村を選んだのは、番人になれる年寄りが三人いたからだという。
「――三人か」
「三人じゃ。一人では続かん」
年寄りはそう答えて、指を折った。一人が病んだら、もう一人が立つ。二人とも病んだら、三人目が立つ。三人おらんと、冬を越せん。
俺はその理屈を、帳面に書いた。
書きながら、十年前の自分を思い出していた。あのとき俺は、二十三の村を回って、丘の高さと川筋の見通しだけで場所を決めていた。番人が何人いるかを、数えていなかった。
二つ目の村では、別の答えが返ってきた。
そこは、薪が近いからだという。烽火は湿った薪を混ぜて煙を出す。乾いた薪だけでは煙が立たない。湿った薪を毎年集めるには、林が近くにないと続かない。
三つ目は、水が近いから。四つ目は、隣の村との仲がいいから。五つ目は、逃げ込む山があるから。
六つ目、この集落の答えが、一番意外だった。
「……ここは、あんたが戻ってくるからじゃ」
俺はその答えを、しばらく理解できなかった。
答えたのは、初日に鍬を持って立っていた年寄りだった。この人は、集落の脇の小屋を指した。屋根が抜けた、俺の隊が使っていた小屋だ。
「五年目に話し合うたとき、うちの倅がそう言うたらしい。……ここは残さんといかん、楚のあんちゃんが戻ったときに、火が一つもなかったら、あの人が困る、と」
俺はその話に、返す言葉を持たなかった。持たないまま、屋根の抜けた小屋を見ていた。
「……それは、理屈になっていない」
「なっとらんよ」
年寄りはそう答えて、少し笑った。
「じゃが、多数決で通った。……三日話し合うて、最後に決まったのがそれじゃ」
六つを回り終えて戻ると、公瑾どのが待っていた。
俺は、五つの理屈をこの人に伝えた。番人が三人いること。薪が近いこと。水が近いこと。隣の村と仲がいいこと。逃げ込む山があること。
六つ目は、伝えなかった。伝えるべきかどうかを、九日かけて考えて、伝えないことにした。伝えると、この人が困る気がした。
「……五つですね」
「五つだ」
「十年前は、何で選んでいたのですか」
「丘の高さと、川筋の見通しだ」
公瑾どのは、その答えにしばらく黙った。黙ってから、少し笑った。
「では、十年前のあなたは、二つしか見ていなかったのね」
「二つだ」
「今は五つ。……三つ増えました」
この人はそう言って、湯呑みを持ち上げた。
「増やしましょう。今度は、五つで選べます」
烽火を増やす仕事は、冬のあいだに始めた。
やり方は十年前と同じだった。村へ行って、飯を食って、去年何が穫れたかを聞いて、それから頼む。違うのは、頼む前に五つを確かめることだ。番人になれる者が三人いるか。薪の林が近いか。水はどうか。隣の村との仲は。逃げ込む山はあるか。
五つ揃っている村は、少なかった。三つ揃っていれば置く、と決めた。
冬のあいだに、十一増えた。六つが十七になった。
十七になった日、俺は帳面にその数を書いた。書いてから、十年前の帳面を出して、隣に並べた。
十年前の同じ月、二十三だった。まだ届いていない。
その冬、俺は家をもらった。
もらったというより、押しつけられた。集落の脇に空き家があって、それを直せと言われた。言ったのは蓮華さまだ。
「子渡。いつまで舟で寝ているつもりですか」
「舟は寝やすい」
「寝やすくありません。冬です。川の上は冷えます」
この人はそう言って、帳面をめくった。めくって、一つの数字を指した。
「あなた、この十日で三度、朝に腰が動かないと言っていますね」
俺はその指摘に、少し詰まった。毎日報告しろと言われて、雪蓮さまに言っている。その内容が、なぜかこの人の帳面に載っている。
「……あんた、それをどこで」
「お姉様から聞いています」
「聞いているのか」
「聞いています。お姉様は、聞いた話を私に渡します。私が書きます。……そういう形になりました」
いつの間にか、そうなっていたらしい。
空き家は、思っていたより傷んでいた。屋根の一部が抜けていて、床板が三枚腐っていた。竈は使えたが、煙抜きが詰まっていた。
直すのに、五日かかった。
手伝いに来たのは思春だった。この娘は、家に入るなり天井を見上げて、それから床を踏んで回った。踏むたびに、音の違うところで止まる。
「隊長。ここと、ここと、あそこです」
「わかるのか」
「わかります。音が違います」
三枚とも当たっていた。俺は床板を剥がしながら、なぜわかるのかを聞いた。
「賊は、他人の家の造りを見る癖がつきます。……どこから入るか、どこから逃げるかを考えますから。床が腐っていると、踏み抜きます」
思春はそう答えて、剥がした板を脇へ寄せた。
「今は使わん癖です。ですが、消えません」
竈の煙抜きも、この娘が見つけた。上を覗いて、詰まっている、と言う。俺が手を入れると、鳥の巣が出てきた。
「これ、放っておくと火事になります」
「……そうか」
「はい。三年前、河口で見ました。……煙抜きが詰まった家が燃えて、六人死にました」
俺はその話に、少し手が止まった。
「六人の名前は」
「知りません」
思春は即答した。即答してから、少し目を伏せた。
「……あのときは、まだ書いていませんでした」
家が直った日の夜、祭どのが来た。両手に瓶を提げていた。両手にだ。
「――待て。二本もどうする」
「一本はあんたの、一本はわしのじゃ」
「同じ酒だろう」
「別々に持ってきたほうが、遠慮せんで済むじゃろうが」
その理屈で、この人は上がり込んだ。上がり込んで、二間しかない家をぐるりと見回した。
「ふむ。……狭いのう」
「二間ある」
「二間は狭いと言うんじゃ。まあ、あんたには広すぎるくらいか」
「どちらだ」
「両方じゃ」
祭どのは、竈の前にどかりと座った。座り方が、まるで自分の家のようだった。
瓶の栓を抜いて、俺のほうへ突き出す。俺は諦めて受け取った。
「若いの。あんた、三十七で初めての家じゃそうな」
「……蓮華さまが広めたらしい」
「集落中が知っとるぞ」
「頼むから広めないでくれ」
「無理じゃな。もう三日前から広まっとる」
この人は、そう言って一口飲んだ。飲んでから、家の中をもう一度見回した。
「……一つ、聞いてよいか」
「言え」
「あんた、この家に誰か住ませる気はあるか」
俺は、口をつけた酒を吹き出しかけた。
「――なんの話だ」
「そのままの話じゃ。二間じゃぞ。一人で二間は要らん。……ということは、あんたは無意識に、誰かと住む前提の家を選んだということじゃ」
「与えられただけだ」
「断ることもできたじゃろう」
俺は返す言葉に詰まった。実際、断ることはできた。一間の家も空いていた。
「……深く考えていない」
「そうじゃろうな。あんたは昔からそうじゃ」
祭どのはそう言って笑った。笑ってから、少し声を落とした。
「まあ、無理に考えんでよい。……ただ、覚えておけ。人は、あんたが考えとらんことを、勝手に考えるものじゃ」
「――どういう意味だ」
「わからんならよい。わからんうちが華じゃ」
この人は、それきりその話をしなかった。かわりに、その夜は延々と昔話をした。
文台さまが十九で初めて兵を率いたときのこと。その一戦目で、自分の馬に振り落とされたこと。それを一生黙っていろと言われたこと。
俺は、その全部を初めて聞いた。
「……あの人、馬から落ちたのか」
「落ちたとも。兵の前でな。頭から」
「そんな話は聞いていない」
「聞かせるわけがなかろう。あの方は、あれを四十年隠しとったんじゃ」
「では、なぜ今話す」
「隠す相手がおらんようになったからじゃ」
祭どのはそう言って、瓶を傾けた。声は、いつもと同じ調子だった。だが、俺はそのとき、この人がなぜ両手に瓶を提げてきたのかを、少しだけ理解した気がした。
その夜、この人は明け方まで喋った。
文台さまが十七で港へ走った話。海賊を一人で殴りに行って、あとで死ぬほど怒られた話。長沙で山を焼いたあと、三月動けなくなった祭どのを、幕へ乗り込んで殴った話。
俺は、そのほとんどを知らなかった。
知らなかったことに、少し驚いた。俺は十六年あの人のそばにいた。そばにいたが、四十年には届かない。
「……祭どの」
「なんじゃ」
「あんた、その話を誰かに書かせたか」
「書かせとらん」
「なぜだ」
「話す相手がおらんかったからじゃ」
この人はそう答えて、少し笑った。
「雪蓮さまには話せん。娘じゃからな。……娘に、母親の馬から落ちた話をしても仕方がなかろう」
「蓮華さまは」
「あの子は書く。書かれると、残る」
「残ると困るか」
「困りはせん。……ただ、あの方が嫌がるじゃろう」
俺はその言い方を、しばらく考えていた。考えて、こう言った。
「――俺は書く」
「書くのか」
「書く。……ただし、あんたが死ぬまで見せん」
祭どのは、その言葉に手を止めた。止めてから、盛大に笑い出した。
「……あんた、それは屁理屈じゃぞ」
「屁理屈だ」
「わしが死んだら、見せる相手はもうおらんじゃろうが」
「あんたはいなくなるが、話は残る」
俺は帳面を出した。
「文台さまが馬から落ちた話は、今、あんたと俺しか知らん。……俺が書かなければ、俺が死んだ日に消える」
祭どのは、しばらく黙っていた。黙ってから、瓶を置いた。
「……好きにせい」
言い方が、少し乱暴だった。俺は、その夜のうちに書いた。
書き終わったのは、日が昇ってからだった。祭どのは、竈の前で寝ていた。
春が来て、二千三百人が戻ってきた。戻ってきた者たちは、冬のあいだに江東で何が起きたかを知らない。桟橋が新しくなっていることに、まず驚いていた。
驚いてから、蔵を見て、また驚いた。
冬のあいだに、俺たちは蔵を三つ建てた。集落の脇に一つ、上流に一つ、中流に一つ。分けたのは、一箇所にまとめると全部失うからだ。
中身は、寿春から持ってきた米の残りと、江東の村から買った分と、冬に獲った魚の干物だった。
「……隊長。これ、誰が建てたんです」
戻ってきた男の一人が、そう聞いた。冬の前に村へ降ろした者だ。
「集落の者と、うちの三千だ」
「三千で三つですか」
「三つだ。……一つは、二十日で建てた」
俺は蔵の壁を叩いた。土壁だ。乾くのに時間がかかるので、冬に建てるのは本来向かない。向かないが、待っていられなかった。
「隊長。俺、大工の心得があります」
その男はそう言って、蔵を見上げた。
「次に建てるときは、言ってください。……この壁、南側が薄いです」
俺はその指摘に、少し驚いた。
「――わかるのか」
「わかります。日の当たる側は乾くのが速いんで、つい薄く塗っちまうんです。……薄いと、来年の梅雨で崩れます」
俺はその場で帳面を出して、その男の名前と、大工の心得があることを書いた。書いてから、名簿を繰り直すことにした。
四千百二十人分に、江東で入った四百七十二人と、戻ってきた二千三百人を足すと、六千を超える。その全員に、できることを一つずつ聞いて回った。
二十日かかった。
二十日で、四百人ほどが何かしらの心得を持っていることがわかった。大工が十七人。鍛冶が九人。舟大工が二十三人。薬草を知っている者が六人。字が読める者が百四十人。
俺は、その全部を書いた。書き終わって、蓮華さまに見せた。この人は、その帳面をしばらく黙って読んでいた。
「……子渡。これ、すごいです」
「そうか」
「すごいです。……これがあれば、誰に何をやらせるかで迷いません」
この人はそう言って、頁をめくった。めくる速さが、だんだん上がっていく。
「字が読める人が百四十人。……これ、村へ出せます」
「――村へ?」
「はい。村に帳面をつけられる人がいれば、こちらが毎年数えに行かなくて済みます」
蓮華さまはそう言って、顔を上げた。
「去年、あなたが言いました。村は、こちらより長生きすると。……なら、村が自分で数えられるようにしたほうがいいです」
俺はその案を、しばらく考えた。考えて、一つだけ口を挟んだ。
「――出すのはいい。だが、出した者を軍から抜くな」
「抜かないんですか」
「抜かん。……村に出した者は、軍籍のまま置く。飯もこちらから出す」
「なぜですか」
「村に出した者が村の者になると、次に何かあったとき、こちらの言うことを聞かん」
俺は帳面を指した。
「うちの者として村にいれば、村と軍の両方を見る。……両方見る者がいると、話が早い」
蓮華さまは、その言い方にしばらく黙っていた。黙ってから、書き込んだ。
「……子渡。あなた、時々すごく嫌なことを考えますね」
「褒めているのか」
「褒めています」
夏が来る前に、雪蓮さまが俺の家に来るようになった。最初は用事があった。二度目も、三度目も、たぶん用事があった。
四度目くらいから、用事がなくなった。
「灘~飯まだ?」
ある夕方、戸を開けるなりそう言われた。
「……あんた、王だろう。城で食え」
「城の飯、量が多いのよ。あと、みんな見てるし」
「見られると困るのか」
「困らないけど、疲れるの」
この人は勝手に上がり込んで、勝手に座った。俺は仕方なく、飯を二人分にした。
といっても、大したものではない。麦の粥と、干した魚を焼いたのと、漬けた菜だけだ。
「……あなた、こんなものしか食べてないの」
「不服か」
「不服じゃないけど、心配になるわ」
「昔はもっとひどかった。舟の上で乾し飯を齧っていた」
「それ、心配を減らす話じゃないでしょ」
雪蓮さまはそう言いながら、粥をかき込んだ。食べ方が、少し行儀が悪い。城ではもっときちんと食べているのを、俺は知っている。
「……美味しいわ、これ」
「粥だぞ」
「粥が美味しいのよ。……いいわね、こういうの」
この人は椀を持ったまま、しばらく黙っていた。
「ねえ、灘。私、あと何年こういうことできるのかしら」
俺は箸を止めた。
「――どういう意味だ」
「別に。ただ、そう思っただけ」
雪蓮さまは椀の中を見ていた。
「江東を取って、これから南も西も広げるでしょ。そのうち、北とやり合うことになる。……そうしたら、たぶん、こういう夜はなくなるわ」
この人はそう言って、少し笑った。
「だから今のうちに、たくさん食べておこうと思って」
言い方があまりに軽かったので、俺は逆に何も言えなかった。
この人は、二十六になっていた。俺が初めて会ったとき、十四だった。舟に乗せろと言って、手のひらを破りながら櫓を押していた。
あれから十二年になる。
「――なくならん」
「なくならんようにする」
「どうやって?」
「わからん。……だが、あんたが飯を食いに来る家がある、というのは、そう簡単には消えん」
雪蓮さまは、しばらく俺を見ていた。見てから、ふっと笑って椀を置いた。
「……ねえ、灘。それ、けっこうすごいこと言ってるって、わかってる?」
「すごいことか」
「すごいことよ」
「わからん」
「わからないでしょうね」
この人は立ち上がった。
「ごちそうさま。また来るわ」
「来い」
「即答ね」
「断る理由がない」
「……もう」
雪蓮さまは、何か言いたそうな顔をして、結局何も言わずに帰っていった。俺は椀を片づけながら、少し首を傾げていた。何がすごいことなのか、最後までわからなかった。
その半月ほどあとだった。城で帳面を突き合わせていると、蓮華さまが妙に硬い顔で入ってきた。
「子渡。少しよろしいですか」
「……なんだ」
「お姉様が、最近あなたの家に行きすぎです」
俺は筆を止めた。
「行きすぎ、とは」
「今月、六度です」
「……数えたのか」
「数えるのが私の仕事です」
この人は真顔でそう言って、俺の机の前に座った。
「王が家臣の家に、月に六度も通うのは、外から見て良くありません。妙な噂が立ちます」
「妙な噂とは」
蓮華さまは、そこで言葉に詰まった。顔が、みるみる赤くなっていく。
「……その、いろいろです」
「いろいろか」
「いろいろです。……子渡、あなた本当にわかっていないんですか」
「わかっていないな」
「……はあ」
この人は、深々と溜め息をついた。
「いいですか。あなたは三十七です。お姉様は二十六です。二人とも独り身です。同じ家で、夜に、二人きりで飯を食っています。それを月に六度やっています」
「やっている」
「……何も感じませんか」
「粥を作りすぎることがある」
蓮華さまは、机に額を打ちつけた。実際に音がした。
「――おい」
「大丈夫です。自業自得です」
この人は額を押さえながら顔を上げた。
「子渡。私は、別に止めに来たのではありません」
「では、なぜ来た」
「……忠告に来ました。あなたが、いつか誰かを傷つける、という忠告です」
その言い方が思ったより真剣だったので、俺は口を閉じた。
「あなたは、来る者を断りません。断る理由がないと言って、全部受け入れます。……それは、あなたの良いところです。でも、受け入れられた側は、そのぶん期待します」
蓮華さまはそう言って、少し目を伏せた。
「期待して、あなたが何も気づいていないと知ったとき、それは、けっこう痛いです」
この人はそこで立ち上がった。出ていこうとして、戸口で止まった。
「あの、子渡」
「なんだ」
「……私も、たまに行っていいですか」
「家にか」
「はい」
「来い」
「即答しないでください!」
蓮華さまは真っ赤な顔でそう言って、走って出ていった。俺は、しばらく机の前で固まっていた。
わからなかった。その日の夕方、俺は公瑾どのに会ったので、この話をした。
この人は、俺の話を最後まで聞いて、それからしばらく無言だった。無言のまま、湯呑みを回した。回して、止めた。
「……楚航どの」
「なんだ」
「あなたは、水の上の風向きは読めるのですね」
「読める」
「では、なぜ人の風向きは読めないのですか」
「――同じものか」
「同じです。むしろ、人のほうがわかりやすい」
公瑾どのは、そう言って湯呑みを置いた。置いてから、俺の肩を軽く叩いた。
「まあ、しばらくは今のままでよろしい。……そのほうが、見ていて面白いわ」
「あんた、性格が悪いな」
「今ごろ気づきましたか」
この人はそう言って歩いていった。俺は、その日の夜も、いつも通り粥を作った。
二人分作ってしまって、少し余った。余った分は、翌朝に食べた。
烽火が二十三になったのは、その年の秋だった。十年前と同じ数だ。
二十三本目に火を入れた日、俺は川岸に立って、上流から順に上がる煙を数えていた。隣に、亞莎がいた。この娘は、字を覚えるかたわら、俺の帳面の写しを取るようになっていた。
「……隊長。二十三本ですね」
「二十三本だ」
「十年前と同じ数だと伺いました」
「同じだ」
俺は煙を数え終えた。
数え終えてから、少し妙な気分になった。十年前、俺はこの数を三年かけて作った。今度は一年で戻した。
だが、戻しただけだ。増えてはいない。
「隊長。次は、何本にしますか」
亞莎がそう聞いた。
「百だ」
俺は即答した。
「――百、ですか」
「百だ」
「今、二十三です。……あと七十七本ですね」
この娘はそう言って、指を折り始めた。折ってから、こう言った。
「一年で十七本増えました。この調子だと、四年半かかります」
「そんなに早くはいかん」
「なぜですか」
「近い村から順に置いたからだ」
俺は川の上流を指した。
「近い村は、話が通りやすい。……遠くなると、通るまでに時間がかかる。それに、五つ揃う村が減る」
「では、何年ですか」
「わからん。……十年かもしれん」
亞莎は、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。
「隊長。十年後、隊長はおいくつですか」
「四十七だ」
「四十七」
この娘はそう繰り返して、それから何か言いかけて、やめた。やめたことに、俺は気づいた。
「……言え」
「いえ、その」
「言え。……言わんと、こちらが気になる」
亞莎は、しばらく迷ってから、小さい声で言った。
「……四十七だと、まだ大丈夫ですよね」
俺はその質問の意味を、しばらく考えた。考えて、こう答えた。
「大丈夫だ。……ただし、舟には乗れんかもしれん」
「乗れないんですか」
「わからん。……脚がこれだからな。年を取ると、もっと動かなくなる」
俺は左脚を軽く叩いた。
「だから、百本目を見るのは、たぶんあんただ」
亞莎は、その言葉に目を見開いた。
「――私、ですか」
「あんたか、思春か、小蓮さまか、誰かだ」
俺は川を見た。
「俺が数え終わる前に、誰かが数えられるようになっていればいい。……そのために、あんたに写しを取らせている」
この娘は、しばらく何も言わなかった。言わないまま、帳面を胸に抱えた。抱えてから、こう言った。
「……隊長。私、写しを取るだけじゃなくて、覚えます」
「覚えるか」
「はい。写したものを、全部覚えます。……そうすれば、帳面が焼けても残ります」
俺はその言い方に、少し笑った。
「――それは、蓮華さまの手だな」
「はい。蓮華さまに教わりました」
亞莎はそう答えて、少し胸を張った。
「蓮華さまは、写したものを全部覚えておられます。……私も、そうします」
その年の暮れ、俺は十年前の帳面と今の帳面を並べて、しばらく見ていた。
十年前、二十三の村に火があった。二百三十人が川に残った。舟が十八艘あった。
今、二十三の村に火がある。六千人がいる。舟が三十一艘ある。
数字だけを見れば、増えている。だが、十年前にいた二百三十人のうち、今この川にいるのは四十七人だ。
俺は、その差を帳面に書いた。書いてから、しばらく筆を持ったまま座っていた。
書いたところで、戻らない。戻らないが、書かないと、いなかったことになる。