長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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櫓と妹

小蓮さまが軍議に来たのは、その年の春だった。十四になっていた。江東へ来てから背が伸びて、雪蓮さまの肩を越えている。手には木の棒ではなく、刃のついた短い槍を持つようになっていた。

 

 軍議の途中で、この子は勝手に入ってきて、卓の前に立った。

 

「お姉ちゃん。わたし、戦に出る」

 

 部屋の全員が動きを止めた。雪蓮さまは、しばらく妹の顔を見ていた。

 

「……出たいの?」

 

「出る」

 

「出たいの、じゃなくて、出るのね」

 

「うん」

 

 小蓮さまはそう答えて、卓に手を置いた。

 

「わたし、去年から祭に稽古つけてもらってる。冥琳にも兵の動かし方を教わってる。……もう十四だよ。お姉ちゃんは十四のとき、舟に乗ってた」

 

 俺はその言葉に少し肝が冷えた。誰から聞いたのかは、聞くまでもない。雪蓮さまが壁際を見た。祭どのは腕を組んだまま、素知らぬ顔をしている。

 

「わしは稽古をつけただけじゃ。余計なことは言うとらん」

 

「言ってるでしょ」

 

「言うとらん。……昔話をしただけじゃ」

 

「それを言うって言うのよ」

 

 小蓮さまは、姉のほうへ向き直った。

 

「お姉ちゃん。わたし、ずるいと思うの。お姉ちゃんは十四で舟に乗って、十六で北に行った。蓮華お姉ちゃんは十五で長沙の留守番をした。……わたしだけ、十四でまだ城にいるの」

 

 雪蓮さまは答えなかった。

 

「わたし、なんにもしてないままなのは、いやなの」

 

 その言い方に、俺は覚えがあった。四年前、館の庭で同じことを言われた。最初に口を開いたのは、蓮華さまだった。

 

「――反対です」

 

「蓮華お姉ちゃん!」

 

「反対です。理由は三つあります」

 

 この人は指を折った。小蓮はまだ実戦を見ていない、稽古と実戦は違う。小蓮が出れば周りの兵はあなたを守ることを優先する、それは隊の動きを鈍らせる。そして。

 

「……私が、嫌です」

 

「そんなの、りゆうじゃないよ」

 

「理由です。私にとっては一番大きい理由です」

 

 蓮華さまは、まっすぐ妹を見た。

 

「私は、母様のときに何もできませんでした。長沙で報せを待っていただけです。……もう、待つのは嫌なんです」

 

 小蓮さまは、そこで少し怯んだ。怯んだが、引かなかった。

 

「……じゃあ、お姉ちゃんも来ればいいじゃん」

 

「私は槍が持てません」

 

「持てなくていいよ。かぞえる人でしょ」

 

 その一言で、蓮華さまが黙った。俺はその様子を見ていて、少し感心していた。この子は、姉の役割をちゃんと理解している。しかも、それを武器として使えるようになっていた。

 

「――灘」

 

 雪蓮さまがこちらを見た。

 

「あなたはどう思う」

 

 俺は少し考えてから答えた。

 

「――出すべきだと思う」

 

 小蓮さまが、ぱっと顔を輝かせた。蓮華さまが、逆に硬い顔になった。

 

「子渡」

 

「聞け。……出すべきだが、条件がある」

 

 俺は小蓮さまのほうを向いた。

 

「一つ。俺の隊に入れ。水軍だ」

 

「え。……槍、使わないの?」

 

「使う。だが、その前に櫓を漕げ」

 

 小蓮さまは目を丸くした。

 

「櫓?」

 

「櫓だ。俺の隊は水軍だ。舟が動かなければ、槍は届かん。……あんたの姉上も、十四のときに櫓から始めた」

 

「……お姉ちゃんも?」

 

「そうだ。手のひらを破って、血を出して、それでも最後まで押した」

 

 雪蓮さまがそっぽを向いた。

 

「……余計なこと言わないでよ」

 

「事実だ」

 

「事実を言うなって言ってるの」

 

 俺は二つ目を指で示した。

 

「俺の言うことを聞け。俺が退けと言ったら退く。理由は聞くな。あとで説明する」

 

「……はい」

 

「三つ目」

 

 俺は蓮華さまのほうを見た。

 

「毎回、蓮華さまに数えてもらう。出た人数と、帰った人数だ。……小蓮さまも、自分で数えろ」

 

 蓮華さまが、少し目を見開いた。

 

「……それは」

 

「あんたの仕事を、この子にも覚えさせる。数えられる将は、深追いをせん」

 

 この人はしばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。

 

「……わかりました。反対は取り下げません。でも、条件がつくなら、飲みます」

 

 蓮華さまはそう言って、妹を見た。

 

「小蓮。一つだけ約束してください。……帰ってきてください。それだけです」

 

 小蓮さまは、しばらく姉の顔を見ていた。それから、こくりと頷いた。櫓の稽古は、思ったより早く進んだ。

 

 この子は体の使い方が上手い。四年間、座ったまま棒で打ち合っていたのが効いている。腕と腰の連動が、他の新入りとまるで違う。

 

 半月で、八人漕ぎの拍を乱さなくなった。姉より二日早い。それは本人には言わなかった。

 

「そこう、これ、いつまでやるの」

 

 十日目に、小蓮さまが息を切らしながら聞いてきた。

 

「船足が揃うまでだ」

 

「もうそろってるよ」

 

「揃っていない。今の拍は、あんたが周りに合わせている。……逆にしろ」

 

「ぎゃく?」

 

「あんたが先に押して、周りが合わせる形にする。それが将の漕ぎ方だ」

 

 小蓮さまはしばらく考えて、それからもう一度櫓を握った。三日かかった。三日目に、この子が押した拍に、七人がついてきた。

 

 そのとき、本人が一番驚いた顔をしていた。

 

「……あれ。みんな、ついてきた」

 

「そうだ」

 

「なんで?」

 

「あんたの拍が、押しやすかったからだ」

 

 俺は櫓の柄を指した。

 

「拍というのは、速いか遅いかではない。押しやすいかどうかだ。……あんたは、周りが息を吸う瞬間を空けた。それができる者は少ない」

 

 小蓮さまは、櫓を握ったまましばらくぽかんとしていた。それから、じわじわと笑った。

 

「……わたし、うまい?」

 

「上手い」

 

「やった!」

 

 この子は櫓を放り出して跳び上がった。舟が揺れて、二人ほど水に落ちた。落ちた二人が水から顔を出して文句を言い、小蓮さまが謝りながら笑っていた。俺はその様子を舳先から見ていた。

 

 初陣は、その夏に来た。河口の外れに、海から来た賊が居着いた。数は八十ほど。うちの漁村を三度襲っている。

 

「……こいつら、思春の昔の仲間か」

 

「違う」

 

 思春は報告を見て即答した。

 

「手口は似ているが、やり方が雑だ。……私の頃は、種籾を残した。こいつらは全部持っていっている」

 

「では、別の連中だな」

 

「そうだ。……北から流れてきた口だろう」

 

 その討伐に、俺は舟を十二艘出した。小蓮さまは、そのうちの一艘に乗せた。俺の舟ではない。思春の舟だ。

 

「なんでそうくんの舟なの?」

 

「俺の舟は先頭に立つ。先頭は、一番手が回らん」

 

 俺は舟の並びを指した。

 

「思春の舟は二番手だ。あそこなら、あんたが何かやらかしても立て直せる」

 

「わたし、やらかさないよ」

 

「やらかす」

 

「やらかさないってば!」

 

「一度目は必ずやらかす。俺もやらかした」

 

 その日、小蓮さまは確かにやらかした。戦そのものは、あっけなく片づいた。

 

 賊の舟は八艘で、こちらは十二艘。しかも向こうは河口の内側にいた。逃げ道は海しかない。俺は五艘を河口の外に先回りさせて、残りで内側から押した。

 

 挟まれた賊は、半刻で崩れた。問題はそのあとだった。崩れた賊の一艘が岸に乗り上げて、乗っていた連中が陸へ逃げた。

 

 小蓮さまが、それを追って舟から降りた。俺は自分の舟からそれを見て、腹の底が冷えた。

 

「――思春!」

 

「わかっている!」

 

 思春がすぐに追った。俺は追えなかった。走れないからだ。

 

 舟を岸へ寄せさせて、上がったときには、もう終わっていた。

 

 小蓮さまは地面に座り込んでいた。その手に槍が握られている。刃に血がついていた。三歩ほど先に、賊が一人倒れていて、動いていなかった。

 

 思春が、その脇に立っていた。

 

「――隊長」

 

「……状況は」

 

「この者が、逃げる途中で振り返って槍を突いた。小蓮さまが受けて、突き返した。……正当な戦闘だ。私が着いたときには終わっていた」

 

「怪我は」

 

「ない。……体はな」

 

 俺はその意味を理解した。小蓮さまのところまで歩いて、その前に膝をついた。左脚が曲がらないので、片膝だけだ。

 

「小蓮さま。聞こえるか」

 

「……きこえる」

 

 声が震えていた。

 

「――槍を離せ」

 

「え?」

 

「離せ。握ったままだと、手が固まる」

 

 俺がそう言うと、この子は自分がまだ槍を握りしめていることに気づいた顔をした。指を一本ずつ開かせた。槍が地面に落ちた。

 

「立てるか」

 

「……たてる」

 

 立とうとして、膝が笑って座り込んだ。俺は思春に手を貸してもらって、この子を舟まで運んだ。舟の上で、小蓮さまは吐いた。二度吐いて、そのあとしばらく舷にもたれていた。俺は隣に座って、何も言わずに待った。

 

 半刻ほどして、この子が口を開いた。

 

「……そこう」

 

「うん」

 

「わたし、怖かった」

 

 声が掠れていた。

 

「ずっと、早く戦に出たいって思ってた。……でも、怖かった」

 

「そうか」

 

「あの人、わたしのこと見てた」

 

 小蓮さまは膝を抱えたまま続けた。

 

「倒れるとき、わたしの顔を見てたの。……わたし、名前も知らないのに」

 

 俺はその言葉に、少し胸を突かれた。この子は、俺の癖を知っている。俺が斬った相手の名を聞くことを、いつからか知っている。

 

「――小蓮さま。名前は、あとで聞いておく」

 

「え?」

 

「あの舟の生き残りがいる。そいつに聞けば、たぶんわかる。……わかったら、あんたに教える」

 

 小蓮さまは俺を見上げた。

 

「……聞いて、どうするの」

 

「覚えるだけだ」

 

 俺は川のほうへ目をやった。

 

「それしかできん。……だが、覚えていると、いつか役に立つ」

 

「どんなふうに?」

 

「わからん。俺は二十年以上やっているが、まだわからん」

 

 この子は、そこで少しだけ笑った。笑ってから、また涙が出たらしく、袖で顔を拭った。

 

「……そこう。わたし、もう戦に出たくないって言ったら、どうする?」

 

 俺は少し考えてから答えた。

 

「――出なくていい」

 

「え」

 

「出なくていい。誰も文句は言わん。……俺が言わせん」

 

「でも、わたし、自分で出るって言ったのに」

 

「言った。だが、言ったことを取り消すのは、恥ではない」

 

 俺は舷にもたれた。

 

「一度やってみて、合わないとわかったなら、それは収穫だ。やらずに一生迷うより、ずっといい」

 

 小蓮さまはしばらく黙っていた。それから、こう言った。

 

「……もう少し、やってみる」

 

「そうか」

 

「うん。……今決めるのは、なんか、負けたみたいだから」

 

 俺はその返事を聞いて、少し笑った。三姉妹は、やはり似ている。賊の名前を聞くのに、三日かかった。

 

 生き残りは十六人いた。そのうち、あの男を知っている者は四人だった。四人とも、姓しか知らなかった。

 

 名がわからない、と言われて、俺は少し困った。困っていると、そのうちの一人が、こう言った。

 

「……名は知らんが、あいつには倅がいる」

 

「倅か」

 

「北にいるはずだ。……去年、里に置いてきたと言うとった」

 

 俺はその話を帳面に書いた。姓と、倅がいることと、その倅が北の里にいるらしいことを書いた。書いてから、小蓮さまのところへ行った。この子は、桟橋に座って川を見ていた。三日、そうしていたらしい。

 

「――わかったことがある」

 

「なまえ?」

 

「名前はわからん。……姓だけだ」

 

 俺は帳面を開いた。

 

「かわりに、別のことがわかった。あの男には、倅がいる。去年、北の里に置いてきたそうだ」

 

 小蓮さまは、その言葉にしばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。

 

「……その子、お父さんが死んだの知ってる?」

 

「知らんだろうな」

 

「なんで」

 

「誰も知らせに行かんからだ」

 

 俺は帳面を閉じた。

 

「北の里がどこかも、わかっていない。……賊の連中は、互いの出身を詳しく聞かん。聞くと、面倒になるからだ」

 

 小蓮さまは、しばらく川を見ていた。見てから、こう言った。

 

「……そこう。わたし、書いていい?」

 

「――何をだ」

 

「その人のこと」

 

 この子はそう言って、俺の帳面を指した。

 

「姓と、倅がいることと、北の里にいることを。……わたしが書く」

 

「書けるか」

 

「書ける。蓮華お姉ちゃんに教わった」

 

 俺は帳面と筆を渡した。小蓮さまは、桟橋に座ったまま書いた。字は、思ったより整っていた。蓮華さまが教えたのだから、当然かもしれない。

 

 書き終わって、この子は帳面を返してきた。返しながら、こう言った。

 

「……そこう。これ、意味あるの?」

 

「わからん」

 

 俺は正直に答えた。

 

「ないかもしれん。……その倅が、一生この帳面を見ないかもしれん」

 

「じゃあ」

 

「だが、見る日が来たら、そこにある」

 

 俺は帳面を閉じた。

 

「見る日が来ないほうが多い。……それでも書く。書かないと、来た日に何もない」

 

 小蓮さまは、その言い方にしばらく黙っていた。黙ってから、小さく頷いた。

 

「……わかった」

 

 城へ戻ったのは、その翌日だった。門のところに蓮華さまが待っていた。小蓮さまの顔を見た瞬間に、この人は全部わかったらしい。何も聞かずに、妹を抱きしめた。

 

「……蓮華お姉ちゃん」

 

「おかえりなさい」

 

「……ただいま」

 

 小蓮さまは、そこでようやく声を上げて泣いた。俺はその横をそっと通り過ぎた。通り過ぎながら、蓮華さまと目が合った。この人は、妹を抱えたまま、俺に向かって小さく頭を下げた。

 

 その晩、雪蓮さまが俺の家に来た。最近は、月に八度ほどになっている。蓮華さまが数えているらしい。

 

「小蓮、寝たわ。泣き疲れて寝た。……祭が横についてる」

 

 この人はそう言って座り込んだ。俺は粥を出した。この頃には、二人分作るのが習慣になっていた。

 

「……ねえ、灘。あの子、大丈夫かしら」

 

「大丈夫だ」

 

「即答ね」

 

「即答した。……あんたも、あの子と同じことを言った」

 

 雪蓮さまが顔を上げた。

 

「十年前だ。北から帰ってきた年に、あんたは川岸で言った。人を斬って、褒められて嬉しかった。そのあと吐いた。それが一番嫌だったと」

 

「……覚えてるの」

 

「覚えている」

 

「私、覚えてないわ」

 

「そうか」

 

「……ううん。嘘。覚えてる」

 

 この人は椀を置いた。

 

「あのとき、あなたが『両方だ』って言ったの。嬉しかったのも本当で、吐いたのも本当だって。……あれ、十年経っても効いてるのよ。ずるいわよね」

 

 雪蓮さまはそう言って笑った。それから、少し真面目な顔になった。

 

「灘。あなた、あの子に同じこと言った?」

 

「言っていない」

 

「なんで」

 

「あの子は、あんたと違う」

 

 俺は粥をかき混ぜながら答えた。

 

「あんたは、嬉しかったことに罪悪感を持っていた。……あの子は、そもそも嬉しくなかった。怖かっただけだ。だから、同じ言葉は要らん」

 

「……そう」

 

「かわりに、やめてもいいと言った」

 

「え」

 

 雪蓮さまが目を丸くした。

 

「あなた、そんなこと言ったの? 王の妹に、戦をやめてもいいって?」

 

「言った。……まずかったか」

 

 この人はしばらく俺を見ていた。それから、両手で顔を覆った。

 

「……あなた、本当に」

 

「なんだ」

 

「なんでもない」

 

 雪蓮さまは顔を覆ったまま言った。

 

「……ねえ、灘。あなた、母様の代わりをしてるわね」

 

 俺は箸を止めた。

 

「――代わりではない」

 

「そう?」

 

「あの人なら、やめてもいいとは言わん。『やる気がねぇなら帰れ』と言う」

 

 その物真似が下手だったので、雪蓮さまが吹き出した。

 

「似てないわよ」

 

「祭どののほうが上手い」

 

「祭は四十年聞いてるもの」

 

 この人はそう言って、しばらく笑っていた。笑ってから、ふと真顔になった。

 

「……ねえ。じゃあ、あなたは何なの」

 

「――何とは」

 

「母様の代わりじゃないなら、あなた、うちの家族の何なの」

 

 俺はその質問に、すぐには答えられなかった。

 

「……家臣だろう」

 

「家臣は、王の妹に戦をやめていいって言わないわ」

 

「……」

 

「家臣は、王が飯を食いに来る家を持たないわ」

 

 雪蓮さまは俺を見ていた。その目つきに、俺は返す言葉を失った。

 

「……灘。私、あと三年くらい、待ってあげる」

 

「――何をだ」

 

「あなたが、自分で気づくのを」

 

 この人は立ち上がった。

 

「三年経っても気づかなかったら、そのときは私から言うわ。……そのときは、逃げないでよ」

 

「……何の話だ」

 

「わかってないところが、いいのよ」

 

 雪蓮さまはそう言って笑って、帰っていった。俺は椀を片づけながら、しばらく首を傾げていた。その半月後、小蓮さまが俺の家に来た。

 

 夕方だった。戸を叩く音がして、開けると、そこに立っていた。手に槍を持っている。

 

「そこう」

 

「……どうした」

 

「勝負しよう」

 

 俺はその申し出に、少し驚いた。

 

「――今からか」

 

「うん」

 

「座ったままのか」

 

「ううん」

 

 小蓮さまは首を振った。

 

「立ってやる」

 

 俺はその言葉の意味を、しばらく考えた。考えて、こう答えた。

 

「――俺は立てん」

 

「立てるよ」

 

「立てるが、動けん」

 

「動かなくていいよ」

 

 この子はそう言って、庭のほうを指した。

 

「そこうは、そこに立ってるだけでいい。わたしが動く」

 

 俺は、その提案に、しばらく黙っていた。黙ってから、庭へ出た。やってみて、わかった。

 

 この子は、俺の周りを回りながら打ち込んでくる。俺は動かずに受ける。動かずに受けるというのは、思っていたよりずっと難しい。相手の位置に合わせて、上体と腕だけで刀を回す。脚が使えないので、間合いを測るのが遅れる。

 

 五度やって、五度とも負けた。

 

「……やったー!」

 

 小蓮さまは槍を放り出して両手を上げた。

 

「そこうに勝った! ぜんぶ勝った!」

 

「そうだな。参った」

 

「もう一回やる?」

 

「やらん。今日はやらん」

 

「なんで!」

 

「六度目も負けると、俺の立つ瀬がない」

 

 俺がそう言うと、この子は声を上げて笑った。笑ってから、急に真面目な顔になって、俺の隣に座り込んだ。

 

「ねえ、そこう」

 

「なんだ」

 

「わたし、強くなった?」

 

「なった」

 

「じゃあ、戦に出てもいい?」

 

 俺はその質問に、すぐには答えなかった。答えなかったのは、この子が半月前に「もう少しやってみる」と言ったからだ。あれから半月、この子は何を考えていたのか。

 

「……出たいのか」

 

「うん」

 

「あの日、怖かったんだろう」

 

「怖かった」

 

 小蓮さまは即答した。

 

「今も怖いよ。……あの人の顔、まだ出てくるもん」

 

 この子はそう言って、膝を抱えた。

 

「でも、それでも出る」

 

「――なぜだ」

 

「わたしが出ないと、誰かが出るから」

 

 俺はその答えに、少し息を詰めた。

 

「うちの隊、六千人いるでしょ。……その六千人は、みんな誰かの子でしょ。わたしが出なかったら、そのぶん誰かの子が出るの」

 

 小蓮さまは、そう言って川のほうを見た。

 

「わたし、それはずるいと思う」

 

 俺はその言い分を、しばらく考えていた。考えて、こう答えた。

 

「――それは、正しい」

 

「そうでしょ」

 

「正しいが、危ない」

 

「なんで」

 

「その理屈で動くと、必ず前に出すぎる」

 

 俺はこの子の顔を見た。

 

「あんたの母上が、その理屈の人だった。……自分が出なければ誰かが死ぬ、と思う人だった。だから三十騎で山に入った」

 

 小蓮さまは、その言葉にしばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。

 

「……じゃあ、どうすればいいの」

 

「数えろ」

 

 俺は即答した。

 

「数える?」

 

「そうだ。……出るときに、何人で出るかを数える。帰るときに、何人帰ったかを数える。差が出たら、なぜ出たかを考える」

 

 俺は帳面を出した。

 

「あんたの母上は、それをしなかった。……三十騎で出て、何人帰るかを数えていなかった」

 

「かぞえてたら、行かなかった?」

 

「行っただろうな」

 

 俺は正直に答えた。

 

「行っただろう。……だが、三十騎では行かなかったかもしれん」

 

 小蓮さまは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、俺の帳面を指した。

 

「……そこう。わたしにも、それちょうだい」

 

「――帳面か」

 

「うん。わたしの帳面。……自分で数える」

 

 俺は、その頼みに、しばらく答えられなかった。答えられなかったのは、この子がそれを言い出すのが、思っていたより早かったからだ。

 

「……あんた、それを持つと、しんどいぞ」

 

「知ってる」

 

「知っているのか」

 

「知ってる。……蓮華お姉ちゃん、いつも夜まで書いてるもん」

 

 小蓮さまはそう答えて、少し口を尖らせた。

 

「わたし、あれを見てて、ずっと思ってたの。あれ、しんどいだろうなって」

 

「では、なぜ持つ」

 

「しんどいのを、お姉ちゃん一人にやらせるのは、ずるいから」

 

 俺はその答えに、返す言葉を持たなかった。持たないまま、家へ戻って、新しい帳面を一冊持ってきた。渡すと、この子は両手で受け取った。受け取って、しばらく表紙を見ていた。

 

「……そこう」

 

「なんだ」

 

「一枚目、なに書けばいい?」

 

「名前だ」

 

「だれの」

 

「あんたの」

 

 俺は筆を渡した。

 

「一枚目には、書く者の名前を書く。……この帳面が誰のものかを、あとで見る者にわからせるためだ」

 

 小蓮さまは、筆を受け取って、しばらく考えていた。考えてから、書いた。孫尚香、字は仲謀。真名は小蓮。

 

 書いてから、こう聞いた。

 

「……そこうの帳面は、どう書いてあるの」

 

「楚航、字は子渡と書いてある」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

「まなは?」

 

 俺は、その質問に、少し詰まった。

 

「……書いていない」

 

「なんで」

 

「わからん」

 

 俺は正直に答えた。

 

「書こうとして、書けなかった。……理由は、自分でもわからん」

 

 小蓮さまは、その答えにしばらく俺を見ていた。見てから、自分の帳面をもう一度開いた。開いて、自分の書いた行を指した。

 

「わたし、書いたよ」

 

「書いたな」

 

「そこうも書きなよ」

 

「……いつかな」

 

「いつかっていつ」

 

「わからん」

 

 俺がそう答えると、この子は少し不服そうな顔をした。不服そうな顔のまま、帳面を閉じた。閉じてから、立ち上がった。

 

「じゃあ、わたし、そこうが書くまで待ってる」

 

「――待つのか」

 

「待つ。……そこうも、いっぱい待ったんでしょ」

 

 小蓮さまはそう言って、庭を出ていった。その年の秋、小蓮さまは二度目の戦に出た。河口の警邏で、賊の舟を二艘捕まえた。斬り合いにはならなかった。

 

 戻ってきて、この子は帳面を開いて、こう報告した。

 

「出たのが四十人。帰ったのが四十人。……差はなし」

 

「よし」

 

「捕まえたのが十一人。全員の名前、聞いた」

 

 俺はその言葉に、少し驚いた。

 

「――全員か」

 

「全員。……四人は、名前がなかった」

 

 小蓮さまはそう答えて、帳面をめくった。

 

「名前がないっていうか、忘れてた。ずっと呼ばれてなかったから、忘れたって言ってた」

 

「……そうか」

 

「だから、名を知らずって書いた」

 

 この子はそう言って、その行を指した。俺はその行を、しばらく見ていた。小蓮さまの字で、名を知らずと四つ並んでいる。俺の帳面にあるのと、同じ書き方だった。

 

「……小蓮さま」

 

「なに」

 

「よくやった」

 

 この子は、その言葉に、ぱっと顔を上げた。上げてから、少し照れた顔をした。

 

「……そこうに褒められた」

 

「褒めた」

 

「珍しいね」

 

「珍しくはない」

 

「珍しいよ。そこう、あんまり褒めないもん」

 

 小蓮さまはそう言って、帳面を胸に抱えた。抱えてから、こう聞いた。

 

「ねえ、そこう。名前を忘れちゃった人は、どうなるの」

 

「どうもならん」

 

「じゃあ、思い出させてあげられないの?」

 

 俺はその質問に、しばらく答えられなかった。答えられないまま、こう答えた。

 

「……できるかもしれん」

 

「え?」

 

「うちに入れば、名前が要る。……名前がないと、飯を配れん」

 

 俺は帳面を指した。

 

「名前がない者には、こちらでつけることがある。……つけると、それがその者の名前になる」

 

「つけていいの?」

 

「よくはない。……だが、ないよりましだ」

 

 小蓮さまは、その答えにしばらく考えていた。考えてから、こう言った。

 

「……じゃあ、わたし、つける」

 

「――あんたがか」

 

「うん。捕まえたのはわたしだから」

 

 この子はそう言って、帳面を開いた。

 

「四人でしょ。……四つ考える」

 

 俺はその様子をしばらく黙って見ていた。この子は二十年前の俺よりずっと速い。俺が名前を書き始めたのは、母の名を答えられなかったからだ。答えられなかった日から、書くまでに何年もかかった。

 

 この子は初陣から半年でそこまで来ている。その日の夜、俺は自分の帳面を開いた。開いて一枚目を見た。楚航、字は子渡。それだけが書いてある。

 

 俺は筆を持って、しばらくその行を見ていた。見ていて、書けなかった。書けなかった理由が、少しだけわかった気がした。真名を書くというのは、この帳面を誰かに渡すということだ。渡す日が来ると認めるということだ。

 

 俺は、まだそれを認めていない。筆を置いて、帳面を閉じた。閉じてから、いつか書く、と自分に言った。いつかがいつかは、そのときもわからなかった。

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