長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
小蓮さまが軍議に来たのは、その年の春だった。十四になっていた。江東へ来てから背が伸びて、雪蓮さまの肩を越えている。手には木の棒ではなく、刃のついた短い槍を持つようになっていた。
軍議の途中で、この子は勝手に入ってきて、卓の前に立った。
「お姉ちゃん。わたし、戦に出る」
部屋の全員が動きを止めた。雪蓮さまは、しばらく妹の顔を見ていた。
「……出たいの?」
「出る」
「出たいの、じゃなくて、出るのね」
「うん」
小蓮さまはそう答えて、卓に手を置いた。
「わたし、去年から祭に稽古つけてもらってる。冥琳にも兵の動かし方を教わってる。……もう十四だよ。お姉ちゃんは十四のとき、舟に乗ってた」
俺はその言葉に少し肝が冷えた。誰から聞いたのかは、聞くまでもない。雪蓮さまが壁際を見た。祭どのは腕を組んだまま、素知らぬ顔をしている。
「わしは稽古をつけただけじゃ。余計なことは言うとらん」
「言ってるでしょ」
「言うとらん。……昔話をしただけじゃ」
「それを言うって言うのよ」
小蓮さまは、姉のほうへ向き直った。
「お姉ちゃん。わたし、ずるいと思うの。お姉ちゃんは十四で舟に乗って、十六で北に行った。蓮華お姉ちゃんは十五で長沙の留守番をした。……わたしだけ、十四でまだ城にいるの」
雪蓮さまは答えなかった。
「わたし、なんにもしてないままなのは、いやなの」
その言い方に、俺は覚えがあった。四年前、館の庭で同じことを言われた。最初に口を開いたのは、蓮華さまだった。
「――反対です」
「蓮華お姉ちゃん!」
「反対です。理由は三つあります」
この人は指を折った。小蓮はまだ実戦を見ていない、稽古と実戦は違う。小蓮が出れば周りの兵はあなたを守ることを優先する、それは隊の動きを鈍らせる。そして。
「……私が、嫌です」
「そんなの、りゆうじゃないよ」
「理由です。私にとっては一番大きい理由です」
蓮華さまは、まっすぐ妹を見た。
「私は、母様のときに何もできませんでした。長沙で報せを待っていただけです。……もう、待つのは嫌なんです」
小蓮さまは、そこで少し怯んだ。怯んだが、引かなかった。
「……じゃあ、お姉ちゃんも来ればいいじゃん」
「私は槍が持てません」
「持てなくていいよ。かぞえる人でしょ」
その一言で、蓮華さまが黙った。俺はその様子を見ていて、少し感心していた。この子は、姉の役割をちゃんと理解している。しかも、それを武器として使えるようになっていた。
「――灘」
雪蓮さまがこちらを見た。
「あなたはどう思う」
俺は少し考えてから答えた。
「――出すべきだと思う」
小蓮さまが、ぱっと顔を輝かせた。蓮華さまが、逆に硬い顔になった。
「子渡」
「聞け。……出すべきだが、条件がある」
俺は小蓮さまのほうを向いた。
「一つ。俺の隊に入れ。水軍だ」
「え。……槍、使わないの?」
「使う。だが、その前に櫓を漕げ」
小蓮さまは目を丸くした。
「櫓?」
「櫓だ。俺の隊は水軍だ。舟が動かなければ、槍は届かん。……あんたの姉上も、十四のときに櫓から始めた」
「……お姉ちゃんも?」
「そうだ。手のひらを破って、血を出して、それでも最後まで押した」
雪蓮さまがそっぽを向いた。
「……余計なこと言わないでよ」
「事実だ」
「事実を言うなって言ってるの」
俺は二つ目を指で示した。
「俺の言うことを聞け。俺が退けと言ったら退く。理由は聞くな。あとで説明する」
「……はい」
「三つ目」
俺は蓮華さまのほうを見た。
「毎回、蓮華さまに数えてもらう。出た人数と、帰った人数だ。……小蓮さまも、自分で数えろ」
蓮華さまが、少し目を見開いた。
「……それは」
「あんたの仕事を、この子にも覚えさせる。数えられる将は、深追いをせん」
この人はしばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「……わかりました。反対は取り下げません。でも、条件がつくなら、飲みます」
蓮華さまはそう言って、妹を見た。
「小蓮。一つだけ約束してください。……帰ってきてください。それだけです」
小蓮さまは、しばらく姉の顔を見ていた。それから、こくりと頷いた。櫓の稽古は、思ったより早く進んだ。
この子は体の使い方が上手い。四年間、座ったまま棒で打ち合っていたのが効いている。腕と腰の連動が、他の新入りとまるで違う。
半月で、八人漕ぎの拍を乱さなくなった。姉より二日早い。それは本人には言わなかった。
「そこう、これ、いつまでやるの」
十日目に、小蓮さまが息を切らしながら聞いてきた。
「船足が揃うまでだ」
「もうそろってるよ」
「揃っていない。今の拍は、あんたが周りに合わせている。……逆にしろ」
「ぎゃく?」
「あんたが先に押して、周りが合わせる形にする。それが将の漕ぎ方だ」
小蓮さまはしばらく考えて、それからもう一度櫓を握った。三日かかった。三日目に、この子が押した拍に、七人がついてきた。
そのとき、本人が一番驚いた顔をしていた。
「……あれ。みんな、ついてきた」
「そうだ」
「なんで?」
「あんたの拍が、押しやすかったからだ」
俺は櫓の柄を指した。
「拍というのは、速いか遅いかではない。押しやすいかどうかだ。……あんたは、周りが息を吸う瞬間を空けた。それができる者は少ない」
小蓮さまは、櫓を握ったまましばらくぽかんとしていた。それから、じわじわと笑った。
「……わたし、うまい?」
「上手い」
「やった!」
この子は櫓を放り出して跳び上がった。舟が揺れて、二人ほど水に落ちた。落ちた二人が水から顔を出して文句を言い、小蓮さまが謝りながら笑っていた。俺はその様子を舳先から見ていた。
初陣は、その夏に来た。河口の外れに、海から来た賊が居着いた。数は八十ほど。うちの漁村を三度襲っている。
「……こいつら、思春の昔の仲間か」
「違う」
思春は報告を見て即答した。
「手口は似ているが、やり方が雑だ。……私の頃は、種籾を残した。こいつらは全部持っていっている」
「では、別の連中だな」
「そうだ。……北から流れてきた口だろう」
その討伐に、俺は舟を十二艘出した。小蓮さまは、そのうちの一艘に乗せた。俺の舟ではない。思春の舟だ。
「なんでそうくんの舟なの?」
「俺の舟は先頭に立つ。先頭は、一番手が回らん」
俺は舟の並びを指した。
「思春の舟は二番手だ。あそこなら、あんたが何かやらかしても立て直せる」
「わたし、やらかさないよ」
「やらかす」
「やらかさないってば!」
「一度目は必ずやらかす。俺もやらかした」
その日、小蓮さまは確かにやらかした。戦そのものは、あっけなく片づいた。
賊の舟は八艘で、こちらは十二艘。しかも向こうは河口の内側にいた。逃げ道は海しかない。俺は五艘を河口の外に先回りさせて、残りで内側から押した。
挟まれた賊は、半刻で崩れた。問題はそのあとだった。崩れた賊の一艘が岸に乗り上げて、乗っていた連中が陸へ逃げた。
小蓮さまが、それを追って舟から降りた。俺は自分の舟からそれを見て、腹の底が冷えた。
「――思春!」
「わかっている!」
思春がすぐに追った。俺は追えなかった。走れないからだ。
舟を岸へ寄せさせて、上がったときには、もう終わっていた。
小蓮さまは地面に座り込んでいた。その手に槍が握られている。刃に血がついていた。三歩ほど先に、賊が一人倒れていて、動いていなかった。
思春が、その脇に立っていた。
「――隊長」
「……状況は」
「この者が、逃げる途中で振り返って槍を突いた。小蓮さまが受けて、突き返した。……正当な戦闘だ。私が着いたときには終わっていた」
「怪我は」
「ない。……体はな」
俺はその意味を理解した。小蓮さまのところまで歩いて、その前に膝をついた。左脚が曲がらないので、片膝だけだ。
「小蓮さま。聞こえるか」
「……きこえる」
声が震えていた。
「――槍を離せ」
「え?」
「離せ。握ったままだと、手が固まる」
俺がそう言うと、この子は自分がまだ槍を握りしめていることに気づいた顔をした。指を一本ずつ開かせた。槍が地面に落ちた。
「立てるか」
「……たてる」
立とうとして、膝が笑って座り込んだ。俺は思春に手を貸してもらって、この子を舟まで運んだ。舟の上で、小蓮さまは吐いた。二度吐いて、そのあとしばらく舷にもたれていた。俺は隣に座って、何も言わずに待った。
半刻ほどして、この子が口を開いた。
「……そこう」
「うん」
「わたし、怖かった」
声が掠れていた。
「ずっと、早く戦に出たいって思ってた。……でも、怖かった」
「そうか」
「あの人、わたしのこと見てた」
小蓮さまは膝を抱えたまま続けた。
「倒れるとき、わたしの顔を見てたの。……わたし、名前も知らないのに」
俺はその言葉に、少し胸を突かれた。この子は、俺の癖を知っている。俺が斬った相手の名を聞くことを、いつからか知っている。
「――小蓮さま。名前は、あとで聞いておく」
「え?」
「あの舟の生き残りがいる。そいつに聞けば、たぶんわかる。……わかったら、あんたに教える」
小蓮さまは俺を見上げた。
「……聞いて、どうするの」
「覚えるだけだ」
俺は川のほうへ目をやった。
「それしかできん。……だが、覚えていると、いつか役に立つ」
「どんなふうに?」
「わからん。俺は二十年以上やっているが、まだわからん」
この子は、そこで少しだけ笑った。笑ってから、また涙が出たらしく、袖で顔を拭った。
「……そこう。わたし、もう戦に出たくないって言ったら、どうする?」
俺は少し考えてから答えた。
「――出なくていい」
「え」
「出なくていい。誰も文句は言わん。……俺が言わせん」
「でも、わたし、自分で出るって言ったのに」
「言った。だが、言ったことを取り消すのは、恥ではない」
俺は舷にもたれた。
「一度やってみて、合わないとわかったなら、それは収穫だ。やらずに一生迷うより、ずっといい」
小蓮さまはしばらく黙っていた。それから、こう言った。
「……もう少し、やってみる」
「そうか」
「うん。……今決めるのは、なんか、負けたみたいだから」
俺はその返事を聞いて、少し笑った。三姉妹は、やはり似ている。賊の名前を聞くのに、三日かかった。
生き残りは十六人いた。そのうち、あの男を知っている者は四人だった。四人とも、姓しか知らなかった。
名がわからない、と言われて、俺は少し困った。困っていると、そのうちの一人が、こう言った。
「……名は知らんが、あいつには倅がいる」
「倅か」
「北にいるはずだ。……去年、里に置いてきたと言うとった」
俺はその話を帳面に書いた。姓と、倅がいることと、その倅が北の里にいるらしいことを書いた。書いてから、小蓮さまのところへ行った。この子は、桟橋に座って川を見ていた。三日、そうしていたらしい。
「――わかったことがある」
「なまえ?」
「名前はわからん。……姓だけだ」
俺は帳面を開いた。
「かわりに、別のことがわかった。あの男には、倅がいる。去年、北の里に置いてきたそうだ」
小蓮さまは、その言葉にしばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。
「……その子、お父さんが死んだの知ってる?」
「知らんだろうな」
「なんで」
「誰も知らせに行かんからだ」
俺は帳面を閉じた。
「北の里がどこかも、わかっていない。……賊の連中は、互いの出身を詳しく聞かん。聞くと、面倒になるからだ」
小蓮さまは、しばらく川を見ていた。見てから、こう言った。
「……そこう。わたし、書いていい?」
「――何をだ」
「その人のこと」
この子はそう言って、俺の帳面を指した。
「姓と、倅がいることと、北の里にいることを。……わたしが書く」
「書けるか」
「書ける。蓮華お姉ちゃんに教わった」
俺は帳面と筆を渡した。小蓮さまは、桟橋に座ったまま書いた。字は、思ったより整っていた。蓮華さまが教えたのだから、当然かもしれない。
書き終わって、この子は帳面を返してきた。返しながら、こう言った。
「……そこう。これ、意味あるの?」
「わからん」
俺は正直に答えた。
「ないかもしれん。……その倅が、一生この帳面を見ないかもしれん」
「じゃあ」
「だが、見る日が来たら、そこにある」
俺は帳面を閉じた。
「見る日が来ないほうが多い。……それでも書く。書かないと、来た日に何もない」
小蓮さまは、その言い方にしばらく黙っていた。黙ってから、小さく頷いた。
「……わかった」
城へ戻ったのは、その翌日だった。門のところに蓮華さまが待っていた。小蓮さまの顔を見た瞬間に、この人は全部わかったらしい。何も聞かずに、妹を抱きしめた。
「……蓮華お姉ちゃん」
「おかえりなさい」
「……ただいま」
小蓮さまは、そこでようやく声を上げて泣いた。俺はその横をそっと通り過ぎた。通り過ぎながら、蓮華さまと目が合った。この人は、妹を抱えたまま、俺に向かって小さく頭を下げた。
その晩、雪蓮さまが俺の家に来た。最近は、月に八度ほどになっている。蓮華さまが数えているらしい。
「小蓮、寝たわ。泣き疲れて寝た。……祭が横についてる」
この人はそう言って座り込んだ。俺は粥を出した。この頃には、二人分作るのが習慣になっていた。
「……ねえ、灘。あの子、大丈夫かしら」
「大丈夫だ」
「即答ね」
「即答した。……あんたも、あの子と同じことを言った」
雪蓮さまが顔を上げた。
「十年前だ。北から帰ってきた年に、あんたは川岸で言った。人を斬って、褒められて嬉しかった。そのあと吐いた。それが一番嫌だったと」
「……覚えてるの」
「覚えている」
「私、覚えてないわ」
「そうか」
「……ううん。嘘。覚えてる」
この人は椀を置いた。
「あのとき、あなたが『両方だ』って言ったの。嬉しかったのも本当で、吐いたのも本当だって。……あれ、十年経っても効いてるのよ。ずるいわよね」
雪蓮さまはそう言って笑った。それから、少し真面目な顔になった。
「灘。あなた、あの子に同じこと言った?」
「言っていない」
「なんで」
「あの子は、あんたと違う」
俺は粥をかき混ぜながら答えた。
「あんたは、嬉しかったことに罪悪感を持っていた。……あの子は、そもそも嬉しくなかった。怖かっただけだ。だから、同じ言葉は要らん」
「……そう」
「かわりに、やめてもいいと言った」
「え」
雪蓮さまが目を丸くした。
「あなた、そんなこと言ったの? 王の妹に、戦をやめてもいいって?」
「言った。……まずかったか」
この人はしばらく俺を見ていた。それから、両手で顔を覆った。
「……あなた、本当に」
「なんだ」
「なんでもない」
雪蓮さまは顔を覆ったまま言った。
「……ねえ、灘。あなた、母様の代わりをしてるわね」
俺は箸を止めた。
「――代わりではない」
「そう?」
「あの人なら、やめてもいいとは言わん。『やる気がねぇなら帰れ』と言う」
その物真似が下手だったので、雪蓮さまが吹き出した。
「似てないわよ」
「祭どののほうが上手い」
「祭は四十年聞いてるもの」
この人はそう言って、しばらく笑っていた。笑ってから、ふと真顔になった。
「……ねえ。じゃあ、あなたは何なの」
「――何とは」
「母様の代わりじゃないなら、あなた、うちの家族の何なの」
俺はその質問に、すぐには答えられなかった。
「……家臣だろう」
「家臣は、王の妹に戦をやめていいって言わないわ」
「……」
「家臣は、王が飯を食いに来る家を持たないわ」
雪蓮さまは俺を見ていた。その目つきに、俺は返す言葉を失った。
「……灘。私、あと三年くらい、待ってあげる」
「――何をだ」
「あなたが、自分で気づくのを」
この人は立ち上がった。
「三年経っても気づかなかったら、そのときは私から言うわ。……そのときは、逃げないでよ」
「……何の話だ」
「わかってないところが、いいのよ」
雪蓮さまはそう言って笑って、帰っていった。俺は椀を片づけながら、しばらく首を傾げていた。その半月後、小蓮さまが俺の家に来た。
夕方だった。戸を叩く音がして、開けると、そこに立っていた。手に槍を持っている。
「そこう」
「……どうした」
「勝負しよう」
俺はその申し出に、少し驚いた。
「――今からか」
「うん」
「座ったままのか」
「ううん」
小蓮さまは首を振った。
「立ってやる」
俺はその言葉の意味を、しばらく考えた。考えて、こう答えた。
「――俺は立てん」
「立てるよ」
「立てるが、動けん」
「動かなくていいよ」
この子はそう言って、庭のほうを指した。
「そこうは、そこに立ってるだけでいい。わたしが動く」
俺は、その提案に、しばらく黙っていた。黙ってから、庭へ出た。やってみて、わかった。
この子は、俺の周りを回りながら打ち込んでくる。俺は動かずに受ける。動かずに受けるというのは、思っていたよりずっと難しい。相手の位置に合わせて、上体と腕だけで刀を回す。脚が使えないので、間合いを測るのが遅れる。
五度やって、五度とも負けた。
「……やったー!」
小蓮さまは槍を放り出して両手を上げた。
「そこうに勝った! ぜんぶ勝った!」
「そうだな。参った」
「もう一回やる?」
「やらん。今日はやらん」
「なんで!」
「六度目も負けると、俺の立つ瀬がない」
俺がそう言うと、この子は声を上げて笑った。笑ってから、急に真面目な顔になって、俺の隣に座り込んだ。
「ねえ、そこう」
「なんだ」
「わたし、強くなった?」
「なった」
「じゃあ、戦に出てもいい?」
俺はその質問に、すぐには答えなかった。答えなかったのは、この子が半月前に「もう少しやってみる」と言ったからだ。あれから半月、この子は何を考えていたのか。
「……出たいのか」
「うん」
「あの日、怖かったんだろう」
「怖かった」
小蓮さまは即答した。
「今も怖いよ。……あの人の顔、まだ出てくるもん」
この子はそう言って、膝を抱えた。
「でも、それでも出る」
「――なぜだ」
「わたしが出ないと、誰かが出るから」
俺はその答えに、少し息を詰めた。
「うちの隊、六千人いるでしょ。……その六千人は、みんな誰かの子でしょ。わたしが出なかったら、そのぶん誰かの子が出るの」
小蓮さまは、そう言って川のほうを見た。
「わたし、それはずるいと思う」
俺はその言い分を、しばらく考えていた。考えて、こう答えた。
「――それは、正しい」
「そうでしょ」
「正しいが、危ない」
「なんで」
「その理屈で動くと、必ず前に出すぎる」
俺はこの子の顔を見た。
「あんたの母上が、その理屈の人だった。……自分が出なければ誰かが死ぬ、と思う人だった。だから三十騎で山に入った」
小蓮さまは、その言葉にしばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。
「……じゃあ、どうすればいいの」
「数えろ」
俺は即答した。
「数える?」
「そうだ。……出るときに、何人で出るかを数える。帰るときに、何人帰ったかを数える。差が出たら、なぜ出たかを考える」
俺は帳面を出した。
「あんたの母上は、それをしなかった。……三十騎で出て、何人帰るかを数えていなかった」
「かぞえてたら、行かなかった?」
「行っただろうな」
俺は正直に答えた。
「行っただろう。……だが、三十騎では行かなかったかもしれん」
小蓮さまは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、俺の帳面を指した。
「……そこう。わたしにも、それちょうだい」
「――帳面か」
「うん。わたしの帳面。……自分で数える」
俺は、その頼みに、しばらく答えられなかった。答えられなかったのは、この子がそれを言い出すのが、思っていたより早かったからだ。
「……あんた、それを持つと、しんどいぞ」
「知ってる」
「知っているのか」
「知ってる。……蓮華お姉ちゃん、いつも夜まで書いてるもん」
小蓮さまはそう答えて、少し口を尖らせた。
「わたし、あれを見てて、ずっと思ってたの。あれ、しんどいだろうなって」
「では、なぜ持つ」
「しんどいのを、お姉ちゃん一人にやらせるのは、ずるいから」
俺はその答えに、返す言葉を持たなかった。持たないまま、家へ戻って、新しい帳面を一冊持ってきた。渡すと、この子は両手で受け取った。受け取って、しばらく表紙を見ていた。
「……そこう」
「なんだ」
「一枚目、なに書けばいい?」
「名前だ」
「だれの」
「あんたの」
俺は筆を渡した。
「一枚目には、書く者の名前を書く。……この帳面が誰のものかを、あとで見る者にわからせるためだ」
小蓮さまは、筆を受け取って、しばらく考えていた。考えてから、書いた。孫尚香、字は仲謀。真名は小蓮。
書いてから、こう聞いた。
「……そこうの帳面は、どう書いてあるの」
「楚航、字は子渡と書いてある」
「それだけ?」
「それだけだ」
「まなは?」
俺は、その質問に、少し詰まった。
「……書いていない」
「なんで」
「わからん」
俺は正直に答えた。
「書こうとして、書けなかった。……理由は、自分でもわからん」
小蓮さまは、その答えにしばらく俺を見ていた。見てから、自分の帳面をもう一度開いた。開いて、自分の書いた行を指した。
「わたし、書いたよ」
「書いたな」
「そこうも書きなよ」
「……いつかな」
「いつかっていつ」
「わからん」
俺がそう答えると、この子は少し不服そうな顔をした。不服そうな顔のまま、帳面を閉じた。閉じてから、立ち上がった。
「じゃあ、わたし、そこうが書くまで待ってる」
「――待つのか」
「待つ。……そこうも、いっぱい待ったんでしょ」
小蓮さまはそう言って、庭を出ていった。その年の秋、小蓮さまは二度目の戦に出た。河口の警邏で、賊の舟を二艘捕まえた。斬り合いにはならなかった。
戻ってきて、この子は帳面を開いて、こう報告した。
「出たのが四十人。帰ったのが四十人。……差はなし」
「よし」
「捕まえたのが十一人。全員の名前、聞いた」
俺はその言葉に、少し驚いた。
「――全員か」
「全員。……四人は、名前がなかった」
小蓮さまはそう答えて、帳面をめくった。
「名前がないっていうか、忘れてた。ずっと呼ばれてなかったから、忘れたって言ってた」
「……そうか」
「だから、名を知らずって書いた」
この子はそう言って、その行を指した。俺はその行を、しばらく見ていた。小蓮さまの字で、名を知らずと四つ並んでいる。俺の帳面にあるのと、同じ書き方だった。
「……小蓮さま」
「なに」
「よくやった」
この子は、その言葉に、ぱっと顔を上げた。上げてから、少し照れた顔をした。
「……そこうに褒められた」
「褒めた」
「珍しいね」
「珍しくはない」
「珍しいよ。そこう、あんまり褒めないもん」
小蓮さまはそう言って、帳面を胸に抱えた。抱えてから、こう聞いた。
「ねえ、そこう。名前を忘れちゃった人は、どうなるの」
「どうもならん」
「じゃあ、思い出させてあげられないの?」
俺はその質問に、しばらく答えられなかった。答えられないまま、こう答えた。
「……できるかもしれん」
「え?」
「うちに入れば、名前が要る。……名前がないと、飯を配れん」
俺は帳面を指した。
「名前がない者には、こちらでつけることがある。……つけると、それがその者の名前になる」
「つけていいの?」
「よくはない。……だが、ないよりましだ」
小蓮さまは、その答えにしばらく考えていた。考えてから、こう言った。
「……じゃあ、わたし、つける」
「――あんたがか」
「うん。捕まえたのはわたしだから」
この子はそう言って、帳面を開いた。
「四人でしょ。……四つ考える」
俺はその様子をしばらく黙って見ていた。この子は二十年前の俺よりずっと速い。俺が名前を書き始めたのは、母の名を答えられなかったからだ。答えられなかった日から、書くまでに何年もかかった。
この子は初陣から半年でそこまで来ている。その日の夜、俺は自分の帳面を開いた。開いて一枚目を見た。楚航、字は子渡。それだけが書いてある。
俺は筆を持って、しばらくその行を見ていた。見ていて、書けなかった。書けなかった理由が、少しだけわかった気がした。真名を書くというのは、この帳面を誰かに渡すということだ。渡す日が来ると認めるということだ。
俺は、まだそれを認めていない。筆を置いて、帳面を閉じた。閉じてから、いつか書く、と自分に言った。いつかがいつかは、そのときもわからなかった。