長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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山の水

南の県から使いが来たのは、その年の夏だった。

 

 山の民が下りてきて、開墾中の村を三度襲ったという。江東の南半分は山地で、そこには古くから役所の届かない人々が住んでいる。年貢を納めず、戸籍にも載らない。こちらが平野を切り開いていくと、必ずぶつかる。

 

 軍議で地図を広げて、俺はまずこう言った。

 

「賊なら潰せばいい。だが、あの連中は住んでいる者だ。潰しても、山の奥に別の村がある。追えば、山の中で待ち伏せに遭う」

 

「岘山と同じですね」

 

 公瑾どのがそう言って、それから少し口を閉じた。失礼、と続けようとしたのが顔でわかった。

 

「いや。同じだ」

 

 俺は正直に答えた。

 

「山の中で追うのは、こちらが必ず損をする。……あそこで学んだ」

 

 雪蓮さまは腕を組んで地図を睨んでいた。じゃあどうするの、相手は襲ってきてるのよ、と言う。

 

「襲う理由がある」

 

 俺は地図の南のあたりを指した。うちが去年から開墾しているのは山の裾で、そこには川が三本流れ込んでいる。その水は、山の中から来ている。

 

 声を上げたのは穏どのだった。

 

「水を取られていると思われているのですね」

 

「たぶんな」

 

「ええと、それは、あの……」

 

 この娘はそこで自分の袖を掴んで、少し慌てた。

 

「……実際に取られているかもしれません」

 

「どういうことだ」

 

「開墾すると、水路を引きます。引くと、下流の水は増えますが、山側の細い流れは減ることがあります。……去年の開墾の図面を見ましたが、三本のうち二本は、山の側から水を引く形になっていました」

 

 部屋が静かになった。

 

「――つまり、うちが先に手を出していたわけね」

 

 雪蓮さまがそう言うと、穏どのは慌てて首を振った。そういう見方はできます、ですがこちらに悪意はありません、図面を引いた者が山の民のことを考えていなかっただけです、と。

 

「考えてないのが一番悪いのよ」

 

 この人はそう言って溜め息をついた。それから、卓の上を指で叩いた。

 

「誰かに行かせるわ。話をつけられる人。……灘、行って」

 

「――俺は南の山を知らん」

 

「知らなくていいわ。あなた、村を回るのが本業でしょ」

 

 言われてみればその通りだった。俺は十二年前、二月かけて二十三の村を回った。飯を食って、話を聞いて、それから頼む。あれ以外のやり方を、俺は知らない。

 

「では、行く」

 

「一人じゃ駄目よ」

 

「――誰を連れていく」

 

「祭」

 

 その名前が出た瞬間に、俺は少し驚いた。公瑾どのが、まったく表情を変えずに言った。

 

「妥当な人選です。祭どのは山の戦を知っておられる。若い頃に長沙で山越とやり合っている」

 

「あら、そうなの」

 

 雪蓮さまがわざとらしく言った。

 

「知らなかったわ」

 

「……貴様、今、初めて聞いた顔をしたな」

 

「してないわよ」

 

「した。半月前に私が話した」

 

「聞いてないわ」

 

「聞いていた。相槌まで打っていた」

 

 俺はその横で気づいていた。この二人は、初めから祭どのを出すつもりで話を進めていた。南へ発ったのは、その五日後だった。

 

 連れて行ったのは俺の隊から三十人だけだ。大勢で行けば、話をつけに行くのではなく脅しに行くことになる。祭どのは馬に乗っていた。俺は荷車の脇を歩いた。

 

「若いの。馬に乗らんのか」

 

「乗れん」

 

「乗れんのではなく、乗らんのじゃろう」

 

「――どちらもだ」

 

 実際、脚が潰れてからは一度も乗っていない。左足が鐙を踏めないので、乗れないことはないが、降りるときに落ちる。

 

「まあ、あんたは昔から歩いとったのう」

 

 祭どのはそう言って、少し馬の足を緩めた。

 

「文台さまが、それを気にしとったぞ」

 

 俺は少し顔を上げた。

 

「……あの人が?」

 

「うむ。『あいつ、馬に乗せてやったほうがいいか』と、一度だけ言われた」

 

「なんと答えた」

 

「『あの男は水の上でしか役に立たん、馬に乗せても無駄じゃ』と言うといた」

 

「……ひどい返事だな」

 

「そうしたら、あの方は『それもそうだな』と言うて笑うとったわ」

 

 祭どのはそう言って、自分でも笑った。俺はその話を初めて聞いた。そういう話が、この人の中にはまだいくらでもある。俺の知らない、あの人の話が。

 

 南の県に着くまでに、六日かかった。着いてみると、話は思ったより悪かった。襲われた村は三つ。死人は出ていないが、家が焼かれ、掘りかけの水路が埋め戻されていた。

 

 埋め戻されていた、というのがこの件の本質だった。連中は荷を盗りに来たのではない。水路を潰しに来ていた。

 

「……穏どのの読み通りだな」

 

「山の連中は、賢いぞ」

 

 祭どのは埋め戻された溝を見ながら言った。

 

「わしが長沙におった頃もそうじゃった。あの連中は、村を焼くときと焼かんときを分けとる。焼くのは脅すため、焼かんのは話をしたいときじゃ」

 

「――今回は焼いている」

 

「じゃが、人は殺しとらん。三度襲って一人も殺しとらんのじゃぞ。これは加減しとる」

 

 俺はその言い方に既視感を覚えた。思春の一党が、種籾を取らず、子供と老人を置いていったのと同じだ。

 

「祭どの。あんたは、どうやって話をつけた」

 

「長沙でか」

 

「そうだ」

 

「つけとらん」

 

 この人はあっさりと答えた。

 

「三年やり合って、最後は文台さまが山を焼いた。……あれで片はついた。ついたが、あの山には今も誰も住んどらん」

 

 俺は、その答えにしばらく黙っていた。祭どのは、埋め戻された溝を靴の先でつついた。

 

「わしは、あれをやり直したい。……じゃからここへ来た。冥琳が言うたのはただの口実じゃ。わしが自分から手を挙げた」

 

 山の民との話し合いは、十日かかった。最初の三日は、誰も出てこなかった。俺は村の外れに小屋を建てさせ、そこに毎日一人で座った。武器は持たずに、飯を炊いて、食って、日が暮れたら帰る。それだけを三日やった。

 

 四日目に、木の陰に人がいるのに気づいた。俺はそちらを見ずに、飯の椀をもう一つ並べた。五日目、椀が空になっていた。

 

 六日目に、初めて出てきた。男が三人だった。年は俺より下だろう。手には弓を持っていたが、矢はつがえていなかった。

 

「――座れ。毒は入っていない。俺が先に食う」

 

 俺は自分の椀から先に食った。三人はしばらく立ったままだったが、やがて座った。その日は飯を食っただけで終わった。何も話さなかった。話しかけても、答えなかった。

 

 七日目に、真ん中の男が口を開いた。

 

「……なぜ、水を取る」

 

 訛りは強かったが、漢の言葉だった。

 

「田を作るためだ」

 

「田を作ると、こちらの流れが細る」

 

「知らなかった」

 

「知らぬで済むか」

 

「済まん。だから来た」

 

 俺は地図を広げた。穏どのが写してくれたものだ。開墾の図面と、川の流れが描いてある。

 

「うちが引いた水路は三本だ。そのうち二本が、山側の流れを削っている。……これは、こちらの間違いだ」

 

 男は地図を見た。読めるとは思っていなかったが、この男は読んだ。指で川筋をなぞった。

 

「……お前、これを見せて何をする」

 

「潰す」

 

「潰す?」

 

「二本のうち一本を潰す。もう一本は、取水口を下流へ動かす。そうすれば、あんたたちの流れは戻る」

 

 男たちが顔を見合わせた。

 

「……そちらの田は」

 

「減る。二割ほどな」

 

「それでいいのか」

 

「よくない」

 

 俺は正直に答えた。

 

「よくないが、あんたたちに三度襲われて、四度目に人が死んだら、それはもっとよくない。……二割で済むうちに減らす」

 

 男はしばらく地図を睨んでいた。それから、こう言った。

 

「……お前、上の許しを取っているのか」

 

 俺は答えに詰まった。取っていなかった。水路を潰すというのは、二割の減収を意味する。それを決める権限は俺にはない。

 

 そのとき、後ろから声がした。

 

「取っとる」

 

 祭どのだった。いつの間にか、小屋の入り口に立っていた。

 

「わしが取った。孫策の名代じゃ。……文句があるなら、わしが受ける」

 

 男たちが身構えた。祭どのは武器を持っていなかった。腰の鉄棍も置いてきている。

 

 そして、その場にどかりと座った。

 

「若いの。酒はあるか」

 

「――ある」

 

「出せ。話が長くなる」

 

 その夜、俺たちは山の男三人と、明け方まで飲んだ。

 

 祭どのは、酒が入ると強かった。こちらの言い分を通すのではなく、向こうの話を延々と聞いた。山にどれだけの村があり、どこで何を食い、冬をどう越すか。聞きながら、間に自分の話を挟む。

 

 長沙で山を焼いた話も、隠さずにした。

 

「――わしはな、三年やり合って、最後に山を焼いた」

 

 男たちの顔が、露骨に強張った。

 

「二十年前じゃ。長沙でな。……あのあと、あの山には誰も戻らんかった」

 

「……それを、こちらに言うのか」

 

「言う。隠したら、あんたらはいずれどこかで聞く。聞いたときに『あの婆は隠しとった』と思われるほうが困る」

 

 祭どのは杯を置いた。

 

「あのときのわしは、それが正しいと思うとった。今は思うとらん。……じゃから、ここでは焼かん」

 

 男たちはしばらく黙っていた。やがて、真ん中の男が口を開いた。

 

「……水路を潰すのは、いつだ」

 

「明日から」

 

 俺がそう答えると、男は目を見開いた。

 

「明日?」

 

「三十人連れてきている。埋めるだけなら、五日で終わる」

 

「……見に行っていいか」

 

「来い。手伝ってくれるともっと早い」

 

 男はそこで初めて、少しだけ笑った。水路を埋めるのに、六日かかった。

 

 山の男が十人ばかり手伝いに来たので、思ったより早く終わった。埋め終わった日、彼らは山へ帰っていった。帰り際に、干した肉を置いていった。誰も何も言わなかったが、それが返事だった。

 

 その夜、俺と祭どのは村の外れで火を焚いて座っていた。瓶が二本ある。相変わらず、この人は二本持ってくる。

 

 置いていかれた干し肉を焼いて食った。硬かった。顎が疲れる。

 

「……まずいのう」

 

「まずい」

 

「じゃが、貰い物じゃ」

 

 祭どのはそう言って、もう一切れ火にかけた。

 

「――上手くいったのう」

 

「まだわからん。来年また揉めるかもしれん」

 

「揉めるじゃろうな。じゃが、来年揉めたときは、話ができる相手がおる。……それが違う」

 

 この人は火に薪を足した。

 

「二十年前は、話ができる相手がおらんかった。おらんかったから、焼いた。……若いの、わしは今日、ようやく二十年前のけりをつけたわ」

 

 俺はその言葉を聞いて、しばらく火を見ていた。見てから、思い切って口を開いた。

 

「――祭どの。一つ、聞いてもらいたいことがある」

 

 瓶を口に運びかけていた手が、そこで止まった。

 

「言え」

 

「……岘山のことだ」

 

 俺はそこで一度、言葉が詰まった。十一年、誰にも話していなかった。話そうとして、話せなかった。

 

 雪蓮さまには話せない。娘だからだ。蓮華さまにも、小蓮さまにも話せない。公瑾どのには、あの人が自分を責めるから話せない。思春には、まだ来ていなかった頃の話だ。

 

 この人だけが、同じ重さで受け取れる相手だった。

 

「あの日、俺は舟で先回りした。支流を遡って、山の西の麓に着いた。……途中で、浅いところで底を擦った。あれで四半刻を失った」

 

「知っとる」

 

「知っているか」

 

「阿六から聞いた」

 

 俺は少し驚いた。

 

「……あの日、俺が四半刻早く着いていたら、あの人は生きていたと思うか」

 

 祭どのは即答しなかった。しばらく火を見て、それからこう答えた。

 

「思わん」

 

「――なぜだ」

 

「四半刻早く着いたら、あんたが先に矢を受けとる。それだけじゃ」

 

 その言い方は、慰めではなかった。この人は本気でそう見積もっていた。

 

「あの伏せは、五十人で組まれとった。上から射下ろす形じゃ。三十騎が入って、半刻で潰されとる。……そこへ、あんたが百二十人で駆け込んだ。それで押し返せたのは、あんたの隊が良かったからじゃ」

 

「押し返せていない。あの人は死んだ」

 

「あんたが行かんかったら、三十騎は全滅しとる。首も持って行かれとった」

 

 俺はその言葉に、返す言葉を持たなかった。

 

「若いの。文台さまの首がな、荊州の城の門に晒されとったら、雪蓮さまはどうなったと思う」

 

「……」

 

「あの子は、五年待てんかったじゃろう。翌年には荊州へ行っとる。行って、死んどる」

 

 祭どのは瓶を傾けた。

 

「あんたは、あの子を十一年生かしたんじゃ。それは数えてよい」

 

 俺はしばらく黙っていた。火が爆ぜる音がしていた。

 

「……祭どの。俺は、四人死なせた」

 

「聞いた」

 

「あんたは、それをどう思う」

 

 この人は少し考えてから答えた。

 

「あんたの部下が四人死んだ。……それは、あんたが背負うことじゃ。わしが軽くしてやることではない」

 

「――そうか」

 

「そうじゃ。じゃがな」

 

 祭どのはこちらを見た。

 

「わしは四十年で、何人死なせたと思う」

 

 俺は答えられなかった。

 

「数えとらん。数えられんのじゃ。四十年おると、そうなる。……四人の名前を十一年覚えとるあんたのほうが、わしより真っ当じゃよ」

 

「……」

 

「じゃから、真っ当なままでおれ。数えられんようになったら、そこで終わりじゃ」

 

 俺はその言葉を胸の中で転がした。十六年前、この人は同じことを言った。三百人の名前を全部言えるうちは、それを捨てるなと。

 

「祭どの。あんた、昔と同じことを言っている」

 

「そりゃそうじゃ。わしは同じことしか言わん」

 

 この人はそう言って笑った。それから、少し声を落とした。

 

「……若いの。今度は、わしの番でよいか」

 

「聞く」

 

 祭どのは火を見たまま、しばらく黙っていた。

 

「わしはな。あの方が三十騎で行かれたと聞いたとき、真っ先に何を思うたと思う」

 

「――わからん」

 

「『わしを連れて行かんかったのか』じゃ」

 

 俺は顔を上げた。

 

「四十年おった。四十年、あの方の隣におった。無茶をするときは、いつもわしを連れて行かれた。長沙でも、洛陽でも、荊州の緒戦でもじゃ。……あの日だけ、連れて行かれんかった」

 

 祭どのの手が、少し震えていた。

 

「わしは、そのとき本陣で兵の割り振りをしとった。あの方はわしに一言も言わずに出られた。……なぜじゃ、と思うた。今も思うとる」

 

「……祭どの」

 

「言うな。理由なんぞ、いくらでも思いつく。急いでおられた、わしは他の仕事をしとった、たまたまじゃ。……全部わかっとる」

 

 この人は乱暴に目のあたりを拭った。

 

「わかっとるが、腹の底では、まだ聞きたいんじゃ。なぜわしを置いていったのかと」

 

 俺はその横顔を見ていた。この人が、初めて年相応に見えた。五十を越えた女が、四十年連れ添った相手に置いていかれたことを、十一年経ってもまだ許せずにいる。

 

「――祭どの。一つ、思いついたことがある。当てずっぽうだが」

 

「言え」

 

「あの人は、あんたに殿を任せるつもりだったんじゃないか」

 

 祭どのがこちらを見た。

 

「……なんじゃと」

 

「あの日、あの人は黄祖の首を今日中に取れば戦が終わると言った。取ったら、そのまま襄陽を落とすつもりだったはずだ。……落とすには、後ろが要る。荷と、退き口と、城を囲む本隊がな」

 

 俺は火を見ながら続けた。

 

「あの人は、後ろを任せられる相手を一人しか持っていなかった。公瑾どのは若すぎた。雪蓮さまは前に出る。俺は水にいた。……残るのは、あんただけだ」

 

「……」

 

「連れて行かなかったのではなく、置いていったんだ。置いていける相手が、あんたしかいなかったからだ」

 

 祭どのは長いこと黙っていた。火が二度、爆ぜた。

 

「……それは」

 

 その声は掠れていた。

 

「それは、あんたの当てずっぽうじゃろう」

 

「当てずっぽうだ。最初にそう言った」

 

「……そうじゃな」

 

「だが、あの人のやり方としては、筋が通る。あの人は、一番大事なところに一番信用している者を置く。……十五年前、俺が四十人を助けに行ったとき、あの人は自分の剣を寄越した。あれと同じだ」

 

 祭どのは、そこで顔を覆った。声は出さなかった。だが、肩が震えていた。

 

 俺は何も言わずに火を見ていた。この人が泣くのを、俺は初めて見た。十一年ぶりどころか、十六年の付き合いで初めてだった。

 

 しばらくして、この人は顔を上げた。目は赤かったが、声はもう戻っていた。

 

「……若いの。今の話、誰かにしたか」

 

「今思いついた」

 

「……十一年かけて、今日思いついたのか」

 

「そうだ」

 

「遅いわ、馬鹿者」

 

 祭どのはそう言って、俺の背中を思い切り叩いた。息が止まりかけた。相変わらず、この人の手加減は当てにならない。

 

「……痛い」

 

「痛くしとる」

 

 この人は瓶を掴んで、俺のほうへ突き出した。

 

「飲め」

 

「もう飲んでいる」

 

「もっと飲め。……今日は、飲んでよい日じゃ」

 

 俺はその瓶を受け取った。夜が明ける頃、二人とも火のそばで転がっていた。俺はいつの間にか眠っていたらしい。目が覚めたとき、隣で祭どのがいびきをかいていた。

 

 空が白んでいた。俺は起き上がって、火の始末をして、しばらく座っていた。昨夜のことを考えていた。

 

 俺は十一年、あの日のことを誰にも話せなかった。話せる相手がいなかった。だが、考えてみれば、この人も同じだった。この人も十一年、置いていかれたことを誰にも言えなかった。

 

 二人とも、同じものを抱えたまま、隣にいた。なぜ、十一年も気づかなかったのか。俺はその理由を少し考えて、それから思い当たった。

 

 俺はこの人を、いつも「先にいる者」として見ていた。四十年あの人の隣にいた人。俺より長く、俺より深く知っている人。だから、この人が俺と同じ場所で立ち止まっているとは、考えたこともなかった。

 

 背後で、身じろぐ気配がした。

 

「……朝か」

 

「朝だ」

 

「頭が痛い」

 

「飲みすぎだ」

 

「あんたが止めんからじゃ」

 

「止めた。三度」

 

「聞こえんかった」

 

 祭どのは起き上がって、しばらく頭を押さえていた。それから、俺の隣に座り直した。二人とも、しばらく何も言わなかった。

 

「……若いの。昨夜は、みっともないところを見せたのう」

 

「見ていない」

 

「見たじゃろうが」

 

「見ていない」

 

 俺が言い張ると、この人は少し笑った。

 

「……そういうことにしとくか」

 

「そうしてくれ」

 

「じゃが、一つだけ言うておく」

 

 祭どのは川のほうを見た。呉郡の川ではない。南の山から下ってくる、細い流れだ。

 

「わしはな、あんたのことを、ずっと文台さまの拾いもんじゃと思うとった」

 

「……そうだな。実際そうだ」

 

「じゃが、昨夜で変わった」

 

 この人はこちらを見なかった。

 

「あんたは、わしが四十年言えんかったことを、一晩で言わせた。……そういうのは、拾いもんとは言わん」

 

「では、なんと言う」

 

「知らん」

 

 祭どのはそう言って立ち上がった。

 

「知らんが、まあ、追い追い考えるわ」

 

 この人はそれだけ言って、村のほうへ歩いていった。俺はその背中を見ながら、少し首を傾げていた。何のことか、よくわからなかった。

 

 江東へ帰ったのは、それから十日後だった。城に入るなり、雪蓮さまが飛んできた。

 

「灘! 山の話、どうなったの!」

 

「話はついた。水路を一本潰した。今年の収穫は二割減る」

 

「二割!?」

 

「二割だ。……許してもらえるか」

 

「許すも何も、私が行ってこいって言ったんだから」

 

 この人はそう言ってから、俺の顔を覗き込んだ。

 

「……あなた、なんか顔が違うわね。ちょっと軽い? なんか荷物が減ったみたいな顔してる」

 

 俺は返事に困った。その横で、公瑾どのが涼しい顔で言った。

 

「祭どのは」

 

「あとから来る。……荷車で寝ている」

 

「二日酔いですか」

 

「そうなる」

 

「まったく、あの人は」

 

 この人はそう言って溜め息をついた。だが、その目が少し笑っていた。俺はそこで気づいた。この人は、たぶん全部わかった上で祭どのを寄越した。

 

「――公瑾どの。あんた、性格が悪いな」

 

「今ごろ気づきましたか」

 

 この人は三年前と同じことを言った。三年前と違ったのは、そのあとに一言付け加えたことだ。

 

「……ですが、たまには当たりを引くものです」

 

 その年の秋、南の三つの村で開墾が再開した。水路は二本に減った。三本目は埋めたままだ。二割減った収穫を埋めるために、蓮華さまが別の村から回す算段をした。

 

 俺は、その算段の紙を見せてもらった。

 

「……子渡。一つ聞いていいですか」

 

「言え」

 

「あなた、南で祭どのと何を話しましたか」

 

 俺はその質問に、少し身構えた。

 

「――何も話していない」

 

「嘘です」

 

 この人は即答した。

 

「祭どの、帰ってきてから変わりました。……お酒の量が減っています」

 

「――減ったか」

 

「減りました。三割ほど」

 

 蓮華さまはそう答えて、帳面をめくった。

 

「私、城の蔵の出入りを見ています。……祭どのが持っていく瓶の数が、月に十二本から八本になりました」

 

 俺はその指摘に、しばらく答えられなかった。答えられないまま、こう言った。

 

「……あんたは、そんなものまで数えているのか」

 

「数えます。蔵の出入りですから」

 

「……そうか」

 

「それと」

 

 この人は帳面を閉じた。

 

「祭どのが、あなたのことを『若いの』と呼ぶ回数も、減りました」

 

 俺はその言葉に、少し顔を上げた。

 

「――数えたのか」

 

「数えていません。……気づいただけです」

 

 蓮華さまはそう言って、少し目を伏せた。

 

「以前は、一日に五度も六度も呼んでいました。今は、二度か三度です」

 

「では、何と呼んでいる」

 

「呼んでいません」

 

 この人は、そう答えた。

 

「呼ばずに話しかけておられます。……名前を呼ばずに済む距離になった、ということだと思います」

 

 俺はその分析を、しばらく胸の中で転がしていた。転がして、こう答えた。

 

「……あんたは、そういうものを、よく見ているな」

 

「見ています」

 

「なぜだ」

 

「数えるのが仕事ですから」

 

 蓮華さまはそう答えて、それから少し声を落とした。

 

「……それと、私が、そういうものを見てしまう人だからです」

 

 俺はその一言の意味を、そのときはわからなかった。わからないまま、帳面を受け取った。冬が来る前に、山から使いが来た。

 

 あの三人のうちの一人だった。真ん中の男だ。手には弓を持っていたが、今度は肩にかけていた。

 

 この男は、俺の顔を見て、いきなりこう言った。

 

「……水が、戻った」

 

「戻ったか」

 

「戻った。去年より多い」

 

 男はそう答えて、少し困った顔をした。

 

「多すぎる」

 

「――多すぎる?」

 

「取水口を下流へ動かしただろう。あれで、山側へ回る水が増えすぎた。……うちの村の下の畑が、水に浸かった」

 

 俺はその報告に、しばらく黙った。黙ってから、こう答えた。

 

「……すまん」

 

「謝るな」

 

 男はそう言って、手を振った。

 

「謝られると、こちらが困る。……そうではなく、直せるかを聞きに来た」

 

「直せる」

 

「即答か」

 

「即答だ。……取水口を、もう少し上へ戻す。半分だけ戻せば、たぶん釣り合う」

 

「では、来い」

 

 男はそう言って、山のほうを指した。

 

「うちの村を見せる。……見ずに直すと、また間違える」

 

 俺はその言葉に、少し驚いた。驚いてから、頷いた。

 

「――行く」

 

 山へ入るのは、それが初めてだった。道は細く、思っていたよりずっと急だった。俺の脚では、半日で登れる道が丸一日かかった。

 

 途中で何度も止まった。止まるたびに、男が待った。急かさなかった。

 

「……お前、脚が悪いな」

 

「悪い」

 

「なぜだ」

 

「山で岩に潰された。十一年前だ」

 

 男はその答えを聞いて、少し目を細めた。

 

「山か」

 

「山だ」

 

「では、山が嫌いだろう」

 

「嫌いだ」

 

 俺は正直に答えた。

 

「嫌いだが、来る」

 

「なぜだ」

 

「見ないと直せんと、あんたが言った」

 

 男はしばらく黙って歩いていた。やがて、こう言った。

 

「……お前、変わっているな」

 

「よく言われる」

 

 村は、思っていたより大きかった。

 

 三十戸ほどある。家は木で組んであって、平地の村とは造りが違う。屋根が急で、床が高い。雨が多いからだと、あとで聞いた。

 

 畑を見せてもらった。確かに、下の段が水に浸かっていた。俺はその場で水の流れを見て、取水口の位置を決めた。半分戻す。それで釣り合うはずだ。

 

「――五日で直す」

 

「五日か」

 

「五日だ。……人を寄越す。あんたたちは、見ていてくれればいい」

 

「手伝う」

 

 男はそう答えた。

 

「前回も手伝った。今度も手伝う」

 

 俺はその返事に、少し笑った。笑ってから、一つだけ聞いた。

 

「――一つ聞くが、あんたの名は」

 

 男はその質問に、少し身構えた。

 

「……なぜ聞く」

 

「書いておきたい」

 

「書いてどうする」

 

「来年、また揉めたときに、誰と話をつけたかがわかる」

 

 俺は帳面を出した。

 

「それに、俺はいつか死ぬ。死んだあと、うちの誰かがここへ来る。……そのときに、名前がわかっていれば、話が早い」

 

 男はしばらく黙っていた。黙ってから、こう言った。

 

「……お前、死ぬ話をよくするな」

 

「する」

 

「なぜだ」

 

「死ぬからだ」

 

 俺は正直に答えた。

 

「三十八だ。あと十年か、二十年で死ぬ。……死んだあとのことを考えておかんと、間に合わん」

 

 男はその答えに、しばらく考えていた。考えてから、名前を言った。俺はそれを帳面に書いた。書いてから、村の名前も聞いた。それも書いた。

 

 書き終わって顔を上げると、男がこちらを覗き込んでいた。

 

「……それが、書いたものか」

 

「そうだ」

 

「読めん」

 

「字が汚いからな」

 

 俺がそう答えると、男は少し笑った。

 

「そうではない。……俺は、字が読めん」

 

 俺はその一言で、少し詰まった。詰まってから、こう答えた。

 

「……では、覚えろ」

 

「覚える?」

 

「あんたの名前が、この帳面のここにある。……それだけ覚えておけ。読めなくても、ここにあることは覚えられる」

 

 男はしばらく帳面を見ていた。見てから、指でその行に触れた。触れて、それから手を離した。

 

「……覚えた」

 

 江東へ戻って、俺はその帳面を蓮華さまに見せた。この人は、山の村の名前と、男の名前を見て、しばらく黙っていた。

 

「……子渡。この村、うちの帳面にありません」

 

「ないだろうな」

 

「戸籍にも、租の記録にもありません。……存在しないことになっています」

 

「そうだ」

 

「では、書き足します」

 

 蓮華さまはそう言って、自分の帳面を開いた。

 

「――待て。租を取るのか」

 

「取りません」

 

 この人は即答した。

 

「取りませんが、書きます。……存在しないことにしておくと、いつか誰かが『あそこには誰もいない』と言って、開墾に入ります」

 

 俺はその言い方に、少し感心した。

 

「……なるほど」

 

「書いておけば、少なくとも『いる』ことになります。……いることになっていれば、次に図面を引く者が、考えます」

 

 蓮華さまはそう言って、筆を取った。

 

「租を取らない村として、書きます。……そういう欄を作ります」

 

 俺はその作業を、しばらく横で見ていた。見ながら、思った。この人は、俺が思いつかないことを思いつく。俺は、書かないと消えると思って書く。この人は、書いてあると次の者が考えると思って書く。

 

 同じ帳面を、違う理由でつけている。その冬、祭どのが俺の家に来た。瓶は、一本だった。

 

「――一本か」

 

「一本じゃ」

 

 この人はそう答えて、上がり込んだ。

 

「二本持ってくると、二本飲むからのう。……最近、減らしとる」

 

「聞いている」

 

「――誰にじゃ」

 

「蓮華さまだ。……蔵の出入りを数えているそうだ」

 

 祭どのは、その答えにしばらく黙った。黙ってから、盛大に舌打ちをした。

 

「……あの子は、そういうところが母親に似とらん」

 

「文台さまなら」

 

「あの方は数えん。飲むだけじゃ」

 

 この人はそう言って笑った。笑ってから、瓶の栓を抜いた。

 

「若いの。一つ聞いてよいか」

 

「言え」

 

「あんた、山の男の名を書いたそうじゃな」

 

「書いた」

 

「なぜじゃ」

 

 俺は少し考えてから答えた。

 

「……来年、また揉めるからだ」

 

「それだけか」

 

「それだけではない」

 

 俺は正直に言い直した。

 

「あの男は、字が読めん。……読めんが、自分の名前がそこにあることを覚えた」

 

 俺は帳面を指した。

 

「読めなくても、あることは覚えられる。……それは、俺には思いつかんかった」

 

 祭どのは、しばらく黙っていた。黙ってから、こう言った。

 

「……若いの。あんた、そのうち、字の読めん者のために別の帳面を作りそうじゃな」

 

「――作るか」

 

「作るじゃろう」

 

「どうやってだ」

 

「知らん。じゃが、あんたなら考える」

 

 この人はそう言って、瓶を傾けた。俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。転がして、なるほどと思った。

 

 思ったが、そのときは何も思いつかなかった。

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