長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
南の県から使いが来たのは、その年の夏だった。
山の民が下りてきて、開墾中の村を三度襲ったという。江東の南半分は山地で、そこには古くから役所の届かない人々が住んでいる。年貢を納めず、戸籍にも載らない。こちらが平野を切り開いていくと、必ずぶつかる。
軍議で地図を広げて、俺はまずこう言った。
「賊なら潰せばいい。だが、あの連中は住んでいる者だ。潰しても、山の奥に別の村がある。追えば、山の中で待ち伏せに遭う」
「岘山と同じですね」
公瑾どのがそう言って、それから少し口を閉じた。失礼、と続けようとしたのが顔でわかった。
「いや。同じだ」
俺は正直に答えた。
「山の中で追うのは、こちらが必ず損をする。……あそこで学んだ」
雪蓮さまは腕を組んで地図を睨んでいた。じゃあどうするの、相手は襲ってきてるのよ、と言う。
「襲う理由がある」
俺は地図の南のあたりを指した。うちが去年から開墾しているのは山の裾で、そこには川が三本流れ込んでいる。その水は、山の中から来ている。
声を上げたのは穏どのだった。
「水を取られていると思われているのですね」
「たぶんな」
「ええと、それは、あの……」
この娘はそこで自分の袖を掴んで、少し慌てた。
「……実際に取られているかもしれません」
「どういうことだ」
「開墾すると、水路を引きます。引くと、下流の水は増えますが、山側の細い流れは減ることがあります。……去年の開墾の図面を見ましたが、三本のうち二本は、山の側から水を引く形になっていました」
部屋が静かになった。
「――つまり、うちが先に手を出していたわけね」
雪蓮さまがそう言うと、穏どのは慌てて首を振った。そういう見方はできます、ですがこちらに悪意はありません、図面を引いた者が山の民のことを考えていなかっただけです、と。
「考えてないのが一番悪いのよ」
この人はそう言って溜め息をついた。それから、卓の上を指で叩いた。
「誰かに行かせるわ。話をつけられる人。……灘、行って」
「――俺は南の山を知らん」
「知らなくていいわ。あなた、村を回るのが本業でしょ」
言われてみればその通りだった。俺は十二年前、二月かけて二十三の村を回った。飯を食って、話を聞いて、それから頼む。あれ以外のやり方を、俺は知らない。
「では、行く」
「一人じゃ駄目よ」
「――誰を連れていく」
「祭」
その名前が出た瞬間に、俺は少し驚いた。公瑾どのが、まったく表情を変えずに言った。
「妥当な人選です。祭どのは山の戦を知っておられる。若い頃に長沙で山越とやり合っている」
「あら、そうなの」
雪蓮さまがわざとらしく言った。
「知らなかったわ」
「……貴様、今、初めて聞いた顔をしたな」
「してないわよ」
「した。半月前に私が話した」
「聞いてないわ」
「聞いていた。相槌まで打っていた」
俺はその横で気づいていた。この二人は、初めから祭どのを出すつもりで話を進めていた。南へ発ったのは、その五日後だった。
連れて行ったのは俺の隊から三十人だけだ。大勢で行けば、話をつけに行くのではなく脅しに行くことになる。祭どのは馬に乗っていた。俺は荷車の脇を歩いた。
「若いの。馬に乗らんのか」
「乗れん」
「乗れんのではなく、乗らんのじゃろう」
「――どちらもだ」
実際、脚が潰れてからは一度も乗っていない。左足が鐙を踏めないので、乗れないことはないが、降りるときに落ちる。
「まあ、あんたは昔から歩いとったのう」
祭どのはそう言って、少し馬の足を緩めた。
「文台さまが、それを気にしとったぞ」
俺は少し顔を上げた。
「……あの人が?」
「うむ。『あいつ、馬に乗せてやったほうがいいか』と、一度だけ言われた」
「なんと答えた」
「『あの男は水の上でしか役に立たん、馬に乗せても無駄じゃ』と言うといた」
「……ひどい返事だな」
「そうしたら、あの方は『それもそうだな』と言うて笑うとったわ」
祭どのはそう言って、自分でも笑った。俺はその話を初めて聞いた。そういう話が、この人の中にはまだいくらでもある。俺の知らない、あの人の話が。
南の県に着くまでに、六日かかった。着いてみると、話は思ったより悪かった。襲われた村は三つ。死人は出ていないが、家が焼かれ、掘りかけの水路が埋め戻されていた。
埋め戻されていた、というのがこの件の本質だった。連中は荷を盗りに来たのではない。水路を潰しに来ていた。
「……穏どのの読み通りだな」
「山の連中は、賢いぞ」
祭どのは埋め戻された溝を見ながら言った。
「わしが長沙におった頃もそうじゃった。あの連中は、村を焼くときと焼かんときを分けとる。焼くのは脅すため、焼かんのは話をしたいときじゃ」
「――今回は焼いている」
「じゃが、人は殺しとらん。三度襲って一人も殺しとらんのじゃぞ。これは加減しとる」
俺はその言い方に既視感を覚えた。思春の一党が、種籾を取らず、子供と老人を置いていったのと同じだ。
「祭どの。あんたは、どうやって話をつけた」
「長沙でか」
「そうだ」
「つけとらん」
この人はあっさりと答えた。
「三年やり合って、最後は文台さまが山を焼いた。……あれで片はついた。ついたが、あの山には今も誰も住んどらん」
俺は、その答えにしばらく黙っていた。祭どのは、埋め戻された溝を靴の先でつついた。
「わしは、あれをやり直したい。……じゃからここへ来た。冥琳が言うたのはただの口実じゃ。わしが自分から手を挙げた」
山の民との話し合いは、十日かかった。最初の三日は、誰も出てこなかった。俺は村の外れに小屋を建てさせ、そこに毎日一人で座った。武器は持たずに、飯を炊いて、食って、日が暮れたら帰る。それだけを三日やった。
四日目に、木の陰に人がいるのに気づいた。俺はそちらを見ずに、飯の椀をもう一つ並べた。五日目、椀が空になっていた。
六日目に、初めて出てきた。男が三人だった。年は俺より下だろう。手には弓を持っていたが、矢はつがえていなかった。
「――座れ。毒は入っていない。俺が先に食う」
俺は自分の椀から先に食った。三人はしばらく立ったままだったが、やがて座った。その日は飯を食っただけで終わった。何も話さなかった。話しかけても、答えなかった。
七日目に、真ん中の男が口を開いた。
「……なぜ、水を取る」
訛りは強かったが、漢の言葉だった。
「田を作るためだ」
「田を作ると、こちらの流れが細る」
「知らなかった」
「知らぬで済むか」
「済まん。だから来た」
俺は地図を広げた。穏どのが写してくれたものだ。開墾の図面と、川の流れが描いてある。
「うちが引いた水路は三本だ。そのうち二本が、山側の流れを削っている。……これは、こちらの間違いだ」
男は地図を見た。読めるとは思っていなかったが、この男は読んだ。指で川筋をなぞった。
「……お前、これを見せて何をする」
「潰す」
「潰す?」
「二本のうち一本を潰す。もう一本は、取水口を下流へ動かす。そうすれば、あんたたちの流れは戻る」
男たちが顔を見合わせた。
「……そちらの田は」
「減る。二割ほどな」
「それでいいのか」
「よくない」
俺は正直に答えた。
「よくないが、あんたたちに三度襲われて、四度目に人が死んだら、それはもっとよくない。……二割で済むうちに減らす」
男はしばらく地図を睨んでいた。それから、こう言った。
「……お前、上の許しを取っているのか」
俺は答えに詰まった。取っていなかった。水路を潰すというのは、二割の減収を意味する。それを決める権限は俺にはない。
そのとき、後ろから声がした。
「取っとる」
祭どのだった。いつの間にか、小屋の入り口に立っていた。
「わしが取った。孫策の名代じゃ。……文句があるなら、わしが受ける」
男たちが身構えた。祭どのは武器を持っていなかった。腰の鉄棍も置いてきている。
そして、その場にどかりと座った。
「若いの。酒はあるか」
「――ある」
「出せ。話が長くなる」
その夜、俺たちは山の男三人と、明け方まで飲んだ。
祭どのは、酒が入ると強かった。こちらの言い分を通すのではなく、向こうの話を延々と聞いた。山にどれだけの村があり、どこで何を食い、冬をどう越すか。聞きながら、間に自分の話を挟む。
長沙で山を焼いた話も、隠さずにした。
「――わしはな、三年やり合って、最後に山を焼いた」
男たちの顔が、露骨に強張った。
「二十年前じゃ。長沙でな。……あのあと、あの山には誰も戻らんかった」
「……それを、こちらに言うのか」
「言う。隠したら、あんたらはいずれどこかで聞く。聞いたときに『あの婆は隠しとった』と思われるほうが困る」
祭どのは杯を置いた。
「あのときのわしは、それが正しいと思うとった。今は思うとらん。……じゃから、ここでは焼かん」
男たちはしばらく黙っていた。やがて、真ん中の男が口を開いた。
「……水路を潰すのは、いつだ」
「明日から」
俺がそう答えると、男は目を見開いた。
「明日?」
「三十人連れてきている。埋めるだけなら、五日で終わる」
「……見に行っていいか」
「来い。手伝ってくれるともっと早い」
男はそこで初めて、少しだけ笑った。水路を埋めるのに、六日かかった。
山の男が十人ばかり手伝いに来たので、思ったより早く終わった。埋め終わった日、彼らは山へ帰っていった。帰り際に、干した肉を置いていった。誰も何も言わなかったが、それが返事だった。
その夜、俺と祭どのは村の外れで火を焚いて座っていた。瓶が二本ある。相変わらず、この人は二本持ってくる。
置いていかれた干し肉を焼いて食った。硬かった。顎が疲れる。
「……まずいのう」
「まずい」
「じゃが、貰い物じゃ」
祭どのはそう言って、もう一切れ火にかけた。
「――上手くいったのう」
「まだわからん。来年また揉めるかもしれん」
「揉めるじゃろうな。じゃが、来年揉めたときは、話ができる相手がおる。……それが違う」
この人は火に薪を足した。
「二十年前は、話ができる相手がおらんかった。おらんかったから、焼いた。……若いの、わしは今日、ようやく二十年前のけりをつけたわ」
俺はその言葉を聞いて、しばらく火を見ていた。見てから、思い切って口を開いた。
「――祭どの。一つ、聞いてもらいたいことがある」
瓶を口に運びかけていた手が、そこで止まった。
「言え」
「……岘山のことだ」
俺はそこで一度、言葉が詰まった。十一年、誰にも話していなかった。話そうとして、話せなかった。
雪蓮さまには話せない。娘だからだ。蓮華さまにも、小蓮さまにも話せない。公瑾どのには、あの人が自分を責めるから話せない。思春には、まだ来ていなかった頃の話だ。
この人だけが、同じ重さで受け取れる相手だった。
「あの日、俺は舟で先回りした。支流を遡って、山の西の麓に着いた。……途中で、浅いところで底を擦った。あれで四半刻を失った」
「知っとる」
「知っているか」
「阿六から聞いた」
俺は少し驚いた。
「……あの日、俺が四半刻早く着いていたら、あの人は生きていたと思うか」
祭どのは即答しなかった。しばらく火を見て、それからこう答えた。
「思わん」
「――なぜだ」
「四半刻早く着いたら、あんたが先に矢を受けとる。それだけじゃ」
その言い方は、慰めではなかった。この人は本気でそう見積もっていた。
「あの伏せは、五十人で組まれとった。上から射下ろす形じゃ。三十騎が入って、半刻で潰されとる。……そこへ、あんたが百二十人で駆け込んだ。それで押し返せたのは、あんたの隊が良かったからじゃ」
「押し返せていない。あの人は死んだ」
「あんたが行かんかったら、三十騎は全滅しとる。首も持って行かれとった」
俺はその言葉に、返す言葉を持たなかった。
「若いの。文台さまの首がな、荊州の城の門に晒されとったら、雪蓮さまはどうなったと思う」
「……」
「あの子は、五年待てんかったじゃろう。翌年には荊州へ行っとる。行って、死んどる」
祭どのは瓶を傾けた。
「あんたは、あの子を十一年生かしたんじゃ。それは数えてよい」
俺はしばらく黙っていた。火が爆ぜる音がしていた。
「……祭どの。俺は、四人死なせた」
「聞いた」
「あんたは、それをどう思う」
この人は少し考えてから答えた。
「あんたの部下が四人死んだ。……それは、あんたが背負うことじゃ。わしが軽くしてやることではない」
「――そうか」
「そうじゃ。じゃがな」
祭どのはこちらを見た。
「わしは四十年で、何人死なせたと思う」
俺は答えられなかった。
「数えとらん。数えられんのじゃ。四十年おると、そうなる。……四人の名前を十一年覚えとるあんたのほうが、わしより真っ当じゃよ」
「……」
「じゃから、真っ当なままでおれ。数えられんようになったら、そこで終わりじゃ」
俺はその言葉を胸の中で転がした。十六年前、この人は同じことを言った。三百人の名前を全部言えるうちは、それを捨てるなと。
「祭どの。あんた、昔と同じことを言っている」
「そりゃそうじゃ。わしは同じことしか言わん」
この人はそう言って笑った。それから、少し声を落とした。
「……若いの。今度は、わしの番でよいか」
「聞く」
祭どのは火を見たまま、しばらく黙っていた。
「わしはな。あの方が三十騎で行かれたと聞いたとき、真っ先に何を思うたと思う」
「――わからん」
「『わしを連れて行かんかったのか』じゃ」
俺は顔を上げた。
「四十年おった。四十年、あの方の隣におった。無茶をするときは、いつもわしを連れて行かれた。長沙でも、洛陽でも、荊州の緒戦でもじゃ。……あの日だけ、連れて行かれんかった」
祭どのの手が、少し震えていた。
「わしは、そのとき本陣で兵の割り振りをしとった。あの方はわしに一言も言わずに出られた。……なぜじゃ、と思うた。今も思うとる」
「……祭どの」
「言うな。理由なんぞ、いくらでも思いつく。急いでおられた、わしは他の仕事をしとった、たまたまじゃ。……全部わかっとる」
この人は乱暴に目のあたりを拭った。
「わかっとるが、腹の底では、まだ聞きたいんじゃ。なぜわしを置いていったのかと」
俺はその横顔を見ていた。この人が、初めて年相応に見えた。五十を越えた女が、四十年連れ添った相手に置いていかれたことを、十一年経ってもまだ許せずにいる。
「――祭どの。一つ、思いついたことがある。当てずっぽうだが」
「言え」
「あの人は、あんたに殿を任せるつもりだったんじゃないか」
祭どのがこちらを見た。
「……なんじゃと」
「あの日、あの人は黄祖の首を今日中に取れば戦が終わると言った。取ったら、そのまま襄陽を落とすつもりだったはずだ。……落とすには、後ろが要る。荷と、退き口と、城を囲む本隊がな」
俺は火を見ながら続けた。
「あの人は、後ろを任せられる相手を一人しか持っていなかった。公瑾どのは若すぎた。雪蓮さまは前に出る。俺は水にいた。……残るのは、あんただけだ」
「……」
「連れて行かなかったのではなく、置いていったんだ。置いていける相手が、あんたしかいなかったからだ」
祭どのは長いこと黙っていた。火が二度、爆ぜた。
「……それは」
その声は掠れていた。
「それは、あんたの当てずっぽうじゃろう」
「当てずっぽうだ。最初にそう言った」
「……そうじゃな」
「だが、あの人のやり方としては、筋が通る。あの人は、一番大事なところに一番信用している者を置く。……十五年前、俺が四十人を助けに行ったとき、あの人は自分の剣を寄越した。あれと同じだ」
祭どのは、そこで顔を覆った。声は出さなかった。だが、肩が震えていた。
俺は何も言わずに火を見ていた。この人が泣くのを、俺は初めて見た。十一年ぶりどころか、十六年の付き合いで初めてだった。
しばらくして、この人は顔を上げた。目は赤かったが、声はもう戻っていた。
「……若いの。今の話、誰かにしたか」
「今思いついた」
「……十一年かけて、今日思いついたのか」
「そうだ」
「遅いわ、馬鹿者」
祭どのはそう言って、俺の背中を思い切り叩いた。息が止まりかけた。相変わらず、この人の手加減は当てにならない。
「……痛い」
「痛くしとる」
この人は瓶を掴んで、俺のほうへ突き出した。
「飲め」
「もう飲んでいる」
「もっと飲め。……今日は、飲んでよい日じゃ」
俺はその瓶を受け取った。夜が明ける頃、二人とも火のそばで転がっていた。俺はいつの間にか眠っていたらしい。目が覚めたとき、隣で祭どのがいびきをかいていた。
空が白んでいた。俺は起き上がって、火の始末をして、しばらく座っていた。昨夜のことを考えていた。
俺は十一年、あの日のことを誰にも話せなかった。話せる相手がいなかった。だが、考えてみれば、この人も同じだった。この人も十一年、置いていかれたことを誰にも言えなかった。
二人とも、同じものを抱えたまま、隣にいた。なぜ、十一年も気づかなかったのか。俺はその理由を少し考えて、それから思い当たった。
俺はこの人を、いつも「先にいる者」として見ていた。四十年あの人の隣にいた人。俺より長く、俺より深く知っている人。だから、この人が俺と同じ場所で立ち止まっているとは、考えたこともなかった。
背後で、身じろぐ気配がした。
「……朝か」
「朝だ」
「頭が痛い」
「飲みすぎだ」
「あんたが止めんからじゃ」
「止めた。三度」
「聞こえんかった」
祭どのは起き上がって、しばらく頭を押さえていた。それから、俺の隣に座り直した。二人とも、しばらく何も言わなかった。
「……若いの。昨夜は、みっともないところを見せたのう」
「見ていない」
「見たじゃろうが」
「見ていない」
俺が言い張ると、この人は少し笑った。
「……そういうことにしとくか」
「そうしてくれ」
「じゃが、一つだけ言うておく」
祭どのは川のほうを見た。呉郡の川ではない。南の山から下ってくる、細い流れだ。
「わしはな、あんたのことを、ずっと文台さまの拾いもんじゃと思うとった」
「……そうだな。実際そうだ」
「じゃが、昨夜で変わった」
この人はこちらを見なかった。
「あんたは、わしが四十年言えんかったことを、一晩で言わせた。……そういうのは、拾いもんとは言わん」
「では、なんと言う」
「知らん」
祭どのはそう言って立ち上がった。
「知らんが、まあ、追い追い考えるわ」
この人はそれだけ言って、村のほうへ歩いていった。俺はその背中を見ながら、少し首を傾げていた。何のことか、よくわからなかった。
江東へ帰ったのは、それから十日後だった。城に入るなり、雪蓮さまが飛んできた。
「灘! 山の話、どうなったの!」
「話はついた。水路を一本潰した。今年の収穫は二割減る」
「二割!?」
「二割だ。……許してもらえるか」
「許すも何も、私が行ってこいって言ったんだから」
この人はそう言ってから、俺の顔を覗き込んだ。
「……あなた、なんか顔が違うわね。ちょっと軽い? なんか荷物が減ったみたいな顔してる」
俺は返事に困った。その横で、公瑾どのが涼しい顔で言った。
「祭どのは」
「あとから来る。……荷車で寝ている」
「二日酔いですか」
「そうなる」
「まったく、あの人は」
この人はそう言って溜め息をついた。だが、その目が少し笑っていた。俺はそこで気づいた。この人は、たぶん全部わかった上で祭どのを寄越した。
「――公瑾どの。あんた、性格が悪いな」
「今ごろ気づきましたか」
この人は三年前と同じことを言った。三年前と違ったのは、そのあとに一言付け加えたことだ。
「……ですが、たまには当たりを引くものです」
その年の秋、南の三つの村で開墾が再開した。水路は二本に減った。三本目は埋めたままだ。二割減った収穫を埋めるために、蓮華さまが別の村から回す算段をした。
俺は、その算段の紙を見せてもらった。
「……子渡。一つ聞いていいですか」
「言え」
「あなた、南で祭どのと何を話しましたか」
俺はその質問に、少し身構えた。
「――何も話していない」
「嘘です」
この人は即答した。
「祭どの、帰ってきてから変わりました。……お酒の量が減っています」
「――減ったか」
「減りました。三割ほど」
蓮華さまはそう答えて、帳面をめくった。
「私、城の蔵の出入りを見ています。……祭どのが持っていく瓶の数が、月に十二本から八本になりました」
俺はその指摘に、しばらく答えられなかった。答えられないまま、こう言った。
「……あんたは、そんなものまで数えているのか」
「数えます。蔵の出入りですから」
「……そうか」
「それと」
この人は帳面を閉じた。
「祭どのが、あなたのことを『若いの』と呼ぶ回数も、減りました」
俺はその言葉に、少し顔を上げた。
「――数えたのか」
「数えていません。……気づいただけです」
蓮華さまはそう言って、少し目を伏せた。
「以前は、一日に五度も六度も呼んでいました。今は、二度か三度です」
「では、何と呼んでいる」
「呼んでいません」
この人は、そう答えた。
「呼ばずに話しかけておられます。……名前を呼ばずに済む距離になった、ということだと思います」
俺はその分析を、しばらく胸の中で転がしていた。転がして、こう答えた。
「……あんたは、そういうものを、よく見ているな」
「見ています」
「なぜだ」
「数えるのが仕事ですから」
蓮華さまはそう答えて、それから少し声を落とした。
「……それと、私が、そういうものを見てしまう人だからです」
俺はその一言の意味を、そのときはわからなかった。わからないまま、帳面を受け取った。冬が来る前に、山から使いが来た。
あの三人のうちの一人だった。真ん中の男だ。手には弓を持っていたが、今度は肩にかけていた。
この男は、俺の顔を見て、いきなりこう言った。
「……水が、戻った」
「戻ったか」
「戻った。去年より多い」
男はそう答えて、少し困った顔をした。
「多すぎる」
「――多すぎる?」
「取水口を下流へ動かしただろう。あれで、山側へ回る水が増えすぎた。……うちの村の下の畑が、水に浸かった」
俺はその報告に、しばらく黙った。黙ってから、こう答えた。
「……すまん」
「謝るな」
男はそう言って、手を振った。
「謝られると、こちらが困る。……そうではなく、直せるかを聞きに来た」
「直せる」
「即答か」
「即答だ。……取水口を、もう少し上へ戻す。半分だけ戻せば、たぶん釣り合う」
「では、来い」
男はそう言って、山のほうを指した。
「うちの村を見せる。……見ずに直すと、また間違える」
俺はその言葉に、少し驚いた。驚いてから、頷いた。
「――行く」
山へ入るのは、それが初めてだった。道は細く、思っていたよりずっと急だった。俺の脚では、半日で登れる道が丸一日かかった。
途中で何度も止まった。止まるたびに、男が待った。急かさなかった。
「……お前、脚が悪いな」
「悪い」
「なぜだ」
「山で岩に潰された。十一年前だ」
男はその答えを聞いて、少し目を細めた。
「山か」
「山だ」
「では、山が嫌いだろう」
「嫌いだ」
俺は正直に答えた。
「嫌いだが、来る」
「なぜだ」
「見ないと直せんと、あんたが言った」
男はしばらく黙って歩いていた。やがて、こう言った。
「……お前、変わっているな」
「よく言われる」
村は、思っていたより大きかった。
三十戸ほどある。家は木で組んであって、平地の村とは造りが違う。屋根が急で、床が高い。雨が多いからだと、あとで聞いた。
畑を見せてもらった。確かに、下の段が水に浸かっていた。俺はその場で水の流れを見て、取水口の位置を決めた。半分戻す。それで釣り合うはずだ。
「――五日で直す」
「五日か」
「五日だ。……人を寄越す。あんたたちは、見ていてくれればいい」
「手伝う」
男はそう答えた。
「前回も手伝った。今度も手伝う」
俺はその返事に、少し笑った。笑ってから、一つだけ聞いた。
「――一つ聞くが、あんたの名は」
男はその質問に、少し身構えた。
「……なぜ聞く」
「書いておきたい」
「書いてどうする」
「来年、また揉めたときに、誰と話をつけたかがわかる」
俺は帳面を出した。
「それに、俺はいつか死ぬ。死んだあと、うちの誰かがここへ来る。……そのときに、名前がわかっていれば、話が早い」
男はしばらく黙っていた。黙ってから、こう言った。
「……お前、死ぬ話をよくするな」
「する」
「なぜだ」
「死ぬからだ」
俺は正直に答えた。
「三十八だ。あと十年か、二十年で死ぬ。……死んだあとのことを考えておかんと、間に合わん」
男はその答えに、しばらく考えていた。考えてから、名前を言った。俺はそれを帳面に書いた。書いてから、村の名前も聞いた。それも書いた。
書き終わって顔を上げると、男がこちらを覗き込んでいた。
「……それが、書いたものか」
「そうだ」
「読めん」
「字が汚いからな」
俺がそう答えると、男は少し笑った。
「そうではない。……俺は、字が読めん」
俺はその一言で、少し詰まった。詰まってから、こう答えた。
「……では、覚えろ」
「覚える?」
「あんたの名前が、この帳面のここにある。……それだけ覚えておけ。読めなくても、ここにあることは覚えられる」
男はしばらく帳面を見ていた。見てから、指でその行に触れた。触れて、それから手を離した。
「……覚えた」
江東へ戻って、俺はその帳面を蓮華さまに見せた。この人は、山の村の名前と、男の名前を見て、しばらく黙っていた。
「……子渡。この村、うちの帳面にありません」
「ないだろうな」
「戸籍にも、租の記録にもありません。……存在しないことになっています」
「そうだ」
「では、書き足します」
蓮華さまはそう言って、自分の帳面を開いた。
「――待て。租を取るのか」
「取りません」
この人は即答した。
「取りませんが、書きます。……存在しないことにしておくと、いつか誰かが『あそこには誰もいない』と言って、開墾に入ります」
俺はその言い方に、少し感心した。
「……なるほど」
「書いておけば、少なくとも『いる』ことになります。……いることになっていれば、次に図面を引く者が、考えます」
蓮華さまはそう言って、筆を取った。
「租を取らない村として、書きます。……そういう欄を作ります」
俺はその作業を、しばらく横で見ていた。見ながら、思った。この人は、俺が思いつかないことを思いつく。俺は、書かないと消えると思って書く。この人は、書いてあると次の者が考えると思って書く。
同じ帳面を、違う理由でつけている。その冬、祭どのが俺の家に来た。瓶は、一本だった。
「――一本か」
「一本じゃ」
この人はそう答えて、上がり込んだ。
「二本持ってくると、二本飲むからのう。……最近、減らしとる」
「聞いている」
「――誰にじゃ」
「蓮華さまだ。……蔵の出入りを数えているそうだ」
祭どのは、その答えにしばらく黙った。黙ってから、盛大に舌打ちをした。
「……あの子は、そういうところが母親に似とらん」
「文台さまなら」
「あの方は数えん。飲むだけじゃ」
この人はそう言って笑った。笑ってから、瓶の栓を抜いた。
「若いの。一つ聞いてよいか」
「言え」
「あんた、山の男の名を書いたそうじゃな」
「書いた」
「なぜじゃ」
俺は少し考えてから答えた。
「……来年、また揉めるからだ」
「それだけか」
「それだけではない」
俺は正直に言い直した。
「あの男は、字が読めん。……読めんが、自分の名前がそこにあることを覚えた」
俺は帳面を指した。
「読めなくても、あることは覚えられる。……それは、俺には思いつかんかった」
祭どのは、しばらく黙っていた。黙ってから、こう言った。
「……若いの。あんた、そのうち、字の読めん者のために別の帳面を作りそうじゃな」
「――作るか」
「作るじゃろう」
「どうやってだ」
「知らん。じゃが、あんたなら考える」
この人はそう言って、瓶を傾けた。俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。転がして、なるほどと思った。
思ったが、そのときは何も思いつかなかった。