長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
軍というものは、自分たちの都合で動くものだと、俺は半年ばかり本気で思っていた。
水軍を任されて、二百人が三百人になり、舟が十二艘から十八艘になった。賊の寨を四つ潰した。川沿いの村から礼だと言って魚や酒が届くようになり、俺の隊の男たちは、それを受け取るときだけ妙に胸を張るようになった。
このまま続ければ、この川から賊はいなくなる。俺は本気でそう考えていた。
その考えが甘かったと知ったのは、秋の入り口のことだ。
その朝、陣に客が来た。
立派な舟だった。二十人からの漕ぎ手を乗せ、舷には彩色が施され、日除けの布まで張ってある。俺たちの舟が十八艘並んでも、この一艘のほうが銭がかかっているのは間違いなかった。
降りてきたのは、絹の袍を着た男だった。年は五十ほど。俺たちの陣を一瞥して、露骨に顔をしかめた。泥を踏みたくないという顔だった。
その男が、孫堅どのの幕へ通された。
俺は呼ばれていなかったので、いつも通り川で舟を出した。戻ってきたのは昼過ぎで、そのときにはもう、あの舟は上流へ帰っていた。
陣の空気が、はっきりと悪かった。
「――何があった」
俺が聞くと、黄蓋どのが川岸の石に腰を下ろしたまま、顎で幕のほうを示した。
「文台さまが幕から出てこん。もう二刻になる」
「使者は何を言いに来た」
「命令じゃよ。四つある」
黄蓋どのは指を折った。
「一つ。今月の糧秣は、先月の七割に減らす。二つ。この先ひと月、孫堅軍は南へ動くな。三つ。あんたの水軍を十艘、上流へ寄越せ。あちらの荷を運ばせるためじゃ。四つ」
黄蓋どのは、そこで一度言葉を切った。
「柴桑(さいそう)から東の賊は、討つな」
俺は、意味がわからなかった。
「――討つな?」
「そうじゃ」
「なぜだ。あの辺りが一番ひどい。先月だけで三つの村が焼けている。次に潰すのはあそこだと、俺は孫堅どのに具申した。孫堅どのも承知したはずだ」
「承知した。じゃが、上が駄目だと言うた」
黄蓋どのは、酒も飲まずに川を見ていた。
「若いの。あんた、うちが誰の下におるか、ちゃんと考えたことがあるか」
俺は口を閉じた。
知ってはいた。孫堅軍は独立した軍ではない。袁術という人の客将という立場で、名目上はその指揮下にある。糧秣も、そこから配られている。俺が入った頃からそうだった。
ただ、俺はそれを、荷主と用心棒の関係くらいに考えていた。銭を出す者がいて、働く者がいる。それだけのことだと。
「柴桑から東の賊は、袁の連中に銭を納めとる」
黄蓋どのが言った。
「――なんだと」
「賊が荷を奪う。奪った荷の何割かが、上流のさる方の蔵に入る。役人が来んのは、来る必要がないからじゃ。あそこの賊は、もう賊ではない。あの方の取り立て役よ」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
この一年、俺が見てきた焼け跡。焼け跡に座り込んでいた年寄り。柵の中に押し込まれていた者たち。あれが、誰かの帳面の上では収入だったということだ。
「……知っていたのか」
「知っとったよ」
「なぜ言わなかった」
「言うて、あんたが何をする」
黄蓋どのは、初めてこちらを見た。
「あんたは今、上流へ乗り込んで、あの絹を着た男を斬るところを考えたじゃろう。顔に出とる。斬ったらどうなる。うちは糧秣を切られる。三千の兵が飢える。飢えた兵は逃げるか、賊になる。あんたが一年かけて潰した寨が、ひと冬で十できるぞ」
俺は拳を握っていた。指の関節が鳴った。
「わしは意地悪で言うとるんじゃない。あんたに考えてほしいから言うとる。……あんたは強い。じゃが、強い者ほど、殴れば解決すると思い込む。文台さまがあの幕から出てこんのはな、殴らんために座っとるんじゃよ」
その日、孫堅どのは日が暮れてから出てきた。
顔つきはいつもと変わらなかった。ただ、幕の中の卓が一つ、真ん中から割れていた。
「楚航。舟を十艘出せ。上流へやれ」
「――ああ」
「不服か」
「不服だ」
俺が即答すると、孫堅どのは片眉を上げた。
「言ってみろ」
「十艘持っていかれると、こっちは八艘しか残らん。八艘では、賊の二十艘を相手にできん。俺の戦い方は、逃げて誘って囲む戦い方だ。囲むには数がいる。八艘では逃げるだけになる」
「知ってる」
「知っていて出すのか」
「出す」
孫堅どのは、俺の目を真正面から見た。
「楚航。オレはな、貴様が思ってるより我慢強い。この五年、あの家の下で我慢してる。なぜかわかるか」
「……糧秣か」
「それもある。だが本命は別だ。名分だよ」
その人は、幕の柱に寄りかかった。
「オレが今この軍を持っていられるのは、あの家が『孫堅は自分の配下だ』と言ってくれてるからだ。あれがなくなった瞬間、オレはただの兵を三千持った女になる。そういうのはな、賊と呼ばれるんだ。討伐される側に回る。……そうなったら、貴様の隊も賊だぞ」
俺は何も言えなかった。
「オレは賊にはならねぇ。なったら、この川で誰も守れねぇからな。だから、腹が煮えても座ってる。……悪いな」
最後の一言が、いちばんこたえた。
この人が謝るのを、俺はこのとき初めて聞いた。
十艘を上流へ送り出した三日後、報せが来た。
柴桑の手前、川の北岸の村が襲われた。三つ目だ。今度は焼くだけでなく、人を四十ばかり連れ去ったという。
俺は幕へ走った。
だが、走りながら、答えはもうわかっていた。
「――動けん」
孫堅どのは、俺の顔を見る前にそう言った。
「南へ動くなという命令が出てる。柴桑は南だ。今この軍を動かせば、命令違反になる。命令違反を口実に、糧秣を全部止められる」
「四十人だ」
「四十人だな」
「連れて行かれた先は決まっている。売られる。売られた先で、半分は冬を越せん」
「そうだろうな」
その人は、俺を見ていた。
怒鳴られたほうがましだった。この人は、俺よりずっと長く、こういう朝を数えてきた顔をしていた。
「楚航。座れ」
「……」
「座れと言った」
俺は座らなかった。
「孫堅どの。あんたは軍を動かせん。それはわかった。だが、俺の隊の男は、今日は非番だ」
孫堅どのの目が、わずかに細くなった。
「非番の男が、自分の舟で、自分の里へ帰るのを、あんたは止められるか」
「……」
「俺は止められん。俺は将だが、非番の男の行き先まで決める権利はない。行き先で何をするかも知らん」
しばらく、幕の中は静かだった。
やがて、孫堅どのは大きく息を吐いた。
「――何艘だ」
「四艘。五十人ほど集まる」
「相手は二十艘だぞ」
「勝ちには行かん。連れて行かれた四十人を、途中で川に落として泳がせる。それだけやったら引く」
「死ぬぞ」
「かもしれん」
孫堅どのは、長いこと黙っていた。
それから、腰の剣を鞘ごと外して、俺のほうへ放った。
「持っていけ」
「――なんだ、これは」
「オレの剣だ。それを持ってる奴を斬る奴は、オレを斬ったのと同じだ。そう言え。連中は袁の家の犬だからな。オレの名前くらいは効く」
俺は剣を受け取った。ずしりと重かった。
「それと、楚航」
「なんだ」
「オレはこの話を聞いてない。貴様は今日、ここへ来てない。……戻ってきたら、一発殴る。覚悟しとけ」
舟を四艘出したのは、その日の午後だった。
乗ったのは五十一人。全員が、自分から手を挙げた者だ。俺は一人ずつ顔を見て、名前を呼んで、それから舟に乗せた。
阿六も乗ろうとしたので、これは引き剥がした。
「お前は残れ」
「なぜですか」
「俺が戻らなかったとき、俺の隊のやり方を知っている奴が要る。お前は帳面が読める。それができる奴は、この隊に三人しかいない」
「……戻らないつもりですか」
「戻る。だが、つもりで済むなら誰も死なん」
舟を出してすぐ、桟橋に人影が見えた。
雪蓮さまだった。走ってきたらしく、息が上がっている。
「子渡!」
「――乗せんぞ」
「わかってる!」
その子は、舷に手をかけて、こちらを見上げた。
「私、母様に聞いたわ。なんで動かないのって。そしたら、動けないって言われた。動けない理由も聞いた。……全部聞いたわ」
「そうか」
「私、あんな母様を初めて見た。あの人、悔しがってた。……いつも笑ってる人が、悔しがってたの」
雪蓮さまの目は赤かった。だが、泣いてはいなかった。泣くまいとして、顎に力を入れていた。
「子渡。私、大きくなったら、絶対に人に頭を下げない。誰の命令も聞かない。私の川は、私が決める」
俺は、この子の頭に手を置きかけて、やめた。
かわりに、こう言った。
「――それは、たぶん、あんたの母上が今いちばんやりたいことだ」
「……うん」
「だから、それを言うなら、母上の前で言え。俺に言うな」
雪蓮さまは、しばらく黙ってから、こくりと頷いた。
舟が離れるとき、その子は桟橋の先まで走ってきて、大きな声で言った。
「戻ってきてよ! まだ真名、聞いてないんだから!」
俺は片手を上げた。返事のかわりだった。
賊の舟に追いついたのは、日が傾いてからだった。
場所は、川が大きく曲がって、南岸に葦の生えた入り江ができているあたりだ。二十艘が固まって停まっている。夜を越すつもりで舫っているらしかった。
俺は四艘を葦の陰に入れ、様子を見た。
連れ去られた者は、真ん中の三艘に乗せられている。舟の縁に縄で繋がれていた。逃げられないようにするためだが、これは同時に、舟が沈めばそのまま溺れるということでもある。
「隊長。どうします」
舵を握っている男が、囁くように言った。
「正面からぶつかったら、押し潰されますぜ」
「ぶつからん。夜まで待つ」
俺は、賊の舟の並びを目で数えていた。
「見ろ。真ん中の三艘は、外側の舟に囲まれている。人を積んだ舟を守っているつもりだろうが、あれは逆だ。囲んだせいで、真ん中の三艘は舵が切れん。外の舟をどければ、中の三艘は流れに乗るしかなくなる」
「どけるって、どうやって」
「火だ」
男たちが顔を見合わせた。
「舟を焼くんですか。人が乗ってるのに」
「焼くのは、上流側の三艘だけだ。あそこは荷を積んでいる。人はいない。あそこが燃えれば、火が下流へ流れる。舟の連中は、まず自分の舟を火から逃がそうとする。舫いを切って、散る」
俺は縄を巻き直しながら続けた。
「散ったところで、真ん中の三艘に取り付く。縄を切って、人を水に落とす。この辺りは南岸が近い。泳げなくても、流されれば葦に引っかかる。葦にさえ引っかかれば死なん」
「隊長は、どこに行くんです」
「俺が上流側で火をつける。そのあと、外の舟が寄ってくるのを引きつける」
誰も、すぐには返事をしなかった。
やがて、舵の男が低く言った。
「……そりゃ、一番死ぬ役でしょう」
「一番慣れてる役だ」
夜半、風が北から南へ流れ始めたところで、俺たちは動いた。
俺は一人で小舟に乗り、油を染ませた麻布を積んで、賊の舟の並びの上流へ回った。葦の中を音を立てずに進み、荷を積んだ舟の舷に取り付く。見張りは二人いた。一人は眠っていた。もう一人は、俺が舷を越えたところで気づいて、口を開いた。
声を上げさせる前に、俺は当て身でそいつを黙らせた。
麻布を積み荷の間に押し込み、火をつける。
乾いた麻に火が回るのは早い。俺が自分の小舟に戻る頃には、もう舷から炎が立っていた。
叫び声が上がった。
「――火だ! 火が出たぞ!」
「舫いを切れ! 早く離せ!」
思った通り、賊は真っ先に自分の舟を守った。二十艘の並びが崩れ、外側の舟が次々と流れへ出ていく。
そこへ、俺は自分の小舟を漕ぎ出した。真正面へ。
「――孫堅の使いだ! この剣が見えるか!」
俺は孫堅どのの剣を掲げた。鞘のまま、火の明かりに照らして。
これは、命乞いではない。目立つためだ。
賊の舟が、こちらへ向きを変え始めた。四艘、五艘。俺一人の小舟に、それだけが寄ってくる。そのぶん、真ん中の三艘の周りが空く。
下流のほうで、水音がした。うちの四艘が動いたのだ。
あとは、俺がどれだけ引きつけていられるかだった。
最初の舟が舷を寄せてきたとき、俺は先に跳んだ。
跳んで、二人斬って、そいつらの舟の櫓を叩き折った。櫓を折れば舟は流れる。流れる舟は、俺を追えない。
次の舟へ跳ぶ。同じことをする。三艘目までは、上手くいった。
四艘目で、足を取られた。
跳んだ先の舷が濡れていたのか、着地の瞬間に踵が滑った。膝が落ちる。落ちたところへ、槍が突き込まれてきた。
俺は転がって避けた。避けたつもりだった。
脇腹から背中へ、焼けた棒を押し当てられたような感覚が走った。
斬られたのだと理解するのに、少し時間がかかった。痛みは遅れて来る。まず来るのは熱で、それから腕の力が抜ける。
俺は、抜けた腕のほうで舷を掴んで、体を起こした。
目の前に、槍を構えた男がいた。若い。俺を仕留めそこねたことに、自分でも驚いた顔をしていた。
「――退け」
俺は言った。
言いながら、自分の声が思ったよりしっかりしていることに、少し安心した。
「退けば追わん。俺は人を返しに来ただけだ。荷はくれてやる」
「――ふ、ふざけるな! こっちは二十艘だぞ!」
「二十艘のうち、七艘はもう流れてる。三艘は燃えてる。残りは十だ。……お前、数えてなかったな」
男の顔が引きつった。
俺は、その隙に踏み込んだ。
槍の柄を掴んで引き寄せ、そいつを舷から水へ落とす。落としてから、膝が笑っていることに気がついた。脇腹から流れているものが、袴の裾まで届いていた。
下流を見た。
うちの舟が、真ん中の三艘に取り付いている。縄を切っているのが見えた。水に人が落ちる音が、続けて聞こえる。数はわからない。だが、確かに落ちている。
――届いた。
そう思った瞬間に、視界が斜めになった。
舷に手をついて、なんとか堪えた。
誰かが俺の名を呼んでいる。うちの舟からだった。俺は手を上げようとして、上がらなかった。
結局、俺を引き上げたのは、舵を握っていたあの男だった。
舟の底に転がされて、傷に布を押し当てられながら、俺は空を見ていた。星が出ていた。増水の季節が終わって、そろそろ川の水が澄み始める頃だった。
「隊長。何人助けた」
「――知らん。数えてくれ」
「あとで数えます。今は喋らないでください」
三十一人だった。
連れ去られた四十人のうち、三十一人が助かった。残る九人は、俺たちが着く前に、上流の舟で運ばれていったあとだった。
こちらの死者は、四人。
陣に戻ったのは、翌日の昼だった。
俺は舟の底に寝かされたまま運ばれ、そのまま幕へ担ぎ込まれた。傷は、脇腹から背中にかけて、掌ほどの長さで開いていた。骨には届いていないと言われた。
黄蓋どのが自分で縫った。麻の糸で、十七針だった。
「動くでない。あんた、ここで暴れたら腸が出るぞ」
「……出るのか」
「出んよ。じゃが、そう言わんと若いのは動く」
縫い終わってから、黄蓋どのは道具を片づけながら、ぽつりと言った。
「四人な」
「――ああ」
「名は覚えとるか」
「覚えている」
俺は天井を見たまま答えた。
「全員、俺が名簿を作るときに一度ずつ話した。一人は去年、賊に舟を沈められている。一人は弟を売られている。一人は、去年の暮れに子が生まれたばかりだ。一人は――」
「もうよい」
黄蓋どのが遮った。
「よい。……あんたは、ちゃんと覚えとる。それでいい」
その声が、少しだけ濡れていた。
この人が泣くところを、俺はこの日も、そのあとの何十年も、ついに見たことがない。
夕方、孫堅どのが幕に来た。
入ってくるなり、俺の頭を軽く小突いた。約束の一発だったのだろう。手加減されていた。
「三十一人だってな」
「……四人死んだ」
「聞いた」
孫堅どのは、俺の枕元にどっかりと座った。
「楚航。オレはな、貴様に礼は言わねぇ」
「――言われても困る」
「困るだろうな。だから言わねぇ。かわりに、これから言うことを覚えとけ」
その人は、剣を――俺が持って行って、血で汚したまま返した自分の剣を、膝に置いた。
「今回、貴様は上手くやった。四十人のうち三十一人だ。上出来だ。……だがな、こういうやり方は、続かねぇ」
「わかっている」
「わかってねぇよ。貴様は、次も同じことをする。オレにはわかる。貴様みたいなのは、目の前で人が連れて行かれるのを見て、座ってられねぇ。だから次も舟を出す。次は五十一人のうち、四人じゃなくて十人死ぬ。その次は二十人だ。……そうやって、貴様の隊はいつか無くなる」
俺は天井を見ていた。反論する言葉が、何も浮かばなかった。
「じゃあ、どうすればいい」
「決まってる」
孫堅どのは、剣の柄を指で叩いた。
「命令を出す側になるんだよ」
俺は、その人の顔を見た。
「今回、オレは軍を動かせなかった。動かせば糧秣を切られるからだ。切られたら三千が飢えるからだ。……つまりオレは、あの家に喉輪を掛けられてる。だからオレは、自分の土地が欲しい。自分の蔵と、自分の田と、自分の兵が食う米が欲しい」
「……江東を、か」
「言うな。まだ早い」
その人は、口の端だけで笑った。
「五年か、十年かかる。その頃には、貴様はもうそんなに動けねぇ体になってるかもしれん。今日みたいなのを何度もやったらな。……だから、貴様は貴様の仕事をしろ。無茶をするなとは言わねぇ。オレが言えた義理じゃねぇからな。だが、貴様が死んだら、貴様の三百人は誰が名前を覚えるんだ」
俺は、それにも答えられなかった。
孫堅どのが出て行ってしばらくして、幕の入り口の布が、そっと持ち上がった。
小さな顔が覗いていた。蓮華さまだった。
この子が俺に自分から近づいてきたのは、これが初めてだった。八つか九つで、まだ姉の背中に隠れるのが癖になっている子だ。
「……起きてる?」
「起きている。入ってこい」
蓮華さまは、そろそろと入ってきて、俺の寝ている場所から少し離れたところに正座した。手に何かを持っている。木の椀だった。
「これ。……粥。祭が、食べさせなさいって」
「ありがたい。だが、今は起き上がれん」
「知ってる。だから、私が持ってきたの」
この子は、椀を置いて、それからしばらくもじもじしていた。何か言いたいことがあるらしい。
俺は待った。この年頃の子を急かすと、言えることも言えなくなる。
「……あの、ね」
「うん」
「お姉様が、昨日の夜、泣いてたの」
俺は少し驚いた。
「雪蓮さまが」
「うん。私が寝てると思ってたんだと思う。でも、起きてたの。……お姉様、子渡が死んだらどうしようって言ってた。母様に。母様は、死なないよって言ってた。でも、そのあと母様も黙っちゃって」
蓮華さまは、膝の上で自分の指をいじっていた。
「私、あんまりわからないの。子渡が誰かとか、なんで舟で行っちゃったのかとか。まだ子供だから、教えてもらえないことが多くて」
「……そうだな」
「でも、お姉様が泣くのは嫌」
その子は、はっきりとそう言った。
俺のほうを、まっすぐ見ていた。人見知りのくせに、こういうときだけ目を逸らさない。この癖は、大人になっても変わらなかった。
「だから、次からは死なないでください。お願いします」
俺は、思わず笑いそうになって、傷が痛んで、うめいた。
「――努力する」
「努力じゃなくて」
「……わかった。約束する」
蓮華さまは、ようやく少しだけ表情を緩めて、こくりと頷いた。
それから、粥の椀を俺の手が届くところまで押して、走って出て行った。
俺は、しばらく天井を見ていた。
この日、俺は三つのことを覚えた。
一つ。この川は、誰のものでもないのではない。すでに誰かのものになっている。ただ、それが川べりに住む者ではないというだけだ。
二つ。目の前の四十人を助けに走るやり方には、限りがある。走った回数だけ、隣で誰かが減っていく。
三つ。それでも、俺はたぶん次も走る。
三つ目が一番厄介だということも、そのときにはもうわかっていた。
傷が塞がるのに、ひと月かかった。
そのひと月のあいだ、俺は舟に乗れなかった。川岸に座って、自分の隊が漕ぐのを眺めているだけだった。悔しいというより、落ち着かなかった。自分の代わりに誰かが先頭に立っているのを、岸から見ているというのは、想像していたよりずっと据わりが悪いものだった。
その岸に、雪蓮さまは毎日来た。
来て、隣に座って、稽古を眺めて、何も言わずに帰っていく日もあった。
ある日、その子がぽつりと言った。
「ねえ、子渡。私、決めたわ」
「何をだ」
「強くなる。母様より強くなって、誰にも頭を下げなくていいようにする。……そうしたら、あなたは、あんな無茶をしなくてよくなるでしょ」
俺は、川を見たまま答えた。
「そうだな。そうしてくれると助かる」
「じゃあ、そのかわり」
雪蓮さまが、こちらを向いた。
「それまで、生きてなさいよ。私が強くなるまで」
俺は、そのときようやくこの子のほうを見た。
まだ子供の顔だった。だが、言っていることは、もう子供のそれではなかった。
「――善処する」
「またそれ」
雪蓮さまは頬を膨らませて、それから、思い出したように付け加えた。
「あ。真名、まだ聞いてないからね」
「覚えている」
「絶対よ」
その約束を俺が果たすまでに、このあと何年かかったか。
思い出すたびに、俺は自分の口の重さを呪う。