長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
傷が塞がって最初に気づいたのは、右腕が以前ほど上がらなくなったことだった。
脇腹から背中にかけて斬られたので、そちら側の筋が引き攣れる。刀は振れる。櫓も押せる。ただ、真上まで上げようとすると、途中で引っかかったように止まる。
黄蓋どのは「そのうち慣れる」と言った。慣れるというのは、治るという意味ではないらしい。実際、その引っ攣れは、それから三十年、俺の体から消えなかった。
冬を越し、春が来て、また夏が来た。
その一年で、俺の水軍は三百から五百になった。舟も三十艘を数えるようになった。孫堅どのが袁の家から少しずつ融通を引き出したのと、川沿いの村から自分から来る者が増えたためだ。
だが、賊は減らなかった。
潰した数だけ、別の場所に湧いた。柴桑から東は相変わらず手が出せず、そこを巣にした連中が、川を下って好きなときに出てくる。俺たちは駆けつける。だいたい間に合わない。間に合っても、焼けた家の数を数えるだけの日が多かった。
あの夜からちょうど一年経った日に、俺は自分の帳面を開いて数えてみた。
この一年で、俺が駆けつけた村は二十三。そのうち、襲われる前に着けたのは四つ。あとの十九は、着いたときにはもう終わっていた。
四と十九。
その数字を、俺はしばらく眺めていた。
その晩、俺は黄蓋どのの幕へ行った。
この人は、夜になるとたいてい一人で酒を飲んでいる。誰かが来ると迷惑そうな顔をするが、追い返したことは一度もない。
「黄蓋どの。一つ、教えてもらいたい」
「なんじゃ、藪から棒に」
「賊が村を襲うとき、村の者が最初に気づくのはいつだ」
黄蓋どのは、杯を持つ手を止めた。
「……妙なことを聞くな」
「答えてくれ」
「そりゃ、舟が見えたときじゃろう」
「そうだ。舟が見えたときだ。舟が見えてから、賊が岸に上がるまでは、だいたい二十を数えるくらいしかない。逃げる暇はない」
俺は地面に、川の線を引いた。
「だが、あの連中は上流から来る。柴桑から下流の村まで、舟で半日はかかる。つまり、上流の村が舟を見た時点で、下流の村には半日の余裕があるはずだ。半日あれば、人は山へ逃げられる。荷も隠せる」
「――烽火(のろし)か」
さすがに早い。俺は頷いた。
「烽火でもいい。旗でもいい。夜なら火だ。要は、上流で見たものを下流へ伝える仕組みが要る。川沿いに二十里ごとに一つ、見張りを置く。そこに火を焚く用意をさせておく。上流で火が上がったら、次も上げる。それを繰り返せば、賊の舟より速く報せが下る」
黄蓋どのは、しばらく地面の線を見ていた。
「悪くない。……悪くないが、若いの。あんた、それを誰にやらせるつもりじゃ」
「村の者だ」
「兵ではなく?」
「兵は足りん。五百では、この川の全部に見張りを置けん。それに、見張りは戦わなくていい。火をつけて、逃げればいい。それなら村の年寄りでもできる」
黄蓋どのは、酒を一口飲んだ。
それから、いやに静かな声で言った。
「若いの。それをやると、あんたは面倒なことになるぞ」
「なぜだ」
「考えてみい。川沿いの村々に、あんたの言うことを聞く見張りが並ぶ。火の合図で一斉に動く。……それは、あんたが川沿いの村を全部握っとるのと、どう違う」
俺は、返事に詰まった。
そんなことは、考えてもいなかった。
「わしにはわかるぞ。あんたは村を守りたいだけじゃ。じゃが、上から見る者にはそう見えん。上から見ればな、これはこう見えるんじゃ。――孫堅の配下の一将が、川沿いに私兵の網を張っておる、とな」
結局、俺はそれを孫堅どのに直に持っていった。
黙って始めるほうが危ないと思ったからだ。
孫堅どのは、俺の説明を最後まで聞いて、それから顎を撫でた。
「三ついいことがあって、二つ悪いことがあるな」
「聞かせてくれ」
「いいことは、一つ、村が焼けにくくなる。二つ、賊の動きがこっちに筒抜けになる。三つ、貴様が舟を出す回数が減る。……三つ目がオレには一番いい」
「悪いほうは」
「一つ。銭がかかる。見張りに立つ者に何も出さずにやらせりゃ、三月で誰も立たなくなる」
「そこは考えている。米でいい。俺の隊が獲る魚と、村から出る麦を回す仕組みにする」
「まあいい。……二つ目のほうが厄介だ」
孫堅どのは、あぐらの膝を叩いた。
「上流から文句が来る。間違いなく来る。貴様が川沿いに顔を売れば売るほど、あの家は嫌がるからな。あそこは、この川を自分の庭だと思ってる」
「……やめたほうがいいか」
「馬鹿。やれと言ってんだよ」
その人は、にやりと笑った。
「いいか楚航。文句を言われるってのはな、こっちが何かを持ってるってことだ。何も持ってねぇ奴に文句は来ねぇ。持てよ。持って、文句を言われろ。言われたぶんは、オレが受ける」
烽火の網を作るのに、夏から秋までかかった。
思っていたよりずっと面倒な仕事だった。
まず、村を回って話をつけなければならない。俺が行って、火を焚けと言っても、村の者は頷かない。頷いても、実際にはやらない。当たり前だ。彼らにとって、俺は去年たまたま賊を追い払っていった男に過ぎない。
だから、俺は一つ一つ、順番に回った。
村に着いたら、まず飯を食う。その村の者と一緒に食う。それから、去年焼かれたのはどこか、そのとき誰が死んだかを聞く。聞いてから、初めて火の話をする。
二十三の村を回るのに、二月かかった。
最初の五つは断られた。六つ目で、初めて頷いてもらえた。去年、俺が四十人のうち三十一人を連れ戻した村だった。あそこの年寄りが「あんたが言うなら」と言ってくれてから、話が回り始めた。人というのは、そういうふうにしか動かない。
次に、火のつけ方を教えなければならない。
濡れた薪では上がらない。雨の日には別の合図が要る。昼と夜では見え方が違う。回数と間隔で意味を分ける決まりも作った。一回は「舟を見た」、二回は「岸に上がった」、三回は「多い」。単純にしないと、年寄りは覚えない。
それを、二十三の村に一つずつ教えて回った。
「隊長。もっと簡単にできませんか」
三つ目の村で薪を積みながら、阿六がぼやいた。この頃には、こいつは俺の代わりに帳面をつける役をすっかり任されるようになっていた。
「簡単にはならん。だが、簡単にする必要もない」
「なぜです」
「俺たちが忘れても、村の者が覚えていればいいからだ。俺たちは十年後にはここにいないかもしれん。だが、村はここにある」
阿六は、しばらく黙って薪を積んでいた。
「……隊長。それ、去年の隊長は言わなかった言葉ですよ」
「そうか」
「はい。去年の隊長は、自分が行くから待ってろって言ってました」
俺は手を止めた。
言われてみれば、そうだった。
最初の火が上がったのは、秋の終わりだった。
その日、俺は下流の陣にいた。舟の修繕をさせていて、川には出ていなかった。
昼過ぎに、上流の方角で細い煙が立った。
一本。しばらく間を置いて、もう一本。
二回だ。岸に上がった、という合図だった。
俺は舟を出す支度を命じた。五艘。半刻で出られる。
だが、支度をしているあいだに、煙は次々と下ってきた。二十里ごとに、一つずつ。上流から下流へ、まるで川そのものが焦げていくように、順に立ち上がっていく。
その最後の一本が立ったところで、俺は手を止めた。
最後の煙は、賊がいる場所より下流だった。
つまり、下流の村々には、もう伝わっている。
「……隊長。出ますか」
「――待て」
俺は川岸に立って、しばらく煙を見ていた。
半刻ほどして、上流から舟が下ってきた。うちの舟ではない。村の漁舟だった。飛び乗ってきた男が、息を切らして言った。
「知らせに来た! 賊が上がった、けど、みんな山へ逃げた! 誰も残っとらん! 賊は、蔵を開けて何もないのを見て、そのまま引き上げた!」
俺の隊の男たちが、わっと声を上げた。
俺は、声を上げなかった。
妙な気分だった。
嬉しいことのはずだった。村は焼けなかった。誰も死ななかった。連れて行かれた者もいない。俺が一年かけてやろうとしていたことが、初めて上手くいった日だ。
なのに、腹の底が落ち着かなかった。
俺は、そこにいなかった。
俺は舟を出さず、刀を抜かず、誰の名前も聞かなかった。川岸に立って、煙を見ていただけだ。それで、村は助かった。
その晩、俺は焚き火のそばで一人で座っていた。
黄蓋どのが、酒の瓶を提げて隣に座った。
「浮かない顔じゃな」
「……そう見えるか」
「見える。今日はあんたの勝ちじゃろうが。何が不服じゃ」
「不服ではない。ただ」
俺は、うまく言葉にできずに、しばらく火を見ていた。
「――俺は、要らなかった」
黄蓋どのは、瓶を傾ける手を止めた。
「あの村を助けたのは、村の年寄りだ。火をつけたのも年寄りだ。逃げる場所を決めたのも、村の者だ。俺は何もしていない。……いや、それでいいはずなんだ。それを作ったのは俺だ。だが」
「だが、寂しいか」
俺は答えなかった。答えられなかった。
黄蓋どのは、しばらく笑わずに火を見ていた。それから、瓶を俺のほうへ突き出した。
「若いの。それはな、あんたが将になったということじゃ」
「……」
「兵はな、自分の手が届く範囲でしか物を考えん。だから、自分がおらんと駄目じゃと思っとる。実際その通りじゃ。じゃが将は違う。将の仕事は、自分がおらんでも回る仕組みを作ることじゃ。上手くやればやるほど、自分の出番は減る。……減って寂しいと思うのは、あんたがまだ兵の心を残しとるからじゃな」
「それは、無くしたほうがいいのか」
「無くさんほうがいい」
黄蓋どのは、はっきりとそう言った。
「兵の心を無くした将はな、兵を数で見るようになる。三百人を三百と読むようになる。……あんたはまだ、三百人の名前を全部言えるじゃろう」
「言える」
「なら、それを捨てるな。寂しいまま将をやれ。しんどいがな」
文句が来たのは、それから半月後だった。
上流から、また立派な舟が来た。乗っていたのは去年と同じ絹の袍の男で、今度は肩書きがついていた。監軍、というものらしい。孫堅軍の動きを見張って上に報せるのが仕事だという。
その男は、陣に着くなり俺を呼びつけた。孫堅どのの幕ではなく、自分が持ち込んだ天幕にだ。
俺は行った。行かなければ、孫堅どのが困る。
「楚航。字は子渡だそうだな」
男は、腰も上げずにそう言った。
「川沿いの村に、火を焚く小屋を作らせているそうだが」
「作らせている」
「何のためだ」
「賊が来たときに、下流へ報せるためだ」
「ふむ」
男は、わざとらしく指を組んだ。
「では聞くが、その火は、賊が来たときにしか上がらんのか」
「――どういう意味だ」
「たとえばだ。官の船が上ってきたときにも、上がるのではないか? たとえば、租を集めに行く役人の舟が下ってきたときにも、上がるのではないか? 村の者はその火を見て、蔵を空にし、山へ逃げる。……そういう使い方が、できてしまうな」
俺は、しばらくその男の顔を見ていた。
この男は馬鹿ではなかった。むしろ、俺が考えていなかったことを、正確に言い当てていた。あの網は、そういう使い方ができる。俺がそのつもりでなくても、村の者がそう使い始めたら、俺には止められない。
「……それは、俺の意図ではない」
「意図など聞いておらん。できるかできぬかを聞いておる」
「――できる」
「正直だな」
男は、初めて薄く笑った。
「では、あの小屋は壊してもらおう。二十三か。全部だ。ひと月の猶予をやる」
俺は、そこで初めて、腹の底が冷たくなるのを感じた。
断れば、孫堅軍が命令に背いたことになる。従えば、村はまた焼ける。
どちらも選べなかった。
その場は返事をせずに出た。出て、まっすぐ孫堅どのの幕へ行った。
孫堅どのは、俺の話を最後まで聞いて、それからしばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――あの小屋、誰が建てた」
「村の者だ。木も、藁も、村から出ている」
「銭は」
「俺の隊の獲った魚と、村の麦を回している。軍の糧からは一銭も出していない。帳面がある」
「よし。じゃあ勝ちだ」
俺は顔を上げた。
「勝ちとは」
「あの小屋は、うちの軍の施設じゃねぇんだよ」
孫堅どのは、面白がっている顔をしていた。
「村の連中が、自分の木で、自分の藁で、自分の土地に建てた小屋だ。うちは一銭も出してねぇ。ということはだ、あれを壊す権利は、うちにはねぇ。村の持ち物を壊せるのは、村の主か、県の役人だけだ」
「……だが、監軍は壊せと言っている」
「言うだろうな。だから、こう返せ」
その人は、指を一本立てた。
「『我らは村の持ち物には手を出せませぬ。どうしても壊せというなら、県令に文を出して、正式にご下命ください。県令の下知があれば、我らが村を説得いたします』――とな」
俺は、しばらくその意味を考えていた。
「……県令は動くのか」
「動かねぇよ」
孫堅どのは、げらげらと笑い出した。
「県令はこの辺の出だ。あいつの実家の村にも、貴様の小屋が建ってる。壊せなんて文を出したら、自分の一族に殺されるわ。あの監軍もそこまでは知らねぇ。知ってても、県令に恥をかかせてまで壊させるほど、あの火が邪魔なわけじゃねぇんだ。あいつは貴様に嫌がらせをしたいだけだからな」
俺は、ずいぶん長いこと、その人の顔を見ていたと思う。
この人は、殴らずに座っていた一年で、こういうことを覚えたのだ。
「……孫堅どの」
「なんだ」
「あんた、頭がいいな」
「今ごろ気づいたか、馬鹿野郎」
監軍は、ひと月後に帰っていった。小屋は一つも壊されなかった。
だが、その男が去り際に俺に言った言葉が、しばらく耳に残った。
「楚航。お前は、自分が守っていると思っているのだろうが」
舟に乗り込みながら、その男は言った。
「守るというのは、囲うということだ。囲えば、いずれ中と外ができる。中に入れてもらえなかった者は、お前を恨むぞ。……覚えておくといい」
その男の言うことは、癪だが、正しかった。
二十三の村に火を置いた。だが、この川には百を超える村がある。網の外にある村は、これまで通り焼ける。そして、網の中の村が助かったぶん、賊は網の外へ流れた。
その冬、網の外の村が三つ焼けた。
そのうち一つの村の者が、陣まで訴えに来た。なぜうちの村には小屋を作ってくれないのか、と。
俺は、順に回っていると答えた。順に、というのは嘘ではなかった。だが、その村の者は納得しなかった。当然だ。順番が来る前に焼けたのだから。
その日の夜、俺は帳面に、新しく回る村の名を書き足していた。
幕の入り口の布が、そっと上がった。
蓮華さまだった。この頃、九つになっていたと思う。
「……まだ起きてるの」
「起きている」
「祭が、子渡が飯を食ってないって言ってた」
その子は、また椀を持っていた。去年と同じことをしている。
俺は帳面を置いて、椀を受け取った。
「ありがたい。だが、あんたはもう寝る刻限だろう」
「私、寝ないの」
「なぜだ」
「お姉様が寝ないから」
蓮華さまは、俺の向かいにきちんと正座した。この子は、幕の中でも姿勢を崩さない。
「お姉様、最近ずっと稽古してる。夜中まで。母様が止めても止まらないの。……あのね、子渡」
「うん」
「お姉様、怒ってるの。あの、絹の服の人に。あの人が来てから、母様がずっと機嫌が悪かったから」
「……そうか」
「私も怒ってる。でも、私は槍が下手だから、怒っても何もできないの」
その子は、膝の上で指をいじっていた。俺は待った。この子は、待てば必ず本題を言う。
「……子渡は、村を全部は守れないの?」
俺は、椀を持ったまま、しばらく答えられなかった。
「守れん」
「どうして」
「舟が足りん。人が足りん。米が足りん。……何より、俺の目が二つしかない」
「じゃあ、どうするの」
「順番に増やす。今年二十三やった。来年は三十にする。再来年は四十にする。それしかない」
「その間に焼けた村の人は、どうなるの」
俺は、その質問に答えられなかった。
九つの子供に、こんなことを聞かれるとは思っていなかった。
蓮華さまは、俺が黙ったのを見て、少し慌てた顔をした。
「あ、あの、責めてるんじゃなくて」
「わかっている」
「その、私、大きくなったら手伝えるかなって、思って。……お姉様は強くなるって言ってるけど、私は強くならないと思うから。だから、別のことで手伝えないかなって」
俺は、この子の顔を見た。
姉とは、まるで違う育ち方をしている。姉は「誰にも頭を下げない」と言い、妹は「何で手伝えるか」と聞く。同じ母から生まれて、なぜこうも違うのか、俺にはわからなかった。
ただ、わかっていたことが一つある。
「――蓮華さま。あんたは、たぶん、俺より上手くやる」
「え?」
「俺は、二十三の村を回るのに二月かかった。飯を食って、話を聞いて、一つずつ頼んで回った。それしかやり方を知らんからだ。だが、あんたはたぶん、もっと上手いやり方を思いつく。今日みたいに、俺が答えられん質問をしてくる子は、いずれそうなる」
蓮華さまは、目を丸くして、それから、耳まで赤くなった。
「そ、そんなこと、ないと思います」
「そうか」
「……でも」
その子は、小さな声で言った。
「そう言われたの、初めてです」
そして、逃げるように幕を出て行った。
俺はしばらく椀を持ったまま座っていた。
あの子が「お姉様は強くなる、私は強くならない」と言ったときの声が、少しだけ引っかかっていた。
九つで、自分は姉のようにはなれないと決めている。それが正しいかどうかは別として、この家では、それはずいぶん重たいことのように思えた。
年が明けて、しばらくした頃だった。
北から、妙な噂が流れてくるようになった。
最初は、船に乗る商人が言い出した。北のほうで、黄色い布を頭に巻いた連中が集まっている。何万といる。役人が捕まえに行ったら、逆に県が一つ落ちた。そんな話だった。
俺は、はじめ本気にしていなかった。この川では、そういう与太話は毎月流れてくる。
だが、その噂は消えなかった。むしろ、月を追うごとに数が増えていった。何万が、十万になり、十万が、三十万になった。
春の終わりに、上流から早舟が来た。
今度は絹の袍ではなかった。泥だらけの伝令だった。
その日、孫堅どのは幕から出てくるなり、陣中に集合をかけた。
三千の兵の前に立って、その人は、いつも通りの馬鹿でかい声で言った。
「北で乱が起きた! 黄色い布の連中だ! 数は三十万を超えるらしい! 朝廷は諸方に討伐を命じた! うちにも下りた!」
兵たちがざわめいた。
三十万という数は、この場の誰にも実感できない数だった。俺にもできなかった。
「オレたちは北へ行く! この川を離れる! どれだけかかるかはわからねぇ!」
俺は、そのとき、真っ先に川のほうを見た。
俺の隊が留守にすれば、この川はどうなる。烽火は上がるだろう。だが、上がった火に応えて舟を出す者がいなければ、あれはただの煙だ。
俺が口を開くより先に、孫堅どのがこちらを見た。
「楚航! 貴様は残れ!」
俺は、思わず前に出た。
「――待て。俺が残るのか」
「残れと言った。水軍を全部置いていく。北の乱に舟は要らねぇ。それに、うちが留守にした川を、あいつらが黙って見てると思うか」
「……思わん」
「だろ。貴様が留守番だ。文句あるか」
文句は、あった。
この人が三千を率いて北へ行く。三十万の中へ入っていく。俺はそれを、川岸から見送る。
去年の秋、村が助かった日に感じたのと同じ落ち着かなさが、また腹の底に来ていた。
だが、俺は口を閉じた。
黄蓋どのの言葉を思い出したからだ。将の仕事は、自分がいなくても回る仕組みを作ることだ。だとすれば、あの人が留守にしても回るようにするのが、留守を任された者の仕事だった。
「――承知した」
「よし」
孫堅どのは、それだけ言って背を向けた。
その夜、雪蓮さまが川岸に来た。
この頃、十六になっていた。背が伸びて、俺の肩の高さを越えていた。稽古のしすぎで、手のひらは俺のものとあまり変わらないくらい硬くなっていた。
「私も行くんですって」
開口一番、その子は言った。
「北へ?」
「そう。母様が連れて行くって。……初めての、ちゃんとした戦よ」
「そうか」
俺は、それ以上何と言えばいいのかわからなかった。
この子が舟に乗りたいと言って、俺が三つの条件を出したのは、二年前の春だ。あれから二年しか経っていない。
「子渡。何か言うことは」
「――ある」
俺は、川を見ながら言った。
「戦場では、味方の数を数えろ。敵の数ではない。味方の数だ。始まる前に数えて、終わったあとにもう一度数える。数が減っていたら、どこで減ったかを思い出せ。……それを毎回やれ。癖にしろ」
雪蓮さまは、少し意外そうな顔をした。
「勝ち方は教えてくれないの?」
「勝ち方は、あんたの母上のほうが上手い。俺が教えられるのはこれだけだ」
その子は、しばらく黙って川を見ていた。
やがて、こう言った。
「……ねえ、子渡。私が帰ってきたら、真名、教えてくれる?」
俺は、答えに詰まった。
この二年、この子は何度も同じことを聞いた。俺はそのたびに、いずれ、と言って逃げてきた。
なぜ逃げるのか、自分でもわからないままだった。
ただ、この夜だけは、逃げてはいけない気がした。この子は北へ行く。三十万の中へ行く。帰ってくるとは限らない。
それでも、俺の口から出たのは、こうだった。
「――帰ってきたら、な」
雪蓮さまは、少し笑った。怒りはしなかった。
「ずるいわね。それ、帰ってこいって言ってるのと同じじゃない」
「……そうだな」
「わかった。じゃあ、帰ってくる」
その子は、そう言って立ち上がった。
「絶対に帰ってくるわ。だから、あなたも生きてなさいよ。二年前に約束したでしょ」
三日後、孫堅軍は北へ発った。
三千のうち、二千五百を連れて行った。残ったのは、俺の水軍五百と、留守を預かる者が少しだけ。
俺は桟橋に立って、その列が見えなくなるまで見ていた。
列の後ろのほうに、小さな背中が二つあった。一つは雪蓮さまで、もう一つは、見送りに出た蓮華さまだった。妹のほうは、姉が振り返るたびに手を振っていた。
やがて、蓮華さまだけが戻ってきた。
俺の隣に立って、しばらく黙って北のほうを見ていた。
「……子渡」
「うん」
「私、留守番同士ですね」
「そうだな」
「じゃあ、手伝います。何をすればいいですか」
九つの子が、真剣な顔でそう言った。
俺は、少し考えてから答えた。
「では、帳面を読んでもらおうか。村の名前と、火の小屋の場所が書いてある。俺は字が下手で、自分でも読めんところがある」
「……それ、私が読めるって思ってます?」
「読めるだろう。あんたは姉上と違って、勉強から逃げないと聞いている」
蓮華さまは、少しだけ胸を張った。
この日から、俺の帳面には二人目の書き手が加わることになる。
北へ行った軍が戻ってくるまで、一年半かかった。
その一年半で、俺の川に何が起きたか。そして、帰ってきたあの人たちが、どんな顔をしていたか。
それは、次に話す。