長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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留守を預かる

軍が北へ発って三月ほどは、川は静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 賊が出ない。烽火も上がらない。俺の隊は毎日舟を出し、毎日何事もなく帰ってきた。男たちは「北の乱に釣られて、こっちの連中も北へ行ったんじゃないか」と笑っていた。

 

 俺は笑えなかった。

 

 柴桑から東の連中は、袁の家に銭を納めている。北の乱で騒がしくなれば、あの家は今まで以上に銭を欲しがるはずだ。銭を欲しがるということは、取り立て役に働けと言うということだ。

 

 静かなのは、休んでいるからではない。次の支度をしているからだ。

 

 その支度が何なのかがわかったのは、夏の終わりだった。

 

 その日、上流の三つ目の小屋から火が上がった。

 

 一回。「舟を見た」の合図だ。

 

 俺は舟を出した。半刻で現場に着けるはずだった。

 

 だが、川を上っている途中で、四つ目の小屋から火が上がらなかった。

 

 順に伝わるはずのものが、そこで止まった。

 

 俺は嫌な予感がして、舟を四つ目の小屋へ向けた。

 

 小屋は、燃えていた。

 

 合図の火ではない。小屋そのものが焼かれていた。屋根が落ち、積んであった薪が黒くなって崩れている。番をしていた年寄りが、少し離れた葦の中で倒れていた。まだ息はあった。頭を割られていたが、水に落ちて流されなかったのが幸いだった。

 

 俺は年寄りを舟に引き上げ、水を飲ませた。

 

 しばらくして、その人は掠れた声で言った。

 

「……四人、来た。舟から降りて、まっすぐここへ来た。村には行かんかった。……小屋だけ、焼いていった」

 

 俺は、そのとき、背筋が寒くなった。

 

 賊は、荷を取りに来たのではない。

 

 火を消しに来たのだ。

 

 三月のあいだ、あいつらは黙って見ていた。俺たちの火が、どこにあって、どういう順で上がるのかを。

 

 それから半月で、六つの小屋が焼かれた。

 

 やり方は同じだった。少数で来て、番人を殴り、小屋だけ焼いて去る。村には手を出さない。村人を怒らせずに、火だけを消していく。

 

 番人が二人死んだ。どちらも年寄りだった。

 

 俺は舟を出し続けたが、間に合ったのは一度だけだった。

 

「隊長。これ、見てください」

 

 その日の夜、阿六が帳面を持ってきた。

 

「焼かれた小屋の場所です。全部、川の北岸のやつなんです」

 

 俺は帳面を覗き込んだ。確かにそうだった。焼かれた七つのうち、六つが北岸にある。

 

「北岸は、柴桑から下るときに最初に見える側だ。あそこの火が消えれば、あいつらは見つからずに下れる」

 

「そうです。でも、それだけじゃなくて」

 

 阿六は、指で帳面をなぞった。

 

「焼かれた順番です。上流から順じゃないんです。飛んでる。三つ目、六つ目、八つ目、九つ目、十二……」

 

「――間隔か」

 

「はい。ちょうど、うちの舟が半刻で着ける範囲の外側から、順に焼かれてます」

 

 俺は、その帳面をしばらく睨んでいた。

 

 あちらには、頭を使う者がいる。俺たちの舟がどこから何刻で着くかを計算して、届かない場所から順に潰している。

 

「阿六。それ、お前が気づいたのか」

 

「……いえ」

 

 阿六は、少しばつの悪そうな顔をした。

 

「蓮華さまです。帳面を写してもらってたら、『これ、順番が飛んでるのはなぜ?』と聞かれまして」

 

 俺は思わず、幕の外へ目をやった。

 

 九つの子供が、俺が半月かけて気づかなかったことを、帳面を写しながら見つけたということだった。

 

 その晩、俺は蓮華さまのところへ行った。

 

 もう寝ている刻限だったが、案の定、起きて字を書いていた。留守を預かってから、この子は毎晩そうしている。

 

「蓮華さま。帳面のことだが」

 

「あ、はい」

 

 その子は、慌てて筆を置いた。

 

「あの、勝手に見たのは、その、悪かったです」

 

「見てもらうために渡した。謝ることはない。それより、聞きたい」

 

 俺は帳面を広げた。

 

「なぜ、順番が飛んでいると思った」

 

 蓮華さまは、少しきょとんとしてから、指で表をなぞった。

 

「だって、変だから。……賊が焼いていくなら、上流から順にやったほうが楽じゃないですか。舟で下りながら焼けばいいんだもの。でも飛んでる。飛ぶってことは、飛ばした場所は焼かない理由があるってことです」

 

「その理由は、何だと思う」

 

「うーん」

 

 その子は、しばらく本気で考えていた。

 

「……焼かないほうが得だから?」

 

「なぜ得だ」

 

「わからないけど。あの、たとえば、そこの火が上がると、子渡が来ちゃうから。来る場所は焼かないで、来ない場所だけ焼いてるとか」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

「――正しい」

 

「え」

 

「あんたの言った通りだ。あいつらは、俺が半刻で着けない場所だけを焼いている。届く場所には手を出さない。だから、俺は一度しか間に合わなかった」

 

 蓮華さまは、目を丸くした。それから、少し怖い顔をした。

 

「……じゃあ、向こうにも、私みたいなことを考える人がいるってことですか」

 

「そうなる」

 

「嫌です、それ」

 

 子供らしい言い方だったが、意味は正確だった。

 

 俺はその晩、久しぶりに夜通し起きていた。

 

 半刻で着けない場所を焼かれるなら、着ける場所を増やすしかない。だが、舟を分散させれば、一箇所あたりの数が減る。減れば、まとまって来られたときに潰される。

 

 増やす。分ける。どちらもできない。

 

 答えが出たのは、明け方だった。

 

 俺は、間違った問いを立てていた。

 

 俺が半刻で着けないなら、俺が行かなければいい。

 

 三日後、俺は川沿いの村を回り始めた。今度は、烽火を頼みに行くのではなかった。

 

「番人を、二人にしてくれ」

 

 最初の村で、俺はそう言った。

 

「一人は火をつける。もう一人は、火をつけずに、走って隣の村へ行く。走って行けば、舟より遅いが、確実だ」

 

 村の年寄りが顔をしかめた。

 

「二人も出せんよ。うちは働き手が足りん」

 

「わかっている。だから、こっちからも出す」

 

 俺は、後ろに立たせていた男を示した。

 

「うちの隊の者だ。ひと月ここに置く。この男が村の若い者に、棒の使い方を教える。四人の賊が来て、こちらが六人いて、棒があれば、追い払える」

 

「――兵を置くのか」

 

「置く。だが、指図はさせん。この男は村の言うことを聞く。飯もこちらで用意する」

 

 その村は、渋々ながら頷いた。

 

 二つ目の村も、三つ目の村も、同じことを繰り返した。

 

 五百のうち、五十人を村に散らした。一人ずつ、二十三の村のうち、焼かれやすい場所から順に。

 

 俺の手元の兵は、四百五十に減った。

 

 黄蓋どのがこの場にいたら、たぶん止めたと思う。兵を分散させるのは、軍略としては下の下だ。

 

 だが、俺には他のやり方が思いつかなかった。

 

 秋の半ば、初めて村が賊を追い返した。

 

 北岸の小さな村だった。四人で来た賊を、村の若い者七人と、うちの兵一人で追い払った。棒で殴り、川へ落とした。死人は出なかった。賊のほうも、こちらのほうも。

 

 その報せを聞いたとき、俺の隊の男たちは、自分たちが勝ったように喜んだ。

 

 俺も、今度は素直に嬉しかった。

 

 去年、川岸で煙を見ていたときの落ち着かなさは、なぜか来なかった。

 

 あれから一年経って、俺は少しだけ、自分がいなくても回ることに慣れたらしい。

 

 だが、そのぶん、別のものが重くなっていた。

 

 冬になった。

 

 その冬は、俺がこの川で見てきた中で、一番ひどい冬だった。

 

 北の乱のせいで、物が動かなくなった。商船が上ってこない。塩が入らない。米の値が三倍になった。そのうえ、北から逃げてきた者が、川を伝って南へ流れてきた。

 

 最初は十人、二十人だった。それが百になり、二百になった。

 

 俺の陣の周りに、勝手に小屋を建てて住み着く者が出てきた。

 

「隊長。追い払いますか」

 

 阿六が聞いてきた。

 

 俺は答えられなかった。

 

 追い払えば、あの連中は賊になる。この冬にこの川で野に放り出された者が、生きるためにやることは一つしかない。

 

 だが、置いておく米がなかった。俺の隊の分を割れば、兵が飢える。飢えた兵は逃げる。

 

 俺はその晩、帳面を全部並べて、朝まで数を数えていた。

 

 数えても、米は増えなかった。

 

 結局、俺がやったのは、三つのことだった。

 

 一つ。俺の隊の飯を、日に二度から一度半に減らした。減らすと言う前に、俺が自分の分を先に減らして、三日ほど黙って過ごした。三日目に阿六が気づいて騒ぎになり、そこで全員に説明した。

 

 二つ。流れてきた者のうち、櫓を押せる者を隊に入れた。八十七人いた。入れれば飯を食わせる理由ができる。

 

 三つ。残りを、二十三の村に頼んで分けた。一村あたり五人か六人だ。これも俺が一つずつ回って頼んだ。断られた村もあった。断った村を、俺は責めなかった。

 

 それでも、その冬に十九人死んだ。

 

 俺の隊の者ではない。流れてきた者たちだ。老人が多かった。

 

 俺は、十九人分の名前を聞いて回った。聞けたのは十二人分だった。残る七人は、誰も名前を知らなかった。

 

 その七人を、俺は帳面に「名を知らず」と書いて残した。

 

 書きながら、指が震えた。寒さのせいだと自分に言い聞かせた。

 

 年が明けて、蓮華さまが十になった。

 

 この頃には、この子は俺の帳面を全部読めるようになっていた。読めるどころか、俺より整理が上手かった。村ごとに紙を分けて、月ごとに書き直して、比べられるようにしていた。

 

「子渡。この村、去年より人が減ってます」

 

「そうか」

 

「はい。去年の秋は四十二人でした。今は三十六人。……六人減ってます」

 

「死んだのか」

 

「わかりません。だから、聞いてきてほしいんです」

 

 俺は、この子の顔を見た。

 

「なぜ聞く必要がある」

 

「だって、死んだなら弔わないといけないし、逃げたなら理由があるはずだから。……理由がわからないままにすると、次の村でも同じことが起きます」

 

 俺は、その日、舟でその村へ行った。

 

 六人は、逃げていた。米が足りず、南の山へ入ったのだという。

 

 戻ってきて、そう報告すると、蓮華さまは頷いて、紙にそう書き込んだ。

 

「山に入った人たちは、春になったら帰ってきますか」

 

「帰ってこん者もいる」

 

「じゃあ、帰ってきたときのために、名前を残しておきます」

 

 その子は、六人の名前を別の紙に書き写した。

 

 俺は、それをしばらく見ていた。

 

 九つで「私は強くならない」と言った子が、十で、こういうことをするようになっていた。

 

 春先に、幕の中に妙な訪問者が来た。

 

 といっても、賊でも監軍でもない。三つになったばかりの、一番下の子だ。

 

 この子は、まだろくに喋れない。姉たちが北へ行っているあいだ、乳母と蓮華さまが交代で面倒を見ていた。俺のところへは滅多に来ない。

 

 その日、その子はよちよちと幕へ入ってきて、俺の膝の上に無言で座った。

 

 そして、俺の帳面をつかんで、破った。

 

「――おい」

 

 破られたのは、村の名前が書いてある紙だった。俺は慌ててその子の手から取り上げたが、もう半分ちぎれていた。

 

 その子は、俺の顔を見上げて、にっこり笑った。

 

 叱れなかった。

 

 騒ぎを聞いて、蓮華さまが飛んできた。

 

「小蓮! また! ごめんなさい子渡、この子、紙を見ると破るんです」

 

「……知らなかった」

 

「昨日は私の書いたものを全部破りました」

 

 蓮華さまは、妹を抱え上げようとした。だが、小蓮さまは俺の袖を掴んで離さなかった。掴んだまま、口をもぐもぐさせている。

 

「……なんだ」

 

「たぶん、お腹が空いてるんだと思います」

 

「なるほど」

 

 俺は、片手で破れた帳面を持ち、もう片手でその子を抱えたまま、炊事場まで歩いた。

 

 あの日、俺は初めて、この一番下の子を抱いた。

 

 驚くほど軽かった。重さのないものを抱えているようだった。この子が、あと十何年かして、姉たちと並んで戦場に出たがるようになるとは、そのときの俺には想像もつかなかった。

 

 その帳面は、破れたまま使った。

 

 継ぎを当てて、字を書き足して、十年以上使った。

 

 春の終わり、上流から早舟が来た。

 

 伝令が持ってきたのは、二つの報せだった。

 

 一つ。北の乱は、おおむね鎮まった。

 

 二つ。孫堅軍は、ひと月のうちに帰る。

 

 俺は、その報せを聞いて、まず何をしたか。

 

 陣中を掃除させた。

 

 我ながら情けない話だが、他に思いつかなかった。あの人が帰ってきて、留守中に陣が荒れていたら、俺の顔が立たない。

 

 それから、帳面を全部揃えた。この一年半で何をして、何ができなくて、誰が死んだか。全部書いてある。それを、隠さずに出すつもりだった。

 

 軍が帰ってきたのは、初夏の暑い日だった。

 

 二千五百で出て、戻ってきたのは千九百ほどだった。

 

 俺は桟橋に立って、その列を迎えた。

 

 先頭に、孫堅どのがいた。馬から降りて、まっすぐこちらへ歩いてきた。

 

 顔つきは変わっていなかった。日に焼けて、少し痩せていたが、目は前と同じだった。

 

「――留守番、ご苦労」

 

「戻られたか」

 

「戻ったよ。……見ろ、六百減った」

 

 その人は、後ろの列を親指で示した。あっさりした言い方だった。

 

「北はひどかった。三十万は嘘じゃなかった。連中は飢えてた。飢えた奴は強いぞ。死ぬのが怖くねぇからな」

 

「……そうか」

 

「貴様のほうは」

 

「十九人死んだ」

 

 俺は、帳面を差し出した。

 

「うちの隊ではない。北から流れてきた者だ。冬を越せなかった。そのうち七人は、名前がわからん」

 

 孫堅どのは、帳面を受け取って、その場で開いた。

 

 しばらく、黙って読んでいた。

 

 やがて、「名を知らず」と書かれた行のところで、指を止めた。

 

「……七人か」

 

「ああ」

 

「なぜ書いた。書かなくてもよかっただろ」

 

「書かないと、いなかったことになる」

 

 その人は、しばらく帳面を見ていた。

 

 それから、ぱたんと閉じて、俺の胸に押し返した。

 

「よくやった」

 

 それだけだった。

 

 だが、その一言を言うときのこの人の顔を、俺は今でも覚えている。

 

 雪蓮さまを見つけたのは、その少しあとだった。

 

 列の中ほどにいた。馬に乗っていて、俺の前を通り過ぎるときに、こちらを見た。

 

 見て、目を逸らした。

 

 俺は、それが自分でも意外なほど堪えた。

 

 その日の夜になっても、その子は俺のところへ来なかった。

 

 二日目も来なかった。

 

 三日目の夜に、俺のほうから川岸へ行った。

 

 案の定、そこに座っていた。

 

 十七になっていた。背はまた伸びていた。だが、それより先に目についたのは、腕だった。二の腕に、真新しい傷跡が走っていた。まだ赤い。

 

「――隣、いいか」

 

 雪蓮さまは、返事をしなかった。俺は勝手に座った。

 

 しばらく、二人とも川を見ていた。

 

「……子渡」

 

「うん」

 

「私、人を斬ったわ」

 

 その声は、驚くほど静かだった。

 

「何人か覚えてない。二十かもしれないし、三十かもしれない。……最初の一人は覚えてる。若い男だった。武器も持ってなくて、鍬を持ってた。逃げようとしたところを、後ろから斬った」

 

 俺は黙っていた。

 

「母様は褒めたわ。よくやったって。ちゃんと戦えてたって。……私、それが嬉しかったの。嬉しかったのよ。人を斬って、褒められて、嬉しかった」

 

 その子は、膝を抱えていた。

 

「そのあとで、気持ち悪くなって吐いた。誰も見てないところで。……それが、一番嫌だった」

 

「なぜだ」

 

「だって、吐くくらいなら、嬉しがるなって話でしょ」

 

 俺は、しばらく考えてから言った。

 

「――両方だ」

 

「え?」

 

「嬉しかったのも本当で、吐いたのも本当だ。片方だけを選ぶ必要はない。人は、そんなに綺麗にはできていない」

 

 雪蓮さまは、初めてこちらを見た。

 

「……子渡もそうだったの」

 

「そうだった。俺の最初は十六のときだ。賊の舟で、相手も同じくらいの年だった。斬ったあと、三日眠れなかった。四日目に、飯が異様に旨かった。そのことのほうが、俺は今でも嫌だ」

 

「……」

 

「だが、それでいい。旨いと思う自分がいるから、また舟に乗れる。眠れなかった自分がいるから、名前を聞くようになった。両方あったほうが、たぶん長く保つ」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、ぽつりと言った。

 

「あなた、私が帰ってきたら真名を教えるって言ったわよね」

 

 俺は息をついた。

 

「……言った」

 

「私、帰ってきたわ」

 

「帰ってきたな」

 

「じゃあ」

 

 その子は、こちらを向いた。

 

 その目を見て、俺はすぐには言えなかった。

 

 言えなかった理由が、このときようやく、少しだけわかった。

 

 俺の真名は、母が呼んでいた名だ。母は俺が十のときに死んだ。それから十五年以上、誰にも呼ばれていない。呼ばれていないから、あの名前は俺の中で、母が生きていた頃のまま止まっている。

 

 それを誰かに渡すというのは、その時間を終わらせるということだった。

 

「――灘(なだ)という」

 

 俺は言った。

 

 自分の声が、思ったより低く出た。

 

「荒れた瀬のことだ。俺が生まれた年に、川が大水を出したらしい。母がそう呼んでいた。あんたが二人目だ」

 

 雪蓮さまは、しばらく口を開けたまま固まっていた。

 

 それから、じわじわと、顔が赤くなった。

 

「……二人目って」

 

「一人目は母だ」

 

「そ、そう。……そうよね。うん」

 

 その子は、急に落ち着きをなくして、髪をいじり始めた。

 

「なだ。……灘。うん、いい名前ね。あなたっぽい」

 

「そうか」

 

「呼んでいいのよね」

 

「許した」

 

「じゃあ、灘」

 

 呼ばれて、俺は自分でも意外なほど狼狽した。

 

 十五年ぶりだった。

 

 その音が、思っていたよりずっと生々しく耳に入ってきて、俺は返事をするのに一拍かかった。

 

「……なんだ」

 

「べつに。呼んでみただけ」

 

 雪蓮さまは、悪戯が成功した子供の顔で笑った。

 

 二年前と同じ笑い方だった。北から帰ってきてから、初めて見る顔だった。

 

 それから、その子は思い出したように言った。

 

「あ、そうだ。北で、面白い人に会ったの」

 

「ほう」

 

「廬江の人。私と同い年よ。父親が役人で、乱のときに一緒に逃げてきてたの。……頭がいいのなんのって。私が三日考えてわからなかった陣立ての話を、話しながら解いちゃったんだから」

 

「それは大したものだ」

 

「でしょ。名前は周瑜。字は公瑾。……私、あの子と組みたいの。母様には言ってないけど」

 

 雪蓮さまは、川を見ながら言った。

 

「私、思ったの。母様みたいに強いだけじゃ足りないって。北で、強い人がたくさん死ぬのを見たから。……だから、頭のいい人が要る。あなたみたいに、変なことを思いつく人も要る」

 

「俺は変か」

 

「変よ。村に火の小屋を建てる将なんて、聞いたことないもの」

 

 その子は笑って、それから立ち上がった。

 

「私、いつか自分の軍を持つわ。そのときは、あなたにも来てもらうから」

 

「――孫堅どのの許しがあればな」

 

「母様には私から言う」

 

 言い切って、その子は歩き出した。

 

 途中で振り返って、もう一度だけ言った。

 

「灘。留守番、ありがとう」

 

 俺は、それにも返事ができなかった。

 

 その半年後、この川は静かではなくなる。

 

 北の乱は鎮まったが、鎮めたはずの都のほうが、今度は火を噴いた。

 

 そして、俺たちは、この川を離れて洛陽へ向かうことになる。

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