長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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己の土地

黄巾の乱が鎮まってから、三年が過ぎた。

 

 鎮まった、というのは都の言い方で、この川に住む者の実感とはずいぶん違った。北の本隊は潰れたが、散った連中は南へ流れてきた。飢えた者が食う場所を探して下ってくる。それが賊になり、賊が村を焼き、焼かれた村の者がまた流れる。輪になっていた。

 

 三年のあいだに、俺の烽火の網は四十一の村まで伸びた。

 

 伸ばしたのは俺一人ではない。村の者が隣の村へ話をしてくれるようになった。うちにも作れ、と言ってくる村が出てきた。そうなると早い。二年目の後半からは、俺が回らなくても増えるようになった。

 

 村へ置いた兵は、八十人になっていた。棒の使い方を教える役だ。三年もやっていると、教わった側が教える側に回る。今では、俺の隊の者が一人もいない村でも、若い者が自分たちで組んで見回りをするようになっていた。

 

 俺の水軍は、六百と少し。舟は四十艘。

 

 数だけ見れば立派なものだ。だが、川は綺麗にならなかった。柴桑から東には、相変わらず手が出せなかった。

 

 その三年で、俺は三十になった。

 

 変わったことを一つ挙げるなら、雨の日に右肩が上がらなくなったことだ。

 

 あの傷は脇腹から背中まで走っていて、季節の変わり目や雨の前になると、そこが硬くなる。硬くなると、腕が肩より上へ行かない。半日も経てば戻るのだが、その半日のあいだは刀を上段に構えられない。

 

 最初に気づいたときは、正直に言えば怖かった。

 

 黄蓋どのに言うと、この人はいつもの調子で笑った。

 

「そりゃそうじゃ。傷は治っても、体は覚えとるからのう。……わしなんぞ、右膝が明日の天気を教えてくれるぞ」

 

「治らんのか」

 

「治らん。慣れるだけじゃ」

 

 この人は、いつもそう言う。

 

 三年前と同じ言葉だった。三年経って、俺はようやくその意味を理解しつつあった。慣れるというのは、諦めることではない。上がらない腕でどう戦うかを覚えるということだ。

 

 俺は、雨の日は下段から入る型を練習するようになった。

 

 その年の夏、上流から早舟が来た。

 

 伝令ではなかった。朝廷の使いだった。

 

 持ってきたのは辞令だ。孫堅どのを長沙の太守に任じる、という。

 

 長沙で乱が起きていた。区星という男が数万を集めて郡を落とし、県令を殺した。近隣の郡も呼応して、荊州の南半分が朝廷の手を離れかけている。それを討てというのが、辞令の中身だった。

 

 俺が幕へ行ったとき、孫堅どのは辞令の木簡を膝に載せたまま、珍しく黙って座っていた。

 

「――太守か」

 

「太守だ」

 

 その人は、顔を上げずに言った。

 

「郡を一つ、丸ごと預かる。オレの名で租を集めて、オレの名で兵を養える。……あの家の下で五年、ずっと欲しかったやつだ」

 

「めでたいことだろう」

 

「めでたいさ。めでたいから、座って考えてる」

 

 孫堅どのは、そこでようやく顔を上げた。

 

「長沙は内陸だ。ここから遠い。行けば、この川を離れる」

 

 俺は、そのとき初めて、この人が何を考えていたのかを理解した。

 

 俺の顔を見て、孫堅どのは苦い顔をした。

 

「わかるか」

 

「……わかる」

 

「貴様の網は四十一だな。村へ置いた兵が八十。舟が四十。……全部この川のものだ。長沙へは持って行けねぇ」

 

 俺は、しばらく答えられなかった。

 

 三年かけて積み上げたものだった。二十三の村を二月かけて回った。断られては戻り、飯を食っては頼み、番人の年寄りが二人死に、それでも増やしてきた。

 

 それを置いていく。

 

 置いていったものが、半年でどうなるかは、想像がついた。俺の隊が消えれば、烽火は上がっても応える舟がない。応える舟がなければ、村は火をつけなくなる。つけなくなれば、あの網は薪の山に戻る。

 

「――孫堅どの。断ることは」

 

「できねぇよ」

 

 その人は即答した。

 

「朝廷の辞令だ。断れば謀反と同じだ。それに、断りたくもねぇ。オレが自分の土地を持つのは、ここで断ったら十年遅れる」

 

 俺は、拳を握っていた。

 

 この人は正しい。正しいから、俺には言い返す言葉がなかった。

 

「楚航」

 

「なんだ」

 

「置いてくんじゃねぇよ」

 

 俺は顔を上げた。

 

「貴様、置いていくと思ってるだろ。違う。渡すんだ」

 

 孫堅どのは、辞令の木簡で自分の肩を叩いた。

 

「三年前、貴様は自分がいなくても村が守れるようにするって言った。烽火はそのためだったんだろうが。……なら、貴様がいなくなっても回るはずだ。回らねぇなら、貴様の三年はまだ足りてなかったってことだ」

 

 痛いところを突かれた。

 

 その通りだった。俺は「自分がいなくても回る仕組み」を作ったつもりで、その仕組みの真ん中に自分を置いたままでいた。

 

「……ひと月くれ」

 

「二月やる」

 

「――ありがたい」

 

「そのかわり、置いてく物と持ってく物は、貴様が決めろ。オレは口を出さねぇ」

 

 二月かけて、俺は四十一の村を回った。

 

 三年前に烽火を頼みに回ったときと、同じ順番で回った。

 

 やったことは三つだ。

 

 一つ。村の若い者の中から、火の合図と見回りを取り仕切る役を一人ずつ決めた。決めるのは俺ではなく、村に決めさせた。俺が決めた者は、俺がいなくなれば従われない。

 

 二つ。四十一の村を、川の上流・中流・下流の三つに分けた。それぞれの束を、隣り合う村同士が互いに助けに行けるようにした。今までは、火が上がれば俺が行っていた。これからは、隣の村が行く。

 

 三つ。俺の隊のうち、この川の出身の者に、残るか来るかを選ばせた。

 

 三つ目が、一番きつかった。

 

 六百人のうち、二百三十人が残ると答えた。

 

 残ると答えた者の名を、俺は一人ずつ呼んで、確かめた。全員、村に身内がいる者だった。当然だ。

 

「隊長。俺、残ります」

 

 最後に来たのは、あの舵を握っていた男だった。三年前、俺が斬られたときに引き上げてくれた男だ。

 

「……そうか」

 

「すみません」

 

「謝ることではない」

 

「いや、謝ります。隊長には、川を綺麗にするって言われて、そのつもりで乗ってたんで。……途中で降りるみたいで、気分が悪い」

 

 俺は、その男の顔を見た。

 

「お前が残るのは、降りるのとは違う」

 

「そうですかね」

 

「俺が長沙へ行くのは、この川を捨てるためじゃない。……たぶん、いつか戻ってくる。そのときに、この川に誰もいなかったら、俺は戻る意味がない」

 

 我ながら、ずいぶん都合のいい言い方だった。

 

 だが、その男は納得した顔をした。納得したふりをしてくれたのかもしれない。

 

「じゃあ、留守番ってことでいいですか」

 

「そうしてくれ」

 

 俺は、その男に烽火の帳面の写しを渡した。四十一の村の名前と、火の順番と、番人の名前が書いてある。

 

 写したのは蓮華さまだった。俺の字より、はるかに読みやすかった。

 

 長沙までは、二十日以上かかった。

 

 舟で行けるところまで行き、そこから陸を歩いた。俺は馬に乗れないので、歩いた。歩きながら、自分が水から離れていくのがはっきりわかった。空気が乾いて、風の匂いが変わる。

 

 長沙の乱は、思ったより早く片づいた。

 

 孫堅どのが一月で区星を討ち取り、続く二月で近隣の呼応した連中を潰した。俺の出番はほとんどなかった。川がないところでは、俺の隊はただの歩兵だ。それも、あまり質のよくない歩兵だった。

 

 この戦で目立ったのは、むしろ雪蓮さまのほうだった。

 

 二十一になっていた。この頃には、五百ほどを自分で率いるようになっていた。

 

 その用兵は、母親とは違った。孫堅どのは、正面から突っ込んで、敵の一番硬いところを叩き割る。雪蓮さまは、敵の陣形を見て、崩れそうな端から食い破る。速い。そして、深追いをしない。

 

 深追いをしないのは、たぶん俺のせいだった。

 

 北から帰ってきた年に、俺はこの人に「味方の数を数えろ」と言った。それを本当に癖にしていた。戦のあと、必ず自分で数える。数が合わないと、合うまで探しに行く。

 

 その癖を、俺は誇っていいのか、詫びるべきなのか、いまだにわからない。

 

 長沙の城に入って半月ほどした頃、客が来た。

 

 俺は城の外の川——といっても、長江に比べれば小川のようなものだ——で舟の手入れをしていた。そこへ雪蓮さまが、誰かを連れてやってきた。

 

「灘! ちょっと来て!」

 

 この頃には、その呼び方にも慣れていた。

 

 連れられてきたのは、背の高い女だった。年は雪蓮さまと同じくらい。長い髪をきちんと結い、身なりも整っている。目つきが、この城の中の誰とも違った。喧嘩慣れした者の目ではない。値踏みをする目でもない。

 

 考えている目だった。こちらを見ながら、同時に別のことを考えている。

 

「紹介するわ。周瑜。字は公瑾。前に話したでしょ、廬江の」

 

「――話は聞いている」

 

 俺が頭を下げると、その人も丁寧に返した。

 

「周瑜と申します。あなたのことは、道中ずっと聞かされておりました」

 

「……ずっと、か」

 

「ええ。烽火の話を三度、村を回った話を二度。それから、この方が真名を貰うのに二年かかった話を五度ほど」

 

「ちょっと待ちなさいよ冥琳、五度は言ってないでしょ」

 

「六度だったか。まあ、そのあたりだ」

 

「増えてるじゃないの!」

 

 雪蓮さまが声を上げると、周瑜どのは表情をほとんど変えずに、その方を横目で見た。

 

「二日目の夜と、三日目の朝と、四日目の川べりと、五日目に馬が石を踏んだときと、六日目の宿でだ。数えていたのは私ではない。数えざるを得なかっただけだ」

 

「……冥琳って、そういうところ本っ当に嫌な女よね」

 

「褒め言葉として受け取っておく」

 

 俺は、二人のやりとりを黙って見ていた。

 

 半刻前まで、俺はこの人を、雪蓮さまが北で拾ってきた優秀な軍師だと思っていた。その理解は、たぶん半分しか合っていなかった。この二人は、そういう間柄ではなかった。

 

 周瑜どのは、雪蓮さまから視線を戻して、俺のほうを向いた。表情が、また元に戻っていた。

 

「失礼しました。……不思議に思っておりました。四十一の村に火を置いた将が、なぜ真名を渡すのに二年もかかるのか」

 

「……お恥ずかしい限りだ」

 

「いえ。お会いして、少しわかりました。あなたは、渡すのが下手なのではありませんね。渡すものを、渡すに足るまで磨こうとする。だから遅い」

 

 俺は、少し驚いた。

 

 この人とは、まだ十も言葉を交わしていない。

 

「――買いかぶりだ。ただ臆病なだけだ」

 

「臆病な人間は、四十一の村に火を置きません」

 

「ほら見なさい。私も同じこと言ったのよ、この人に」

 

「貴様は『変な人ね』と言っただけだろう」

 

「意味は同じでしょ」

 

「まるで違う」

 

 周瑜どのは、そこで初めて、わずかに笑った。

 

「以後、お見知り置きを。私はこの方の下につきます。……おそらく、長い付き合いになるでしょう」

 

「そこは『この子の』でいいのに」

 

「公の場だ。弁えろ」

 

「ここ、川べりよ?」

 

「川べりにも耳はある」

 

 この人の見立ては、たいてい正しかった。

 

 このときも正しかった。

 

 長沙での日々は、俺の三十年の中で、いちばん穏やかな時期だったと思う。

 

 一年半、大きな戦がなかった。

 

 孫堅どのは太守として郡を治め、租を集め、兵を養った。あの人が政をやるところなど想像もつかなかったが、意外にもきちんとやっていた。細かいことは全部、人に任せていたからだ。任せる相手を間違えないのが、あの人の一番の才能だったと今では思う。

 

 俺は、川がないので水軍の稽古ができず、そのぶん暇だった。

 

 暇なので、帳面をつけていた。長沙郡の村の名前と、人の数と、収穫の量を書いていく。誰に頼まれたわけでもない。ただ、長江でやっていたことを、そのまま続けただけだ。

 

 その帳面を、いつの間にか蓮華さまが引き継いでいた。

 

 十五になっていた。もう子供ではない。背は俺の胸の高さを越えて、字は俺より数段上手く、算盤も俺より速かった。

 

「子渡。この村、租を三年続けて滞納しています」

 

「そうか」

 

「はい。でも、これ、たぶん怠けてるんじゃないです」

 

 蓮華さまは、紙を並べた。

 

「この村の隣の二つは、ちゃんと納めてます。同じ年に同じ雨が降ってるのに、ここだけ穫れてない。……ということは、田そのものに問題があります」

 

「見に行くか」

 

「行きます」

 

 行ってみると、その通りだった。三年前の乱のときに、水路が壊されたままになっていた。誰も直していない。直す人手がなかったのだ。

 

 俺は兵を出して、水路を直させた。

 

 直しながら、俺は少し可笑しくなっていた。用心棒として川で刀を振っていた男が、内陸の村で溝を掘っている。

 

「何を笑ってるんですか」

 

 蓮華さまが不審そうに聞いてきた。

 

「――いや。人生というのは、ままならんものだと思ってな」

 

「変な人ですね」

 

 この頃、この人は俺に対して遠慮しなくなっていた。

 

 九つで椀を運んできた子が、十五で「変な人ですね」と言う。俺は、それが少し嬉しかった。

 

 もう一人、遠慮しない者がいた。

 

 一番下の子だ。八つになっていた。

 

「そこう! 勝負しよう!」

 

 その日、庭で帳面を読んでいると、いきなり木の槍を突きつけられた。

 

 小蓮さまは、この頃、姉たちの真似をして武器を振り回すのに夢中だった。木の棒を槍だと言い張り、庭の木を敵だと言い張り、朝から晩まで突き回している。

 

「勝負とは、何をだ」

 

「けんかだよ! わたし、つよいんだから!」

 

「そうか。だが、俺は今、帳面を読んでいる」

 

「よんでからでいい!」

 

「読み終わるのは日が暮れる頃だ」

 

「じゃあ、まつ!」

 

 その子は、本当に俺の隣に座って待ち始めた。

 

 半刻ほど我慢して、そのあと寝た。

 

 俺は、寝てしまった子を抱えて部屋まで運んだ。抱えると、三年前より重くなっていた。当たり前だ。あのときは三つだった。

 

 運びながら、俺はふと考えた。

 

 この子は、姉二人が戦場へ出るのを見て育っている。姉たちがやることは自分もやるものだと思っている。だが、姉たちが背負っているものが何なのかは、まだ知らない。

 

 知らないままでいてほしい、と思ったのを覚えている。

 

 その願いは、いずれ叶わなくなる。

 

 平穏が終わったのは、その年の暮れだった。

 

 都から、続けざまに報せが来た。

 

 最初の報せは、帝が崩じたというものだった。

 

 次の報せは、宮中で宦官が皆殺しにされたというものだった。

 

 三つ目の報せが来たとき、俺は幕の外にいたが、中から孫堅どのの怒鳴り声が聞こえてきた。

 

 入ってみると、卓がまた一つ割れていた。

 

「――董卓、だと」

 

 孫堅どのは、木簡を握り潰さんばかりにしていた。

 

「涼州の連中を引き連れて都に入った。帝を廃して、別の子を立てた。……宮中を好き放題にしてやがる」

 

 周瑜どのが、脇から静かに言った。

 

「兵を持った者が都に入り、帝を挿げ替えた。……これは、もう朝廷が朝廷ではないということです」

 

「そういうことだ」

 

「文台さま。おそらく、諸方へ檄が飛びます」

 

 周瑜どのの見立ては、この時も当たった。

 

 年が明けてすぐ、袁の家から檄が来た。

 

 董卓を討つべし。諸侯は兵を挙げよ。盟主は袁紹。孫堅は袁術の指揮下に入り、先鋒を務めよ。

 

 俺がその文面を読んだとき、真っ先に思ったのは、五年前の絹の袍の男のことだった。

 

 結局、この家の下に戻るのか、と。

 

 その晩、孫堅どのは全軍を城の庭に集めた。

 

 三千を超える兵の前に立って、その人は、いつも通りの馬鹿でかい声で言った。

 

「北へ行く! 都へだ! 董卓ってのが帝を挿げ替えて、宮中で好き放題やってるらしい! オレたちはそれを叩きに行く!」

 

 兵が沸いた。

 

 だが、孫堅どのは手を上げてそれを止めた。

 

「言っとくがな! オレは帝のために行くんじゃねぇ!」

 

 庭が静かになった。

 

「オレは帝の顔も知らねぇ! 都に行ったこともねぇ! 興味もねぇ! ……だがな、兵を持った奴が、都で好き放題やって、それを誰も止めねぇってのは、どういうことだ!」

 

 その人は、庭の兵を睨め回した。

 

「そういう世の中じゃ、この長沙で租を集めて、田を直して、村を守ってても、いつか同じ奴が来る! 来て、全部持って行く! ……オレは、それが我慢ならねぇ! だから行く! それだけだ!」

 

 俺は、その言葉を、庭の隅で聞いていた。

 

 五年前、この人は幕の中で「オレは賊にはならねぇ」と言った。あのときのこの人と、今のこの人は、同じことを言っている。ただ、言う相手の数が三千に増えていた。

 

 出陣の支度で、いちばん揉めたのは留守の話だった。

 

「私も行く」

 

 雪蓮さまがそう言い、孫堅どのが即答した。

 

「来い」

 

 次に蓮華さまが口を開いた。

 

「では、私も」

 

「駄目だ」

 

 この即答も早かった。

 

「なぜですか」

 

「留守がいる。オレと雪蓮が抜けたら、この郡を見る奴がいねぇ」

 

「祭がいます。子渡もいるでしょう」

 

「祭は連れて行く。楚航も連れて行く」

 

 俺は、そこで顔を上げた。

 

「――俺もか」

 

「貴様もだ」

 

「陸の戦だぞ。俺は使えん」

 

「使うところがある」

 

 孫堅どのは、地図を広げて、指で二本の線をなぞった。

 

「都までの道は、川を三本渡る。連合の連中は、みんな陸から来る。渡し場は取り合いだ。……そこで舟の差配ができる奴が要る。それと、糧を運ぶのに水路が使える。使えりゃ、荷駄が半分で済む」

 

 俺は、地図を見た。

 

 確かに、その通りだった。俺のような男にも、陸の戦で使い道はある。ただし、それは先頭に立つ役ではない。

 

「……わかった」

 

「不服そうだな」

 

「不服ではない。だが、俺は自分が渡し場の差配をしているあいだに、あんたが先頭で暴れているのを想像した。それが心配なだけだ」

 

 孫堅どのは、げらげらと笑った。

 

「心配すんな。オレは死なねぇよ」

 

 その言葉を、俺はこのあと何度も思い出すことになる。

 

 結局、留守は蓮華さまが預かることになった。

 

 十五で、郡の留守居役だ。無茶な話だと俺は思ったが、この人は嫌だと言わなかった。ただ、静かに頷いて、それから俺のところへ来た。

 

「子渡。帳面のことなんですけど」

 

「うん」

 

「私が全部引き継ぎます。租も、村の数も、人の数も。……だから、あなたは安心して行ってください」

 

「助かる」

 

「ただ」

 

 その人は、そこで少し口ごもった。

 

「ただ、一つだけ、お願いがあります」

 

「なんだ」

 

「お姉様のこと、見ていてください」

 

 俺は、その言葉を聞いて、少し胸が詰まった。

 

「……あんたの姉上は、俺よりずっと強い」

 

「知っています。でも、強いから危ないんです。お姉様は、自分が勝てると思ったところには、必ず突っ込みます。……母様に似てるんです、そういうところ」

 

 その人は、まっすぐこちらを見ていた。

 

 九つのときから変わらない。人見知りのくせに、言うべきときだけは目を逸らさない。

 

「わかった。見ている」

 

「約束ですよ」

 

「約束する」

 

 俺は、そのとき、もう一つ約束すべきだったのかもしれない。

 

 母上のことも見ている、と。

 

 言わなかった。

 

 言わなかったのは、あの人が死ぬなどということを、そのときの俺が本気で考えていなかったからだ。

 

 出立の朝、小蓮さまが泣いた。

 

 自分も行くと言い張って、蓮華さまに押さえつけられ、それでも門まで追いかけてきて、最後は地面に座り込んで泣いた。

 

 俺は列を離れて、その子のところへ戻った。

 

「小蓮さま」

 

「やだ! いく! わたしもいく!」

 

「行けん。だが、頼みがある」

 

「たのみ?」

 

 その子は、泣きながら顔を上げた。

 

「留守を頼む。あんたの姉上が一人で郡を見るのは大変だ。手伝ってやってくれ」

 

「……わたし、そろばんできない」

 

「そろばんはいい。姉上が疲れているときに、隣にいてやればいい。それはあんたにしかできん」

 

 小蓮さまは、しばらく鼻をすすっていた。

 

 それから、思い切り腕で顔を拭いて、こう言った。

 

「わかった。……でも、かえってきたら、しょうぶだからね」

 

「わかった。帰ったら勝負しよう」

 

 俺は、その子の頭を撫でて、列に戻った。

 

 この約束を、俺はきちんと果たした。

 

 果たしたのは、それから二年近く経ってからだ。そして果たしたときには、この子はもう泣かない子になっていた。

 

 長沙を発ったのは、春の初めだった。

 

 列の先頭に孫堅どのがいて、少し後ろに雪蓮さまと周瑜どのがいて、俺は荷駄のほうにいた。渡し場の差配をするなら、そこにいるのが正しい。

 

 北へ向かう道の途中で、一度だけ、大きな川を渡った。

 

 俺は舟を並べて浮橋を組み、三千を渡らせた。半日で渡し終えた。荷駄も一つも落とさなかった。

 

 渡り終えて、最後に自分が舟に乗ったとき、俺は南のほうを振り返った。

 

 この川は、長江の支流だ。下れば、いつかあの川に出る。四十一の烽火があり、二百三十人が残っている川に。

 

 戻れるだろうか、と思った。

 

 思っただけで、口には出さなかった。

 

 この年——初平元年。

 

 俺たちは洛陽へ向かい、そこで、これまで見たこともない規模の戦を見ることになる。

 

 そして、その一年半後に、俺は主君を喪う。

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