長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
諸侯の連合というものを、俺はこのとき初めて見た。
見て、最初に思ったのは、これは軍ではないということだった。
陣は十以上に分かれていた。それぞれが自分の旗を立て、自分の柵を作り、自分の炊事場を持っている。境目には見張りが立っていて、隣の陣の兵が近づくと追い返す。味方同士でだ。
数だけは、途方もなかった。全部合わせれば十万を超えるという。俺の目には、その十万が一つの塊には見えなかった。十の塊が、たまたま同じ野に並んでいるだけだった。
「壮観じゃのう」
柵の上から眺めながら、黄蓋どのが言った。声には、ひとかけらの感心もこもっていなかった。
「壮観に見えるか」
「見えんよ。……わしは長いこと兵を見とるがな、ああいうのは動かんぞ。誰も先に損をしたくないと思っとる顔じゃ」
「では、誰が先に動く」
「決まっとろうが」
黄蓋どのは、自分の陣を親指で示した。
孫堅軍の旗は、連合の最前だった。
先鋒である。
この配置を誰が決めたのかは、聞くまでもなかった。
俺の仕事は、渡し場と荷駄の差配だった。
都までの道には川が三本ある。連合の諸侯はいずれも陸から来ているので、渡し場の使い方を知らない。板を並べただけの粗末な浮橋を作って、荷車を落とし、馬を溺れさせ、そのたびに半日を無駄にしていた。
俺は舟を四十艘ばかり集めて——孫堅どのが諸方から借り集めたものだ——浮橋を三つ組んだ。組んだ橋を、こちらの都合で開け閉めできるようにした。
これが、思わぬ効き目を持った。
橋が使えるのはうちだけになったので、他の陣が荷を渡したいときは、こちらに話を通しに来る。話を通しに来るということは、その陣が何を運んでいるかがわかるということだ。
「――隊長。今日、袁紹どのの陣に米が三百石入りました」
半月ほどした頃、阿六が帳面を持ってきた。この男も、長沙まで、そして北まで、結局ついてきていた。
「三百か。多いな」
「はい。それと、公孫のところに二百。……曹操どのの陣は自前で回してるみたいで、うちの橋は使ってません」
「うちには」
「……八十石です」
俺は帳面を睨んだ。
「先月は」
「百二十でした。先々月は百五十です」
減っていた。
しかも、うちだけが減っていた。
孫堅軍は三千を超える。先鋒である。前に出るぶん、消費は他より多いはずだった。それが月ごとに削られている。
俺は帳面を持って、周瑜どののところへ行った。
この人は、長沙を出てからずっと雪蓮さまの脇にいる。軍議の場では、たいてい一番後ろに座って、誰よりも先に結論を出していた。
「――なるほど」
周瑜どのは、帳面を一瞥しただけで頷いた。
「予想はしておりましたが、思ったより露骨ですね」
「理由に心当たりが」
「三つほど。どれも同じ根です」
この人は、卓の上に指で三つの点を置いた。
「一つ。文台さまが先鋒で功を立てすぎている。連合の中で名が上がりすぎました。二つ。長沙は太守の座を朝廷から直に頂いたもので、袁の家を通しておりません。あちらから見れば、飼い犬が勝手に飯を見つけてきたようなものです。三つ」
周瑜どのは、そこで少し声を落とした。
「都を落としたとき、文台さまが何かを手に入れるのではないかと疑われている」
「何かとは」
「さあ。ですが、疑う側は具体的なものを思い描いておりますよ。……そういう疑いは、証拠がないほうが強く育ちます」
俺は、しばらく黙っていた。
「では、糧が止まっているのは」
「首輪の紐を短くしているのです。走れないくらいには短く、死なないくらいには長く。……あちらは、そう加減しているつもりでしょう」
「加減が下手だ。八十石では、二十日で尽きる」
「ええ」
周瑜どのは、はっきりと言った。
「下手です。あちらは、兵が一日にどれだけ食うかを、本当のところ知らないのでしょう」
その八十石が、翌月には来なかった。
ひと粒もだ。
俺は渡し場で三日待ち、四日目に上流まで舟を上らせた。荷の集積所には、米が積んであった。積んだまま、動いていなかった。
俺は係の役人に理由を聞いた。役人は、目を合わせずにこう言った。
「――上のご指示がありませんので」
俺は、その場で言い返さなかった。言い返しても、この男には何の権限もない。
陣へ戻って報告すると、幕の中がしんと静まった。
孫堅どのは、しばらく黙って座っていた。
それから、あぐらのまま、天井を見上げて言った。
「三日だな」
「――三日?」
「兵が耐えられるのが三日だ。四日目から逃げ出す。五日目には隣の陣から盗み始める。六日目には味方同士で斬り合う。……オレは長沙でそれを見てる」
「では、どうする」
「行くしかねぇだろ」
その人は立ち上がった。
「馬を出せ。オレが行く」
周瑜どのが、静かに口を挟んだ。
「文台さま。感情のままに行かれると、相手の思う壺です」
「わかってる」
「わかっておられません。あちらは、あなたが怒鳴り込んでくるのを待っております。怒鳴り込めば、それを口実に糧を止めたまま、あなたを不服従として処断できる」
孫堅どのは、周瑜どのを見下ろした。
この二人が正面から向き合うのを、俺はこのとき初めて見た。
「……で、貴様はどうしろと」
「行くのは正しい。行かねば飢えます。ですが、怒鳴ってはいけない」
周瑜どのは、微塵も引かなかった。
「あちらが恐れているのは、あなたが手柄を独り占めして自立することです。ならば、恐れる理由がないことを、あちらの利で語ってください。感情ではなく、勘定で」
「面倒くせぇな」
「面倒です。ですが、あなたが今この場で殴られて困るのは、あちらではなくこちらです」
しばらく、孫堅どのは周瑜どのを睨んでいた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……気に入らねぇが、正しい。楚航、貴様も来い」
「俺が」
「糧の帳面を持ってる奴が要る。数字を出せるのは貴様だ」
袁術の本陣までは、馬で半日かかった。
俺は馬に乗れないので、荷馬車の後ろに乗せてもらった。情けない話だが、この際仕方がなかった。
着いてみると、そこは陣というより屋敷だった。柵の中に幕ではなく板張りの建物が建ち、庭には敷石まで敷いてある。都から運ばせたのだろう。運ぶ手間を考えると、目眩がした。
通されるまで、二刻待たされた。
孫堅どのは、その二刻を庭に立ったまま過ごした。座れと言われなかったからだ。
俺は横で、この人がいつ爆発するかを心配していた。だが、この人は動かなかった。腕を組んで、じっと立っていた。
ようやく通されたとき、袁術という人は、奥の座に据わったまま、こちらを見もしなかった。
まだ若かった。年は二十そこそこに見えた。脇に女官のような者が控えていて、実際に口を利くのはそちらのようだった。
「――孫堅どの。何用ですかな」
脇の者が言った。
「糧のことだ」
孫堅どのは、庭で立っていたときと同じ調子で言った。声を張ってもいなかった。
「今月、うちに一石も届いていない。手違いなら正してもらいたい」
「手違いではございません」
「なら、理由を聞かせてくれ」
「理由と申しますか。……昨今、孫堅どののご威勢が、いささか目立ちすぎるという声がございましてな。功を独り占めなさるおつもりではないか、と」
「そりゃ、誰の声だ」
「諸方の声でございます」
孫堅どのは、そこで初めて、少し笑った。
俺は身構えた。この人が笑うときは、たいてい何かが始まる。
「なるほどな。……じゃあ、勘定の話をしようか」
その人は、俺のほうへ手を出した。
俺は帳面を渡した。
「うちの兵は三千二百。一日に食う米が、およそ三十二石だ。今月来た糧はゼロ。先月は八十石。八十石は二日半で消える。残り二十七日、うちは何を食ってると思う」
「……」
「近隣の村から買ってる。銭で、だ。長沙から持ってきた銭でな。もう尽きかけてる」
孫堅どのは、帳面を卓の上に置いた。
「で、ここからが本題だ。銭が尽きたら、うちの兵はどうすると思う」
脇の者が、初めて口ごもった。
「奪うんだよ」
孫堅どのは、静かに言った。
「三千二百人が、近隣の村から奪う。オレは止める。止めるが、全部は止められねぇ。……で、その村は誰の領内だ? 豫州だな。誰の領内だ?」
奥の座で、袁術という人が、初めてこちらを見た。
「連合の先鋒が、味方の領内で略奪を始めた。……そういう話が広まったとき、恥をかくのは誰だ。オレか? オレは元から野盗上がりだと言われてる。今さら評判なんぞ落ちようがねぇ」
誰も口を利かなかった。
「オレが功を独り占めするのが心配だってのは、わかった。もっともだ。……だから、こうしよう」
孫堅どのは、指を一本立てた。
「都を落としたとき、オレが最初に入る。入って、蔵も宮も、全部そのまま封をする。手はつけねぇ。そのうえで、あんたに先に見せる。何が出てきても、あんたが先だ」
俺は、思わず横目でこの人を見た。
その約束が、あとでどれだけの厄介を生むかを、たぶんこの人はわかっていた。わかっていて言った。
「そのかわり、糧をよこせ。三十二石の三十日分だ。九百六十石。……多くはねぇだろ。あんたのところの敷石を運ぶ手間より安い」
最後の一言だけは、余計だった。
だが、糧は出た。
その日のうちに、六百石。残りは追って、という条件つきだったが、とりあえず兵は飢えずに済んだ。
帰りの荷馬車で、孫堅どのは珍しく黙りこくっていた。
「――よく我慢したな」
俺が言うと、その人は舌打ちをした。
「三回、殴りかけた」
「そう見えた」
「三回目は本気だった。……あの敷石の話をしたときだ。あれを言った時点で、こっちの勝ちは決まってたのにな。オレは余計なことを言う」
「言ったな」
「うるせぇよ」
孫堅どのは、そのあとしばらくして、ぽつりと言った。
「楚航。今日みたいなのがな、あと十年続く」
「……」
「オレが自分の土地を持っても、郡を一つもらっても、上には誰かがいる。誰かがいる限り、こういう朝がある。……嫌になるぜ」
俺は、その言葉に返す言葉を持たなかった。
だから、こう言った。
「なら、いなくすればいい」
孫堅どのが、こちらを見た。
「――貴様、それ、どういう意味かわかって言ってるか」
「わからん。だが、あんたはもう考えているだろう」
その人は、しばらく俺を見ていた。
それから、豪快に笑い出した。
「そうだよ。考えてる。……オレは、いつか誰の下にもいねぇようにする。雪蓮の代までかかるかもしれねぇがな」
笑い声は、荷馬車の車輪の音に紛れて消えた。
汜水関の攻めが始まったのは、その半月後だった。
連合の諸侯は、相変わらず動かなかった。動いたのは、先鋒の孫堅軍だけだった。
関は、山と山のあいだの隘路に築かれていた。俺のような水の男から見ると、あれは川の狭まったところと同じだ。狭いところでは数が意味を失う。三千で押しても、十万で押しても、一度に当たれる人数は同じだった。
俺の仕事は、後方の荷と、退き口の確保だった。
孫堅どのが先頭で、雪蓮さまが右翼、黄蓋どのが左翼。周瑜どのは本陣で全体を見ている。俺は一番後ろで、退くときの道を空けておく役だ。
その日の攻めは、うまくいかなかった。
関から出てきた将が、異様に強かった。
女だった。大柄で、大斧を振り回し、孫堅軍の先頭を三度押し返した。名は華雄と名乗ったらしい。名乗るということは、自信があるということだ。
三度目に押し返されたとき、右翼が崩れた。
俺は後方から見ていて、崩れ方が悪いのに気づいた。じりじり下がるのではなく、真ん中がぽっかり抜けている。あそこを突かれると、右翼は真っ二つになる。
俺は自分の隊——といっても、川から連れてきた者と、長沙で入った者を合わせて四百ほどだ——を動かした。
「阿六。旗を高く上げろ。ここに退けと伝えろ」
「隊長は」
「行く」
「後方の差配は――」
「差配する後方が無くなったら意味がない」
俺は走った。
右翼の裂け目に入ったとき、そこはもう乱戦になっていた。孫堅軍の兵が、後ろを向いて逃げ始めている。逃げる背中に、追い討ちがかかっていた。
俺は、逃げてくる兵の流れに逆らって前へ出た。
「――止まれ!」
声を張った。この十年で、これほど大きな声を出したことはなかったと思う。
「止まって振り返れ! 背中を向けるな! 背中を向けた奴から死ぬ!」
何人かが止まった。止まった者を見て、また何人かが止まった。
俺は前へ出て、追ってきていた敵の一団に踏み込んだ。
この日は、幸い晴れていた。肩は上がった。
三人斬って、四人目の槍を叩き落とし、五人目の脛を薙いだ。俺の隊の四百が追いついてきて、横に並ぶ。並べば、こちらのほうが数が多い。
二十を数えるうちに、敵の追い討ちは止まった。
俺は肩で息をしながら、右翼のほうを見た。
崩れた線が、少しずつ戻ってきている。
その真ん中に、雪蓮さまがいた。
馬を降りて、逃げた兵を一人ずつ引き戻していた。怒鳴ってはいなかった。腕を掴んで、顔を見て、何か言って、押し戻している。
俺が教えたことではない。
あの人が、自分で覚えたやり方だった。
その日の夕方、関から一隊が出てきた。
攻めきれずに退く孫堅軍を、追い討ちにかかったのだ。
殿は、俺が引き受けた。
こういうときのために俺がいる。それだけの理由だった。
四百で、追ってくる千を止めなければならない。まともにやれば潰される。だから俺は、山道の一番狭いところを選んで、そこに横一列で立った。
狭いところでは数が意味を失う。関の攻めで、俺が学んだばかりのことだった。
半刻ほど支えたところで、正面に馬が出てきた。
小柄な体つきだった。だが、乗り方が違った。馬と一体になっている乗り方だ。手にしているのは、細身の反った刀。
その騎手が、俺の目の前で馬を止めた。
「――なんや、あんた」
妙に軽い口調だった。
「後ろの連中はみんな逃げてんのに、あんただけ残っとるやん。しかも、逃げ足の遅い奴から順に後ろへ回しとる。……ようやるわ」
見られていたのか、と俺は思った。
「うちは張遼。字は文遠や。あんたは?」
「――楚航。字は子渡」
「聞いたことないなあ」
「無名だからな」
「そら結構」
その人は、にっと笑った。
敵意がなかった。いや、あるにはあるのだろうが、その笑い方には殺気よりも興味のほうが濃く出ていた。
「なあ、楚航はん。あんた、そこで何しとんの」
「見ればわかるだろう」
「わかるで。殿やろ。……せやけどな、殿ってのは、逃げる連中が全部抜けたら退くもんや。あんたのとこは、もう全部抜けとる。あんただけや、まだおるの」
俺は、後ろをちらりと見た。
その通りだった。俺の隊も、傷ついた者から順に退かせていた。残っているのは俺と、十人ほどだった。
「……もう少しだけ稼ぐ」
「なんでや」
「後ろに川がある。渡し場が一つしかない。あそこを渡り終えるまでは、追いつかれると全部落ちる」
張遼という人は、しばらく黙った。
それから、大げさに溜め息をついた。
「あー、もう。そういうこと言われたら、うち、追われへんようになるやん」
「――どういう意味だ」
「うち、そういうの好きやねん。逃げる味方のために残る奴。……昔からあかんのよ、そういうの見ると手が緩む」
その人は、刀を鞘に納めた。
「一回だけ、勝負したろ。うちが勝ったら退き。あんたが凌いだら、うちが引く。どや」
「――なぜ、そんなことを」
「せやかて、ここでうちが本気出したら、あんた死ぬやろ。死んだら、あんたの後ろの連中が川で詰まって、もっと死ぬ。……そんなん、後味悪いだけやん」
俺は、この人のことを、このとき正しくは理解できなかった。
ただ、断る理由もなかった。
三合だった。
一合目で、俺は刀を弾き飛ばされかけた。二合目で、脇を掠められた。三合目で、俺は柄を短く持ち直して、体ごとぶつかった。
馬が半歩下がった。
それだけだ。それだけだが、この人の馬が下がった。
「……ほお」
張遼どのは、感心したように目を細めた。
「今の、わざとやろ。うちの馬の脚に合わせて入ってきた。……あんた、馬に乗らんくせに馬の扱いを知っとるな」
「舟と同じだ。舟も馬も、止まるときが一番弱い」
「けったいな理屈やなあ」
その人は、笑って手綱を引いた。
「ええわ。うちの負け。……こっからは追わへん」
「――信じていいのか」
「信じんでもええけど、うちが嘘つく理由あるか?」
言われてみれば、なかった。
張遼どのは馬首を返しかけて、途中で振り返った。
「なあ、楚航はん」
「なんだ」
「あんたら、なんで戦いに来たん」
「……都で、兵を持った者が好き放題やっているからだ」
「へえ」
その人は、少し困ったような顔をした。
「うちの主は、そんなんちゃうんやけどなあ」
それだけ言って、今度こそ馬を走らせていった。
その言葉の意味を、俺が理解するまでには、まだ時間がかかった。
川を渡り終えたのは、日が完全に落ちてからだった。
こちらの損は、四百のうち三十七人。関の攻め全体では、孫堅軍で二百近く減っていた。
陣へ戻ると、孫堅どのは焚き火のそばに座って、自分の剣の刃こぼれを数えていた。
「――今日は、俺のせいだ」
俺が言うと、その人は顔を上げた。
「なんだそりゃ」
「右翼が崩れたとき、俺が動くのが遅れた。もう十数える早さで出ていれば、あそこまで裂けなかった」
「馬鹿。貴様が動いてなけりゃ、右翼は全部持って行かれてる」
孫堅どのは、剣を鞘に戻した。
「それより、殿はどうだった。追われただろ」
「追われた。だが、途中で退いてくれた」
「退いた?」
「張遼という将だ。……なぜ退いたのか、正直よくわからん」
その名を聞いて、孫堅どのは眉を上げた。
「聞いたことあるな。呂布の下の将だ。……妙な話だな。あそこの連中は、そんなに甘くねぇはずだが」
「甘いのとは違う気がした」
俺は、焚き火を見ながら言った。
「あの人は、こう言った。うちの主はそんなんじゃない、と」
孫堅どのは、しばらく黙っていた。
それから、火に薪を放り込んで、こう言った。
「……戦ってのは、面倒くせぇな」
「なぜだ」
「向こうにも言い分があるからだよ。それを聞いちまうと、勝ってもすっきりしねぇ」
その夜、雪蓮さまが俺のところへ来た。
右翼で兵を引き戻していたときの汚れが、まだ甲冑に残っていた。
「灘。今日、見てたでしょ」
「見ていた」
「私、ちゃんとできてた?」
こういう聞き方をするのは、たぶんこの人が不安なときだけだった。
「できていた」
「本当?」
「逃げる兵を怒鳴らなかったのがよかった。怒鳴られた兵は、二度目からもっと早く逃げる。……あんたは腕を掴んで顔を見た。あれは、俺は思いつかなかった」
雪蓮さまは、少し照れた顔をして、それから、隣に座り込んだ。
「ねえ、灘。私、今日ちょっと思ったんだけどね」
「なんだ」
「あなた、あの裂け目に自分から入っていったでしょ。四百連れて」
「入った」
「あれ、母様がやりそうなことよね」
俺は、少し驚いた。
「……そうか」
「そうよ。あなた、母様に似てきてるわ。自分では気づいてないでしょうけど」
言われてみれば、そうかもしれなかった。
十年近く、あの人のそばにいる。似ないほうがおかしいのかもしれない。
「それ、褒めているのか」
「半分ね」
雪蓮さまは、悪戯っぽく笑った。
「もう半分は、心配してるの。……母様、いつか無茶して死ぬと思うから」
俺は、そのとき、何と答えたか。
たしか、こう答えた。
「――あの人は死なん」
あの夜の自分を、俺は今でも殴りたい。