長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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岘山

荊州へ行けという下知が来たのは、連合から帰って三月も経たない頃だった。

 

 俺がその文を読んだのは、長沙の城の庭でだった。読み終わって、真っ先に思ったことを、そのまま口に出した。

 

「――早いな」

 

「早いのう」

 

 隣で祭どのが同じ文を覗き込んでいた。この人は人の手元を覗く癖がある。

 

「三月じゃぞ。三月で兵の傷が癒えると思うとるのか、あの家は」

 

「思っていないだろう。……いや、思っていないというより、たぶん数えていない」

 

 俺は、文を巻き直した。

 

「うちの兵が何人いて、そのうち何人が動けるか。あの家は、それを知らずに下知を出している。……知っていたら、こんな早さでは出さん」

 

「知らんで下知を出すのか」

 

「出す。……銭を貸す側が、借り手の懐を知らんのと同じだ。返せと言うだけなら、懐を知る必要がない」

 

 祭どのは、そこで盛大に鼻を鳴らした。

 

「うまいこと言うのう、あんたは」

 

「褒めるところが違う気がするが」

 

「褒めとらん。呆れとるんじゃ」

 

 軍議は、その日の夕方に開かれた。

 

 冥琳どのは、下知の文面を三度読んで、机の上に置いた。

 

「――これは、悪くない手ですね」

 

「悪くないだと?」

 

 孫堅どのが眉を寄せた。

 

「あちらから見れば、という意味です」

 

 この人は、卓の上に指で三つの点を置いた。この癖が出るときは、話が長くなる。

 

「一つ。荊州は豊かです。落とせばあちらの取り分になる。二つ。劉表どのは長江の中流を押さえておられる。潰せば南への道が開く。……そして三つ目が本命でしょう」

 

「言え」

 

「あなたが減ります」

 

 その人は、平然とそう言った。

 

「勝っても負けても、孫堅軍は削れます。削れた軍は、独り立ちすることができません」

 

 俺は、そこで口を挟んだ。

 

「――一つ聞かせてくれ、伯言どの」

 

「なんでしょう」

 

「うちが断ったらどうなる」

 

「賊になります」

 

「即答だな」

 

「即答できる程度には、明白な話です」

 

 冥琳どのは、そう言って少し笑った。

 

「今の我らは、朝廷から見れば『袁の家の下にいる孫堅の軍』です。あの家の口利きがあるから、長沙の太守でいられる。……断れば、口利きが消える。消えれば、我らは兵を三千持った野盗です」

 

「野盗は言い過ぎだろう」

 

「言い過ぎではありません。……楚航どの。あなたが川で用心棒をしていた頃、荷主に雇われずに刀を持って舟に乗っていたら、周りは何と呼びましたか」

 

 俺は、少し考えて、正直に答えた。

 

「……賊と呼んだな」

 

「そういうことです」

 

「なるほど。……つまり、うちは荷主のいない用心棒にはなれん、と」

 

「その通りです」

 

「わかりやすい。ありがたい」

 

「嫌味ですか」

 

「本気だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は策がわからん。だが、川の話に直してもらえればわかる。……これからも、そうしてくれると助かる」

 

 冥琳どのは、その言葉に少し目を細めた。

 

「……珍しいことを仰いますね」

 

「何がだ」

 

「わからないと、はっきり仰る方は少ないのです。たいていの武将は、わかった顔をして頷いて、あとで違うことをします」

 

「それは困るな」

 

「困ります。ですから、あなたのような方は助かります」

 

「では、これからも遠慮なく聞く。……で、勝てるのか」

 

「勝てます」

 

 冥琳どのは、即答した。

 

「劉表どのは守りの人です。城に籠って動きません。攻めるこちらが主導権を握れます。……ただし、勝ち方を間違えなければ、です」

 

「間違えるってのは」

 

 孫堅どのが聞いた。

 

「深追いです」

 

 この人は、そこで言葉を切って、主君を正面から見た。

 

「城を落とすまでは、必ず勝ちます。問題はそのあとです。荊州は広く、山が多い。逃げた敵を追って山へ入ると、地の利は完全に向こうにあります」

 

「山は面倒じゃな」

 

 祭どのが、腕を組んで言った。

 

「わしは長沙で山越とやり合うたが、あれは酷いもんじゃ。追うたら消える。消えたと思うたら上から石が降ってくる」

 

「石か」

 

「石じゃ。矢より石じゃ。山で怖いのは矢ではない。上から落ちてくるものじゃよ」

 

 俺は、その言葉を頭に留めた。

 

 留めたのに、あとで役に立てられなかった。

 

「――文台さま」

 

 冥琳どのが、念を押すように言った。

 

「今回だけは、私の言うところで止まってください」

 

「わかったよ」

 

 孫堅どのは、面倒くさそうに手を振った。

 

 その返事が、いかにも軽かった。

 

 軽かったので、俺は口を挟むべきだった。

 

 挟まなかった。

 

 挟まなかった理由を、俺は今でも覚えている。

 

 その日の俺は、荊州が水の国だと聞いて、少し浮かれていたのだ。

 

 出陣は、その半月後だった。

 

 道中、俺は雪蓮さまと並んで歩いた。この人は馬に乗れるのだが、行軍の半分は降りて歩く。母親の癖だという。

 

「ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「荊州って、どんなところ?」

 

「行ったことはない。……だが、水の国だと聞いている」

 

 俺は、そう言って、道の脇の溝を指した。

 

「見ろ。この辺りから、溝の水が濁ってきている」

 

「濁ってる? ……そう?」

 

「濁っている。長沙の水はもっと澄んでいた。……ということは、この先に大きな川がある。大きな川は泥を運ぶ。運ばれた泥が、こういう小さな溝にも入ってくる」

 

「へえ」

 

「そして、泥が入る土地は、田に向く。田に向く土地は、人が多い。人が多ければ、城が多い」

 

 俺は、そう言った。

 

「つまり、この先は豊かだ。豊かで、城が多くて、川が縦横に走っている。……俺のような男には、ありがたい土地だ」

 

 雪蓮さまが、こちらを見た。

 

「あなた、水の話になると急に喋るわね」

 

「――そうか」

 

「そうよ。いつもは三言で終わるのに」

 

「三言はひどい」

 

「ひどくないわ。数えたもの」

 

「数えたのか」

 

「数えたわよ。昨日、あなた、私と話すのに『ああ』『そうだ』『わからん』しか言わなかったわ」

 

 俺は、そこで少し考えた。

 

「……それは、あんたの聞き方も悪い」

 

「なによそれ」

 

「昨日あんたが聞いたのは、『お腹すいた?』『まだ着かないの?』『疲れた?』の三つだ。……あれに三言以上で答えられる男がいたら、俺は尊敬する」

 

 雪蓮さまが、そこで吹き出した。

 

「……あなた、意外と言い返すのね」

 

「言い返す。俺は無口ではない。喋る理由があれば喋る」

 

「じゃあ、喋る理由をあげるわ」

 

 その人は、そう言って指を立てた。

 

「荊州で、あなたは何がしたい?」

 

「――それは、いい聞き方だ」

 

 俺は、素直にそう言った。

 

「川を見たい。荊州の川は、長江の支流が集まってできている。上流から来る水と、下流から上がってくる水がぶつかるところがあるはずだ。……そういう場所は、必ず面白い」

 

「面白いって、何が」

 

「渦ができる」

 

 俺は、そう言った。

 

「渦ができるところは、舟が沈む。だが、渦の形を知っていれば、そこは味方になる。……敵の舟だけ沈めることができる」

 

「……あなた、たまに怖いこと言うわね」

 

「怖いか」

 

「怖いわよ。渦の話をするときの顔が、すごく楽しそうだったもの」

 

 俺は、そこで自分の頬に手を当てた。自覚がなかった。

 

「……そうか。気をつける」

 

「気をつけなくていいわよ」

 

 雪蓮さまは、笑った。

 

「その顔のほうが、いつもより好きだもの」

 

 荊州に入って、緒戦は面白いように勝った。

 

 樊城を抜き、鄧城を抜き、ひと月で襄陽を囲んだ。劉表軍は野戦を避けて城に籠り、こちらは城の周りを固めて、ゆっくりと締め上げていく。

 

 俺の仕事は、漢水の水運だった。

 

 道より川のほうが速い。俺の隊は舟で糧を運び、渡し場を押さえ、城への補給路を断った。

 

 久しぶりに、俺は役に立っていた。

 

「――隊長、いい顔してますね」

 

 ある日、舟の上で阿六が言った。

 

「そう見えるか」

 

「見えますよ。連合にいたときと全然違う。あのときは、ずっと荷駄の勘定してましたもんね」

 

「あれも大事な仕事だ」

 

「大事ですけど、隊長には向いてないです」

 

「言うようになったな、お前も」

 

「隊長が向いてないことを、俺が言わなかったら誰が言うんですか」

 

 俺は、そこで少し笑った。

 

 この男も、川から拾ってずいぶん経つ。最初は「楚航どの」と呼んでいたのが、いつの間にか「隊長」になり、今では平気で軽口を叩くようになった。

 

「――阿六」

 

「はい」

 

「一つ聞くが、お前、荷駄の勘定と舟の差配と、どっちが好きだ」

 

「舟です」

 

「即答だな」

 

「即答ですよ。勘定は間違えたら怒られますけど、舟は間違えたら死ぬんで」

 

「それは好きな理由になっていない」

 

「なりますよ。死ぬほうが真剣になれるじゃないですか」

 

 俺は、その理屈をしばらく考えて、それから頷いた。

 

「……なるほど。悪くない」

 

「でしょう」

 

「だが、それを俺の前で言うな」

 

「なんでです」

 

「お前を死なせたくないからだ。……真剣になるのはいい。死ぬのは駄目だ」

 

 阿六は、そこで少し黙った。

 

 それから、櫓を握り直して、こう言った。

 

「……隊長、そういうこと、たまに言いますよね」

 

「言うか」

 

「言います。いつもは無口なのに、そういうことだけ急に言うんです。……ずるいですよ」

 

「ずるいのか」

 

「ずるいです。言われたほうは、返事に困るんですから」

 

 夏の初め、城の北で野戦があった。

 

 劉表軍の将――黄祖という男が、囲みを破ろうとして出てきた。孫堅どのが自ら迎え撃ち、一刻で崩した。

 

 崩れた黄祖軍は、南へ逃げた。

 

 俺は、その日、漢水の渡し場にいた。だから戦そのものは見ていない。

 

 報せを聞いたのは、日が傾いてからだった。

 

「文台さまが、追撃に出られました」

 

 俺は、そのとき何も思わなかった。追撃はよくあることだ。崩れた敵を追うのは、戦の作法として当たり前だった。

 

 次の一言で、腹の底が冷えた。

 

「――お一人で、三十騎ほどを連れて」

 

「三十?」

 

「はい。本隊を待たずに、先に」

 

 俺は、その場で棹を投げ捨てた。

 

「舟を返せ! 本陣へ戻る!」

 

「隊長、荷はどうします」

 

「置いていけ! 誰かに見張らせろ! ……いや、待て」

 

 俺は、そこで一度、頭を切り替えた。

 

 急ぐと、必ず何かを落とす。落としたものが、あとで効いてくる。

 

「荷は三艘ぶんだけ残せ。人は五人つけろ。……残りは全部、俺と来い。空にしろ。積んだままだと遅い」

 

「空ですか」

 

「空だ。……重い舟は上流へ上がれん。今から俺たちがやるのは、たぶん、上流へ上がることだ」

 

 本陣に着いたときには、冥琳どのがすでに馬を出させていた。顔色が白かった。

 

「――どこへ向かった」

 

「南です」

 

 この人は、地図を示した。指が震えていた。この人の指が震えるのを、俺は初めて見た。

 

「その先はここ――岘山です。山が二つ重なって、道が細い。……待ち伏せをするなら、荊州で一番良い場所です」

 

「なぜ止めなかった」

 

「止めました。三度」

 

 その一言に、俺は自分の口を塞ぎたくなった。

 

「三度。……ですが、あの方は『黄祖の首を今日中に取れば、この戦は終わる』と仰って。……確かに、それは正しいのです。黄祖は劉表軍の柱です。今日あれを取れば、城は落ちます」

 

「――正しいのか」

 

「正しい。正しいから、私は四度目を言えませんでした」

 

 冥琳どのは、そこで一度だけ、目を閉じた。

 

「私の落ち度です」

 

「――違う」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたの落ち度ではない。……いや、落ち度の話は今はいい。あとで好きなだけやってくれ。今は間に合わせる話をしよう」

 

 冥琳どのが、顔を上げた。

 

「間に合いますか」

 

「馬でどれだけかかる」

 

「一刻半。歩兵では三刻」

 

「舟なら」

 

 俺は、地図に指を置いた。

 

「漢水を遡って、この支流に入る。……この支流は、岘山の西の麓まで届いているはずだ。届いていれば、一刻を切る」

 

「はずだ、とは」

 

「行ったことがないからだ」

 

 俺は、正直に言った。

 

「だが、地図の川筋がここまで来ているなら、水はその先にもある。川は途中で消えん。細くなるだけだ。……細くても、俺の舟は入る。空にしてきた」

 

 冥琳どのは、しばらく俺を見ていた。

 

「……最初から、そのつもりで」

 

「そのつもりで舟を空にした。荷は捨てた」

 

「捨てられたのですか」

 

「捨てた。荷は買い直せる。……あの人は買い直せん」

 

 俺は、そう言った。

 

「舟を出す。祭どのと雪蓮さまには、馬で来るように言ってくれ。俺より遅いが、来ないよりましだ」

 

 舟は六艘出した。百二十人ほどだ。それ以上乗せると、支流の浅いところで底を擦る。

 

 俺は自分で舳先に立って、櫓を押す拍を取った。

 

 流れに逆らって遡るのは、下るより三倍きつい。男たちは半刻で肩が上がらなくなった。

 

「――拍を落とすな! 同じ速さで押せ!」

 

 俺は、そう怒鳴った。

 

「速く押そうとするな! 速く押すと、揃わん! 揃わんと進まん! ……今は、揃うことだけ考えろ!」

 

 その言葉が、自分に向いていることに、俺は途中で気づいた。

 

 焦っていた。

 

 焦っている男が舳先に立っていると、後ろの百二十人も焦る。だから俺は、自分の声を意識して低くした。

 

「――あと半刻だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「半刻押せば着く。着いたら、走るのは俺だ。お前たちは舟を守れ。……帰りに使う」

 

「隊長。帰りって」

 

「帰りだ。行ったきりにする気はない」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの人を担いで帰る。担いで帰るには、舟が要る。……お前たちの仕事は、そこにある」

 

 支流は、思ったより細かった。

 

 途中で二度、底を擦った。二度目のときに、俺は舟を降りて水に入り、船底を押した。冷たかった。

 

 山の西の麓に着いたのは、日が沈みかけた頃だった。

 

 俺は舟を捨てて、走った。

 

 山道に入ってすぐ、それはわかった。

 

 匂いだ。血と、馬の匂いがした。

 

 道の途中に、馬が倒れていた。腹に矢が三本刺さっていた。もう少し進むと、人が倒れていた。三人。全員こちらの兵で、全員が背中や首に矢を受けていた。上から射かけられた角度だった。

 

 俺は、道の両側の斜面を見上げた。

 

 岩と、木と、藪。人が隠れる場所しかなかった。

 

 ――上から落ちてくるものじゃよ。

 

 祭どのの言葉が、そこでようやく戻ってきた。

 

「――散れ」

 

 俺は低い声で言った。

 

「道の真ん中を歩くな。斜面の際を、木を背にして進め。……それから、上を見ろ。矢だけじゃない。石が来る」

 

「石ですか」

 

「石だ。この地形なら、必ず用意している。……音がしたら、まず横へ跳べ。上を見るな。見てからでは遅い」

 

 半町ほど進んだところで、それを見つけた。

 

 道が細くなって、両側から岩が迫っている場所だった。

 

 そこに、崩れた岩と、倒れた馬と、人が固まっていた。

 

 三十騎が、そこで止められていた。前に岩を落とされ、後ろから射かけられ、動けなくなったのだ。生きて動いている者は、数えるほどしかいなかった。

 

 その真ん中に、孫堅どのがいた。

 

 立っていた。

 

 剣を杖のようにして、片膝をついたまま、それでも上半身は起こしていた。

 

 肩と、脇腹と、腿に矢が刺さっていた。

 

 俺は走った。

 

 斜面の上から、矢が飛んできた。俺は木の陰に転がり込んで、それから怒鳴った。

 

「――孫堅どのっ!」

 

 その人が、顔を上げた。

 

 俺を見て、笑った。

 

 こんなときに笑うのかと、俺は本気で腹が立った。

 

「……楚航か」

 

「動くな! 今行く!」

 

「来るな」

 

 その声は、思ったよりはっきりしていた。

 

「上に五十はいる。貴様が出たら、貴様も同じことになる」

 

「知るか」

 

「――知るか、じゃねぇよ。落ち着け」

 

 孫堅どのは、そう言った。

 

「貴様は舟を持ってきたんだろ。何艘だ」

 

「六艘だ」

 

「なら、六艘ぶんの命を預かってんだよ、貴様は」

 

 俺は、その言葉に、一瞬止まった。

 

 止まって、それから、こう言い返した。

 

「――六艘ぶんの命を預かっている男が、五十人の伏兵の前で片膝をついている主君を置いて帰ったら、その六艘は次から誰の言うことも聞かん」

 

「……」

 

「あんたが教えたことだ。九年前、あんたは俺に自分の剣を寄越した。あれを持って行けと言った。……あのとき、あんたは自分の勘定より、俺の顔を立てた」

 

 俺は、木の陰から身を乗り出した。

 

「今度は俺の番だ。……そこを動くな。今から行く」

 

「馬鹿野郎」

 

 孫堅どのが、そう言った。

 

 言いながら、笑っていた。

 

 俺は、木の陰から飛び出した。

 

 あとになって、あれは正しくなかったと言われた。実際、正しくなかった。俺が出たことで、俺の隊の男が何人か続いて出て、そのうち四人が死んだ。

 

 だが、あのとき、俺には他の選択が思いつかなかった。

 

 道を斜めに走った。矢が来た。左の腿に一本入った。走った。もう一本、左の肩に入った。走った。

 

 孫堅どののところまで、十歩を切ったとき、斜面の上で音がした。

 

 岩だった。

 

 俺は、その音の意味を、体で知っていた。川で舟に乗っていると、崖から石が落ちる音を年に何度か聞く。あれと同じ音だった。

 

 横へ跳べ、と自分で言ったばかりだった。

 

 跳ばなかった。

 

 俺は、走る向きを変えて、孫堅どのの体の上に覆いかぶさった。

 

 背中に、山が乗ったような感覚があった。息が全部出て、入ってこなかった。左の脚のどこかで、何かが折れる感触があった。痛みは、なぜかすぐには来なかった。

 

 目を開けたとき、俺は地面に転がっていた。

 

 左の脚が、あらぬ方を向いていた。自分の脚なのに、他人のもののように見えた。

 

 すぐ横で、孫堅どのが俺を見ていた。

 

「……馬鹿かよ、貴様」

 

「――生きているか」

 

「生きてる。……貴様は、脚が駄目だな」

 

「見ればわかる」

 

「見なくてもわかるぞ。音がした」

 

「音を聞いていたのか」

 

「聞いてたよ。……嫌な音だった」

 

 俺は、腕だけで這って、孫堅どのの体を引き寄せようとした。

 

 動かなかった。

 

 この人の体は、俺が思っていたよりずっと重かった。矢が三本刺さったまま、血で地面に張りついていた。

 

「――やめとけ」

 

 孫堅どのが言った。

 

「引きずったら、もっと早く終わる」

 

「終わらせん」

 

「終わるんだよ」

 

 その声は、驚くほど落ち着いていた。

 

「腹をやられてる。……わかるんだ。こういうのは、自分でわかる」

 

 俺は、その言葉を聞きたくなかった。

 

 だから、別のことを言った。

 

「――あんた、俺に言っただろう。オレは死なねぇと」

 

「言ったな」

 

「嘘つきだ」

 

「悪かったよ」

 

 この人は、そう言って、また笑った。

 

 笑ったせいで血が出て、しばらく咳き込んだ。

 

「……なあ、楚航」

 

「なんだ」

 

「怒っていいぞ」

 

「――怒っている」

 

「もっと怒れ」

 

「怒ると、あんたが喜ぶだろう」

 

「喜ぶな。……だが、聞いときたい」

 

 その人は、そう言った。

 

「オレは、貴様に何回怒られた」

 

「二回だ」

 

 俺は、即答した。

 

「一回目は、六年前だ。川の連中を売る戦をしたら殴りに行くと言った。……あれは怒っていた」

 

「覚えてる」

 

「二回目は、今だ」

 

「今か」

 

「今だ。……三十騎で山に入るような主君は、俺は嫌いだ」

 

 孫堅どのは、そこで大きく笑おうとして、また咳き込んだ。

 

「……上等だ」

 

 そのあいだに、俺の隊が斜面の上へ回り込んだらしい。矢が止んだ。上のほうで斬り合いの音がして、それも遠ざかっていった。

 

「――楚航」

 

「なんだ」

 

「聞け。二度は言わねぇ」

 

 俺は、地面に転がったまま、その人のほうへ顔を向けた。

 

「雪蓮に、軍を渡せ。オレの名でだ。……あいつはやる。ただ、あいつは前に出すぎる。オレと同じだ」

 

「……」

 

「蓮華は後ろで守れ。あいつは前に出ねぇ。だから、誰かが引っ張り出さねぇと、一生後ろにいる。……あれは、いずれ前に立つ子だ」

 

「――言え」

 

「小蓮は」

 

 そこで、この人は少しだけ黙った。

 

「……あいつは、まだ何も知らねぇ。知らねぇままにしてやってくれ。できる限りでいい」

 

「わかった。……できる限りでいい、というのは、いつか無理になるという意味だな」

 

「そうだ」

 

「その日が来たら、俺が話す」

 

「頼む」

 

 孫堅どのは、そこで少し目を閉じた。

 

「あと一つ」

 

「なんだ」

 

「オレは、貴様に礼を言わねぇって言ったよな」

 

 俺は、その言葉を覚えていた。

 

 九年前、四十人のうち三十一人を連れ戻した夜だ。この人は、礼は言わない、かわりに覚えておけと言った。

 

「今日は、言う」

 

「……やめろ」

 

「うるせぇ。……楚航。ありがとうな」

 

 俺は、返事をしなかった。

 

 できなかった。

 

「オレはな、貴様を拾ったのが、たぶん一番上手くやったことだ。……長沙も、太守も、都も、どうでもいい。あの日、あの焼け跡で、貴様が柵のほうへ走ったのを見たのが、一番よかった」

 

 その人は、そこで空を見上げた。

 

 日が落ちて、山の上のほうがまだ少しだけ明るかった。

 

「……なあ、楚航。川が見てぇな」

 

「――見せてやりたいが、ここは山だ」

 

「知ってるよ」

 

「西へ半里下れば支流がある。俺の舟が六艘ある。……そこまで運べれば、川は見える」

 

「運べるか」

 

「運べん」

 

 俺は、正直に言った。

 

「俺の脚が、この様だ。担ぐ者は来るが、間に合わん」

 

「そうか」

 

「……すまん」

 

「謝るな」

 

 孫堅どのは、そう言った。

 

「かわりに、話せ。……川の話をしろ」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

 それから、話した。

 

「――今の時期の長江はな、濁っている」

 

 俺は、そう言った。

 

「上流の雪解けと雨が一緒くたに流れてきて、水が黄土の色になる。川幅が平時の倍近くまで膨れて、岸だったところが水の底に沈む。……去年まで舟を寄せられた砂州が、今年は影も形もない」

 

「……ふん」

 

「あの川は、毎年少しずつ形を変える。生き物みたいなものだ。……だから、二十年やっていても、毎年覚え直す」

 

「面倒だな」

 

「面倒だ。だが、面倒でないと飽きる」

 

 俺は、そう言った。

 

「濁った水は、いずれ澄む。澄んだ水はまた濁る。……俺は、その繰り返しのそばに、ずっと立っていた」

 

 孫堅どのは、しばらく黙っていた。

 

 やがて、こう言った。

 

「……いい話だな」

 

「そうか」

 

「うん。……オレは、そういうのを聞くのが好きだった」

 

 その人は、そこで目を閉じた。

 

「……あー。畜生」

 

「なんだ」

 

「もっとやりたかった」

 

 それが、最後だった。

 

 雪蓮さまが着いたのは、夜半だった。

 

 馬を飛ばしてきたらしい。道の上に立って、その人はしばらく動かなかった。

 

 俺は、地面に寝かされたまま、その背中を見ていた。

 

 やがて、その人は母親のそばに膝をついた。

 

 何も言わなかった。泣きもしなかった。ただ、母親の顔にかかっていた髪を、指で払っていた。何度も払っていた。もう払うものが残っていないのに、払い続けていた。

 

 それから、こちらを見た。

 

 目が合った。

 

 俺は、何か言わなければならなかった。

 

 言うべき言葉は、決まっていた。すまない、の一言だ。

 

 だが、俺の口から出たのは、そのどちらでもなかった。

 

「――間に合わなかった」

 

 雪蓮さまは、俺を見ていた。

 

 その顔には、怒りも、悲しみも、まだ浮かんでいなかった。何も浮かんでいなかった。

 

「……そう」

 

 それだけ言って、その人は視線を戻した。

 

 責められたほうが、どれだけ楽だったかわからない。

 

 俺は、そのあと、自分の隊の男に運ばれた。

 

 運ばれながら、暗い山道の上を見ていた。

 

 あの日、俺は祭どのから「山で怖いのは上から落ちてくるものだ」と聞いていた。

 

 聞いていて、部下にもそう言った。音がしたら横へ跳べ、と。

 

 自分は、跳ばなかった。

 

 跳ばなかった理由を、俺はずっとあとになるまで、うまく言葉にできなかった。

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