長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
葬儀の日、俺は立てなかった。
左脚は添え木で固められていて、膝から下が自分のものではないような感触だった。祭どのが自分で継いだ。継ぐ前に、この人はこう言った。
「若いの。歩けるようにはする。じゃが、元通りにはならん」
「……走れんか」
「走れん。速さは戻らんじゃろう」
「そうか」
「そうか、で済ますな。もうちょっと悔しがれ」
祭どのは、そう言って麻の糸を通した。
「あんた、いま何を考えとる」
「――考えていることは三つある」
俺は、天井を見たまま答えた。
「一つ。走れないなら、走らずに済む戦い方を覚えるしかない。舟の上なら、走る必要はない。踏ん張るのは腰と足の裏だ。……それは、たぶんまだできる」
「ふむ」
「二つ。俺の隊は、これから俺が先頭に立てなくなる。立てない者が長をやると、隊は緩む。……緩ませない方法を、今のうちに考えておかんといかん」
「三つ目は」
「三つ目は」
俺は、そこで少し言葉に詰まった。
「……あの人に、川を見せられなかった」
祭どのは、糸を引く手を止めた。
「――川を、か」
「最期に、川が見たいと言われた。西へ半里下れば支流があって、そこに俺の舟が六艘あった。……運べなかった。俺の脚がこの様だったからだ」
「……」
「だから、かわりに川の話をした。今の時期の長江は濁っている、と。……それしかできなかった」
祭どのは、しばらく黙っていた。
それから、また糸を通した。
「……若いの」
「なんだ」
「あの方はな、川の話を聞くのが好きじゃった」
「――知っている」
「知っとるのか」
「あの人が、そう言った。最期にだ。……いい話だな、と言われた」
祭どのの手が、そこでもう一度止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
「……そうか」
「そうだ」
「……なら、あんたは運んだのと同じじゃ」
この人は、そう言った。
「川は運べんかったが、川の話は届いた。……それでよい」
「よくない」
「よくないが、それでよい」
祭どのは、そう言って、麻の糸を切った。
十七針だった。
葬儀は、思っていたよりずっと簡素だった。
城の裏手に土を盛り、そこへ納めた。太守の葬儀としては、明らかに格が足りなかった。
理由は二つある。一つは、金がなかったこと。二つ目は、袁術の家から達しが来ていたことだ。
その文を読み上げてくれたのは、蓮華さまだった。
俺は寝床から動けなかったので、この人がわざわざ部屋まで来た。
文には、こう書いてあった。
――孫堅どのは、命に背いて深追いをし、自ら滅びた。功はあるが過も大きい。厚く弔うのは、他の将への示しがつかぬ。
この人は、最後まで抑揚を変えずに読んだ。
読み終わって、紙を丁寧に畳んだ。
畳み方が、やけに丁寧だった。角を揃えて、二回折って、それから懐に入れた。
「――蓮華さま」
「はい」
「それは、捨てんのか」
「捨てません」
この人は、そう言った。
「腹が立ちますね」
「……立つな」
「はい。でも、破ったら証拠がなくなるので、取っておきます」
俺は、その言い方に、思わず身を起こしかけた。
脚が痛んで、また倒れた。
「――大丈夫ですか」
「大丈夫だ。……いや、大丈夫ではないが、今のは脚のせいではない」
「では、何のせいですか」
「あんたの言い方に驚いた」
俺は、そう言った。
「証拠、と言ったな」
「言いました」
「証拠というのは、いつか誰かに見せるためのものだ。……あんたは、いつか誰かに見せるつもりでいる」
蓮華さまは、そこで少しだけ目を伏せた。
この人は、十五になっていた。
「……いつかは、わかりません」
「わからんが、取っておく」
「はい」
「いい判断だ」
俺は、そう言った。
「怒って破るのは簡単だ。破ったら、あとに何も残らん。……取っておけば、残る。残ったものは、いつか使える」
「使えますか」
「使える。……ただし、使えるまでに何年かかるかはわからん。二年かもしれんし、十年かもしれん」
俺は、そう言った。
「そのあいだ、あんたはそれを持って歩くことになる。……それは、けっこうしんどいぞ」
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……子渡。あなた、そういうものを持っていますか」
俺は、少し考えた。
「持っている」
「何をですか」
「帳面だ」
俺は、そう言った。
「昔、俺の隊で十九人死んだ。冬の飢饉だ。そのうち七人は、誰も名前を知らなかった。……俺は、それを『名を知らず』と書いた」
「……」
「書いても、誰の役にも立たん。あの七人は帰ってこん。……だが、書かないと、いなかったことになる」
蓮華さまは、俺を見ていた。
「だから、あんたのそれも同じだ」
俺は、そう言った。
「畳んで持っておけ。使う日が来なくてもいい。……持っている者がいる、というだけで、たぶん違う」
この人は、そこで初めて、少し表情を緩めた。
「……はい」
「それと、一つ頼みがある」
「なんですか」
「その紙、どこに仕舞ったか俺にも教えておいてくれ」
「――なぜですか」
「あんたに何かあったとき、代わりに持つ者が要る」
俺は、そう言った。
「一人で持つものは、その一人が消えたら消える。……二人で持てば、二倍残る」
蓮華さまは、しばらく俺を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……わかりました」
「頼む」
「あの、子渡」
「なんだ」
「……あなた、寝ているのに、よく喋りますね」
「寝ているから喋る」
俺は、そう言った。
「動けんからな。動けるうちは、喋る暇があったら動いていた」
軍が召し上げられたのは、その半月後だった。
袁術の家から使いが来て、こう言った。
孫堅どのの兵は、朝廷が孫堅どのに預けたものである。孫堅どのが亡くなった以上、これは家の管理に戻す。
三千二百のうち、二千五百が持っていかれた。
残ったのは七百。それも、名目上は「孫家の私兵」ではなく「袁術の家に置かれた孫家の者」という扱いになった。
長沙の太守も取り上げられた。かわりに、雪蓮さまには何の官職も与えられなかった。二十二の娘に郡を任せるわけにはいかない、というのが理由だった。
その日、俺は初めて杖をついて歩いた。
歩いて、城の広間へ行った。
行かなければ、名簿の照合ができないからだ。
「――楚航どの。あなたは寝ていてください」
冥琳どのが、そう言った。
「寝ていられん。二千五百人の名簿を、あんた一人で照合する気か」
「一人ではありません。蓮華さまと二人です」
「二人でも足りん」
俺は、そう言って、卓の前に腰を下ろした。下ろすのに、少し手間がかかった。
「三千二百のうち、どれを持っていくかは向こうが選ぶ。……こちらが黙っていると、使える者から順に持っていかれる」
「そうでしょうね」
「だから、こちらから名簿を出す」
俺は、そう言った。
「向こうが選ぶ前に、こちらが『この七百は残す』と決めて渡す。……理由をつけてな」
「理由、ですか」
「理由だ。……たとえば、こう書く。『この者たちは水に慣れており、陸の戦には不向きである』と」
冥琳どのが、そこで目を細めた。
「……なるほど」
「わかるか」
「わかります。……向こうは、陸の兵が欲しい。水にしか使えない者を持って行っても、荷になるだけです」
「そうだ」
「そして、その七百が水軍として残る」
「残る」
俺は、そう言った。
「舟は取り上げられるかもしれん。だが、人が残っていれば、舟はいつか作れる。……逆はできん」
冥琳どのは、しばらく俺を見ていた。
それから、少し笑った。
「……楚航どの」
「なんだ」
「あなた、策がわからないと仰っていましたね」
「わからん」
「今のは策です」
「――これは策か」
「策です。しかも、悪くない」
この人は、そう言った。
「私が同じことを考えるのに、たぶん半刻かかります。あなたは即座に出された。……それは、あなたが二十年、人と舟を数えてきたからです」
「では、俺は策がわかるのか」
「軍略はわかりません」
冥琳どのは、はっきりと言った。
「ですが、人と物の勘定はわかる。……戦は、半分がそれです」
「半分か」
「半分です。残り半分が、私の仕事です」
「では、二人で一人前だな」
俺が言うと、この人は少しだけ吹き出した。
「……そういう言い方をなさる方でしたか」
「どういう言い方だと思っていた」
「もっと、無口な方かと」
「無口ではない」
俺は、そう言った。
「喋る理由があれば喋る。……今は、七百人の名前がかかっている。喋る理由としては十分だ」
名簿は、三日かけて作った。
俺と、冥琳どのと、蓮華さまの三人でだ。
三日目の夜、蓮華さまが筆を止めて、こう言った。
「……子渡。この人、迷います」
「どれだ」
「李という者です。水にも慣れていますが、陸でも使えます。……向こうが欲しがるかもしれません」
「そいつは、身内がいるか」
「え?」
「身内だ。妻子か、親か」
蓮華さまは、慌てて別の紙をめくった。
「……います。母親と、妹が二人」
「では、残す」
俺は、即答した。
「――理由を聞いていいですか」
「二つある」
俺は、そう言った。
「一つ。持って行かれた兵は、どこで死ぬかわからん。あの家の戦に使われて、どこかの野で死んで、名前も帰ってこん。……身内がいる者を、そこへ出したくない」
「……」
「二つ。身内がいる者は、逃げん」
俺は、そう言った。
「うちが苦しくなったとき、身寄りのない者は逃げられる。逃げる先があるからな。だが、母親と妹二人を抱えている男は、この土地から離れられん。……七百のうち、そういう者が多いほうが、隊は保つ」
蓮華さまは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……一つ目と二つ目、矛盾していませんか」
「――ん?」
「一つ目は、その人のために残すという話です。二つ目は、こちらの都合で残すという話です」
俺は、その指摘に、少し詰まった。
詰まってから、正直に言った。
「――矛盾している」
「していますよね」
「している。……だが、俺は両方本当だ」
俺は、そう言った。
「あの男を守りたいのも本当で、隊を保ちたいのも本当だ。片方だけを言うと嘘になる。……だから両方言った」
蓮華さまは、そこでしばらく俺を見ていた。
それから、紙に書き込んだ。
「……わかりました。残します」
「頼む」
「あの、子渡」
「なんだ」
「私、その考え方、覚えておきます」
「――どっちをだ」
「両方本当でいい、というほうです」
この人は、そう言った。
「私、どちらか片方が正しいはずだと思って、いつも考え込んでいました。……両方でいいなら、少し楽です」
名簿は、そのまま通った。
向こうは、七百のうち一人も持って行かなかった。
冥琳どのの読み通りだった。
俺たちが長沙を出たのは、その年の暮れだった。
与えられたのは、荊州の袁術の膝元にある館だった。
与えられた、という言い方は正しくない。
置かれた、というほうが近かった。
名目上は客だった。実際には、出るのに許しが要り、出れば必ず誰かがついてきた。
その館で、俺は脚の療養をした。
最初の三月は、立てなかった。
次の三月で、杖をついて歩けるようになった。
その次の三月で、杖なしで歩けるようになった。ただし、左足を引きずった。速く歩こうとすると、膝から下が言うことを聞かなくなって転んだ。
転ぶたびに、俺は自分に腹が立った。
三十を過ぎた男が、庭で一人で転んで、起き上がれずにいる。それを誰かに見られるのが、何より嫌だった。
だから、俺は夜中に歩く練習をするようになった。
誰も見ていない時間に、庭を端から端まで歩く。転ぶ。起きる。また歩く。それを毎晩やった。
三月ほど経ったある夜、庭の隅に人影があった。
小蓮さまだった。
十になっていた。木の棒を持って、そこに座っていた。
「……見ていたのか」
「うん。ずっと」
「ずっとというのは」
「はじめから」
俺は、その場に立ち尽くした。
この子は、俺が転ぶのを、三月のあいだ毎晩見ていたということだった。
「……なぜ、声をかけなかった」
「そこう、いやがるとおもったから」
その子は、棒で地面をつつきながら言った。
「おねえちゃんたちにも、いってないよ」
「――待て」
俺は、そこで少し慌てた。
「三月、誰にも言わずに、毎晩ここに座っていたのか」
「うん」
「寝てないのか」
「ねてるよ。そこうがおわってから、ねてる」
「……それは、寝る時間が足りん」
「たりてるもん」
「足りていない。……よし、決めた」
俺は、その場に座った。座るのに、少し手間がかかった。
「今夜から、あんたは俺より先に寝ろ」
「やだ」
「即答だな」
「だって、そこうがころぶの、だれかがみてないとだめだもん」
俺は、その言葉に、返す言葉を探した。
探して、見つからなかった。
「――では、こうしよう」
俺は、そう言った。
「あんたが見張るのはいい。だが、黙って見ているのはやめろ」
「なんで」
「つまらんからだ」
俺は、そう言った。
「三月も黙って人が転ぶのを見ているのは、退屈だっただろう」
小蓮さまが、そこで少し口を尖らせた。
「……たいくつだった」
「だろうな」
「うん。すごくたいくつ」
「では、退屈でないようにする」
俺は、庭の砂の上に線を引いた。
「勝負をしよう」
「しょうぶ?」
「前に、帰ったら勝負すると言った。……果たしていない」
「そこう、あるけないのに?」
「歩けなくてもできる」
俺は、そう言った。
「二人とも座る。膝は動かさない。棒で相手の肩に触れたら勝ちだ。腕と上半身だけ使う。……これなら、俺でもできる」
小蓮さまは、しばらく考えた。
それから、勢いよく立ち上がった。
「やる!」
「よし。……ただし条件がある」
「じょうけん?」
「三つだ」
俺は、指を立てた。
「一つ。俺が転んだら、手を貸せ。黙って見ているな」
「うん」
「二つ。眠くなったら帰れ。俺は逃げん」
「うん」
「三つ」
俺は、そこで少し考えた。
「三つ。……俺に勝ったら、そのたびに一つ、俺に何か教えろ」
小蓮さまが、きょとんとした顔をした。
「おしえる?」
「そうだ。何でもいい。今日あったこととか、姉上たちのこととか、飯が不味かったとか」
俺は、そう言った。
「俺は今、この館から出られん。出られんと、何も知らんまま老けていく。……あんたが教えてくれると助かる」
小蓮さまは、しばらく考えていた。
それから、にっと笑った。
「じゃあ、いっぱいかつね」
「勝てるかな」
「かつよ!」
その日は、俺が三度勝って、二度負けた。
わざと負けたのではない。この子は、思っていたよりずっと筋がよかった。腕の伸ばし方に無駄がなく、こちらの間合いに入るのが速い。
二度負けたので、この子は二つ教えてくれた。
一つは、館の裏の井戸に蛙が住んでいること。
もう一つは、雪蓮さまが最近、夜に部屋から出て行くことだった。
俺は、その二つ目を聞いて、少し引っかかった。
その話を持ってきたのは、冥琳どのだった。
翌日の夕方、この人は俺の部屋に来て、前置きもなくこう言った。
「雪蓮のことです」
「――何かあったか」
「あの子は、まだ泣いておりません」
俺は、その言葉の意味を、しばらく考えた。
「……葬儀から、半年以上経っているぞ」
「経っております」
「その間、一度もか」
「一度もです」
冥琳どのは、そう言った。
「私が知る限りでは、一度も。……あの子は、泣かないのではなく、泣けなくなっている」
「――違いがあるのか」
「あります」
この人は、はっきりと言った。
「泣かない者は、泣く場所を選んでいるだけです。……泣けない者は、選ぶ余裕すら残っていない」
俺は、その説明を、しばらく胸の中で転がした。
「……で、あんたは何をしに来た」
「頼みに来ました」
「聞こう」
「あの子を、泣かせてください」
俺は、その頼みに、正直に困った。
「――無茶を言うな」
「無茶です」
「俺は、人を泣かせるのが得意な男ではない」
「存じております」
「だいたい、なぜあんたが行かん。あんたのほうが長い付き合いだろう」
「行きました。三度」
冥琳どのは、そう言った。
「三度とも、『大丈夫よ』と笑って言われました」
「……」
「あの子は、私が大丈夫でないと困ることを知っております。私が崩れたら、この家に立っている者がいなくなる。……だから、先に自分が立って見せる」
この人は、膝の上で手を組んでいた。
「昔からです。七つの頃から、あの子は私に弱いところを見せません」
俺は、その言葉を聞いて、少し意外に思った。
「――そうなのか」
「そうです」
「あの人は、俺には割と何でも言うが」
「知っております」
冥琳どのは、そこで少しだけ間を置いた。
「……それが、腹立たしいのです」
俺は、思わずこの人の顔を見た。
冥琳どのは、俺を見ていなかった。膝のあたりを見ていた。
「――待て。それは」
「言わないでください」
「言う。……あんた、それを俺に言いに来たのか」
「違います」
「では、なぜ言った」
「……口が滑りました」
この人は、そう言った。
そして、少し顔を上げた。
「楚航どの。ずるいことを申します」
「聞こう」
「今のあなたは、弱っておられます」
「――それは、事実だ」
「事実です。……動けない人間の前では、人は取り繕うのをやめることがある。相手が自分より弱っていると、気を張る必要がなくなるからです」
俺は、その理屈を聞いて、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「――ひどい理屈だな」
「ええ。自分でも思います」
「使えるものは使う、か」
「使います」
「わかった。使え」
俺は、そう言った。
「ただし、条件が一つある」
「なんでしょう」
「上手くいかなかったときに、あんたが自分を責めるな」
冥琳どのが、そこで顔を上げた。
「……なぜ、それを」
「あんた、岘山のあとで『私の落ち度です』と言った」
俺は、そう言った。
「あれから半年、あんたは一度もその話をしていない。……していないということは、まだ抱えているということだ」
「……」
「抱えたままの者が、これ以上抱え込むのはよくない。……だから、上手くいかなかったら俺のせいにしろ。俺は慣れている」
冥琳どのは、しばらく何も言わなかった。
やがて、立ち上がった。
「……楚航どの」
「なんだ」
「あなたは、たまに人の話をよく聞いておられる」
「たまにか」
「たまにです。普段は水の話しかなさいません」
「それは否定できん」
俺は、そう言った。
雪蓮さまが来たのは、それから二日後だった。
夜だった。戸を叩きもせずに入ってきて、俺の寝床の脇にどかりと座った。
手に、酒の瓶を提げていた。
「飲む?」
「……俺は、しばらく薬を飲まされている」
「じゃあ私が飲むわ」
「一人で飲むのか」
「悪い?」
「悪くはない。……だが、一人で飲むために俺の部屋に来る意味がわからん」
雪蓮さまは、そこで少し口を尖らせた。
「……あなた、そういうところ、無粋よ」
「無粋か」
「無粋よ。普通、そこは黙って付き合うところでしょ」
「では、黙る」
「今さら黙らないでよ」
その人は、瓶に直接口をつけた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
俺は天井を見ていて、雪蓮さまは酒を飲んでいた。
やがて、その人が口を開いた。
「ねえ、灘。脚、どうなの」
「継いだ。歩けるようにはなった。……だが、走れん」
「そう」
「舟なら乗れる。座っていればいいからな」
「そう」
また、しばらく黙った。
「……ねえ」
「なんだ」
「私、母様の顔を思い出せないの」
俺は、天井から目を離して、その人のほうを見た。
「半年前まで覚えてたのよ。ちゃんと。……でも、今日ふっと思い出そうとしたら、出てこないの。声は出てくる。怒鳴ってる声。……でも、顔がぼやけてるの」
雪蓮さまは、瓶を握ったまま、そこを見つめていた。
「なんでかしら。私、あの日、ちゃんと見たのに。ずっと見てたのに」
「――たぶん、ずっと見ていたからだ」
「え?」
「あんたが最後に見た顔と、それまでの顔が、頭の中で重なっている。……だから、どっちも出てこない」
俺は、そう言った。
「これは、水と同じだ」
「……水?」
「川の水は、一度濁ると、しばらく底が見えなくなる。……だが、濁っているのは水が減ったからじゃない。動きすぎているからだ」
俺は、そう言った。
「動きが止まれば、泥は沈む。沈めば、また底が見える。……あんたの頭の中も、今は動きすぎている」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。
「……どのくらいで、止まるの」
「わからん。俺の母のときは、二年かかった」
「二年」
「二年だ。……長いか」
「長いわよ」
「長いな。……だが、二年経ったら、俺は母の顔を思い出せるようになった」
俺は、そう言った。
「今も思い出せる。ただ、俺が思い出しているのが本当にあの人の顔なのかは、自信がない」
雪蓮さまが、そこで初めてこちらを見た。
「……それ、意味あるの」
「ない」
「ないの?」
「ない。……だが、俺はそれでいいと思っている」
俺は、そう言った。
「本物の顔でなくてもいい。俺の中の顔でいい。……俺が覚えている限り、あの人はまだ俺の中にいる。それだけの話だ」
しばらく、雪蓮さまは動かなかった。
やがて、こう言った。
「……私ね、灘」
「うん」
「あなたのこと、恨みたかったの」
俺は、返事をしなかった。
「あなた、母様は死なないって言ったでしょ。だから、恨めばよかったのよ。あなたが嘘つきだったってことにすれば、私、楽だったの」
その声が、少しずつ乱れ始めていた。
「でも、あなた、脚を潰して帰ってきたじゃない」
「……」
「あなたが母様に覆いかぶさったって、みんなが言うのよ。四人死んだって。あなたが飛び出したせいで四人死んだのに、みんな、あなたを責めないの。……なんでよ」
「――責める者がいないなら、俺が言おう」
俺は、そう言った。
雪蓮さまが、顔を上げた。
「俺は悪い」
「……え?」
「俺は悪い。四人死なせた。……あの日、俺は自分の隊に『音がしたら横へ跳べ』と言った。言っておいて、自分は跳ばなかった」
俺は、そう言った。
「跳んでいれば、あの四人は続いて出なかった。俺が飛び出したから、あいつらも出た。……それは、俺の責だ」
「……」
「それから、あんたに死なないと言ったのに、守れなかった。……これも俺の責だ」
俺は、天井を見た。
「だから、恨め。俺はそれを引き受ける」
雪蓮さまは、しばらく俺を見ていた。
「……そんなの、ずるいわよ」
「ずるいな」
「私が恨めないってわかってて言ってるでしょ」
「――わかっている」
「最低ね」
その人は、そう言って、俺の肩に額を押しつけた。
そのまま、泣いた。
声を上げずに泣いた。肩が震えて、俺の寝間着が濡れて、それがしばらく続いた。
俺は、動く右手で、その頭に触れた。
二十二になった人の頭を撫でるのは、どう考えても失礼だった。だが、俺にできることは他になかった。
どれくらいそうしていたか、覚えていない。
泣き止んだあと、その人は顔も上げずにこう言った。
「……このこと、冥琳には言わないで」
「言わん」
「ぜったいよ」
「言わん。……だが、たぶんあいつは気づく」
「なんでよ」
「あいつは、そういうのに気づく男だ。……いや、女だが」
「そこ、間違えないでよ」
雪蓮さまが、そこで少し笑った。
葬儀の日から、初めて見る顔だった。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「私、母様の代わりにはなれないわ」
「そうだな」
「そこは否定してよ」
「否定できん」
俺は、そう言った。
「あの人はあの人だ。あんたはあんただ。……代わりになろうとしたら、あんたは必ず三十騎で山に入る」
雪蓮さまが、そこで顔を上げた。
「……ひどいこと言うのね」
「言った」
「でも」
その人は、袖で目のあたりを拭った。
「……そうよね。うん。そうよね」
その言葉が、たぶん、この人にとって必要だったのだと思う。
しっくりくる内容に調整するのって思ったより大変