長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

9 / 10
畳んだ紙

葬儀の日、俺は立てなかった。

 

 左脚は添え木で固められていて、膝から下が自分のものではないような感触だった。祭どのが自分で継いだ。継ぐ前に、この人はこう言った。

 

「若いの。歩けるようにはする。じゃが、元通りにはならん」

 

「……走れんか」

 

「走れん。速さは戻らんじゃろう」

 

「そうか」

 

「そうか、で済ますな。もうちょっと悔しがれ」

 

 祭どのは、そう言って麻の糸を通した。

 

「あんた、いま何を考えとる」

 

「――考えていることは三つある」

 

 俺は、天井を見たまま答えた。

 

「一つ。走れないなら、走らずに済む戦い方を覚えるしかない。舟の上なら、走る必要はない。踏ん張るのは腰と足の裏だ。……それは、たぶんまだできる」

 

「ふむ」

 

「二つ。俺の隊は、これから俺が先頭に立てなくなる。立てない者が長をやると、隊は緩む。……緩ませない方法を、今のうちに考えておかんといかん」

 

「三つ目は」

 

「三つ目は」

 

 俺は、そこで少し言葉に詰まった。

 

「……あの人に、川を見せられなかった」

 

 祭どのは、糸を引く手を止めた。

 

「――川を、か」

 

「最期に、川が見たいと言われた。西へ半里下れば支流があって、そこに俺の舟が六艘あった。……運べなかった。俺の脚がこの様だったからだ」

 

「……」

 

「だから、かわりに川の話をした。今の時期の長江は濁っている、と。……それしかできなかった」

 

 祭どのは、しばらく黙っていた。

 

 それから、また糸を通した。

 

「……若いの」

 

「なんだ」

 

「あの方はな、川の話を聞くのが好きじゃった」

 

「――知っている」

 

「知っとるのか」

 

「あの人が、そう言った。最期にだ。……いい話だな、と言われた」

 

 祭どのの手が、そこでもう一度止まった。

 

 止まったまま、しばらく動かなかった。

 

「……そうか」

 

「そうだ」

 

「……なら、あんたは運んだのと同じじゃ」

 

 この人は、そう言った。

 

「川は運べんかったが、川の話は届いた。……それでよい」

 

「よくない」

 

「よくないが、それでよい」

 

 祭どのは、そう言って、麻の糸を切った。

 

 十七針だった。

 

 葬儀は、思っていたよりずっと簡素だった。

 

 城の裏手に土を盛り、そこへ納めた。太守の葬儀としては、明らかに格が足りなかった。

 

 理由は二つある。一つは、金がなかったこと。二つ目は、袁術の家から達しが来ていたことだ。

 

 その文を読み上げてくれたのは、蓮華さまだった。

 

 俺は寝床から動けなかったので、この人がわざわざ部屋まで来た。

 

 文には、こう書いてあった。

 

 ――孫堅どのは、命に背いて深追いをし、自ら滅びた。功はあるが過も大きい。厚く弔うのは、他の将への示しがつかぬ。

 

 この人は、最後まで抑揚を変えずに読んだ。

 

 読み終わって、紙を丁寧に畳んだ。

 

 畳み方が、やけに丁寧だった。角を揃えて、二回折って、それから懐に入れた。

 

「――蓮華さま」

 

「はい」

 

「それは、捨てんのか」

 

「捨てません」

 

 この人は、そう言った。

 

「腹が立ちますね」

 

「……立つな」

 

「はい。でも、破ったら証拠がなくなるので、取っておきます」

 

 俺は、その言い方に、思わず身を起こしかけた。

 

 脚が痛んで、また倒れた。

 

「――大丈夫ですか」

 

「大丈夫だ。……いや、大丈夫ではないが、今のは脚のせいではない」

 

「では、何のせいですか」

 

「あんたの言い方に驚いた」

 

 俺は、そう言った。

 

「証拠、と言ったな」

 

「言いました」

 

「証拠というのは、いつか誰かに見せるためのものだ。……あんたは、いつか誰かに見せるつもりでいる」

 

 蓮華さまは、そこで少しだけ目を伏せた。

 

 この人は、十五になっていた。

 

「……いつかは、わかりません」

 

「わからんが、取っておく」

 

「はい」

 

「いい判断だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「怒って破るのは簡単だ。破ったら、あとに何も残らん。……取っておけば、残る。残ったものは、いつか使える」

 

「使えますか」

 

「使える。……ただし、使えるまでに何年かかるかはわからん。二年かもしれんし、十年かもしれん」

 

 俺は、そう言った。

 

「そのあいだ、あんたはそれを持って歩くことになる。……それは、けっこうしんどいぞ」

 

 蓮華さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……子渡。あなた、そういうものを持っていますか」

 

 俺は、少し考えた。

 

「持っている」

 

「何をですか」

 

「帳面だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「昔、俺の隊で十九人死んだ。冬の飢饉だ。そのうち七人は、誰も名前を知らなかった。……俺は、それを『名を知らず』と書いた」

 

「……」

 

「書いても、誰の役にも立たん。あの七人は帰ってこん。……だが、書かないと、いなかったことになる」

 

 蓮華さまは、俺を見ていた。

 

「だから、あんたのそれも同じだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「畳んで持っておけ。使う日が来なくてもいい。……持っている者がいる、というだけで、たぶん違う」

 

 この人は、そこで初めて、少し表情を緩めた。

 

「……はい」

 

「それと、一つ頼みがある」

 

「なんですか」

 

「その紙、どこに仕舞ったか俺にも教えておいてくれ」

 

「――なぜですか」

 

「あんたに何かあったとき、代わりに持つ者が要る」

 

 俺は、そう言った。

 

「一人で持つものは、その一人が消えたら消える。……二人で持てば、二倍残る」

 

 蓮華さまは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……わかりました」

 

「頼む」

 

「あの、子渡」

 

「なんだ」

 

「……あなた、寝ているのに、よく喋りますね」

 

「寝ているから喋る」

 

 俺は、そう言った。

 

「動けんからな。動けるうちは、喋る暇があったら動いていた」

 

 軍が召し上げられたのは、その半月後だった。

 

 袁術の家から使いが来て、こう言った。

 

 孫堅どのの兵は、朝廷が孫堅どのに預けたものである。孫堅どのが亡くなった以上、これは家の管理に戻す。

 

 三千二百のうち、二千五百が持っていかれた。

 

 残ったのは七百。それも、名目上は「孫家の私兵」ではなく「袁術の家に置かれた孫家の者」という扱いになった。

 

 長沙の太守も取り上げられた。かわりに、雪蓮さまには何の官職も与えられなかった。二十二の娘に郡を任せるわけにはいかない、というのが理由だった。

 

 その日、俺は初めて杖をついて歩いた。

 

 歩いて、城の広間へ行った。

 

 行かなければ、名簿の照合ができないからだ。

 

「――楚航どの。あなたは寝ていてください」

 

 冥琳どのが、そう言った。

 

「寝ていられん。二千五百人の名簿を、あんた一人で照合する気か」

 

「一人ではありません。蓮華さまと二人です」

 

「二人でも足りん」

 

 俺は、そう言って、卓の前に腰を下ろした。下ろすのに、少し手間がかかった。

 

「三千二百のうち、どれを持っていくかは向こうが選ぶ。……こちらが黙っていると、使える者から順に持っていかれる」

 

「そうでしょうね」

 

「だから、こちらから名簿を出す」

 

 俺は、そう言った。

 

「向こうが選ぶ前に、こちらが『この七百は残す』と決めて渡す。……理由をつけてな」

 

「理由、ですか」

 

「理由だ。……たとえば、こう書く。『この者たちは水に慣れており、陸の戦には不向きである』と」

 

 冥琳どのが、そこで目を細めた。

 

「……なるほど」

 

「わかるか」

 

「わかります。……向こうは、陸の兵が欲しい。水にしか使えない者を持って行っても、荷になるだけです」

 

「そうだ」

 

「そして、その七百が水軍として残る」

 

「残る」

 

 俺は、そう言った。

 

「舟は取り上げられるかもしれん。だが、人が残っていれば、舟はいつか作れる。……逆はできん」

 

 冥琳どのは、しばらく俺を見ていた。

 

 それから、少し笑った。

 

「……楚航どの」

 

「なんだ」

 

「あなた、策がわからないと仰っていましたね」

 

「わからん」

 

「今のは策です」

 

「――これは策か」

 

「策です。しかも、悪くない」

 

 この人は、そう言った。

 

「私が同じことを考えるのに、たぶん半刻かかります。あなたは即座に出された。……それは、あなたが二十年、人と舟を数えてきたからです」

 

「では、俺は策がわかるのか」

 

「軍略はわかりません」

 

 冥琳どのは、はっきりと言った。

 

「ですが、人と物の勘定はわかる。……戦は、半分がそれです」

 

「半分か」

 

「半分です。残り半分が、私の仕事です」

 

「では、二人で一人前だな」

 

 俺が言うと、この人は少しだけ吹き出した。

 

「……そういう言い方をなさる方でしたか」

 

「どういう言い方だと思っていた」

 

「もっと、無口な方かと」

 

「無口ではない」

 

 俺は、そう言った。

 

「喋る理由があれば喋る。……今は、七百人の名前がかかっている。喋る理由としては十分だ」

 

 名簿は、三日かけて作った。

 

 俺と、冥琳どのと、蓮華さまの三人でだ。

 

 三日目の夜、蓮華さまが筆を止めて、こう言った。

 

「……子渡。この人、迷います」

 

「どれだ」

 

「李という者です。水にも慣れていますが、陸でも使えます。……向こうが欲しがるかもしれません」

 

「そいつは、身内がいるか」

 

「え?」

 

「身内だ。妻子か、親か」

 

 蓮華さまは、慌てて別の紙をめくった。

 

「……います。母親と、妹が二人」

 

「では、残す」

 

 俺は、即答した。

 

「――理由を聞いていいですか」

 

「二つある」

 

 俺は、そう言った。

 

「一つ。持って行かれた兵は、どこで死ぬかわからん。あの家の戦に使われて、どこかの野で死んで、名前も帰ってこん。……身内がいる者を、そこへ出したくない」

 

「……」

 

「二つ。身内がいる者は、逃げん」

 

 俺は、そう言った。

 

「うちが苦しくなったとき、身寄りのない者は逃げられる。逃げる先があるからな。だが、母親と妹二人を抱えている男は、この土地から離れられん。……七百のうち、そういう者が多いほうが、隊は保つ」

 

 蓮華さまは、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「……一つ目と二つ目、矛盾していませんか」

 

「――ん?」

 

「一つ目は、その人のために残すという話です。二つ目は、こちらの都合で残すという話です」

 

 俺は、その指摘に、少し詰まった。

 

 詰まってから、正直に言った。

 

「――矛盾している」

 

「していますよね」

 

「している。……だが、俺は両方本当だ」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの男を守りたいのも本当で、隊を保ちたいのも本当だ。片方だけを言うと嘘になる。……だから両方言った」

 

 蓮華さまは、そこでしばらく俺を見ていた。

 

 それから、紙に書き込んだ。

 

「……わかりました。残します」

 

「頼む」

 

「あの、子渡」

 

「なんだ」

 

「私、その考え方、覚えておきます」

 

「――どっちをだ」

 

「両方本当でいい、というほうです」

 

 この人は、そう言った。

 

「私、どちらか片方が正しいはずだと思って、いつも考え込んでいました。……両方でいいなら、少し楽です」

 

 名簿は、そのまま通った。

 

 向こうは、七百のうち一人も持って行かなかった。

 

 冥琳どのの読み通りだった。

 

 俺たちが長沙を出たのは、その年の暮れだった。

 

 与えられたのは、荊州の袁術の膝元にある館だった。

 

 与えられた、という言い方は正しくない。

 

 置かれた、というほうが近かった。

 

 名目上は客だった。実際には、出るのに許しが要り、出れば必ず誰かがついてきた。

 

 その館で、俺は脚の療養をした。

 

 最初の三月は、立てなかった。

 

 次の三月で、杖をついて歩けるようになった。

 

 その次の三月で、杖なしで歩けるようになった。ただし、左足を引きずった。速く歩こうとすると、膝から下が言うことを聞かなくなって転んだ。

 

 転ぶたびに、俺は自分に腹が立った。

 

 三十を過ぎた男が、庭で一人で転んで、起き上がれずにいる。それを誰かに見られるのが、何より嫌だった。

 

 だから、俺は夜中に歩く練習をするようになった。

 

 誰も見ていない時間に、庭を端から端まで歩く。転ぶ。起きる。また歩く。それを毎晩やった。

 

 三月ほど経ったある夜、庭の隅に人影があった。

 

 小蓮さまだった。

 

 十になっていた。木の棒を持って、そこに座っていた。

 

「……見ていたのか」

 

「うん。ずっと」

 

「ずっとというのは」

 

「はじめから」

 

 俺は、その場に立ち尽くした。

 

 この子は、俺が転ぶのを、三月のあいだ毎晩見ていたということだった。

 

「……なぜ、声をかけなかった」

 

「そこう、いやがるとおもったから」

 

 その子は、棒で地面をつつきながら言った。

 

「おねえちゃんたちにも、いってないよ」

 

「――待て」

 

 俺は、そこで少し慌てた。

 

「三月、誰にも言わずに、毎晩ここに座っていたのか」

 

「うん」

 

「寝てないのか」

 

「ねてるよ。そこうがおわってから、ねてる」

 

「……それは、寝る時間が足りん」

 

「たりてるもん」

 

「足りていない。……よし、決めた」

 

 俺は、その場に座った。座るのに、少し手間がかかった。

 

「今夜から、あんたは俺より先に寝ろ」

 

「やだ」

 

「即答だな」

 

「だって、そこうがころぶの、だれかがみてないとだめだもん」

 

 俺は、その言葉に、返す言葉を探した。

 

 探して、見つからなかった。

 

「――では、こうしよう」

 

 俺は、そう言った。

 

「あんたが見張るのはいい。だが、黙って見ているのはやめろ」

 

「なんで」

 

「つまらんからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「三月も黙って人が転ぶのを見ているのは、退屈だっただろう」

 

 小蓮さまが、そこで少し口を尖らせた。

 

「……たいくつだった」

 

「だろうな」

 

「うん。すごくたいくつ」

 

「では、退屈でないようにする」

 

 俺は、庭の砂の上に線を引いた。

 

「勝負をしよう」

 

「しょうぶ?」

 

「前に、帰ったら勝負すると言った。……果たしていない」

 

「そこう、あるけないのに?」

 

「歩けなくてもできる」

 

 俺は、そう言った。

 

「二人とも座る。膝は動かさない。棒で相手の肩に触れたら勝ちだ。腕と上半身だけ使う。……これなら、俺でもできる」

 

 小蓮さまは、しばらく考えた。

 

 それから、勢いよく立ち上がった。

 

「やる!」

 

「よし。……ただし条件がある」

 

「じょうけん?」

 

「三つだ」

 

 俺は、指を立てた。

 

「一つ。俺が転んだら、手を貸せ。黙って見ているな」

 

「うん」

 

「二つ。眠くなったら帰れ。俺は逃げん」

 

「うん」

 

「三つ」

 

 俺は、そこで少し考えた。

 

「三つ。……俺に勝ったら、そのたびに一つ、俺に何か教えろ」

 

 小蓮さまが、きょとんとした顔をした。

 

「おしえる?」

 

「そうだ。何でもいい。今日あったこととか、姉上たちのこととか、飯が不味かったとか」

 

 俺は、そう言った。

 

「俺は今、この館から出られん。出られんと、何も知らんまま老けていく。……あんたが教えてくれると助かる」

 

 小蓮さまは、しばらく考えていた。

 

 それから、にっと笑った。

 

「じゃあ、いっぱいかつね」

 

「勝てるかな」

 

「かつよ!」

 

 その日は、俺が三度勝って、二度負けた。

 

 わざと負けたのではない。この子は、思っていたよりずっと筋がよかった。腕の伸ばし方に無駄がなく、こちらの間合いに入るのが速い。

 

 二度負けたので、この子は二つ教えてくれた。

 

 一つは、館の裏の井戸に蛙が住んでいること。

 

 もう一つは、雪蓮さまが最近、夜に部屋から出て行くことだった。

 

 俺は、その二つ目を聞いて、少し引っかかった。

 

 その話を持ってきたのは、冥琳どのだった。

 

 翌日の夕方、この人は俺の部屋に来て、前置きもなくこう言った。

 

「雪蓮のことです」

 

「――何かあったか」

 

「あの子は、まだ泣いておりません」

 

 俺は、その言葉の意味を、しばらく考えた。

 

「……葬儀から、半年以上経っているぞ」

 

「経っております」

 

「その間、一度もか」

 

「一度もです」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「私が知る限りでは、一度も。……あの子は、泣かないのではなく、泣けなくなっている」

 

「――違いがあるのか」

 

「あります」

 

 この人は、はっきりと言った。

 

「泣かない者は、泣く場所を選んでいるだけです。……泣けない者は、選ぶ余裕すら残っていない」

 

 俺は、その説明を、しばらく胸の中で転がした。

 

「……で、あんたは何をしに来た」

 

「頼みに来ました」

 

「聞こう」

 

「あの子を、泣かせてください」

 

 俺は、その頼みに、正直に困った。

 

「――無茶を言うな」

 

「無茶です」

 

「俺は、人を泣かせるのが得意な男ではない」

 

「存じております」

 

「だいたい、なぜあんたが行かん。あんたのほうが長い付き合いだろう」

 

「行きました。三度」

 

 冥琳どのは、そう言った。

 

「三度とも、『大丈夫よ』と笑って言われました」

 

「……」

 

「あの子は、私が大丈夫でないと困ることを知っております。私が崩れたら、この家に立っている者がいなくなる。……だから、先に自分が立って見せる」

 

 この人は、膝の上で手を組んでいた。

 

「昔からです。七つの頃から、あの子は私に弱いところを見せません」

 

 俺は、その言葉を聞いて、少し意外に思った。

 

「――そうなのか」

 

「そうです」

 

「あの人は、俺には割と何でも言うが」

 

「知っております」

 

 冥琳どのは、そこで少しだけ間を置いた。

 

「……それが、腹立たしいのです」

 

 俺は、思わずこの人の顔を見た。

 

 冥琳どのは、俺を見ていなかった。膝のあたりを見ていた。

 

「――待て。それは」

 

「言わないでください」

 

「言う。……あんた、それを俺に言いに来たのか」

 

「違います」

 

「では、なぜ言った」

 

「……口が滑りました」

 

 この人は、そう言った。

 

 そして、少し顔を上げた。

 

「楚航どの。ずるいことを申します」

 

「聞こう」

 

「今のあなたは、弱っておられます」

 

「――それは、事実だ」

 

「事実です。……動けない人間の前では、人は取り繕うのをやめることがある。相手が自分より弱っていると、気を張る必要がなくなるからです」

 

 俺は、その理屈を聞いて、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

「――ひどい理屈だな」

 

「ええ。自分でも思います」

 

「使えるものは使う、か」

 

「使います」

 

「わかった。使え」

 

 俺は、そう言った。

 

「ただし、条件が一つある」

 

「なんでしょう」

 

「上手くいかなかったときに、あんたが自分を責めるな」

 

 冥琳どのが、そこで顔を上げた。

 

「……なぜ、それを」

 

「あんた、岘山のあとで『私の落ち度です』と言った」

 

 俺は、そう言った。

 

「あれから半年、あんたは一度もその話をしていない。……していないということは、まだ抱えているということだ」

 

「……」

 

「抱えたままの者が、これ以上抱え込むのはよくない。……だから、上手くいかなかったら俺のせいにしろ。俺は慣れている」

 

 冥琳どのは、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、立ち上がった。

 

「……楚航どの」

 

「なんだ」

 

「あなたは、たまに人の話をよく聞いておられる」

 

「たまにか」

 

「たまにです。普段は水の話しかなさいません」

 

「それは否定できん」

 

 俺は、そう言った。

 

 雪蓮さまが来たのは、それから二日後だった。

 

 夜だった。戸を叩きもせずに入ってきて、俺の寝床の脇にどかりと座った。

 

 手に、酒の瓶を提げていた。

 

「飲む?」

 

「……俺は、しばらく薬を飲まされている」

 

「じゃあ私が飲むわ」

 

「一人で飲むのか」

 

「悪い?」

 

「悪くはない。……だが、一人で飲むために俺の部屋に来る意味がわからん」

 

 雪蓮さまは、そこで少し口を尖らせた。

 

「……あなた、そういうところ、無粋よ」

 

「無粋か」

 

「無粋よ。普通、そこは黙って付き合うところでしょ」

 

「では、黙る」

 

「今さら黙らないでよ」

 

 その人は、瓶に直接口をつけた。

 

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

 俺は天井を見ていて、雪蓮さまは酒を飲んでいた。

 

 やがて、その人が口を開いた。

 

「ねえ、灘。脚、どうなの」

 

「継いだ。歩けるようにはなった。……だが、走れん」

 

「そう」

 

「舟なら乗れる。座っていればいいからな」

 

「そう」

 

 また、しばらく黙った。

 

「……ねえ」

 

「なんだ」

 

「私、母様の顔を思い出せないの」

 

 俺は、天井から目を離して、その人のほうを見た。

 

「半年前まで覚えてたのよ。ちゃんと。……でも、今日ふっと思い出そうとしたら、出てこないの。声は出てくる。怒鳴ってる声。……でも、顔がぼやけてるの」

 

 雪蓮さまは、瓶を握ったまま、そこを見つめていた。

 

「なんでかしら。私、あの日、ちゃんと見たのに。ずっと見てたのに」

 

「――たぶん、ずっと見ていたからだ」

 

「え?」

 

「あんたが最後に見た顔と、それまでの顔が、頭の中で重なっている。……だから、どっちも出てこない」

 

 俺は、そう言った。

 

「これは、水と同じだ」

 

「……水?」

 

「川の水は、一度濁ると、しばらく底が見えなくなる。……だが、濁っているのは水が減ったからじゃない。動きすぎているからだ」

 

 俺は、そう言った。

 

「動きが止まれば、泥は沈む。沈めば、また底が見える。……あんたの頭の中も、今は動きすぎている」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。

 

「……どのくらいで、止まるの」

 

「わからん。俺の母のときは、二年かかった」

 

「二年」

 

「二年だ。……長いか」

 

「長いわよ」

 

「長いな。……だが、二年経ったら、俺は母の顔を思い出せるようになった」

 

 俺は、そう言った。

 

「今も思い出せる。ただ、俺が思い出しているのが本当にあの人の顔なのかは、自信がない」

 

 雪蓮さまが、そこで初めてこちらを見た。

 

「……それ、意味あるの」

 

「ない」

 

「ないの?」

 

「ない。……だが、俺はそれでいいと思っている」

 

 俺は、そう言った。

 

「本物の顔でなくてもいい。俺の中の顔でいい。……俺が覚えている限り、あの人はまだ俺の中にいる。それだけの話だ」

 

 しばらく、雪蓮さまは動かなかった。

 

 やがて、こう言った。

 

「……私ね、灘」

 

「うん」

 

「あなたのこと、恨みたかったの」

 

 俺は、返事をしなかった。

 

「あなた、母様は死なないって言ったでしょ。だから、恨めばよかったのよ。あなたが嘘つきだったってことにすれば、私、楽だったの」

 

 その声が、少しずつ乱れ始めていた。

 

「でも、あなた、脚を潰して帰ってきたじゃない」

 

「……」

 

「あなたが母様に覆いかぶさったって、みんなが言うのよ。四人死んだって。あなたが飛び出したせいで四人死んだのに、みんな、あなたを責めないの。……なんでよ」

 

「――責める者がいないなら、俺が言おう」

 

 俺は、そう言った。

 

 雪蓮さまが、顔を上げた。

 

「俺は悪い」

 

「……え?」

 

「俺は悪い。四人死なせた。……あの日、俺は自分の隊に『音がしたら横へ跳べ』と言った。言っておいて、自分は跳ばなかった」

 

 俺は、そう言った。

 

「跳んでいれば、あの四人は続いて出なかった。俺が飛び出したから、あいつらも出た。……それは、俺の責だ」

 

「……」

 

「それから、あんたに死なないと言ったのに、守れなかった。……これも俺の責だ」

 

 俺は、天井を見た。

 

「だから、恨め。俺はそれを引き受ける」

 

 雪蓮さまは、しばらく俺を見ていた。

 

「……そんなの、ずるいわよ」

 

「ずるいな」

 

「私が恨めないってわかってて言ってるでしょ」

 

「――わかっている」

 

「最低ね」

 

 その人は、そう言って、俺の肩に額を押しつけた。

 

 そのまま、泣いた。

 

 声を上げずに泣いた。肩が震えて、俺の寝間着が濡れて、それがしばらく続いた。

 

 俺は、動く右手で、その頭に触れた。

 

 二十二になった人の頭を撫でるのは、どう考えても失礼だった。だが、俺にできることは他になかった。

 

 どれくらいそうしていたか、覚えていない。

 

 泣き止んだあと、その人は顔も上げずにこう言った。

 

「……このこと、冥琳には言わないで」

 

「言わん」

 

「ぜったいよ」

 

「言わん。……だが、たぶんあいつは気づく」

 

「なんでよ」

 

「あいつは、そういうのに気づく男だ。……いや、女だが」

 

「そこ、間違えないでよ」

 

 雪蓮さまが、そこで少し笑った。

 

 葬儀の日から、初めて見る顔だった。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「私、母様の代わりにはなれないわ」

 

「そうだな」

 

「そこは否定してよ」

 

「否定できん」

 

 俺は、そう言った。

 

「あの人はあの人だ。あんたはあんただ。……代わりになろうとしたら、あんたは必ず三十騎で山に入る」

 

 雪蓮さまが、そこで顔を上げた。

 

「……ひどいこと言うのね」

 

「言った」

 

「でも」

 

 その人は、袖で目のあたりを拭った。

 

「……そうよね。うん。そうよね」

 

 その言葉が、たぶん、この人にとって必要だったのだと思う。




しっくりくる内容に調整するのって思ったより大変
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。