「今回の任務内容は覚えてる?」
とあるアパートの一室、目の前の少女はそう問いかけてきた。
その声音にはなんの感情も籠っておらず、まるで氷のように冷たく感じる。
「はい、チェンソーの心臓奪取及び当該対象保持者の殺害でしたよね」
淡々と記憶している事を口に出す。
ふと、カーテンから覗く外に目を向けた。
空は宵闇に包まれており、辺りの民家は静まり返っている。
「うん、合ってる。じゃあ、作戦内容を説明して」
「……諜報員によると、保持者の性格は直情的で享楽的とあるので、エージェントレゼの誘惑が有効と判断できます。
まず、保持者に対しハニートラップを試行、ある程度の関係を構築した後規定のタイミングで殺害し心臓を奪取。
ハニートラップが失敗した場合は、数日の期間を設けて保持者の動向を監視し、対応策を講じる。
心臓の奪取に成功した場合は指定の場所で軍用ヘリに乗り帰国すると記憶しています」
少女の顔を見る。
華奢で可愛らしい容姿をしているが、相も変わらずロボット然とした無表情である。
薄い紫色に見える髪と翠玉の瞳、色白の肌。
少し目を下に向けると、首にはやや幅広のチョーカーがあり、首の側面には手榴弾に着いているようなピンが妖しく光り揺れている。
「分かった。作戦は二日後に決行、それまでの間は各々の準備をしよう」
「はい。了解しました」
立ち上がり、部屋から去っていくレゼ。
この後は就寝でもするのだろうか。
なんとなくそんなことを考えながら、僕は寝室へと歩いていくその後ろ姿をぼんやりと見つめていた。
秘密の部屋。
ソ連にある子供を叱るための一種のお伽噺だ。
軍の弾薬庫には秘密の部屋があって、その中では奴隷のような扱いを受ける子供たちで溢れている。
そこには自由や人権の欠片などもなく、日夜ソ連に尽くすための戦士が作られているというお話。
ある時アメリカのジャーナリストが突き止めて、その存在を世に伝えたけど、直ぐに揉み消されてその人も殺された。
レゼは、そんな秘密の部屋の住人の一人であり、その体に爆弾を宿すに至ったモルモットだ。
実のところを言うと、僕はいわゆるレゼへのお目付け役だ。
チェンソーの心臓の奪取のほかにレゼが裏切らないかを見定める任務を命じられている。
裏切りの兆候が見えた場合の殺害の許可も貰っているし。
だけど、やりたくないのが僕の本心だ。
心情的にもそうだし、何より僕が契約している悪魔じゃ一回殺すだけが精一杯だと思う。
そもそも、いくら殺しても血が足りている限り再生する彼女達が可笑しいのだ。
なんで上は僕をレゼのお目付け役に任命したのか。
まあ、そんなことは置いておいて明日の事を考えよう。
今回の任務、正直に言うと僕の出番は殆どない。
することといえば、レゼの様子を見守ることだけ。
明日は本屋にでも行こうか。
任務放棄とも言えるような、そんなことを考えながら僕は床に寝転がって毛布にくるまり目を閉じた。
▼
カーテンから差し込む日差し、チュンチュンと可愛らしい鳴き声を披露している鳥たち。
ぼやけている頭を揺らしながら僕はゆっくりと体を起こし、背伸びした。
小気味の良い音が背骨から鳴る。
現在の時刻は午前八時。天気は晴天で雲一つない。
手っ取り早く朝の支度を終わらせ、玄関から外に出る。
レゼがもういないことは靴がない時点で察した。
わざわざレゼを直接監視する必要はない。
レゼの様子は随時悪魔の力で確認することができる。
だから僕は、気兼ねなく本日の目的である本屋へと足を運ぶことができるのだ。
人々の往来を潜り抜け、スマホで目的地を確認しながら歩く。
目的地までは徒歩数十分の距離で、思ったよりも早く到着した。
念願の本屋へとたどり着いた僕は、本独特の匂いに包まれながら小説を物色する。
ミステリーやファンタジー、恋愛やコメディなど様々な小説が作家ごとに並んでいる。
目についた物に手を伸ばし、少しだけ最初を読んでからもとの場所に戻す。
さっきから、その繰り返しだ。
だけど、その繰り返しが酷く愛おしいと思ってしまうのは僕だけだろうか。
ソ連のエージェントとして訓練された今、僕はどんなことも経験してきた。
何度だって殺されそうになったし、任務を完遂するためならばどんな手段も問わずありとあらゆる人を利用し、最後には殺してきた。
僕の足跡には幾つもの屍が重なっている。
後悔は、していない。
そうしなければ、生きていけなかったから。
そんなことを気にしている余裕なんてなかった。
そうだとしても、ふと思ってしまう。
はやく楽になりたいと、この罪を背負うのをやめてしまいたいと。
頭を振ってそんな思考を打ち消す。
折角本屋に来たのだし、今は小説探しに集中したい。
そんなとき、一冊の本が目に止まった。
背表紙には、ダフニスとクロエと銘打たれている。
確か、ロンゴスという人が作者の古代ギリシアで書かれた小説だったと思う。
内容はあまり覚えてはいないけど、昔に一度だけ読んだ記憶がある。
レスボスという島を舞台に描かれる羊飼いの少年ダフニスと少女クロエの恋愛模様を描いた物語。
互いの身分すら知らず惹かれ合う二人。
神の手を借りながらも降りかかる苦難を退け、最後には結ばれ、永遠の愛を誓い合うという話。
何故だか分からないけど、僕はこの話が頭の片隅から離れなかった。
恋愛というものが特別好きというわけではない。
そんなものに関わる機会なんて一度もなかった。
なら、頭の片隅から離れないのはなんでなのか。
一冊だけ手に取り、レジへと足を進めていく。
それ以外には何も持っていない。
店員さんに頼んでブックカバーをして貰い、レジ袋に入れてから本屋を後にした。
新聞が捲られる音と落ち着いたメロディーを奏でる曲が耳を撫でる。
僕は空腹のお腹を満たすために、あるカフェに入店した。
物静かな雰囲気を醸し出す店内に、優しげな顔をしたマスターが一人カウンター先で新聞を読んでいる。
どの席も空席が目立ち、酷く閑散としている。
今は昼時を越した時間で店のピークは過ぎたのだとしても、このお客さんのいない様を見るとこのままで大丈夫なのかと要らぬ心配をしてしまう。
そんな心配を余所に僕は目を辺りに巡らせ、席を選んだ。
自分で選んだ席に座り、注文を尋ねてきたマスターへ先にコーヒーを一杯頼んだ。
コーヒーが来るのを待ちながらメニュー表を見て、どの料理を頼もうか一頻り悩む。
炒飯かカレーかどちらも魅力的で捨てがたい。
悩んでいる内にコーヒーが出来たようで、カウンターから香ばしい匂いが漂ってきた。
その時、カウンター横の扉からトントンと足の爪先で床を叩きながらエプロンを着る少女が出てきた。
「マスタ~、今出勤しました~」
「うん、時間通りだね。じゃあ、このコーヒーをあっちのお客様に運んでね」
「は~い。わかりました~」
そう返事をしながら此方にコーヒーを運んでくる少女。
その顔には言うまでもなく見覚えがある。
レゼ。彼女はこの二道というカフェでアルバイトをしている。
悪魔で時々監視していたから、このカフェで働いていることは前から知っていた。
今日来たのは、ただ単にレゼがどんな仕事ぶりをしているか興味が湧いたからだ。
「どうぞ、コーヒーです」
僕の顔を認識したのか少し目を見張った彼女は、そう言いながらソーサーに乗せられたそれを静かに机に置く。
顔を見つめてみるも、なんの反応も返されない。
どうやら、顔見知りであるということは隠しておきたいようだ。
レゼは一瞬だけメニュー表に目を向けると、踵を返そうとする。
それを慌てて引き留め、追加の注文をお願いする。
「すいません、このカレーを一つ」
「分かりました。カレーを一つですね。
ヘイヘイマスター、カレーの注文入りました~」
マスターは一回頷くと、鍋を手に取りカレーの調理を開始した。
その姿を尻目に目の前に置かれたコーヒーを手に取り、微かにほろ苦い香りを楽しんでから一口飲む。
なんというか、可もなく不可もないといった良く言えば普通な味が喉を通る。
勿論、砂糖は一切入れていない。僕はブラックが一番好きなのだ。
そうやってコーヒーを飲んでいると、僕のお昼ごはんであるカレーがレゼによって運ばれてきた。
「ご注文のカレーです」
ありがとうございます。と返事をしてカレーを受けとる。
空腹のお腹に堪えかねて、早速と言わんばかりにスプーンを手に取りカレーを食べ始めた。
具材にはジャガイモやニンジンなどが目立って入っていて、家庭的な味がするといっていいのかもしれない。
少しドロッとしていてとろみがあるカレーのルー、僕の好み通りだ。
一口一口ゆっくりと味わいながら食べ進めていく。
隣の席ではいつの間に座っていたのだろうか、レゼが何やら数冊の教科書やノートを開いてカリカリとペンで文字を綴っている。
どうやら、日本語を勉強しているようだ。
その横顔は真剣で、ノートをしっかりと見つめて口を真一文字に結んでいる。
声を掛けようにも、真剣な様子にその行為は憚られる。
レゼから視線を戻し目の前のカレーの攻略を再開した。
黙々と口に運び続けたカレーはみるみる内に減ってきて、遂にはなくなってしまう。
「ご馳走さまでした」
一言告げ、席から立ち上がり勘定をマスターに頼む。
今までずっとこのカフェにいたが、相も変わらずお客さんは誰一人来ていない。
本当に大丈夫なのだろうか、この店は。
マスターから教えられた値段丁度にお金を支払い外に出る。
すっかり空は夕暮れで暁色に染まっているようだ。
カラスが電柱からバタバタと羽を打ち付けながら羽ばたいていたるのが目に映った。
▼
「……マキマさんは、俺に心ってあると思います?」
隣り合って歩いている二人の男女。
先刻までデートでもしていたのだろうか、女は浮わついているような雰囲気もするがその表情には無という言葉が似合っている。
対して、男はぼんやりと女の方をただ見つめているだけだ。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「なんとなく……」
そう答える男はどこか浮かない顔をしている。
少しの静寂が辺りを支配する。
そよ風が男と女の間を通り抜けていった。
女は唐突に行動を起こす。
体を男の方に傾けその体に寄りかかり、胸に頭を預ける。
動揺する男。無表情だが目を細めている女。
傍から見れば摩訶不思議な空間の中、顔を上げ男の目を見つめた女は言った。
「あったよ」
頬を紅潮させ、呆然としている男はしどろもどろになりながらも
「…あり、ありました……」
と答えた。
そして、そんな様子を陰ながら見ている僕。
カフェを出て帰宅しようとしていた僕は、任務の標的ことデンジとその直属の上司であるマキマが一緒になっている現場を目撃していた。
偶々二人の存在を認識し、どうせなら見に行くかと思ったのが間違いだった。
二人は恋仲だったのだろうかと考えるも、マキマの様子から違うと確信する。
「なるほど、あれが支配の悪魔。
ある程度分かったけど、完全に殺すのは難しそうだ」
薄い赤色の髪を後ろから編み込んだ髪型。
メリハリの付いた肉体。
一番目立つのは、その飲み込まれそうな渦巻き型の瞳だろうか。
「そして、あの呆然としているのがチェンソーの心臓保持者ことデンジ」
頬を赤く染め、マキマが歩いているその背中を見つめているデンジの方を見る。
少し整った顔立ちをした金髪の青年はだらしない様相を呈していた。
じっと観察する。
すると、何かが心に去来したような気がして、懐かしい気配を感じた。
香ばしい、ナッツかバターのような匂いが鼻を擽って、思わず鼻の下を指で擦っていた。