遂に作戦決行日がやってきた。
眼の前に座っているレゼは、目を閉じて何事か考え事をしているみたいだ。
きっと、作戦の構想やらなんやらを考えていることだろう。
それとも、精神を落ち着かせているだけだろうか。
そうしてその様子をじっと黙って見つめていると、レゼは徐にまぶたを上げ、翡翠の瞳を露わにした。
「…今日が作戦決行当日だけど、準備はできてる?」
此方に目を向けて問いかけてくるレゼに、僕は返答を返す。
「はい、滞りなく準備は完了しています」
作戦、エージェントレゼによるチェンソーの心臓保持者への誘惑を目的としたハニートラップ。
この作戦を実行するうえで、僕たちには一つの問題があった。
それは、どうやって作戦対象に好印象を持たせるかについてだ。
人の印象は初対面の僅か数秒で殆ど決まってしまうと言われている。
最初の出会いで失敗してしまえば、それで終わってしまうもの。
勿論、その後の関わり方によっては好印象に好転する場合もあるだろうが、僕たちの事情を鑑みると悠長に関わり続けるわけにもいかない。
悪印象を相手に抱かせず、好印象だけを相手に抱かせる。
人との関係を深め、仲良くなるのに必要なのは親近感だ。
相手のパーソナルスペースを見極め、明るい表情と笑顔を携えて目を合わせ、声のトーンは高めにはっきりと話す。
人に好印象を与えるのに重要なのはそんなところだろうか。
幸いにも、レゼの容姿は世に存在する女性と比べても整っていると言ってもいいだろう。
たとえ初対面で多少の失敗が起こったとしても、チェンソーの心臓保持者の性格を考えれば、少なくとも悪印象はそこまで抱かないと思う。
結局の所、この作戦が上手くいくかはレゼ次第だ。僕はあまり役に立たない。
作戦と言うにはあまりにも行き当たりばったりすぎるが、僕に出来るのは精々お膳立てくらい。
レゼには、何もできない僕の分まで頑張ってほしいものである。
▼
空が青く澄んでいるのが目に映る。その有様はまさに自分の心情を表しているようだ。
太陽が雲に遮られることなく、その輝きを世の人に知らしめるかのように燦然と輝く。
マキマとのデートを通じて胸のつっかえが取れたデンジは、意気揚々と歩道を歩いていた。
いつもならしない筈の募金まですることから、その上機嫌さは容易に感じ取れることだろう。
しかし、そんな上機嫌に水を差すかのごとく突然に雨が降り出してきた。
それも、かなりの土砂降りのようで体に打ち付けられる水滴はかなりの勢いをもっている。
「ギャーッ!逃げろー!」
雨に濡れないで済む避難場所を探し求め、デンジは走り出す。
そうしてたどり着いたのは、公衆電話の中だった。途中、サメの魔人ことビームとのいざこざもあったが、それでも少しばかりの濡れ具合で避難することができた。
「傘、持ってくりゃよかったぜ」
全力疾走したことで荒れた息を整えながら、デンジはそうつぶやく。
今日の天気予報を見ていなかったデンジに傘を持っていくという発想は、外の晴天を見た時点で生まれることはなかった。
というより、たとえ天気予報を見ていたとしても晴れと予報されていたため、結局傘を持っていくことはなかっただろう。
そもそも、あれほどの晴れだというのにいきなり降り出した雨が可笑しいのではとデンジは考えて、
とりあえず雨が止むまではここにいるかと未だ止む気配のない雨が降る様子を眺める。
そんなときに、外から声が聞こえてきた。
男性というにはあまりにも高く、可愛らしく聞こえることから声を発しているのは少女だろうか。
その声は徐々に大きくなり、此方に向かって大きくなっていくのが分かる。
「ひー!わー!」
可愛らしい悲鳴と共に公衆電話の扉が開かれ、一人の女が入ってきた。
「わあ、どうもどうも。いやいやすごい雨ですねえ」
髪は後頭部でお団子状に結ばれているが、雨で濡れた影響か前髪に限っては顔を殆ど覆い隠すかのように重力に従って垂れている。
どことなく、暗いイメージを持ってしまう容貌だ。
身長はデンジより少し低く、デイバッグを肩に背負っているのがわかる。
「天気予報は確か…む…え!?あははははは!」
此方に顔を向けたかと思うと、突然笑い出した少女にさしものデンジも動揺を隠せないようで、唖然とした表情をしている。
降りしきる雨は今だ止まず、一人の少女の笑い声が公衆電話の中で響き渡った。
すると、意外にも目敏いデンジは少女が少し泣いていることに気づく。
「はあ!?なんで泣いてんの!?」
「いやいやすいません……あなたの顔…死んだうちの犬に似ていて」
「ああ!?オレ犬かよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
少女の泣いている理由が分かったとはいえ、まさか死んだ犬に似ていると言われたデンジは嫌な気持ちが湧いてきたが、それでも少女を元気付けようと端から見たら意味の分からない行動を起こした。
「うえっうえぇっおえっげっ」
「えっ…まってっハンカチ!ハンカチ!」
いきなり嘔吐し始めようとするデンジに対し、少女はハンカチを差し出そうとポケットを探る。
そして、ハンカチを見つけ渡そうとしたその時。
「タラーン!」
目の前に差し出されたのは、一輪の花だった。
今まで口の中に入れていたせいなのか、その花からは唾液のような液体が滴っている。
素直に言えば、汚いという感想を抱くものだが、少女の反応は違った。
「ええっ!?手品?スゴい!」
「種も仕掛けもないんだな、コレが」
「…ありがとう」
感謝の言葉と共に顔を上げる少女。
そんな少女の顔を見ることができたデンジは、自分の心臓からなにかが爆発する音が聞こえた。
紅潮した頬、タレ目にもツリ目にも見える潤んだ翡翠の瞳、色白な肌。
そのどれもがデンジの心に突き刺さる。
ヤバい、マキマさん。この子、メッチャカワイイ。
自分の体が熱くなるのを感じる。目がどうにも離すことが出来ない。
今、デンジの心を埋め尽くしているのは目の前の少女だけだった。
有り体に言えば、彼は人生で二回目となる一目惚れを果たしたと言ってもいいだろう。
「あ~!雨、止んだよ!」
いつの間にか、あれ程までに降っていた雨は止み、
灰色の雲から覗く太陽からの光が地上を照らし出した。
依然として呆然としているデンジは、まるでロボットのように公衆電話から出た少女に続き外へ出た。
「私、この先の二道ってカフェでバイトしてるの。
来てくれたら、このお礼してあげる」
デンジは返事を返さずにただ少女だけを見つめている。
デンジの様子を歯牙にもかけず、少女は言葉をかけ続けた。
「絶対来てね!」
背中をデンジに向けた少女は路地裏へと続く角を曲がり、遂には姿が見えなくなった。
その背中を見つめたデンジは一人決心した。
ぜってぇ行く、と。
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これは、かなりの大成功と言っていいのではないか?
もはやワープ染みた速さでレゼよりも早く二道へとたどり着き、入店したチェンソーの心臓保持者を見ながら僕はそう思った。
「しかし、雨が降ってきたのはかなり良かったな。
お陰であの状況を生み出すことができた」
二道に背を向け、レゼが通ってきた路地裏を歩きながら一人呟く。
レゼがいきなりチェンソーの心臓保持者を死んだ犬扱いしたのには少し驚いたが、結果をみればそんなことはどうでもいい。
初対面の印象はかなり上々だと彼の様子から判断してもいいと思う。
後は、レゼの対応次第だ。悪魔の力で監視は続けるけども、直接見に行くことまではしなくていいだろう。
「この突然の雨も、もしかしたら台風の悪魔の影響かな……いや、違うか」
未だ幼体の台風の悪魔がこの街に潜んでいることは既に認識していた。
あの悪魔が作戦に害をもたらすかどうかは分からないが、疑わしきは罰せず。
有害である証拠もなにもない以上、殺すのはよろしくないし、非常に面倒くさい。
故に出した結論は放置一択だった。
路地裏を歩く。
ネズミが2匹二道の方に向かって僕の横を素通りしたのを横目で見ながら僕は、暗い路地裏の奥へ歩いていった。