弓を預かった日の閉店後、先に入っていた仕事を片づけた。長いケースを棚から下ろし、黒い長弓を作業台へ出す。
配信タイトルは『弓の中』。配信を始めると、画面の端へコメントが流れ始めた。
《弓だ》
《傷なくない?》
《弓って中に何が入ってるんだ》
《今日は分解?》
弦を外した弓を、布を巻いた二つの受けへ載せる。
受付で上半分を何か所か開き、偏りが残っていることまでは確認した。今日は、その偏りがどこまで続いているかを調べる。
上半分へ細長い紙を沿わせ、先端から握りのすぐ上までを短い区画に分けた。
偏りを探すなら、動きの出やすい先端から戻る方が早い。弓は先へ行くほど薄く、押さえを外した時の変化も見えやすい。
先端に近い最初の区画へ指を当てる。黒い表面だけを液体へ変え、弓の脇へ退けた。下から補強繊維と芯材が現れる。
接着層は残したまま、補強繊維へ細い目盛り板を添えた。固定されている位置を紙へ写してから、その下の接着層だけを液体へ変える。
外寄りの補強繊維が周囲から離れ、わずかに浮いた。そのまま握り側へ寄ろうとする。内寄りの繊維はほとんど動かない。
芯材も大きく形を変えなかったが、外側だけが少し持ち上がった。
紙の最初の区画へ、繊維の動いた向きを矢印で書く。芯材の変化は短い線で添えた。
《今動いた?》
《外側だけ浮いた》
《中に糸みたいなの入ってる》
《何を書いてるんだ》
繊維と芯材を、開く前に写した位置へ戻す。接着層を流し込み、動かないことを確かめて固めた。黒い表面も元の位置へ戻して閉じる。
一つ下の区画を開く。
今度は外寄りだけでなく、補強繊維の束がまとめて握り側へ寄った。動く量は最初の区画より小さい。
芯材の外側には浅い沈みがあり、その周りだけが少し硬い。
紙へ記し、元へ戻して閉じる。
《場所で違う》
《一か所ずつ開けてる?》
《全部まとめて見ないのか》
《まだ直してないよな》
一度に開けば早い。その代わり、押さえを失った素材がまとめて動く。どの区画に、どの向きの偏りがあったのか分からなくなる。
今夜は直す日じゃない。固定された状態と、押さえを外した時の動きを一つずつ比べる。
次の区画を開く。
外寄りの繊維は握り側へ寄ったが、内寄りはその場に残った。同じ束の中で、引かれている向きがそろっていない。芯材は内側がわずかに膨らんでいる。
さらに一つ下では、補強繊維の横への動きはほとんどなかった。代わりに芯材の外側が持ち上がり、内側は沈んだまま残る。
開く前の位置。押さえを外したあとの動き。芯材の内外の詰まり方と、押した時の硬さ。
確認するたび、紙へ矢印と線が増えていく。終わった区画は必ず元の状態へ戻し、表面まで閉じた。
《矢印だらけになってきた》
《全部同じ方向じゃないんだな》
《開けて閉じての繰り返し》
《パズルっぽくてなんか好き。》
先端から離れるにつれ、繊維の動きは小さくなった。だが、偏りが消えたわけではない。
繊維が動かない区画では、芯材の内側と外側に差が残っている。外側が沈む場所。内側だけが先に押し返してくる場所。一本の繊維束でも、外寄りと内寄りで違う向きへ動く場所。
外からは同じ黒い弓にしか見えない。中では、場所ごとに違う力が押さえ込まれている。
上半分の中ほどに近い区画を開く。接着層を外すと、補強繊維が握り側へ寄った。
紙へ矢印を書き、隣の区画へ移る。
接着層を液体へ変えると、今度は補強繊維が先端側へ動いた。
紙を見る。一つ前の区画では握り側へ、今開いている区画では先端側へ。二本の矢印が、区画の境目へ向かい合っている。
芯材も両側から寄り、境目の内側だけが詰まっていた。
「ここでぶつかってるな」
《向きが変わった》
《矢印が向かい合ってる》
《ここに力が集まってる?》
《ここが原因か》
原因の一つではある。だが、ここだけを直しても意味はない。
先端側に残った偏りも、これから調べる握り側の偏りも、逃げ場を失ってまたここへ集まる。
動いた位置と芯材の状態を紙へ記す。元の位置へ戻して閉じ、握り側へ進んだ。
次の区画では、繊維が先端側へ寄った。その下も向きは同じだが、動く量は小さい。
さらに下では繊維がほとんど動かず、芯材の内側だけが膨らんだ。一つ進むと、今度は外側だけが硬く残っている。
握りへ近づくほど、繊維の横への動きは目立たなくなった。代わりに、芯材の詰まり方と硬さの差がはっきりしてくる。
《矢印が短くなった》
《今度は線が増えてる》
《まだ偏ってるのか》
《どこまで続くんだ》
握りのすぐ上を開く。
接着層を外しても、補強繊維はほとんど動かなかった。芯材の内側だけがわずかに持ち上がり、外側より先に押し返してくる。
最後の区画へ印をつけた。
その下は、工場が修理した範囲だ。受付で開いて確認した限り、補強繊維も芯材も正常な位置へ戻っている。
偏りは修理済みの下半分までは続いていない。上半分の握り際で止まっていた。
開いた場所を元へ戻して閉じる。紙の空いている区画はなくなった。
先端から順に見直す。
外寄りの繊維一本だけが浮く先端。束全体が握り側へ寄る区画。外寄りと内寄りで動きが分かれる場所。矢印の向きが反転し、力がぶつかっている中ほど。握りへ近づくほど小さくなる繊維の動きと、代わって目立つ芯材の詰まり方の差。
どこまで偏りが残り、どこで向きが変わっているかは拾えた。
弓の表面へ指を滑らせる。開いた跡は残っていない。
受けから持ち上げ、軽くしならせた。手へ返る感触も、始める前と変わらなかった。
今夜は何も直していない。押さえられていた力を一か所ずつ外へ出し、記録して、元へ戻しただけだ。
弓を作業台へ置き、紙を見る。
調べた順番と、直す順番は逆になる。
診断は、変化の大きい先端から握りへ辿った。修理は、正常な下半分を基準にする。握りのすぐ上から先端へ向かい、直した区画を次の基準にしながら、一つずつ偏りをほどいていく。
「今日はここまで」
《終わり?》
《本当にずっと調べてた》
《次は修理か》
配信を切る。記録した紙をケースへ入れ、弓も収めた。
本修理を始める順番は決まった。