DUシラトリ地区
キヴォトスの中心地に位置するこの広大な都市区画の空は、今日に限ってどんよりとした灰色に覆われていた。
絶え間なく吹き抜ける乾いた風が、街路樹の葉を揺らし、遠くで巻き上がる煙の匂いを運んでくる
そのシラトリ地区の目抜き通りを見下ろす一等地――連邦捜査部『シャーレ』のオフィスビルが静かに佇むその真隣にそびえ立つ、2棟の巨大な複合ビル
西条ハレカが4ヶ月前、持ち前の政治的直感と圧倒的な財力をもって買い叩いたネクストライスクールの「DU第2校舎」であり、今や完全な防衛要塞へと改修されたビルの屋上に、一人の少女が立っていた
黒髪のウルフカットを風になびかせ、凛とした佇まいで眼下を見つめる少女――赤坂レイカ
彼女の右手には、ズッシリとした重みを持つ艶消しブラックの防水アタッシュケースが握られていた
衝撃耐性と高度な暗号化ロックが施されたそのケースの中に収められているのは、キヴォトスの超技術の結晶であり、連邦生徒会長の権限を司る最高プロテクト端末――『シッテムの箱』。そして、行政委員会筆頭・七神リンへ宛てられた一通の封書だ
「……ついに、この日が来たか」
レイカは低く呟き、アタッシュケースのグリップを握り直した
あの日、連邦生徒会長が警報ひとつ鳴らさずに生徒会室へ現れ、悲痛な決意とともにこの端末を託して姿を消してから、ちょうど2ヶ月
彼女が予言した通り、キヴォトスは緩やかな崩壊へと向かっていた
連邦生徒会長の不在。最初は単なる「多忙による欠席」や「極秘視察」という噂に過ぎなかったものが、日を追うごとに真実味を帯び、今や決定的な事実としてキヴォトス全土を揺るがしている
指導者を失った連邦生徒会は完全な機能不全に陥り、行政委員会筆頭の七神リンが必死に事態の鎮静化を図っていたものの、最高権限者の不在は決定的な破綻を引き起こした
キヴォトスのインフラと治安の要である『サンクトゥムタワー』の制御権限が喪失したのだ
その結果は破滅的だった。各学園自治区を結ぶ通信網は途切れ途切れになり、都市の防衛を担当していた自動治安維持ロボットたちは制御を失って暴走。街の各地で抑え込まれていたならず者やスケバン、ヘルメット団といった無法者たちが一斉に蜂起し、暴力と掠奪の限りを尽くし始めている
そして――今日
前世で『ブルーアーカイブ』という物語を画面越しにプレイしていたレイカにとって、決して忘れることのできない「決定的な瞬間」が訪れようとしていた
「『プロローグ』の開幕……『先生』が、このキヴォトスに着任する日だ」
レイカの瞳に、鋭く硬質な光が宿る
あの日、連邦生徒会長が言い残した言葉が脳裏をよぎる
『今から約2ヶ月後、キヴォトスの外から、ひとりの大人――先生が着任します』
『その方がやってきた時……そして、連邦生徒会が混乱の極みに達し、七神リンが途途方に暮れたその時に……このシッテムの箱と手紙を、彼女と先生に手渡してほしいのです』
連邦生徒会長は、自分が侵した「選択の誤り」を正すため、そして崩壊する世界を繋ぎ止めるための唯一の希望として『先生』の存在を位置づけていた
そして、その重要アイテムであるシッテムの箱を、あえて連邦生徒会内部ではなく、異邦の魂を持つ転生者たちの集う「ネクストライスクール」に託したのだ
「レイカ君。風が強くなってきましたね」
背後から、静かで優雅な足音が近づいてきた
振り返ると、美しい金髪をなびかせた生徒会長・西条ハレカが、ネクストライスクールのフォーマルな制服を着こなし、余裕の笑みを浮かべて立っていた。その隣には、優れた視覚と聴覚を活かして周囲の警戒にあたっている高橋ミサカ、そして武器を手にした青花ヒバナや佐藤アリカたち創設初期メンバーの姿もある
「ハレカ……。下の様子は?」
「ええ、凄まじい惨状です」
ハレカは屋上の手すりに優雅に手を置き、眼下の街並みを見下ろした
「連邦生徒会本部の行政委員会室は、連邦生徒会長の失踪とサンクトゥムタワーの機能停止を巡って、各部局の責任者たちが責任の押し付け合いを続けているそうです。七神リン首席行政官がどれほど檄を飛ばそうとも、権限のない彼女の言葉に耳を傾ける者は少なく、まさに無政府状態と言って差し支えありません」
「……リンちゃんも苦労するよな。あの頑固で真面目な性格で、あの地獄絵図を一人で背負わされてるんだから」
レイカは苦笑交じりに息を吐いた
「ですが、我がネクストライスクールにとっては、すべて『計画通り』の展開です」
ハレカの瞳に、冷徹な政治家としての知性が閃く
「ミヤカさんの土建部が不眠不休で作り上げたこの第2校舎の防衛要塞化、そしてツヨシ君率いる防衛部が敷いたDU駐在ライン……。周囲の商業ビルや住宅街が暴徒の手に落ちていく中、このシャーレ真隣の区画だけは完璧な絶対防衛圏として機能しています。……買い叩いた時の資金は膨大でしたが、お釣りが来るほどの投資効果でした」
「ああ、まったくお前には頭が上がらねえよ」
レイカは眼下の光景に視線を戻した
ズズズン……ッ!
地鳴りのような爆音と重低音が、DUシラトリ地区の大通りから響き渡ってきた
黒煙が空高く立ち上り、何重もの銃声と手榴弾の破裂音が遠雷のように重なり合って届く
「始まったな……」
ミサカが拡張された視覚と聴覚を働かせ、細い眉をひそめた
「レイカくん、ハレカさん。シラトリ地区の第3幹線道路から、ヘルメット団の大群と暴走した治安維持ロボの複合部隊が侵入してきたよ。……凄まじい数。手当たり次第に店舗のガラスを割り、放火して暴れている。連邦生徒会やヴァルキューレだけじゃ、まるで歯が立っていないみたい」
「ヘルメット団か……。プロローグでおなじみの前座どもだな」
レイカは腰の愛銃『ゼロモーメントポイント』のグリップを確かめながら呟いた
屋上から見下ろす世界は、まさにゲームのプロローグ画面そのものだった
秩序を失ったキヴォトスの街で、ヘルメットをかぶった過激派の無法者たちが狂喜乱舞し、アサルトライフルやRPGをぶっ放している。ガラスの割れる音、悲鳴、そして暴徒たちの勝ち誇った怒号
サンクトゥムタワーの制御失陥により、街の防衛システムが麻痺した結果生まれる、完全なアナーキー状態
だが、この圧倒的な絶望と混乱の只中に、今まさに「彼」――いや、「彼女」かもしれない――とにかく、この世界を救うための『大人』が足を踏み入れようとしているのだ
連邦生徒会室で途方に暮れ、暴動の抑え込みに限界を迎えた七神リン
彼女が最後の手段として、連邦生徒会長の残した緊急プロトコルに従い、キヴォトス外縁部から呼び寄せた唯一の存在
『先生』
前世のレイカにとって、それはプレイヤー自身であり、この世界で出会う無数の生徒たちの苦悩を受け止め、彼女たちの青春を守るために命を張る尊敬すべき主人公だった
(……だが、今の俺たちはゲームのプレイヤーじゃない。この世界で血を流し、息をして、二度目の生を生きてる『生徒』だ)
レイカは自分の胸に手を当てた
前世で大人の社会人として命を落とし、記憶を持ったままこのキヴォトスの女子生徒として転生した自分
ネクストライスクールに集まった1300人以上の生徒たちもまた、全員が前世で未練や心残りを抱えて死に、この世界に流れ着いた同郷の魂だ
「本来の原作」のプロローグにおいて、ネクストライスクールという学園は存在しない
本来ならば、七神リンと先生は、襲撃してくるスケバンやヘルメット団の包囲網をかい潜り、満身創痍でシャーレのビルへと辿り着き、地下の金庫で『シッテムの箱』を起動させるはずだった
だが、今のこの世界には、ネクストライスクールが存在する
シャーレの真隣には、ミヤカたちが築き上げた難攻不落の要塞ビルが聳え立ち、レイカの手には最初から『シッテムの箱』がある
計算外の特異点――連邦生徒会長がそう呼んだ自分たちの存在が、既に原作の歴史を大きく歪め、しかし同時に、連邦生徒会長の「最悪の結末を回避したい」という願いを支える第三の選択肢となっているのだ
「レイカ君」
ハレカがそっとレイカの肩に手を置いた
「迷いがありますか?」
「……まさか」
レイカは不敵な笑みを浮かべ、首を振った
「迷いなんてねえよ。ただ……感慨深いだけだ。俺たちがこの学校を作って、仲間を集めて、血反吐を吐きながら準備してきたすべての時間が……今日、この瞬間のためにあったんだと思うとな」
「ええ、同感です」
ハレカの瞳にも、熱い決意の火が宿る
「連邦生徒会長は、この『シッテムの箱』を私たちに託し、しかるべき時に『先生』と七神リンに渡すよう書き残しました。ですが……ただ大人しく渡すだけでは、私たちのネクストライスクールとしての矜持が許しませんでしょう?」
「ハハッ、違いねえ!」
レイカは爽やかに笑い飛ばした
「リンちゃんたちがヘルメット団に追撃されてボロボロになってシャーレに駆け込んでくるのを待つなんて、退屈すぎるからな。……せっかくシャーレの真隣に特等席を構えたんだ。最高の舞台で、最高の『出迎え』をしてやろうじゃねえか」
レイカはアタッシュケースを左手に固く握り締め、屋上のドアに向かって歩き出した
「ヒバナ、アリカ! 防衛部と1年生の遊撃隊に通信をつなげ!」
「了解だよ、レイカ先輩!」
ヒバナが元気よく返事をし、通信用インカムをセットする
「ミサカ、シャーレ周辺の防衛ラインに接近してくる敵勢力の配置を完全に割り出せ。ヘルメット団だろうが暴走ロボだろうが、シャーレの敷地内に一歩足りとも侵入させるな!」
「任せて。……シラトリ地区のすべての『音』は、もう私の耳の中にあるよ」
ミサカが静かに頷き、双眼鏡と聴覚センサーを起動する
「ハレカ。お前は第2校舎の指令室から全体の指揮を頼む。行政委員会からの緊急通信が入ったら、いつでも対応できるようにしておいてくれ」
「承知いたしました、レイカ君。我が校の総力を以て、このプロローグの舞台を完璧に統制してみせましょう」
ハレカは優雅に一礼し、レイカの背中を見送った
屋上の重厚な扉を開け、レイカは階段を駆け下りる
ビルの内部では、ネクストライスクールの防衛部員や土建部の生徒たちが、フル装備で整列し、静かな緊張感の中で待機していた。全員の眼光には、この混乱のキヴォトスで自分たちの学園と仲間を守り抜いてきた誇りと強さが満ち溢れている
「みんな、準備はいいか!?」
レイカの力強い声が、回廊に響き渡る
「「「おーっ!!」」」
頼もしい歓声が返ってくる
レイカは手に持ったアタッシュケースの感触を確かめた
冷たく、重いケース。この中には、キヴォトスの未来を左右する絶対的な鍵が眠っている
(連邦生徒会長……お前が俺たちに賭けた選択、絶対に後悔はさせねえよ)
階下から、いよいよ激しさを増す銃声と爆発音が届く
ヘルメット団の装甲車が街路樹をなぎ倒し、シャーレ前の大通りへと突入してくるのが見えた
そして、その混乱の先――DUの防衛線を突破し、命からがらシャーレを目指して走ってくる一台の連邦生徒会専用車両の姿を、レイカの目が捉えた
あの車に乗っている
七神リンと……この世界の命運を握る、たった一人の『先生』が
「行くぞ……! 原作のスタートだ!!」
赤坂レイカの叫びとともに、ネクストライスクールの要塞ビルから、無数の防衛小隊が一斉に飛び出していった
物語の始まりを告げる銃声が、DUの空に高く響き渡るのだった