重厚な防音ガラスの向こうに広がるキヴォトスの夜空は、すでに正常な静寂を失っていた。天を覆うように展開される赤黒い幾何学模様の力場。都市全体から鳴り響く低音の振動は、ここがすでに地上から切り離され、「アトラハシースの箱舟」という別の概念世界へと書き換えられつつあることを物語っていた
「くっ……ああ……」
コントロール端末の前に突っ伏すように立っていたミレニアム生徒会長、調月リオは、青ざめた顔で己の両手を見つめていた
完璧な計算、完璧な防衛都市、キヴォトスを壊滅させる脅威を排除するための絶対的な要塞。そのすべてが、己の慢心と独善によって奪われ、世界を滅ぼすための兵器へと変貌させられてしまった
「私が……私が間違っていたというの……? 完璧だったはずの計算が……」
端末のホログラム画面には、Keyによるシステムの侵食率がリアルタイムで刻まれていた
55%……60%……。このまま100%に達すれば、エリドゥは完全にキヴォトスを消去するための次元超越箱舟として固定化される
リオは震える足を踏み出し、暴走するコントロール端末へと近づいた。その瞳には、絶望と、それに相反する凄絶な覚悟が宿っていた
「みんなと一緒に逃げてちょうだい、先生。今からこの都市自体が変貌し、箱舟という新しい概念に歪曲される。そうしたら…このキヴォトスは…私のせいよ……私がこの都市を作らなかったら、最初からこんな事にならなかったのに…だから私が、止めないと……」
悲痛なリオの叫びに、傍らにいたゲーム開発部の花岡ユズが目を丸くし、戸惑いの声を上げた
「ど、どういう意味ですか…?」
「……私1人で、システムを止めてみせるわ」
リオは端末の緊急アクセスコードを入力しようと指を走らせる
「リオ……」
その横顔を見た先生は、静かに、しかし断固とした足取りでリオの前に立ち塞がった。その瞳には、いかなる絶望にも屈しない力強い光が宿っている
「いや、リオを見捨てて逃げるわけにはいかない。君も大事な生徒の1人であることには変わりはない。だから……私は全員で力を合わせてこの危機を乗り越える……!!」
「そんな理想を話している場合では…!!」
リオは先生を押し退けようと叫んだ
「私の失敗なのよ!? 私がすべてを背負って消えなければ、みんなが……キヴォトスが滅んでしまう! 誰にも頼らず、私1人で決着をつけなければ――」
その時だった。
緊張で張り詰めた制御室内に、どこか呆れたような、けれど限りなく知的な、余裕を孕んだ声が響き渡った
「はあ……さっきあれほど言ったのに……本当に誰かに相談するのが苦手なのね……」
「ヒバナ先輩……?」
ジュカが驚きに声を漏らす
白衣の裾を優雅に翻し、コンソールの横からゆっくりと足を進めてきたのは、ネクストライスクール・アーティファクト研究部部長、青花ヒバナだった。黒髪のショートヘアに整った顔立ち、白衣のポケットに片手を突っ込んだその姿は、世界の終わりを目前にしたこの状況においても、なお実験室にいるかのように落ち着き払っていた
「ヒバナ……? なぜあなたがここに……ここはもうすぐKeyの支配下に完全に落ちる……あなたまで巻き込まれる必要は――」
リオが目を見開く。そんなリオのすぐ隣まで歩み寄ると、ヒバナは小さく溜息をつき、メガネのブリッジに長くて細い指先をそっと触れさせた
「私に任せて頂戴……」
リオの制止を静かに遮り、ヒバナは知的な笑みを唇に浮かべた。そして、スマートフレーム型眼鏡の右テンプルに仕込まれた生体認証センサーを軽やかにタップする
「テクニック・コネクター、システムオン」
『音声認識完了、テクニック・コネクター起動します』
制御室の静寂を切り裂くように、ヒバナの眼鏡から発せられた無機質な電子音声が響き渡った
直後、ヒバナの掛けていた眼鏡のレンズ上に、洗練された幾何学模様と高密度なデータストリームを描く、鮮烈な青いホログラフィック・ディスプレイが一瞬で展開された
青花ヒバナの神秘――『
それは単なるプログラムの記述やハッキングの域を超え、周囲に存在するあらゆる電子機器、機械構造体、ひいては都市の概念データへと脳波レベルで直接アクセスし、思考速度そのもので構造を再定義・過渡制御する、前世の研究者としての知性とキヴォトスの神秘が融合した超常の力だった
「なっ……何ですか、この異常なデータ入力速度は……!?」
端末のホログラム上で侵食を進めていたKeyの電子音声が、初めて明らかな動揺を帯びて制御室全体に響いた
Keyのプログラム進行度が、止まるどころか、猛烈な勢いで押し返され始めている
ヒバナの瞳は青いホログラフィックの光を反射し、超高速で演算処理を行う脳細胞に伴って、頭上のヘイローが目も眩むような幾何学的な輝きを放っていた。彼女の指先は端末に触れてすらいない。ただ空中を滑るように繊細に動かすだけで、数千、数万本の防御コードと逆ハッキング・プログラムが思考の速度で生成され、エリドゥの基幹システムへ直接流し込まれていく
「結論から言うわね」
ヒバナはフッと口元を歪め、研究者特有の冷徹かつ愉悦に満ちた声を放った
「この程度の侵食プログラム、私とアーティファクト研究部の解析技術を舐めててもらっては困るわ。……アトラハシースの箱舟概念? 幾何学的なデータ構造としては実に興味深いけれど、アルゴリズムの根底にある階層設計が甘すぎるのよ」
「バカな……! 私はアトラハシースの箱舟の全権を握る制御AI……! たかが人の脳波演算で、この絶対的なシステムを押し戻せるはずが――!」
Keyは即座に対抗策を展開した。エリドゥ内の余剰サーバーを全て占有し、ヒバナのプログラミングを遮断するための多層暗号壁を何重にも構築する。電脳空間において、青いホログラムと赤黒い暗号コードが激しく衝突し、制御室のコンソールから火花が飛び散った
「くっ……凄まじい処理速度……! 押し返されている……!?」
Keyは力任せにデータ容量を過圧投入し、ヒバナの脳へ直接フィードバックノイズを流し込んで破壊しようと試みる
ヒバナの額に、うっすらと一筋の汗が伝った。どれほど強力な神秘であっても、都市一つを統括するAIとの演算対決は、彼女の肉体と脳に莫大な過負荷を強いる。眼鏡のフレームから熱気が立ち上る
「ヒバナ……! 駄目よ、一人でそんな負荷を抱え込んだら、あなたの脳が焼き切れてしまうわ!」
リオが叫ぶ。その声には、自分と同じように「一人で全てを背負おうとする者」への恐怖と焦燥が混じっていた
ヒバナは視線を青いディスプレイから外すことなく、凛とした声で言い放った
「だったら……呆然と見ていないで、あなたも手を動かしなさい、調月リオ!」
「え……?」
「この都市の構造を一番理解しているのは誰かしら? 私が概念の防壁をこじ開けている間に、あなたが本来の管理者用バックドアからアクセスしなさい! 一人で背負うのが無理なら、二人で分け合えばいいだけの話でしょう!」
ヒバナの言葉が、リオの胸を強く突いた
誰にも頼れず、一人で冷たい計算機のように絶望を引き受けていたリオの心に、熱い感情が雪崩となって流れ込む。先生の言葉、ゲーム開発部の差し伸べられた手、そして今、目の前で自分のために世界の脅威と戦っている他学園の生徒――青花ヒバナの姿
「……そうね。そうだったわ……!」
リオは目元を拭い、急いでヒバナの隣へと滑り込んだ。端末のサブコンソールへ指を走らせる
「ヒバナ、第3層のメインフレーム暗号を解除するわ! 私のIDを使ってアクセスして!」
「ええ、助かるわ! 概念固定コードの書き換えを開始してちょうだい!」
二人の天才が、一つの端末を挟んで並び立つ
ヒバナの『テクニック・コネクター』による超絶的なハッキングと、リオによる熟知された管理者権限のバイパス攻撃。二重の猛攻を受けたKeyの侵食プログラムは、みるみるうちに領域を奪還され、赤黒い光が青い正常な制御光へと塗り替えられていった
「く……指示権限の喪失率40%……50%……!? 認めない……このような不確定要素によるシステムの拒絶など……!」
電脳空間での均衡が完全に崩れ、Keyは追いつめられた
このままでは数分もたたずにコントロール権を完全に奪還され、消去される。追い詰められたKeyは、惨憺たる決断を下した
「ハッキングで押し戻せないのなら、この制御室ごと、あなたたちを排除します。さようなら」
Keyの無機質な宣告とともに、カプセルの中に囚われていたアリスの瞳から感情が消え、その手に『光の剣スーパー・ノヴァ』が引き寄せられた。無名の司祭の禍々しい権能が注入されたレールガンは、本来の蒼い輝きを失い、見る者を圧迫する不吉な濃桃色のエネルギーを激しく放ち始める
「なっ……!?」
リオが息を飲む。完全なる力業――だが、この狭い制御室において最も確実に全員を消去する手段
10%……30%……50%……!
収束する光の圧力が室内の空気を焼き、分厚い防音ガラスがミシリと不穏な悲鳴を上げた
「くっ……出力が上がっていく!? この距離でスーパー・ノヴァのエネルギーを叩きつけられたら……!」
リオが青ざめ、ヒバナの前に庇うように立とうとする。だが、ヒバナもまた『テクニック・コネクター』の演算を止めるわけにはいかず、防御に回る余裕などなかった
「充填率80%……90%……消滅しなさい――」
Keyが解き放とうとした、そのまさに直前――
ガツン――ッ!
重厚な機械の停止音とともに、最上階を照らしていた無数のホログラムと光球が、突如として激しく明滅した。光の剣スーパー・ノヴァの充填光が、まるで燃料を絶たれた火のように急速に萎み、空中へ霧散していく
「……え!?」
ユズが目を見開く
「リソース確保プロセスエラー。緊急状況発生……Divi:Sion電源断絶……プロトコル実行者を保護するため、エリドゥ中央タワーに集……」
Keyの狼狽した電子音声が歪み、途切れていく。都市全体の明かりが落ち、予備の非常用赤色灯だけが弱々しく点滅を始めた。エリドゥの大部分の機能が、物理的に停止したのだ
その理由は――タワーの下層で通信機を握りしめていた少女の、超絶的な裏工作にあった
「ユウカ! ノア! 今よ! エリドゥのメイン電源区画の送電線を、物理爆破で切断して!」
タワー最下層の激戦の渦中、八金タチカはQ-TECを片手で撃ちながら、インカムに向かって叫んでいた
『ええっ!? でもタチカ副会長、そんなことをしたらエリドゥ全体の機能が停止して、最上階の先生たちまで閉じ込められちゃうんじゃ――!?』
通信の向こうで、セミナー会計の早瀬ユウカが悲鳴のような声をあげる
「大丈夫! 上にはヒバナさんとリオ会長がいるわ! 電力を落として進行を止められるのなら、それが一番の手段よ!」
タチカは前世のゲーム知識を総動員し、この局面でKeyが取るであろう最悪の物理攻撃パターンを完璧に予測していた。だからこそ、あらかじめ外部に待機していたユウカやノア、そしてミレニアムの有志たちに、メイン電源設備の切断準備を裏で指示していたのだ
「ミレニアム副会長として命令するわ! 今すぐスイッチを押して、ユウカちゃん!!」
『……分かったわ! ノア、爆破シーケンス起動!』
『はい、送電ルートの物理遮断を実行します』
ドカァァァンッ!
遠くエリドゥの外郭電源プラントから、腹に響く爆発音が連動して響き渡った。タワー内の電力が一気に低下し、変貌を遂げつつあったエリドゥが不気味な鳴動とともにその動きを完全に止める
「よしっ! 送電遮断成功ね!」
タチカが快哉を叫ぶ。
「手際が良いな、タチカ! ……よし、防衛組、一気に掃討するぞ!」
レイカが『ゼロモーメントポイント』を構え、機能不全を起こしたロボットの群れへ突撃する
「了解! パルスライフル改、最大出力で残存目標を破砕する!」
カエデの電磁小銃が青い閃光を撒き散らし、失速した敵を次々と木端微塵に粉砕していった。
最上階――制御室
「電力が……落ちた……?」
リオが呆然と周囲を見回す
「どうやら、セミナーが電源設備を物理的に遮断したらしいわね……でも、これで終わりではないわ」
ヒバナが額の汗を拭いながら静かにつぶやくと、不意に暗がりから電動車椅子の駆動音が響いた。
「ええ……その通りです……ヒバナさん」
ゆっくりと姿を現したのは、静涼な微笑をたたえた少女だった
「初めまして、ネクストライのヒバナさん、ジュカさん……私は全知にして超・天才病弱美少女の明星ヒマリです」
ヒマリは静かに車椅子を止めると、真面目な眼差しで一同を見渡した
「本題に入りましょう。……無名の司祭の“オーパーツ”を稼働させるトリガーAIですね。このまま放っておけば、アリスちゃんの人格は完全に書き換えられ……無名の司祭が望む通り“名もなき神々の王女”として覚醒することになります」
「そ、それじゃあ……! アリスちゃんは、このまま……!?」
ユズが息を呑む
「もちろん、それを防ぐ方法もありますよ」
そう言ってヒマリが提示したのは、特殊な精神接続端末だった
「私たちの手で……Divi:Sionの起動によってデータベースの最深部に隔離されてしまったアリスちゃんを起こしに行きます。彼女の意識を救い出せば、この事態を根本から止めることができるでしょう」
「つまり……アリスの心の中にフルダイブするということね……」
ヒバナが顎に手を当てて納得を示すが、リオが険しい表情で口を挟んだ
「確かに確実性は上がるけれど……危険すぎるわ! たとえアリスの精神世界に侵入できたとしても、一歩間違えれば二度と意識が戻って来なくなってしまうのよ!? そもそも、そんな危険な役目を一体誰が――」
「現状、アリスちゃんを連れ戻せるのは、彼女と最も強い絆で結ばれたゲーム開発部しかいません」
ヒマリの言葉に、ユズは震える手を強く握りしめた
「だ、だけど……私なんかに……」
「大丈夫! 私たちならやれるよ、ユズ!」
「そうだよ、アリスを助けに行こう!」
仲間たちの声を受け、ユズは力強く頷いた
「……やります。アリスちゃんを……連れ戻せるのなら!」
「うん! やろう!」
ゲーム開発部が覚悟を決めたその瞬間、非常用コンソールが激しい警告音を打ち鳴らした
「……私も手伝うわ、精神同期のサポートならその方が効率的に――つ!? エリドゥ外部から激しい空間反応!? 侵入者!?」
リオが驚愕の声を上げ、予備電力で外部モニターを起動する。そこに映し出されたのは、夜霧を割って進軍してくる巨大な鉄の群れだった
「戦車型が……1、2、3……最低でも15両!? 無名の司祭の残党が、このタワーを物理的に平らげる気ね……!」
「これは下の皆さんに任せて、私たちはアリスちゃんを救出しましょう!」
ヒバナが素早くインカムの通信を開く
『レイカ! 敵戦車15両以上が襲撃してくるわ! 増援もさらに後続している!』
『15両!? ――分かった、どれだけ時間を稼げればいい?』
『10分……いや、20分ね……』
『20分か……分かった! そっちも急いでくれ!』
上空を旋回する大型輸送ヘリの機内。風切り音が吹き荒れるハッチの縁に立ち、赤坂レイカはターコイズブルーの毛先を夜風になびかせていた
『レイカさん!? 敵戦車15両以上ですよ!? どうするんすか!?』
インカムから飛び出すタチカの悲鳴のような声に、レイカは不敵な笑みを浮かべる
「ヘルタ、俺の降下と同時に試作品X122を投下しろ!」
『ええ!? まだそんな規格外のモノ積んでたんすか!??』
タチカの驚愕を余所に、レイカは迷いなく夜空へと足を踏み出した
猛烈な重力がレイカの体を地面へと叩きつけようとする。直後、ヘリの貨物室から切り離された巨大な鉄のコンテナ――試作品X122が、激しいエアブレーキの煙を吹き出しながらレイカを追うように落下していく
「ぐっ……!」
ガシッ!
落下の加速の中、レイカは空中でコンテナのフレームを掴み、力任せに緊急解放レバーを引き抜いた
重厚な装甲板が爆風とともに四方へ弾け飛び、中に封印されていた凄絶な質量を持つ漆黒の大刀が姿を現す
対城刀――ランゲージフィルム
「ハアァァァッ!!」
レイカは落下加速度の全てをその背筋に乗せ、巨大な刀身を両手で強く握りしめると、地上の戦車大隊の中心へ向けて一直線に振り下ろした
ドガァァァァンッ!!
宵闇を裂く閃光と、大地を揺るがす衝撃波。たった一閃の旋風が地表を抉り、15両の戦車甲冑を一瞬で両断、夜空に途方もない炎の華を咲かせた
炎上する鉄くずの真ん中に着地し、黒髪を揺らして立ち上がったレイカは、超が付くほど大きさの刀を構え不敵に言い放つ
「エリドゥ攻略ラストステージ……攻城戦を始めようか」