ゲヘナでの試験会場爆発が起きた次の日の夜のことだった
騒乱の余韻がまだ重苦しい空気を纏わせる中、トリニティ総合学園の広大な敷地内にある宿舎の一角。静まり返った中庭のベンチに座り、佐藤アリカはパチンと小気味いい音を立てて缶ココアのプルトップを開けた
缶の開く音のあと、甘く温かな香りが夜の冷気にふわりと溶けていく
「ふう……、なんやかんやで、今日も今日とて濃い一日やったなぁ……」
ネクストライスクールから補習授業部へと出向しているアリカは、金髪のツインテールを軽く揺らしながら、一人夜空の下にいた
前世は大学生だった彼女にとって、キヴォトスでの日々は刺激に満ちているが、同時に神経を使うことばかり。愛用のショットガン――ベースがAA-12のフルオート火器である『ゴー! ジャンプ!』を傍らに立てかけ、アリカは夜空に浮かぶ星をぼんやりと見上げていた
「こんな時間に、一人で星見物ですか?」
唐突にかけられた声に、アリカはびくりと肩を跳ねさせた
振り返ると、そこには見慣れた制服を上品に着こなした少女の姿があった。浦和ハナコだ。彼女はいつもの穏やかでミステリアスな笑みを少しだけ引っ込め、興味深そうにアリカを見下ろしている
「うわ、びっくりした……。なんだ、ハナコか。こんな時間にどうしたん?」
「いえ、少し眠れなくて夜風にあたろうと思いまして。そしたら、ネクストライから来た元気な先輩が、一人でしみじみしているものですから」
ハナコはふふ、と柔らかく笑いながら、アリカの隣のベンチにそっと腰を下ろした。そして、アリカと同じように夜空の星々へと視線を向け、ぽつりと呟いた
「……で、こんな時間に、アリカさんは一体何をしているんですか?」
問いかけられたアリカは、手元の缶ココアを軽く振ってから、苦笑交じりに答えた
「いや、別に大したことちゃうねんけどな。頭の中をごちゃごちゃしたもんが駆け巡っとるからさ、こうやって夜の星を見てたら、なんかこう……心がスーッと落ち着くねん。広い空の下におったら、自分の悩みなんてちっぽけなもんやなって思えてな」
ハナコはふむ、と小さく頷き、納得したように目を細めた
「星を見て、落ち着く、ですか……。ふふ、意外とロマンチストなんですね、アリカさんは」
「そうか? まぁ、たまにはこういう時間も大事やろ。……で、今度はこっちの番やな。ハナコは、なんでこんな時間にこんなとこウロウロしてんねん? 何か悩んどるんと違うか?」
アリカから投げ返された質問に、ハナコはふっと息を吐き出した。その表情には、いつもの飄々とした態度とは違う、年相応の重たげな影がちらついていた。しかし、すぐに取り繕うように軽く首を振る
「あら、そんな大層なことではありませんよ。ただこうして、夜の涼しい空気を吸いながら、他愛のないお散歩を……なんて、冗談です」
誤魔化すような、どこか芝居がかったハナコの返答
だが、アリカはその言葉の裏にある微かな揺らぎを逃さなかった。アリカは持っていた缶ココアを一度膝の上に置き、じっとハナコの横顔を見つめる
「……なぁ、ハナコ」
「はい?」
「今の言い方は、半分嘘やな」
ズバッと言い当てられたハナコが、わずかに目を見張る。アリカは真剣な眼差しを向けたまま、言葉を続けた
「もちろん、本当に散歩しとるんかもしれんけどさ。……それだけやったら、そんなに目を伏せるような顔はせえへんやろ。お前のその話し方、何か心の中にあるとっかかり……ずっと気になっとる悩みを、無理矢理どっかに押し込めようとしとる時の顔やで」
図星を突かれたのか、ハナコは言葉を詰まらせた。いつも周囲を煙に巻き、本心を巧妙な笑みの下に隠してきた彼女にとって、これほど真っ直ぐに、飾らない言葉で内面を見抜かれるのは初めての経験だった
「……っ。アリカさんは、どうして……」
「ウチは別に、詮索したいわけやないねん。ただ、同じ空の下でこうして出会ったんやからさ、一人で抱え込んでパンクしそうになっとるんやったら、ちょっとくらい愚痴くらい聞いたるでって話や」
しばらくの沈黙が、夜の静寂の中に落ちた
ハナコは自分の指先をじっと見つめたまま、小さく息を吸い込み、やがて、ぽつりぽつりと自身の内面について語り始めた
「……私、ですね。1年生の時点で、トリニティの3学年全ての試験を受験して、全科目で満点解答を出したことがあるんです」
その言葉に、アリカは思わず目を見張った。驚きを隠せないアリカをよそに、ハナコは自嘲気味に続ける
「周囲からは、頭脳戦や駆け引きに長けた期待の新鋭、なんて持ち上げられました。シスターフッドからもスカウトされ、挙句の果てには学園を取り仕切るティーパーティーの後継者候補にまで挙げられたほどです。……でもね、アリカさん」
ハナコの声が、わずかに震えていた
「そんなもの、何が楽しいというのでしょう。周りにあるのは、権力への執着、嫉妬、そして底意地の悪い悪意ばかり。みんな私を『利用価値のある駒』か、あるいは『警戒すべき異物』としてしか見ていない。……私、そんな周囲の悪意に、もうすっかり嫌気が差してしまったんです。このトリニティという学園は、きらびやかな装飾が施された、ただの窮屈な『監獄』にしか見えないのですよ」
絢爛豪華な名門校の裏側に巣食う、ドロドロとした権力闘争と人間の嫌な部分。それを一身に背負い、冷め切った目で世界を見つめてきた少女の告白
それを聞いたアリカは、持っていた缶ココアをそっと傾けたあと、まだ未開封だったもう一つの温かい缶ココアを手に取り、ハナコの前にスッと差し出した
「……これ、飲むか?」
「え……?」
不意を突かれたようにハナコが瞬きをする。アリカはどこか切なそうな、けれど温かい目をハナコに向けたまま、播州弁の混じる口調で静かに話し始めた
「ウチもな、トリニティ全体のあのドロドロとした感じ、正直言って好きにはなれへんわ。何と言うか、こう……息が詰まりそうになるよな。でもな、ハナコ」
アリカは少し言葉を選び、それから真っ直ぐにハナコを見つめた
「ウチらがこうして出向してきて、補習授業部でお前らと一緒に過ごしたやん? あの部活の中にいるときはな、そういう嫌な空気とか悪意みたいなもんを、一切感じひんかったんや。不思議とな」
ハナコは息を呑んだ
「……補習授業部で、ですか?」
「そう。あそこには、変に打算的な空気なんてなくて、みんながただ必死に。だからウチは思ったんや。……もしかして、ハナコも同じことを考えとったんと違うかってな」
ハナコは目を見開いたまま、言葉を失っていた。自分が誰にも言えず、心の奥底に押し込めていた感覚。それを、転校生であるはずのアリカに言い当てられたからだ
「人からの悪意ってな、敏感やし、めちゃくちゃ簡単に感じ取れるやん? ちょっとした視線だけで、傷ついたりもする。けどな、それと同時に、どこかに絶対、誰かの善意もあるんやないかってウチは思うねん。すぐには見えへんくても、泥の中に埋もれた綺麗な石みたいに、ちゃーんとそこにあるねん」
「善意、ですか……私のような人間に、そんなものが……」
「ある決まっとるやろ。ハナコはさ、自分で自分のこと『冷めた人間』みたいに言うけどさ……ウチから見たら、誰よりも周りのことを見て、傷ついて、それでも一人で全部背負い込もうとしとるアホやに見えるで」
その言葉に、ハナコはハッと息を詰まらせた
アリカはさらに言葉を重ねる
「ハナコはさ、ここにきて変わったんちゃうか? ……ほんの少しの期間やったかもしれんけどな、ウチが感じるハナコから発せられる感情の色って言うんかな、それが少しずつ、柔らかくなっとる気がすねん」
自分の仮面の内側、誰にも見せなかった本当の心を、この少女はここまで見透かしていたのか
張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れた
ハナコの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた
「っ……、ひどい、です……。そんな風に、人の心の奥まで勝手に踏み込んで……私、は……」
音を立てて泣きじゃくるハナコを、アリカは驚かせないようにそっと引き寄せ、その背中をポンポンと優しく叩いた
自分一人で何もかもを抱え込み、誰にも弱音を吐くことができず、笑顔の裏ですべてを耐え抜いてきたつらさ。その孤独の重みを、言葉ではなく温もりで受け止めるように
夜の静かな星空の下、誰にも邪魔されない空間で、ハナコは声を殺しながら、堰を切ったように泣き続けた。アリカはただ黙って、その小さな背中を温かく包み込み続けていた
――そして、その様子を
少し離れた中庭の植え込みの陰から、じっと見つめている影があった
ネクストライスクールの1年生であり、生徒会執務補佐を務める天笠ネカだ
彼女は丸眼鏡の位置をそっと直し、物陰から先輩であるアリカと、トリニティのハナコの一部始終を目撃していた
(……アリカ先輩、が……)
ネカは心の中で呟き、小さく息を呑んだ
彼女は前世で『ブルーアーカイブ』というゲームを深くやり込んでいたため、この世界の残酷さも、トリニティという学園の抱える闇の深さも、そして浦和ハナコという少女がどれほど複雑で危険な内面を持っているかも知識として完璧に理解していた
原作の知識を持つネカからすれば、ハナコのような人物に不用意に踏み込むことはリスクが高すぎると判断していただろう。他学園の生徒である彼女が心を開くなど、容易いことではないはずなのだ
しかし、アリカにはそんな「原作の知識」など一切ない
彼女にあるのは、ただ真っ直ぐな優しさと、目の前で苦しんでいる人間を放っておけないという、純粋な「人としての強さ」だけだ
ゲームのシナリオでもなく、計算された謀略でもなく、ただ一人の少女としてハナコに向き合い、その心の殻をこじ開けてみせた
(原作を知らないアリカ先輩が……ここまで、他学園のハナコさんに心を開かせるなんて……)
ネカは胸の奥が熱くなるのを覚えた
ネクストライという学園に集まった転生者たちは、それぞれが前世の知識や技術を武器に生きている。けれど、この世界を本当に動かしているのは、知識やデータではない。こうした、泥臭くて温かい、人と人との繋がりなのだと思い知らされる
アリカの胸に顔をうずめ、泣き疲れて少しずつ呼吸を落ち着かせていくハナコの姿を最後に確認すると、ネカは音を立てないようにそっとその場から身を引き、夜の闇に溶けるように歩き出した
静まり返った夜空の下、星々だけが、二人の少女の秘密の時間を優しく見守っていた