エデン条約の調印を間近に控え、補習授業部は明日へと迫った特別試験に向けた対策と、重苦しい空気の中で大詰めを迎えていた。彼女たちが過ごす宿舎の室内には、参考書やノートのページをめくる音だけが虚しく響いている。だが、その緊迫した学習の裏側では、別の歯車が不気味な音を立てて回り始めていた
ネクストライスクールから生徒会執務補佐として出向している1年生の天笠ネカは、丸眼鏡の奥にある瞳を鋭く光らせていた。彼女は赤坂レイカから、白洲アズサの動向を慎重に監視するように密命を受けていた。原作知識を持つネカにとって、この時期にアズサがどのような役割を背負い、どのような選択を下すのかは、歴史の大きな分岐点を意味している
「……やっぱり、動いた」
息を潜め、ネカは誰もいない廊下の影から、一人で足早に寮を出ていくアズサの背中を追跡していた。ネカの個人武器である対戦車火器『Shotゴー』こそ宿舎のロッカーに置いてきたが、彼女自身が持つ高い観察眼と原作の記憶が、最悪の事態の予感を裏付ける
夜のとばりが降り始めたトリニティの庭園の隅。人目につかない月影の下で、アズサは待ち合わせるように一人の人物と合流した
遠くて姿や顔の詳細は完全に捉えきれなかったが、明らかにトリニティの生徒ではない、冷徹な空気をまとった者だった。ネカは物陰に身を隠し、耳を澄ませる。風に乗って、二人の会話が彼女の耳に飛び込んできた
アズサの声には、焦燥と戸惑いが滲んでいた
「……まだ準備が出来ていない、計画よりも日程を早めるのは、リスクが大きすぎる」
対する相手の声は、氷のように冷たく、一切の妥協を許さなかった
「お前の言葉にも、一理ある、計画を前倒しにするリスクは確かに少なくない」
「な、なら……!」
「――だが、明日の決行は既に確定事項だ、計画を前倒しにするリスクよりも、この機を逃すデメリットの方が大きいと判断した、準備が出来ていないのならば出来ている範囲で構わない……最低限、動ける準備はしておけ」
「………っ」
相手の冷徹な宣告に、アズサは息を呑む。容赦のない言葉は夜の闇に冷たく響いた
「明日になれば全てが変わる、私達アリウスにも、このトリニティにも、不可逆の大きな変化が起きる事になる」
「トリニティのティーパーティー、そのホスト――桐藤ナギサのヘイローを破壊する……その為にお前は此処に居るんだ」
「……………っ」
震える声で、アズサはかろうじて絞り出した
「……分かっている」
相手は満足したかのように低く頷いた
「あぁ、お前の実力は信頼しているよ、上手くやれ――百合園セイアと同じ様にな」
「――了解」
その冷酷なやり取りを聞き届けた瞬間、ネカの背筋に凍るような戦慄が走った。「百合園セイアと同じように」――その言葉が持つ意味の重さを、原作を知るネカは痛いほど理解していた。すでにセイアは襲撃され、意識不明に陥っている。次はナギサの番なのだ
アズサがその場を立ち去り、闇に溶けるように人物が消え去ったのを確認すると、ネカは冷や汗を拭い、一刻も早く事態を知らせるために宿舎へと急行した
宿舎の部屋に戻ったネカの顔色は、ただ事ではない緊張の色に染まっていた。しかし、扉を開けた彼女を待っていたのは、暗殺計画の事実だけではない、さらなる絶望的な停滞感だった
室内では、阿慈谷ヒフミ、白洲アズサ、浦和ハナコ、そしてネクストライから出向している佐藤アリカと高橋ミナサが、沈痛な面持ちで集まっていた
ネカが息を切らせて戻ると同時に、外部の気配を警戒していたミナサが、引き締まった表情で告げた
「ネカ、戻ったの。……こっちは大変なことになった。明日の試験会場の状況が……」
ミナサはネクストライ特製の『ヒアリング・コントロールシステム』のインナーイヤフォンに手を当て、外部の微細な足音や警備のざわめきを分析しつつ状況を説明する
明日、特別試験が実施される予定であった第十九分館に対して、ティーパーティー側から突如として大規模な正義実現委員会の派遣が決定されたのだという。理由は、「エデン条約に必要な重要書類を保護する」という名目。だが、その実態は建物全体が完全に外部から隔離され、正義実現委員会によって厳重な警戒態勢が敷かれるというものだった。
「エデン条約が締結されるまで、試験会場である第十九分館の中へ入ることは一切許されない……。事実上、補習授業部に対する封鎖措置ですね」
ハナコがいつもの軽口を消し、冷徹な事実だけを口にする
つまり、明日の深夜四時に予定されているナギサ暗殺計画を阻止しようにも、そもそも作戦の舞台となる第十九分館のエリアに近づくことすらできないのだ
絶望的な沈黙が部屋を支配した
その重苦しい空気を切り裂くように、アズサがゆっくりと立ち上がった。彼女の瞳には、これ以上ないほどの覚悟と、取り返しのつかない罪悪感が入り混じっていた
「……もう、隠し立てはしない。私が……話す」
全員の視線がアズサに集まる。アズサは自らの出自を語り始めた。彼女がアリウスの出身であり、かつてトリニティを内部から崩壊させ、桐藤ナギサを暗殺するために送り込まれた尖兵であること。そして、ティーパーティーのメンバーである聖園ミカの善意や孤独につけ込み、彼女を欺くことでトリニティへの転入を果たしたことのすべてを包み隠さず告白した
「ミカを騙して、ここに入り込んだ。すべては、ティーパーティーを内部から瓦解させるため……。そして明日の深夜、私はナギサを暗殺し、そのヘイローを破壊する命令を受けている。……だから、私に関わらないでくれ。これは私の問題だ。私一人で、すべてを終わらせる」
アズサはそう言い残すと、背を向け、一人でこの場所から去ろうとした。彼女の背中は、あまりにも小さく、孤独に震えていた
だが――
その背中に優しく声をかけたのは、先生だった
「……待って、アズサ」
先生はゆっくりと歩み寄り、アズサの前に回り込むと、怯えるようなその瞳をまっすぐに見つめた。冷たく凝り固まっていたアズサの肩が、先生の真摯な視線を受けてわずかに揺れる
「先生……私に来ないで……! 私は……!」
「裏切るかどうかは、アズサ自身が今、どうしたいかで決まるんだよ」
先生は優しく微笑みながら、アズサの頭にそっと手を置いた。凍てつくような孤独の中にいた彼女にとって、その温もりはあまりにも優しかった
さらに、ヒフミが駆け寄り、アズサの手をしっかりと握りしめる
アリカもすっと歩み寄り、播州弁のイントネーションを交えて力強く言った
「なに一人でカッコつけてけじめつけようとしてんねん。ウチらがいつ、お前を一人ぼっちにするって言ったよ!」
ヒフミもまた揺るぎない口調でそれに頷く
「アリカ先輩の言う通り、アズサちゃん。どんな過去を持っていて、どんな場所に所属していたとしても……」
そこに、ハナコが静かに歩み寄ってきた。ハナコは優しく微笑むと、アズサのこれまでの日々を思い返すように言葉を紡いだ
「ねえ、アズサちゃん。思い出してみてください? この補習授業部で、私たちと過ごした日々を……テスト勉強に頭を悩ませて、くだらないことで笑い合ったあの時間を。あなたにとって、この場所での日々の居心地はどうでしたか?」
ハナコの問いかけに、アズサの胸が大きく詰まった。冷たいアリウスの暗殺者として育てられ、誰を信じることも許されなかった彼女にとって、この補習授業部で過ごした時間は、人生で初めて知る温かな居場所だった
アズサは震える声で、絞り出すように答えた
「……楽しかった……。こんな温かい場所があるなんて、知らなかった……」
あふれ出る涙を拭うこともせず立ち尽くすアズサの背中に、先生がもう一歩歩み寄り、そっと温かい手を添えた
「アズサ。君がこれまでどんな場所で、どんな使命を背負って生きてきたのか、僕には測りきれないかもしれない。だけどね、ここで君が流した涙も、みんなと笑い合った時間も、全部本物だ。……だから、君一人で壊れようとしないでいいんだよ」
先生のまっすぐで、どこまでも寄り添うような言葉に、アズサの堰を切ったような嗚咽が漏れた
ヒフミがアズサを優しく抱きしめ、アリカやミナサ、ネカも温かい眼差しで彼女を包み込む
「ねぇ、アズサ」
先生は優しく、しかしはっきりと問いかけた
「君は本当は、どうしたい?」
先生の問いかけに、アズサはハッと息を呑んだ。そして、自分の胸元にある愛銃をしっかりと、強く握りしめた。それはかつて、誰かを傷つけ、破壊するためだけに与えられたものだったかもしれない。しかし、今の彼女には守りたいものがあった。この大切な居場所を、一緒に笑い合ってくれた友人たちを、そして何より自分を受け入れてくれたこの青春を守るために、彼女はその銃を振るうと心に決めた
「……私は、もう逃げない。私の銃は……こんな温かい世界を壊すためじゃなく、みんなと過ごすこの場所を守るために使うんだ……!」
アズサの決意に満ちた言葉を聞き、全員の表情に強い光が灯った。アリウスの襲撃計画を阻止し、ナギサの命を救うため、補習授業部は反撃の狼煙を上げる――
その時だった
部屋の窓から差し込む夕暮れの光の中、ミナサの耳が、通常では捉えられない微細な振動とエンジン音を拾った。彼女の神秘である『拡張された聴覚』が、宿舎の敷地外、厳重に封鎖されているはずの管理道路を走る大型車両の存在を正確に捉えたのである
「……待って。外に、車が近づいている」
ミナサの言葉に、全員が窓の外へと視線を走らせた
正義実現委員会の厳戒態勢が敷され、誰も近づけないはずの封鎖区域。その検問をあざ笑うかのように、一台の頑丈な大型トラックが静かに、しかし圧倒的な存在感を放ちながら走ってきた
トラックの車体側面には、トリニティの紋章でも、正義実現委員会のマークでもない、見慣れた、しかしこの場所においては異質なデザインのエンブレムが描かれていた
――それは、ネクストライスクールのロゴだった
「え……?」
ネカが目を丸くする
アリカも驚いたように声を漏らす
「あれって……ネクストライのトラックやん! なんでこんなところに……!」
数日前にレイカがナギサと交わした「エデン条約の修繕機材搬入および武装・自衛権の許可」に関する特別契約書。その取り決めに基づき、シスターフッドからの修繕要請という大義名分を盾にして堂々とトリニティ内部へ乗り込んできたネクストライの輸送部隊が、まさにこの絶望のタイミングで、彼女たちの目の前に姿を現したのだった
封鎖された試験会場、迫るアリウスの暗殺計画、そして思いがけない味方の影があった……