ルーレット台の緑色のフェルトマットの上で、数学的とも言える完璧な予測演算によって莫大なチップを叩き出し、周囲の視線を一身に集めた街肩カリネと立火ジュカ
だが、これ以上同じ場所で目立ち続けることは、オデュッセイア側の警備や経営者からの不必要な警戒を招くリスクがあった。そもそも、二人の本来の目的はカジノで荒稼ぎすることではなく、あくまで不正なランクダウンを覆し、自分たちの名誉と正規の宿泊資格を取り戻すことである
「……ルーレットでの勝負はこれくらいにしておこう。流石にこれ以上連勝を重ねると、監視の目が厳しくなりそうだ」
カリネは山のように積み上がったチップを専用の引き換え証や小分けのケースに素早く収めると、冷静な足取りでプレイラウンジの奥へと歩き出した
「そうですね……。先ほどの私の心臓の動きを思い出すだけでも、冷や汗が出てきます」
ジュカもまた、制服の裾を軽く整えながら、先輩の背中を追う
二人が次に足を踏み入れたのは、ルーレット台の喧騒とはまた異なる、より緊密で心理戦の空気が漂うエリア――「ブラックジャック」の専用テーブルが立ち並ぶ一角だった
ブラックジャックは、カジノゲームの王道の一つとして知られている。プレイヤーに配られたトランプのカードの合計値が「21」を超えないようにしながら、ディーラーの手札と競い合うゲームだ。2枚以上のカードの合計を、できるかぎり21という数字に近づけた方が勝ちであり、運だけでなくプレイヤーの選択と判断力が勝敗を大きく左右する
「次の資金稼ぎは、ここでやろうか。ジュカ、君も実際に参加してみるといい。実戦のいい頭の体操になるはずだ」
カリネに促され、ジュカは少し緊張した面持ちで、空いていたブラックジャックのテーブル席へと腰を下ろした
周囲には数名の乗客が座っており、ディーラーの手元を鋭い視線で見つめている
ジュカは参加費および賭け金として、手元のケースからチップを2枚、指定されたベットエリアにそっと置いた
ディーラーの優雅な手つきによって、トランプのカードが配られていく
ジュカの手元に配られたのは、表向きになった2枚のカード
――「♡3」と「♧4」
合計値は「7」
ブラックジャックの基準からすれば、非常に低い、心もとない数字からのスタートだった
「カードを追加しますか、それともこのままですか?」とディーラーが静かに問いかける
ジュカは迷うことなく、カードの追加――「ヒット」を要求した
ディーラーから新しく配られたカードは、「♧Q」だった
ブラックジャックのルールにおいて、キング、クイーン、ジャックといった絵札はすべて「10点」として数えられる。したがって、手元の「7」に「10」が加わったことで、ジュカの合計値は一気に「17」となった
(……17ですか。21までは残り4……)
ジュカは心の中で素早く計算を走らせる
テーブルの周囲を見渡すと、他に参加しているプレイヤーたちも、手元のカードを見つめながら3枚目のカードを取るべきか、あるいは勝負を止めるべきか、冷や汗を流しながら激しく葛藤している様子が見て取れる
ジュカは、他のプレイヤーたちの表情の微細な変化、そしてディーラーが手元に伏せているカードのプレッシャー、さらにディーラーの表向きに出ているカードの数字をじっと観察し、何かを深く確信した
(これ以上カードを引けば、絵札や大きな数字を引いた瞬間に21を超えてしまう――つまり「バースト」する危険が極めて高い。かといって、現在の「17」という数字のままでは、ディーラーのアップカードや他の強気なプレイヤーの点数に対して、勝率は決して高くありません……ですが!)
ジュカは冷静にリスクを天秤にかけ、実務的な判断を下した
ここで無謀なヒットを繰り返して自滅するよりは賢明な選択肢がある。ジュカはディーラーに向かって、きっぱりと告げた
「……
サレンダーとは、自分の手札が芳しくない場合に、賭けたチップの半分を失う代わりにそのゲームの勝負を降りる権利のことである。手痛いロスにはなるが、全額を失うリスクを回避するための堅実な防衛策であった
ジュカが自分の手札を伏せたまま脇へ寄せると、周囲のプレイヤーたちから「おや、17でサレンダーかい? まだいけたかもしれないのに」「いや、あの場なら引き際は合ってるかもなぁ」と、様々な声が漏れた
その後、残ったプレイヤーたちとディーラーの間の勝負が、いよいよ決着の時を迎える
参加者たちがそれぞれの緊張感を孕みながら手札を開示していく
このゲームで開示されたプレイヤーたちの最終的な合計値は、以下の通りだった
* 20 (♤K と ♢10)
* 18 (♧J と ♡8)
* 17 (♡9 と ♤8)
* 19 (♢A と ♧8)*1
そして、最後にディーラーが自身の伏せられていたカードをパタリと表向きに開示した
出たのは「♡Q」と「♢10」
絵札と10の組み合わせであり、合計値は文句なしの「20」だった
その結果を見て、ジュカは小さく息を吐いた
ディーラーと同点の20を出して引き分けに持ち込んだ者や、ディーラーを上回る点数を叩き出した勝者にはチップが払い出されたが、サレンダーせずにそのまま戦っていれば、ジュカの17という手札は容赦なくディーラーの20に踏みつぶされていたはずである
「……流石ですね、ジュカ。あの場面で無理に勝負せず、被害を最小限に抑えたのは正しい判断だよ」
後ろで見守っていたカリネが、感心の笑みを浮かべながら声をかける
「はい。……運任せにするのではなく、統計とリスク管理に基づいて引くべきところを見極めるのも、執務補佐としての基本ですからね」
ジュカは小さくうなずき、気持ちを切り替えて次のゲームへと挑む姿勢を見せた
そして、運命の2回戦目
ディーラーが新しく配ったカードを、ジュカは息を潜めて確認する
手元に配られたのは「♡9」と「♢5」。合計値は「14」となっていた
先ほどよりも少しだけ高いが、やはり安心できる数字とは言い難い。このままではディーラーの強力な手札の前に敗北する可能性が高いと判断したジュカは、勝負の潮流を自らの手で動かすため、ディーラーにさらにもう1枚のカードを要求した
「ヒット……お願いします」
ディーラーが丁寧にカードを一枚滑らせる
ジュカが恐る恐る指先でめくったそのカードは――「♤4」だった
これで、手元の合計値は「14」に「4」が加わり、見事に「18」となった
(18……! これなら十分勝負になる数字です!)
ジュカは今度は降りることなく、その手札をしっかりと握りしめてそのまま勝負に出た
他のプレイヤーたちもそれぞれの判断を下し、カードを引く者、その場で勝負を確定させる者が入り交じる
いよいよ、プレイヤー側の手札の開示が行われる
そして、それに続く形で、ディーラーの手札の開示が行われた
ディーラーのめくられたカードは、「♡10」と「♧5」
合計値は「15」だった
「……!」
ジュカの「18」という数字に対し、ディーラーの「15」は明確に下回っている
ディーラーは21を超えないように追加を試みるも、最終的に15のまま、あるいはバーストしてしまい、ジュカの勝利が確定した
周囲のプレイヤーの中でも、ジュカを含めて見事に勝利をもぎ取ったのはわずか数名だった。
ディーラーから勝ち分のチップが払い出され、ジュカは自分のトレイにジャラリと落ちてきたチップの山を確認する
だが――ジュカはすぐに、ある違和感に気づいた
「あれ……? 勝負には勝ったはずなのですが、先ほどルーレットで見ていた配当や、一般的なブラックジャックの払い出しに比べて、手元に戻ってきたチップの量が心持ち少ないような気がします……?」
ジュカが首をかしげながらカリネに視線を向けると、カリネもディーラーの背後にあるボードや、カジノエリアの利用規約のプレートに目を凝らし、なるほどと納得したように頷いた
「なるほど、そういうことか。ジュカ、このゴールデンフリース号のブラックジャックには、通常のカジノとは少し異なる『独自ルール』が採用らしいね」
「独自ルール、ですか?」
「ああ。このテーブルでは、そのゲームの勝者が少れば少ないほど、勝者に対する配当の倍率が跳ね上がるという仕組みになっているのさ。逆に言えば、多くのプレイヤーが同時に勝利した場合は一人当たりの取り分が薄まり、今回のように勝者が少なかった場合は配当がシステムによって調整され、変動する……いわばリスクとリターンが連動した変動配当制だね」
「なるほど……。全員で勝つよりも、限られた者だけが勝ち残った方がより多くの利益を生む、客船ならではの特殊なゲーム性というわけですね」
ジュカは納得したように眼鏡の位置を直し、カジノという空間の奥深さを改めて噛み締めた
そして迎えた第3試合
先ほどの2回戦目で手堅い勝利を収め、変動配当の旨味も知ったジュカは、どこか心理的な余裕と、無意識の油断を抱えてテーブルに向かっていた
ベットエリアにチップを置き、ディーラーから配られた手札を確認する
――「♤10」と「♡6」。合計値は「16」だった
(16……またしても非常に嫌な数字ですね。ヒットすべきか、スタンドすべきか……)
ブラックジャックにおいて「16」という数字は、プレイヤーにとって最大の罠とも言える。ディーラーのアップカードは「7」。このままではディーラーに押し切られる可能性が高い
「前回の勝負でも、私は冷静な判断で危機を脱した……。今回も、統計を信じて攻めれば道は開けるはずです」
ジュカはわずかな焦りから、攻めの姿勢を取りすぎてしまった。彼女は「ヒット」を宣言する
ディーラーから配られた3枚目のカードは――「♣K(キング)」だった
絵札の「10」が加わった瞬間、ジュカの合計値は「26」となり、見事に21の限界値を突破――「バースト」した
「あ……っ!」
ジュカが青ざめて自分の手札を伏せる間もなく、他のプレイヤーたちもディーラーの巧みな心理誘導やプレッシャーに翻弄され、次々と無謀なヒットを重ねて自滅していく
そしてディーラーが最後にめくった手札は、なんと「A」と「10」の組み合わせ――文字通りの「ブラックジャック(21)」だった
「……見事な完敗ですね、ジュカ」
後ろで観戦していたカリネが、少しだけ苦笑しながら声をかける
ジュカは悔しそうに歯を噛み締め、テーブルの上に綺麗に並べていたチップの束が、ディーラーの冷徹な手によってすべて回収されていくのを見つめるしかなかった
「くっ……! 少し調子に乗ってしまいました。勝負の世界で慢心するのは、一番の悪手だと分かっていたはずなのに……!」
「いい薬だ。勝負の神は、ほんのわずかな気の緩みも見逃さないということさね」
第3試合の手痛い敗北によって、一時は大きく増やしたチップの半分を失うという痛手を負ったジュカ。しかし、彼女はそこで折れるようなヤワなタレではなく、ネクストライの生徒会執務補佐として鍛えられた鋼のメンタルを持ち合わせていた
「……カリネ先輩の言う通りですね。感情に流されていては、カジノの思う壺です。ここからが本当の勝負です」
ジュカは気を取り直し、残されたチップの中から慎重に掛け金を再設定した
第4試合のディーラーの手さばきは、どこか機械的で冷徹だった
配られたカードをジュカがそっとめくる
――「♡7」と「♣8」。合計値は「15」だった
(またしても中途半端な数字……ですが、今回は違います)
ジュカは深呼吸をし、周囲のテーブル全体の動向を冷静に観察した
他のプレイヤーたちは、先ほどの敗北の焦りからか、次々と手荒なヒットを繰り返し、自滅への道を歩んでいる。また、ディーラーのアップカードは「5」だった。ブラックジャックの確率論において、ディーラーのアップカードが「5」や「6」である場合、ディーラー自身がバーストする確率は極めて高い
(私たちが無理にカードを引いてリスクを冒す必要はありません。ディーラーが自滅するのを待ち、かつ最小限のリスクで堅実なハンドを作るべきです……!)
ジュカは慎重に判断を下し、わずかに迷った末に、もう1枚だけカードを引くことを選んだ。
「……ヒット、お願いします」
ディーラーから滑り出された1枚のカード。それをめくったジュカの目が、わずかに輝いた。
――「♡4」
手元の「15」に「4」が加わり、合計値は「19」という、極めて強力で堅実な数字へと変化した
「19……これ以上引く必要はありません。スタンドします」
ジュカが宣言したのとほぼ同時期に、他のプレイヤーたちは我慢できずにカードを追加し、次々と「22」や「23」を出してバーストしていった。卓上で残っているのは、ジュカと、もう一人の慎重な乗客のみとなった
いよいよ、ディーラーのターン
ディーラーはルールの通り、伏せられていたカードをめくる
「♡10」。アップカードの「5」と合わせて、ディーラーの合計値は「15」となる
ルール上、ディーラーは合計が17に達するまでカードを強制的に引き続けなければならない
ディーラーは冷汗をかきながら3枚目のカードをめくる。そこに出てきたのは――「♣8」だった
合計値は「23」。ディーラーは見事に「バースト」した
この瞬間、テーブル上の勝敗は決した
他のプレイヤーたちが次々と脱落し、あるいはディーラーの自滅に巻き込まれていく中、規定の「19」を死守し、最後まで生き残って完璧な立ち回りを演じきったのは、卓上でジュカただ一人だけだった
「……っ! やりました……!」
その瞬間、ゴールデンフリース号のブラックジャック専用テーブルに組み込まれた「変動配当制(勝者が少ないほど倍率が跳ね上がるルール)」が、最高潮の出力で稼働を始めた
ディーラーが信じられないものを見るような目でジュカを見つめ、次から次へと莫大な量のチップをジュカのトレイへと押し出し始めたのだ。先ほど第3試合で失った全財産を遥かに凌駕し、これまでの全ての利益を軽く超えるほどの桁違いのチップの山が、ジュカの前に築き上げられた
「ま、まさか、一人勝ちになった上に、変動配当の最大倍率が重なって……これほどのチップが……っ!?」
ジュカは自分のトレイに収まりきらず、テーブルの上にまで溢れ返ったチップの山を目の当たりにして、思わず両手で口を覆い、驚愕に目を見開いた
後ろでその一部始終を見守っていたカリネも、流石に目を丸くして感心の笑みを浮かべた
「見事だね、ジュカ。一時の感情に流されず、ディーラーの確率的な弱点と場の空気を見極めて勝ちをもぎ取った。君の冷静さが、この船のシステムの最高値の配当を引っ張り出したのさ」
「は、はいっ……! カリネ先輩の助言と、あの地獄のような防衛部訓練で鍛えられた判断力があったからこそです……!」
二人は、周囲の他の客たちから「なんだあいつら……素人目に見えてエグい勝ち方しやがったぞ……」と畏怖と羨望の入り交じった視線を向けられる中、満足げにそのテーブルを後にしたのだった
そうして、莫大な資金とチップを手に入れ、Bクラスへの昇格はもちろん、さらに上のクラスすら十分に狙えるだけの盤石な基盤を整え始めたカリネとジュカ
二人はさらなる情報収集とランクアップの申請を行うため、ラウンジ内の別のエリアへ移動しようとした――その時だった
カジノラウンジのさらに奥、眩い電飾と電子音がひときわ激しく明滅している「スロットマシン」のエリアから、周囲の空気を震わせるような、尋常ではない規模の大歓声とけたたましいコインの雨音が響き渡ってきた
「……ん? あそこの一角、やけに騒がしくありませんか?」
ジュカが怪訝そうに眉をひそめ、人だかりができているスロットエリアの方へと視線を向ける。
「あそこまで派手に騒がしいとなると、何か良からぬトラブルか、あるいは……文字通り『とんでもない当たり』が出たかのどちらかだな」
カリネも興味を惹かれ、ジュカとともに人混みの隙間からそっとその様子を覗き込んでみた
そこに広がっていた光景は、二人にとって予想の斜め上をいくものだった
数台並んだ最高級スロットマシンのど真ん中に陣取り、周囲のギャンブラーたちが目を見開いて呆然と見守る中、ピンク色の長髪を軽やかに揺らしながら狂喜乱舞している一人の少女の姿があった
「わあーい!また当たったよ! メダルがザクザク出てくるよ、すごーい!」
無邪気に両手を大きく広げ、満面の笑みで跳ね回っているのは――他でもない、ミレニアムサイエンススクールの問題児にして、C&Cのエージェントである一之瀬アスナその人だった
アスナの足元には、スロットマシンから溢れ返った膨大な量のコインやメダルの山が文字通り山のように積み上がり、もはや機械の周辺が小さな金山のようになっていた。カジノのスタッフたちが「お客様、お、落ち着いてください……! こんな大当たりの連続は流石に前代未聞です……!」と冷や汗をダラダラ流しながら頭を抱えている
そのあまりにもフリーダムで、かつ規格外すぎる光景を目の当たりにしたカリネとジュカは、その場でピタリと動きを止めた
「……あれは……ミレニアムの……C&Cの、一之瀬アスナ先輩、ですよね?」
ジュカが遠い目をして、信じられないものを見るような顔で呟く
「ああ、間違いないね……。コユキを追って船に潜入しているはずのC&Cのメンバーの一人が、なぜかカジノで狂気的なまでのスロット大当たりを叩き出して、一人でお祭り騒ぎをしている……」
カリネは深い、本当に深いため息を吐き出しながら、自分のこめかみを指で軽く押さえた
「……ジュカ。あいつに関わったら、間違いなく私たちの平穏な計画まで一網打尽に巻き込まれて、面倒事の渦中に引きずり込まれることになる」
「はい……完全に同意します。今の私たちに必要なのは、これ以上の余計な目立ち方ではなく、あと少しの資金を集めるだけでいいですからね……」
二人は、アスナがさらに盛大に大金を引き当てる楽しげな歓声を背中に聞きながら、これ以上関わらないようにとそそくさとその場から身を引き、プレイラウンジをあとにしたのだった
二人が賭けに必死になるの裏で、ミレニアムのトラブルメーカーたちはそれぞれの目的と運命の波に揉まれながら、ゴールデンフリース号という巨大な洋上の迷宮を、さらに混沌の色へと染め上げていく――